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記憶の中の貴方へ ◆YVZUFUAt8U sage 2009/01/21(水) 18:56:55 ID:j87lGCrW
雫姉の機嫌は、中杉さんの運転する車が校門前に到着する頃には、完全に直っていた。
僕たちの通う高校へ着くまでの間、車内で雫姉はずっと、隣にいる僕の手を握っていた。ひんやりとした雫姉の手。なんでも、こうしていると、とても心が安らぐのだそうな。
普段人前では見せない、穏やかな笑顔は日だまりで眠る子猫のようで、小さいけれど、大切な幸せをかみしめているようであった。
天下の雛守家、しかも現当主が見せるには余りにあけすけなその表情に、僕は思わずドキリとしてしまっていた。
雫姉はいつの間にやら、僕に寄りかかっている。腰まで届く、真っ直ぐで、絹のようにきめ細かい、つややかな黒髪が僕の頬をくすぐる。女性特有の何ともいえない香りに、僕の顔は更に赤くなる。
すると、
「着きましたよ。お嬢様、広樹様」
ちょうど良いタイミングで学校へ着いたみたいだ。中杉さんは、やわらかな笑顔で車のドアを開けてくれた。運転主の中杉さんは執事長でもあり、雛守家の使用人全てを束ねている人だった。
背は低く、そろそろ還暦に手が届くそうだが、それを感じさせない洗練された所作と、ハキハキとした物言い。
ピシリと線が入ったように真っ直ぐな背筋と、親しみの持てる笑顔、そしてひょうきんな性格を持つ、矍鑠(かくしゃく)とした人である。
僕は、そんな高齢の人から恭しくされるのには未だに慣れる事が出来ない。「すみません」と一言。おずおずと下車した。
そこを見ると雫姉は慣れたもので、「ふむ」とうなずくと、「下校時刻はいつも通りに」と告げ、すでにさっさと車を降りてしまっている。
先ほどまでの安らいだ表情はもう無い。あるのはいつもの涼しげで、凜とした表情だった。
僕たちが通うのは私立連翹(れんぎょう)学園。財閥などの資産家、家柄のある家庭の子女だけが通うことの出来る名門校だった。馬鹿高い学費と寄付金が必要な学校。それだけあって敷地は広く、設備は行き届いている。
記憶をなくした3年前から、僕はここに通っている。雫姉1人だけだが、事情をよく知る、知り合いがいた方が心細くないだろう、という雫姉の心遣いだった。
訳あってお金をあまり持っていない僕に、「金は気にするな」と雫姉は一言、その後、学費から生活費の何もかもを出してくれている。
202 記憶の中の貴方へ ◆YVZUFUAt8U sage 2009/01/21(水) 18:59:20 ID:j87lGCrW
「昼休みにそちらに行く。昼は一緒に食べよう」
弁当のはいった手提げ袋を胸元に掲げ、静かだが少し弾んだ声でそう告げる雫姉。多忙な雫姉は暇を見つけては、一緒に昼食を食べにくる。弁当は雫姉の手作りだ。
弁当だけでなく、朝食といった、僕の食事の一切は雫姉が作ってくれる。
僕が家にきたばかりの頃は、屋敷お抱えの料理人が作ってくれていたのだが、しきりに味を褒める僕を見て、彼女は一瞬不機嫌になると「私が作る」といいだした。
いきなりのセリフに驚いた僕に、彼女は恨めしげな顔で、「家族の食事は、家族が作る物だ。それとも……イヤなのか」と言ってきかない。以降は、料理人に教わりながら僕に作ってくれている。
おいしいから良いのだけれど、忙しすぎて身体をこわさないか雫姉が心配だ。でも今日は……。
「ごめん、雫姉今日はちょっと……」
てっきり、僕が頷くと思っていたのだろう雫姉は僅かに目を見張ると
「なんだ、私との食事を断るのだ。一体どんな用事だ」
先ほどまでの弾んだ声はどこへやら。一転して低い声に変わった。
「うん。クラス委員の仕事のお手伝い。どうしてもと頼まれて……」
「昼食を食べる時間ぐらい、なんとかならんのか?」
「打ち合わせをしたいからって……その、ごめん」
涼しげな目の奥にある、優しげな光は消え失せ視線が針のように鋭くとがる。
「約束しちゃったから。……雫姉も約束は守れって言っているよね?」
少し意地悪な言い方だが、そうでも言わなくては承知しない感じだった。
ムッとした様子の雫姉が口を開いたとき、
「広樹くーん。おはよー!!」
良く通る、元気な声が耳に届いた。
203 記憶の中の貴方へ ◆YVZUFUAt8U sage 2009/01/21(水) 19:00:33 ID:j87lGCrW
振り向くとそこには、ショートカットのかわいい女の子。この子が手伝いを約束した、楠真琴(くすのき まこと)さんだった。
「おはよう。楠さん」
「やだなあ、真琴で良いって言ってるじゃん。何度言わせるのさぁ」
ニコニコとした楠――いや真琴さんは、今日も元気を身体いっぱいで表していた。何が楽しいのかハハハと笑ったかと思うと、あろう事か飛びつくように、僕をギュッと抱きしめてきた。ソフトボール部の真琴さんの身体は引き締まっている。
先ほどまで早朝練習をしていたのだろう、タイトな身体から、甘い女の子の汗の香りがした。どうにか逃げだそうとするが身長が155センチになるかどうか位に低い僕は、長身の真琴さんのなすがままだ。それでも必死に抜け出そうとしていると、
「おい、なんだ。この失礼な娘は」
言うやいなや、雫姉は僕を真琴さんから引きはがした。すかさず僕を守るように抱き寄せる。かなり強く握ったのか、腕を握る雫
姉さんの手は痛かった。今度は女性らしい柔らかな身体に抱きすくまれて、とうとう僕は動けなくなる。
案の定、雫姉は怒っていた。と、そこで何かに気づいたらしく、
「まて、楠といったな……お前まさか――」
「ああ、雛守のお姫様か。おはようございます。そうです、その『楠』ですよ」
真琴さんは今雫姉さんの存在に気づいたとでも言うように、クスリと小さく笑った。
両者の視線が絡む。ギチリと空気が重く硬化していく。
先に目をそらしたのは真琴さんだった
「さあ、広樹くん。『約束』のお仕事だよ!朝からうんざりする程働いてもらうんだからね」
明るく告げると、にらみ合いの時に雫姉から抜け出していた、僕の手を引き意気揚々と歩き出した。さっきのアレは何だったのだろう。とっさに僕は、雫姉の手提げ袋から、自分の弁当箱を取り出す。雫姉はもどかしげに
「広樹……私は――」
と何かを言おうとした。捨てられた猫のような目に、僕は何か言わなければいけない気がして、よく分からなかったが「大丈夫」と返しておいた。
その間にも真琴さんは僕をずんずんと引っ張っていく。雫姉の伏せた顔は前髪に隠れて見えなかったが、寂しげにたたずむ姿は酷く印象的だった。
204 記憶の中の貴方へ ◆YVZUFUAt8U sage 2009/01/21(水) 19:02:47 ID:j87lGCrW
雫姉から十分に離れたとき、ようやく真琴さんは足の速度をゆるめた。
「広樹くんさ。存外かなりのシスコンなんだね。」
後ろの雫姉に意識が向いていた僕は、いきなりそんなことを言われるとは思っていなかったので、驚きながらも、とりあえず「そうかな?」と返した。
「そうだよ!あんなにお姉さんとベタベタしててさ」
気に入らないらしくぷりぷりとしている。
「そうなの?」
「そうなの!!」
そもそもさ、と彼女は続けた。
「いつまでもお姉さんだけって、それって気持ち悪い。すごく気持ち悪い」
いつになく平坦な言い方に、僕も考えてしまう。
「大体さ、だったらもっとあたしとさ……」
考えていたので聞き逃していた。思わず聞き返すと真っ赤な顔で「別に!!」と言われてしまった。
再びぐいぐいと引っ張られる。繋いだままの真琴さんの手は、雫姉とは違う温かな手の平だった。
――なんだあの娘は、
広樹とあの女が去った、校門前。雫は未だそこに佇んでいた。登校する他の生徒達の、何事かとうかがう目にはとっくに気づいていたが、そんなことは今の雫にとって取るに足らないことだった。
広樹にも広樹のつきあいがある。ある程度は譲歩するつもりだった。そもそも広樹から昼食の件について告げられたとき、怒って見せたが、あれはあわてる彼を見て楽しんでやろうと思ったからだ。不満が無いわけではない。が、こんなことは初めてではない。
今週末にでも、今回のことを『埋め合わせ』としてどこかに連れて行かせるつもりであった。だから我慢できないわけではない。
しかし、
――よりにもよって楠家だと?
あの家は非常にやっかいだ。今更ながら友人は良く選べと言っていなかったことが悔やまれる。しかしそれ以上に気に入らないのは――
――あの娘の目だ。
一見快活な様子で接していたが、あの娘が広樹を抱きしめた瞬間、彼女の目が確かに媚びをはらんだ色をたたえたことを、雫は見抜いていた。そして、雫が広樹と取り返した瞬間、気色ばんだ視線でこちらを見据えていたことにも、やはり気づいていた。
あの目は間違いなく広樹に思いを寄せている。雫には分かる。そのことが雫にはたまらなく我慢ならない。あのような汚らしい目で広樹を辱めていることに我慢ならない。
――あいつは――広樹は私のものだ!!
きつく噛み締めた歯からはギチリと音がした。感情が身体を支配する。荒々しく燃え上がる怒りの熱が体内をうねり、駆け抜ける。雫の心の奥の奥、そこにある鬱蒼とした闇。それがゆっくりだが、確実に外へと這い出してこようとしていた。
そこへ、ずっと佇んで身動きしない雫を心配して、女生徒の一人が声をかけようとしたが、
「ヒッ――」
前髪の間から見えた雫の視線に、色を失い、身体を恐怖で震わせる。雫はそれでようやく我に返ると、呼吸を落ち着けた。視線を上げ自分のクラスに足を向ける。だが、未だ、広樹の去っていた方向に目は向いたままであった。
「真琴といったか、あの娘。邪魔だな」
どうすればここまで底冷えのする声が出せるのか。
晴れやかな朝の空気を、静かな氷の声が引き裂いた。
最終更新:2009年01月29日 20:40