262 傷 (その11) sage 2009/01/27(火) 05:45:46 ID:nYGyqu3v
「冬馬くんが壊れたって……葉月ちゃん、あなた一体、何を言っているの?」
携帯電話を片手に弥生は困惑していた。
電話越しに泣きじゃくる妹の声はまるで聞き取ることが出来ず、何を言っているのか、どういう事態が起こったのか、サッパリ要領を得ない。
正直な話、弥生は、ここまで取り乱した葉月の声を初めて聞いたと言ってよかった。
兄との“初体験”をしくじったというだけで、ここまで恐慌状態になる葉月ではない。
あの、常に沈着冷静な――というより、およそ物に動じるという神経をどこかに置き忘れて生まれてきたような怜悧な妹が、ここまで平静さを失うなど、よほどの緊急事態が発生したと考えねばならない。
「いいから葉月……葉月ちゃん……分かったから……お ち つ き な さ い!!!」
その声は、いま弥生が立っている女性用トイレに響き渡った。
無論、ただの大声ではない。
聞く者を制するに足る鋭い意思を込められた声だ。
かつての生徒会時代。誰もがより多くの部費を求めて紛糾する予算委員会で、汗臭いラグビー部の男子生徒や、パンクファッション的厚化粧に身を包んだ軽音楽部の女子生徒を、たちまちの内に黙らせたという、鉄鞭のごとき一喝。
さすがの葉月も一瞬パニックを忘れ、息を飲まざるを得ない。
「いまからすぐに帰ります。話の詳細は家で改めて聞くから、とりあえず泣きやむこと。――いい?」
鼻をすすりながら「はい……」と呟く葉月の返事を確認すると、素早く電話を切る。だが携帯を握った手は下ろさない。ボタンを操作して、自室のパソコンと接続し、監視映像を画面に呼び出す。
葉月からのメールで弥生は、彼女が風呂場で冬馬と何をするつもりだったか、一応のことは知っていた。
液晶ディスプレイに展開するバスルームの生映像。そこには今、誰もいない。
ならば回線を切り替えてみる。
リビング……やはりいない。
葉月の部屋……そこも無人だ。
冬馬の部屋……ここも違う。
弥生の部屋……いるわけもない。
そして、両親の寝室で、ダブルベッドに横たわった弟の姿をようやく発見し、弥生は肩の荷を下ろしたようにホッと一息ついた。
なるほど、確かに浴室で冬馬が倒れたのなら、担ぎ込むのに一番近い空間は、リビングの隣にある両親の部屋だ。葉月の体格と体力では、二階に並ぶ三つの子供部屋に高校生男子を運搬することなど出来るはずがない。
電話では狼狽しまくっているように聞こえたが、それでも、やるべき事をキチンと済ませてから連絡を入れた事からしても、葉月は最低限の理性をギリギリ保持していたようだ。
そしていま、リアルタイムの監視映像によると、妹の姿は、穏やかに寝息を立てる冬馬の傍らにある。
携帯の液晶画面では解像度が荒すぎてよく分からないが、葉月の様子からして、確かに今しがたまで泣き喚いていたのは事実のようだった。
とりあえず冬馬が無事なのは分かったが、逆に言えば、分かったのはそれだけだ。
弥生は、ふたたびバスルームの映像を呼び出す。だが今度はリアルタイムではなく録画分だ。その映像を数分前まで巻き戻す。
――そして、弥生は知った。
「…………なに……これ……!?」
何を言っているのか全く解読不可能だった、葉月の『冬馬が壊れた』という言葉が、実に的確かつ正確な状況報告であったことを。
「急用!! 緊急!!」
それだけ言い放ち、トイレから長瀬の待つ個室に戻るや、上着とカバンを引っ掴み、テーブルの上に千円札を二枚叩きつけ、弥生は足早に外に出た。
呆気に取られる長瀬にかける言葉は何もなかった。
申し訳ないと思わぬでもないが、詫びも説明も、すべては後回しだ。弥生にとって、冬馬と葉月以上に優先すべき事など、この地球には存在しないのだから。
そもそも弟が妹と近親相姦未遂の挙げ句、幼児退行を起こしましたなどと、言えるわけもない。
そして、自転車のペダルを満身の力で漕ぎつつ、家路を急ぐ弥生の心に、もはや長瀬のことなどいささかも存在していなかった。弥生はいま、怒りと後悔で一杯だったのだ。
無論、怒りの対象は他の誰でもない。自分自身だ。
263 傷 (その11) sage 2009/01/27(火) 05:47:10 ID:nYGyqu3v
(何故この事態を予想しなかったんだろう……私ともあろう者が……!?)
知っていたはずだった。
理解していたはずだった。
冬馬がセックスに対し多大なトラウマを抱えている可能性があることを。
そんな彼に対し、まともに色仕掛けを振ることがいかに危険な行為であるかを。
だが、弥生は安心してしまった。
弟に於けるトラウマの顕現が、勃起不全だと聞いて、油断してしまった。
素直に考えるなら、心的外傷がインポテンツという形をとって表層化している以上、この場合、冬馬のトラウマが肉体に与えた最大の問題は、単なる男根の機能障害ではなく、もっと精神的な――性欲そのものに対する減退と解釈するべきだ。
そして、いかに葉月がクールな相貌をたたえた美少女だとしても、13歳の“おんな”とも呼べぬボディを前にして、冬馬の不能が反応するとは弥生には思えなかった。弥生ならともかく、葉月の肉体ごときに心因性の性欲減退に影響を与えるだけの魅力があるはずがない。
つまり、異性の裸身を前にしても、精神が興奮を感じられないという現実こそが、冬馬が治療すべき真の病根であり、インポテンツなどそれら精神疾患の一症状でしかないのだ。
逆に言えば、冬馬の精神が『女体に反応できない自分自身』に耐えられなくなるほどの性的魅力を所有した女体を前にしなければ、彼の心的外傷が全面的に疼くことはないだろう。
それと、もう一つ。
芹沢事件の顧客どもは、みな普通のプレイに飽きた政財界の男女が主だったと聞く。ならば彼らの平均年齢は、普通に考えても中年・熟年・初老といったところだろう。
つまり、どこからどう見ても第二次性徴前のオンナノコでしかない葉月の肢体が、芹沢家時代の忌まわしい記憶を冬馬に回帰させるキッカケ足り得るかどうかは、疑問だと言わざるを得ない……。
今から考えれば迂闊もいいところだ。
人のトラウマが何に反応するかなど、心理学者でも精神分析医でもカウンセラーでもない弥生に、予測できるはずがない。――というのは言い訳だ。
予想できなかったはずがない。たとえば幼児期に監禁されたトラウマを持つ者が、閉所や暗闇や孤独に恐怖を抱かないはずがないのだ。ならば――、
『セックスに関するトラウマを彼が抱えているらしい』
何も詳細は必要ない。
この一文で、彼に対する許されざる行為全般は、すべて説明がつくではないか。
13歳の未成熟な女体が相手とはいえ、裸形の愛撫がセックスを喚起させないはずがない。
だが弥生は、そうは考えなかった自分自身に殺意に近い怒りを抱く。
不能という彼の現在を小賢しく考察した挙げ句、弟が幼児退行するほどの事態をむざむざ座視してしまうなど、あっていいことではない。
(もし、冬馬くんがずっとこのままだったら……)
そう考える弥生を、身の毛もよだつほどの戦慄が包んだ。
(もし、冬馬くんがずっとこのままだったら……)
(もし、冬馬くんがずっとこのままだったら……)
(もし、冬馬くんがずっとこのままだったら……)
(もし、冬馬くんがずっとこのままだったら……)
「……答えなんか……出るわけないじゃない……!!」
誰に言うでもなく呟いた弥生は、ペダルを漕ぐ足に更に力を込めた。
「どうしました、ごしゅじんさま? ぼくがごほうしするのはおいやですか?」
にじり寄る兄の手を反射的に振り払った葉月に、彼はあどけない表情で尋ねた。
いや、ただあどけないだけではない。
よく見れば、その目には精一杯の媚態と、それ以上の怯えが入り混じっている。
「もしぼくが、ごしゅじんさまのおきにさわるようなことをしてしまったのなら、えんりょなくばつをおあたえください。いかなるおしおきでもかまいません。――ですから」
「ですから……?」
おそるおそる葉月が冬馬の言葉に合いの手を入れる。
「このおすいぬのそそうを……おとうさまとおかあさまにほうこくなさるのだけは……どうか、ごかんべんください……おねがいします……!!」
そう言って、浴室の床に額をこすりつける冬馬の表情は、葉月には見えない。だが、小刻みに震えるその肩が、言葉以上の雄弁さで、彼の心理を説明していた。
264 傷 (その11) sage 2009/01/27(火) 05:48:40 ID:nYGyqu3v
――なるほど……。
葉月は、事態の超展開に愕然としながらも納得せずにはいられない。
顧客を不快にさせた。
そこにいかなる理由があろうとも、この私娼窟を取り仕切る芹沢夫妻が、彼ら“養子”という名の商売道具たちに折檻を与える名分としては、その事実だけで充分なのだろう。
当時の恐怖を、かつて現役の“養子”だった冬馬が忘れるはずがない。おそらく骨の髄にまで、客の機嫌を損ねることへの怖れを刻み込まれているはずだ。
「兄さん、顔を上げてください。お願いですから」
「いいえ、いいえ、ごしゅじんさまがぼくをおゆるしくださるまでは」
「許します! 許しますから! だからもう――」
「ほんとうですかっっ!?」
そう言って顔を上げた冬馬の貌は、まさしく一片の曇りさえない歓喜に満ち溢れたものだった。その、あまりにあけっぴろげな笑顔に、思わず葉月は、圧倒されたように息を飲む。そして、妹が仰け反った分、兄はずいっとにじり寄り、距離を詰めた。
「――では、おゆるしいただいたおれいに、せいいっぱいごほうしさせていただきます」
悲鳴を上げる暇さえなかった。
バスチェアに乗った葉月のほっそりとした腰。そこから伸びる両脚を掴み、広げ、股間に優しいキスをする。その間一呼吸とかかってはいない。そして、クリトリスへのキスの感触が消えぬ内に、葉月の神経を更なる高圧電流が走る。
「――かはっっっっ!!?」
一瞬だった。
まさしく一瞬の内に、すさまじい快感が葉月の局所を中心に全身に発信されたのだ。
葉月はまだ13歳だ。その肉体は前述の通り、お世辞にも豊満とは言いがたい。
しかし、知識はある。
思春期真っ盛りの少女としては恋愛と同様に性愛にも興味を持つのは当然の事だ。そういう意味では、いかに天才を謳われようが、しょせん葉月も年頃のオンナノコとしての範疇をはみ出す存在ではない。
オナニーの経験も少なからずある。
連日連夜というほどの頻度ではないし、感じるエクスタシーもお粗末なものだが、別にその事実に絶望する気は葉月にはない。女体としての自分の完成度を誇るには、まだまだ時期尚早だということを葉月は知っていたからだ。
だが――違う。
この心地良さはまさに、想像を絶するものだった。
冬馬が――かつてセックスのプロとしての生活を余儀なくされてきた彼から与えられる快感は、これまで葉月なりに知っていたつもりの常識をあっさり覆すものだった。
「ッッッッッッッッ!!??」
何も考えられなかった。
肺の中の酸素は残らず消費され、排出されるCO2の量は一瞬にして数倍以上になった。だが息を吸い込もうにも、身体がそれを許可しない。圧倒的過ぎるクンニリングスの快感を前に、彼女の理性は消滅し、呼吸器は排気以外の行動をまるで許さない。
あと数分、この舌技の前に身を晒せば、葉月は間違いなく失神していただろう。未熟な女体に与えられた過度の快感と、その喘ぎと悶えがもたらす呼吸困難によって。
だが、性に不慣れな彼女の肉体は、凄絶なまでの刺激を前に、おとなしくそれを甘受するという選択をさせなかった。この現状に一分の抵抗を示す意思が、まだ彼女には残っていたからだ。
弥生による説得という過程を踏んではいるが、すでに葉月は自分が冬馬に抱く感情が、愛情であったことを歴然と意識している。かつては必死になって否定したものだが、いまでは、以前の自分の愚直さに苦笑することさえ出来るだろう。
眼前の男は、そんな葉月が慕ってやまぬ意中の想い人である。
しかも、そのテクニックはあまりに圧倒的だ。
その彼が、跪くように自らの不浄の器官に奉仕する姿に、喜びを覚えぬわけがない。
――とは、葉月は考えなかった。
いまの冬馬は、葉月が愛した兄ではない。
いまの冬馬の愛撫は、葉月を愛するがためのものではないのだ。
何故なら、ここにいる兄の魂は、柊木家で自分たちと出会う以前の――数年前に彼と千夏がいた頃の芹沢家に回帰してしまっているのだから。
『ごしゅじんさま』と呼ばれ、奉仕を受ける自分は、いまの冬馬にとって金を払って服従を請求するかりそめの主――名もなき顧客の一人に過ぎない。
その事実は、葉月にとっては死に等しいほどの孤独だったのだ。
しかし、嫌悪感と寂寥感に苛まれながらも、葉月の抵抗はまるで儚い。目的のための合理的な動作を意図して足掻くには、冬馬の舌が与える快楽は、あまりにも圧倒的過ぎた。
265 傷 (その11) sage 2009/01/27(火) 05:54:49 ID:nYGyqu3v
暴風雨のような快楽の海を漂う一枚の木の葉と化した葉月の全身。
だが、波にもまれ、押し流され、声を上げることはおろか呼吸さえままならない彼女が取れる抵抗は、せめて意図せぬままに四肢を動かし、じたばたと暴れることしかなかった。
そして、肉体が限界を迎えようとしたまさにその瞬間、いまだ動きを止められない右膝が、冬馬の肩を打った。いや、攻撃はそれで終わらない。やもりのようにピタリと張り付いていた葉月の股間から、たまらず離れた冬馬のこめかみを、彼女の左膝が正確に捉えた。
そのまま壁に激突する兄の側頭部が立てた音は、予想以上に大きく浴室に響き渡り、冬馬は苦痛に顔を歪めることさえなく、その場に崩れ落ちた。
葉月が荒れ狂う鼓動と混濁した意識を抑え、何とか我に返ったのは、さらにそれから数分が経過してからだ。
「……あの……にいさん……?」
そして冬馬は、
そのまま眠るように意識を失い、
目を覚まさなかった。
冬馬の寝顔は、いつもと変わらない。
葉月は、布団に覆われた彼の下半身に目をやってみる。
意識を失ってなお硬度を保っているペニスは、ベッドの上に小さなテントを形作っていた。
もし、あのまま冬馬の為すがままに快感に身を任せていたなら、おそらく今頃、自分は処女ではなかっただろう。
だが、それは――それだけはいやだった。
求めてやまぬ兄の愛撫といえど、男娼としての冬馬に、単なる客の一人として身体を触れられることなど、葉月にとって到底ガマンできることではなかった。
『ごしゅじんさま』ではない。
家族として、妹として、そして女として、せめて葉月が何者であるかも認識していない今の冬馬にだけは、抱かれたくなかった。それは葉月の心の奥底にあった、女としての最後のプライドだった。
(恥かしげもなくよく言うわ、まったく……)
ここへ来てなお、矜持を振りかざすワガママっぷりには、我ながら嘲笑するしかない。
冬馬を壊したのは、他ならぬ自分なのだ。
もう涙も出ない。
まったく要領を得ない説明ではあったが、一応、姉に連絡は入れた。
まもなく戻ってきてくれるだろう。
だが、両親が帰ってきたら、なんと報告したらいいのか、もはや葉月には分からない。
いや、――そんなことはもはや、どうでもいい。
(わたしのワガママが……兄さんを壊してしまった……わたしが……兄さんを……)
もしも今、冬馬が意識を回復させ、何事もなかったように笑うためには葉月の命が必要だと言われれば、おそらく彼女は躊躇なく死を選ぶだろう。だが、そんな都合のいい話は存在しない。人間一人の命ごときで、過ぎ去った時間を巻き戻すことは出来ないのだから。
柱に掛かった時計を見る。
まもなく時刻は午後九時を回ろうかというところだ。
葉月は服の袖で涙を拭った。
罪悪感に打ちひしがれるのは簡単だ。今この場に於ける最も手軽な時間潰しだと言える。
だが、そうではない。
兄が愛してくれた柊木葉月は、そんなブザマな暇人ではないはずだ。
冬馬のために、いま一番やらねばならないことは何だ? いまのうちにやっておける事はあるか?
(……ある)
それは考えることだ。
彼の意識が数年前まで退行を起こしたのは何故か? それを考察し、せめて姉が帰宅したときには、全てを説明できるようにしておく必要がある。なにしろ葉月は当事者なのだ。
何が起こったのか、どういう過程で兄が自壊を起こしたのか知っているのは、葉月しかいないのだから。
葉月は、こんこんと眠りつづける兄の額にそっとキスをすると、そのまま立ち上がり、彼の携帯を手にとった。そしてアドレス帳を開き、その名を捜す。
――景浦千夏という名を。
266 傷 (その11) sage 2009/01/27(火) 05:56:43 ID:nYGyqu3v
「じゃあ、異変が起こったのは、冬馬くんのお尻に指を突っ込んだ時なのね?」
「はい」
「他には?」
「兄さんに……言葉責め?……をしていました」
「具体的には?」
「気持ちよければ、素直に気持ちいいと言えと強要しました」
「…………」
弥生が帰宅したとき、葉月はすでに冷静だった。
そこに悪意がないのは分かる。
だが、まるで台詞を言うように淡々と状況を語る妹に、さすがの弥生も険しい目をせずにはいられない。
だが、葉月はそんな姉を前にしてもなお、顔色を変えることはなかった。パニックになって電話をしてきたのは、本当に妹だったのだろうかと疑わせるほどに、葉月は平静さを保持している。それはもう、落ち着きなさいと怒鳴りつけたはずの弥生が、気分を害するほどに。
「兄さんが芹沢家で、女性だけではなく男性の相手も勤めていた事実は、
姉さんが帰宅する前に、景浦千夏さんに連絡を取って確認を取りました。おそらくは、わたしの行為によって、その瞬間の記憶が回帰し、兄さんの意識を当時に退行させたのでしょう」
その一言に、弥生は思わず息を飲んだ。
「確認って……千夏に話したの……今夜の出来事をッッッ!?」
だが、葉月の表情は変わらない。
「すべてを話したわけではありません。現在の兄さんの症状を告げ、対策を訊いただけです。何といっても、兄さんの過去を実際に御存知なのは、あの方だけですから」
それは分かる。
確かに冬馬の精神が芹沢家時代に退行してしまった以上、その当時を知る人物のサジェスチョンは絶対に不可欠だ。だが弥生としては、この件に自分たち姉妹以外の人間が絡むことは最大限回避したかった。それが姉妹の両親であってもだ。
そして何より、冬馬がこうなった過程をすべて聞いた上で、千夏という少女が黙ってこちらに協力するとは、弥生にはとても思えなかった。
なにしろ現在、戸籍的にも冬馬と葉月は実の兄妹ということになっている。そんな二人が浴室でしようとしていた行為は、世間的には充分にタブーの範囲内だし、感情的にも千夏が、その情報を心穏やかに聞いたとは考えにくい。
かつて千夏からサシで話を聞いた経験を持つ弥生には、それが分かる。
千夏が冬馬の話をするときに浮かべた瞳は、とてもではないが、彼女を弟に近寄らせるのは危険だと弥生が判断せざるを得ない輝きを宿していたのだから。
だが葉月は、そんな弥生の思考を先読みしたかのように話を進めた。
「大丈夫です。すべてを話したわけではないと言ったでしょう? わたしは今朝、兄さんがいきなり幼児退行を起こしたと言っただけです」
(今朝いきなりって……いくら何でも、そんなムチャクチャな話が通じるわけがない)
――とは、弥生は思わなかった。
確かに、冬馬はいつPTSDの症状が発症してもおかしくないほどのトラウマを抱えているからだ。何故そうなったのかのプロセスなど理解できないと言った方が、むしろ話に信憑性が出るかもしれない。
「で、千夏は何て言ったの?」
「千夏さんは、とりあえず兄さんが目覚めてもまだ、精神退行を続けたままだったなら、むしろ自分の出る幕はないと仰っていました。つまり兄さんの記憶と意識の整合性を元に戻したいなら、柊木家に引き取られて以降の兄さんの記憶を喚起させるしかない、と」
「それが道理……よね」
弥生としては頷かざるを得ない。
千夏の記憶さえも冬馬にとって芹沢家を連想させる可能性は充分にある。
ならばここで必要とされるものは、あくまで彼が、芹沢家と縁を切って以降の記憶だ。
しかし、問題はまだ残っている。というか、そもそも、この問題を無視して情況は何も先に進めない。
すなわち――
「冬馬くんは、本当に目覚めるの? いつまでもこの昏睡状態が続くようなら、どうすればいいの?」
267 傷 (その11) sage 2009/01/27(火) 05:58:50 ID:nYGyqu3v
だが、その問いかけにも、葉月の視線はまるで揺るがなかった。
「兄さんがこのまま眠り続けるということはない。――そう千夏さんは言ってくれました」
「その根拠は?」
「兄さんは、警察に保護されてからも、食欲減退や悪夢に悩まされたりすることもなかった、極めて強靭な精神の所有者であり、何が原因で退行を起こしたかは分からないが、このまま安眠に逃避することを選ぶような細い神経は持っていないと、彼女は太鼓判を押してくれました」
「それを信じろって言うの?」
あまりに脳天気な言い草に、弥生の拳がさらに固く握り締められる。
そもそも冬馬が本当に悪夢や不眠症、食欲減退といった心因性の諸症状に悩まされていなかったと、なぜ千夏が保証できる? 彼は密かに苦しみ、それでも苦しんでいる自分を見せなかっただけかも知れないではないか。
冬馬が、弱音や弱味を他人に気安く見せない人間であることを、千夏が知らないはずがない。なのに、何故そんな気休めのような言葉を吐くのだ?
「信じるしか……ないじゃないですか……ッッッ」
その瞬間、初めて葉月の顔を覆う、理性の仮面が剥がれ落ちた。
「葉月ちゃん……」
カタカタと振るえる小さな肩を両手で抑え、潤んだ瞳から雫がこぼれ落ちるのを懸命にこらえながら、兄を見つめ続ける13歳の少女は、計り知れぬほどの後悔や罪悪感と戦いながら、なおも気丈に振舞いつづけていたのだ。
弥生はとっさに、そんな葉月を思いっきり抱き締めずにはいられなかった。
そう、信じるしかない。それ以外の選択肢はない。
千夏の言葉も実際のところ、その事実に基づいた気休めだ。
結局、冬馬の精神力にすがりつく以外に、自分たちにできることなどないのだ。
「……ねえ……さん……わたし……」
「黙って」
「……ごめん……なさい……ッッッ!!」
「何も言わなくていいの。何も謝る必要なんてないの。あなたからメールを貰ってすぐに帰らなかった私だって同罪なんだから」
「ごしゅじんさま、どうざいとはなんのことですか?」
そこには、子供のような顔をして、罪のない瞳を二人に向ける冬馬がいた。
「……兄さん……ッッッ」
「冬馬くん……あなた……!?」
姉妹は絶句していた。
このまま起きないのではないかと危惧した冬馬が目覚めた。
――それはいい。
だが、一眠りすれば元に戻る。そんな儚い希望を姉妹が抱かなかったわけではない。
分かっている。現実は、特撮ヒーローものの洗脳とは違うのだ。怪人が死んだからといって、悪の組織に操られていた人々が、そうそう都合よく正気に返ったりはしない。
だが、それでもなお一縷の望みを、二人は抱かずにいられなかったのだ。
そして、その希望はいま、明確な形で姿を消した……。
「ごしゅじんさま、きゅうそくをとらせていただいてありがとうございました。このおれいに、いっそうのごほうしをさせていただきます」
目を輝かせて葉月に向き直る冬馬。
そんな兄から引きつった表情で仰け反る葉月。
だが、弥生は目を逸らさなかった。
「――待ちなさい」
声を掛けられ、ぽかんとした顔を弥生に向けた冬馬だが、ややあって、屈託のない笑顔を彼女にも見せた。
「ああ、こっちにもあたらしいごしゅじんさまがいらっしゃったんですね。では、どちらのごしゅじんさまをさきにおあいていたしましょうか。なんなら、おふたりどうじでも、ぼくはかまいませんよ?」
268 傷 (その11) sage 2009/01/27(火) 06:00:44 ID:nYGyqu3v
一瞬、傷ましいものを見る顔になった弥生だが、次の瞬間、彼女は反射的に息を飲んだ。
上体を起こすのと同時に、冬馬の下半身を覆っていた布団がはらりとめくれ上がり、そこにあったもの――石のような硬度と蛇のようなサイズを誇る“それ”を、まじまじと見てしまったからだ。
(こっ、これが……冬馬くんの……っっ!?)
だが、今は完全体となった弟のペニスに眼を奪われている場合ではない。
この、見るも無残な想い人を、ふたたび毅然とした柊木冬馬に戻さねばならないのだ。
「冬馬くん、頭を打った場所は大丈夫? 頭痛がしたり吐き気を感じたりはしない?」
その言葉に、冬馬の瞳がまたも戸惑いの色を浮かべた。
無理もない。彼を有料の性欲処理具として扱っていた者たちは、決してこういう気遣いを冬馬に見せなかったはずだからだ。
だが、ならばなおさら付け入る隙はある。弥生はそう判断せざるを得ない。
「私が――この御主人様がコーヒーを振舞ってあげる。プレイはそれからでも遅くはないでしょう?」
ケトルが低い音を立て始めた。
そろそろ湯が沸いた。
弥生は三個並んだマグカップにインスタントコーヒーを入れ、その上からクリープ、そして角砂糖を放り込む。弟のカップには一つ。妹は二つ。そして自分のコーヒーには三つ。その上から熱湯を注ぎ込んだ。
そして、最後に白い錠剤を取り出すと、冬馬のカップにだけ、それを数錠落とした。
――それは、かつて彼女が七万円で購入した洗脳用の導入剤であった。
これは賭けだった。
コーヒーを入れてくると言って、キッチンへ行こうとする弥生を、葉月は、姉が何を言っているのか分からないという顔をして見送っていたが、当事者たる冬馬の意識が目覚めてしまった以上、説明をしている暇もない。
弥生には確信があったのだ。
冬馬の精神状態を、芹沢家から現在に回帰させるためには、もはやこの薬を使用するしかないと。
かつて弥生は、通販でこっそり買ったこの薬物を使って、冬馬に自分への愛情を人為的に植え付けようとしたことがある。
結果から言えば、その目的は失敗した。
薬を一服盛られた翌日からも、冬馬が弥生に対して何ら態度を変えることはなかったからだ。だが、それは、この薬が単なる失敗商品だったことを意味するのかと言えば、それは違う。
その場に於いては、弟は姉のマインドコントロールの通り命令に従い、彼女の股間に舌で奉仕させることに成功していたからだ。
いま考えれば、その時点で弟が精神退行を起こしても仕方ない程の、危険極まりない行為だったと弥生は慄然とするが、しかしその事実は、このドラッグがただのボッタクリでなかった事を歴然と証明している。
千夏も言っていたではないか。冬馬を回復させるためには、むしろ柊木家の記憶を喚起させよと。
――つまり、弥生には成算があった。
「ねえ冬馬くん、コーヒーのお味はどう?」
「……はい……とても……おいしいです……」
冬馬は明らかに眠気をこらえている。
大したものだ。もう効き始めた。
(さすがにマニュアルの倍以上の量を投与したら、こうなるか)
あまりにあからさまな兄の異変に、不審げな表情を見せる葉月を放置して、弥生はほくそ笑んだ。
以前、この薬を使った時は、効果が現れるまで20分近くかかったが、いまはもう、二口三口カップに口をつけただけで、冬馬が舟を漕ぎ始めたのだ。
だが、安心するのはまだ早い。
むしろ本番はこれからなのだから。
「冬馬くん、私の声が聞こえたら、はいと返事してください」
「……はい」
「いま、あなたはどこにいるの?」
「……おうちです……」
「おうち?」
「……ぼくの……せりざわとうまの……うちです」
「そう。で、冬馬くんは今、お幾つになったのかな?」
「……ことしのたんじょうびで……きゅうさいになりました……」
269 傷 (その11) sage 2009/01/27(火) 06:04:42 ID:nYGyqu3v
「姉さん、これは?」
さすがに葉月ももう黙ってはいられなくなったのだろう。
だが、それを説明する時間は弥生にはない。
冬馬の意識は、薬の効果のおかげで半ばトランス状態にあるとはいえ、完全な忘我の境地に在るわけではない。余計な会話を挟めば、それは当然彼の耳に入り、冬馬の催眠を妨げる雑音と化してしまう。
弥生は妹に目で合図する。
詳細は後で説明してあげるから、とりあえず今は静かにしなさいと。
「では冬馬くん、私が手を一つ叩けば、あなたは一つ歳を取ります。いいわね?」
ぱん。
ぱん。
ぱん。
「さて冬馬くん、あなたはいま何歳になったの?」
「……12歳……です」
「で、いまどこにいるの?」
「……せいわえんとかいう……孤児院、です……」
(孤児院?)
弥生はその言葉に疑問に持ったが、しかし即座にその問いは氷解した。
今から4年前、当時12歳だった彼らは、芹沢孝之夫妻の逮捕によってようやく解放され、育児施設に保護されていたはずだ。その一年後に柊木家の両親が彼を“発見”するまでは。
納得した弥生はふたたび手を打った。
「また一年経ったわ。ここはどこかしら?」
「……ここは」
「ここは?」
「ここは……柊木という家です……おれの三度目の里親の……」
冬馬の言葉遣いが変わった。
心なしか表情も先程より大人びている気がする。
(うまく行ってる。ここまでは)
弥生は合格発表を見るような心持ちで、いよいよ最後の指示を弟に出した。
「さて冬馬くん、あなたはこれから、あと二年歳を取るわ。そして顔を上げて私を見た瞬間、すべてを思い出すの。いい、わかった?」
ぱん。
ぱん。
弥生は息を飲んだ。
葉月も固唾を飲んだ。
そして、冬馬がゆっくり顔を上げた。その瞳に年齢相応の知性の輝きが戻る。
「……あれ、姉さん?」
その瞬間、弥生と葉月は、弾かれたように冬馬に抱きついていた。
無論、下心の為せる業ではない。
歓喜と安堵が、二人に取らせた行動であった。
柊木冬馬は、こうして帰還した。
最終更新:2009年01月29日 20:46