桔梗の剣(その1)

「お兄様」

 背後からかけられた声に、新谷又十郎はうんざりしそうなるのを懸命に堪えた。
 声の主は分かっている。妹の桔梗の声だ。いや声を聞くまでもない。年頃の娘特有の、花のような体臭は、今この道場にいる汗まみれの男たちとは明確に違い、たとえ半間の距離からでも瞬時に判別がつくのだから。
「それでは今日も――小半刻ののちにまた、道場で」
「分かっている」
 振り向きもせずにそう答え、又十郎は額から滝のように流れる熱い汗を手の甲で拭う。
 だが、又十郎のしかめっ面は何も汗のせいだけではない。これから後、桔梗と二人と過ごさねばならない時間に、どうしても憂鬱さを覚えずにはいられないからだ。
「どうぞ」
 すっと手ぬぐいが差し出された。
「……済まんな」
 その手ぬぐいを受け取りながら、しかし憮然とした表情で又十郎が振り返ると、桔梗はその独特な――年頃の娘というより少年のように中性的な――美貌にひまわりのような屈託の無い笑顔を浮かべた。
 しかし、これまで自分や門人たちと激しい稽古に勤しんでいたはずなのに、汗一筋かいた様子も無い笑顔は、又十郎の神経を苛立たせる。
(おれの仕切った稽古では、まだまだぬるいと言いたいのか)
 又十郎は何も言わず、手ぬぐいで顔をごしごしと、必要以上に手荒く拭った。


 時は文久元年。
 勅許を得ないままの強引な開国政策と、それに伴う反対派への大弾圧――いわゆる安政の大獄――を巻き起こした井伊掃部頭が桜田門外で討たれ、はや一年。だが、そんな烈風吹きすさぶ世相をよそに、この楯山三万石の城下町は平和そのものだった。
 剣術指南役たる新谷源左衛門は主君・久世山城守に従って江戸に出府しており、その留守を預かるのが、長男である又十郎の役目であるというわけだ。しかし道場には又十郎よりも年配の門人も多数在籍しており、一抹のやりにくさがないと言えば嘘になる。
 だが、又十郎が覚える息苦しさの真の原因が、この二つ年下の妹である事を知る者は誰もいない。


「若先生」
 野太い声が自分を呼ぶ。
 又十郎が顔を上げると、数人の門下生を背に従えた関口がそこにいた。
「これからみんなで『あけぼの』に繰り出そうかという話になっておるのですが、どうです、たまには一杯?」
 関口が、その巨躯に相応しい毛むくじゃらの手で、くいっとおちょこを呑む仕草をする。
(酒か……)
 いいな、と思う。
 又十郎自身、決して酒が嫌いなわけではない。むしろ気の合う仲間数人でわいわい騒ぎながら飲む酒は、とても楽しい。
 関口は、この新谷道場の嫡男である自分に一応遠慮した口を利くが、元をただせば少年時代から肩を叩き合って互いに稽古に励んだ友人でもあるし、彼の背後に居並ぶ連中もみな同期の古株――又十郎にとって気心の知れた仲間たちだ。久し振りに彼らと飲み明かすのも悪くない。
 なによりこれから桔梗と過ごさねばならない憂鬱な時間を鑑みれば、選択の余地などない誘いであると言える。
 だが――。

「あ、ごめんなさい関口さん、今日のところはご勘弁願えますか?」
「桔梗」
 たまらず又十郎は妹をたしなめた。
 しかし、桔梗は兄の顔も見ず、むしろ楽しげに言った。
「今日こそ早くお屋敷に帰してあげないと、お義姉様がお怒りになるんです」
 お義姉様とは兄嫁、つまり又十郎の妻である葵のことだ。
 桔梗はいたずらっぽい流し目を兄に向けると、
「お義姉様のご機嫌が悪くなると、色々困るんです。結局とばっちりを食うのは桔梗なんですから」
 と微笑んだ。
 関口は目を丸くさせ、そして仲間たちとともに大きく口を開けてからからと笑った。三ヶ月前に祝言を挙げた新妻を、又十郎が意外なほどに大事にしているのは、道場では周知の事実だったからだ。



「関口」
 こうなってしまうと又十郎の取れる行動は一つしかない。彼は笑い続ける関口と妹の間に割って入り、羞恥に紅く染まった頬を隠すように頭を掻いた。
「済まん。……また誘ってくれ」


「関口さんにも困ったもんだよね」
 彼らが去り、がらんとした道場で再び防具のひもを締め直しながら桔梗がぽつりと言った。その冷たい声音は、さっきまでの日輪のような笑顔をまったく連想させる余地を持たない。
「そういう言い方はよくない。あいつはあれでも……」
「お兄様」
 凛とした桔梗の声が、又十郎の言葉を遮るように響く。
「桔梗に逆らうの?」
「…………」

 かつての桔梗は、又十郎に向かってこんな傍若無人な口を利くような妹ではなかった。兄じゃ、兄じゃと仔犬のように自分を慕って、どこまでも自分の後を付いて来るような無邪気な少女だったはずだ。
 だが、ここにいる桔梗は、もはやあの頃の彼女ではない。又十郎もかつての又十郎ではないのと同じように、ここにいる桔梗も、かつての可愛らしい妹ではないのだ。
「じゃ、始めよっか」
 そう言って、桔梗は冷えた眼差しを兄に向けた。

―――――


 又十郎とて、剣人としてまるっきりの凡骨というわけではない。
 まだ二十歳の若造であるにもかかわらず、年配の門人たちを差し置いて道場を仕切っているのは、彼が道場主たる新谷源左衛門の嫡男であるという理由だけでは決してない。十六歳で目録を取り、十八歳で免許皆伝を許された彼は、新谷流屈指の剣士でもあったからだ。
 その技量は――麒麟児とまでは呼べずとも――まずまず俊才と呼んで差し支えはないものであったろう。彼が道場の御曹司であることを差し引いてもだ。
 あと数年も経てば江戸に出府し、源左衛門に代わって剣術指南役として藩主に直々に仕える事になるだろうし、実際、彼としても生半可な相手に自分が遅れを取るとは思えない。
 だが、そんな又十郎をしても、道場で二人きりになれば妹には逆らえない。

 桔梗は、まさしく剣の天才だった。
 剣術道場の子として幼い頃から竹刀を玩具代わりに育った又十郎と桔梗ではあったが、妹の才能はまさに圧巻だった。十歳で初めて父から一本を取った彼女は、その後も着実に成長を続け、十五になった頃には、もはや完全に道場に敵はいなくなっていた。
 だが、それと時を同じくして、桔梗は道場から足を遠ざけるようになる。
 藩主に剣を指南するはずの新谷一刀流――その道場最強の使い手が、可憐な小娘であるという評判は、新谷家にとっても藩にとっても、決して喜ばしいものではないからだ。
 誰に言われるでもなく桔梗は、周囲のそういう空気を嗅ぎ取ったのであろう。

「あいつが男であればなあ」
 酔った父がそう愚痴をこぼすのを又十郎とて何度聞いたか分からない。
 そんな言葉を聞くたびに、又十郎の胸を疼くような痛みがよぎったのも事実だ。だが、反論は出来ない。桔梗の才を思えば、父の無念も当然だと思うからだ。
 かつて父が母と話しているのを聞いたことがある。
――新谷家はただの石取り武士ではない。刀術を以って主君に仕える技術者なのだ。ならば生まれた順番で嫡子を決めるなど馬鹿げている。より天稟に恵まれた者こそが家を継ぎ、次代にその血を残し、技を伝えるべきなのだ、と。
(親父はやはり、おれではなく桔梗のやつを――)
 又十郎が暗澹たる思いに身を包んだ瞬間、源左衛門はその言葉をこう続けた。
「だが、ままならぬものじゃな。――桔梗め、婿を取ってこの家に残れと言ったわしに、いやだとぬかしおった。この家を継ぐのは又十郎しかおらぬ。又十郎が家を継がぬなら、自分は尼寺にでも行く、とな」

 父が語ったその言葉に、又十郎は呆然とした。
 源左衛門が、又十郎の婚約と桔梗の縁談をまとめてきたのも、それから数日後のことだった。



.
(あわれなやつだ)
 又十郎は、そう思う。
 桔梗に劣等感を抱いた事がないと言えばさすがに嘘だ。
 だが、実際のところ又十郎は、桔梗に対して劣等感よりもむしろ罪悪感を覚える方が深かった。
 事実上、桔梗に家督を譲られたという思いだけが理由ではない。彼は、自分と共に竹刀を振るっていた妹が、いかに楽しげであったかを覚えていたのだ。そして道場に来なくなった妹が、いかに寂しげで、悄然としていたかも。
 もし兄たる自分が、少なくとも桔梗より強かったなら、せめて彼女も、もう少し心安らかに剣を置けたはずだ。だが、現実はそうではない。桔梗は天才のまま、天才である己を捨てねばならない。その無念と鬱屈はまさしく想像を絶するものであろう。
 そしてそのまま、桔梗は父が調えた縁談を受け入れて他家に嫁ぎ、新谷家から姿を消した。輿入れの際に桔梗が見せた――かつての溌剌とした妹とは、まるで別人のように覇気の無い小さな背中を、又十郎は今も覚えている。
 彼が周囲を絶句させるほどの熱意を稽古に込め始めたのは、それからのことだった。

(おれがもっと強かったら、桔梗にキチンと引導を渡すことも出来たのだ)
(おれが弱かったから、桔梗は挫折すら知ることなく道を諦めざるを得なかったのだ)
 その罪悪感があればこそ、又十郎は己に課した『荒行』と呼べるほどの努力を怠らず、父から免許皆伝を許されるまでの自分になれたのだ。
 だが、まだ足りない。彼はまだまだ現状に満足していない。
 せめて妹の分までおれが強くならなければ、あいつは浮かばれない。
 そのためには、まだまだ強くならねばならない。
――又十郎はそう思う。
 そんな又十郎にとって桔梗は、越えるべき目標である以上に、守るべき大事な妹であった。剣士としての名誉を掴めなかった彼女に、せめて女として当たり前の幸福を掴んで欲しい。そう思う対象であったのだ。
 だから、妹の結婚生活が上手く行きますようにと誰よりも願っていたのは、父よりも母よりも、この又十郎であったと言っても過言ではない。

 そして又十郎も今年に入って、ようやく己の婚約者と祝言を挙げた。
 すでに彼は二十歳を迎えており、当時としては晩婚だったと言ってもいい。
 だが、又十郎が結婚に踏み切ったのは、いつまで待たせる気だと婚約者の実家から矢の催促を受けたことだけが理由ではない。免許皆伝を得てもなお精進を続け、父から三本に二本を取れる腕になった自分を、ようやく一人前になったかと認めることができたからだ。

 だが、桔梗は帰ってきた。
 又十郎が式を挙げてから一ヶ月も経たない内に、夫から強引に去り状をもらい、三年間の結婚生活など最初からなかったかのように新谷家に帰ってきたのだ。
 一体婚家で桔梗に何があったのか、それは分からない。桔梗は黙して何も語らないからだ。その沈黙は父をさらに激怒させ、母はそんな父娘喧嘩を目の当たりにして泣き喚いたものだが……それでも又十郎は彼女を庇った。
 新妻の葵に、これ以上身内の醜い諍いを見せたくなかったというだけではない。又十郎はこの妹を可能な限り労わってやりたかったのだ。

 そして源左衛門が藩主の参勤交代に伴って江戸に発って五日後、桔梗は数年ぶりに道場に顔を出す。
 彼女を知る古参の門人たちは驚き慌てたが、その桔梗は以前のように無邪気に己の強さを誇示する事は無かった。彼女の舞踏のような美しい剣さばきは健在であったが、かつて天才と呼ばれた往時の冴えは、その剣に無かったのだ。
 考えてみれば当たり前の話だ。
 どれほどの才であろうとも、数年間も研磨を怠った宝石がいきなり過去の輝きを放てるわけが無い。
 関口などはむしろ安堵したような表情で、
「これでよかったんだよ」
 と又十郎の肩を叩いたものだが、しかし彼はそんな妹に違和感を禁じ得なかった。
 そして、その違和感はその晩のうちに、最悪の形で立証される事となる。

 久し振りに道場に顔を出した妹は、稽古終了後にこう言った。
「ねえ、お兄様、稽古の後ちょっと桔梗に付き合ってよ」
「どうした?」
「さすがに勘が鈍っているみたいだし、もう少し体を動かしたいんだ」
 又十郎にとっても、その桔梗の申し出を断る理由は無かった。
 妹がどういうつもりで稽古に参加したのかは分からない。
 だが、道場で汗を流す彼女には、実家に戻ってきて以来の――いや、かつて道場から足を遠ざけて以来の――陰鬱な態度が完全に払拭されてしまっていたのだ。体を動かす事で気が晴れたと言うのなら、彼としてもその結果に全く文句を付ける気は無い。
 そう思って通常稽古が終わって小半刻ののち、ふたたび防具を身に付けて桔梗と対峙した又十郎は、まさに徹底的に妹に打ち据えられることになる。



.
 天才はやはり健在だった。
 桔梗が道場を去っておよそ三年。
 その間に少しは強くなったという自負が又十郎にはある。
 血尿を日常とするほどの努力もしたし、源左衛門から免許皆伝も許された。道場にはまだ彼よりも強い年輩の門人たちが何人か在籍しているが、それでもいずれは彼らを追い抜き、道場の首席になれる確信もあった。
 だが、――それでも桔梗には自分の剣が通用しない。
 三年の空白で技が曇ったなどとんでもない。
 愕然としながら道場の床に這いつくばる又十郎に、そんな桔梗はにっこりと微笑んだ。

「安心してよ、お兄様。これからも稽古に参加するにさし当たって、桔梗は絶対に本気を見せないことを約束するから。お兄様のお立場をまずくするような事は、桔梗としても不本意だもんね」

「でも、その分お兄様は、この哀れな妹の憂さ晴らしにお付き合い願うよ」

「ふふふ……そんなに怯えなくとも毎日とは言わないさ。――そうだね……毎月、一と五と八のつく日にでもお願い致しましょうか。未来の剣術指南役による不肖の妹の居残り稽古を……ね」


 そして今日、日付は十八日。
 又十郎は溢れる憂鬱さを押さえ切れなかった。

――――――


 灼け付くような痛みが又十郎の全身を包む。
 のどがひたすらに渇く。もう唾すら出ない。
 先程までの稽古とは比較にならない疲労とダメージ――すべては桔梗の凄絶なまでの竹刀さばきがもたらした結果である。道場の若先生として人に教えている立場では決して味わう事など無いはずのものだ。
「さあ、もう一本!!」
 桔梗の鋭い声が飛ぶ。
 いや、鋭いのは声だけではない。
 彼女の動きも剣も、先程までの通常稽古と比べて、段違いにその切れを増している。
(ようやく体があったまってきたよ)
 とばかりに、湯気のような気を立ち上らせながら。

(くそっ!!)
 渾身の力で打ちかかる。
 だが、その打ち込みをあっさりと外した桔梗は、蛇のような速度で又十郎に竹刀を跳ね上げる。その思わぬ角度からの攻撃を、かろうじて又十郎の竹刀は防いだ。が、二の太刀、三の太刀と矢継ぎ早に襲ってくる桔梗の剣の前に、早々と又十郎は防戦一方だ。
 息もつかせぬ桔梗の連続攻撃を何とか凌ぎながら、又十郎は待つ。おびただしいコンビネーションに隠された桔梗の得意技――突きの瞬間を。体重を乗せた刺突を外された術者は、たとえどれほどの達人であっても体勢を崩し、隙を作らざるを得ない。
 そこを狙う。
 そして、又十郎の狙い通り『それ』は、来た。
 その稲妻のような突きを、又十郎は上体を反らして避け、一歩踏み込む。
 だが――。

「ッッッ!!」

 その瞬間、又十郎は何をされたのか気付かなかった。
 一間ほど吹き飛ばされ、羽目板に叩き付けられる。失神すらできない。あるのは内臓を直接ブッ叩かれたような衝撃。呼吸すら満足にできないほどの圧倒的な痺れ。
 ぶざまに体をくの字に曲げ、見開いた眼は何を見ることも許されないままに、又十郎はだらしなく口を開き、重力に任せるままに大量の涎を排出する。
(二段突き、かよ――)
 桔梗の突きを躱して懐に入り込もうとした又十郎の胸部を、まさに迎え撃つ形で桔梗の電光のような突きが襲ったのだ。彼はその攻撃を防ぐ事はおろか、その目に捉えることさえ出来なかった。
 その衝撃は防具や筋肉によって分散されながらも、きれいに又十郎の体の芯に叩き込まれ、気絶すら許されない地獄の苦悶を強制するには充分な威力を持っていた。
 だが、白痴のような表情で痙攣している又十郎を、熱っぽく見つめる桔梗は、さらに容赦のない、鋭い声で言い放つ。
「さあ、お兄様っ、もう一本っっ!!」



.
 又十郎が帰ってきたと聞いて出迎えた玄関先で、葵は反射的に息を呑んだ。
 桔梗に肩を担がれ、道場から戻ってきた夫は、まるで溺死体のような真っ青な顔をしていたからだ。
「あなた……ッッ」
 顔だけではない。
 おそらく稽古着を脱げば、全身アザだらけになっている事だろう。
 葵は承知している。
 又十郎がこんな状態で道場から帰って来るのはこれが初めてではない。
 この二ヶ月というもの、一と五と八のつく日に夫は妹に稽古をつけ、そして必ず瀕死の状態で戻ってくる。そして今日は十八日だ。だが、たとえどんな口実があろうとも、自分の夫をここまで手酷く痛めつけられて、笑って出迎えられる妻などいるはずが無い――。
 しかし、この義妹はそんな兄嫁を鼻で笑うような口調で言い放った。

「お義姉様、もういい加減に慣れたらどうなの?」

 思わず身を強張らせた葵の傍らを、兄を肩に担いだ妹がえっちらおっちら通り過ぎる。
 二人――とは言っても、又十郎は意識があるのかどうかも分からない状態なのだが、それでも、身を寄せ合って進む兄妹の溢れんばかりの汗の匂いに、しとねで睦み合ってきたばかりの男女のような生臭さを感じ取り、葵の頬は紅潮する。
 しかし、何か言おうと振り向いた彼女を待っていたのは、射抜くような桔梗の冷たい瞳だった。
「分かっていると思うけど、これは新谷流を担う者として当然の修練――お義姉様には『関係の無いこと』だからね。いくらお兄様のオヨメサンでも口出しはさせないよ」

 その一言を前に、葵は動けなかった。
 分かっている。
 自分は又十郎の単なる妻に過ぎない。
 この新谷家が剣を以って世に立つ一族である以上、これは稽古だと言われてしまえば葵にはどうしようもないのだ。
(だからって……ッッ)
 そう。だからといって、このままでいいわけがない。
「桔梗さん……お待ちなさいッッ!!」
 そのまま小走りに二人に追いつくと、両手を広げて葵は廊下をふさぐ。
「ここから先はワタクシが夫を運びますッッ!」
 そう叫んだ葵の表情はむしろ悲痛とも言うべきものであったが、桔梗はそんな兄嫁に倍する鋭い視線で彼女を迎撃する。

「――道を開けてよ、お義姉様」

 兄嫁と義妹。
 口調と語調こそ二人の関係に乗っ取ったものではあったが、そこに込められた意思は明白だった。
 邪魔をするなら斬る。この場で斬り捨てる。
 桔梗の眼はそう言っていた。
 そして葵は、その殺気の前に今度こそ微動だにできなかった。


 居間に戻り、ぺたりと腰を降ろす。
 まるで下半身の骨がぐにゃぐにゃになってしまったようだった。
 自分の無力を嘆くように、葵は小さく溜め息をつく。

 分からないことは幾らでもある。
 まず、自分の兄をあれほどまでに徹底的に嬲り抜ける桔梗の神経が、葵にはまるで分からない。普段の桔梗がどれほど兄にべったり懐いているか、葵はよく知っていたからだ。
 それだけに不可解でならない。あくまで稽古だと主張してはいるが、まるで人変わりでもしたかのような――又十郎に対して桔梗が示す、その凶暴性が。
 そしてもう一つ。
 桔梗が何故これほどまでに自分を憎むのか、ということだ。

 楯山藩筆頭家老たる大杉忠兵衛の末娘・葵が、新谷又十郎の許婚(いいなずけ)となったのは、三年前の夏だった。
 ある日いきなり結婚せよと命じられ、初めて会った男の下に嫁ぎ、人生を全うする。それが当時の武家社会における一般的な婚姻である。無論、例外はある。だが少なくとも、その当時の常識に、自由恋愛の延長としての結婚など存在しなかった。
 しかし幸運なことに、葵はその日初めて会った又十郎に好印象を持った。
 まあ、自分と同世代の若者と言えば、秀才を鼻にかける嫌味な兄しか知らなかった葵が、剣術道場の御曹司たる又十郎に興味を持ったのは、ある意味当然と言えたかもしれない。
 それから幾度か、葵は新谷家に出入りする機会があった。
 いかに縁談がまとまったとはいえ、仮にも筆頭家老の娘である。新谷家で彼女を歓待せぬわけが無かった。常に宴会というわけでもないが、源左衛門も又十郎も、この可憐な未来の嫁を笑って出迎えたものだ。
 だが、――この桔梗だけが一人、葵に怜悧な視線を向けていた。


.
 葵が結婚前に桔梗と会ったのは、わずか一度しかない。桔梗はつとめて、この未来の兄嫁の前に顔を出さなかったからだ。だが、そのときの桔梗の様子を、強烈な印象とともに葵は記憶していた。
(この子は何故、ワタクシをこんな眼で見るのかしら)
 当時の葵が理解できなかったのも無理はないだろう。歴然たる権門の令嬢として大杉家に育った彼女に、そういう負の感情をまともにぶつけてくるような人間は皆無だったのだから。

 しかし葵は、桔梗が自分に向ける感情の正体を深く考える事は無かった。
 どうせいつか桔梗も嫁に行く。
 自分が新谷家に嫁ぐように、桔梗もいずれ他家に嫁いで、この新谷家からいなくなる人間なのだ。そんな女が何を考え何を思っていようが知った事ではない。そうタカをくくっていたのだ。
 そして実際、婚約成立からいくらもせぬうちに、桔梗は新谷家から他家に輿入れしていった。
――それが三年前だ。
(せいせいした)
 と、その当時の葵が思わなかったと言えば、さすがに嘘に近い。
 だが、自分たちの祝言からわずか数日と経たぬうちに、桔梗は帰ってきた……。

 無論、葵はもう知っている。
 まるで侵入者どころか侵略者を見るような、あの眼光。――その正体が純然たる敵意である事を。
(でも、どうしてなの……?)
 葵には分からない。自分が桔梗に憎まれねばならない理由が。
 この不可解な出戻り義妹が又十郎に見せる無邪気な仔猫のような表情は、その首の角度が葵に向けられるや、途端に真っ白な能面に切り替わる。そして、その眼光は能面から程遠い鋭利なものだった。
 彼女は一体、自分に何を怒っているのか。
 彼女は一体、自分に何をして欲しいのか。
 今もなお、それは判然としないままだ。

―――――


 又十郎はまだ意識を取り戻さない。
 まるで死体のように引きずられる兄の体重を感じながら、妹は笑っていた。
 彼女が普段、両親に向けている無邪気な笑顔とはまるで別人のような暗い笑みではあったが、それでも桔梗の胸が万感の愉悦に満たされている事は一瞥で見て取れるだろう。
――その笑みを周囲で見ている者があれば、だが。

 楯山藩剣術指南役・新谷家の屋敷はそれほど広大なものではない。幾らも進まぬうちに桔梗は兄の部屋に辿り着く。桔梗は、兄を起こさぬように注意しながら畳に横たえると、行灯に火を灯し、押入れから布団を敷いた。
 彼女の薄笑いは、いまだ口元に張り付いたままだ。
(あの女、真っ青になって怯えてた……)
(桔梗の一睨みで、馬鹿みたいに震えてた……)
 その事実は、桔梗にとって骨が鳴るほどに喜ばしいものだった。
 布団を敷き終えると、そこに又十郎を寝かせ、いまだ半失神状態の兄の顔を見つめた。

――やっぱり、随分と腕を上げたんだね、お兄様。

 今更ながらに、彼女はそう実感する。
 その事実は、桔梗にとっては先程までの暗い愉悦の比ではない、純粋な喜びだった。


 かつて天才と呼ばれた頃の桔梗にとっては、兄としての又十郎はともかく、剣士としての彼など、それこそ歯牙にもかけない相手でしかなかった。実際に試合をしても、一本打ち込むのにさほど労力を要した記憶は無い。
 過去の兄妹の間には、それほど歴然たる技量の差があった。
 それに桔梗は、それほど自分の腕が落ちたとは思ってはいなかった。
 無論、道場で無敗を誇っていた往時に比べれば稽古不足は否めない。
 だが桔梗は、道場から足を遠ざけても、実はこっそり夜間に素振りや打ち込みなどをして、気晴らしをしていたのだ。それはかつての婚家でも変わらない。むしろ新谷家にいた頃よりも個人稽古に身を入れていたといっても過言ではない。
 つまり桔梗としては、それほどまでに結婚生活に不満を抱いていたという証明なのだが、それでも結果として、己の剣速の伸びに、さほどの衰えがないことは確認済みだった。



.
 だが、それがいまやどうだ。
 この三年の間に、兄はおそろしく強くなっていた。
 二ヶ月前、稽古後に久し振りに二人きりで立ち会った時、桔梗は密かに瞠目したものだ。
 あの時、桔梗は確実に本気の剣を振るっていた。
 にもかかわらず、それでも過去のように一撃で勝負を決められなかった。十数合打ち合わねば有効打を放てなかった。三年ぶりの仕合稽古という前提条件を差し引いても、それでも桔梗にとってそれは驚嘆すべき現実だったのだ。

――そして、それは今もそうだ。
 その二ヶ月前から比較しても、兄のしぶとさ・粘り強さは着実に上がっている。
 たとえば今日の仕合ならば、自分がかつて得意とした突き技を躱され、思わず二の突きを出さずにいられなかった。これがどういう事かは、もはや明白だ。
(強くなってる……お兄様は、まだこれからも強くなれるんだ……ッッ)
 まだまだ桔梗と互角に渡り合えるほどの腕ではないにしろだ。
 その事実に、彼女は身が震えるような深い感動を覚える。

 桔梗が剣から身を置いた事実に対して、兄が負い目を感じている事を彼女は知っている。また、桔梗の嫁入りの日から、彼が凄まじいまでの修行に明け暮れていた事も、そして新たに身に付けた実力によって父から免許皆伝を許された事も、彼女は知っている。
 又十郎は本来、剣客には向かない性格の男なのだ。
 一介の武芸者として生きるには、優しすぎる男なのだ。
 彼を飛躍させる事になった「荒行」にしても、元をただせば桔梗に対する罪悪感こそが、兄を追い立てた結果であり、その罪悪感とは即ち、自分に対する兄のズレた優しさの発露でしかない。
 桔梗は、そんな優しすぎる兄が大好きだった。
 剣に対する未練が無かったとはさすがに言えない。つらかったのは事実だ。だが、それでも自分の存在が兄の家督継承の妨げになるならば、もはや彼女にとっても何も言うべき言葉はない。兄のためならば、自分は喜んで身を引こう。
――彼女はそう思っていたのだ。

 だから桔梗は、父の用意した縁談を受諾し、この家を――兄のもとを去った。
 又十郎を廃嫡し、婿を取って新谷家に血を残せという――その命令がいかに非常識なものであったかはともかく――源左衛門の言葉に逆らった以上、新谷家に自分が居座り続けることは、すなわち兄の居場所を奪う結果を招くことになる。
 そう思ったからだ。
 そして桔梗は、失意のままに見知らぬ男と結婚し、その男の妻として三年間、耐えた。「耐えた」という言葉が当て嵌まるほどに、その結婚生活は桔梗にとって苦痛に満ちたものであったのだ。
 だが、又十郎がようやく三年越しの婚約期間にケリをつけ、祝言を挙げたと噂を聞き、彼女の忍耐は限界を超えた。
 気がつけば桔梗は、夫に剣を突きつけ、
「去り状を書いて下さい」
 と命令していた……。



.
 自分が愚かな行動をしている事は分かっている。
 こんなことをしていても何もならない。
 だが、桔梗はどうしても我慢できなかった。
 兄の傍らに葵が――いや、自分以外の女がいるという現実に、桔梗は耐えられなかったのだ。
 桔梗も三年間、人妻として過ごした女だ。夫婦となった一組の男女がいったい何をするのか、当然知っている。そして知っている以上、彼女の苛立ちが収まることは無い。

 桔梗の大好きな兄が、自分以外の女を妻として愛している。
 桔梗の大好きな兄が、自分以外の女を妻として抱いている。

 その現実こそが、桔梗の神経を何よりも苛立たせるのだ。
 だから、その現実が改変されない限り、彼女の心が安らぐ事はない。
 しかし、だからと言って、桔梗には何をどうする事も出来ないのだ。
 葵が気に食わないから離縁すべし、などと非常識なことを兄に対して言えるわけも無い。
 稽古に顔を出し、兄をぶちのめしたのは、そんなどうしようもない、やり場の無い怒りを直接本人にぶつけてやりたかったからだ。
 無論、そんな手酷い悪戯は、その日限りにするつもりだった。
 だが、道場の床に横たわって泥のように喘ぐ兄を見て、桔梗は考えを変えた。

 又十郎が兄である以上、そして桔梗が妹である以上、妹が兄に女として認めてもらう事など絶対に不可能だ。
 ならばどうする。
 取るべき道は一つしかない。
 女として兄の隣に立つことを許されないならば、剣士として隣に並び立つしかない。いかに葵が、公的に認められた又十郎の妻女であるとはいえ、剣の世界にまで葵が侵入してくる事はまずありえない。しょせん葵はただの女でしかないからだ。
 しかも兄はただの侍ではない。剣術指南役――楯山藩三万石の明日の剣壇を担う男なのだ。いざとなればすべてに剣を優先せざるを得ない立場にある者なのだ。結果として又十郎のわざが向上するなら、誰も桔梗の行動に文句をつけることは出来ない。

 とりあえずは兄を鍛えると同時に自分を鍛える事だ。
 桔梗は、眠り続ける兄の頬をそっと撫でた。
 在り得ないとは思うが、もしも兄が剣技に於いて自分を凌ぐことがあれば、桔梗の存在価値は皆無となる。そのためには桔梗自身の腕も常に向上させねばならない。
 桔梗は静かに立ち上がると、ふたたび道場に向かって歩き出した。

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最終更新:2010年08月04日 18:08
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