リアス 前編

630 リアス ◆P/77s4v.cI sage 2009/07/24(金) 18:12:44 ID:tKfQ210w
 母親が自殺したのを一番初めに発見したのは私だ。
 まだ小学校二年生だった私が、明日から夏休みということに心を躍らせて帰宅した時に見つけたのだ。
 最初は、扉越しに長い髪が見えただけだったから、死んでいるとは思わなかった。
 箪笥の上にある人形でも取ろうとしているだけかと思って(母親は年の割に嬰児のような趣味があった)いつもならお母さんと呼ぶところをママ、なんて浮き浮きしながら声をかけたのだった。
 リビングに入って、宙に浮いている彼女が死ぬかもしれない、と考えたのは、すでに死後硬直で固まって、私が地面に下ろすのに四苦八苦している時に考えたことで、
馬鹿なことに、私はこの時もあの母が死ぬわけがない、と思っていた。
 理由があったわけではない。だが、このときの私は死というものがテレビから流れてくるニュースと同じで、よく理解できなかったのだ。
事実、私は兄が帰ってくるまで母親に、ねえお母さん、と声をかけ続けていたし、警察が自殺と断定したと聞いた時も、ソファーに腰をかけて天井をぼんやりと見上げていた。
 葬式のとき兄が、
「舞、これからは兄ちゃんを頼ってくれ。俺が母親の代わりになる」
 と、ぼろぼろと泣きながら言ってきたので私は、うん、と透けるような声で答えたら、
それを聞いた隣の従兄弟のおじさんが「舞ちゃんは、お母さんが死んでも悲しくないみたいだね」と皮肉ってきたので、うわーん、と投げやりに言って大事になったのを覚えている。
 彼はそれを聞くと一瞬ぽかんとした後、みるみるうちに激昂して、私の胸倉を掴んできたのだ。すごい力だった。首まで絞まって死ぬかと思った。
 結局兄に助けられたが、今でも首には青あざがあり、触れるとその時の記憶が戒めるように蘇る。
 それ以外は普通の葬式だった。
 自殺、といっても葬式そのものはお爺ちゃんが老衰で死んだときと何一つ変わらず、別段特別なことはしなかったのだ。
 式が終わり、母の遺体を火葬場で燃やしてから家に戻ると、時間はもう午後七時を回っているころだった。
 私はもちろん料理なんかできなかったので、兄が台所に立ったが、彼も同様にほとんど何もできなかったので、結局は出前を取った。食事中は二人とも何もしゃべらなかった。
 親戚の人は葬式の後も私の家に寄らなかった。
 葬式のときは、しっかり義務のように泣くくせに、いつものように親戚の人はうちの家に入ろうとはしない。
 その日の深夜。
 私はなかなか寝付けなかった。寝付けない自分にびっくりして、ああ、私も悲しんでいるんだな、と思ったけれど、すぐそんなことを考えること自体お笑いだ。
 とりあえず何か飲もうとリビングに行ってみると、丁度電話がかかってきた。ああ、と変に納得して受話器を取る。予想通り父親からだった。
「もしもし」
「もう夜中の二時よ、お父さん」
「知ってる。だから電話をかけたんだ」
 受話器から聞こえる音は父の声以外はなかった。私は安堵する。一人でよかった。
 暗い室内は無音。私が喋る声も闇に消えていくようだ。
「お母さんが死んだ」
「……火葬場には行ってきた。あと、家の側も、通った」
「それなら家に帰ってくればいいのに」
「……それができればいいんだがね」
「あの女の人?」
 そう私が言うと、父は少し黙った後に無機質な声でああ、とだけ言った。心情を悟らせないような、大人の人がよく使う声だった。


631 リアス ◆P/77s4v.cI sage 2009/07/24(金) 18:13:29 ID:tKfQ210w
 父には愛人がいる。厄介者、と言った方がいいのかもしれないけれど。
 俺も別れられるならそうしたい、とよく言っていたのが記憶にある。だから、おそらく父には父なりの事情があるのだろう。
私はそのことに対しては、何か見たくないものを意図的に見ないようにしているかのような無関心さで、あまり突っ込んで訊こうとは思わないのでよくは知らない。
 ただ以前、何度か私自身がその女の人に包丁を突き付けられたことがある。
「あの女が産んだ子供ね!」
 ある日家に帰ると、いきなりそう言って火が出るように突進してきたのだ。
 私はかろうじて逃げたけれども、足が震えて立ち上がれなくなってしまい、のしかかられて首に包丁を突き付けられた。
 今思えば、首にあるこの青あざは、もしかすれば葬式の時についた跡なんかじゃなく、あの女の人に付けられたものかもしれない。
 それだけに、もう本当に死ぬと思った。
 わけもわからず殺される。こんなことなら昨日、兄に怒られても日が暮れるまで友達と遊んでおくんだった後悔したほどだ。
「お願いします。この子だけは勘弁してください」
 いよいよと思って目を瞑ると、後方で母が土下座して謝っていた。
 私は注意がそれた女の人の隙を見て離れようと、彼女の顔を見たのだが、その顔を見た途端、あまりの形相に今度は腰が抜けてしまって、立てなくなってしまった。
「お願いします。子供だけは」
「だめよ。殺さなきゃ。殺してしまわなきゃ。あの人の子供を産んでいいのは私だけなんだから。私が一番あの人を愛しているんだから」
「お願いします。お願いします」
 それしかできない人形のように頭を下げ続ける母。私はその様子をじっと見ていた。
「やめろ!」
 そんな中、兄がスコップとバケツを両手にぶら下げてやってきた。当時はわからなかったが、たぶんあれはロールプレイングゲームを真似た剣と盾だったのだろう。
「ま、舞から離れろ。お前の好きにはさせないぞ。僕が倒してやる」
「俊介! 貴方は部屋に戻ってなさい」
「だめだよ。こいつ悪い奴だもん。やっつけなくっちゃ。お母さんも舞も二人とも困ってるじゃないか」
「俊介!」
 母が必死になって兄を抑える。しかし兄は母の胸の中で暴れ、出て行けー、とか、舞に何かしたら承知しないからな、とか言ってきかない。
「ああ、この子……似ているわ」
 のしかかってきた女は、兄を上から下までじっくりと観察すると、何を思ったのか突然私から離れ、玄関まで歩きだした。
 どうしたのだろう、私はそう思って立ち上がると、女の人はドアに手を懸け、
「また来るわ」
 と言ってどこかに去って行った。
 同時に気が抜けたように母がその場に尻餅をつく。
 私は慌てて傍に歩み寄った。
 お母さん、ありがとう。そう言った私を見ると、母はごめんね、と言いながら思い切り泣きだした。
 思えば、その辺りからだったか、母の様子が変わっていったのは。
 私は何もできなくて、大丈夫、大丈夫と言いながら背中をなでてあげた。
 母はさらに泣くことになった。
 そしてその数日後、同じようなことが何回か続くと、ついに母は壊れたのだった。


632 リアス ◆P/77s4v.cI sage 2009/07/24(金) 18:14:06 ID:tKfQ210w
「火葬場に行くのは嬉々として行こう行こうと言ってたくせに、家に寄っていいかって言うと喚きだしてさ」
「そうなんだ」
「そうなんだ」
 父の溜息が電話から聞こえた。
 私も別の意味で息を吐く。
 葬式の時にあった、親戚の人との一悶着を言ってみようと力を込める。
「お父さん、あんまり悲しそうじゃないね」
 でも、口からはそんな言葉が出た。唇が勝手に動いたような不思議な感じだった。
「何でそう思う」
「声が、前にかけてきたときと変わらないから」
「お前、それ自分のことだろ」
「何でそう思う」
「声が、前に聞いたときと変わらないから」
 父は鼻で笑ってそんなことを言った。
 自分のこと。そうかもしれない。だって私は葬式の時も今もちっとも涙が出てこない。遺体を見て、いよいよ火葬だというときだって私は無表情だった。
 お母さんのこと、嫌いなんかじゃなかったのに。それとも私はあの女の人同様、おかしいのだろうか。
 きっとそうだ。だから、親戚のおじさんも腹を立てたのだ。
「お父さん、お母さんが死んで悲しい?」
 同族を求めるように私は聞いた。
「俺は、凛よりいい女に出会ったことないな」
 しかし、父はそう言う。愛人がいるくせに。
「そろそろ切るけど。舞、これからは俊介をしっかり支えてやれよ。俊介もしっかりお前を支えてくれるはずだから」
「お兄ちゃんと話したの?」
「そう思うか?」
「……思わない」
 兄は今、部屋で寝ているのだろうか。私が父と話していると知ったらどんな顔をするだろう。
「中学に上がったら……」
「え?」
「いや、いい。じゃあな。次はいつになるかわからないけど」
「うん。じゃあね、パパ」
 受話器が僅かにできた声の振動を消す。がちゃん。静かな闇がまたぺとりと張り付く。
 暗闇に佇む私。
 ここには誰もいない。
 なぜだかそれが急に嫌になって、電気をつけることにした。リビングだけでなく、座敷まで行って明かりをつけた。
 周囲をぐるり。
 ふと、母の遺影が視界に入る。
 作り物の光に照らされ、白く輝く写真。白黒の紙。
 母は、ぎこちなく笑っている。口の端をしっかり曲げて、でも歪に。
 あの事件から変わった母になった。
 他人の母親がどういうものかは知らないが、おそらく子供と一緒に同じ尺度で笑いあったり、今よりもっと小さな私と人形を取り合ったりする母親は、
きっと世間一般ではあまりいないと思う。
 そんな彼女だから、教えてもらったこと――学んだことは、少なかった。実際、基本的な人間として学ばなければいけないことは、父から学んだし、
模範は兄がいたので、母は遊び相手に近い感覚だった。
 だから、母から教わったことが何だ、と聞かれれば、私は黙して考え込んでしまう。
 それほどに、少ない。
 私と喧嘩をする母。遊ぶ母。果ては、甘えてくる母。
「皆は、お母さんのこと狂ってるって言ってたけど」
 でも、楽しかった。好きだった。これだけは、事実だ。
「ああ、私」
 本当に、お母さんが好きだったんだ。
 ざあ、と庭の木々が大きな音をたてて葉を散らすほどに揺れた。強い夜の風。明日もきっと嫌になるぐらいの快晴。蝉が命を謳歌するだろう。
 私はゆっくりと座って、それから思い切り泣いた。
 もう、どうしたって、母には会えないのだ。


633 リアス ◆P/77s4v.cI sage 2009/07/24(金) 18:18:29 ID:tKfQ210w
  /


 家からでなくなって三年が過ぎた。
 冬の朝。カーテンはがっちりと閉ざされているのに、その隙間から何としてでも入ろうとする光が憎らしい。その微光が、部屋に浮く埃を照らして私をさらに不快にさせた。
 もぞもぞとベッドで体を動かすと、足に何かが当たった。この堅さ。おそらく本か何かだろう。しかし、確かめるのも億劫だ。
「舞。今日も学校休むのか?」
 兄がいつものように部屋の外から私に問いかける。返事は無言。いい加減にやめればいいと思うのに、休みの日ですら毎朝起こしに来る。
「そっか。先生には言っておくから。……なあ、帰ったらゲームでも二人でしないか」
 するわけがない。直接言えば、もう起こしに来なくなってくれるだろうか。
「とにかく、兄ちゃんは学校行ってくるから。お昼ごはんはさっきコンビニでお弁当を買ってきたからそれを食べるようにしてくれよ」
 言い終えると、兄はしばらく私に何か反応がないかドアの前で待っていたようだが、時間ぎりぎりになると溜息をついて家から出て行った。
 義務教育と言うのは本当に便利である。
 何年学校に行かなくても別にかまわないし、後で修正もできる。加え、幸運なことに担任は放任主義なのか、家庭訪問も今年に入ってからはめっきり少なくなった。
 この状態をいつまで続けるつもりなのか、というよりは、いつまで続けられるだろうと最近は考えている。
「ニートもこんな感じなのかしら」
 私は部屋の前に置かれた弁当の袋を引っ掴むと乱暴に中に入れ、食べ始めた。
 朝食べるようにした方が昼や夜食べなくても大丈夫、ということをひきこもるようになって学んだ。
 食べ終えると、特にすることもないので漫画を読むことにした。兄が部屋にいてばかりじゃつまらないだろうと持ってきたものだ。
 寝転んで読む。ベッドから湿ったような匂いがした。けれど、気持ちいい開放感はまだある。なぜだかテンションが上がって、ごろりごろりと回転した。
 さらに部屋は散らかったが、もともとどこに何があるかなどわかるような状態ではない。
 そろそろお風呂に入ろう。
 前に入ったのはもう一週間も前。その時も誰かに会うのが嫌だったので、カラスの行水になってしまったのを考えると、私の体はきれいなところを探す方が難しい。
体質なのか、肌は荒れていないし、髪もさらさらとした手触りではあるが。
「けど、面倒ね……」
 古くなったピンクの寝巻に目をやる。だいぶ汚れてきた。弁当のソースが端に少し付着もしていて、これも洗濯をしなければならないだろう。
いや、いっそ、胸のあたりがきつくなってきたし、兄に頼んで買いに行ってもらわなければならないかもしれない。
 胸。まだ小学生だけど、胸はそれなりに膨らんできている。
 揉んだり股間に手を当てたりしていると思いのほか気持ちがよく、癖になったかのようにいじくったせいだ。
「このままいくともっと大きくなる、かな」
 呟いて、自分で胸を手のひらでそっと包んだ。円を描くようにそっと中心に向かっていく。固くなったものを摘まんで痛いぐらいにこねた。
「ああ、じゃあ、この後でお風呂に入ろうかな」
 私はそうつぶやくと、快楽におぼれようと服のボタンを煩わしそうに外した。


634 リアス ◆P/77s4v.cI sage 2009/07/24(金) 18:19:25 ID:tKfQ210w
「舞、朝ご飯は食べたのか」
 丁度最後の一枚のパンツも膝まで下げたところで、扉がノックされた。
 私は、いつもも体たらくからは考えられないような速さで脱いだものを布団の中に押し込む。
 なぜ。兄は学校に行ったのではなかったのか。
「なあ、部屋に入ってもいいか」
 兄が許可を待たずにノブを回す。私は反射的に、
「だめ!」
 と言ったが、すでに扉は半分開いていた。
「うわ……」
 開口一番の声は部屋の惨状を見ての感想だった。溢れかえったごみ箱。海のように広がる雑誌。何日も洗っていない服。
 私はすばやくパンツ一枚の体を布団にもぐりこみ、隠した。
「入ってこないでって言ってるでしょ!」
 兄は足の踏み場を見つけながらそろりそろりとベッドのそばまでやってくる。こんもりと膨らむ布団。私の体だ。その横にちょこんと腰をかけると、上から手を当ててきた。
 私は一瞬、布団を捲りあげられて、何か、例えばいつまでひきこもってるんだ、とか、学校に行け、とか言われるのでは、と身構えた。
そうなると私は今裸で。どう言い訳をすればいいのかわからない。
 だから、先に攻撃しておこうと思って、
「お兄ちゃんもずる休みってわけ?」
 と言っておいた。いつも真面目なくせに珍しいのね、と言う皮肉も付け加えて。
 それを聞いた兄は、頬を緩ませて頭を照れたように掻く。
「忘れてたんだよ」
「何を」
「今日、誕生日だろ」
 兄は、ぽんぽんと上から私の体を叩く。とても優しさを感じる行為だった。
「……それで、学校を休んだの?」
「去年も一昨年も、これといったことはできなかっただろ。だから、もう後悔はしたくないなって。俺たち、兄妹じゃないか」
 汚い部屋で風呂にすら入っていない私に向かって独り言のように口を開く。きっと、この部屋のごみや捨てられたように放置された服は兄を笑っている。
「別に、何もいらないわよ」
「じゃあ、俺にプレゼントをくれないか」
「プレゼント? 私の誕生日なのに? 何をよ?」
「俺と一緒に買い物に行こう」
 優しげな声が私の耳を包む。
 そう言えば、兄の誕生日はいつだったか。兄と比べて私はそんなことすら疎い。
 しかし、外に出るのは嫌だ。
 こんな少しの優しさでは、私は克服なんてすることができない。
「……母さんだって、舞を待ってる」
「どこで」
「お墓」
「あはは、天国じゃないんだ」
「馬鹿だな。天国とお墓はつながっているんだよ」
 兄が私のふくらみに体重を預けてくる。
 私は、その言葉を聞いて、数分ほど考えた後、
「でも、怖いの」
 と言った。
 兄はそれを聞くと、ベッドから立ち上がって力強く声を出した。
「大丈夫。俺が付いてる。もし、途中で何かあっても絶対俺が何とかしてやるから。例え、舞が百万人が驚くようなことをしても、俺は舞のことだけ、考えてるから」
 それで、私は出掛けることにした。


635 リアス ◆P/77s4v.cI sage 2009/07/24(金) 18:23:17 ID:tKfQ210w
  /


 汗をかいていた。
 冷汗、なのだろう。温度がわかるような水が額から流れてくる。息苦しい。呼吸が荒れる。緊張が私の歩く歩幅を減らし、それが更なる不安を生みだしていた。
 怖い。
 恥をかくのが怖いのだろうか。いや、正確に言ってしまえば、うまくふるまうことができない自分が怖いのだ。どうすればいいのか。うまくできるのか。
できなかった場合、私は死んでしまうのではないのか。
「大丈夫か」
 兄が何か言っている。けれど、気持ちが悪くて耳に入ってこない。
 やはり、外に出るべきではなかった。
「舞、大丈夫か」
 だめだ。やはり今からでも遅くない。帰ろう。帰って、横になって、体調が良くなったらもう一度頑張ろう。それまでは、休むべきなのだ。
「ほら」
 ぼんやりと兄の背中が見える。なんだろう、そう思った瞬間、私の体は宙に浮いていた。
「大丈夫、大丈夫」
 部屋で聞いた、男にしては緩やかな声色が私を撫でる。
 背負われていた。
 白い背中、薄着のせいで、幼い筋肉があるのがわかる。
「ちょっと、気分が悪くなったんだな」
「お、おろしてよ」
「だめだ。顔色が良くなったら。ちゃんと自分で歩いてもらうから、それまでは」
「だって、恥ずかしい」
「お前、今年学校にも行っていないくせに、何言ってんだよ。誰が見てるって言うんだ」
「それは……でも、お兄ちゃんだって、嫌でしょう?」
「逆に嬉しいくらいだ」
 そう言って、一度私の体を抱え直して態勢を整える。
 丁度風が吹いて、額にかいた汗がひんやりと震えた。
 視界が元通りになる。


636 リアス ◆P/77s4v.cI sage 2009/07/24(金) 18:23:51 ID:tKfQ210w
 ここは繁華街。
 平日と言うこともあって、多少はいつもより人が少ない。しかし、私が怖がるくらいには大勢いた。隅には路上で店をやっているところまである。
 ざ、ざ、ざ、と軍隊の様な足音。私を劈く。
「どこか店にでも入るか」
「ビルの影がいい」
「変わんないだろ」
「そっちの方が、人、少ないから」
 私がそう言うと兄は、悪い、と謝った。私はそのことについては触れず、影までくると兄の背から降りて蹲った。
「ごめん。やっぱり無理よ。怖い」
「大丈夫だって。さっきもなんとかなったじゃないか」
「でも、買い物なんて到底無理だわ。これ見てよ」
 汗でへばりついた前髪を指差す。兄は表情一つ変えずにそれを見た。
「大丈夫」
 それでも、肩を叩きながら言ってくる。
 私は妙にイライラして、
「お兄ちゃんに、この気持ちがわかるわけないわ!」
 と言った。
「怖いの。弱くなったの」
 辺りにいた数人が、私たちの方を見たが、鼻で笑って通り過ぎて行く。
 そうだ。兄もこうやって私を置き去りにしてくれればいいのに。苦しいのはわかっている。今よりもっとひどくなるのもわかっている。
でもその先はきっと、病院かそのまた先の世界で、私は心安らぐことができるはずなのだ。
「ちょっと、待っててくれ。五分で戻る」
「もう置いて行って。このまま私はここで死ぬわ」
 私の言葉を最後まで聞かないで、兄はどこかに行った。
 一人になると、急に太陽が何年も外に出てない私をどんどん苦しめだした。さっきまで人が少なかった場所には、見計らったように人がまばらに集まりだし、
顔をあげると、うずくまっている私を鬱陶しそうに見つめる目がいくつもあった。
 はあ、はあ。
 呼吸が苦しい。
 やっぱり、私、一人になったんだ。
 あの日からずっと、一人なんだ。
「嫌。一人は、いや。怖い……お母さん」
 呟きは虚空へと消える。喘息のような呼吸。答えるものは誰もいなくて、見ていてくれるのは、きっと空の上の母一人だ。


637 リアス ◆P/77s4v.cI sage 2009/07/24(金) 18:24:47 ID:tKfQ210w
「ちょっと」
 そんな私を見かねたのか、横にいた人が声をかけてきた。
「おじょうちゃん、どうしたんだい。調子が悪いのかい」
 重い頭をあげると、ハンカチで頭を拭いている中年の男の人がいた。腹が膨らみ、冬にもかかわらず脇と腹に汗をかいている。目元がやたらとにやついているのが印象的だった。
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫って、すごい顔色悪いよ。病院に連れて行ってあげようか」
「病院……」
「そう。そう。病院。体調が悪いときは横にならないといけないからね。おじさん、丁度タクシーの運転手なんだ。横になれるところまで送って行ってあげるから、お乗り」
 そう言って、おじさんは向こうの曲がり角を指差した。見れば、エンジンはかかっていないようだが、確かにタクシーがある。
 乗れば、この人目にさらされるところから脱出できる。
「さ。早く、車まで行こう。もっと体調が悪くなったら大変だ」
「でも、おじさん。仕事はいいの?」
「仕事? そんなものおじょうちゃんの体に比べれば小さなことだよ」
「ありがとう。おじさん、いい人なのね」
「そんなことないよ。僕は君みたいな子を見ると、たまらなくて放っておけないんだ」
 私はおじさんに連れられて、タクシーまで移動することにした。
 途中、ふらついてしまって尻餅をつく。が、おじさんは笑って気にすることはない、と慰めてくれる。
 私が立ち上がると、おじさんが、
「よかったら、おんぶしてあげようか」
 と言ってきた。私は、お願いしようとしたが、大きな背中を見た途端、なんだかそうしてはいけないような感じがして断った。
 すると、おじさんはじゃあ抱っこしてあげよう、と言い出す。もちろん、それも構わないと断ったが、
「かまわない、ってことはいいってことだよね」
 と言うと私の足をねばねばした手で触ってきた。
 ぎょっとして見返すと、にやついた顔がとてもいやらしい、舌を舐めずりするような顔に変わっていた。
 さっと、周りを見たが、すでにタクシーは目の前にある。いつのまにかドアも私を迎え入れるように開いていた。
「少しくらいいいじゃない」
「ちょっと、やめて」
「どうせ横になるところに行くんだから。これぐらいたいしたことじゃないだろう」
「な、にを。やめ、やめなさいよ」
「じゃあ、その大きな胸を少しだけ揉ませてくれ」
 おじさんはそういうと、蛇のように鋭い動きで私の防ぐ手をすり抜けると、一目散に膨らみへと手を伸ばした。
 恐怖がさらにこみ上げる。精神の残りかすがとうとうなくなり、私はもうどうにでもなれと目を瞑る。
「おい」
 そして、がっ、という音がした。鈍い音。肉が裂けるような音だ。
 私は震えながら目を開ける。そこには、倒れているおじさんの姿があった。
「てめえ」
 静かな怒声がその上に乗っている。馬乗りになって、殴り続けている。
 兄だ。
 おじさんの頬は、一発一発殴られるごとに裂けた。何か刃物で裂いたような跡がかぎ状に付けられていた。
兄の拳には、何かが握られているようだ。おそらくそれのせいで奇妙な威力を生んでいるのだろう。


638 リアス ◆P/77s4v.cI sage 2009/07/24(金) 18:25:15 ID:tKfQ210w
「お兄ちゃん」
「舞、大丈夫か」
「こらあ!」
 兄がこちらを向く。しかしそれを狙っていたのか、殴られ続けているだけだったおじさんが反撃に出た。
 体を回転させ、兄を振り落としたのだ。身軽になった彼はすぐさま胸に手を入れて、ギザギザとした大きめのナイフを取り出した。
 サバイバルナイフ。
「ぶっ殺すぞ! ガキ」
 降りあげられた手が、驚く兄に向かって一直線に振り下ろされる。
 防げるものは何一つなかった。
 もう、それで気づいた。
 兄は多分死ぬと。このままあの変な形のナイフに刺されて私の代わりに死んでしまうと。
 また、一人に、なる。
 今度こそ、私は立ち直れない。家にこもって、泣いて、最後は自分で命を絶つに決まっているのだ。
 ――――だったら、私が今、死んだ方がいい。
 そう思って、自分の体を兄の前に投げた。
「馬鹿」
 赤々と流れるのは血だった。こんなにも大量の血は見たことがなかった。お腹から流れるそれは、びゅうびゅうと吹き出して、母が死んだ時とは違った感情がふつふつと湧き起こる。
「お兄ちゃん!」
 刺されたのは、兄だった。
 かばおうとした私を押しのけて、自分の体をそのままさらした兄だった。
「へへ、やってやったぜ。糞ガキが。いい気味だ」
 おじさんはそう言うとバタバタと逃げていく。近くからきゃあ、と悲鳴が上がった。
「待ってろって言っただろ」
 兄が目をつぶりながら言う。私はただ、ごめんなさい、ごめんなさいと言い続けることしかできなかった。
 ドクドク。ドクドク。赤が馬鹿みたいに一面に広がる。
 私はどうすればいいのかまるでわからなくて、流れ出る血液を掬いあげて、兄のお腹に戻した。
 けれど、そんなことに意味はなくて、日差しが私たち兄妹をより醜く染める。
 叫び続ける私。誰も助けてくれない。この世界には二人しかいないのだ。
「ほら」
 赤の海から兄。手を伸ばして開いた。
 手のひらにあったのは、パンダのキーホルダーだ。
「ごめんな……もっと他の物を買おうとしてたんだけど……近くにいいものがなくて……これでさ、一人じゃないって、わかってくれるか?」
 私は、汚れたキーホルダーを握って、ただ泣いた。
 一人じゃなかった。兄がいた。いつも近くで見ていてくれたのはこの人だったのだ。
「お兄ちゃん」
 それなのに。
 兄は私の声に反応せず、ただ薄く笑って目を閉じる。

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最終更新:2009年07月27日 19:23
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