言霊 第1話

756 言霊(1/11) sage 2009/02/15(日) 11:50:54 ID:mo+g9gVw




 しとしとと雨が降っていた。暗雲立ち込める空からは、無数の水滴が地表に吸い込まれていく。
 そこかしこに張った水溜りは、降り止まぬ雨粒に穿たれながら、ただ見ているだけでは気づかぬほどにゆっくりと、
だが確実にその領域を広げている。
 それは、まるで日々を生きるヒトの想いのように。
 ヒトはなかなか気づかない。今日自分が抱いている感情が、昨日と同じモノなのか。明日の思考は、
今日のそれと変わらないのか。あるいは、変化しているなら、それは如何ほどか。

 喜悦。憤怒。悲哀。情愛。憎悪。

 水溜りも、ヒトの想いも、ある瞬間をふたつ切り出してみれば、なるほど変わっていると判るかもしれない。
 あるときにはなかった水面が、雨が降ったあとには確かに存在している。一年前は存在すら知らなかった人物を、
今日現在は愛していると言い切れる場合もあろう。さらには三年あとにはその愛情は冷めているかもしれない。
 だが、その想いはいつからあるのか。今日抱く愛と、明日のそれに差分はあるのか。情が冷める一日前は、
今日と同じだけあると言えるのか。
 ヒトの想いは、日々変化しているかもしれないし、単純に増えるだけのものでもなければ、減るだけでもない。

 しかし、その男は問われれば、確信をもって断言したであろう。
 自分のもつ憎しみは変わらない。ある女に向ける憎悪は一年前も十年前も同じである。もし感情を測る物差しがあるなら、
それは常に一分も違わない値をはじき出すだろう。
 雨が止んだら徐々に消えていく水溜りとは異なるはずである。男は冷めた視線で、そのだだ広い空間をねめつける。
 男が見つめるは、ヒトの世でいう学舎と呼ばれる施設。社会の縮図を取り込む一種の閉鎖空間だ。
 男が傘もささずに佇む場所は、その境界である。無機質な校門という人工設備に区切られた、その狭間。
 一歩踏み出せば、否が応でも自らが『敵』と認識する女との対峙は避けられない。否。避けられない、という表現は適切でない。
男は自ら望んで、向かい合うのである。そこに乗り込むのである。

 その女は、いまとなってはこの世でただひとり男と血を分けた存在である。
 彼が憎んで止まないその相手は、彼と同じ血を継いでいる。
 人の世にて悠久ともいえる果てない時を胡乱に生き、関わりあうおよそすべてのヒトに不幸を撒き散らす。
 存在するだけで、幾多のヒトを地獄へ落とし込む、ヒトを模した人非人。
 男はもう正確にいつからその敵と向かい合ってきたのか、はっきりとは覚えていない。それでも彼の憎悪は揺るがない。
 男の名は、東条夕霧(とうじょう ゆうき)。たったひとりの姉である東条葵(とうじょう あおい)を討つためだけに、
生きている。
 それこそが、彼の存在意義なのだから――。






757 言霊(2/11) sage 2009/02/15(日) 11:53:46 ID:mo+g9gVw

          *  *  *  *  *  




 そこは片田舎町にある小高い丘を切り開いて建てられた学校。周辺地域含めて高校はそこ一校であったため、
その地元で高校に上がろうと思ったら、毎日の軽い山登りに不平不満を洩らしながらも、そこへ通うことを強いられる。
 田舎特有の閉鎖的な空気漂う地域において、その高校の地元出身者の割合は九割を超える。
 残りの一割未満は、その町に工場と研究所設備を構える大手製薬会社の関係者がほとんどだ。
 だから、そんな環境で転校生が紹介されるのは極稀とまではいかなかったが、やはり外部からの闖入者は、
殊更奇異の目をもって迎えられる。

 良く晴れて乾いた涼気の漂う、ある十月の朝。
 周囲の牧歌的な環境に対して不釣合いな近代的な校舎を持つ、藤裏葉(ふじうらば)高校一年A組の教室にて。
 東条夕霧は、担任である椎本(しいもと)教諭に、一年A組にこれから新たに加わるクラスメイトとして紹介されていた。
 椎本教諭は、上下濃い茶褐色のスーツに身を包み、胸元にのぞく淡い黄のシャツとベージュのネクタイが映える秋色めいた装いで、
長身痩躯に縁なしの眼鏡が、初対面の夕霧には少し神経質の印象を与える人物だった。
 それはあくまで見た目だけから夕霧が得たイメージであり、実際話してみると、
それとはかけ離れた性格であることが判ったのだが。

「はい。おまえら、静かにしろよー。昨日のホームルームで話をしてた、転入生だ。
 野郎ども残念だったな。転校生も野郎だ。さらに倍率ドンで、男前だ。
 昨日の段階で判っちゃいたが、おまえらのその落胆する顔が見たくて黙ってたセンセーに
 感謝しろよ」
「うわ。さすが、椎もっちゃん。そのおよそセンセーとは思えない底意地の悪さに、
 俺らもうメロメロすっよ」
 教壇に立つ椎本教諭に向かって、これまたおよそ教師に対する発言とは思えない声を上げる男子生徒。

「黙れよ。坊主。馴れ馴れしいぞ。きちんとセンセーと呼べ。
 こんな時期にこんなクソ田舎に飛ばされてきた転校生なんだから、
 おまえら、暖かく迎えてやれよ」
「はーい。椎もっちゃん。センセーをまさに反面教師として、暖かく迎えてあげマース!」
 先ほどとは別の男子生徒が、そう調子のいい返事を投げると、教室内に笑い声が広がる。
 そんなやり取りは彼らの間でいつものありふれたことなのだろう。室内に漂う雰囲気に違和感はない。
「いいから、黙れっつってんだよ。クソジャリ。いいか、俺の給料下がるような真似をしたら、
 『追い込む』からな。守るもんのない独身なめんなっつーの!」
「きゃー。椎様。今日も、シビれるー!」
 頭髪を茶色に染め、高校生にしては多少目立つほどの化粧をした女生徒が、そう甲高い声をあげると、
再び教室がくすくすと笑いに包まれる。
 それは決して嘲笑の意味だけではない。一般の教師と生徒たちの間とは、ある種異なる関係が椎本教諭
とそのクラスの生徒たちの間に築かれているのだろう。

「はいはい。お遊戯の時間はおしまいだ。おい、東条、入ってきていいぞ」
 椎本教諭が開け放たれていた教室の入り口に声をかけると、入るタイミングを伺っていた東条夕霧が、
はい、と返事をし、一歩一歩ゆっくりと教室内に足を進め、教壇脇の椎本教諭の隣に立つ。
「さて。じゃあ、東条、自己紹介してくれるか」
 そう言うと、身を翻し、東条夕霧の名を黒板に書き始める椎本教諭。
「あ。はい。あの、みなさん。はじめまして。東条夕霧と申します。その、親の都合で、
 こんな時期ではありますが、これからお世話になります。よろしくお願いいたします」
 夕霧は、あらかじめ用意している理由を付け加えて、頭を垂れて挨拶をする。



758 言霊(3/11) sage 2009/02/15(日) 11:56:17 ID:mo+g9gVw

 それきり夕霧が言葉を続ける気配を感じ取れなかったためか、椎本教諭が彼に問う。
「ん? なんだ。自己紹介それだけか?」
「えっ? ええ……。あの、他になにを言いましょう?」
「いや。別に好きなこと言やぁいいし、言いたくなければ、わざわざ言うことないだろ? 
 東条の好きにしていいぞ」
「はぁ……」
 夕霧は少し困惑した。自由に振舞え、と言われれば、逆になにをしたらいいか困るものだ。

「はいはいっ! あたし、しっつもーん!」
 元気良く手を上げ、夕霧から見て教室の窓際奥からアピールするのは、先ほど椎本教諭に向かって黄色い声をあげた女生徒だ。
 そんな彼女に対して、自分が許可を出していいものかどうか迷ったが、特に椎本教諭が反応を返さないので、
夕霧はその女生徒を促す。
「あ、じゃあ、はい。どうぞ」
「はーい! 東条夕霧くんは彼女いますかー?」
「え……?」
 いきなりのプライベートな質問に対して、夕霧が面を喰らっていると、椎本教諭が発言する。
「はいダメ。却下。つまんねー。ありきたり。なんの捻りも面白みもねーだろ。
 ちったぁ、帽子載せる以外のことにその軽い頭使えよ。おまけにセクハラ。
 おまえは来世で質問することを許可します」
「うーわ。ひっでー。じゃあ、俺から。椎もっちゃんは、彼女いますかー?」
 その男子生徒の質問に、椎本教諭のこめかみが僅かにぴくついた、ように、夕霧には見えた。
「なあ、クソガキよ。おまえ、学校ってなにを学ぶために存在すると思うよ? 
 おまえらのそのつるつるでちっぽけでスカスカの脳みその中に、
 だだ洩れすることが判ってて教科書の中身を流し込むことだと思うか? 
 そんだったら、おまえら家でひとりでモニタ画面越しにでもしこしこお勉強してればそれでいいわけだ。
 それを、なんでこんな場所を用意し、集団を形成して教育していると思う? 
 いいか、社会がおまえらから少しでも搾取しやすくするよう、おまえらを鍛えるのが学校だ。
 社会の縮図なんだよ。立場上目上の人間に嫌われただけで、理不尽な憂き目を見るのが、
 おまえらがこれから飛び出す社会だ。そんななかにおまえらが入り込めるよう訓練するのが学校だ。
 だから、おまえらの数学の成績が不当に下がってたり、訳もなく内申点が落ちてたりしたら、
 それはおまえらの教育の一環だ。よかったな坊主。おまえは今日、またひとつ社会を学んだぞ」
「ちょ、ちょー、まじっすか。センセー。単なる生徒の可愛いお茶目じゃないですか。
 大人げないっすよー」
「まじっすよ。クソガキ。単なる教師の可愛い愛のムチじゃないっすか。
 おまえみたいに都合のいいときだけコドモになる輩は、十年後に俺に感謝することに
 なるだろうから、あえて心を鬼にします」
「うえー。マジ鬼だし」
 そう低い声で唸る生徒も、言葉とは裏腹に真剣には受け取っていない表情をしている。
 おそらく、判っているのだろう。椎本教諭は言葉遣いは綺麗じゃないし、吐く中身も教師としてそれはどうなの、
という部分もあるが、生徒との間にある種の信頼関係が存在しているようにみえる。
人によって好き嫌いはあると思うが、彼は彼なりの教師としてのスタンスを貫いているのだろう、
やり取りを傍観しながら夕霧にはそう思えた。

「あの……」
 会話の合間を見計らって、夕霧が椎本教諭に声をかけようとすると、
彼はそういえば、とばかりに一旦咳払いをして仕切りなおし、
「さて。転校生。自己紹介は以上でいいか? 生意気ながきんちょどもだが、
 仲良くしてやってくれ。それと、原則、俺は民事不介入なんで、
 厄介事はなるべく自分で対処するように。生徒の自主性を重んじるのが俺のポリシーだ。
 なにか質問は?」
 夕霧の目を見ながら、その肩を軽く叩く。



759 言霊(4/11) sage 2009/02/15(日) 11:59:32 ID:mo+g9gVw

「はーい! センセー。モノは言いようって言葉、どう思います?」
 先ほどの生徒が、懲りずにまた口を挟む。
「おまえには、難しすぎて使いこなせない言葉だと思うな」
「じゃあ、職務放棄は?」
「おまえがその言葉を漢字で書けたら説明してやろう」
「なら、内部告発は?」
「おまえがそんな語句を知ってることに驚きだ。言っとくが外来語じゃないからな。
 それと、そんな単語を記憶しておくのに、おまえの脳のメモリ8バイトも消費して大丈夫か? 
 ただでさえリソース不足に悩まされてるんだろう」
「あはは。もうやめとけって。椎もっちゃんに、なにを言っても暖簾に腕押しだって。
 あっ! やっべー。俺、いま、難しい言葉使っちゃったよ」
 別の生徒がその会話を遮ると、朗笑が起きる。
「ああ。そうだな。今日は、おまえのママンに赤飯でも炊いてもらえ。
 じゃあ、東条、おまえの席は、あそこ。一番後ろの真中だ。
 意外に教師から良く見えるベストポジションを取っといてやったぞ」
 椎本教諭は教室の一番奥を指さす。
「あ。はい」
 返事をして自らに与えられた席に向かう夕霧。
 普通の高校にしては豪華といえる、ポストフォーム加工された事務机に、肘付きのオフィスチェアは、
その近代的な校舎にマッチしていた。

 夕霧が席について鞄を机のサイドに置くと、それを待ち構えていたのか、隣の席から小声で挨拶が投げかけられた。
「はじめまして。東条くん。あたし、賢木桐子(さかき きりこ)。よろしくね。
 あ、それとね、鞄はそこの机の脇に、かけるところがあるよ。あと、教科書とかは、
 その引出しを使えばいいと思うよ。あ、まだ、教科書とかもらってないのかな?」
 そう賢木桐子と名乗った女生徒は、肩まで届かないさっぱりとしたショートヘアで、小さな顔に大きな瞳が
くりくりと忙しなく動き、小動物のようなイメージを夕霧に与えた。
 初対面でもあまり物怖じしない人なのかな、と考えながら、夕霧は挨拶を返す。
「あ。うん。こちらこそよろしく。賢木さん。教科書は、まだもらってないんだ。
 だから、鞄の中身は空っぽ」
「あー、そうなんだ。じゃあ、あたしが見せてあげよっか?」
 賢木桐子は提案したが、ひとりひとりに用意されている机が気軽に引きずって動かせる代物ではないし、
机を寄せ合って見せてもらうといった芸当は難しそうだ。

「お! センセー、さっそく賢木のやつが、転校生と乳繰り合ってますよー!」
 先ほどから良く発言している男子生徒――二宮朋友(にのみや ほうゆう)――が、
話をしている夕霧と賢木を冷やかすように指す。
「あー、賢木ずるい! あたしが最初に目ぇつけてたのに!」
「ちっ、ちがうよ! そんなんじゃないよ! ただ、お隣さんだし、
 転校初日で心細いだろうから……」
 先刻夕霧に対して恋人の有無を質問した女生徒――市之瀬紅葉(いちのせ もみじ)――からの文句に、
慌てて賢木桐子が反論する。
 そのやりとりに朝の連絡事項をしていた椎本教諭は話を止め、眉をひそめる仕種をし、
「はん。がきんちょ同士の乳繰り合いなんぞどうでもいいだろ。
 二宮、そんなにあいつらが羨ましければ、おまえも乳繰り合えばいいだろ?
 市之瀬、おまえ相手してやれ」
「は? あたしが? 冗談はやめてくださいよ、椎様」
「二宮、時給五千円払ってやれ」
「おいおい、センセーが、そんなこと言っていいんすか? 
 ってか、こっちこそ五千円もらってもごめんだわ」
「こっちの台詞なんですけど? 二宮が相手とか、まじ、ありえないんだけど」
「こっちこそ、まじありえねーんですけど?」
「よかったな。お互い合意に至って。だが、その言葉づかいは苛つくからやめろ。
 『まじありえねー』とか、それこそ『まじありえねー』だ。
 もう少し学生らしく綺麗な言葉を使え。『まじありえねー』って言いたいときは、
 『心の底からその可能性に至ることが微塵も信じられません』と言え。いいな?」
「うえー、心の底からその可能性に至ることが微塵も信じられません(まじありえねー)」
 椎本教諭のその物言いに、皮肉をこめて棒読みで応える二宮朋友。



760 言霊(5/11) sage 2009/02/15(日) 12:02:46 ID:mo+g9gVw

「よし。じゃあ、朝のホームルームは終わり。それと東条、おまえの教科書類が今日午前中届くから、
 お昼休みか放課後にでも職員室に取りにきなさい。あと、賢木、乳繰り合うも他生の縁だ、
 あとで時間見て、この学校を東条に案内しといてやれ。いいな『学級委員』」
 それだけ言い残すと、椎本教諭は夕霧や賢木桐子の返事も聞かずに教室を出て行ってしまう。

「あ、あはは……。ごめんね東条くん。こんな賑やか過ぎるクラスで。びっくりした?」
「うん。でも、いままで何度か転校したことあるけど、ここまでのはなかなかなかったね。
 特に、先生が個性的だね」
「あ、あれでもね、結構生徒たちには人気あるんだよ。歯に衣着せぬっていうか、
 あんまり奇麗事とか建前とか、説教しないからって」
「ふうん。賢木さんは、あの先生苦手なの?」
 彼女の椎本教諭に対する評価が伝聞形であることから、夕霧は質問する。
「え? 苦手じゃないけど……うん。強烈だなーとは思うけどね」
 頬を掻きながら、若干言いにくそうな、照れくさそうな表情で述べる賢木桐子。
 そんなところで、夕霧の前に人影が立つ。
「おーおー。仲良くやっちゃってるねー。賢木ちゃんよー。いいのかな、
 愛しのおにーちゃんに言いつけちゃうよ? ブラコン一徹、兄貴一筋の賢木桐子が、
 転校生の男前に色目使ってたって」
 二宮朋友だ。両手をスラックスのポケットに突っ込みながら、やや首を傾け、
ふたりを見比べながら話し掛けてくる。
「もう。二宮くん。そんなんじゃないって言ってるでしょ。あたしは、学級委員でもあるし、
 転校生にできるだけ早くクラスに溶け込んでもらおうと思ってるわけ!」
「どうだか。愛しの賢木先輩が、彼女できそうな気配だから、当てつけにってんじゃないの?」
「な、な、な! なに言ってるの! 大体、おにいちゃんに彼女できそうだとか、
 そんな話、あたし知らないもん! そりゃ、おにいちゃんは、女の娘にもてるけど……」
「ほうほう」
 顔をにやつかせる二宮朋友。

 ふたりの話からどうやら賢木桐子には兄がいて、二宮朋友が『賢木先輩』と呼んでいることから、
同じ学校に通っているのだろう、と考える夕霧。
 さらには、程度の度合いは判らないが、賢木桐子は、兄に対して親愛の情を抱いているようだ。
この年頃の女の娘にしては、そこまでストレートに兄妹に対してそのような感情を表すのは珍しい。
 二宮朋友は、態々それを持ち出して賢木桐子に構うところを見ると、もしかしたら、
彼女に対して気でもあるのかもしれない。
 さきほども、自分と賢木桐子が話しているところで、茶々を入れる形で遮っていた。
 そこまで考えて、夕霧は頭を振る。
 よくない癖だ。ヒトの想いを推し量って、把握しようとするのは。そう戒めを込めて。

「あの、二宮くん、かな? さっき、挨拶はしたけど、東条夕霧、
 これから同じクラスメートとして、よろしくね」
 気を取り直した夕霧は、席から立ち上がると、二宮朋友に握手を求めて手を差し出し、挨拶をする。
「あーん?」
 差し出された手を、彼はすぐにはとらない。
「おいおい。おめーは来たばっかりだから知らねーかもしんねーが、
 おめー、俺に気軽に挨拶できると思ってんの?」
 そう言って、自分よりわずかに身長の高い夕霧を下から睨みつけ、低い声で唸る。
 その態度を見て、夕霧は、思い直す。
(――おや。把握の仕方を間違えてたかな。ひょっとしたら、
 思ったより自尊心が強い性格なのかもしれない)
 朝のホームルームでの発言から、彼の性質をある程度推測しようとしていたが、
どうやら外れていたのかもしれない。
 しかし、特段これといって夕霧には、驚きではなかった。
 むしろ、最初の想定とは違っていたかもしれないが、もっと大局からいえば、ある意味想定内だ。



761 言霊(6/11) sage 2009/02/15(日) 12:05:13 ID:mo+g9gVw

 そう考えて、彼に対する態度を改めようとした瞬間、その差し出した手を彼に引っ張られる。
 そのまま、二宮朋友に寄せられる形で、空いたほうの手で肩を抱き込まれる。
「なーんてね。嘘うそ。あれ? びびっちゃった? ちょっとしたお茶目よ? 
 俺は、二宮朋友な。ふたつのお宮に、つきふたつ友。よろしくな!」
 一転破顔すると、さきほどとはうってかわって朗らかな声で、夕霧の肩をバンバンと叩く。
 そんな二宮朋友の様子に、少し呆れ気味で溜息をつく賢木桐子。
「はぁ。もう、二宮くん。転校生にそんな意地悪したらダメだよ」
「おいおい、人聞きの悪いやつだな。意地悪じゃねーっつーの。緊張をほぐすには、
 一度思いっきりピンと張ってから緩めたほうが、効果があんだよ」
「へえ」
 感心する夕霧。
 なにもかもが初めてである転校生の緊張をほぐしてあげようと、彼なりに考えての態度だと、
二宮朋友は言っているのだ。
 実際のやり方はともかく、その根拠となる論理については、夕霧にとって、大いに賛同するところであった。

 あくまでやり方のひとつではあるが、まったく見えない恐怖に対して一歩一歩あゆみを進めさせて
なにもないことを確認させるよりは、目に見える形で判りやすい恐怖を与えて、
それが実は枯れ尾花だと明かすほうが、人の安心の度合いは大きい。
 恐怖を一点に集中させ、その集中したものを一度に取り払えるからだ。
 そういう意味では、賢木桐子のアプローチはどちらかというと前者のほうであろう。

「賢木のほうこそ、東条に壁作ってんじゃねーの? 転校生、転校生呼んじゃってさ。
 こいつには東条ヒデキっつう立派な名前があんだろ?」
「あの? 名前間違ってるよ?」
 自分が責められているにも関わらず、賢木桐子は冷静に間違いを指摘する。
「ばっか。おまえ、話逸らしてんじゃねーよ。東条じゃなくて、西条だとか、
 そんな細かいことはどーでもいいんだよ」
「え? そっちなの?」
「いいから! いまは、おまえが、西条ヒデキのことを、転校生とか呼んで、
 余所余所しいことが問題なんだろ! なあ、どう思うよ? 西条」
「うん。芸能人だと思うよ」
 これまた、夕霧も冷静に返事をする。
「あはは。東条くんって、ノリいいんだね。なんか、
 見た目からもっとクールな人かと思ってたよ」
「ばっか、俺のおかげだっつーの。俺の先制パンチが、こいつの緊張で凝り固まった筋肉を、
 インドメタシンばりにほぐしてやったっつーの! エレキバンもびっくりの驚きの効果だっつーの!
 感謝しろよ転校生」
「あれ? 格下げ?」
「あはは」
 賢木桐子の陽気な笑い。
 一限目までのわずかな時間は、賢木桐子と二宮朋友とのやり取りであっという間に過ぎていった。







762 言霊(7/11) sage 2009/02/15(日) 12:07:28 ID:mo+g9gVw

          *  *  *  *  *  




 その日の昼休み。四限目の終了を知らせるチャイムが鳴り、学級委員である賢木桐子の号令とともに授業が終了すると、
一年A組の生徒たちは思い思いに昼食を買いに席を立ったり、集団で椅子を持ち寄ってひとつの机の上で弁当を広げていたりする。
 夕霧が朝に椎本教諭から言われたとおり、配布物を取りにいこうかと思い立った、そのとき。
 隣の賢木桐子から声がかかる。
「あ、ねえ。東条くん。お昼、時間あるかな? 朝、椎本先生が言ってたけど、
 この学校の売店とか食堂とか、特別教室とかひととおり案内しようと思うんだけど」
「あ、ああ。うん。俺は大丈夫だけど、賢木さんは? お昼とかとらなくていいの?」
 教科書類の受取は、別に後でも構わないかと思い直し、夕霧は賢木桐子に質問する。
「東条くんはお弁当?」
「あ、いや。なにか、売店ででも買おうかな、と」
「じゃあ、なおさら、先に売店とか学食を案内してあげたほうがいいよね。
 ひとつひとつじっくり回るわけじゃなし、多分そんな時間かからないと思うから」
 だから、自分も案内が終わってから昼食をとる、というニュアンスの賢木桐子。

「うん。じゃあ、お願いしようかな」
 そう夕霧が頷いたところで、二宮朋友が再び夕霧のところへやってきて、元気良く声をあげる。
「おい。東条、一緒に飯食おうぜ。なに、おまえの歓迎の意味も込めて、
 財布の中身全部奢らせたりしねーって。小銭ぐらいは残してやるから行こうぜ!」
「そんなこと言われて、一緒に行く人なんていないよ?」
「あ? また、おまえか、賢木。女、とくに、おにいちゃん好き好き大好きSSDっ娘は、
 お呼びじゃないぞ? 男同士でしか、語れないこともあるっつーもんだ。
 四六時中おまえが引っ付いていたら、東条も溜まったもんが吐き出せねえだろ?」
「ちょ、ちょっと、いやらしい言い方しないでよ」
「なにがよ?」
「その、お、おにいちゃん好き好き、なんとかって」
「お。なんだ、やっぱりそっちに反応するわけか。まあいい、つーわけで、
 おまえは愛しのおにいちゃんのところにでも行って、周りの女どもを牽制してこい。
 さあ、東条行こうぜ」
 そう言って、東条の手を引き連れ出そうとする。そんな二宮朋友を、賢木桐子が慌てて呼び止める。
「あ、ちょ、ちょっと。じゃあ、二宮くんが代わりに案内してくれるの?」
「ん? なによ、案内って? 一名様五千円ぽっきりでごあんなーいの案内か?」
「訳わかんないよ! ちがくて、売店とか、学校内の案内だよ」
「んなもん、毎日生活してるうちに覚えてくだろ。俺たちだって、入った頃、
 一斉にぞろぞろといろいろ案内されたけど、翌日には売店と、女子更衣室と、
 保健室のおねーちゃんの黒いストッキングしか覚えてなかったつーの。意味ねーよ。
 ……いや、まて、意味あるか! よし、東条、俺に任せとけ。
 とっておきのスポットに案内してやるから。だいじょぶだいじょぶ。
 チャージ料はいっさいかからねーから。お愛想って言ったとたん、
 数十万の伝票もって来られたりしないから!」
「ちょ、ちょっと! そんなこと言われたら、なおさら、任せらんないよ!
 先生に言われてるんだから!」
「かー! 普段、兄貴と爛れたインモラルな生活を送ってるくせに、お堅いやっちゃな」
「でたらめで、人聞きの悪いこといわないでよ!」
 二宮朋友のからかいに、賢木桐子はムキになって反論する。



763 言霊(8/11) sage 2009/02/15(日) 12:09:49 ID:mo+g9gVw

「まったく、相変わらず、二宮は阿保な会話してんのね。
 夕霧くん、あんま、そいつと仲良くしないほうがいいよ」
 そうふたりの会話に入って来る影。朝の夕霧の自己紹介のときに、彼に質問をし、
椎本教諭ににべもなく切り捨てられた市之瀬紅葉だ。
 赤みがかった茶色に染め、肩までかかるほどに伸ばした髪は毛先が内側に巻かれている。
目元や唇、爪先などを見ても高校生としてはややもすると過剰なほど気を遣っているのが見て取れる。
 彼女は、高校生にしては充分すぎるほどいろいろと自分の外見を『飾って』いるが、
果たして、見た目から受ける印象どおりの人物なのか、それとも、もう少し複雑なのかは、
現時点では夕霧には推測がつかなかった。
 言動を『飾って』いるのかどうかを判断するには、情報が全然ない状態だ。

 彼女は、肩にかかる髪を払う仕種をすると、夕霧に向かって挨拶をする。
「今朝はどーも。あたしは、市之瀬紅葉。よろしくね。あたしのことは紅葉で良いから」
「ああ。うん。よろしく。市之瀬さん」
「…………」
「ははっ、あしらわれてやんの。っつか、おめー、なにしゃしゃり出てきてくれちゃってるわけ? 
 しかも、シナ作って気持ちわりーっての! いつもみたく『ぬぉれが市之瀬紅葉じゃあぁぁっ! 
 文句あるやつぁ、歯を食いしばって一歩前へ出やがれぇぇっ!』ぐらい、言ったらどうよ」
 足をドンと踏みしめて、教室中に響き渡るぐらいの叫びをあげる二宮朋友をさらっと無視すると、
市之瀬紅葉は夕霧に話し掛ける。
「夕霧くん、こいつとは関わらないほうがいいよ? 夕霧くんは知らないかもしれないけど、
 阿保って伝染するから」
 賢木桐子はというと、困惑したような視線を、市之瀬紅葉と二宮朋友の間で往復させていた。

「てめー上等じゃん。アバズレはほっといて、さっさと行こうぜ、東条」
「ねえ。夕霧くん。腐った蜜柑の論理によると、箱の中の蜜柑が腐り始めるのは、
 腐った蜜柑に接しているそれからみたいよ?」
「じゃあ、なおさら、市之瀬が東条に接しないようにしないとな。てか、おめー、
 なに東条のこと馴れ馴れしく呼んでんだよ? 『市之瀬さん』」
「ぐ……。あんたには関係ないでしょ」
「いや、関係あるね。ビッチェストの異名をとるおまえから、大事な友達を守んねーとな」
「は? なによ、ビッチェストって?」
「英語の判んねーおまえには、理解できないだろうが、最上級のビッチって意味だよ。
 ビッチの意味は、家に帰ってマミーに教えてもらうんだな。ヤンキーゴーホーム!」
「不思議ね。あんたに言われても全然悔しくなのは、なぜ?」
「は! 惚れんなよ。気持ちわりぃ」
「ああ。判った。サルの雄たけびに、本気で怒る『人間』はいないもんね」
「てめー、サルをなめんなよ。やつら厳しい階級社会を生き抜いてるんだぞ?
 『人間様』ごときに、サル社会を生き抜けるわけねー」
「へー。ムキになって怒るかと思ったら、人語を解するとは、驚きじゃん」
「ちょっと、ちょっとふたりとも、そんなことやってたら、お昼終わっちゃうよ?」
 実際にふたりが言いあっているのは、数分足らずであるが、このままほっとくと終わる気配の見えないのを感じ取ったのか、
賢木桐子が割って入る。



764 言霊(9/11) sage 2009/02/15(日) 12:12:52 ID:mo+g9gVw

 夕霧としては、とくに市之瀬紅葉は初めてやり取りすることもあり、もう少しふたりの人間観察をしててもよかったかな、
と思ったが、特に反対する理由もないので、賢木桐子に同意し、この場を収束させようとする。
「あのさ、せっかく二宮くんに誘ってもらって悪いんだけど、やっぱり、まずは、
 賢木さんに案内してもらって良いかな? そのついでにお昼買ってくるし、
 そのあとでよければ、一緒に食べない?」
「なに? やっぱ、女か! 女が良いのか! だが、賢木は難度高いぞ。言うなれば、
 スペランカー先生がクッパ大魔王にさらわれたピーチ姫を助けに行くようなもんだぞ? 
 さらに、クッパとピーチが出来ちゃってる! ゲーム開始前にスペランカー先生は
 精神的ショックでお亡くなりになっちゃうんだぞ?」
「あら。女の娘がいいのなら、あたしでいいじゃん。賢木と違ってフリーだし、
 ほら、あたし、こう見えて尽くす系だし」
「ああ。確かにおまえは、奪い尽くす系だな。ってか、何々系とか言うな。
 まじありえ……心の底からその可能性に至ることが微塵も信じられません」
 妙に律儀な二宮朋友。
「は? 意味判んないし? ねえ、どう。夕霧くん」
「うん。ありがとう。だけど、賢木さんさえよければ、当初の予定通り、
 賢木さんに案内してもらって良いかな?」
「え……? あ、うん。あたしは良いけど……」
 機嫌を伺うような目線を、市之瀬紅葉にむける賢木桐子。
「ふーん。そっか、じゃあ、つぎは、あたしに付き合ってね」
 市之瀬紅葉は、賢木桐子の眼を気にするでもなく、にっこりと柔らかい表情を夕霧に見せると、
そうあっさりと引き下がる。
「うん」
 頷きながら、夕霧は市之瀬紅葉に関する人物像を更新していた。

 二宮朋友の言や、ここまで彼自身が見ている態度から、市之瀬紅葉はある程度男好きのするタイプで、
本人も望んで積極的に異性と交友をとる性格だろうという印象を受けていた。
 どんな人間もいろんな側面を持ち、それこそひと言で表せる人間はいないと判ってはいるが、
その人の行動や物言いからある程度の分析は可能だと夕霧は思っている。

 臆面もなくホームルームの教室内で転校生に質問することや、本音かどうかは判らないが自分の『気持ち』を外部に発露する言動、
ほぼ初対面の人間に対して堂々と自分を売り込める物言いを見ていると、自身の経験に基づいた自信に溢れるプライドの高い人間を
想定するが、断られるとあっさり引く面ももっている。
 それが、計算か、もともと執着しない性質か、あるいはそもそもの態度すら彼女にとっては演技のひとつにすぎず、
行動の結果得られるもの自体は求めていないのか。
 はたまたまったく別の根源かどうか、まだまったく測ることはできないが、接するほど、
そして話し合うほどその人物像が、だんだんはっきり見えてくることには違いない。

 人によっては真っ直ぐ一本道で、迷うことなく比較的容易に辿り着ける人もいれば、
複雑怪奇な迷路でなかなかゴールにたどり着けないどころか、こちらが進んでるつもりになっても、
実はより遠ざかってしまっていたという場合もあるかもしれない。
 それでも――夕霧自身がその性質を好ましいと思っていなくとも――夕霧は、
自然な習癖として接する人たちの心を測ろうとする。
 夕霧はそれが自分のもつ『能力』に基づいているないかと考えている。
 忌々しい能力ではあるが、『敵』と戦うには必要な能力。毒をもって毒を制す。
万一、誰かが『敵』の毒牙にかかった場合に、少しでも助けられる可能性を広げるため――。

 そんな内心を押し隠し、夕霧は賢木と一緒に教室を出る。
「おい、東条、早く戻ってきて、俺と一緒に飯食おうぜ」という二宮朋友に見送られながら。




765 言霊(10/11) sage 2009/02/15(日) 12:15:50 ID:mo+g9gVw

          *  *  *  *  *  



 それは、東条夕霧が、賢木桐子に連れられて、主に文化系の部室が存在する通称クラブ棟を案内されたときだった。
 新設校舎に相応しく――だが、この田舎町には不必要と思われる――電子ロックの操作盤が、クラブ棟入り口に設けられており、
賢木桐子が暗証番号を入力して解除すると、開かれた扉の向こうには、清潔感の漂う白い壁と、
窓から取り入れる柔らかい陽光に包まれた廊下が伸びていた。
 お昼休みにはこの棟を利用する生徒はほとんどいないのだろうか、土足で入ることを前提としたリノリウムの廊下には
人っ子ひとり見当たらず、静寂で穏やかな、しかし無機質な空間を醸し出している。

「ここはね、主に、文化系の部室があるのと、あとは、生徒会室とか一部の特殊教室も
 ここにあるんだよ。各部室ごとにも、指紋認証付きの電子ロックがあって、
 部に関係ない部外者は入れないようになってるの。無駄にハイテクでしょ? 
 こんな田舎町で、大したものがあるわけでもないのにね」
 そう笑いながら説明してくれる賢木桐子に、調子を合わせて夕霧が微笑もうとしたときだった。

「――あら。ご無沙汰かしらね。夕霧。ごきげんよう」

 背後からそう声をかけられた途端、夕霧の全思考が固まった。
 一瞬にして全身が総毛立つ。
 振り向く必要などなく、その人物が誰かなど考えるまでもない。
 むしろ思考が止まったのは、自分の防衛本能の成した業かと夕霧は思うくらいだ。

 彼の唯一の目的にして、敵である、東条葵、だ。

 果たして振り向いた彼の目に飛び込んできたのは、学校指定の制服である黒いセーラー服に身を包んだ長身の少女。
 その艶やかに黒く長い髪は、腰の辺りまで伸びて切り揃えられ、切れ長の瞳は眼光の鋭さを印象付けるが、
どこか物憂げで怠惰な雰囲気を纏う。
 すっと通った鼻筋に、やや細身だが色白で端正な輪郭は、大抵の人間が美人と表する容姿であろう。
 彼女の肌の白さが、黒い制服とロングヘアでより一層際立っている。
 東条葵は、白く細い指先で、自分の長い髪を梳くと、もう一度夕霧に向かって挨拶をする。

「ごきげんよう。夕霧。久方ぶりね」
「…………」

 夕霧はなにも返せない。
 鼓動が早鐘をつくのを感じる。手のひらに汗が滲む。
 なんてヒトらしい反応だろうなどと自嘲する余裕は、いまの夕霧にはない。
 彼のいまの思考は、葵の声が耳に飛び込んできたときから憎悪で埋め尽くされている。
 判っていた。判っていたはずである。もともと、この眼前の人間を標的に、ここに乗り込んできたのである。
 当然転校初日から顔を合わせる可能性が高いことなど、東条葵という人物像を考えるまでもなく、火を見るより明らかである。
 それでも、夕霧は対応ができなかった。
 どれほど憎んできたか、どれほどその存在を消したいと思ってきたか。
 自らのすべてを賭けてでも、この存在を抹消することこそが、己の使命だと自覚していた。
 むしろ強すぎる想いが、夕霧を縛り付けてしまったのかもしれない。執着のしすぎが、彼の弱点かもしれない。
 だが、この憎悪は理性で抑えつけられるような代物ではない。
 それがなくなれば、彼の存在意義の崩壊なのだから。



766 言霊(11/11) sage 2009/02/15(日) 12:18:34 ID:mo+g9gVw

 なにも返事をしない夕霧を不審に思ったか、フォローをしてあげるつもりなのか、
挨拶を投げかけてきた葵に対して、賢木桐子が応じる。
「こんにちは。東条先輩。東条くんとお知りあいだったんですか……って、あれ、
 そういえば、同じ名字ですね? ん? あれ? 別に姉弟とかじゃ、ないですよね?」
「あら? あなたは?」
 葵が、賢木桐子に向かって誰何する。
 つまり、そういう関係なのだ。いや、そういう位置なのだ、いまここにいる東条葵という人物は。
 後輩に名が知れ渡っているほど、この学校では有名な人物なのである。
「あ。はい。あたし、今日転校して来た東条くんと同じクラスの――」
 名乗ろうとした賢木桐子に対して、夕霧は立ちふさがると、それを止めるかのごとく言葉を発する。
「久しぶりですね。……姉さん
 そんな夕霧の態度を別段気に留めるでもない葵は、あっさりと賢木桐子に向けていた視線を彼に戻す。
「ふふ。そうね。また会えて嬉しいわ、夕霧」
「えっ? あれ……? えっ!?」
 そう言葉を交わすふたりに対して賢木桐子混乱した。
「あら。戸惑うのも無理ないでしょうね。貴方の想像どおり、私たちは姉弟。
 血の繋がった姉と弟、よ」
「え? あれ? でも、なんで……?」
 片や自分の入学のときからこの学校に存在する葵と、『親の都合』といって今日転校して来た夕霧が、
賢木桐子のなかで整合性がとれないのであろう。
 そんな彼女に対して、葵は穏やかに微笑みかける。
 それは見る人が見れば、佳麗や妖艶といった印象を受けるのかもしれないが、
夕霧には、獲物を弄ぶ醜悪な笑みにしか見えなかった。
「御免なさいね。親の都合で、ちょっと特殊な事情があるのよ。これ以上は、夕霧が伝えない以上、
 私の口からは言えないの。ご容赦いただけるかしら」
「あっ! す、すみません。あたしの方こそ、立ち入ったことを……!」

 違う。賢木桐子はなにも聞いていない。葵が、彼女の心内を先回りして、勝手に応えただけだ。
 自分の背後で恐縮して頭を下げる賢木桐子に対して、夕霧はさらに葵に対する怒りを募らせる。

(そんな女に謝るな――! そんな女に感情を揺さぶられるな――!)

 これ以上、賢木桐子と一緒の場で、葵と対峙するのはまずいと悟った夕霧は、早急に引き上げようとする。
「姉さん、すまないけど、いま、彼女に学校を案内してもらってるんだ。
 それにこのあと約束もあるから。だから、これで……」
 そう言って、賢木桐子のほうへ踵を返すと、彼女とともにその場を離れようとした。
「え? でも、いいの……?」
「ああ」
 気を遣う仕種を見せる賢木桐子に対して、夕霧はそれだけ短く応える。
そして、「失礼します」と葵に断る彼女とともに歩き出す。
 夕霧のほうの足取りは、これまでになく重かったが。

 それでも、この邂逅を終わらせられることに、内心ほっと息をつこうとした。
 だから、背中に投げられたその葵の呟きともとれるひと言で、夕霧の心は再び凍りついた。


「ふふっ、まだ尚早――」

 人の心を揺さぶりたいのなら、一旦逆方向へ引いた後、一気に落とす――。




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最終更新:2009年02月15日 21:26
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