570 傷 (その9) sage 2009/01/05(月) 01:33:42 ID:X9LVBZCy
「兄さんはどうなのですか? こんなわたしを、迷惑に思いますか……?」
やぶれかぶれになったわけではない。
口に出した瞬間、葉月は、自分の言葉が紛れも無い本心であることを知った。
自分はこの男を愛している。
――そう考えたとき、今まで欠けていたパズルのピースが、音を立てて当て嵌まったのを感じたのだ。
無論、今までは弥生の冬馬に対するストレートすぎる愛情表現に顔をしかめる立場を取っていた彼女だ。変節とも言うべき心境の変化には、当然ながら葛藤がある。
だが、五日間の引き篭もりを含む紆余曲折の結果、葉月の心理は、もはや意地を張ることに、あまり意味を見出せなくなっていた。
「迷惑に思うかって……それはこっちの台詞だろうが」
たっぷり二呼吸ほど間を取り、冬馬はぼそりと呟いた。
「おれがいなければ、お前は何も迷うことも悩むことも無く、研究や論文に全力を尽くせたはずだろうが。おれがここにいたことが、結果として、お前を苦しませることに繋がったんじゃねえのか?」
葉月は何も言えなかった。
彼の言葉は、確かに一面の真実を突いていたからだ。
もしも冬馬が、兄として我が家に現れることさえなかったら。
単なる知人友人として違う出会い方をしていたなら、自分はこんなに苦しまずに済んだに違いない。
――そう思うのは、あまりにも当然だ。
だが、いま問題とすべきはそんな事ではない。
そんなことは、いまさら考えても仕方のないことだし、なにより葉月はもう覚悟を決めたのだ。
――行けるところまで行く、と。
「……はぐらかさないで下さい、兄さん」
葉月の視線は、もはや揺るぎない。
近親相姦もクソも知ったことか。
好きな異性と結ばれたい。その想いの、いったい何が間違っているというのか。
現に姉は、タブーの向こう側にいとも無雑作に足を踏み入れている。姉にできたことが自分にできない道理があるものか。
(わたしは柊木葉月。柊木弥生の妹です!!)
弥生の名は、葉月にとって現世に存在する唯一の劣等感であるが、それだけではない。彼女自身、“完璧超人”と謳われた弥生の妹であることに、大いに誇りを持っている。
「質問に質問を返すのはマナー違反です。二度は許しませんよ」
「葉月……」
「さあ、答えて下さい兄さん。兄に男性としての好意を抱く妹は、迷惑ですか?」
冬馬はやがて、太い溜め息をついた。
葉月の硬い視線から目を逸らすようにして、だ。
「迷惑なわけ、ないだろ」
だが、そう言い切る彼の表情に、いつもの明るさは無い。
その事実に、心が折れそうになるのを必死にこらえながら、葉月はなおも食い下がる。
「兄さんの表情は、そうは言っていませんが」
「だって、それは、――当たり前だろっ!!」
冬馬の口から、ハッキリそれと分かる唾が一滴飛ぶのが葉月には見えた。
「おれたちは兄妹なんだぞ!? 好きとか嫌いとか、そんな感情を抱いていい関係じゃねえだろ!?」
571 傷 (その9) sage 2009/01/05(月) 01:35:15 ID:X9LVBZCy
――来た。
浮世の正義たる一般論。
兄を男性として意識する妹にとっては、最初に乗り越えなければならない常識の壁。
だが、その言葉に反論の余地が無いわけではない。
そう、近親相姦の禁忌を主張するのが冬馬本人である限り、葉月は彼の常識に言葉を返すことが出来る。なにしろ反論の論拠を実証したのは、柊木冬馬その人なのだから。
「白々しい事を言わないで下さいっ!! 兄さんはかつて、『おれが好きなのは弥生
姉さんだ』とハッキリ言ってるじゃないですかっっ!!?」
呆然と目を見開く兄に、葉月は半ば、凶暴な気分で言葉をぶつける。
「……なんで……」
「何故わたしがそれを知っているのか訊きたいなら答えます。――聞いたんですよ、この耳で。一週間ほど前の早朝に、兄さんが電話の相手にそう言っているのを、ドア越しに盗み聞きさせてもらったんですよ!!」
いまや葉月の心の内には、あの時の激情がふつふつと甦っていた。冬馬が自分ではなく、姉の弥生を選んだとハッキリ言い切った一言を聞いた瞬間の、我ながらどうしようもない絶望感と屈辱を、いまの葉月は明確に思い出していたのだ。
無論、その言葉のフォローは弥生から受けている。
――冬馬の言葉は当てにならない。
――あれは、しつこい電話相手を黙らせるための、彼一流の方便だ。
確かに弥生はそう言った。そして葉月も、その姉の言葉には納得せざるを得ない。
だがその時、込み上げる歓喜を懸命に押し殺そうとしている光が、姉の瞳に宿っていたのを気付かぬほどに、葉月は鈍感な少女ではない。
(姉さんは、喜んでいる……!!)
姉が喜ぶのは分からない話ではない。普段の言動から察すれば、むしろ当然だと言えよう。だが、それでも葉月は、そんな姉に殺意すら伴う嫉妬を感じずにはいられない。
また、たとえ弥生の言う通り、兄の言葉が偽りであるならば、葉月としては、その釈明を、やはり他ならぬ兄本人から聞きたかったのだ。
「おれは嘘をついちゃいないよ」
冬馬は、ごりごりと頭を掻きながら、そう言った。
見方によっては、痛いところを突かれて不貞腐れているような口調に聞こえないでもないが、葉月は辛抱強く、引き続き兄の言葉を待った。
もし冬馬が話の矛先を逸らすつもりなら、葉月が自白した盗み聞きというマナー違反を話題に持ち出し、空気を変えればいい。だが、彼はそうはしなかった。兄は兄なりに、自分の言葉を真摯なものとして受け止め、応えようとしている。――葉月はそう判断した。
そして冬馬は、煩悶の極限のような表情の末、搾り出すように言った。
「……分かった。泥を吐くよ」
「姉さんのことは嫌いじゃない。客観的に見て、あの人はやっぱり……ふるいつきたくなるようないい女だからな……。でも、それはお前にしても同じだ。あと五年もすれば、お前は姉さんに負けないくらいのいい女になるだろう。――そう思うよ」
「……お世辞ですか?」
だが、冷たく言い放つ葉月の皮肉にも、冬馬はひるまない。むしろ話の腰を折るんじゃねえと言いたげな尖った一瞥を向ける兄に、妹は黙らざるを得なかった。
「お前にしても、姉さんにしても、おゆきや千夏にしてもそうだ。――この四人は特別なんだよ、おれの中じゃあな。だから、柊木冬馬としては、お前の女性としての魅力が、弥生姉さんに劣っているなんて言うつもりはないんだ。あくまでな」
「…………」
「だから、姉さんの存在を口実に、お前の気持ちに応えられないとか、そんなことを言う気は無いよ」
「……どういうことですか」
「だから――おれは、女とは付き合えないんだよ。姉だったらOKで妹ならNGだとか、血縁ならNGで義理ならOKだとか、そんな下らねえ事を言うつもりは無いんだ。地球上のどんな女にアプローチをかけられても、おれにはその好意に応えられない理由があるんだよ」
そこまで聞いては、いかに葉月といえど、気付かざるを得ない。
兄は、尋常な人間だ。変わり者の部類に入ると言えば入るだろうが、それでも世間並みには、充分に“普通”の範疇に入るであろう人間だ。だが、彼の過去は尋常ではない。
「――まさか、トラウマですか……虐待されたときの……?」
572 傷 (その9) sage 2009/01/05(月) 01:41:24 ID:X9LVBZCy
冬馬の目の色が、その一瞬で変わった。
彼が虐待の経験者であるということは、肌の無残な傷痕を見ればバカでも分かる。
だが、その傷痕が“性的虐待”の痕跡であることは、事前に情報を知っていなければ、すぐに結びつけるのは難しい。彼の全身に刻まれた傷は、傍目に見て、セックスを基本とする性的虐待など、とても連想できないほどに無残極まりないものだったからだ。
そして、冬馬が柊木家に於いて、過去の虐待の具体的内容を語った事実はない。
つまり――。
「誰から聞いた?」
さっきまでとはまるで別人のような冷たい声が、彼の口から飛ぶ。
その迫力に、葉月は反射的に口をつぐんだ。
だが、冬馬とて鈍重ではない。葉月が口篭もった数瞬の間に、たちまち正解に辿り着いた。
「なるほど……千夏のやつか。なら、弥生姉さん経由のネタってところか」
葉月としては、俯かざるを得ない。
いままで柊木家においては、冬馬の過去――それも虐待に関して、直接的に言及することは控えられてきた。父も母も姉も、そして自分も、その肌の傷痕についての質問を冬馬にしたことが無い。それが家族としての気遣いだと信じていたからだ。
だが――知っていたのに、あえて知らないフリをしていたというなら話は違う。知らないフリというのは、捉え方によっては明確な嘘であり、欺瞞であるからだ。
そして、その事実がアッサリ露見してしまった今、少なくとも葉月の抱く気まずさは、それまでの流れの攻守を入れ替えてしまった。追求する側に冬馬が立ち、葉月は劣勢に立ってしまった。……少なくとも葉月の心中には、それまでの攻撃性は跡形も無く消失してしまっていた。
だが、
「なんだよ……知ってるんなら、話は早えじゃねえか」
そう呟いた兄の声は、先程の質問の鋭さはまるでない、飄々としたものだった。
――え?
と、言わんばかりの表情で葉月が顔を上げると、兄は、拍子抜けしたような顔で、冷蔵庫のドアに歩み寄るところだった。
「どこまで知ってる?」
きんきんに冷えたトマトジュースのスチール缶を一本取り出しながら、冬馬は訊く。
冷蔵庫の位置的に、彼がどんな表情で、その台詞を吐いたのかは分からないが、少なくとも葉月には、その声と背に緊張の様子は見えない。
「兄さんと千夏さんを引き取ったのが、――あの芹沢家だったということは聞きました。ですが、そこで兄さんが、どういう虐待を受けたのかまでは知りません」
「なるほど」
プルタブを押し開け、そのまま缶ビールでも飲む父のような姿勢で、冬馬はトマトジュースを一口飲む。
「ん~~~~デルモンテもいいけど、やっぱトマトジュースはカゴメだよね」
冬馬の表情には、一点の曇りも無い。
だが、葉月としては、カゴメだよねと言われても『そうですね』と答える状況には無い。
「おれも千夏も非道い目にあったよ。色々とな」
カゴメだよね、と言ったまったく同じ表情で、冬馬はいきなり切り出した。
「以前、墓参りの時にした話と同じだ。暗くて長くて、ひたすら救いの無い話だ。まあ、お袋が親父を刺した話よりも、少しだけこっちの方が……ひどい、かな」
「…………」
「だから、お前が知っているなら、それはそれで構わねえんだ。むしろ、くどくど詳細を説明する手間が省けるってもんだ。だから――」
冬馬はそこで言葉を切ると、冷蔵庫からトマトジュースをもう一本取り出し、葉月に放り投げた。
「だから、そんなツラすんなって言ってるのさ。知らねえフリしてた事に罪悪感を覚える必要はないって言ってるんだよ」
そう言って、冬馬は笑った。
573 傷 (その9) sage 2009/01/05(月) 01:42:47 ID:X9LVBZCy
「警察に保護されて、また施設に放り込まれたのが5年前――おれが11歳の時だ」
そこで言葉を切ると、冬馬は一口トマトジュースを飲み、
「トラウマは無いって言えば、さすがに嘘になるけど、でも後遺症は無いんだよ。日常生活に支障をきたすようなヤツはさ。少なくとも暗闇が怖いとか、悪夢にうなされて眠れないとか、メシの味がしなくなるとか、そういうひどい症状はマジでおれには無縁なんだ」
と、言った。
だが、その言い方に葉月は引っ掛った。
「――では、日常生活に支障をきたさない程度なら、後遺症はあるということですか?」
冬馬は薄く笑った。
そして、またトマトジュースを一口あおると、
「つまり、それさ。おれがこれから言おうとしていたのは」
と、自嘲するように言い、彼はスチール缶をそのまま不燃ゴミ用のくず入れに投げ入れた。
「勃たなくなっちまった」
「――は?」
葉月は、目をぱちくりさせながら、訊き返す。
冬馬は、そんな葉月に頬をゆがめると、足りない台詞をさらに言い直した。
「勃起不全、ED、インポテンツ。……呼び方はいろいろだが、早い話が、朝勃ちすらもしやしねえ。排尿以外に全く役に立たない飾り物になっちまったのさ、おれの“男”はな」
「……だから、女性と交際はできない、ということなのですか……たった、それだけの理由で……?」
冬馬は微動だにしなかった。
だが、やがて、先程に倍するほどの太い溜め息をつくと、
「ま、――お前には分かんねえか」
と言い、寂しげに笑った。
だが、葉月は彼のそんな笑顔に激しく苛立ちを覚えた。
冬馬が嘘をついていないことは分かる。そして彼が話をはぐらかそうとしていないという事もだ。だが、だからこそ葉月は、自分が全く理解できないところで話を完結させている兄に、激しい憤りを覚えたのだ。
「わたしには分かりません。だって、そうじゃないですか!? 生殖機能を失ったからといって、人としての兄さんの価値がいかほどに変わるものではないでしょう!? わたしたちが求めているのは兄さんそのものであって、兄さんとのセックスだけではありませんよ!?」
「当たり前だ。人が人として在る理由をセックスだけに求められてたまるかよ」
「だったら――」
「だがな葉月、それはあくまでも人間論としての話だ。“男女交際”という生臭いものを正視するためには、前提条件として、おれたちそれぞれが一対の牡であり牝である事実から目を逸らすことは出来ない。そして、おれは牡としての機能を失っている……」
「わたしはそんなものを兄さんに求めてはいませんっ!!」
「だったらお前が、兄妹という関係に不服を抱く必要はないはずだ。男としてのおれに、女としての扱いを求めるからこそ、お前は本音を吐いたんだろう? だが、男としての機能を持たないおれには、お前という“女”を受け入れることなど出来はしない」
「……ッッ!!」
その冬馬の言葉に、葉月は絶句した。
「おれという人間はここにいる。だが、おれという“男”は、もう死んだんだよ。死んだ男に家族や隣人を愛することは出来ても、“女”を愛することは出来ないんだ」
冬馬の言い分が正しいとは思わない。
性的不能者には異性を愛する資格は無いと言わんばかりの冬馬の言い分には、少女独特の潔癖さを差し引いてもなお、やはり葉月は納得がいかなかった。
だが、それでも葉月は、彼に何を言い返すことも出来なかった。
冬馬の口調は、さほど重々しいものではない。
だが、彼の発する雰囲気は、今の言葉が、その場しのぎのいい加減なものではない、歴とした思想に基づいたものであることを厳然と証明している。
男にとって、“男”を失うという現実がどういう意味を持つのか、いまだ若すぎる葉月には見当も付かない。たとえ天才と謳われた学識の所有者であっても、彼女は弱冠13歳の少女に過ぎないからだ。
574 傷 (その9) sage 2009/01/05(月) 01:44:36 ID:X9LVBZCy
(もし、ここに姉さんがいたなら……)
弥生ならば、ただ絶句するしかない自分とは違い、頑なな兄に、違う言葉をかけてやれるかも知れない。――葉月は、そう思わずにはいられない。
だが、そう期待しながらも、同時に葉月は絶望する。
彼女にも分かるのだ。兄の信念は、他者の理解を必要としない境地まで辿り着いているということが。おそらく、姉妹が百万言を費やして反論しても、彼に自説を翻させることは不可能に違いない。
ならばどうする?
どうすれば兄の心を開くことが出来る?
「信用……できません」
「え?」
今度ぽかんとなったのは、冬馬の方であった。
「兄さんの言葉の全てが真実であると確認するまでは、わたしとしても引くわけには行きません。兄さんが本当に勃起不全なのかどうか、本当に女性を諦めねばならない身体なのか、わたしに証明する義務があるはずでしょう」
「おれが嘘ついてるってのか?」
「わたしには、兄さんの言葉がすべて真実なのかどうか知る権利がある。そう言っているのです」
「おい葉月……てめえ、さっきから何言ってやがる……!」
冬馬の瞳に、ふたたび剣呑な光が宿りつつある。
彼が怒るのは当然だ。
兄といえど、一人の少年に過ぎない。
少年の身ながら、男として不能である事実を吐露することがどれほどの苦痛を伴うものだったか、それこそ計り知れない。おそらくその羞恥は、葉月の“愛の告白”の比ではないはずだ。その言葉を信じられないと言い切られては、彼としても立つ瀬が無かろう。
だが、葉月としても、もはや退路は無い。
兄の静かな怒りに、身の毛もよだつような恐怖を覚えながらも、それでも彼女は踏み止まった。冬馬の殺気に対抗するために――萎え果てそうな己を奮い立たせ、毅然と兄に向き合うために、懸命に心の内の激情をかき集める。
(わたしは、この男にフラれたのだ)
勃起できない。――それがどうした?
セックスができない。――だから何だ?
兄が何と言おうが、その程度のことが、他者からの愛を拒む条件になり得るわけが無い。
兄の告白にどれほどの意味があろうが、それは葉月にとって重要ではない。どういう理由にせよ、葉月の愛が冬馬に拒絶されたという事実には何ら変わりは無いのだから。
ならば、ここで問題にすべきは彼の証言の真偽――ではない。彼の信念が、前提条件として、すでにして間違っていると証明することだ。
(――そう、証明だ)
不能の告白が真実かどうか、証明して見せろと言った葉月だが、いまから自分が為すべきことこそ、真実の証明に他ならない。説得が通じぬ相手に、言葉で交渉を続ける愚を葉月は知っている。ならば彼女としては兄に対し、その目で、その身体で証明して見せねばならない。
そのためには、むしろ兄の怒りは幸いとも言える。
いまの彼は、とても冷静な判断が出来そうも無いからだ。
「人が人を愛するということは、もっと高い次元で語られるべき話のはずです。兄さんの身体が、女性をもはや愛せないと言うのなら、わたしが証明して見せます。――そんなことはないのだと。たとえ、どんな兄さんであろうとも、愛を交わすことはできるのだと」
そういう話をしているつもりは無い。
冬馬はそう言おうとしたのだろうか、だが、彼は口をつぐんだ。そして、押し殺すような口調で、訊き返した。
「口で言うのは簡単だ。だが、どう証明する?」
「お風呂場に行きましょう。どんな兄さんでもわたしには関係ないということを、生身の肉体で証明します。兄さんが抱く絶望など、浅はかな男根信仰でしかないと、兄さんに教えて差し上げます」
――葉月はそう、凛然と言い放った。
575 傷 (その9) sage 2009/01/05(月) 01:47:58 ID:X9LVBZCy
「ごちそうさま」
冬馬がそう言って箸を置いた。
葉月はびくりと身を震わせる。
兄は、そんな葉月の様子に一瞬、目を細めたが、
「お茶、淹れるな」
そう言うと、冬馬は立ち上がり、食器棚から急須と茶葉を取り出し、ポッドから熱い湯を注いで、煎茶を二人前用意する。
葉月の皿には、まだ三分の一ほどお好み焼きが残っている。
だが、彼女には、今更それを口にする気はなかった。食欲など、とっくの昔に無くなっている。それどころか、今はひたすらに喉が渇いて仕方が無い。
湯飲みに手を伸ばすと、ぐいっと喉に流し込む。
だが――、
「~~~~~~~~~~~~~っっっ!!!」
何とか、口中の熱茶を飲み下すまで、たっぷり30秒はかかったろうか。
当然兄は、そんな妹の様子を見て、腹を抱えて笑っている。
「ひっ、ひどいです兄さんッッ!! そんなに笑うことは無いじゃありませんか!!」
「いっ、いやっ、だってよ……くっくっくっくっ……っっっ!!」
「ひどいですっ、ひどいですっ、ひどいですっっ!!」
懸命に笑いを押し殺そうとする冬馬の背中を、真っ赤になった葉月はぽかぽかと殴る。まるで、重圧に押し潰されそうになっていた鬱憤を、ただひたすらに晴らそうとするように。
「――葉月」
兄の声で、葉月の手がぴたりと止まった。
その声に、彼女の動きを封じる鋭いものが含まれていたからではない。むしろ逆だ。兄の声は、さっきまでの重苦しい雰囲気とうって変わった、のんびりとした日常の声だった。その声が与えてくれる、いつもの安心感こそが葉月の手を止めたのだ。
「もう……やめとくか?」
優しい瞳で、冬馬は尋ねる。
これは質問ではない。提案だ。
――そんなに怯えるくらいなら、そんなに無理をするくらいなら、もう、やめようよ。
彼の目がそう言っているのが葉月にも分かる。
だが、その気遣いが、今の葉月には逆に気に入らなかった。
兄が自分のことを気遣ってくれているという嬉しさは、当然、ある。
でも葉月は、それ以上に、冬馬に子供扱いされているという現実が、非常に癇に障った。
いや、それだけではない。その瞬間、彼女は気付いてしまったのだ。
「いやです。やめません」
「でも、よう……」
「わたしはやめないと言っているんです」
「…………」
「さあ、お風呂に行きますよ、兄さん」
そう言うと、自らの両頬をぱんと叩いて気合を入れ、葉月は冬馬の手を曳き、脱衣場まで歩き始めた。
すでに彼女を襲っていた恐怖はない。
冬馬の目を見た瞬間、その恐怖は、まるで化学変化を起こしたかのように、別のものになっていた。
食事というワンクッションを置いたことで、少しはものを考える余裕が生まれた。
その余裕こそが、少女としての自分に恐怖を感じさせたことは事実であるにしても、それでも葉月は、兄の心理を推し量るだけの時間を持てたことは僥倖だと思う。
『もう……やめとくか?』
と言った時の、あの冬馬の表情。陽気で優しい、いつもの兄の素顔。だが、葉月には、その優しげな瞳の奥に潜む、冬馬の、もう一つの感情が見えた気がしたのだ。
その瞬間、葉月は自分の推論に、確信を持った。
(兄さんは、おびえている……)
おそらくはそのおびえこそが、彼の紛れも無い本音なのだろう。
576 傷 (その9) sage 2009/01/05(月) 01:49:03 ID:X9LVBZCy
勃起不全という現実が、冬馬の心理にいかほどの衝撃を与えたか、それは葉月に想像することは出来ない。だが、強制売春の手駒として、おびただしい性行為を強要されたトラウマを持つ少年にとって、それは喪失であると同時に、解放でもあったのではないか。
己の“男”を売り物とされた少年からすれば、“男”を失って、初めて男娼たる自分の過去との決別が果たせたのかも知れない。ならば、現在の彼を、心的外傷の後遺症が襲わないのも、ある意味、必然だとも言える。
だが、その結論は、女としての葉月を著しく不快にさせる。
女性を愛せない――なら分かる。まだいい。
しかし、女性を愛せなくなったことによって解放された――というなら、客観的に見てそれは、トラウマからの逃避に他ならない。
(兄さんが、“女”から尻尾を丸めて逃げ回っているだけの男であるわけが無い)
少なくとも、自分や弥生が魅力を覚えた冬馬という少年が、そんなだらしない男であるとは、葉月としては信じたくは無かった。
彼のトラウマが「女性」でなければ、あるいは、葉月自身が彼を慕う一人の女性でさえなければ、もっと違う考え方が出来たかも知れない。
だが、葉月は認めたく無かった。
自分を魅了した男ならば、やはり、一人で世界と対峙し得る男であって欲しかったのだ。
わがままだとは思う。
だが、理不尽だとは思わない。
(女の理想に応えられる男だと思わねば、誰が禁忌を犯してまで惚れるものか)
冬馬の手を曳きながら葉月は、内心にそう毒づいた。
「兄さん、まさか今になって、逃げようなんて思っちゃいないでしょうね?」
「……バカ言え」
「フフフ、そうでなければ困ります。――ま、どのみち逃がしませんけどね」
心に傷を負った一人の人間の心理がどれほど微妙なものであるか、それを想像するよりも先に、女性としての感情を優先して「女体」というトラウマを兄に突き付ける事を選択した自分を、のちに葉月は死ぬほど悔やむことになる。
だが、神ならぬ今の彼女には、そんな未来は知るよしも無い。
最終更新:2009年01月06日 20:54