リアス 後編

87 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:37:27 ID:NdEcvS9y
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 兄が意識不明の状態から目を覚ましたのは、あれから十日後のことだった。
 母にまだこっちに来るなって怒られた、という兄はあんなことがあった後だと言うのに、朗らかに笑った。
 私を見ると、
「舞、目の下が腫れてるぞ」
 と言ってきた。
 私は、たくさんの感情が一気に押し寄せてきて、どう表現していいのか分からず、馬鹿、とだけ口にした。
 馬鹿。
 たぶん、兄にも言いたかったし、自分にも言いたかった。
 奇跡的な回復だった。脳死に近い状態になるかもしれない、といわれた時からすれば今の状態など考えられない。
なにしろ、あんなに血がたくさん出ていたのだ。
 私自身、もし兄があと四日過ぎても目を覚まさなければ自殺しようと決めていた。
 もうすぐ二月も半ばにさしかかる。
「なあ、舞。退院って、いつできるんだ」
 兄の体力はもうだいぶ戻っているようだ。手術が思いのほか簡単に済んだおかげかもしれない。
 私はちらりと兄のお腹に視線を向ける。
 直径十センチの刺し傷。きっと、元通りには二度とならない。
「……何言ってるの?」
「え? いや、俺、もうお腹が少し痛いだけだし、早く退院したいんだけど」
「あのねえ! そんなことできるわけがないでしょう! 退院なんて、もっとずっと先よ!」
 そう言って私は病室の窓を開けた。ちょうど真下に銀杏の木が枝だけ残して生えている。
 中庭の風景。
 自分が何の病気かわからずはしゃいでまわる子ども。すべてを悟ったかのようにどっしりと車椅子に座る老人。傍観者の看護師。
 兄は、あの人たちよりも、幸せだろうか。
「なあ、ここへはどうやって来たんだ?」
 私が持ってきた文庫本を物色しながら兄が言った。
「え? バスで、だけど」
「へー、バスで。ふーん。そうかそうか」
 言うとにやりと笑みを深くした。私は、なんだかむずがゆい感じがして、どうしてそんなことを聞くの、と問いただしたが、彼は笑って話をそらすだけだった。


88 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:38:03 ID:NdEcvS9y
「梶原さん、調子はどうですか」
 私が花瓶の水を換えていると、コンコンと言う控え目なノックの後、一人の看護師がドアの隙間から顔をのぞかせた。
「ああ、菫さん」
 兄は菫と呼ばれた看護師を見ると嬉しそうに居住まいを正して出迎える。私は黙りながらも一礼した。初めて会う女の人だった。
 二人が談笑を始める。他愛無い話。女の短い髪がゆらゆらと揺れ、人懐っこい顔がころころと変化した。
「妹さんも来てたんだ」
「ええ」
「じゃあ、お邪魔だったかな」
「いや、菫さんが邪魔だなんて、そんなことないですよ」
「ふふ、ありがとう。すごく嬉しい」
 上品に手を口に当てて微笑む。男に好かれるような笑い方だと思った。
 私は急に居心地が悪くなって、部屋の中を意味もなく見回す。
 兄の入院しているところは個室だ。家には多少お金に余裕があるため、そういうふうに取り計らった。
 そのため、兄と看護師の仲はこんなにもいいのだろうかと勘繰ってしまう。こうやって観察していると、まるで……仲のいい、何か、みたい。
「午後からまた診察に来るから」
「あ、本当ですか。ありがとうございます」
 ふと、思う。この看護士はなぜ手ぶらでここに来たのだろう。いや、それ以前に何をしにここに来たのか。
「妹さん、どこか調子悪いの」
 菫が心配そうにこちらを見た。そのついでとばかりに兄の肩にそっと手を置いたのを私は見逃さなかった。
「そうなのか、舞」
 兄は心配して、手で額の熱を測ろうとしてくる。私は、わざと驚いた顔をして、
「珍しいわね」
 と言った。
「珍しいって?」
「だって、いつもお兄ちゃん、熱を測るときは額をひっつけなくっちゃ駄目だっていって、キスできるくらいに近くまで顔を寄せてくるじゃない」
 菫が、ぴくりと反応する。それが面白くて、私はさらに続けた。
「ああ、悪かったわ。こういうこと、他の人の前だと言わない方がいいのよね。だったら、言いなおすわ。そんなことをしたことは一度もないです」
 兄は苦笑いをしながら、菫の方を向いて弁明したが、当の本人は、兄ではなく私を見ていた。
 丁度、兄が背中を向けていたので、私は薄く笑った。声には出さず口で、ドブス、とも言っておいた。
 目を細めた菫は、また来るから、と言ってでていった。またね俊介君、と私の方はもう見もしないで。


89 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:39:00 ID:NdEcvS9y
「何であんな嘘言うんだよ」
 また二人になった病室で、兄はふてくされたように私を咎めた。私は立ち上がって、兄に背を向け、また花瓶の水を入れ替える。
「お兄ちゃん、あの人のことが好きなの」
「え? あー、どうかな」
「ごまかさないでよ。私に嘘、つかないで」
「うーん。でもこういうことは言いにくいからな……うん、まあ、嫌いじゃないよ」
「好きなの」
「好き、かな?」
「ふーん」
 その言葉は、どういうわけか、私をひどくせつなくした。このひとと自分は、ずっと一緒なのに、いつも共にいるわけではないのだ。
 そして兄は、余計なことまで言う。
「優しいんだ、すごく」
 言い方が癪に障る。そんな声で言わなくてもいいのに。
「そりゃあ、看護師だからね。優しいのは当たり前なんじゃないの」
「うん。まあ、それはわかってるけどさ。でも」
「でも?」
「こないだのバレンタインでチョコレート、もらったんだよね」
 義理かどうかなど、訊かなくてもわかった。
 窓の外の中庭。いつの間にか誰もいなくなっている。
 本当に馬鹿だ、私。
 看護師にやきもちを焼いたりして。さらにはあんなことまで言って。私と兄はただの兄妹なのに。絶対、結ばれることなんか、ないのに。
「へえ」
 最後に言った言葉は、精一杯の強がりだった。
 食料をスーパーで買い、家に戻ると、私は最近では日課になりつつある料理に取りかかった。
テーブルの上に本を広げ、暗証した後に取りかかる。
「バレンタインデーか」
 家に帰ったというのに、また口が勝手に動いた。
 すでに日にちは過ぎている。今から渡しても、兄は喜ばないだろう。
 忘れていたわけではない。その日の数日前からチョコレートを作っていた。
けれど、出来なかった。うまく作れなかった。だって、料理なんて、何かを作るなんて、生まれてから一度もしたことがなかったのだ。
「できた」
 皿にハンバーグを乗せる。パセリとニンジンをトッピングすると、以前からは考えられないような上等なものが出来上がった。
「でも、もう遅いのよね」
 自嘲して、一人で夕食を済ませた。




90 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:39:42 ID:NdEcvS9y
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 次の日はたっぷりと長い一日だった。
 昼に兄の入院している病院に行くと、受付で医者に呼ばれたので面会室に出向いた。そこには菫もいて、昨日と同じように薄目を開けて私を見てきた。
しかし、そんなことを吹き飛ばすようなことを医者から告げられた。
 どうやら、来月には兄は退院できる、とのことらしい。
 私は嬉しくなって、ありがとうございます、と深く頭を下げた。下げた瞬間、菫が靴で煙草を揉み消すようにぐりぐりと地面を擦ったが、気にしなかった。
「まあ、本当はもっと早く退院できたんだけどね」
 私の態度に気を良くしたのか、医者が唐突に言い出した。
「どういうことですか」
「刺された傷は確かにひどかったよ。血もかなり出血していた。でもね、目が覚めてからは驚くほど回復していたんだ。本人だって、自分で歩いてトイレに行ったりしていただろう?」
「じゃあ、なんで二か月も?」
 私が尋ねると、
「先生」
 と、さっきまで黙っていた菫が制した。
 狸のような顔をした医者は、それを聞くとわははと豪胆に笑って話をやめた。
 もしや、と思って菫を見ると、彼女が医者の後ろから唇だけを動かして言う。
 ドブス、と。ご丁寧に親指を下にまで向けて。
 その後は、いつものように兄の元に向かった。病室に行くと兄は退屈なのかぱらぱらと文庫本のページだけを捲っていた。
「お兄ちゃん、来月の十四日に退院できるって」
「ああ。それ俺も菫さんから今日聞いたよ」
 兄が窓を開けながら言う。
「まあ、こんなに元気なんだから。そりゃあ、そうだよなあ」
「でも、まだ危ないことはしないでよね」
「わかってる……って言いたいところだけど、もうすでに外出許可をもらったんだよね」
 私は驚いて、
「外出って、どこかに行く気なの。まだ危ないわよ」
 と言った。
 兄は、困った顔をしながら、
「よかったら、舞もついてきてくれないか」
 と共犯をそそのかすように誘う。
「なあ、舞。お母さんのお墓、行ったか」
 私が悩んでいると、さらに兄が言った。
「……行ってないわ」
「本当は、あの買い物の後、二人で母さんの墓に行くつもりだったんだ。出かける前にも少し言ってただろ」
 具合よく、開いた窓から風が入ってくる。母譲りの私の髪がさらさらと揺れた。


91 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:40:46 ID:NdEcvS9y
「ねえ、聞いてもいい?」
 兄の目の前まで行く。正面に来ると、まだ幼さを含んだ顔が優しく微笑んだ。
「なんで、パンダのキーホルダーだったの」
 それは、ずっと聞きたいことだった。
 今、ペンダントにして胸から下げているキーホルダー。兄の血が取れない、それ。なぜ、キーホルダー、パンダだったのか。
「それしかなかったんだよ」
 照れたように兄がそっぽを向く。
「これしかなかったって、他にもいっぱいお店はあったじゃない。それに……」
「はは、今時キーホルダーだもんな。気に入らなかったか?」
「そんなこと、ないけど」
「でも、キーホルダーしかパンダがなかったんだよ」
「なんでパンダにこだわるのよ」
「だって舞、パンダ好きだろ」
「え?」
「昔、動物園に行った時も、ぬいぐるみを買う時も、水族館に行ったときだって、あるわけないのにパンダが欲しいって言ってたじゃないか」
 兄の言葉が私を捉えて射抜く。
 そんな――昔のことを覚えていたと言うのか。あんな小さい時のことを、ずっと。
「……昔のことじゃない」
 私は本当に馬鹿で、こんな時ですらプライドが邪魔して、天邪鬼になってしまう。
「俺は、あんまり舞のこと知らないから」
 そんなことない。
 私だ。私が兄のことを何も知らないのだ。
 好きなものも、好きなことも、嫌いなものも、嫌いなことも、趣味も。何一つ。
 もっと私が素直ならば聞けただろうか。
 運動は得意なの。いつもは部屋で何してるの。どれぐらい友達がいるの。何をして遊ぶの。
 好きな人は、いるの? と。
「いつ、お墓に行くの?」
「今から」
 兄の言葉を聞くと、私は涙を見せないように、準備を始めたのだった。


92 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:41:12 ID:NdEcvS9y
 母の墓に到着したのは、午後三時を過ぎていた。
 兄は久しぶりの外出が嬉しいのか、嬰児のようにきょろきょろと周囲を見回しながら歩いた。
 町はずれの丘に、母の墓はある。
 平凡な小さな墓だ。母らしい、ひっそりとした隅っこにあるにもかかわらずなんだかその部分だけ他の墓とは違うような感覚。
地面から生えたようなずっしりとした墓ではなく、上から降ってきたようなふわふわした違和感があるのだ。
「水、汲んでくるから」
 母の墓の前までくると、兄はそう言って走って行った。
 計算していたような、わざとらしいタイミングだったが、私は何も言わず黙って見送った。
 一人、母と向き合う。
 何を言ったらいいのか。来るときずっとそう思っていた。
 泣く、懐かしむ、憎まれ口を叩く、はたまた奇妙に自立でも宣言する。どれを言うべきだろう。
「久しぶり」
 結局、その後、
「お母さん、私、お兄ちゃんが好き」
 と見当はずれなこと言った。
「怒る? でもごめんね。もう、ちょっと無理かな」
 そう言って私は続ける。
 きらりきらりと墓石が光り、風が言葉に応えるように凪いだ。
「お兄ちゃんのこと、好きになっちゃった。すごいでしょ。自分のことしか興味なかったのに」
 好きな人が走って行った方向へ視線を投げる。すると、近くにあった木が揺れて葉を落とし、瞳を隠した。
「だめよ。邪魔なんかさせない。誰にも。だって、お母さんはもう、ここにしかいなくて、お兄ちゃんは生きてるんだもの」
 水汲み場から兄が戻ってくる。小さい子みたいにブンブン手を振っているのがやたらとおかしかった。
「またね、お母さん」
 私は笑いながら、兄のもとへと走る。
 もうそれ以上、喋ることはない。だって、母はおそらく反対するから。
 壊れる前の母は眉を寄せて説教を始め、後の彼女は、兄に私が取られると思って泣くに決まっているのだ。
 だから、これでいい。
 私の世界にいるのは三人で。母はすでにおらず、今は兄しかいないのだ。




93 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:41:36 ID:NdEcvS9y
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 三月七日。晴れ。
 兄には、今日は家で勉強をするからお見舞いに来られない、と言っておいた。
彼は一瞬驚いたが、何事か思案すると嬉しそうに頷いてくれる。ゆっくりでいいからな、とも言った。
 兄を刺したおじさんがこの扉の向こうにいる。病院だ。兄のいる病院の三階の角部屋。
 中には、担当の菫もいるようだ。
「……」
 そっと扉を開けた。どうやら部屋には二人しかいないよう。おじさんは一番端の窓の傍のベッドで何か威勢良く菫に話しかけている。
「君、かわいいねえ」
「やだ、川岸さん。褒めても何も出ませんよ」
「いやいや、俺は本当のことしか言わねえよ。……どうだい、これで下の世話もしてくれないかい」
 下卑た笑みを浮かべながら、指を三本立てた。
 菫は僅かに止まったが、何言ってるんですかと言うと、川岸の手を布団の中へとしまう。
 最高に運がいい、と私は思った。ドアを握る手に力がこもる。
 間違いなくあの時のおじさんだ。あのいやらしい考え方。気持ちいいぐらいに腹が立つ。
 川岸はさらに指の数を増やして、菫の顔を窺う。
「まだ足りない?」
 その言葉を聞くと、私はもう逆に嬉しくなって、最後まで見ることなく、その場を離れた。


94 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:41:58 ID:NdEcvS9y
 インターネットカフェに着いたころには太陽が沈みかけていた。青の帳がはがれ、茜色の空が広がっていた。
 急がなければならない。
 私は受付で一時間だけ角にある個室を借りたい、と言った。面倒くさそうな男の店員がしぶしぶ部屋に案内してくれたが、招かれた部屋は汚かった。
たばこの吸い殻、ごみ箱の中身が放置されたまま残されている。
「じゃあ、ごゆっくり」
 男の店員が去ると、ます周囲をぐるっと見て監視カメラがないことを確認した。念のため、隣の個室に人がいないことも確かめる。
それからパソコンの電源を入れた。
 通販のページを開く。
「届くまで六日か……ぎりぎり、かな」
 用を済ませると、私はカフェ内にある自販機で紙コップにジュースを入れて持ってきた。
 それを飲み干し、持っていたバッグから油をしみこませたハンカチを取り出す。
 紙コップの中に入れ、そのまま逆さまに向けた。
「それと」
 灰皿から吸い殻の煙草を一本取る。都合のいいことに半分ほどしか吸っておらず、まだ使えるようだ。
 紙コップの真ん中に煙草と同じぐらいの大きさの穴を開け、そこに火をつけたものを突き刺す。
「よし」
 準備が終わると、それから素早く支払いを済ませ、店を出た。
 出来るだけ遠くに行った方がいい、とは思ったが、きちんと成功しているかどうか確認することの方が大事だ。
 何一つ証拠はない、と言うことを確信しながらも初めてのこと。心臓の動悸が早くなりながらもその場に止まる。
 落ち着いた方がいい。息を大きく吐くと、私はインターネットカフェの向かいにある飲食店に入った。
 ドリンクだけ注文して、窓からさっきまで自分のいた店を見た。
 すると、
「おい、あそこ火事じゃないか?」
 と、後ろの席に座っていた男が騒ぎ出した。それを聞いた、周囲にいた人たちが伝染するように喚きだす。
 時間が経つにすれ、誰かが通報したのか消防車までやってきた。
 私は、黒い煙がもくもくと点に上るのを確認すると、やっと肩を落とし椅子に深く腰掛けた。
「だって私、パソコンには詳しくないから、他にやり方がわからないのよ」
 私の声は雑音にかき消された。




95 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:42:22 ID:NdEcvS9y
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 三月十四日、雨。
 病院の受付はにわかに騒がしくなっていた。
 私が兄に面会しに来たことを伝える。しかし、いつものように感心するような声はなく、半ばおざなりに、わかりました、と言われた。
 兄の部屋にまで行くと、彼はベッドで落ち着きなく天井を眺めたり窓の外を眺めたりしていた。
「どうしたのよ、そわそわして」
 私が部屋に入ってくるのを確認すると、兄はふうとため息をつく。そして私に、
「なあ、菫さん見なかったか」
 と聞いてきた。
「知らない。見てないわ」
 私がそう答えると、兄は聞いているのかいないのか、そうか、と単調な声で返す。
 兄がこんなに挙動不審になっている原因はわかっている。
 きっと今日がホワイトデーだから菫にお返しを上げようと思っているのだろう。見れば入口からは見えない反対側のベッドのふちに、何かの袋が置いてある。
「……」
 私は気付かないふりをして、近くにあった椅子を手にとって座った。頭一つ分、兄の視線が下がる。
 柔和な目だ。私とは正反対の澄んだ瞳。
 私は幸せだ、と思った。こうしているだけで完全に幸福だと思った。
「そう言えば、今日は看護師の人たちが忙しそうだな」
「何かあったんじゃないの」
「急患ってことか? でもそんなの病院なんだから、こう言っちゃなんだけど、見慣れてるだろ?」
「じゃあ、患者さんと看護師さんの間で何か問題があったとか?」
「そんなことあるわけないだろ」
 笑う。
 でも、お兄ちゃんがしようとしていることは、そういうことじゃないのだろうか。
 それに――、
「わからないわよ。薬でも飲まされて感情が高ぶっちゃった、とか」
 ということだってある。
 もちろん、例えば、の話だけれど。
「どこの藪医者だよ」


96 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:42:45 ID:NdEcvS9y
 その後は、退院した後何をするかについて話した。
 兄が何かを言い、私が諫める。以前と逆の構図だ。でも、そんなことがいちいち嬉しい。
 緩やかな時間。最近よく思う。兄といるとき、時間は蜜のように甘くゆるやかに流れる、と。
 こんこん。
 そんな中、見知らぬ看護師が乱暴なノックをして入ってきた。
「こんにちは」
 兄が挨拶をする。私は二人きりの時間が邪魔されたことに腹を立てたが、入ってきた看護師の顔を見ると機嫌を直した。
 看護師はじろり、と睨んで来て、具合はどうですか、と尋ねてきた。
「少し、お腹が痛いですけど、それ以外は」
「耐えられない痛み?」
「いいえ」
「そう、じゃあ、次回からその程度の痛みなら報告しないでね」
 彼女は低い声で言う。
「今日は、す……田中さんじゃないんですか」
「そうよ。問題ある?」
「……いえ」
「……ちょっと、色々あってね。……あの人はここを辞めると思うわ」
 兄が呆けたように口を開けて驚いた。看護師はそんな兄を一瞥すると、さっきまでとは少し雰囲気が変わって、何か言うべきか迷っているような感じになった。
けれど、何か悔しそうに思い直した後、力なく首を振って口を閉ざした。
 私は、その表情にわずかに心を痛め、とっさにあらぬ方向を見る。窓の外だ。硝子に映った看護師と示し合わせたかのように目があった。
 どうしてだろう。
 その表情は、看護師の顔ではなく、まして菫でもなく、少し前の私の顔と同じように見えた。哀しそうな、そんな。
「どうしてですか」
 そして、矢継ぎ早にされる質問に、看護師は答えることなく去っていった。
 兄は泣くだろうか。
 この人はいつもだれか近しい人が傍からいなくなると泣く。幼稚園のときだって自分をいじめる男の子が引っ越すというのに、悲しくて泣いていた。
父が、家から出ていく時も。
 そこに、私は答えがあるような気がするのだが、また一人になりたいかと言われると首を縦には絶対に振れない。


97 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:43:09 ID:NdEcvS9y
 私は何かを求めるように兄の顔をじっと見た。
 ここにいていいのだ、そう言ってほしかったのだ。
「ねえ」
 気がつくと兄ではなく、私が泣いていた。
 馬鹿みたい。何を今更、後悔しているのだ。もう二人で生きていくと決めたんじゃないのか。馬鹿。
 こんなことを考えていること自体、バレンタインに本命のチョコレートを渡せないこと自体、
私たちが結ばれてはいけない兄妹だということを証明しているというのに。
「ねえ」
 そして、改めて自分は妹なのだと思うと、余計な言葉が口をついて出た。
「あげないで」
 すぐにやめようと思う。
 早く泣き止んで、少し怒って言ってやればいいのだ。お兄ちゃん。私にもプレゼントちょうだいよ、と。
「それ、私にちょうだい?」
 なのに。
「好き。好き」
 私は、いや――舞は、感情的にまくし立てる。
 まずいということはわかっていた。兄はかなり倫理観に固い人間だし、妹が好きだなどと言っても、応えることはなく、むしろ強制させる可能性さえある。
 また、一人になってしまうかもしれないのだ。
 しかし、それなのに舞は言う。
「好きなの。他の人にあげないで」
 と。
 兄妹の絆を打ち破れることを願って。
 卑怯なことさえ、許されると願って。
 計算も何もなく、めちゃくちゃに。
 でこぼこ。がたがた。
 リアス。
 結局、私のすべてはそれなのだ。
「……」
 静かだ。静かになった。
 兄はまだ、ぽかんと私を見ている。しゃっくりだけが響く室内。


98 リアス ◆P/77s4v.cI sage New! 2009/07/31(金) 18:44:02 ID:NdEcvS9y
「……知ってたのか?」
 兄はそう言うと、泣いているのなんかお構いなしに、隠していた袋をベッドの上に持ち出して、一つのぬいぐるみを出した。
 なぐさめているつもりなのか、ぽんぽんと頭をやさしく叩かれたが、どちらかというと隠していたことを見事に言い当てたことに値する称賛のような感じだった。
「本当はもっと、他にあげたいものがあったんだよな、キーホルダーなんかじゃなくて」
 出てきたのは、大きなパンダのぬいぐるみだった。
「これ」
「ああ、墓参りの時に見つけておいたんだ。外出はそのためでもあったし」
「もしかして、だからあの時きょろきょろしてたの? それに今日も」
「よく見てるなあ」
「でも、菫さんのは? 私、この袋、菫さんへのお返しだと思ってた」
「菫さんにも、お返ししようと思ったんだけどな。彼女、昨日から見当たらなくて」
 兄はそう言って、横の机の引き出しからラッピングされた小さな袋を出した。中にはクッキーが入っている。
「でも、菫さん、辞めちゃうみたいだし、どうしらいいかな」
 兄が訊いてきたので、私は彼の顔をグーで殴ることにした。思いきり。
 そして、彼の耳にあー、と大きい声で叫んだ。
 何でそんなことをされるのかわかっていないようだったが、それがさらに腹が立ったので反対の耳にも叫んでやった。
 しかし、さっきまでの自分と違って、ゆっくり大きく息を吐く。外を見れば、さっきまで降っていた雨が止んでいた。
 馬鹿馬鹿しいな、と思った。何もかもが。誰かの死も。母のことも。自分自身さえ。
 きっと私はまだ弱くて、何かに脅えていたのだ。一人にされてしまうような訳のわからない死が怖かったのだ。
 私はおそらく、世界で一番弱い。できることは、二人で生きていくことだけなのだ。それだけには一途でいよう。
 そう思うと、初めて強くなれた気がした。
「ねえ、お兄ちゃん」
 ひょいっと兄の手からクッキーを奪う。
「これ、ちょうだい?」
「いや、これは菫さんに」
「いいじゃない。彼女はもういないんだから」
 兄は怒ったが、もう一度はっきり言っておいた方がいいと思ったので、
「それに私は、好きだって言ったじゃない」
 と言った。妹にそんなこと言われると照れるなと兄は笑った。
 私はもうおかしくてたまらなくなってしまって、二人の世界にすでに菫も川岸もいないのだから、とりあえず抱きついておこうと思った。
「退院おめでとう、お兄ちゃん」
 私の声が空へと昇る。
 母もどこかから見ているのだろうか。

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最終更新:2009年08月02日 22:50
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