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未来のあなたへ8 sage 2009/06/19(金) 21:07:07 ID:2T6bjFgd
未来の私(あなた)へ
それでも私は、この日々の暖かさに感謝します。
私はきっと、幸せだったから。
優香side
兄の様子がおかしい。
時期的には十日程前から、四月末頃からだろうか。拉致と合コンの直後あたりになる。
様子がおかしいというのは私から見た話で、他人から見れば変わらず生活してるようにしか見えないだろう。
早起きして眠い目を擦りながら朝練に行き、授業を受け、放課後部活に参加し、夜にひいひい言いながら授業の予習と復習をする。いつもと変わらないその繰り返し。
けれど、この道十六年の私から見て、あの兄の様子は……何かを気にしている。
漠然としすぎてるかもしれないが、そうとしか思えない。そしてどうやら、兄の気にしている対象は私のようなのだ。
ここで能天気な妄想に浸るほどインモラル歴は短くない。隠さなければいけない事柄が大量にある身として、これは非常にまずい。
例えば私の特殊な収集癖については、知られたとしたらドン引き程度では済まないだろう。救急車を呼ばれるかもしれない。
とはいえ、怪しまれるきっかけとしてはその収集癖が最も可能性が高い。つまり、兄の部屋に忍び込んでベッドから体毛を採取しているところを目撃されたのではないのかと言うことだが。
考えてみればいい。あの兄が、母のベッドから体毛を収集していたらどう思う? 私ですらも、兄に対する感情を修正しないとは言い切れない。
ともあれ、疑惑が確信に変わる前に、行動を自粛しなければいけなかった。実際、私は最近収集をほぼ停止していた。ストレスが溜まって仕方ない。
さて、そうして
GWの終わりに
「優香。母さんから貰ったチケットがあるんだけど、水族館行かないか?」
私は脊髄反射で頷いていた。
13 未来のあなたへ8 sage 2009/06/19(金) 21:07:43 ID:2T6bjFgd
健太side
妹を水族館へ誘ったことに、大した理由があったわけじゃない。
母さんから「GW中にずっと部活か家にいるだなんて。女の子でも誘って行って来なさいよ」と、父さん経由らしきチケットを渡されたからだ。
それで誘うのが妹だなんて、男としてどうかという問題はあると思うけれど。
一応補足しておくと俺にだって女子の知り合いぐらいはいる。ただし精々が友達というレベルで、休日デートに誘うような仲じゃあない。
妹を誘ったのはただの消去法でもない。最近、優香について気になることがあった。
優香の好きな奴って誰だろう。
少し前に、親友が妹に振られた。場所は優香の部屋で、断った時の理由は
『好きな人が、いるんです』
その時、たまたま早めに帰ってきていた俺はそれを聞いてしまった。優香には気付かれてないから盗み聞きになったけど、実際は聞くつもりなんてなかったんだ。
とりあえず居合わせてしまったことを親友に空しい笑いで誤魔化し、振られた柳沢を慰めて、合コンなんかに行ったりしたけれど。あれから、ずっとこびりついている疑問があった。
優香の好きな奴って誰だろう。
もちろん誰かを好きになること自体は不自然とは思わない。妹だって年頃だし、俺だって片羽先輩に恋をした。
けれど、優香が好きになった人間がどうしても思いつかないんだ。
クラスメイトなのかもしれない、部活での知人なのかもしれない、中学時代の後輩なのかもしれない。可能性はいくらでもある。
だけど優香の兄として十六年間過ごしてきた俺から見て、こいつが俺のように誰かに夢中になっている様子は全然、なかった。
俺と優香の仲は、まあ普通だ。昔は仲が悪かったが、最近になって改善してきたと思う。とはいえ、お互いに憎まれ口を叩き合って、時々出かける程度だけど。
精々そんな仲だから、恋愛相談なんて望むべくもない。いや、俺の時は優香にしたけどな。それは、俺自身が妹に対して尊敬の念を抱いているからだ。
優香は大した奴だと思う。
毎日、暇があれば予習復習か自主トレをしていて、自分を鍛えることに余念がない。連休明けにある中間テストも、優香はトップクラスの点数を叩き出すと俺は確信している。
そうして一番すごいのは、そんな自分を鼻にかけずに、だらけたりせず、毎日頑張って生きていることだ。俺なんかとは出来が違うんだと、素直に思える。
榊優香という妹は、そういう頑張りを積み重ねてできた人間なんだ。
それはとても尊い物だし、だからこそ守ってやりたいと思う。
なんでもできる優香にだって弱点はある。その一つは軽度の男性恐怖症で、モテる割に異性と適度な距離を取って付き合うのがどうにも苦手らしい。
寄せられた好意を断る時も大抵は俺が同行するぐらいで、そういう意味でも、柳沢の件は珍しいケースだったのだ。優香がある種、柳沢に敬意を払っていた証拠とも言える。
そう、優香はそもそも男が苦手なはずなのだ。それで果たして、誰か男を好きになれるものなんだろうか。
……もしかして女の子が好きだとか? いやいやいやいや、優香に限ってそんなバカな。
そんなわけで、俺は妹が好きだという相手のことが気になって仕方なかった。万が一にも百合百合しい趣味だったらどうすればいいんだろう、その手の小説でも読めばいいんだろうか。
最近はちらちらと優香の挙動を目で追うようになってしまっているけど、あいつの態度にはやっぱり異性の影なんて何処にもない。いや、だからといってお姉様?な影もない。
かっきりと規則正しい生活をしているだけだ。時々不審な目で見返されたりもした。
埒があかないし、何時までも妹の監視をする兄でなんていたくもない。そんなときに、母さんから水族館のチケットを貰い、何かのきっかけになればいいと妹を誘ったんだった。
14 未来のあなたへ8 sage 2009/06/19(金) 21:08:35 ID:2T6bjFgd
「ゆうかー、そろそろ行こっかー」
「とっくに準備はできていますよ兄さん」
次の日。特に待ち合わせするでもなく揃って家を出る。
出かける時の準備は女性の方が掛かると言うけれど、優香は早起きしてきっちり準備をすませていた。むしろ連休でだらけていた俺の方が時間ギリギリに支度したぐらいだ。
母さんが哀れな物でも見るような目をしていたけど気にしない。俺にだって女の子の友達ぐらいいるってば!
水族館は隣の町にあるので、電車とバスを使って向かう。その間、優香と他愛ない話をした。
「水族館なんて久しぶりだよなー。なにがあったっけ?」
「まあ。魚類、軟体動物、海棲哺乳類の類ではないでしょうか」
「かいせい……ああ、イルカとかか! そういえばイルカショーとかあったような気がするな。今日もやってるかなあ」
「一応連休中ですから演じていると思いますよ」
とりあえず優香の様子は普通だった。
おろした髪は背中まで届いて、うっすらと化粧もしているようだった。服装はシンプルな水色のワンピースにいつものポシェット。
誰かの影響なのか、今日は赤いリボンのついた鍔広の帽子も被っている。まるで避暑地のお嬢様のようだった。ちなみに我が家はフツーの中流家庭だ。
それなりにめかし込んではいるけれど、その態度に不自然なところはない。いつもの通り空気よりも少し冷たい、ひんやりとした態度だ。
考えてみれば当たり前で、今まで優香に接してきて全く気付かなかった俺が、今更何かの兆候を発見できるわけがなかった。
優香は恋をしているんだろうか。
15 未来のあなたへ8 sage 2009/06/19(金) 21:09:06 ID:2T6bjFgd
優香side
兄の様子がおかしかった。
「着いたなー、優香!」
「着きましたね」
「結構混んでるな」
「GWですからね」
「その……ごめん」
「何故謝るのですか?」
「だって、優香は静かな場所の方が好きじゃないか」
「別にこの場所が嫌いというわけではありませんよ」
「あ、そうか?」
「ええ」
確かに私は嗜好として騒がしい場所よりも静かな場所の方が好みだが、そもそも兄がいるならどのような場所にも喜んで行く。だからこの問いかけは無意味だ。
それよりも問題は兄が妙なほど私に気を使っていることだろう。いつもの兄なら子供のように水族館に駆けていくところだ。あからさまに態度がおかしい。
兄はTシャツの上に夏物の上着を羽織り、デニムのズボンを履いている。むき出しの上腕にはしなやかな筋肉がうねっている(贔屓目)。
彼の言う通り、水族館はそれなりに混んでいた。客層は主に家族連れで、カップルが来るような雰囲気はあまりない。あちこちの水槽に子供が張り付き、親兄弟を呼んでいる。
そんな中を、私達はゆっくりと歩いた。
「やはり中は涼しいですね」
「ん。寒くないか? 優香」
「鍛えていますからこの程度は問題ありません」
「それって無理してるってことじゃないか。俺の上着、貸そうか?」
「そうしたら今度は兄さんが寒いではないですか。物事は建設的に考えてください」
「いや、俺は男だし鍛えて……なんでもない」
兄の様子がおかしい。
本来ならば、兄はそこらの子供のように水槽に張り付いてしかるべきなのだ。子供のような純粋さを、この人は色濃く残している。
けれど今日は二人並んで順路の真ん中を歩くだけで、やっていることと言えば私に対する気遣いばかりだ。
正直、気味が悪……いや、断じて嫌悪などではない。兄に気遣われることはとても嬉しいが、正直に喜べないのが複雑なだけだ。
私は、嬉しい。兄とこうして歩くことは幸せだ。
けれど、同時に確信することもある。
今日、兄が観察しに来たのは魚ではない、私なのだと。
自らが抱いた疑惑を確認するために、私をこんなところにまで引き出したのだ。
兄が一体何を探ろうとしているのかはわからないが、少なくとも私とのデートが目的では、ないのだ。
16 未来のあなたへ8 sage 2009/06/19(金) 21:09:51 ID:2T6bjFgd
健太side
「それでも」
ふと、優香が呟いて、空気が変わったような気がした。
俺の気のせいかもしれないけれど、さっきまでのお互いに探り合うような気配から、解放されたような雰囲気。
歩いていた足を、優香が止める。気付けば小さな水槽が並んだスペースじゃなく、プールの中にガラスで
ホールを造ったような場所に出ていた。
「回遊魚ですね。兄さん、こういうの好きでしょう?」
「お、おおー」
ガラスの向こうには、ホールを中心にして悠々と泳ぐ魚の群がいた。中には俺と同じぐらい大きな魚もいる。あれはマグロだろうか。
思わず、水槽に張り付いた。ごうごうという水流を手の平に感じる。隣に、同じようにしている子供がいた。
後ろに付いてきた優香が穏やかな声で聞いてくる。
「兄さんはなんで回遊魚が好きなんですか?」
「んー、豪快でいいじゃんか。それにやっぱり、生き生きしてる感じがするからさ」
「生き生き、ですか……そうですね。確かに深海魚よりは、のびのびしてるんでしょうね」
ぺたりと、優香が俺の隣で同じく水槽に手を当てた。後で指紋を拭いておかないとな、と今更になって思う。
妹の背は女子にしては高めで、俺は男子にしては低めだ。だから並んで立つと、手の平一枚分ぐらいしか視線の高さは違わない。
いつもはそのことをちょっと悔しく思うけれど(まさか抜かれたりはしないよな!?)こういう時は安心する。俺よりもずっと賢くて冷静な妹だけど、きっと同じ物を見ているんだと思えるから。
……そうだ、きっと同じものを見ているはずだ。
俺は一体何を心配していたんだろう。
「そういえば、さっき入り口で言ってたけどアシカショーがあるんだよな?」
「はい。次は11時かららしいので後15分ですね」
「じゃあちょっと今から行って席取ろうぜ。んで、ショーが終わったらもう一回最初から回ろうか」
「最初からですか? 別にここに戻ってきてもいいと思いますけど」
「いや、実はあんまり最初の方の水槽とか見てなかったからさ」
ぼりぼり、と頭をかく。そういえば一つ、思い出したことがあったのだ。
前に水族館に来た時、優香は深海魚をとても珍しがっていた。俺としては、あのグロテスクな感じがあまり好きになれなかったけど、妹的には琴線に触れるものがあったらしい。
それを聞いてみると、優香はひどく意表を突かれた顔をした。あれ、もう好きじゃなかったのかな? まあ昔の話だし、優香も女の子だしなあ。
「いえ、違います。そうですね、今でも興味はありますよ」
「あ、そうなのか。えーと、グロ可愛いって奴?」
「なんですかそれは。私はああいう、周囲の厳しい環境に適応して特化した形態が好きなんです。機能に対しての興味ですよ」
「あ、そ、そうなの?」
「はい。例えば大部分の深海魚は、深海で視界を確保するために発光しますが、これは一般的な魚類には見られない機能です。まあ深海魚に限らず、遊泳能力の劣る海洋生物は何らかの特殊な機能で生存しているわけですが。そういう意味ではタコも好きですね」
途端に喋り出す優香。水槽の前にある解説プレートと、実物の器官を見比べることはイメージの補強にうんたらかんたら。
俺は蘊蓄に相槌を打ちながら、心の中で苦笑した。わざわざ自分の好きなコーナーまでスルーして、優香は気遣ってくれていたんだろうな。
誰かのことを探るだなんて、柄にもないことはするものじゃない。結局俺はまだまだ、妹よりも未熟なんだから。
大体、優香が誰かを好きになったとして、それが悪いことだなんて有り得るんだろうか。
優香だぞ?
妹は俺よりずっと頭がいいし、冷静だ。男嫌いなところはあるけれど、だからこそ恋愛には慎重だろう。あの腕っ節なら(本人は否定していたけど)大抵の男に不覚を取るとも思えない。
優香の人を見る目を、信じられるか信じられないか、それだけじゃないのか?
そうして、俺は信じられる。
それなら一体、何を心配してたんだろう。確かに優香が誰を好きなのかはさっぱりわからないけれど、それでも優香を信じられるなら問題はない。
鬱屈していた胸の天気が、急に晴れ渡った気がした。そうなれば現金なもので、アシカショーが気になって仕方なくなってくる。
「じゃあショーに行こっか、優香。早めにいけばきっといい席が取れるぞ」
「それについては一理ありますが。子供じゃないんですから、こんなところで駆け足はやめてください」
17 未来のあなたへ8 sage 2009/06/19(金) 21:10:52 ID:2T6bjFgd
優香side
アシカショーはそれなりに面白かった。
見せ物としてはテレビで視聴できるような内容で多少間延びもしたが、臭いや観客のざわめきといった臨場感はそれなりに体験の価値があったと思う。
臨場感と言えば、兄が最前列に席を取りやがったせいで水飛沫を何度か浴びる羽目にはなった。咄嗟に帽子を盾にしたので被害は最小限で済んだけれど、あまりいい気分はしない。
とはいえ、兄は水飛沫を浴びて大喜びだったし、ショーの内容にも至極満足なようだった。こういうところは全く子供っぽい人だ。
その後は約束通りに水族館を一周した。今度は私も深海魚の類をじっくり見ることができたし、やはり兄は水槽に張り付いていた。
「楽しかったなー、優香」
「そうですね」
「ショーは結構すごかったよな。ウチのミケも教えればあれくらいできるのかな」
「不可能かと」
家路を辿る。
私と兄は水族館を出てから遅い昼食を取り、それからバスと電車で戻ってきていた。時間的にはまだ余裕があるが、特に用事はないので素直に帰る。
太陽はまだ傾くには早く、妙に人気のない住宅街を私達は並んで歩いていた。もうしばらく歩けば家に着く。
じりじりと日が照っている。水族館の中は涼しかったが、今は少しだけ汗をかいていた。
「優香、今日は付き合わせて悪かったな」
「いえ、私も暇でしたから結構ですよ」
「そっか」
「……」
「……」
「兄さん」
「ん?」
「何か私に聞きたいことがあるのではないですか?」
兄は途中から、私を探ることを辞めたようだった。私と一緒にいることを、普通に楽しんでくれていた。
それはとても嬉しいことだ。
私は自分がつまらない女であると自覚している。口を開けば水を差すようなことばかりで、気の利いたことの一つも言えない。
私はいつも兄から楽しさを貰うばかりだった。ある種の寄生関係にあるのだ。
それでも兄が私といることを楽しんでくれたと言うのなら、それは兄としての贔屓目だろう。それでもいい、それでも嬉しい。
だからせめて兄に礼をしたかった。それが藪蛇だとしても、保身よりも大きなものが私の胸には満ちていた。
「えーと、別にその、たいしたことじゃないんだけどな」
「はい」
「優香は……好きな奴とか、いるのか?」
「――――」
「その、ごめん。前に柳沢に言ってたのを偶然聞いちゃってさ……」
そう……か。
そうか。
立ち止まり、向かい合う。私達の背丈は近い。目線の高さは手の平一枚分程度の差しかない。
私はその事実が気に入っていた。私の狂った感性では同じ認識など望むべくもないが、せめて同じものを見ているという錯覚に浸ることができたから。
あの時、兄がいたのか。
柳沢先輩を振ったあの日、兄は私の声を聞いていたのか。
私の声を、この人は聞いたのか。
「……はい」
「そっか」
私の首肯に、兄が息を付いた。背中に負った重い荷物をやっと降ろしたような溜息だった。
それはきっと私に隠し事をしていたという後ろめたさがあったからだろう。人が良いのだ。
よく笑って、よく泣いて、嘘が簡単に顔に出て、すぐに落ち込んで、すぐに立ち直って、人を根拠なく信じて、馬鹿で能天気で、傷つきやすくて、それから、それから……
「俺さ、優香のこと、応援するよ。俺の時も、相談に乗って貰ったしな」
「……」
「俺はまあ、ダメだったけど。優香は可愛いから、きっと上手くいくと思うぞ」
「……」
「だからさ、その……がんばれよ」
「……です」
18 未来のあなたへ8 sage 2009/06/19(金) 21:11:35 ID:2T6bjFgd
不意に、溢れた。
何かきっかけがあったわけではない。一番初めに私がこうなってから、訪れるべき瞬間がたまたま今、訪れただけだ。
物心付いてから、私の中に注ぎ込まれ続けた何かが。今、この瞬間に、とうとう一杯になった。
直感で、理解する。呼吸の可能な液体が、体の底から湧き喉元を通り過ぎたような感覚。
空気での呼吸から、液体での呼吸へと、劇的なパラダイムの転換。
私という存在が、切り替わる。
後はもう、溢れるしかない。
……いいのか?
もう……いいのだろうか?
終わる。今まで過ごしてきた日々の暖かさを一遍に失うことになる。一度失ったものは、二度とは戻らない。
何より、兄を変えてしまう。私が兄を壊してしまう。
もう二度と、この人は無邪気には笑えなくなるだろう。私の罪業を負わせて、私がずっと感謝してきたものを失わせる。
きっと一生後悔し続けるだろう。
それで、いいのか?
………………ああ、それでいい。
自問に対して、私は心静かに頷けた。
私はもう、兄から充分すぎる程に貰った。
物心付いてから、今この時まで。溢れる程に、優しさを注いで貰った。
たとえ一人で放り出されたとしても、私はきっと今までもらった優しさだけで生きていける。
ああ……頭を垂れ、赦しを請おう。
私の罪を御許しください、兄さん。
さようなら、かつての私(あなた)よ。私は確かに幸せでした。
それでも私は、この先に進みます。
たとえ地獄であったとしても、この人と共に生きて行きたいから。
「……兄さんです」
「ん?」
「兄さんです」
「え、と……何が」
「私が好きなのは」
「え……」
そうして、榊優香は、榊健太に告白した。
空高く、いずれ訪れる暑さを予感させるような日の出来事だった。
「私が好きなのは、貴方です」
空気が、停まる。
私と兄の視線が合わせられたまま、あらゆる全てが停止した。
そうして数秒か、数分か、無限に感じられる空白が経過した後。
兄がばたりと、その場に倒れた。
19 未来のあなたへ8 sage 2009/06/19(金) 21:13:20 ID:2T6bjFgd
健太side
昔の夢を見たような気がした。
目を覚ますと
朱い空を背景に、妹の顔があった。
さわさわと頭を撫でる感触。頭の下には柔らかい感触。背中の下には固い感触。
「う……」
「あ、目が覚めましたか、兄さん」
「あれ、俺……どうしたんだっけ」
ええと、今日は優香と一緒に水族館に行ったんだった。それでぐるぐる回る水槽を見て、アシカショーを見て、正直グロい深海魚を見て、昼飯を食べて、家に帰ることにして、それから……
それから、なんだっけ?
どうやら俺は、公園のベンチで寝かされているようだった。しかも妹の膝枕だ。優香はさわさわと、手持ち無沙汰に俺のつんつん頭を撫でている。
「許容量を超えた現実を認識が修正するのは彼女の専売特許というわけではないのですね」
「へ?」
「いえ、おそらく日射病かと。まだ夏ではありませんが、日差しには気をつけた方がいいですよ」
ぽふ、と帽子を顔に被らされて視界が暗くなる。って、これは優香のつば付き帽子じゃないか。
慌てて振り払い、ついでに体を起こした。いつまでも妹の膝枕でなんていられない。というか
「なんで膝枕なんだ?」
「特に、意味は、ありま、せん」
「そ、そうか」
あまりにも力強く断言されて、すごすごと引き下がるしかなくなる。
というか、その。何か怒っているのか……? それも、実はものすごく怒ってないか?
と思ったけれど、そういえば青かった空がもう夕方だ。帰る途中にこんな公園で何時間も足止めを食えば、それは腹も立つだろう。
感謝しないといけないな……
俺は優香を刺激しないように曖昧な笑みを浮かべて、そのことについて頭を下げた。
「その、ごめんな、優香」
「何がっ!?」
そうしたら、何故かめちゃくちゃ怒られた。
20 未来のあなたへ8 sage 2009/06/19(金) 21:13:59 ID:2T6bjFgd
それから
普通に帰って、父さんと母さんにただいまと挨拶をして、少し部屋でごろごろしてから夕食になった。
その時に母さんから哀れむような眼で「妹とデートはどうだったの?」と聞かれたのでムキになって「楽しかったよ!」と返したりもした。
父さんと妹は例によって落ち着いたもので、特殊な魚の生態について小難しい話をしていた。まあ私見の交換といった感じで。
そんな風にして、普通に夕食は終わった。
その後はいつも通り部屋でうーうー唸りながら予習復習をして、一時間ぐらい腕立て伏せやストレッチをしてからお風呂に入る。
歩き疲れた分いつもよりも長風呂になったので、暑さも含めてふらふらと自分の部屋に戻る途中、優香とすれ違う。
「お風呂空いたぞー」
「はい。兄さん」
そのまま通り過ぎるのかと思ったら、呼び止められる。
優香は部屋から出てきたところで、もうタオルやパジャマを持っていた。運動していたんだろう、タンクトップから出た素肌にはうっすらと汗が浮いている。
な、なんか色っぽいな、とドギマギしていると。優香がゆっくりと口を開いた。
「兄さん、私は、ずっと待っていますから」
「……?」
静かにそれだけ口にして優香は一階に下りていく。何度かひどく、凪いだ目をしていた。
釈然としない感情を抱えながら、自分の部屋に入ってベッドに転がる。
たちまち襲ってくる眠気に、今何時だと壁時計を確認する。九時だ。子供じゃあるまいし、寝るのには早すぎじゃないか。
まあいいか、とあくびをして、俺は瞼を閉じた。
ぼんやりとした感覚の中でうつらうつらとしながら、今日の出来事を思い返す。
優香と一緒に水族館に行って、水槽に張り付いて、アシカショーを観て、いろんな魚の解説を聞いて、昼飯は近くの食堂で食べて、それから、それから……
『私が好きなのは、貴方です』
思い出した。
「…………っ!」
「…………」
「…………どう、しよう」
その日は結局、ただの一睡もできなかった。
最終更新:2009年06月22日 20:20