歪な関係 第1話

536 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/24(月) 01:03:15 ID:ejZ3tX0K
「おい、菊池」
 昼休み。教室で弁当を食べようとしていると、突然後ろから呼びかけられ、俺は振り向いた。
 そこにいたのは……郷田、とかいうクラスメートだ。
「何?」
「呼んでるぞ」
 郷田がクイッと廊下のほうを指し示した。
 そこにいた人物を確認して、俺は狼狽えた。美里だ。
 俺は郷田に礼を言って、急いで廊下に向かった。
「み、美里。どうしたんだよ突然」
 教室の中に聞こえないように注意しながら、小さな声で言う。
「妹が教室に訪ねてきたからって、そんなに驚かなくてもいいじゃない」
 ふふ、と笑ってそう茶化すのは、サラサラと流れるような黒の長髪、目鼻のクッキリとした整った顔を持つ美人――俺の妹、美里だ。
「だって、美里が俺の教室まで来ることなんて滅多にないからさ……」
「お弁当」
「え?」
 突然の美里の言葉に、俺は素頓狂な声をあげた。
「お弁当、たまには兄さんと一緒に食べようかと思って」
 そう言って、右手に持った弁当箱を持ち上げてみせた。
「あ、弁当……」
「そう、お弁当。どこか、別のところで食べたいんだけど」
「あ、う、うん。わかった」
 嫌な声をあげそうになるのを、すんでのところで飲み込んだ。
 俺は急いで自分の机に戻り、鞄を手にまた美里の元に戻る。
 クラスの窓際ポジションの俺が綺麗な女子とどこかに行く様子を見て、教室にいた何人かが何かヒソヒソと話していたが、気にしないようにした。

 美里に従って別棟まで歩き、そこにあった教室に入る。ドアの上には多目的室と書かれたプレートがかかっていた。
 美里がパチリと照明をつけると、机と椅子が並んだだけの殺風景な光景が目に入る。
「こんなとこ、勝手に使っていいのか?」
「鍵が開いてるんだから、別にいいのよ」
 そういう問題でもない気もするが、俺も特にそういったことを気にする質ではないのでそれ以上は何も言わなかった。
 辺りをぐるりと見回すと、机と椅子の他には本当にまったく何もない。まあ、鍵をかけなくても問題はないのだろう。
 美里が一番後ろの席に腰かけたので、俺はその隣の席に座った。
 手に持っていた鞄を床に起き、その中から弁当箱を取り出して蓋を開ける。おいしそうな匂いが鼻に届いた。
 今にも鳴りだしそうなお腹を鎮めるため、俺はすぐに箸をとった。
「いただきます」
「いただきます」
 きれいな形のだし巻き卵に箸を伸ばし、口に頬張る。
 俺の弁当は、美里の手作りだ。美里は夜寝る時間は俺と同じ筈なのに、毎朝俺より早い時間に起きて、自分と俺の、二人分の弁当を作っている。朝は毎日眠気と格闘している自分には、とてもできない芸当だ。
 おまけに、美里は料理が上手だった。作る料理はすべて俺を唸らせる美味しさで、メニューのバリエーションも多く、食卓には毎日豪華な食事が並ぶ。
 小さい頃から俺との二人暮らしで、毎日料理を作っているのだから、料理が上手いのも当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
 いや、しかし毎日料理を作っていても、いくらも上達しない人だっている。だとすれば、これは美里の器用さによるものなのだろう。
 俺はチラリと美里の様子を窺った。
 美里は無言だ。黙々と弁当箱の中の料理を口に運ぶ。
 俺と家で食事をするときも、俺と並んで学校へと歩くときも、俺と部屋に一緒にいるときも。俺と美里の間に、雑談というものはあまりない。
 友達を持たない自分にはよくわからないが、人によっては無言の時間を「気まずい」として嫌う人もいる。誰かと二人きりのときなどは特にそうなのであろう。
 別に、俺が美里に嫌われているというわけではない。何せ、本人が俺のことを「好き」だと言うのだから。
 しかしそれでいて、俺と美里の間には平気で無言の時間が存在しているのである。
 別に、それに関して俺がどうこう思うことがあるわけではない。
 ――むしろ心の中で美里を恐れる自分にとって、それは決して悪いことではなかった。
 いや、それを言うならば、そもそも美里と一緒に居るこの状況が、俺に不快感を感じさせているのであるが。


537 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/24(月) 01:04:24 ID:ejZ3tX0K
 パタリ。
 弁当を食べ終えた美里が、弁当箱の蓋を閉じて鞄に閉まった。
 そして一足先に弁当を食べ終え、美里の様子を観察していた俺のほうを向いて言った。
「帰り、待ってもらってもいい?」
「帰り?」
「委員会の仕事が終わったあと、一緒に帰りたいんだけど」
「別に、いいけど」
 ……本当は、嫌だけど。俺が美里に、それを言うことはできない。
 いや、それよりも。俺は少し違和感を覚えた。
 普段から登校するときには一緒であるし、時間があえば下校も一緒にしている。しかし今回のように、わざわざ教室まで出向いて弁当を一緒に食べたり、一方を待ってまで一緒に帰るようなことはあまりなかった。
 弁当だけならともたく、同じ日に下校もとなると……。
 俺はその理由を考えようとして――――やめた。
 ……美里が“狂っている”ということは俺が何よりわかっていたし、そして、俺はそれに抗えないということもわかっていた。
 結局のところ、美里が何をしても俺はそれを受け入れることしかできないんだ。それはもう何年も前にわかりきっていたことだった。
「そっちは、何時ぐらいに終わりそう?」
 椅子から立ち上がりながら、美里が尋ねた。
「んー、たぶん下校時間ギリギリまで文化祭の準備するだろうから、六時ぐらいになると思うけど」
「じゃあ、たぶん三十分ぐらい待ってもらっちゃうけど」
「うん、わかった」
 そう返事をして、俺も椅子から立ち上がった。
「……ごめんね」
 不意に、美里が呟いた。
 俺は美里の顔を見た。
 ――その「ごめんね」は、俺を待たせてしまうことへの形だけの謝罪であると、そう解釈した。

 じゃあ下駄箱のところで、と約束して、俺たちは多目的室を出て、廊下の途中で別れた。
 教室に戻ると、少しクラスがざわついた。気にせず自分の席につくと、郷田が話しかけてきた。
「なあ、さっきのって、お前の彼女か?」
 郷田の顔は、好奇の笑みで満たされていた。
 ふと気がつくと、周りも俺の返答を待つようにこちらの様子を窺っている。俺はできるだけ平静を装って答えた。
「違うよ。……ただの妹」
 そう答えた途端、周りから落胆の声があがった。「なーんだつまんないの」とか、「やっぱり、菊池にあんな綺麗な彼女いるわけないよね」とか、自分勝手な文句が聞こえた。
「あれ、皆で何の話してるの?」
 声をあげたのは、ちょうど今教室に入ってきたらしい河平さんだった。河平さんはクラスのまとめ役的な存在で、男からも女からも慕われている。
 先ほどから一番騒いでいた女子が答えた。
「あ、沙耶。さっきね、菊池が綺麗な二年生と弁当食べに行ってね。皆であれって彼女かなー? って話してたの。あんな綺麗な女の子菊池には似合わないよねえ、とか、菊池のほうから無理矢理頼み込んだんじゃないの? とか」
 こいつら、そんなことまで話してたのか。
「へえ、そうなの?」
「まあ、実際は妹ちゃんだったんだけどね」
 残念、とでも言うように、その女子は大げさに肩を竦めてみせた。
 すると河平さんが言った。
「え? 菊池の妹って、美里ちゃんのこと?」
 俺は少し驚いて、河平さんの顔を見た。
 先ほどの女子も少し驚いたようだった。
「美里ちゃん? 沙耶、知ってるの? 菊池の妹のこと」
「文化祭の実行委員会で一緒だからね。けっこう話すんだ。……あー、そういえばさっき、美里ちゃん来てなかったわね」
 河平さんの言葉が少し気になって、俺は尋ねた。
「来てなかったって……?」
「あ、さっきまで委員会の集まりがあったの」
「美里、サボったのか?」
「や、昼休みの集まりはほとんど自主的に来たい人だけ、って感じだから。……でも、そういえば美里ちゃんが来なかったのって初めてね」
「へえ……」
 俺の中で先ほど捨てたはずの疑問が、再び鎌首をもたげてきた。普段は行く委員会の仕事を休んでまで、美里が俺と一緒に弁当を食べたのは何でだ……?
 そんな風に考え始めたところで、女子の集団から声があがった。
「キャー! それってどういうこと!?」
「委員会に行かないでお兄ちゃんとお弁当……ブラコン、ってやつ?」
「まあ弁当一緒に食べるってだけでも、十分怪しかったけど」
 一旦落ち着いていたクラスが、またザワザワと騒ぎ出した。


538 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/24(月) 01:04:51 ID:ejZ3tX0K
「もう、あんまり人のこと詮索するもんじゃないよー?」
 そう言って河平さんが落ち着かせようとするが、一向に収まる気配はない。
「なあ菊池、美里ちゃん、俺に紹介してくれよ」
 騒ぎに乗じて、郷田が言ってきた。
「なあ、頼むよ。友達だろ?」
 生憎、こいつとは今日までまともに話した覚えがない。俺は何となくムカついたので無視しておいた。
「良かったねー、理沙」
 ふと見ると、河平さんが一人の女子の頭をポンと叩いていた。
「え、な、なんのこと」
 その女子はあたふたと答えた。
「またまたー。どうせ菊池が弁当食べに行ってる間、気が気じゃなかったんでしょ?」
 河平さんがチラリと俺のほうを見た。何なんだ一体。
 結局、騒ぎは五限が始まって先生が来るまで続いた。

「これ、そっちに運んでー」
 放課後、俺のクラスは三日後に迫った文化祭の準備に追われていた。
 このクラスの出し物は、手作りのプラネタリウムである。
 提案されたときはそんなもの出来るのかと思ったのだが、作成途中の投影機による試写を見たところ、なかなか様になっていた。
 俺の仕事はというと、装飾だ。
「これ、そっち貼っといて」
「うい」
 装飾と言っても、教室のデザインは女子がほとんど考えてくれている。俺はその指示に従って動くだけだ。装飾というよりは、雑用に近い。
「んー」
 苦しそうな声に横を見ると、一人の女子が背伸びをして紙を壁に貼ろうとしていた。頑張っているようだが、どう考えても彼女の身長では貼るべき場所には届きそうにない。
「俺、やるよ」
「え、あ、ありがとう」
 そのおどおどとした調子に俺は思い出した。
「さっき、河平さんと何話してたの?」
 俺は渡された紙を貼りながら尋ねた。
「え、さっき?」
 そう言って、先ほど河平にからかわれていた女子――進藤さんはポカンとした。
「昼休み、何か河平さんと話してたじゃん。俺の名前が聞こえたから気になったんだけど」
「え? ……あ! あれは、その、い、いや……」
 進藤さんは、さっき以上に慌て出してしまった。どうやら、これが進藤さんの性格らしい。
「あ、ごめん。こういうのって詮索するもんじゃないよね。嫌ならいいんだ別に、ちょっと気になっただけだし」
「う、うん。こっちもごめん」
 何なんだろう。何だか煮え切らない、ムズムズとした感じがした。

 その後も作業は続き、思った通り終わったのは下校時刻の六時が近付いた頃だった。
 作業の途中で、ある意味で文化祭恒例である男子と女子の言い争いのようなものもあったが、俺は当然のように静観していた。

 鞄を持って一旦校舎を出た俺は、美里を待つために二年生の昇降口へと歩いた。
 下駄箱に寄りかかり、美里を待つ。
 もう下校時刻を過ぎているためか人影はなく、遠くで校門を出る生徒の話し声だけが聞こえた。
 ――カタン。
 近くで音がしたのでそちらを向くと、一人の女子生徒の影が見えた。
 ――美里か?
 俺は思わず身構えた。
 だがくるりと振り向いたその顔は、美里とは似ても似つかなかった。その女子生徒はちらりとそこに立つ俺のほうを見たあと、スタスタと帰っていった。
 俺は思わずふうと息を吐いてから、そんな自分を滑稽に思った。

 それからさらに待つこと十数分、廊下のほうから何人かの足音と話し声が聞こえてきた。
「もう、あと三日ね」
「そうだねー。それにしても今日は疲れたー」
「そういえばさ、あんたのクラスの経費の話どうなったの?」
「え? あれは……」
「あ、兄さん」


539 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/24(月) 01:05:56 ID:ejZ3tX0K
 下駄箱のところに現れた三人の女子生徒のうちの一人、美里が俺を見つけて声をあげた。
「おう」
 俺はとりあえず返事をした。
「あ、美里のお兄さん」
「へえ、美里ってお兄ちゃんいたんだ」
「あ、えーと、美里の兄です。よろしく」
 俺は何と反応すればいいのかわからず、適当にドギマギと挨拶をした。
「美里、お兄ちゃんと帰るの?」
「知らないの? 美里、よくお兄さんと一緒に帰ってるんだよ」
「今日は、私が言って待ってもらったの」
 美里が靴を履きながら言った。
「へえ、仲いいんだ。羨ましいなー」
 うちの兄貴なんてね、と話し始めたその子の話を聞きながら、俺はその三人について歩いた。三人がいろいろと喋る中、俺は話に入れずなんとなく居心地が悪かった。
 校門を出て少し歩いたところで、俺と美里は彼女たちと別れた。
「それにしても、まさか美里がブラコンだったとはねえ」
 去り際に一人がそう言ったが、美里はふふと笑うだけで何も言わなかった。

 昼間と同じく、俺と美里は無言で並んで帰った。
 電車に乗り、さらに駅から少し歩く。家に着いたときには、時計は既に七時を回っていた。
「ただいま」
「ただいま」
 俺と美里の声が、アパートの一室、人のいない1DKの室内に響く。
 俺が部屋着に着替える間、美里は制服のままでエプロンをつけてキッチンに入った。
 こういう帰りの遅い日ぐらい弁当にすればいいと思うのだが、美里はいつも料理を作りたがった。おそらく、料理を作るのが好きなのだろう。

 美里の作った夕食をたいらげた後は、俺は特にすることもなくダラダラと過ごした。横になり、テレビをつける。
「…………」
 美里が、俺の横にちょこんと座った。
「……勉強、しないのか?」
 美里は、普段ならばこの時間は授業の予習や復習をしているはずだった。
「今日は、そういう気分じゃないの」
 またひとつ、美里の行動に謎が増えた。

「風呂、空いたよ」
 風呂から出た俺は、相変わらずテレビを見続けている美里に声をかけた。
 俺はドスンとベッドに腰かける。美里はしばらくそのままで、十時を過ぎたころようやく立ち上がり、風呂に向かった。

 美里が風呂に入っている間、俺は今日の美里の行動を考えていた。
 美里の俺への好意を知っていても、今日の美里の行動には何か違和感があった。
 委員会の仕事を休んで俺と一緒に弁当を食べ、俺に待ってもらって一緒に家に帰り、家でも勉強をせずに俺と一緒にテレビを見ていた。
 いつもより俺の傍にいたがっているということはわかる。……わかるのだが、それ以上は何もわからなかった。
 結局のところ、俺に美里の思考を読むことなどできるはずもない。
 俺はふうと息を吐いて、着ていた寝間着を脱いだ。下着も脱ぎ、ベッドの横に畳んで置いておく。
 それから少しして脱衣所から美里が現れ、全裸でベッドに座る俺に気がついた。
「今日は、えらく準備がいいのね」
 裸にタオルを巻いただけの格好で、美里が俺に近づく。
「脱がす楽しみってのが、なくなっちゃうんだけど」
「オッサンくさいこと言うなよ」
 俺は一応突っ込んでおいた。
 立ったままの美里の腕が、俺の首に回された。美里の顔が近付き、俺は目を閉じてそれを待つ。
 美里の唇が、俺の唇に重ねられる。
 突き出された舌が俺の唇を開き、口の中をなめ回すように動く。俺もそれに応えるように舌を動かした。
 一分程して、ようやく美里の唇が離れた。
 美里が、俺の体をベッドに押し倒す。美里の巻いているタオルの感触が、俺の肌に感じられた。
 美里は、そのまましばらく動かなかった。うつ伏せの姿勢で、顔を俺の横につけてギュッと俺の体を抱き締めていた。


540 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/24(月) 01:06:46 ID:ejZ3tX0K
「……なあ、美里」
「…………何?」
 言うつもりはなかったのに、つい口から言葉が飛び出した。
「何か、あったのか?」
 言ってから、すぐに俺は後悔した。
 ――これじゃまるで、俺が美里を心配してるみたいじゃないか。
 美里のことなど、嫌いなはずなのに。
 美里はそんな俺の考えをわかっているかのように、こう言った。
「……ふふ、珍しいわね。兄さんが私のこと心配してくれるの」
「そ、そうか?」
「そうよ」
 美里は腕を伸ばして顔をあげ、俺の上で嬉しそうに笑っていた。
「で、どうなんだよ」
 ここまで来たら撤回するわけにもいかず、俺は再び尋ねた。
 美里は少し考えてから言った。
「……好きな人と一緒にいたいのって、どんなときだと思う? ――ああ、もちろん好きな人っていうのは、兄さんのことよ」
 唐突にそんな質問をされても、俺にはわかるはずもない。俺は答えなかった。
「じゃあ、これならどうかしら? 兄さんが好きな人と一緒にいたいのは、どんなとき?」
 それも、誰かを好きになったことのない俺はにはわからない。だが今度は、少し考えてから答えた。
「心細くて寂しいときとか……逆に、喜びを誰かとわかちあいたいときとか、かな?」
「それなら、兄さんが私と一緒にいたいのは、どんなとき?」
 俺は狼狽えた。これは、もしかして先ほどと同じ答えを求められているのだろうか。
「え、えーと、心細くて……」
「別に、無理に答えなくてもいいわよ」
 何か、からかわれている気分だ。
「……それが、お前のことにどう関係あるのさ?」
「別に、関係はないわ」
「え?」
「ちょっと聞いてみたかっただけよ」
 ……やっぱり、俺はからかわれているらしい。
 美里に、こんなことを聞いた俺が馬鹿だった。俺は諦めて言った。
「わかったよ。じゃあさっさと続きでもしようぜ」
「……もう。ムードもへったくれもないじゃない」
 文句を言いながらも、美里は再び俺に唇を重ね、俺たちは抱き合った。


 風が吹く。
 窓から控え目に日が差し込み、晩春と呼ぶよりも、初夏と呼ぶのが相応しい暑さに俺は汗をかいていた。
「兄さん、朝よ」
 次の日の朝、俺は美里の声で目を覚ました。
 いつも通り、美里は先に起きて弁当を作っていた。香ばしい肉の焼けた匂いが漂う。豚のしょうが焼きだろうか。
 俺は美里と一緒に、テーブルを囲んで朝食をとる。
「今日も、昼は一緒に食べるのか?」
「はい」
 何となくわかってはいたが、俺はうんざりしてため息を吐きそうになった。
 もう一緒に食べるのは受け入れるしかないとして、俺は一応美里に言ってみた。
「……あのさ、できれば昨日みたいに、教室まで来るのはやめて欲しいんだけど」
「何でかしら?」
「クラスの奴にいろいろ言われるんだよ。ていうか、昨日もメールで言ってくれればよかったじゃない」
「昨日は、兄さんの困った顔が見たかったの」
 ……はた迷惑もいいところだ。
「でも、兄さんが嫌だっていうなら教室には行かないわ。お昼に、昨日の多目的室でいい?」
 あれ、何だ。意外と言ってみるもんだな。
「うん、それでいい」
 俺はそう返事をしてから、小松菜の味噌汁を飲み干して朝食を終えた。


541 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/24(月) 01:07:14 ID:ejZ3tX0K
 その後は、放課後まで坦々と進んだ。
 美里と無言で並んで登校し、学校に着いたら別れてそれぞれの教室に行き、授業を受ける。
 四限終了のチャイムが鳴ると、俺は弁当を持って速やかに教室をでた。案の定、クラスの何人かにいろいろと言われた。

 弁当を食べている途中で、美里がこう言った。
「今日の帰りは、いつも通り別々で」
 てっきり今日も待たされるものだと思っていた俺は、少し肩透かしをくらった気分だった。
 まあ、一緒に帰らなくてすむのだから喜ぶべきなのだけれど。

 美里と一緒に弁当を食べた後、午後の授業を受けて放課後に入る。クラスの皆が、昨日と同じく手作りプラネタリウムの準備を始めた。
「菊池」
 見ると、河平さんが俺のほうに向かってきていた。
「何?」
「今日の放課後、ちょっと教室に残っててくれない?」
 河平さんは周りに聞こえないように小さな声で言った。
「教室に……?」
「そう。委員会の仕事が終わるまで待ってもらうことになっちゃうけど」
「何で……」
 問いかけた俺の言葉を、河平さんが遮った。
「じゃ、私これから委員会の仕事だから。プラネタリウムの準備頑張ってね」
 そう言って、河平さんは足早に去っていってしまった。
 いったい、河平さんが俺に何の用事だろうか。
 ……せっかく美里を待たなくて済むのに、河平さんを待つことになるとは思わなかった。

 その後、俺は考え事をしながら作業をしていた。考えていたのは、やはり美里のことだ。
 昨日ははぐらかされてしまったが、「何かあったのか」という俺の質問に対して、美里は否定しなかった。俺に言わないだけで何かあった、ということだろう。
 堂々と恥じらいもなく俺を好きだというクセに、何故こういうことは俺に隠すのだろう。……いや、好きな人相手だから言えないことというのもあるか。
 ああでもない、こうでもないと考えを巡らすうちに、ひとつのことが頭に浮かんだ。
 誕生日だ。今日から四日後、文化祭の二日後は美里の誕生日である。
 何故、こんなことを忘れていたのだろう。いや、去年も、一昨年も、その前も。美里の誕生日にプレゼントをあげたり、祝ってやったりということはしたことがないし、それは俺の誕生日に関しても同様だった。すぐに思い出せなかったのも無理がないかもしれない。
 そもそも、美里は誕生日というものにあまり意味を見出ださないタイプだと俺は考えていた。「生まれた日だからといって、何で祝わなければいけないの?」と、美里はそういう考え方をする人間なのだと思っていて、また俺もそういう人間であった。
 だが、美里は違うのかもしれない。
 考えてみれば、美里がそういう人間だというのは俺の決めつけにすぎないし、美里が俺の誕生日に何もしないのも、俺が美里の誕生日に何もしないのが原因だとも考えられる。
 そうだとすれば、美里は誕生日を祝って欲しいのだろうか。俺からプレゼントを貰ったりしたいのであろうか。
 だからといって昨日からの美里の行動の説明はつかないのだが、他に考えも浮かばなかった。
 ――何にせよ、たまには誕生日にプレゼントをあげるのもいいかもしれない。
 そんな風に思って、それからすぐに自分が美里を嫌っているということを思い出した。何を考えているんだ自分は。
 だが結局のところ、美里がそれを望むなら俺は従うしかないということもわかっていた。
 ……美里にプレゼントか、何をあげればいいのだろう。考えてみれば、美里にプレゼントをあげたことなど一度もなかった。

「何か、考え事?」
 唐突に声をかけられ、思考が中断された。声をかけたのは、進藤さんだった。
「え?」
「手、止まってたから……」
 どうやら、考えるのに没頭するあまり作業が疎かになっていたようだった。
「ああ、ごめん」
「そ、その……」
 進藤さんが、また昨日のようにモジモジし始めた。
「ん?」
 あ、そうだ。美里に何をあげればいいか、進藤さんに聞いてみるのもいいかもしれない。
「な、悩み事とかあるなら……」
「なあ、進藤さん」
「ひゃ、ひゃい!?」
 進藤さんが奇声をあげた。どうしたんだ一体。
「あ、ご、ごめん。……な、何?」
「大丈夫? ……あのさ、好きな人がプレゼントくれるとして、何を貰えたら嬉しい?」
「え? す、好きな人からプレゼント?」
 進藤さんはまだ何か慌てていた。


542 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/24(月) 01:07:59 ID:ejZ3tX0K
「そう。好きな人からプレゼント」
「好きな人から、プレゼント……」
 進藤さんは自分を落ち着けつつ、少し考えてから答えた。
「その……好きな人からのプレゼントなら、何でも嬉しい……と思う」
 ……うーん。そう来たか。
「そっか。ありがとう」
「う、うん。あの……」
「何?」
「き、菊池君、誰かに、プレゼントあげるの?」
 進藤さんの目は、じっと俺を見つめていた。
「ああ、実は……」
 美里に、と言いかけて、美里にあげると言えば、美里が俺のことを好きだと言うようなものだと気付いた。
「……いや、ごめん。ちょっと聞いてみただけなんだ」
「そ、そう……」
 そして、俺たちはまた作業に戻った。

 下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。
 クラスメートが話しながら帰る中、俺は河平さんに言われた通り教室に残っていた。
 暇をもて遊びながらしばらく待っていると、河平さんが教室にやって来た。
「あ、いたいた」
 河平さんはそう言って俺を手招きすると、キョロキョロと教室の様子を窺った。教室にはまだ数人の生徒が残っていた。
「……ちょっと、移動するよ」
 そう言って歩き出した河平さんに、俺はついていった。
 河平さんが連れてきたのは、別棟の踊り場だった。下校時刻を過ぎたこの時間には、そこに人影はなくシーンと静まり返っていた。
「ごめん、もうちょっとだけ待っててね」
 河平さんは少し駆け足で、またどこかに言ってしまった。
 待つこと数分、美里に遅くなるかもしれないと連絡でも入れておこうかと考え始めたところで、河平さんが戻ってきた。
 河平さんの後ろには、何故か進藤さんがいた。
「お待たせー。ごめんね遅くなって。この子が、ちょっと駄々こねてさ」
「さ、沙耶ちゃん……!」
「まあまあ。ほら、理沙」
「う、うん……」
 その様子に進藤さんから何か言われるのかと思ったら、進藤さんはまたモジモジとしだして黙ってしまった。
 数分ほどそのまま時間が過ぎ、河平さんに何度か肩を小突かれて、ようやく進藤さんが深呼吸をして話し始めた。
「き、菊池くん……あ、あの……その…………わ、私と、付き合ってください!」
 そう言って、進藤さんは思いっきり頭を下げた。
 俺は――驚いて声が出せなかった。
 こ、告白? 俺が? 進藤さんから? 何で、突然?
 い、いや、それよりも。
 ――ドクン。
 俺の頭に浮かんだのは、美里のことだった。
「ちょ、ちょっと、理沙……!?」
 河平さんが、何故か驚いた様子で声をあげた。
「ど、どうしたの? 沙耶ちゃん」
「今日はメールアドレスとか、聞くだけってことじゃなかったの!?」
「え……? えっ!?」
「あんたが人前じゃメールアドレス聞けない、だけど一人でも恥ずかしくてメールアドレス聞けないって言うから、菊池を呼び出して私も一緒に来たんだけど……」
「えーと、あの、その……」
「てっきり仲良くなってから告白するもんだと思ってたんだけど……。まあ、告白しちゃったもんはしょうがないか。理沙も、奥手そうなくせしてなかなかやるわねえ」
「い、いや、私は別に……」
 ……目の前で話す二人の会話は、ほとんど俺の耳には入っていなかった。
「あ、そ、そうだ、菊池くん。もうひとつ……」
「え? あ、う、うん」
「明後日の文化祭なんだけど、私と一緒に回ってくれないかな……?」
 文化祭……一緒に……?
「あ! そ、その、嫌ならいいんだ! 断ってくれても構わないから。告白の返事も、もっと先でいいから。…………そ、それじゃ!!」
 そう言うと、進藤さんは一目散に走って踊り場から去っていった。
「ちょ、ちょっと、理沙! まったくもう。……菊池、あの子あんな慌てんぼうだけど、すごくいい子だから。強制するつもりじゃないけど、あの子が誰かを好きになるのとか初めてだから、協力してあげたいんだ。……それじゃ! よろしくね、菊池!!」
 河平さんは、進藤さんを追うように走っていった。


543 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/24(月) 01:08:44 ID:ejZ3tX0K
 俺は、しばらくそこに立ち尽くしていた。
 頭の中にあったのは進藤さんのことではなく、美里のことだった。
 過去に俺が誰かと付き合ったことはない。だが……。
 ――俺の脳裏に浮かんだのは、ひとつの記憶だ。
 怖かった。ズキンと、頭が痛む。体が震える。
 それは、俺が美里に感じている恐怖そのものだった。
 巨大で、圧倒的で、俺の心を支配していた。俺は抗えない。
 それを感じた以上、俺に進藤さんと付き合うという選択肢はあり得なかった。

 俺は、震える足で歩き出した。
 このままでは駄目だということも、わかっていた。恐怖に押し潰された頭の片隅で、理性がそう訴えていた。
 進藤さんと付き合うことが、何かのきっかけになるなら……。
 ……いや、駄目だ。俺は抗えない……。

 家までどう帰ったのかは、よく覚えていない。
 気がつくと俺は自分の家のドアの前にいて、携帯電話の時計を見ると、帰るのにいつもの倍近くの時間がかかっていた。
 ――ドクン。
 心臓の鼓動が、大きくなった。
 ――黙っていれば、いいんだ。
 俺は、震える手で鍵を開けた。
 ――美里に言わないまま、告白を断ってしまえばいいんだ。それで何の問題もない。
 ドアノブに、手を伸ばす。
 ――だが、それで本当にいいのか?
 伸ばした手を、ピタリと止めた。
 ――このままで、俺はいいのか?
 俺の手は、動こうとしなかった。

 ――……カチャ。
 内側から、ドアが開けられた。
 驚く俺の前に、美里のいつもと同じ顔があった。
「おかえりなさい」
 美里はそれだけ言って、キッチンに戻っていった。
「鍵の開く音がしたのに、誰も入ってこなかったから」
 俺に背を向けたまま、美里が言った。
 トン、トン、トン……。
 包丁とまな板の当たる音が、リズム良く耳に届く。
 まるでそれにあわせるかのように、俺の心臓は早いテンポを刻んでいた。呼吸が荒くなる。
 俺はゆっくりと部屋に入り、後ろ手でドアを閉め、靴を脱いだ。
「随分と、帰りが遅かったのね」
 トン、トン、トン……。
 美里が料理を続けながら言う。
 コンロで火にかけられた鍋からは、グツグツと何かが煮たつ音がした。
 俺は何も答えず、無言でそこに立ち続けた。
「……どうかしたの?」
 トン、トン、トン……。
 美里が怪訝な声をあげた。
 俺は小さな声で呟く。
「……はく……れたんだ」
「え?」
 トン、トン、トン……。
「……告白……クラスの子に、告白、されたんだ」
 トン……トン、トン……。
 包丁の音が、一瞬乱れた。だがすぐに、元のリズムに戻る。
「……そうなの。良かったわね」
 トン、トン、トン……。
「…………」
 俺は、尚も無言でそこに立っていた。


544 ◆YMBoSzu9pw sage 2009/08/24(月) 01:09:08 ID:ejZ3tX0K
「まだ……何か、あるの?」
 トン、トン、トン……。
「きょ、許可が……欲しいんだ」
 俺は、思わず口にしていた。
 許可という言い方に、俺は自分の心の弱さを感じた。

 ――カチャ。
 美里が、包丁を置いた。
 カチリ、とコンロの火を止め、エプロンを外して側のテーブルに置く。
 そしてゆっくりと振り向き……、
 ――ゆらり。美里の顔は、笑っていた。

 それは俺を後ずらせるのに、十分な恐怖を与えた。
 美里が、心底楽しそうな調子で尋ねる。
「許可? 許可って……何の許可かしら?」
 ふふふ、と美里は笑っていた。
「……彼女と……」
 俺は、唾をゴクリと飲み込む。
「……彼女と、付き合う許可が、欲しい」

 ――ニタァ。
 美里の口が、広がる。
「ふふ………ふふふ……あははは」
 俺の全身に、ゾクリと寒気が走った。
「ふふ……あはははは! ははは! ははははは!」
 美里は腹を抱えて笑っていた。
 高笑いを続けたまま、美里が言葉を発する。
「あはは、許可!? ふふふ、何を言っているのかしら兄さんは! ふふ! あはははは!!」
 美里の笑い声が、全身に響く。
 その姿は、狂っていた。
 美里がこんな風に笑う様を見たのは、今まで一度しかなかった。
 俺は虚勢を張る。
「きょ……許可が! 欲しいんだ!!」
 絞り出した声は、震えていた。
 美里が、ゆっくりと右足を踏み出す。
 俺は思わず後ずさった。
「ふふ、兄さんも、心の底ではわかっているんでしょう? ふふふ」
 美里が迫る。
「わ、わかっているって……何の話だ?」
「私は……ふふ……私は、確かにあなたが傍にいてくれることを望んでいる。……あはは」
 美里の笑い声が、今にも溶け出しそうな脳に響く。
 後ろに下がり、ドン、と何かにぶつかった。壁だ。
「だけど私は、一度だってあなたにそれを強制したことはない」
 足が震え、崩れ落ちそうになるのをこらえる。
「だ、だからそれが……!?」
「……わかっているんでしょう?」
 美里が繰り返す。
 いつの間にか、美里の顔がすぐ目の前にあった。
「私があなたを離さないんじゃない」
 美里の吐く息が、顔にかかる。
「あなたがあなたの意思で、私から離れないのよ」
 さっきまで笑っていたその声は、冷えきっていた。
「…………っ!」
 頬が触れる。
 美里が、俺の耳元で囁く。

 ――あなたは、私から離れられない。

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最終更新:2009年09月05日 23:09
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