293 傷 (その8) sage 2008/12/20(土) 10:07:28 ID:YPS1ti1J
「弥生さん、少し、いいですか?」
放課後、教室を出て廊下を歩いていた弥生が振り返ると、長瀬透子がそこにいた。
もっとも、確認するまでもなく、背後から聞こえる、あけっぴろげな足音から、自分を追ってきた者の見当は付いてはいたのだが。
「あら生徒会長……どうしたの一体?」
だが、まあ、弥生はさあらぬ態を装い、あどけなく笑った。
「会長呼ばわりは勘弁して下さいよ……先代生徒会長閣下」
そう言って長瀬は苦笑いした。
なにせ弥生は、抜群の指導力と企画力で、臨海学校・体育祭・文化祭・球技大会・修学旅行とあらゆるイベントに口を出し、任期中の学園の日常に空前の盛り上がりを演出して見せた元カリスマ生徒会長である。
いかに長瀬が当代の生徒会執行部を率いているといえど、弥生の前では口の悪いタダの後輩に戻らざるを得ない。かつて弥生の下で生徒会副会長を務めていた長瀬は、弥生のことを心から尊敬しているからだ。
「で、用件は何なの、とーこ? 私これから図書館で勉強しようと思ってたんだけど」
そう言われて長瀬は、少し奥歯に物が挟まったような顔をしたが、何かをごまかすように乾いた笑いを浮かべると、
「あ、その……とりあえず、ちょっと生徒会室までいいですか? 立ち話では、ちょっとアレですので」
と言って、弥生の返事も聞かずに振り返り、ずんずんと歩き始めた。
いかにも傲岸不遜・唯我独尊で鳴らした長瀬透子らしい言動であるが、実は、そうではない。余人ならば知らず、弥生相手に長瀬が、こんな失礼な真似をする事はめったにない。もし例外があるとすれば、よほど長瀬が照れている時か、困っている時くらいなのだ。
(存外、遅かったわね。もっと早く来ると思ってたんだけど)
無論、弥生には、長瀬の用件とやらの見当は付いている。おそらく、ほぼ100%近い確率で、冬馬の話をする気であろう。――むしろ弥生は、長瀬が声を掛けてくるのを待っていたとも言える。
弥生は、長瀬が冬馬にフラれた事実も知っているし、執拗に拒絶の理由を追求する長瀬に、冬馬が姉の自分の名を出したことも知っている。そして彼が、弥生の名を出したことを、永遠の秘密としてくれと長瀬に頼んだ事も。
しかし、弥生に個人的な縁を持つ長瀬としては、やはり黙ってはいられないのであろう。
可能な限り、彼の“禁じられた恋”に干渉し、その成就のために世話を焼くつもりに違いない。
弥生としては、そんな長瀬のお節介がくすぐったくもあるし、後輩として可愛くも思うのだが、それでもやはり困惑せざるを得ない。
冬馬が長瀬の告白を拒絶する口実として出した自分の名。そこに果たして、どれほどの真実が込められているのか、現段階では、まだまだ未知数であったからだ。
弥生は冬馬を愛している。
家族の一員である弟としてではなく、純粋に、そこにいる一人の男としてだ。
だから、彼の言葉が嬉しくないと言えば、嘘になる。
しかし、冬馬という少年が、普段のあっけらかんとした態度とは裏腹に、その内面はかなり食えない人間である事を弥生は知っている。
彼は嘘つきではない。
だが、それは嘘が不得手だという意味ではない。必要とあらば、冬馬は他人にも自分にも平然と嘘をつける男である。こういう言い方は哀しいが、そんな冬馬が吐いた言葉を、簡単に信用するわけにはいかなかった。
生徒会室。
かつて生徒会長であった弥生が、その辣腕を校内に振るう司令室として存在した空間。
そこに存在する、これ見よがしに豪華なアンティークが目を引く。数人がけのフカフカのソファと彫刻を施したテーブル。一見しただけで値打ち物とわかる逸品だが、これらはみな、弥生が会長だった時代に自費で購入したものだ。
現会長が直々に淹れた紅茶を、そのソファに座った前会長が、形のいい鼻を鳴らして香りを楽しむ。
「へえ……」
一口、軽く口に含む。
おいしい。
湯温、茶葉の量、ともに申し分ない。
294 傷 (その8) sage 2008/12/20(土) 10:09:19 ID:YPS1ti1J
「少しは上達したじゃない、とーこ。おいしいわよ」
「でも、あたしが直々に紅茶なんか淹れてあげる相手は、弥生さんだけですよ?」
「貴女自身と、でしょ?」
そう言われて、長瀬は一瞬、棒を呑んだような顔になり、たははと笑う。
生徒会時代、副会長だった長瀬に、紅茶の旨さと美味しい淹れ方を教えたのは弥生自身であった。その長瀬が、こんなに紅茶の淹れ方が上達しているということは、誰よりも彼女自身が紅茶の味の魅力に取り付かれたからだろう。
「相変わらず、何でもお見通しなんですね」
呆れたように長瀬は頭を掻き、そんな彼女に、弥生はにっこりと笑う。
弥生が生徒会を引退するまで、よく二人はこうしてティータイムを楽しんだものだ。
かつて学園No.1百合カップルと噂されたのは、ダテではない。彼女たち二人に同性愛の事実はあくまで存在しなかったが、柊木弥生と長瀬透子という美女たちが、こうして一時を過ごしている空間は、まるで一幅の絵画のように、余人の入り込む隙をまったく感じさせない。
弥生自身はまるでその気がなかったが、実は、そんな自分に性別を超えた憧れを長瀬が抱いていたことも、弥生は見抜いていた。長瀬ほどに我の強い少女が、冬馬に興味を持ったのは、なによりも“弥生の弟”という要因が強く働いているからであろう。弥生には、それが分かる。
(私の代償として冬馬くんに目をつけるなんて、……身の程知らずもいいところね)
そう思っても、弥生はそんな長瀬を小面憎くは思わない。
やはり弥生にとっても長瀬は――葉月ほどではないが――それでも損得抜きに可愛気を感じることができる、貴重な存在だったからだ。
だが、冬馬に手を出そうとしたことだけは、あまりいただけない。
しかもそれが、男性としての冬馬自身に魅力を覚えたからではなく、あくまで「弥生の実弟である」という事実が根底にあるような好意ならば尚更だ。自分の愛した男に、他の女の目が注がれるのも面白くないが、その男を軽く見られるというのは、さらに不愉快だ。
(でも、それも……とーこなら仕方ないか)
あとは考え方次第だ。
その手の好意ならば、一度感情面での決着がついてしまえば、たとえフラれても後にしこりを残さない。長瀬は後腐れなく冬馬のことを忘れてくれるであろう。
ならば、彼女の存在は利用できる。
(いや、利用できるできないの話じゃないわ)
せっかく自分と弟のために、お節介を焼いてくれる気になっているのだ。それを分かっていて無下に扱うバカはいない。長瀬には思う存分キューピッドになってもらおう。
「弥生さんは、ずっと彼氏とか作らないですよね」
――きた。
おずおずと口を開いた長瀬に弥生は、何故そんなことを訊くのかという表情を見せる。
「その……やっぱり心に決めた男とかいるんですか?」
「私は受験生よ。そんな暇があると思って?」
「でも、弥生さんは、ほら、受験が忙しくなる前からオトコなんかに目もくれなかったじゃないですか? やっぱりそれって……?」
何気ない会話を装いながらも、ちらちらとこちらに向ける瞳に込められた熱は、まぎれもなく長瀬の言葉が真剣なものである事を物語っている。その、あまりの大根役者ぶりに、弥生は失笑しそうになるのを懸命にこらえながら、うつむいた。
笑っている場合ではない。楽しんでいる場合ではない。
これから会話の主導権を奪い、気付かせぬまま、長瀬の心理を操作せねばならないのだ。
会話という情報操作によって、相手の心理を巧妙に誘導し、己の意図を、それと気付かせずに相手に刷り込ませ、その行動をコントロールする。――こう説明すれば、心理学的な超絶技術に聞こえなくもないが、しかし、弥生にとってはそれほどの難事ではない。
(でも、それが本当にベスト……?)
無論、問題もある。
長瀬はかなり非常識な人間だ。
彼女の思考パターンを完璧に把握しない限り、その意思を誘導したつもりでも、長瀬が弥生の想定外の行動を取る可能性は非常に高い。そして、弥生は二年の付き合いなれど、長瀬の考え方を完全に理解しているとは、とても言えなかった。
だからこそ弥生は、そういう長瀬を面白がっていたと言えなくもないが、この場合は少し話が違う。
ならば、どうすればいい?
(仕方ないわね)
295 傷 (その8) sage 2008/12/20(土) 10:10:27 ID:YPS1ti1J
「――いたわ。好きな男なら、確かにね」
「いた? 過去形ですか?」
「あきらめたのよ」
「あきらめたって……弥生さんなら、男なんて選り取りみどりでしょう?」
「ただの男なら、ね」
そのとき、長瀬は凍りついた。
成績はいいが、弥生と違って彼女は人間の心の機微にうとい。長瀬独特の尊大さや突拍子のなさはそれゆえなのだが、いくら何でも、ここまで話を誘導してやれば分かるはずだ。
「まさか……弥生さんの好きな男って……!?」
弥生は静かに頷いた。
「好きになっちゃいけない人を好きになるなんて……この世に本当にあるのね」
「じゃあ……弥生さんも……柊木のことを……ッッッ!!」
――この場合、長瀬が言った“柊木”とは、無論、ここにいる柊木弥生でも、ここにいない柊木葉月のことでもない。渦中の人物たる弥生の弟・柊木冬馬その人のことである。
カミングアウト。
これこそが、この場におけるベストの選択であるはずだ。
弥生の洞察力をしても長瀬の行動や心理を誘導しきれない可能性がある以上、上から目線で、こちらが望む行動を直接に指定してやる方が、まだリスクは少ない。
さいわい、長瀬は弥生を慕っている。弥生の指示ならば、彼女はまず逆らわないだろうし、なにより現役の生徒会長という校内随一の権力者でもある。ただの利用相手としてより、協力者――または共犯者――として、傍らに置いた方が何かと役に立つはずだ。
だが、それをこっちから頼み込むつもりはない。
葉月の言い草ではないが、やはり弥生にとっても、恋愛感情などというプライベートすぎる話に積極的に関わってくれと、第三者に頭を下げる趣味はない。
たとえ相手が、自分を慕う可愛い後輩であったとしても、そんなことを身内以外に頼み込むなど、弥生の自尊心が許さないのだ。つまり、この場合――長瀬の方から自発的に協力を申し出る形に持ってゆかねば、弥生としては話が始まらない。
「ふんっ……バカなこと言ったわ」
紅茶をくいっと飲み干すと、弥生は照れたように顔を赤らめて立ち上がり、
「今の話は忘れなさい。ここにいるのが貴女だからこんな恥かしい話をしたけども、やっぱり他人に話せるような事じゃないわよね」
「え……?」
「お紅茶ごちそうさま。おいしかったわ」
そう言って、大股にドアに向けて歩き出そうとした弥生に、長瀬があわてて立ち塞がる。
「まっ、待って下さい、弥生さんっ!!」
「え?」
「もし、もしもですよ、もし柊木のやつが、――弥生さんを好きだったとしたら、どうします……?」
しかし、弥生は顔色も変えない。
むしろ、バカなこと言ってるんじゃないわよ、とでも言いたげな表情で長瀬を見つめる。
そんな弥生の冷静な視線に、話を振ったはずの長瀬が逆に焦りだす。
「本当なんですよ弥生さんっ!! 正真正銘、柊木の本命は弥生さんなんですってば!!」
「とーこ……貴女、私をからかっているの? それとも一体どういう意図で――」
「ストップ!! だからマジなんですってば!! だいたい、あたしが弥生さんにウソをつくわけないでしょうっっ!?」
「いい加減にしなさいっ!! 冬馬くんは私の――いい? あの子は私の実の弟なのよ!? そんなバカな話があるわけないでしょうっっ!!」
「とにかく!! 座って下さいっ!! ちゃんと順を追って話しますからっっ!!」
長瀬は、ぽつりぽつりと話し出した。
その内容は、弥生も先刻承知しているとおり、長瀬が冬馬にフラれ、その際に彼が弥生の名を想い人として出したという話だったが、そこから顔を上げた長瀬の表情は、妙にサッパリしていた。
「でも、そこで弥生さんの名前を出されちゃ、あたしにゃ手も足も出ませんよ。いくら何でも、女としての魅力で弥生さんに勝てると思う程、自惚れちゃいませんからね」
「…………」
「まあ、確かに話を聞いた瞬間、ばかな相手に惚れやがったと思ったのは事実です。よりにもよって、実の姉なんですからね。でも、そんな報われぬ相手に操を立てて、近寄る女を片っ端から断っている柊木に、少し感動しちゃったのも本当なんです」
「……で?」
「ですから、あたし『応援する』って約束したんですよ、柊木のやつに。――でも、弥生さんまでアイツに気があったなんて、……ちょっとスゴイですよね、これって?」
296 傷 (その8) sage 2008/12/20(土) 10:12:30 ID:YPS1ti1J
しかし弥生はしかめっ面を崩さない。
「他人事みたいに貴女は言うけど、実際どうしようもないでしょう? 私とあの子は姉弟なんだから」
「え?」
そこで長瀬は、初めて意外そうな表情を弥生に向けた。
「じゃあ……弥生さんは、成就させるつもりがないんですか、アイツとのことを……?」
「なにバカなこと言っているのっ!? 私とあの子じゃ近親相姦になっちゃうのよ!? 成就もクソも、そんなことできるわけ無いでしょうっっ!!」
「……弥生さん」
弥生はそこで、しばし顔を伏せた。
「そりゃあ……嬉しくないと言ったら嘘になるわ。好きだった男が、実は私を好いてくれていたなんて聞いたらね。でも……でも、それを聞いた以上は、なおさら諦めざるを得ないじゃないの……!!」
「でも……そんな……せっかく……」
「自ら進んで畜生道に堕ちるわけにはいかないのよ。禁忌を破っても、その先に待っているのは不幸しかないんだから」
(我ながら、よくもまあ、ぬけぬけと言えるものね)
凝然と俯きながらも、その心中では苦笑しそうになる。
実際、弥生は近親相姦など屁とも思ってはいないし、それどころか近親婚さえも、段取り的には手に届くところまで来ているのだが、いかに何でも、それを言えるものではない。
ここは、世間の一般常識の前に膝を屈して、自らの想いを諦める女を演じなければ、長瀬のような女を、その気にさせることはできない。弥生にはその確信があった。
「何をだらしない事を言ってるんですかぁっ!!」
果たして長瀬は乗ってきた。
生徒会長在職中の弥生は、穏やかな笑みをつねに崩さず、それでいて、必要とあらば校長や理事会とも対立を辞さなかった女傑であった。その彼女が、こんな弱気な顔を見せたのは、家族以外では、この場の長瀬透子が初めてであろう。
そして、予想通り長瀬は、そんな弥生を見過ごせなかった。
「なにが畜生道ですか! なにが禁忌ですかっ!! 柊木弥生ともあろう者が、そんな常識に囚われて自分の恋を捨てるなんて、そんなのおかしいですよっ!! あたしの弥生さんは、自分がほしいものは、何が何でも手に入れる人だったはずですっ!!」
「…………」
「オンナという生き物は、恋に生きてこその存在でしょう? それを……それを……諦めるなんて軽々しく言わないで下さいっ!!」
「冬馬くんを……諦めるなと言うの……?」
「はい!」
「でも――」
「でもじゃありません!! せめて弥生さんと柊木が幸せになってくれなくちゃ、あたしが何のためにフラれたのか分からないじゃありませんかっ!!」
「とーこ……」
「弥生さん」
そのまま長瀬は、ぐいっと弥生に顔を近づけると、
「柊木を口説いて下さい。口説いてモノにして下さい。近親相姦がどうとか、そんなことで悩むなんて哀しいこと言わないで下さい。弥生さんは、弥生さんである事を貫いて下さい」
と、熱っぽく語った。
その言葉は弥生にとって、目が眩みそうになるほど嬉しいものだった。
しかし、弥生はそんな喜びをおくびにも出さずに、近寄る長瀬をぐいっと押しやり、
「とーこ、冷静になりなさい。だいたい諦めるなって貴方は言うけど、それはもう私一人では、どうにもならないことでしょう?」
「え?」
「貴女も知ってのとおり恋愛には相手が要るわ。もし私がその気になったとしても、肝心の冬馬くんがすでに諦めてしまっていたら、どうにもならないんじゃないの?」
「そんな……っ!!」
長瀬は絶句した。
297 傷 (その8) sage 2008/12/20(土) 10:14:30 ID:YPS1ti1J
ようやく話をここまで持って来た。
だが、ここからだ。
弥生が、長瀬という後輩を協力者として欲するのも、彼女の暴れ馬のような行動力を、現状打破の起爆剤と睨んでいるからだ。
現状――すなわち、さっき弥生が言った“冬馬の気持ち”であった。
いかに“非血縁”の根拠となりうるDNA鑑定の偽造報告書を用意したところで、肝心の柊木冬馬本人が弥生を拒絶したならば、彼女にはもう、なすすべがないのだ。
いや、鑑定書だけではない。弥生は、冬馬との仲を妨げる全てを排除する自信があるが、それでも、柊木冬馬の意思がどっちに転ぶかは、いまだ確信を持てるに至ってはいない。
冬馬の過去は、弥生の綿密な調査にもかかわらず、かつて完全に薮の中であった。だから彼女としては、冬馬の“現在”から、彼の人格形成を洞察するしかなかった。
しかし、弥生はその点、事態を楽観視していたといっていい。
この数年の生活で、冬馬の人となりは大体把握したつもりだったし、いざとなれば、なりふり構わず誘惑してしまえば、冬馬が自分を拒絶できるとは考えていなかった。
弥生は自分自身の魅力について十分自覚していたし、しょせん相手は年頃の少年に過ぎないと甘く見ていたからだ。最悪、薬物を使用してでも、既成事実を作ってしまえば、もうこっちのもの。――その程度に考えていたのだ。
だが先日、冬馬の“元妹”千夏と会い、彼の過去を聞いた瞬間、さすがに弥生は、己の危機感が足りなかった事を改めて意識せずにはいられなかった。
芹沢事件――少年少女強制売春事件の関係者という酸鼻きわまる過去を、冬馬が持つと判明した以上、性に対する多大なトラウマを彼が抱えている可能性がある。ならば、色仕掛けを含め、普通のやり方で冬馬をなびかせるのは困難だと判断せざるを得ない。
(やっぱ一歩ずつ外堀を埋めていくしかないか……)
とは思うものの、そのためには、どうしても自分ひとりでは手が足りない。葉月をプライベートにおける“共犯者”とするなら、学校生活における“共犯者”というべきポジションを誰かに振り分ける必要がある。
弥生が、長瀬に自ら志願させようとしている役目は、まさしくそれであった。
「……あたしが、手伝います」
「とーこ?」
「不肖・長瀬透子、全力を尽くして弥生さんの恋を手伝います。近親相姦がどうこうと理屈をこねて、あいつがへっぴり腰になるようなら、ケツ蹴り飛ばしてでも目を覚まさせてやりますよ」
「…………」
「昔を思い出してください。あたしが副会長で弥生さんが会長だった頃は、どんな仕事だろうが誰が相手だろうが、不可能なんて無かったじゃないですか? あたしたちが手を組めば、それこそ鬼に金棒みたいなもんですよ!」
「……本当にいいの? 仮にも貴女、冬馬くんにフラれたんでしょう? ……つらくないの?」
長瀬が一瞬、喉に何か詰まったような顔をしたが、それでも彼女の瞳に迷いは無かった。
「手伝わせて下さい。弥生さんのためなら、あたし何でもします――!!」
弥生の空気が変わった。
(気のせい、よね……?)
長瀬には、そのとき、弥生が密かに笑ったような気がしたのだ。無論、気がしただけだ。表情を変えるどころか、外見的には、弥生はその体勢を微動だにさせていない。
「そう……わかったわ」
弥生は染み入るような声で呟いた。
「条件は二つ。私の指示には絶対に従うこと。それと勝手な独断専行は絶対にしない事。誓える?」
その瞬間、長瀬は愁眉を開いた。
「弥生さん、じゃあ……ッッッ!?」
これが嬉しくないわけが無い。
彼女が唯一尊敬する先輩・柊木弥生が、ようやく一般論の軛(くびき)から脱し、その本心のままに振舞うことを決意したのだ。かつて教師さえも歯牙にかけず、学園を思うがままに支配した美しい女王が帰ってきたのだ。
そう、これが嬉しくないわけが無い。
長瀬透子にとって、かつて“女帝”と謳われた弥生の姿は、永遠の目標であると同時に、神聖不可侵たる絶対の偶像だったのだから。
だが――すぐに長瀬は眼前の弥生に違和感を覚えた。
「貴女は『何でもする』って言ったわよね……それは、本気なの……?」
「え……?」
298 傷 (その8) sage 2008/12/20(土) 10:16:25 ID:YPS1ti1J
そこにいる弥生は、長瀬が知っている、かつての光り輝くカリスマではなかった。
「冬馬くんを私のものにする。そのためには、彼を誰もいない場所に誘い出してもらう事もあるだろうし、嫌がる冬馬くんの手足を押さえ付ける手伝いをしてもらうかも知れない。あの子に近付く雌ネコの排除にも手を貸して貰うわ」
長瀬は何かを言おうとしたが、弥生の口調は、さらに有無を言わせぬものだった。
「一度こうと決めた以上は、私は冬馬くんを落とすために何でもするわ。だから念のためにもう一度だけ訊くけど、――貴女は本気で、こんな私を手伝ってくれるのよね……?」
そう尋ねる弥生の眼差しは、かつて長瀬が見たことも無い、妖しさを――いや、妖しさだけではない、おそろしいほどに強圧的な意思を含んだ瞳だった。
一応、質問の形は取っているが、これは間違いなく“命令”だ。『NO』と答える選択肢など初めから存在しない、ただ『YES』と頷くしかない命令だ。
長瀬は、自分が憧れてやまなかった弥生の姿は、単なる一面に過ぎなかったのではないかと、ようやく思った。これこそが、初めて剥き出しにした弥生の“オンナ”の顔なのだ。
だが――そこに嫌悪感は生まれなかった。
(弥生さんが、あたしに、ナマの自分を見せてくれている……!!)
そこにあったのは、感動だった。
「はい。あたしは……弥生さんあっての長瀬透子ですから……!!」
「――なるほど、じゃあ兄さんは、好きな女性などはいらっしゃらないのですか?」
会話の流れ的に、自然と口に出た質問。
だが葉月は、その瞬間に、猛烈な後悔に襲われた。
それはタブーとすべき話題だった。口にしてはいけない言葉のはずだった。
もしも自分が弥生だったなら、こんな質問はタイミングと空気を十分に考慮した上でなければ、まず口にしなかったろう。少なくとも、いま自分がしたような、いかにも「口が滑りました」と言わんばかりの迂闊な訊き方は、絶対しないに違いない。
(なんでわたしは……いつもいつも……っっ!!)
葉月は数秒前の自分を、歯軋りするほどに呪ったが、しかしもう遅い。
言葉はすでに放たれてしまったからだ。
葉月が引き篭もりから復帰して、すでに三日。
彼女はすでに、以前の生活を取り戻している。
中学校への通学と、大学や企業の研究機関への出向。そして自室でパソコンに向かい、論文やレポートの作成に時間を費やす日常。だが、いかに葉月といえど、勉強と研究にどっぷり肩まで浸からせた24時間を、年中無休で過ごしているわけではない。
研究室に於ける葉月は、基本的に客員研究員という立場だし、プライベートの時間まで学者としての顔をしてはいない。彼女は、あくまで自分を“中学生”だと定義していたし、家族の前では、一家の末っ子としての自己を崩さない。
TVやゲームに興じて我を忘れる事もあったし、母に言われればお使いにも行くし、掃除も手伝う。そしていま、葉月は兄とともに台所に立ち、夕食の準備を手伝っていた。
今宵は両親の帰りが遅い。
夫婦水入らずでディナーを楽しんでくる、と連絡があったのだ。
(子供をほったらかして贅沢なんて……あの二人は親としての自覚があるのかしら)
そう思うのも事実だが、いまさら葉月は両親に怒りを覚えたりはしない。
二月に一度ほどの頻度だが、両親が二人だけで出掛けるのは毎度のことだし、むしろ、今でもそういう恋人気分が抜け切らぬ両親に、羨望さえ感じるくらいだ。
そういう晩は、残された子供たちだけで、外食をするなり出前を取るなり勝手にしろと言われているし、そのための必要経費(晩飯代)を、生活費から抜く許可も貰っている。
だが、そんな両親不在の晩に、子供たちが指示どおり素直に金を使うことはあまりない。冷蔵庫のありあわせで自炊し、晩飯代を山分けして懐に入れてしまうのが常だった。
姉は、まだ学校から戻ってこない。
いつもならば両親不在の夜は、弥生は、待ってましたとばかりに冬馬にべったり甘えるのが常なのだが、今宵は何故か帰って来ない。父も母もいない夜だとすでに知りながらだ。
引き篭もりを止めた葉月に、久し振りに、冬馬と二人だけの時間を
プレゼントしてくれたつもりなのだろうか。――しかし、
(ちょっと、裏目に出ちゃいましたね)
二人きりだと気まずくなった時、それを打破するのが、やや難しい。
弥生がいれば、こんな雰囲気はたちまち何とかしてくれるのだろうが……。
299 傷 (その8) sage 2008/12/20(土) 10:18:02 ID:YPS1ti1J
冬馬は、いかにも手慣れた様子で包丁を操り、キャベツの千切りを作っている。
今晩のメニューはお好み焼きなのだそうだ。
一時期、母とともにキッチンに張り付き、花嫁修業と見紛う熱意で料理を覚えていた兄の手際のよさは、不器用な葉月の比ではない。しかし葉月も、危なっかしい手付きながらも、何とか豚肉を切っている。
そして、とりとめのない会話をしながら、葉月がその質問をしてしまったのは、そういう、あくびが出そうになるほどに穏やかな瞬間だった。
規則正しい、包丁の音がキッチンに響く。
葉月の質問を境に二人の会話は止まったが、それでも兄の手は止まらない。
キャベツを刻むその音に乱れが生じた様子も、ほとんど無い。
だが、冬馬の背中から漂う空気は、明らかに変わっていた。
(まずい……)
怒らせてしまったかも知れない。
そう思うと、葉月は冬馬に視線を向けることさえ怖くなってくる。
弥生と秘密攻守同盟を結び、兄に対する情報交換を済ませた今、葉月は冬馬の過去の事情を少なからず知っていた。そして問題視すべきは、彼の肉体に刻み込まれた大量の傷ではなく、その悲惨な経験がもたらした精神の傷であるということも。
無論、冬馬は、弥生と葉月が自分の過去を知っている事実を知らない。
それでも兄の過去の片鱗を知った以上は、彼に男女の話はタブーだ。道理としての次元ではない。それは純粋な思いやりとしての話だ。
だが葉月は、現役の研究者であるだけに、胸のうちの疑問をそのままにしておけない性分であった。それだけについ――口に出た。
冬馬が、女性全般に対して無差別的な苦手意識を抱いていない事は、これまでの生活で分かっている。何故なら、彼は、自分たち姉妹に向けて、そういう生理的な拒絶反応を示した事が無いからだ。
柊木家の姉妹と冬馬は『生まれながらの家族』では決してない。数年前に再会を果たすまでは、単なる他人でしかなかった仲なのだ。そういう意味では、出会った当初の自分たちは、冬馬にとって転校先のクラスメートに等しい関係しか持っていなかったことになる。
だが、葉月の記憶が確かならば、その当時の冬馬が自分たちに向けた眼差しは、むしろ染み入るような人懐っこさを伴ったものだった。相手が女性であるという理由だけで怯えるような真似を、かつて冬馬がした事はなかったはずなのだ。
つまりそれは、兄が言い寄る女たちを近づけない理由が無意識的なものではなく、あくまで意図的なものだという事を意味する。ならば葉月は――いや葉月のみならず弥生も――そんな理由があるならば、絶対に知っておかねばならない。
考えようによっては、これはいい機会なのかも知れない。
柊木冬馬という人間が、一般的な女性をどういう視点で捉えているのか。多少成り行き任せな話だが、今はそれを聞きだすチャンスだと考えれば、さっきの失言も少しは意味あるものと、葉月は自分を慰めることができる。
結果として、冬馬を怒らせてしまうかも知れないが、それでも葉月は兄を信じていた。
さっき前述したが、なにしろ冬馬は、自分たち姉妹が、彼の過去についての情報を握っている事を、まだ知らない。ならば、妹が兄に『好きな女はいないのか?』と訊くこと自体は、単なる兄妹のコミュニケーションの範疇をさほど逸脱しないやりとりのはずだ。
(だったら兄さんが、わたしの質問を“無神経”だと考えるはずがない)
「ねえ兄さ――」
「葉月」
いつもながらの兄の、のんびりとした声。
だがタイミング的には、同時というよりむしろ、葉月には冬馬が自分の言葉を遮ったように聞こえた。
だが、そのことを兄に突っ込むつもりは葉月には無い。
まったくペースを崩さずキャベツを刻む小気味いい音を響かせる冬馬の背中には、ぴんと伸びた緊張の糸が張り詰めているのが、葉月にも見て取れたからだ。
「……なんですか、兄さん」
300 傷 (その8) sage 2008/12/20(土) 10:18:44 ID:YPS1ti1J
「お前はなんで、おれのことをそんなに気にするんだ?」
その語調に咎めるような勢いは無い。だが、その言葉には明確に、のんきな声音に隠された棘があった。――いや、兄のことだ。語尾の裏にうっすら見え隠れする緊張すらも、実は意図的なものかも知れない。
「おかしいじゃないか。普通はお前、年頃のオンナノコって言えばよ、おれみたいな男の家族を避け始めるのが当たり前なんだろ?」
それはそうだ。
思春期に突入した年齢の女性は、まず“家庭”という最も身近な環境にいる異性を、敏感に意識し始める。幼い頃はともかく、普通の家族ならば思春期以降は、なかなか以前の親密さを保持することは難しい。
葉月にとっても、例を挙げろと言われれば、それこそ枚挙にいとまが無い。クラスの女の子たちは、ほぼ例外なく、実家に同居する父親や兄弟の“男臭さ”に辟易している者たちばかりだからだ。
だが、この際、問題はそこではない。どう考えても兄の発言は、葉月の質問をはぐらかそうとしているのが丸見えなのだから。
こういう時、弥生ならばどう答えるのだろうか。――しかし葉月には、それがまったく想像できない。
「それは多分……わたしが兄さんのことを好きだから、でしょう」
言ってから唖然とした。
迂闊どころではない。何故こんなムチャクチャな発言をしているのか、葉月は自分が、まったく分からない。
いや、唖然としているのは、葉月だけではない。
冬馬もその口をあんぐりとさせて、呆然とこちらを振り返っている。
葉月はバカではない。少なくとも机に向かった彼女を指して、バカと呼べる人間は、今の日本にはいないはずだった。だが例外が無いわけではない。
柊木冬馬。
事態が彼に関わると、途端に葉月はいつものペースを崩し、失言・失態を繰り返す。たとえば――そう、いまだ。
そして、こうなってしまった以上、もはや仕方が無い。
さっきの失言にしてもそうだが、一度口に出した言葉は、もう無かったことにはできないのだ。
葉月は肚をくくった。
「兄さんはどうなのですか? こんなわたしを、迷惑に思いますか……?」
行けるところまで行ってやる。
姉が不在の夜、妹は兄を前にそう思った。
最終更新:2008年12月21日 22:10