181 傷 (その15) sage 2009/04/06(月) 02:36:28 ID:DEMcr3+x
「ねえねえ冬馬くん、このゴハンおいしい? あなたが朝は少し固めのゴハンがいいって言ったから水加減を変えたんだよ?」
そう言いながら冬馬の背に抱きつく弥生。
もう慣れたのか、弟もそんな姉の様子に動じる事もなく、肩越しに弥生の頭をそっと撫でる。
「おいしいですよ
姉さん。やっぱ朝から食べる姉さんのめしは最高ですよ」
「うふふふ、嬉しい。すごく嬉しいわ冬馬くん」
背後から弟の耳に熱い息を吹きかけながら、弥生はさらに弟を抱き締める腕に力を込める。椅子の背もたれがなければ、自慢のバストの感触を、思う存分彼の背に味あわせてあげれるのに。――そう思いながら。
無論、そんな弥生に冷静でいられるのは冬馬だけだ。
「……弥生、あなたも早く食べちゃいなさい」
おそるおそるといった感じで母が弥生に口を開く。
そして長女は、弟とのスキンシップを妨げる発言をする母に、じろりと鋭い一瞥を投げかけ、しかし敢えて逆らう様子も見せず、冬馬の隣の席に腰を降ろす。
そんな弥生に、両親は露骨に安堵の溜め息を漏らした。
(お母さん、ごめんなさい)
胸の裡で弥生は詫びる。
だが、まだダメなのだ。
今はまだ、このキャラを崩すわけにはいかない。
気丈で、利発で、親の手のかからないしっかり者の長女という、両親の知る弥生はここにはいない。
受験前の情緒不安定から、弟の冬馬にべったりになる姉。
これがいま彼女が演じている弥生だ。
もっとも、家族は弥生という人間が受験のプレッシャーごときで情緒不安定になるようなタマではないと知っている。だからなおのこと、いまの弥生を奇異に感じられるはずだ。彼女が変わってしまった理由が、家族には思いつかないのだから。
それでいいのだ。
家族には、この不可解な弥生の変化についてもっともっと思い悩み、考え続けて欲しい。それこそが弥生の目的なのだから。
無論、永遠にこの病んだ自分を演じ続ける気は彼女にはさらさら無い。
受験が終了次第、プレッシャーから解放されたという態で、本来の彼女――理性的で沈着冷静な人格に徐々に戻していく予定ではある。
だから心の中で弥生は母に詫びたのだ。
だが、弥生からすれば、この人格豹変は無意味な遊びではない。
冬馬に依存する狂的な一面が弥生には在るという事実を、家族に知らしめておかねばならない、そう思わせねばならないと判断したからこその芝居なのだ。
いずれ冬馬との正式な交際を両親に認めさせるために――彼を得ようとする自分の行動を邪魔するならば何をするか分からない。何をしても不思議ではない。両親に、そう考えさせるために。
そういう意味では、受験というのは二十歳前の思春期の娘が悩乱するには格好の口実であろう。
妹の葉月は、そんな姉に一瞥を送るでもなくそっぽを向いて朝食を取っている。
彼女には、先日、自分の真意について話し終えたばかりだ。
この妹は、弥生が冬馬を共有してもいいと思う唯一の同志ではあるが、やはりいい顔はしなかった。
――ずるい。
それが葉月の言い分だった。
姉の弥生が悩乱を装って冬馬にべったりになる。それはいい。だが、自分はその間、兄の冬馬に甘える事が出来なくなるではないか、というのだ。
普段は姉以上に理知的な妹が、そんな事を言い出したことに、さすがの弥生も思わず苦笑を禁じ得なかったのだが、どうやらそれが葉月の癪に障ったらしく、
「勝手にすればいい」
と言い捨てると、葉月はぷいっと顔をそむけてしまった。それ以来、妹はずっと姉に冷ややかな態度を取り続けている。
まあ、弥生から直接話を聞くまで、葉月は葉月なりに姉の豹変を心配していたので、真相のあまりのバカバカしさに閉口したということもあるのであろう。
「兄さん、最近妙に疲れていませんか?」
182 傷 (その15) sage 2009/04/06(月) 02:38:11 ID:DEMcr3+x
葉月が、姉を敢えて無視するようにが吐いた怜悧な言葉に、弥生はどきりとした。
無論、姉から四六時中べったり張り付かれている彼としては、疲れを覚えていないはずが無いのだが、葉月が言いたいのはそういう事ではない。両親はともかく、冬馬はもはや弥生の豹変に対応し切っているからだ。
だから、葉月が言いたいのは、純然たる彼の体調についてだ。
確かに冬馬はここ数日というもの顔色が悪い。
腫れぼったい瞼と連発されるあくびは明らかに睡眠不足の兆候だし、足腰も微妙にふらついている。以前に比べて言葉も少なめだし、何より彼独特の溌剌とした雰囲気がすっかり消えてしまっている。
まるで徹夜を重ねる漫画家のようなくたびれ方だが――しかし、その形容はあるいは正しくは無いかも知れない。冬馬には締め切り寸前の焦燥感は微塵も無いのだから。
つまり――、
「わからねえ。最近はいつもこうなんだ。熱いシャワーを浴びても全然目が覚めた気がしないんだ。体に鉛が詰まってるような感覚が抜けないんだよ」
気だるげに、しかしかなり不思議そうに冬馬が答える。
冬馬が自分の不可解な疲労に首をひねるのも当然だ。催眠術によって意識をいじられている彼は、自分が弥生と情交を重ねている事実を知らないのだから。
が、しかし彼に疲労が蓄積しているのも当然だ。現在、彼がもう何日連続で自分と夜の営みを重ねているのか、弥生自身も指を折って数えねば咄嗟に答えられないくらいなのだ。
しかし“逢瀬”は常に弥生の部屋で行われているから、弟が自室に「事後の空気」を嗅ぐことは無いし、そもそも弥生は冬馬に、毎朝のシャワーを浴びる終わるまで明確に意識が覚醒しないよう刷り込んである。だから彼が自分の体臭から異変の正体に気付くことも無い。
だが……やはりそろそろ限界かも知れない。
自分が装っている依存キャラの小芝居とは違う。
弥生が冬馬と毎夜のように情を通じている事実を、いま家族に知られるわけには行かないのだ。それはたとえ、弥生が同志と認めている妹であっても例外は無い。知れば葉月といえど怒り狂って姉を敵視し始めるかも知れないのだから。
なにより冬馬自身が、無意識の自分を凌辱していた弥生を決して許さないだろう。
「冬馬、一度病院で診て貰った方がいいんじゃないか?」
父がそう言うと、冬馬も朝食を掻き込む箸を止め、笑った。
「大丈夫ですよ。食欲だってあるし病気じゃありませんって」
「しかし万が一という事もある」
「そうよ冬馬、母さんもその方がいいと思うわ」
だが冬馬は容易に頷かない。
「疲れが溜まっているだけです。何でもありませんよ」
「冬馬……」
弟が両親に逆らうのはハッキリ言って珍しい。両親はおろか姉の弥生にさえ、いまだに敬語を使う冬馬は、柊木家の家族に最大限の気を遣って生活しているからだ。
だがそれでも、この展開は予測できた事だった。
可能な限り他者に肌を見せる事を嫌う弟にとって、病院は間違いなく鬼門だったからだ。
そしてそれを知っている両親も、不満気な顔をしながらもそれ以上は言葉を重ねない。
「行ってきます」
そんな家族たちに、寂しげに笑って冬馬は席を立つ。
朝食はすでに、綺麗に彼の胃袋の中に消え失せてしまっていた。
授業中の図書室は静かなものだ。
問題集を一冊やり終えた弥生は、ノートを閉じるとシャーペンを置いて伸びをした。
伸びた背骨から、こきりという音が、意外に大きく周囲の静寂に響く。
彼女の隣席にいたクラスメートの女生徒が、こちらを見て眼鏡の奥で小さく笑う。
弥生も目だけで微笑を返し、頭を軽く掻きながら周囲を見回した。
周囲の者――といっても、室内を埋め尽くすほどの人垣があるわけではない。弥生たち以外にも数人、ちらほらと机に向かう生徒たちの姿が目に入るだけだ。彼らは別段、弥生が立てた音になど気付いた様子もなく、各々が机にかじりついて勉強している。
弥生は少しホッとした。
183 傷 (その15) sage 2009/04/06(月) 02:44:09 ID:DEMcr3+x
彼らは全員三年生。
本来、三年生の三学期にもなれば授業はすべて終了しているので、受験に勤しむ彼らは、もはや学校に用は無いはずの生徒たちであった。しかし、自由登校になったからといって三年生全員が一斉に学校に来なくなるわけではない。
今ここにいる生徒たちは、受験勉強用の自習室として図書室を使っているのだ。
同じ自習に励むならば自宅や予備校、公共の図書館でする方が落ち着くという者たちも多いだろう。だが、それと同様に、勉強とは学校でやる方が頭に入るという者たちも決して少なくは無い。
弥生と共にここにいる彼らは、殆どそういう者たちであると言えるだろう。
無論、弥生がそうであるということではない。
彼女は自宅であろうと学校であろうと、勉強の作業能率が変わるようなナイーブな性格はしていない。そんな彼女がここにいるのは、あくまでも弥生の意思からだ。この学校という空間に居ることの必要性を、弥生自身感じているからだ。
(いまごろ冬馬くんは……ちゃんと勉強しているかしら……?)
気付けば、また弟の事を考えている自分に内心苦笑し、弥生は終了した問題集をカバンにしまうと、新しい問題集を取り出した。
実は、弥生は己の現状にやや危機感を覚えていた。
冬馬の出現以降、弥生の生活はすべて彼を中心に回ってきたといっても過言ではない。
それは今も変わらない。現にいま、弥生は受験前の情緒不安定から弟にべったりな姉というキャラを演じている。だが、今の自分の人格が完全な虚偽であるとは言い切れなくなっているということに、最近になってようやく弥生は気付き始めていたのだ。
冬馬に甘え、冬馬に従い、常に冬馬の傍らに身を置く。
冬馬の体臭を嗅ぎ、冬馬の体温を感じ、冬馬に言葉をかけ、冬馬に声をかけてもらう。
――それによって精神を安堵させ、敵だらけの外界から身を守る。
そんなキャラは、後々の事を考えて始めた小芝居に過ぎないはずだったのに、どうやらそうではないらしい。自分には、どうやら本気で冬馬に依存したいと考えている一面が存在すると気付いた瞬間の恐怖は、まさしく弥生にとって筆舌に尽くしがたいものであった。
なぜなら、男に依存せねば生きてはいけない女など、弥生にとって唾棄の対象でしかないからだ。
たとえ現在の弥生が、そういう自分を演じているといえど、これは芝居で、嘘で、演技に過ぎない。――そう自分を納得させてはいた。
だが、もし“今の自分”がこれまで知り得なかった“本当の自分”であるとしたら。こんな弱い女こそが自分の本性であるとしたら。弟を支配し、管理し、思うがままに心服させたい。そう考えていたはずの自分の本音が、全くの真逆であったとしたなら。
(冗談じゃない……ッッ!!)
そんな自分を認められるほど、柊木弥生は己に寛容な女ではない。
弱い女の何が悪い?
そう開き直れる柔軟さを弥生は持っていない。
あるいはそれが、完璧超人と呼ばれた柊木弥生の限界であるかも知れなかった。
まあ、それはとにかく、自分の“弱さ”を図らずも意識した結果は、弥生に――彼女にとって意外な事に――両親の目が無い場所では冬馬から距離を取る、という行為を選択させたのだ。
弥生が自宅ではなく、学校の図書室を自習空間としたのも、そのためだ。
教室と図書室という空間は違えど、同じ学校の校舎内ではないかと突っ込まれそうだが、そうではない。
弥生の自室には、たとえ弟が学校にいようが、24時間フルタイムで監視できるだけの設備がある。だから、彼女にとって弟が自分を置いて登校してしまうのは、孤独でも何でもない。
無論、彼の姿を直に視界に納められない、身近に感じられないという寂寥感は在る。
かと言って、パソコンを起動しさえすれば、いつでも無警戒な弟の姿を、教室の防犯カメラを介して、好きなだけ覗き放題だという事実は、弥生に孤独を感じる暇を与えない。
だが、それは本来ならば冬馬を監視し管理するためのものであり、依存のためのシステムではない。
だからこそ――弥生は敢えて自室を後にして、ここにいるのだ。
184 傷 (その15) sage 2009/04/06(月) 02:46:14 ID:DEMcr3+x
無論、冬馬と互いの体温さえ感じるほどに密着して登校するのも心地良いものではある。
先代のカリスマ生徒会長として知られた柊木弥生が、弟と腕を組んで歩く姿に、周囲の一般生徒が投げかける驚愕の視線も、慣れれば決して不快なものではない。しかし、それを楽しむためだけに、わざわざ学校くんだりまで来たりはしない。
依存を演じていても、演技以上のものを自分の心から引っ張り出す気は弥生には無い。
自室でパソコンに張り付いて、弟の事だけを考えて時間を過ごす自分など、今の弥生にとっては恐怖の対象でしかない。だが、自室に篭もってしまえば、間違いなく冬馬の映像を前に時間を浪費してしまいそうな確実な予感が弥生にはある。
弥生とて鈍重ではない。
自分の変化が、内的なものではなく外的要因によってもたらされた変質であると気付いてはいる。
すなわち、冬馬との情事。
夜ごとに行われる、肉の交歓。
そこに彼の愛が無いことは承知の上だ。
ドラッグを利用して冬馬に仕掛けた後催眠暗示――不能であるはずの『柊木冬馬』を、かつて女殺しを謳われた男娼『芹沢冬馬』に戻す魔法――によって行われるセックスに、弟が持つ弥生への感情は何ら関与していない。
当然だろう。暗示に掛かった冬馬は、弥生を弥生として認識していないのだから。
だから、そこにあるのは純粋な肉の快楽のみであるかといえば、あながちそうではない。
たとえ、冬馬の心が弥生を見ていなくとも、弥生にとって冬馬は冬馬なのだ。どんな形にせよ彼が弥生にとっての想い人である事実は消しようが無いのだから。
それは、ただでさえ卓絶した『芹沢冬馬』のセックステクニックのもたらす快楽が、さらに弥生の感情移入によって二倍・三倍化する余地があったという事に他ならない。
まともな精神状態でなかったとしても、愛する男の手によって自らの性感帯を開発される感覚が、処女であった弥生の精神にどれほどの影響を与えたか計り知れない。
麻薬中毒患者がドラッグに溺れるように。
アルコール依存症患者が酒に溺れるように。
弥生が冬馬という存在に改めて溺れてしまったのは必然といえるだろう。
そして、彼によって刻み込まれてしまった女体の悦びが、弥生をか弱い女に変えてしまったのだ。
ならば、対処法は簡単だ。
彼とのセックスを止めればいい。
彼との距離を測りなおせばいい。
(それが出来るなら苦労はしないわ……ッッ)
弥生は胸の内で舌打ちをする。
その圧倒的な快楽によって、自分が一幅のボロ布のように扱われる感覚。自分が一塊のの肉でしかないと思い知らされる感覚。
完璧超人と呼ばれた自分に対する矜持があればあるほど、そんな弥生を嬲り抜く冬馬への想いは深まり、それほどの冬馬を思うがままに操る自分に、さらにプライドは満たされる。
だが、そろそろ限界が近いのも分かっている。
もはや、これ以上は葉月や両親の目をごまかせないだろう。
なにより連日連夜の荒淫に、弟の肉体が悲鳴を上げ始めている。
あの黄金の美酒のような彼の肉体を味わえなくなるのはつらいが、しかしそれでも弥生は多少の克己心を持ち合わせている自負もある。いくら美味い酒だからといって、いつまでも酔い続けるわけにもいかない。
なにより胸の内側で密かに育ち続けている、冬馬への依存心への恐怖を拭わねばならない。
(むしろ、いい機会だ)
と思うしかない。
二時間目終了のチャイムが鳴ったのは、そんなときだった。
そろそろ昼休みも終わろうとする頃、学食で食事を取っていた弥生の携帯に、着信があった。
冬馬からであった。
弥生は思わず瞳を細める。
メールならともかく、この少年が電話を寄越すなどかなり珍奇な事件と言わねばならない。とりあえず弥生は電話に出る。
「もしもし」
185 傷 (その15) sage 2009/04/06(月) 02:47:59 ID:DEMcr3+x
人間関係に細心の注意を払う冬馬は、友人知人への連絡をかなりマメにする方であったが、本当に信頼できる人間には、いちいち下らぬ用件で連絡は取らないと言っていたのを思い出す。便りが無いのは元気な証拠というわけだ。
だからというわけではないが、冬馬が弥生に電話を寄越すなど、いかにも急を要する事態でなければ在り得ないというのは、彼女にも分かる。
だから、泡を食った口調で弟が何か答える前に一言、たしなめるような鋭い口調で尋ねた。
「何かあったの冬馬?」
依存キャラを演じている以上、そんな口調で話すのはマズイと思わぬでもなかったが、やはり冬馬からすれば、それどころではなかったらしい。
彼は何かを言いかけ、しかし、それでも姉の一言でかろうじて冷静さを取り戻し、言った。
「おゆきが……事故に遭ったらしいんだ。いま千夏から連絡があった」
おゆき。
勿論、弥生はそれが誰か知っている。
冬馬を親の仇と憎悪する小学生。
まあ実際、彼女の母親・美也子は、関係修復を拒絶する冬馬の言葉にショックを受け、獄中で自殺したわけだから「親の仇」という言葉はあながち間違ってはいない。
だが、冬馬の側にも言い分はあるだろう。
美也子はかつて冬馬にとっても母であった。だが、彼女は浮気相手の医大生に身も心も調教された挙げ句、夫(つまり冬馬の義父)を刺し殺してしまったのだ。
しかも、その後に冬馬を引き取った芹沢家で、次なる両親から売春行為を強要されたとあっては、家庭崩壊の張本人たる義母・美也子を冬馬が許せないのも当然過ぎる話なのだ。
その当時、彼が舐めた辛酸をおゆきは直接知らない。美也子がおゆきを産んだのは服役中、つまり冬馬と千夏が芹沢家に引き取られて以降だからだ。
そしてその数年後、冬馬と千夏が芹沢から解放されて後、“父殺しの母”は獄中の面会室で言った。
『あと何年か経ったら自分は仮釈放になる。そうしたらまた一緒に暮らそう』と。
冬馬は、その言葉を一言の元に拒絶し、その場を去った。
結果、美也子は自殺し、その日まで兄と慕っていた冬馬を、おゆきが一方的に憎むようになったのはそういうわけだ。
だが、一方的に憎まれているはずの冬馬は、いまだにおゆきに対し罪悪感を持ち続けており、おゆきが冷たい面罵の言葉をぶつけるたびに彼は、いたたまれない表情をする。
それはそうだろう。
事情はどうあれ、彼が人ひとり死に追いやった事実は消しようが無い。その過去を前に平気な顔でいられるほど、冬馬は厚顔無恥な男ではない。
だが、弥生からすれば、双方の意見はどっちもどっちだ。互いが互いを許せぬとて仕方が無いように思える。ならばこそ、おゆきの言動はやはり、冬馬のそういう罪悪感に付け込んだ“甘え”と見えてしまうので、――やはり弥生はおゆきを好きになれない。
だが、だからと言って、それを冬馬に主張するような愚劣な真似はしない。
感情論に感情論をぶつけることほど無意味な行為は無い。弥生はそれを知っているからだ。
「病院に行く」
「いまから」
「学校も授業も今日はもうさぼりだ」
「夕食までには帰る」
慌しく自分の意見だけを言ってしまうと、そのまま冬馬は電話を切った。
弥生に何かを言う暇さえ与えない。
もっとも、どれだけ嫌われていたとしてもやはり彼にとって、おゆきは妹のような存在である事は変わりが無いわけだから、冷静でいられないのは仕方が無いだろう。
だが、それだけではあるまい。
下手に何かを言わせる時間を与えれば、弥生は自分も同行すると言いかねない。朝から自分にべったりな姉は、当然のように学校からの帰路も冬馬にくっついて帰る。だが、仮にもおゆきが担ぎ込まれた病院にまで、空気を読まずに随伴されてはたまらない。
そう思ったのだろう。
(そこまで困らせるような真似はしないわよ)
弥生は苦笑すると、隣席から心配そうな目付きでこっちを見ている眼鏡のクラスメートに言った。
「そろそろ図書室に戻りましょうか」
186 傷 (その15) sage 2009/04/06(月) 02:49:46 ID:DEMcr3+x
「遅かったわね」
と、少し拗ねたように言ったのは、弥生が帰ってきた弟の胸に抱きついてからだ。
玄関先の冷たい空気も、冬馬の体温と体臭の前には気にもならない。
だが、そんな弥生に、彼は緊張を緩ませる事はなかった。
「姉さん、話があります」
眉間に皺を寄せながら、それでいてどこかすがりつくような口調で、弟は言った。
弥生は冬馬に抱きついたまま呆気に取られた。
こんな表情を見せる彼を、かつて弥生は見たことが無かったからだ。
「先に部屋に上がっていて下さい。夕食はいらないと母さんに言ってから行きます」
――何も言わずに自分にカネを貸してくれ。
言葉を飾らずに冬馬の言い分を要約するなら、つまりはそういう事であった。
弥生は、しかし驚かなかった。
彼の様子から、この事態は予想できたことであったからだ。
実際、株式売買で弥生が稼いだ財は、柊木家の両親が共働きでコツコツ貯蓄した額を遥かに上回る。借金の相談ならば、この弟が両親よりもまず真っ先に姉を頼るのは道理というものだ。
そして借金の内容も。
「おゆきちゃんの治療費を、この私に出せってこと?」
冬馬は静かに頷いた。
事故はかなり酷いものであったらしいが、とりあえず彼女の命に別状は無いらしい。だからこそ、それ以上の治療には費用が掛かるということなのだ。
「お金がなければ再生手術はできない。手術が出来なければ、おゆきの足は一生元には戻らなくなるそうです」
「あの子は事故に遭ったって言ってたわよね? だったら事故の責任者に請求すればいいじゃないの」
確かにそうだ。
それが出来れば、誰だってそうする。
「轢き逃げ……」
「はい」
口惜しそうに冬馬が口を歪ませる。
「なんでアイツが……こんな目に……!!」
弥生は静かに目を閉じた。
冬馬が嘆くのも無理はない。
夫殺しの殺人犯・景浦美也子の娘として獄中に生まれ、後ろ指を差されながら施設で育てられたおゆきは、世間的な意味では決して幸福な子ではない。
まあ、引き取られた先で客を取ることを強制された冬馬や千夏に比べれば、まだマシというものではあるが、それでも弥生や葉月からすれば十分に同情すべき子供であろう。
だが……。
そこで弥生は考える。
冬馬が直々に頼んできた話だ。弥生としては是非とも彼の信頼に応じてやりたい。
だが、そこで利益を享受するのが、あの姉妹――千夏とおゆきの姉妹だというなら話は別だ。
弥生には分かる。
あのおゆきという少女は、本来の意味では決して冬馬を憎んでなどいない。
彼女の冬馬へ向ける憎悪は、単に愛情が裏返っただけのものに過ぎない。
“事件”の後、芹沢家に引き取られた冬馬と千夏の二人は、母・美也子の獄中出産から施設に引き取られたおゆきに、よく会いに行っていたそうであり、そして、当時おゆきは千夏よりもむしろ冬馬の方にこそ懐いていたそうだ。――冬馬が美也子を拒絶する、その日までは。
しかし、何かキッカケがあれば、おゆきの心は簡単に冬馬への想いを取り戻すだろう。今回の一件は、まさしくその契機としては申し分が無い。
しかも、おゆきと、その姉の千夏には、法的な意味での冬馬との血縁が無い。千夏やおゆきは景浦美也子の実子であるが、冬馬はあくまで景浦家にとっては養子に過ぎないからだ。
自分たちがあれほど苦戦し、その存在に辛酸を舐めている世間や常識という“敵”がいない。近親相姦の禁忌という鎖がない。つまり、その気になりさえすれば簡単に行き着くところまで行くことが出来る……。
そして、なにより弥生は――あのおゆきという子供が決して好きではない。
187 傷 (その15) sage 2009/04/06(月) 02:53:57 ID:DEMcr3+x
「もし……」
弥生が苦々しく言う。
「もし、断ると私が言ったら……あなたはどうするの?」
どうするもクソも無い。
冬馬も千夏も、年齢的には所詮ガキである。他に金策の当てなどあろうはずがない。あるとすれば芹沢家での娼夫時代の顧客を脅迫する事くらいしかないはずだ。
だが、冬馬は顔色を変えなかった。
「どうもしません」
――え?
そう訊き返す暇さえなかった。
「姉さんはそんな事は言わない……必ず金を出してくれるはずだからです」
「冬馬くん……? 何を言ってるのか私にも分かるように言って欲しいんだけど……」
「姉さんはおれの“お願い”を断れないはずだと言っているんですよ」
その瞬間、弥生の血の気が一気に引いた。
(まさか)
まさかもクソもない。
ここまでヒントを出されては、いくら何でも理解できぬはずがない。
そして冬馬は、弥生の想像通りの言葉を吐いた。
「姉さん……知ってるんですよ……あなたが、おれに薬を飲ませて慰み物にしている事をね」
弥生は何も考えられなくなった。
空気が凍りつき、全身の血が一瞬で鉛と化したかと思われた。
やはり弟は気付いていたのだ。
弥生が自分をよこしまな欲望の対象として日夜嬲り抜いている事実を。
「いまさら、それをあげつらって何かを言う気はありません。ただ、姉さんはおれに誠意を見せる義務があるはずでしょう?」
――誠意。
その言葉が弥生の胸を深く貫く。
そうだ。
確かに弥生がやった事は許される事ではない。
詫びても追いつかないならば、せめて形の上で彼の要求を飲むのは当然ではないか。
「冬馬くん、わたしは……」
だが、その瞬間、弥生の舌は停止した。
冬馬に感じた一分の違和感が、弥生の言葉を封じたのだ。
弥生は、常に陽気さを失わないこの弟が、実は並外れて荒い気性を内に秘めている事を知っている。薬で自分を前後不覚にして弄んだ女など、たとえ姉といえど彼が容赦するとは思えない。
しかし彼は、その事実を知っていると告白したにもかかわらず、いささかも憤っている様子が見えない。むしろその気色は沈鬱でさえあった。
(なぜ?)
その問いは当然と言えたであろう。
とっさに沸いた疑問こそが、ふたたび弥生の脳髄に平常の冷静さを供給するよすがとなった。
(冬馬くんは、焦っている……?)
「くっ……くっくっくっ……っっ……」
188 傷 (その15) sage 2009/04/06(月) 02:55:17 ID:DEMcr3+x
「姉さん……?」
「だめよ冬馬くん……弱味があるときは絶対に自然体を崩しちゃダメ……あそこでもし、私を張り飛ばすくらい出来たなら……間違いなく勝ちはあなたのものだったのに……」
弥生は俯いていた顔――薄笑いを貼り付けた美貌を――弟に向けた。
「そんなザマじゃあ、この私の駆け引きで勝とうなんて百年経っても無理よ……」
その嘲笑に、さすがの冬馬も顔色を変える。
「姉さんっっ!!」
だが、弥生はまるで動じない。
「だめだめ、そんな大声を出したところで、もう何も変わらないわ」
弥生は、ゆっくり伸ばした手を、紅潮した弟の頬に添える。
彼は憤っていた。
間違いなく。
かつて弥生に直接向けられた事の無いほどの激昂の表情。
だが、もうダメだ。
もう騙されてはやらない。
現に、弥生を刺すような鋭い眼差しで睨みつける冬馬の瞳の奥には、ほんの僅かだが困惑が見える。己の組み上げたシナリオ通りに反応しない姉の姿に戸惑っている弟が、弥生には見えるのだ。
「あなたには分かっているはずよ……たとえ、どういう経緯を踏もうとも、この私から金を引っ張り出せなかった時点で、それ即ち、あなたの負けだってことを、ね」
冬馬は依然として弥生を睨み続ける。
だが、その雰囲気には明らかに隠し切れない動揺が見える。
「あなたが勝てるとすれば、私があなたに“悪戯”をしている事実を突きつけてパニックを誘い、冷静さを失った私からカネを引き出すしかない。そうでもしなけりゃ、おゆきちゃんを嫌っている私が、彼女の治療費なんか出すわけが無いと踏んだんでしょうが……」
「あの場で姉さんを張り倒さなかったのがマズかったと?」
やはりと言うべきか、さすがに、この男はたいしたタマだ。
眼に憤りこそ湛えたままだが、それでも口元には、うっすらと笑みさえ浮かんでいる。
彼なりに、この姉が何を言い出す気なのか興味が生じたのだろう。
「そうかもね。――でも、私は気付いてしまった。どう取り繕うとも私は出資者。そしてあなたは借金の代理人兼保証人に過ぎない。話の主導権は最初から冬馬くんではなく私にあって、あなたはそれに条件を付けられる立場には無いってね」
「自分が何を言っているのか分かってるのかい姉さん。あんたは俺を凌辱していた女だ。金を貸してくれるなら、それを許してやると言ってるのに――」
「許してくれなくとも構わないわ。でも、その結果おゆきちゃんの身体には、この先ずっと障害が残る。あなたが私を怒らせなければ、そんな事にはならないはずだったのにね」
「…………ッッッ!!」
その言葉を聞いた瞬間に、冬馬の口元から笑いが消えた。
きゅっと真一文字に結ばれた唇からは、先程に倍する激しい怒りが垣間見えるが、弥生は歯牙にもかけなかった。
――これは賭けだった。
冬馬にとっても駆け引きであったのと同様に、ここから先の駆け引きは、弥生にとっても重要極まりない駆け引きなのだ。成り行き次第では弥生はもはや、明日から冬馬に口も利いてもらえない関係になるだろう。だが、弥生の賭けが図に当たっていたなら……!
ふん……。
冬馬の鼻から息が洩れたのが見えた。
瞼は閉じられ、紅潮していた頬からも、みるみるうちに血の気が引いていき、水のような静けさをたたえた冷静な貌に戻った。
(賭けに、勝った……ッッ!!)
弥生は小躍りしたい気分だった。やはり弟は本気で弥生に怒ってはいなかったのだ。
やがて彼は力なく笑った。
「……まあ、頭のどっかでこうなるとは思ってはいたけどね……。やっぱり姉さんは簡単にこっちの思惑には乗ってはくれねえか……」
ぼりぼりと頭を掻くと、どこか諦めたような顔で彼は言った。
「分かったよ。条件は……姉さんを“女性”として愛する事で、いいかい?」
その言葉を聞いた瞬間、弥生は自分の骨髄が紛れも無いオルガスムスに包まれているのを感じた。だが、まだだ。イってしまうのはまだ早い。自失する前に弥生は抜け目なく一言付け加える事を忘れなかった。
「私だけじゃない。愛するのは……葉月ちゃんもよ」
最終更新:2009年04月13日 21:21