333
未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:31:48 ID:IN/7LRg9
世界はなんて美しい。
高校に入学してから一週間ぐらい経ったある日。
良い天気だったので、俺は散歩がてら学校の敷地内を探検するつもりで歩いていた。
この高校は割と広くて、古い。戦前からある進学校という奴だった。ちなみに公立で、家からはバス通学になる。
このあたりでは普通に偏差値の高い高校だ。俺のような馬鹿がここにいることが、今でも信じられない。
全ては半年前の、何気ない会話から始まった。
『兄さん。ところで進学先は何処にするか決めているんですか?』
『ん? いや、別に。近くの適当なところにしようかと思ってるけど。歩いて通えるところがいいかな』
『…………』
『なんだよ、その盛大なため息は』
『兄さん。世の中には、定職に就けず毎日すり切れるほど働いて、それでも貯金もできない人間がたくさんいます。そうして、体を壊して働けなくなりゴミ
のように死んでいく……』
『そういった人間と、そうでない人間を分けるのはいったい何なのか、兄さんにはわかりますか? 幸運? 生まれ? いいえ、いいえ』
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言われている。けれど人の立場に上下があるのは何故なのか。それは学問の差から生まれるものなり』
『人生の上下を決定づけるのは、幸運でも生まれでもなく、それまで積み上げてきた努力のみ。それが唯一、有意義な信仰というものですよ』
『自分の将来を想像してください。惨めな大人になるのが怖いのなら、今、努力するしかないんですよ。しないと言うのなら、未来を捨てると言うことです』
『あ……ああ』
そんなわけで、次の日から受験勉強の日々が始まったのだった。とほほ。
当初から目標は、偏差値が高く学費の安い公立高校と言うことで決まっていたけど、当時の学力ではとても無理にしか思えなかった。
それでもこうして入学できたのは、妹に尻を叩かれて遊びにも行かず、この半年ひたすら勉強をしてきた成果だ。
辛かったなあ……人生であれだけ、長期間勉強したのは間違いなく初めてだ。
しかし優香の奴、この高校一本に絞って、もし落ちたらどうするつもりだったんだ。
334 未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:34:40 ID:IN/7LRg9
そういうわけで。
そうして入った高校の敷地内を、俺は感慨深く歩いていた。
放課後の学校。
グラウンドでは野球部とサッカー部、陸上部が掛け声をあげながら練習している。体育館ではバスケとバレー、他にも弓道部、剣道部、柔道部、空手部と、活発に活動しているみたいだった。
とりあえず、しばらくサッカー部の練習を見ている。うーん、人が多いし結構熱心に練習してる。血が騒ぐ。
けど、部活に入るかどうかといえば否定的だった。
これは妹にも注意されていることだけど、俺は元々あまり頭がよくないから。毎日勉強していないと、あっという間に授業に追い付けなくなってしまう。
なので気晴らし程度に遊ぶならともかく、中学のように毎日部活に打ち込むというのは無理だ。まあ、妹は両立させてるけど、あいつは出来が違うからなあ。
「ふう」
軽くため息をついて、旧校舎の裏に回る。
木造の旧校舎は、今ではもう使っていないようだ。窓には板が打ちつけられ、周囲にも人気はない。
その裏手。なにもないと思ったそこでは、女生徒が一人倒れていた。
「いや、すまなかったね。助かったよ」
「あの、本当に大丈夫なんですか? 救急車とか……」
「ふふん、気にすることはない。この程度は日常茶飯事さ。ちょっとした運動不足に過ぎないよ」
「倒れるのが日常茶飯事って……それに、なんか薬飲んでましたけど」
正確には。俺が半分パニックになりながら彼女に駆け寄ると。ひゅーひゅーと息をしながらポケットを叩いていたので、そこに入っていた薬を二粒飲ませたのだった。
とても、本人が言うような軽い貧血には思えなかったけどなあ……
「ああ、昔から少し体が弱くてね。これはそのための薬だよ。運動不足とは関係ない。ふふん」
鼻で笑われた。そこは笑うところなんだろうか。
その人はどうも上級生のようだった。リボンの色を見るに三年生、最上級生だ。当たり前だけど初対面。
綺麗な人だった。
まず目に付くのは、とてもボリュームのある黒髪。お腹のあたりまで伸ばされて、毛先は一直線に切り揃えられている。
優香も髪は背中まで伸ばしてるけど、運動のために側面は切り落としている。けれど彼女は前髪以外が全てストレートで伸ばしている。運動するとき邪魔そうだ。
切れ長の瞳に、薄い唇。よく不適に笑う口元にギャップがあるけれど、俺は妹以上(かもしれない)美人には初めて会った。
背は、同じクラスの女子平均ぐらいだろうか。年長ということを考慮すると、若干低めなのかもしれない。
体の線は細い。スレンダーと言うよりは痩せている。プロポーションもまあ推して知るべし。肌はびっくりするほど白く、そのあたりはやっぱり体が弱い関係だろうか。
着ているのは紺のセーラー服で、これは学校指定のもの。特徴的な装備といえば、小脇に抱えたスケッチブック。
「ああ、これかい? 見ての通り、スケッチのつもりだったんだけどね。目的地に着く前に貧血でばったり倒れてしまったよ。我ながら不甲斐ないね」
「はあ……え、と。美術部の人ですか?」
「一応ね。君は一年生だね」
「あ、はい」
「なるほど。暇ならちょっとついてくるといい。お礼と言っては難だが、いい場所に案内してあげよう」
さっと髪をなびかせて、偉そうにきびすを返した先輩に、俺は言われるままに着いていった。やたら胸を張っているのが、この人のデフォルトなんだろうか。
旧校舎の裏を抜けて、破れたフェンスを潜って、林の中に入り、獣道を抜けて。その先は。
335 未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:35:21 ID:IN/7LRg9
「わあ……」
思わず、感嘆の声が漏れる。
その先は急に開けて、桜でいっぱいの公園になっていた。満開だ。
風が吹くたびに、ぱらぱらと花びらが舞っている。
公園は石畳の立派なもので、生徒や老人が数人、ベンチで花見やおしゃべりに興じていた。
「ふふん、どうだい。残念ながら独り占めとは言わないが、この季節はなかなかだろう」
「そうですね。へえ……裏にこんな公園があったんだ」
「道沿いだと、ぐるりと回らなければいけないからね。あまり人は来ないが、裏手を抜ければすぐそこだ」
言いながら先輩はスケッチブックを手に、桜の方に歩いていく。ああ、ここでスケッチするつもりだったのか。
なるほど確かに、絵に残さなければ勿体ないぐらいの風景だ。実際、写真を撮っている人もいる。
ざあ、と風が吹いた。
一際舞い散る桃色の中で、彼女は風になびく黒髪を片手で押さえる。
それは。それ自体が一つの絵として成り立つような、とても綺麗な光景だった。
何かが、胸を押し上げるように溢れる。たぶんそれは、感動だったんだろう。
先輩が微笑んだ。
「そういえば、名乗っていなかったね。僕は片羽、桜子だ」
「俺は榊健太っていいます、先輩」
「そうか。よろしくな、榊君」
そうして俺は。高校に入学して一週間で、片羽桜子という奇妙な先輩に出会ったのだった。
片羽先輩は、初対面の時から、妙に気になる人だった。
それは彼女がすごく美人だとか、発見したときに倒れているとか、そういうインパクトを除いたとしても。なんだか気になる人だった。
なんというか……二つ上で赤の他人なんだけど、すごく放っておけない気がした。
それが何故なのかは、うまく口では言えない。もしかしたらそれは、一目惚れという類のものだったのかもしれない。
その日は再会の約束もなく、ただ普通に別れた。家に帰って、勉強して、家族と話して、勉強して、寝た。
その人のことが胸に焼き付いて寝れなかったとか、そんなことはなかった。
ただ
次の日から。登校して、授業を受けて、友達と帰って、勉強して、寝る。その繰り返しの中で何となく、あの妙な先輩のことを捜すようになっていたと思う。
もしかしたら、またどっかで倒れてるんじゃないんだろうか、と。たぶんそんな心配をしていたんだと思う。
片羽先輩と次に会ったのは、一週間後のことだった。
336 未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:35:50 ID:IN/7LRg9
「こんにちは、片羽先輩」
「やあ、榊君」
その日。片羽先輩はグラウンドの隅で、石段にぽつんと腰掛けていた。
膝の上には例によってスケッチブックを広げて、鉛筆を走らせている。
今日はどうやら、グラウンドのサッカー部を描いているようだった。先輩の指先が、魔法のように輪郭を書き出していく。あ、袖がテカテカだ。
言うべきことを探して、そんな自分に戸惑った。自慢じゃないが人付き合いは得意な方だ。普通に話す方法ぐらい、意識するまでもなく身に付いているはずだった。
そうだ、考えてみれば作業の邪魔をするなんて馬鹿げている。俺も倣ってサッカー部の練習風景を見ていることにした。
グラウンドを見やる先輩の横顔は、普段と違って笑うことなく口を真一文字に引き結んで真剣だった。そうしていると一つの彫像のような美しさがある。
邪魔はしないと決めたはずなのに、気付けば口を開いていた
「サッカー、好きなんですか?」
「ん? いや、競技に特別な興味はないよ。被写体としての彼等には魅力を感じるけどね」
「魅力的……」
自分の足を見る。去年までボールを蹴っていた、制服のズボンに包まれた脚。
たぶん。いや、間違いなく、すごくなまっている。もう半年近くも練習してないのだ。
それに、サッカーに打ち込んだら今のペースで勉強ができるわけがない。今のペースで勉強してたら、満足な練習ができるわけがな……はあ。
「ふふん。君の方はサッカーが好きみたいだね」
「え? いや、好きっていうか、中学までサッカー部にいたんで」
「なるほど。トランペットを見つめる黒人少年のような目つきだったよ」
「トランペット……え?」
はてな顔になった俺を見て、また軽く笑う先輩。冷たい感じの美人なんだけど、よく笑う人だ。
その笑顔は無邪気とはとても言えず、明らかに毒を含んでいるはずなのに。俺は悪い気はしなかった。
うーん……俺ってマゾなのか。それとも、普段から毒舌を浴びてるせいで耐性ができてしまったんだろうか。
まあ、単に美人は得だってだけかもしれない。
それから、横に座って、とりとめのない話をした。
天気のこと、スケッチのこと、この前の公園のこと、サッカーのこと。
「榊君は、もうサッカーをやらないのかな」
「ん……いやあ。俺、バカだから勉強しないとあっという間に赤点まみれになっちゃうんで」
「なるほどね。君が辛くなければそれでいいけど」
「……!」
言われて気付いた。
そうか……俺は、辛いのか。
この半年、ずっと勉強してきて、幸運と努力のおかげでこの高校に合格できたけど。
身の丈に合わない場所にいる俺は、やはり努力をし続けなければ、落ち零れてしまう。
半年、頑張れば終わると思って来たけれど。その先にあったのは、変わらない日々だった。
中学の時のように、自分のやりたいことに最大限打ち込むような自由は、もうない。サッカー部を引退したときに、そんな自由は終わってしまった。
圧力。
俺は、人生にかかる圧力を、初めて明確に意識する。ああ、今まで気付かなかったなんて、俺はなんて鈍感なんだ。
水の中に、潜り続けているような憂鬱。
「先輩は、成績いい方ですか?」
「はは、立派な劣等生さ。まあ、僕の場合は既に諦めてしまってこの位置だけどね」
「うわあ、気楽そうですねえ……」
「ふふん」
けれど、そんなことを知り合ったばかりの先輩に言えるわけもなく。しばらく、どうでもいい話をして、その日は別れた。
それに。そんなことを考えてもどうしようもないから……結局、深く考えることはやめた。
337 未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:36:51 ID:IN/7LRg9
高校に入ってしばらくしても、友達はあまりできなかった。
中学の時は、自慢じゃないけど交友関係は広かったと思う。
それは部活という接点があったんだろうけど、やっぱり自由だったからだ。
受け続ける圧力が小さく、精神的な自由があったから、他人のことに気を回すことができた。
今だって、友達といるときは馬鹿でいられるけど。一人になるとため息をついていることが多い。
けれど、これくらいの圧力なんて、誰だって背負っているはずなんだ。少なくとも、今の高校に合格した人間は、俺と同じぐらい勉強してきたはずだ。
それでも、屈託無く笑っていられる生徒がいるのだから……単に、俺の器が狭いだけなんだろう。
妹のことを思う。
俺の知る範囲で、間違いなく俺よりも努力し続けている人間。
部活に、勉強に、家事において、絶え間なく努力し続けている、俺の妹。
優香は、どうしてそんな生き方ができるんだろう。
俺は妹が休んでいる時を、特にここ最近見たことがなかった。俺と違って、日々の努力を誰かに強制される場面も見たことがない。
いったい、どうして優香は。そんな日々に一言も弱音を吐かずにいられるのだろう。
それともやっぱり、俺の知らない場所で、我慢し続けているだけなのだろうか。
だとしたら、俺はやっぱり。妹のことを何もわかっていないんだな……
338 未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:37:42 ID:IN/7LRg9
そんなある日。
帰宅時。友達の一人と一緒にアーケードを歩いていると、制服姿の優香と出会った。
あれ? 行動範囲的に遭遇しても不思議はないけど……部活の時間、だよな?
「優香? なにやってるんだ、こんなところで」
「あら、奇遇ですね。今日はどうしても買いたいものがあったので、部活は休ませてもらいました」
「買いたいもの?」
「携帯電話です。近くのショップで契約してきたところですよ」
「へえー、母さんは反対してた気がするけど許したのか。頑張ったなあ、優香」
「……ちょっと待ってもらおうか、榊」
がしい、と一緒にいた友人に襟首を捕まれてずるりと引きずられた。
「てんめええ! 何めちゃくちゃ可愛い娘とナチュラルに会話してんだよ! 彼女いないって言ったじゃねえかっ!」
「おおお、落ち着けっ! 首を絞めるな柳沢!」
俺をがっくんがっくんと揺するのは、柳沢というクラスメイト兼友人だった。
席が後ろなので自然に話すようになり、お互い帰宅部なのでたまに(途中まで)一緒に帰ったり、こうして寄り道したりする。
ちなみに性格は……悪い奴ではないんだけど女好き。今の高校も、レベルの高い女子が多いということで死にものぐるいの勉強をしてきたらしい。
外見は茶髪の愛嬌ある顔立ち。俺が言える義理じゃないけれど、相当アホだ。そんな努力に関わらず、未だに彼女は募集中。
「ち、ちがっ! 妹! 妹だって!」
「ああん? 適当な嘘じゃないだろうな、全然似てねえじゃんか」
「俺は母さんに、妹は親父に似たんだよ! いいから離せって!」
「なんだ、そういうことは早く言えよな。可愛いなら特に!」
ぱっと満面の笑みを浮かべて、俺から離れる友人。と思ったら、今度は優香にアピールを始めた。
「俺は柳沢浩一。お兄さんの親友です」
「親友だったのか……?」
「柳沢さんですね。兄からいつもお話は伺っています」
「おい、榊。俺のこと、ちゃんとよろしく伝えてるんだろうな……?」
「普通に言ってるよ。ていうか、俺と妹でよくそこまで表情変えられるなあ」
むしろ感心した。やっぱり、彼女を作るにはこれくらい積極的でないとダメなのかもな。
ちなみに柳沢のことを妹には『スケベでアホだけど悪い奴じゃない』と話している。すまん。でも、どうせ優香は色恋沙汰に関しては鉄壁だから許してくれ。
「優香ちゃん、携帯買ったんだって? じゃあ、せっかくだから番号交換しようぜ」
「あのなあ柳沢。いきなり……」
「メールで良ければ構いませんよ」
「ぶっ!?」
えええええええええええええ!
ど、どういうことだ? 優香の奴、確かに今間まで携帯は持ってなかったけど。好きと言われた相手に何一つ譲歩なんてしたこと無かったのに。熱でもあるのか?
いや、もしかして柳沢みたいな奴が好みのタイプなのか? いやいや、今までだって同じような奴から求愛はされてるって。いやいやいや、優香にしかわからないものがあったのかもしれない。
いや、しかし、けど……
「何を目を白黒させているんですか。兄の御学友と交友を結ぶのに何か問題でもありますか? 登録しますから、兄さんも携帯を出してください」
「あ、ああ……ん? 俺と同じ型式じゃんか」
「そうでしたか、偶然ですね……はい。登録しました。次は柳沢さんですね」
「おうっ」
こうしてつつがなく、番号交換は終了した。優香は、柳沢にはメールアドレスしか教えなかったようだけど、それでもすごい譲歩だなあ。
「柳沢。優香は携帯買ったばっかりなんだから、あんまりメールするんじゃないぞ」
「おいおい、いきなり兄貴面するなよ。俺と優香ちゃんの関係じゃねえか」
「兄貴だってーの」
「残念ながらその通りです。それから確かに、まだ慣れてませんから返事は遅れるかもしれません」
「おっけーおっけー。帰ったらメールするからさ!」
うーん……なんか釈然としないな。
339 未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:38:54 ID:IN/7LRg9
その日から、妹と友人は定期的にメール交換しているようだった。
何でそんなことがわかるかというと、柳沢が毎日優香があーだーこーだと自慢してくるからだった。うーん、正直うざい。
考えられる可能性は二つ。優香は意外と、メールでのやりとりが好きなのか。それとも柳沢本人を気に入ってるのか。
けれど、優香から俺にメールが来ることなんてほとんど無い。かといって、優香本人から柳沢について聞くこともない。
うーん、妹に彼氏ができても別におかしいとは思わないけど、それが柳沢だっているのはなあ……ちょっとどうかと思うが、口出しするのも筋違いだ。
それにしても……メール、か。携帯電話は高校入学の時に買ってもらったけど、あまり活用はしていない。
そういえば俺、片羽先輩の携帯番号もメールアドレスも知らないんだよな……
放課後にちょくちょく探してはいるんだけど、見つかったり見つからなかったりのレアモンスターみたいな人なので。
今度会ったら、携帯の番号を交換しよう。
それからまた、しばらくして。
桜の季節が終わる頃。
小雨の降る放課後、学校の裏手にある公園までふと出向いた俺は。公園の中で一人、傘を差してベンチに座る先輩を見つけた。
サアアアアアアアアア……
「片羽せんぱーい」
「おや、榊君じゃないか。久しぶりだね」
「ですね。でも、雨の日にこんなところで何やってるんですか?」
「ああ。まあ、桜を見に来たんだよ」
「桜? でも……」
雨に打たれた花びらは、既に軒並み地面に落ちてしまっている。あれだけ綺麗だった光景は、もう見る影もない。
前は、桃色の絨毯のようだった花びらも。泥にまみれた今となっては、ただのゴミでしかなかった。
そういう、末路を直視すると。胸が締め付けられるような思いがする。
「悪いけど。傘、持っていてくれないかな」
「……あ、どうぞ」
先輩から傘を受け取り、二本の傘を持つことになる。どちらも地味な紺色の物。受け取った小さな方を、先輩の上にかざす。
傘を受け取る時に触れた手は、とても冷たく、とても細かった。思わず、戸惑ってしまうほどに。
「産まれてこの方、ダイエットの努力が必要なかったことが僕の密かな自慢なんだ。世の女性から非難されてしかるべき体質だね」
俺の表情を読みとったのか、軽口を叩きながら先輩がスケッチブックを取り出して広げる。この人、ほんとに絵を描くのが好きなんだなあ。
けど、この間の桜吹雪なともかく。なんでこんな雨の日の桜を描きたがるんだろう。
サアアアアアアアアアア……
「悲しいね。美しい物の末路は、やはり悲しい」
「あ……はい。けど……どうして、そんなものを描くんですか?」
「悲しいからだよ」
「え……」
「悲しみは、けして間違った感情じゃない。怒りも、絶望も、人が生きるのに必要な感情だと、僕は思うよ。ただ、人はそこから目を逸らしたがる」
「……」
「今のこの悲しみを、できるかぎり形にして残しておきたい。まあ、僕が絵を描く理由は、大なり小なりそんなものさ。日記のようなものだ」
「……」
悲しみ……怒り……目を逸らしたがる……
俺も……目を反らしていることがある。
どうにかして忘れようとしている。
けれど……けれど、仕方ないじゃないか。
考えたってどうにもならないことなんだ。目を逸らさずにいたって、辛いだけじゃないか。
毎日勉強を続けなければいけないこと。俺はバカだから、他の趣味に打ち込むような余裕はないこと。
そして何より。この状況を打開する方法が思いつかず、きっとずっと続いていくという……閉塞感。
どうしようもない。
どうしようもないじゃないか。
どうしようもないことを直視したって辛いだけだ。
誰でもこの程度の閉塞感は感じているっていうのなら、誰だって目を逸らしているはずだ。
……
340 未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:40:12 ID:IN/7LRg9
「どうしようもないことだって……あるじゃないですか」
「うん?」
「見続けたって、辛いことは、たくさんあるじゃないですか」
「たとえば?」
スケッチブックに走らせる鉛筆を止めず、無残な桜を描き続けながら。
先輩が、俺に背を向けたまま。思わず漏れた、俺の情けない言葉を当たり前のように問い返していた。
たとえば。
勉強が辛い、なんて。下らない泣きごとでしかない。言えば誰だって軽蔑するだろう。
成績を保つために、誰だって勉強はしているのだ。それに耐えられないのは、俺が小さい人間だから。それ以外にはない。
飲み込め、飲み込め。苦痛は、飲み込め。そうして生きていくしか、ないんだ。
「勉強が……辛いとか」
ああ。
「これから。ずっと、勉強し続けなきゃいけなくて……卒業しても、働き続けなくちゃいけなくて……」
「うん」
「それなら、もう二度と……うまく言えないんですけど。二度と……」
「人生に二度と自由は訪れない。それが君の絶望なのか」
先輩が。
鉛筆を動かしながら、自分自身形にできなかったことを、あっさりと言い当てた。
ああ……いや……そうじゃない。
俺が、形にしたくなかったもの。わかっていて、形にしたくなかったものを。
絶望……ああ、そうか。これが絶望、っていうものなのか。こんなよくあるものが、絶望なのか。
何処にも行けないという閉塞感。大切なものを奪われ二度と戻らないという喪失感。それこそが絶望なのか。
「幼年期の終わり。労苦への絶望……まあ、それ自体はどうしようもないね。この桜と同じで、どうしようもないことはいくらでもある」
「だったら……!」
「どうしようもないことに直面したとき、どうすればいいのか。君は絶望への対処の仕方を知っているかな?」
「え……」
絶望を、どうすればいいのか?
俺は……知らない。今まで絶望なんてものに遭ったことがなかった。今まで、どんなぬるま湯の中で生きてきたのか、よくわかる。
だから、目を逸らすことしかできなかった。見ない振りをして、気付いたことを忘れようとするしかできなかった。
何故か、優香のことを思いだした。物心ついたときから、心の中で誰からも離れた場所にいた妹のことを。
先輩は。
「越えるんだ。絶望は、強固な目的意識で越えられるものなんだよ」
きっぱりと。
「絶望を越えたとき、それはとても強いものになる。怒りも、悲しみも、絶望も。人が生きていく上で糧になるものだと、僕は思うよ」
ひどいことを言った。とてもとてもひどいことを、振り向きもせずに堂々と言った。
目的……意識。
俺の、目的意識。
それは……
それは……
それは……ない。
ないんだ。
俺には、目的意識なんて、何もないんだ。
ただ
『兄さん。世の中には、定職に就けず毎日すり切れるほど働いて、それでも貯金もできない人間がたくさんいます。そうして、体を壊して働けなくなりゴミのように死んでいく……』
『そういった人間と、そうでない人間を分けるのはいったい何なのか、兄さんにはわかりますか? 幸運? 生まれ? いいえ、いいえ』
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言われている。けれど人の立場に上下があるのは何故なのか。それは学問の差から生まれるものなり』
『人生の上下を決定づけるのは、幸運でも生まれでもなく、それまで積み上げてきた努力のみ。それが唯一、有意義な信仰というものですよ』
『自分の将来を想像してください。惨めな大人になるのが怖いのなら、今、努力するしかないんですよ。しないと言うのなら、未来を捨てると言うことです』
『想像してください、兄さん。恐ろしいでしょう?』
ただ、怖かった。
俺には目的意識なんてものはなく、ただ背後から恐怖に追い立てられてきただけだった。
そして、これからも一生、追い立てられていくしかないという……絶望。
ああ。
この絶望からは逃げられない。逃げてしまえばそれこそ、優香に散々言い聞かされたような惨めな人生しか待ってはいない。
けれど、そんな恐怖に追い立てられ続けたとしても……待っているのは、永遠に続く未来への絶望だけ。
先輩の言うように、立ち向かうしかない。
けれど、俺には……立ち向かうための確固たる目的意識なんて、無いんだ。
341 未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:42:23 ID:IN/7LRg9
「無いんです……」
泣き言。
気がつけば、俺は本当に泣いていた。ぼろぼろと、涙が零れて頬を濡らす。
情けない、情けない。何で俺は、こんなことで泣いてるんだ。
目尻を拭おうとしたけれど、両手で傘を持っているせいで無理だった。せめて嗚咽を噛み殺して、先輩が振り向かないよう祈る。
「俺には……そんな、目的意識なんて、無くて……」
「目的なんて、ほんの小さなことでいいのさ。この学校は、好きじゃないのかい? 一緒にいたい友達はいないのかい?」
「それも……」
この学校に対して少なくとも今は、辛い勉強というイメージが強すぎる。友達だって何人かはいるけれど、心底一緒にいたい存在は、いないと思う。
そもそも。学校や友達に対する好意で……毎日、毎日、勉強をし続けることなんてできるとは思えない。
俺が今、戻りたいのは。何も考えずに部活へ打ち込めたあの頃だ。けれど時間は戻らない。それもまた、一種の絶望だ。
うう。
「やれやれ、困った後輩だね、君は」
ぱたん、と先輩がスケッチブックを閉じて膝の上に載せる。ポケットからハンカチを取り出して、振り向いた。
突然の行動にあっけにとられ、直後。涙まみれであろう自分の顔に気付く。
見られっ……!
「ふふん、思ったより泣き虫だね、榊君。よしよし」
「わぷっ」
ぐいぐい、と顔にハンカチを押しつけられる。布は水色単色のシンプルなものだった。やっぱり指が、とても細い。
咄嗟に抵抗しようとしたけれど、両手に傘じゃ動くのもままならない。あっという間に顔の涙は拭われた。
な……なんで?
俺が混乱している間に、先輩はハンカチを手早くしまって偉そうに胸を張った。
「さて。榊君。どうやら君は自分から動くための目的意識に欠けているようだね」
「は、はい」
「つまり、自ら学校に来るような目的意識さえあれば、いい年してぴーぴー泣き喚くようなこともない、と」
「うぐっ……」
「ふふん。それなら榊君。僕と付き合ってみないか」
「……え?」
………………………………………………………え?
「恋人の一人でも作ったらどうか、ということだよ。青春の張り合いといえばこれだろう」
「え、いや、ていうか、ええ!?」
「ああ。他にお目当てがあるならそれでいいんだ。僕と、というのはただの保険さ。一応僕は美人だからね、ふふん」
偉そうに胸を張る片羽先輩は、ちょっと細いところがあったけど、確かに文句なしの美人だった。
一方十人並みな外見の俺は、極度の混乱で呆然としていた。当たり前だ。
俺がみっともなく泣きだして、それがどうして付き合うかどうかと言う話になるんだろう。むしろ逆に、愛想を尽かされるのが当然じゃないんだろうか。
わけがわからない。
大体、恋人になるというのは。一緒に過ごすうちに、好きになって、告白して、それを受け入れてもらって、そうしてやっとなるものなんじゃないか。
確かに、俺には狙っているというか今好きな人なんていないけど、そんな風に自分を軽々しく扱うっていうのはどうなんだってすごく思う。
「おっと、ちなみに恋人になったからといって、すぐ不埒な真似ができるなんて思わない方がいいよ。僕に触れるまでは長い長い審査が待っているからね」
「え、審査……ですか?」
「あからさまにがっかりしたね。当然だろう? 榊君に対する僕の好感度は初期値のままなんだからね」
「は、はあ……」
え、えーと……これはなんというか。恋人、というよりも。友達から始めよう、ということなのかな?
ふふんと偉そうに胸を張る、すごい美人の先輩をもう一度見やる。なんだか、笑えた。
は、はは。
あはははは。
笑うことで、少し楽になった。少しだけ、自由になれた気がした。
先輩は、慰めてくれたんだろうな。
発想も言い方も無茶苦茶だったけど、心の中で感謝する。色恋かどうかはまあ別にして、この人のことを俺は好きになれそうだった。
ああ、悪くない。この変な先輩と話をするために、この学校に来るために、勉強をし続けるのだって悪くない。
ほんの些細な理由だけれど、それを自ら望むのなら。
しとしとと降りしきる雨の日だけど、視界が少しだけ開けた気がした。
342 未来のあなたへ3.5 sage 2008/12/23(火) 17:43:17 ID:IN/7LRg9
「ありがとうございます。でもとりあえず、友達から始めませんか?」
「その意見はやぶさかではないよ。そうそう、それを言いたかったんだ」
「あ、それじゃ先輩。携帯の番号交換しましょうよ」
「おっと、それもそうだね」
お互いそれぞれの傘を持って、片手で携帯番号とメールアドレスを交換する。先輩の携帯はシンプルなストレートタイプだった。
「これでよし、と。先輩って何処にいるかわからないから、これで普通に会えますね」
「おや、わざわざ探していたのか。それは悪いことをしたね。ただ僕は携帯の電源が切れてることが多いから、あまり期待はしないでくれよ」
「そ、それって携帯の意味がないんじゃ……」
「ふふん。いちいち充電するのが面倒でね」
それから、先輩が桜のスケッチを再開して。俺は結局それが終わるまで、先輩に傘を差していた。
会話はほとんど無かったし、腕は疲れたし、体は冷えたけど、けして嫌じゃなかった。
真剣に絵を描く先輩の横顔はとても綺麗で見ていて飽きなかったし、雨に打たれる桜の悲しさに俺もまた引き込まれていた。
その後、校門のバス停まで並んで歩き、そこで別れた。先輩は徒歩通学のようだ。
「それじゃ、後でメールしますね」
「ああ。さよなら、榊君」
送信
件名:こんばんわ
本文:
今日はありがとうございました。
描いていた絵ができたら教えてくださいね。
体が冷えたと思うのでゆっくりお風呂に入ってください。
受信
件名:Re:こんばんは
本文:
子供か、僕は。心配されなくても、可能な限り毎日入浴しているとも。
絵については、何時になるかはまだわからないが、完成したら君に見せることを約束しよう。
それから、言いそびれたが傘を持ってくれて感謝するよ。結局最後まで付き合わせてしまったな。
機会があれば何か礼をしよう。それでは。
「…………登録は『先輩』…………」
「………………誰?」
最終更新:2008年12月28日 23:03