いつかのソラ 第1話

150 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:35:01 ID:pVHuVLv8
〈1〉

 今朝の朝食もいつもどおりだった。

 3つのお皿に目玉焼きが3つとベーコンがそれぞれ2枚づつ、
 付け合せのキャベツとトマト、薄っぺらな食パン3枚。
 コーヒーと牛乳とオレンジジュース。
 向かいの席の姉がトマトを皿の端へ除けていて、隣で妹がグチャグチャ目玉焼きの黄身をかき混ぜる。
 繰り返す朝。
 変わらない日常。
「もぅトモ、またネクタイが曲がってる」
 不意にテーブルを飛び越えてくる手を咄嗟に払う。
「別にいいって言ってるだろ」
 あからさまな失意の瞳。媚びる様な仕草。
 見ていられなくて目を逸らす。
「ねぇ、きょうも『あされん』はないの?」
 目玉焼きをやっつけた妹が袖を引っ張る。
 先週末に大会が終わったばかりで、今週末まで朝練は無い。
「ないよ」
「じゃあ、きょうはいっしょにいく!!」
 まだ箸を上手く使えない妹がフォークを天に突き上げる。
 要するに幼稚園まで連れて行け、という事なのだろう。
「そっか、今日は紗耶を送ってくかな」
「じゃあ、私も……」
姉さんは先に行っててよ」
 付いて来ようとする姉を制すると、
「紗耶、あんまり遅いとお兄ちゃん先に出ちゃうぞ!!」
「まってぇ~」
 急いで席を立ち、妹を急かして家を出る。
 名残惜しそうな視線は……玄関で遮られた。



151 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:35:39 ID:pVHuVLv8
〈2〉

 別に、嫌いなわけじゃない。

 ただ、知ってしまっただけだ。
 姉が自分をどういう目で見ているか。
 何気ない仕草に時折見え隠れする
 粘りつくような、纏わり付くような、絡みつくような、熱い視線。
 一度意識してしまうと途端にそれが息苦しくなった。
 そして、何より恐ろしかった。
 姉弟で好き合う事など考えられないし、それが何を意味しているかわからない年齢でもない。

 諦めさせる。

 そう決心してからはなるべく姉とは距離を置くようにしている。
 多少冷たく接してでも距離を取って、風化するのを待つ。
 それが姉に対して取っている唯一の対策。俺が姉に対してできる精一杯の努力。

「ぎゅう」
 口で擬音を発しながら紗耶が手を握る。
「へへぇ……」
 天真爛漫な笑顔。俺はこの笑顔に弱い。
 妹の紗耶にはついつい甘くなってしまう。
 歳の離れた妹なので、兄妹というよりも娘のような感覚で接している。
「ふん、ふふ~ん。ふん、ふふ~ん」
 ご機嫌なのか、鼻歌を歌っている。
 足元のおぼつかない、まだまだ発展途上の歩幅。
 急ぎ過ぎないように、手を引いて歩いてゆく。
「紗耶ちゃん、今日はお兄ちゃんと一緒なんだ」
 校門の前で園児達に挨拶をしていた先生が、こちらに声をかけてくる。
「うん」
「いいね。優しいお兄ちゃんで」
「うん」
 妹の満面の笑顔。
 透き通る様な無垢な返事がなんだか照れくさい。
「そういえば、聞きましたよこの前の大会!! 大活躍だったんですってね」
「ええ、まぁ……」
「目指せ、日本代表ですね!!」
 息が詰まる。
 どうしてそんなことを知っているのだろう。
「うふふ、紗耶ちゃんがいつも言ってますよ。『おにいちゃんは、だいひょーせんしゅになるんだ』って」
 表情を読み取った紗耶の先生が笑う。
 随分と間抜けな顔をしていたのだろう。褒められるのはどうにも苦手だ。
「それでは、紗耶をお願いします」
 照れ隠しではないけれど、挨拶をしてこの場を離れる。
「ええ、いってらっしゃい」
「いってらっしゃ~~~い」
 紗耶はこちらが見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。



152 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:37:36 ID:pVHuVLv8
〈3〉

「ハァ~イ、トモちゃん」
 放課後。
 教室でぼんやりとしていると、耳元で囁かれた。
「誰が『トモちゃん』だよ? 気持ち悪いからやり直せ」
「おっす、幼稚園児の妹の世話を焼くように見せかけて実は三度の飯よりロリ好きの上級変質者」
「喧嘩売ってんのか?」
「にゃはは、今なら安くしとくよ」
 彼女は宙(そら)。
 一ヶ月前くらいに転校してきたばかりで、ちょっとした事件をきっかけに知り合った。
 まだ日は浅いはずなのだが、妙に気が合う事もあってよくこうやって馬鹿をやっている。
 性格とセンスは別として、容姿は悪くないと思う。
 ダサイ丸メガネに三つ編みという、一昔前の『いいんちょ』スタイル。
 それでも、整った顔立ちではあるので目を引く存在ではある。
 ここ一ヶ月の間だけでも多少目端の利く複数の男子からお付き合いの申し込みをされているらしい。
 本人曰く、『男もオシャレもめんどくさい』とのこと。
 個人的には不思議と異性を感じさせない事もあって友人をさせてもらっている。
 それに、なんとなく……いや、まぁ気のせいだろう……
「ところで……ようじょのおにゃのこに欲情するって人としてどうなのよ? ペド野郎」
 ベシッ!!
 頭の方は優秀ではなさそうなので一発チョップをかましておく。
「いつつ……ところでさぁ、今日暇?」
「いや、部活あるの知ってるだろ?」
「部活なんてバーゲンの前では何の意味も無いわ」
「は? バーゲン?」
「なに? バーゲンを知らないの?」
 そこで心底不思議そうな顔をされても困る。
 むしろ、困っているのは俺の方だ。
「いや、知ってるけど俺に何の関係が?」
「荷物持ちに決まってるじゃない」
 決まってる? 決まってるってなんだ?
「日頃鍛えた筋肉はこういうときに使わないでいつ使うのよ。
 アンタの筋肉が私にこき使われる喜びに打ち震え涙するのが私には見えるわ!!」
「変なもん幻視すんな。どんだけ変態なんだよ俺の筋肉は」
 そもそも筋肉の涙ってなんだ? 汗の事か?
「つーわけだから、アンタ今日は部活を休みなさい」
「いや、意味わかんないし」
 ってゆうか、話の展開について行けてない。


153 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:38:20 ID:pVHuVLv8
「お前が誘えば筋肉要員ぐらいすぐに集められるんじゃないの?」
 こちらが乗り気にならない所為か宙は口を尖らせる。
「嫌よ。他の男なんて……めんどくさい」
 まぁ、言い寄られたり、勘違いされたりするのは確かにめんどくさいのだろう。
 その点で言えば俺は適任だと言える。
「同級生の女の子とデパートで買い物なんて、部活に明け暮れてるよりもよっぽど青春!! って感じじゃない」
「そりゃ、まぁ、確かに……一理ある」
 一理はあるが……相手がねぇ……。
 それに、なんだか奢らされそうな気もする。
「よし! 決まりね!!」
 こちらがひるんだ隙に、首根っこを掴まれて強引に立ち上がらせられる。
「こらっ! ちょっと待て、まだ行くとは一言も……」
「まぁまぁ、まぁまぁ」
 こちらの抗議など聞く耳持たず、背中を押されて教室の外まで押し出される。
「いや、だから……」
「良いではないか、良いではないか」
 ずっとこんな調子で、そのまま玄関まで押し切られてしまう。
「待てって……」
「気にしない、気にしない」
 そのまま、校門をすり抜けて……
「だぁ~~~!! 少しは話を聞けよ!!」
「大丈夫、大丈夫!! オマエは虎になるのだぁ~!!」

 気が付くと、そこはもう商店街だった。



154 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:38:47 ID:pVHuVLv8
〈4〉

「よくこれだけ買えるもんだな」
 両手には10袋分の大量の衣類と食料品。
 中には男物の下着や洋服まで入っている。
 宙曰く、兄弟の背格好が俺とほぼ同じということらしい。
 そういう理由があるのなら先に言ってほしいものだ。
「お前って結構お嬢様だったりする?」
「わっかる~? 隠しても隠し切れない、この滲み出てしまうセレブオーラが」
 お嬢様風に髪を掻き揚げる仕草が笑えるくらい様になっていない。
 頭にくっついたエビがぴょこっと跳ねただけ。
 これではせいぜい近所のお転婆娘といったところか。
「なに? 文句があるなら聞くけど」
「本当のお嬢様だったらバーゲンなんて行かな……」
「ごめん。よく聞こえない」
 宙の笑顔。
 けれどそれは、可愛いとかいう類のものではない。
「……いえ、何でもありません」
 目で威圧して同意を求めるなよ。
「ま、今回は特別に種明かしをしてあげる」
 エセお嬢様は庶民的財布をごそごそとあさる。
「これ」
 そう言って宙が取り出したのは一枚の宝くじ。
 好きな数字を選ぶタイプのものだ。
「まさか……当たってた?」
「ううん、まだ」
 まだ。
 その言葉を理解するまでに、深イイ話一回分の時間を要した。
「そっか……当たるといいな」
 あまりに不憫で、それしか口にできなかった。
「何、その人を哀れむような視線は……」
「いや、強く生きろよ」
「何それ、わけわかんない」
 他に声をかけることも出来ずに歩き出すと、自然と宙は隣について歩いてきた。
「ふん、ふふ~ん。ふん、ふふ~ん」 
 最近どこかで聞いた旋律、流行っている歌なのだろう。

「……っ!!」

 不意にメロディが途切れた。
 隣では宙が立ち止まっている。
 ここ一ヶ月の間に一度も見せた事の無い厳しい表情で睨め付けている。
 その視線の先、
「姉さん」
 宙とは接点の無いはずの人物が佇んでいた。


155 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:39:19 ID:pVHuVLv8
「トモ……部活はどうしたの?」
 底冷えするような深い声。
 何処か虚ろな瞳。
 ありきたりな言葉の裏に在る、あからさまな敵意。
「駄目じゃない、こんなところでサボってたりしたら……」
 姉さんがこちらに向かって歩みを進める。
 ギクシャクした機械のような動き。
 まるで姉さん自身が追い詰められているように、その風貌からは余裕が感じられない。
「いっしょに……帰ろ」
 凍てついた空気を孕んだ真っ白な指先が迫ってくる。
 下手に扱えば壊れてしまいそうな、危さを秘め隠した表情。
 伸ばされた手を―――強く払った。

「俺が何処で、誰と、何をしていようと関係ないだろ!!」

「ひぅっ!」
 妙なうめき声をあげて指を引っ込めると、姉さんはズルズルと後退る。
「なんで……なんで……なんで……なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで……!!」
 絞りだすような声。
 悲鳴のような反響がこの場を埋め尽くしている。
「その女の所為だ」
 冷たい殺気。
 たった一言から生まれたそれが、足場を凍らせる。
「―――その子はトモの何?」
 友達だと言って通じるだろうか?
 否。
 一瞬、宙の表情を窺う。
 刹那のやり取り、宙は力強く頷いていた。
「俺の……彼女だよ……」
 その一言で、姉さんの表情が剥がれ落ちた。

「いやぁぁぁああああああああああああああああああああああああああ!!」

 鼓膜を引き裂くような悲鳴。
 まるで鎖の軋む様な慟哭。
 絶望の咆哮。

「今日はデートだったんだ」

「いやいやいやいやいやぁあああ!!
 いやだぁぁぁああああああああああああああああ!!」
 金切り声を撒き散らし髪をガリガリと掻き毟りながら、膝を付く。

「二人でショッピングして……」

「ヤメテぇぇぇ!!、きぎぃたぐなぃぃぃい!!」
 噴出す涙や涎、鼻水を拭いもせずに耳を塞いだまま髪を振り乱す。

「これから―――彼女の家に行くんだ」

 ブツリ。
 と、糸が切れたように姉さんは崩れ落ちる。
 力なく佇む姿。
 まるで憑き物でも落ちたかのようだ。


156 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:39:51 ID:pVHuVLv8

 なんだ、これ。

 野次馬達が騒がしい。
 冷やかし、影口、噂。
 俺たちはその輪の中心に居る。

 ここまでなるとは思ってなかった。

 いい機会だと思って、弟に彼女ができたって嘘を伝えただけだ。
 冷たく接して、引き離して、それにも少し疲れて。
 だからさっさと決着をつけて、楽になりたかった。
 それで―――こんな姉の姿を見る事になるなんて想像できなかった。

「キモチワルイ……」

 どこかから声がした。
 辺りを取り囲む大多数の意見、これが普通の反応だろう。
 姉さんの反応は異常だ。
「狂ってる」
 宙は蔑むように姉さんを見下ろしている。
 どこか宙が姉さんに向ける感情は周りのそれとは異質なものに感じる。
 憎悪。
 そう表現するに値する瞳の奥に宿る、緋色の篝火。
「……トモ」
 呻き声が聞こえる。
 それは注意して聞かなければ、周囲の雑音に掻き消されてしまいそうなほどの小さな音。
「タスケテよぉ……トモぉ……」
 相変らずの頼りない声。
 それなのにこの耳には届く、哀れな嗚咽。
 一瞬だけ、幼い頃の姉さんの姿が重なる。
 泣き虫だけどいつも優しくて、何処か頼りない、姉の姿。
 誘われるように一歩踏み出し……

 ここで手を差し出してどうするつもりだ。

 生まれた亀裂を塞ごうとでも思っているのだろうか?
 わからない。
 わかっているのは自分の手では姉を幸せにする事ができないという事。
 それなのに俺は手を伸ばそうとした。
 押さえられそうに無い衝動に突き動かされて……。
 愚かな行為だとわかっていても、救いたいと願ってしまう。
 救えないのに、救いたい。と、


157 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:40:40 ID:pVHuVLv8

 でも、それは俺の役目ではないはずなんだ。

 矛盾する心。
 助けを求めるように、宙を窺う。

 その瞳は―――俺を見ていた。

 感情を映さない瞳。
 怒りも軽蔑も落胆もなく。
 ただ、現実として俺の答えを見守っている。

「ごめん」

 そしてこれが、俺の答え。
 俺には姉弟を捨てる覚悟はない。世間を敵に回す勇気も無い。
 なにより、愛情のカタチが違う。
 故に―――どんな道筋を通っても、結局ここが終着点になる。
 だから、今ケリをつけた。
 中途半端な慰めも残さないように、姉さんの恋心を殺した。
 罪悪感は多少ある。
 けれど、心に刺さっていた棘が抜けたような安堵を覚えている自分がいる。
「そっか……そうだよね……いつから……」
 何処に向かっているかさえわからないぶつ切れの言葉。
 伏せたままの横顔からは表情は読み取れない。
「うん……そうだね……そうすれば…………よかったんだね……わたし……」
 泣き腫らした様なか細い声なのに、どこか微笑んでいるようにも聞こえる。
 俺は声をかけられない。
 瞳に灯る冷たい凶気、言葉に宿る仄暗い情念。
 初めて、人間を恐いと感じた。

「待っててね……トモ」

 そう残すとおぼつかない足取りで、そのままフラフラと立ち去ってゆく。
 その後ろ姿からは足音すら聞こえない。
 まるで影のように街並みに溶けていった。
「家まで送ってくれるんでしょ?」
「は?」
 立ち竦んだままの動けない俺の横腹に宙が肘を入れる。
「さっき、言ってたじゃない」
 さっき……
 ああ、確かに言った。
「早く行こ、あんまり長居したくない」
 苦虫を噛み潰したような顔で、歩き始める宙。
 固まりつつあった膝を無理やり動かして追いかける。
「これが、始まりね」
 追いつく寸前に耳を掠めた言葉。
 その意味を俺は少しも理解できなかった。



158 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:41:09 ID:pVHuVLv8
〈5〉

 商店街からは少々離れた小高い丘の上。
 宙の家は四階建てのマンションだった。
 白を基調としたオシャレな外装、来客用のテラスには手の入った植物達、
 駐車場に並ぶ高級外車、ロビーにはオートロックと正装した管理人。
 ベランダの広さから一世帯当たりの部屋の作りが広く取られている事がわかる。
 要するに高級マンション。
 考えを改めなければならない。
 宙さんはやっぱりお嬢様だ。
「ここでいいのか?」
「オッケー。良い筋トレになったでしょ?」
 最上階の角部屋。
 玄関で荷物を降ろすと踵を返す。
「それじゃあ、俺は帰るわ」
「ちょっと待った」
 後ろからシャツの襟首を引っ張られて首が絞まる。
「お茶くらい出すから上がっていって」
 返事も聞かずに……いや、正確には返事ができない状態のまま部屋に引っ張りこまれた。
 無意識の内に靴を脱いでいた自分にはあっぱれをあげておこう。
「……何?」
 圧迫から逃れた後、宙を睨んでやる。
「お前さぁ、ほんっっっとに人の話聞かないよな」
「うん、よく言われる」
 皮肉を笑顔で返すと、宙はリビングへと俺を通す。
 予想通りの広いリビングには必要最低限の家具。
 宙に促されてソファに腰をかけると、具合の良い反発が返ってくる。
「くつろいでていいよ。こっちはお茶用意するから」
 静かな家の様子からするとまだご両親や兄弟は帰ってきていないみたいだ。
 同級生の女子の家。
 しかも二人きり。
 普段あらば多少の動悸の激しくなるような状況も、まだ先程の件の切り替えができていないのか実感が湧かない。
 飾り気の無い部屋の様子も影響しているのだろう。
 部屋に住み着く独特の空気、生活感の希薄さ。
 そこで―――ふと、目に飛び込んできた違和感。
 棚の上にポツンとたたずむ四角いガラスの板。
 蛍光灯で白く反射するそれが妙に気になって席を立つ。
 近付こうと歩を進めようとすると、慌てて戻ってきた宙に追い越されて道を阻まれる。
「これはダメ」
 宙の後ろ手からパタンと音がする。
 四角い板はどうやら写真立てだったらしく、宙はそれを見られないように伏せたらしい。


159 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:41:45 ID:pVHuVLv8
「いいから座って」
 宙は急須と湯飲みを机に並べる。
 茶請けは商店街のお店で売っている蒸し饅頭。
 こういうところの趣味は合う。
 お互いに黙って、お茶を啜ると似たようなタイミングで一息つく。
「何も聞かないんだな、姉貴のこと」
 茶請けに手を伸ばしながら、本題に切り込んだ。
「聞かなくたってわかるわよ」
 あまり話題にも出したくないのか、そっぽを向いたまま宙も饅頭にかぶりついた。
「悪いな、なんか巻き込んじまったみたいで。そっちに被害が行かないようにこっちで手を打っておくから」
「別にいいわよ。貸しにしとくから」
 二ヒヒ、と小悪魔みたいな笑顔。
「お手柔らかに頼むな」
 手元にあった饅頭を一つ献上すると、宙は満足気な笑みを受かべる。
 この笑顔には勝てないな、となんとなく思ってしまう。
「じゃあ、貸しついでにあともう一つ頼みたい事があるんだけど……」
「了解。でかい貸しだからコツコツ返すことにしましょう」
 お互いに空になった湯飲みに茶を継ぎ足す。
 お湯の量が足りなかったのか、湯飲みは半分程度しか満たされなかった。
「男手があるうちに『荷物』を運び込んでおきたいの」
「何処にあるんだ? その荷物って」
 ずずっとお茶を飲み干して、宙は一言、

「実家」

 『そんなに遠くないから』とだけ告げると簡単に片付けをして宙はマンションを出る。
 追いかけるように扉を抜けて、先を歩く宙に並んだ。


160 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:42:14 ID:pVHuVLv8
「そんなに遠くないのなら、実家から学校に通えばよかったんじゃねーの?」
「いろいろと事情があるの」
 そう答える宙の表情は硬い。
 他人のことを言えた状態でも無いが、宙の家にだって事情があるのだろう。
 あまり深く詮索するのは躊躇われた。
 影のある表情で『何も聞いてくれるな』と、宙の横顔が語っていたから。

「別に、勘違いとかしてないから」

 沈黙の中、突然そんな言葉が宙の口から飛び出す。
 主語が無いうえに話の脈絡が繋がっていない。
「何が?」
「は!? いや……そのぅ……」
 なんとなく言いにくそうな顔をしているが、言ってもらわないことには始まらない。
「え~と……アレよ!! アレ!!」
 恥ずかしいんだか怒ってるんだかよくわからない妙な視線を投げかけてくる。
「いや、わかんねぇし」
 先に焦れたのは宙だった。
「あぁ~もう!! 彼女のくだりよ!! 彼女の!!」
 逆ギレですか?
 というか、
「今更、話し合うほどの事でもないだろうに」
「え?」
「俺だってちゃんと心得てる」
「ちょ、ちょっと…待ってよ」
「そっちだって、同じこと考えてるんだろ」
「そんな……いきなり……」
「しばらく付き合ってるフリはしてもらう事になるかもしれないけど、あまり迷惑のかからないようにする」

「………………当たり前でしょ」

 宙は口を尖らせ、歩みのペースを上げる。
 追いつこうとこちらもペースを上げると宙もギアを一段上げて引き離しにかかる。
 なんで不機嫌になってるんだ?
 理由はわからないが、姫は御立腹らしい。
 近くもなく、かといって遠いわけでもない微妙な距離感。
 お互いに手探りのような緊張感。
 近頃、急に長くなった陽が二人の距離を影で表していた。
「あ、そうそう……」
 少し前を歩いていた宙が引き返してきて、背後に回る。
 ゲシッ!!
 無防備な尻にムエタイキックが突き刺さった。
「なんでケツを蹴るんだよ」
「自業自得」
「意味わかんねぇよ」



161 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:42:48 ID:pVHuVLv8
〈6〉

 角を数回曲がると見知った道に出る。
 それもそのはず、ここは俺が学校に通う時の通学路そのものだ。
 それを俺たちは逆行している。
 見慣れた景色、見慣れた町並み。
 昔、このあたりに居たのなら何処かで会っていたのかもしれない。
「ここ」
「ここ、って……これは……」
 ありえない。
 なんたってここは……
「たしかこれだったかな?」
 宙は幾つかの鍵が連なったキーホルダーから一つの鍵を選ぶと、鍵穴に差込む。
 ガチャリ。
 やや重いシリンダーの噛み合う音がして、開くはずの無い扉が開く。
「おい、ちょっと待てって!!」
 静止を無視して宙は玄関へと足を踏み入れる。
 それとほぼ同時にトテトテと軽い足音がこちらへと向かってきた。
「おかえりぃー……っておねえちゃん、だれ?」
 迎えに来た少女と鉢合わせると宙は息を呑む。
 紗耶と宙。
 見詰め合う二人、やがて宙はそっと紗耶を抱きしめ母親のように優しく両腕で包む。
 眼を丸くして驚く紗耶、その耳元で宙はそっと呟く。

「おねえちゃんは……あなたの味方だよ」

 その一言で、くたりと力の抜けてしまった紗耶を宙は受け止める。
「お前、紗耶に何を……!!」
「大丈夫、眠ってるだけだから」
 宙は紗耶を抱え上げると、俺の両腕に紗耶を返す。
 紗耶は腕の中で穏やかな寝息を立てていた。
「説明しろよ」
「何を?」
「何で俺の家の鍵を持ってるのか? 紗那にいったい何をしたのか? ここにある荷物って何なのか? 全部説明しろ」
 場合によってはただじゃおかない。
 そういう威嚇を込めた言葉をぶつける。
 宙は一瞬だけ物憂げな表情を浮かべると、すぐに元の表情を取り繕う。

「そういえば、私あんまり自分の事を話したこと無かったね」

 そう語り始めると、宙は勝手に俺の『実家』に上がりこむ。



162 名無しさん@ピンキー sage 2009/06/30(火) 00:43:28 ID:pVHuVLv8
 ―――何かが腑に落ちない。
 宙がこの家に足を踏み入れてから付きまとう、喉の奥につかえる違和感。
 その手がかりさえ掴めない焦燥感。
 そのくせ、致命的な何かを見落としていると胸の奥が騒ぎ立てている。

「私は三人兄弟の末っ子で、上の姉弟とは結構年が離れてたの。
 私ってば小さい頃は人懐っこかったみたいで、兄からは結構可愛がってもらってたんだ。
 姉には……あまり好かれてなかったみたいだけど」

 宙は振り返らずに廊下を進み始める。
 自然な足取り。
 時折見せる仕草。
 宙の明かした情報の断片がおぼろげだった違和感の正体を手繰り寄せ始める。

「私の両親は仕事が忙しい人でね、面倒は兄がよく見てくれてたの。
 その所為かな、私は結構ブラコンに育っちゃって色々とお兄ちゃんに迷惑かけてたみたい。
 赤ちゃんの頃なんかはお母さんのおっぱいと間違えてお兄ちゃんのおっぱいに噛み付いた事もあるんだって」

 くすくすと笑いながらリビングに足を踏み入れた宙は、
 壁紙にうっすらと残った落書きに指を滑らせて柔らかな表情を浮かべる。

「お兄ちゃんの背中をずっと追いかけてたなぁ。
 年が離れてる所為もあって、私は追いかけるので精一杯だったけど―――お兄ちゃんは必ず待ってくれていた。
 見守ってくれて、時には手を引いてくれた。本当に私を大事にしてくれた、優しい兄だった」

 昔を懐かしむ声。
 けれどそれは、もういない人を懐かしむかのような哀しい響き。

「そんな私の自慢のお兄ちゃんはね高校時代はサッカー部のエースで、トロフィーや賞状をいくつも持ってたの。
 この地区では有名な選手だったらしいよ。そして……将来の夢は……」

「日本代表」

 自然と言葉が漏れた。
 知る人の少ない俺の夢。
 誰もが持っているはずなのに、口にしてしまえば笑われてしまうような夢。
 宙の知らないはずの夢。
 そして、止まない胸騒ぎの正体。
 宙は一瞬だけ驚いた表情の後、優しく微笑んだ。

「紗那は逆さにするとNASA。NASAといえば宇宙……だからソラ。安直でしょ?」

 深い憂いを秘め隠した微笑み。
 その瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。
 夕日の差し込む窓際。
 柔らかなオレンジ色の中で宙はメガネを外し、髪を束ねていた輪ゴムを解く。

「やっと、気付いてくれたね……お兄ちゃん」

 そうやって宙は説明の半分を終わらせた。

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最終更新:2009年08月10日 21:40
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