原子の蜘蛛

410 原子の蜘蛛 ◆3AtYOpAcmY sage 2009/12/10(木) 20:04:42 ID:yRfBuTbg
「それで、いくら払うことに?」
 男は30半ば、縁無しの丸眼鏡が気弱そうな印象を与えている。
「ですから、私は最初っから提示された額で構わないと申し上げております」
 対して女はこれまた30半ば、だがウエーブのかかった黒髪のロングヘアに、しゃなりとした着こなしの着物の凛々しさ、そして意思を持った眼差しが、強い人となりを表している。
「そもそも私は、生活していけるだけのお金を支給していただければ一向に構わないのです」
「じゃあ……?」
 首を傾げる男に対し、女は彼女が愛した―――そして今でも冷めずに愛している―――男を見つめ直し、続くべき言葉を継いだ。

「はい、今日はその条件を申し上げに参りました」


 昼前に成田を発ったボーイング777の旅客機日本航空405便は、ユーラシア大陸を着実に西に進んでいた。
 このままいけば明日、シャルル・ド・ゴール国際空港に寄航した後、エールフランス5311便に乗り換え、その日の夜遅くに(日本ではもう日付が変わっているが)ストックホルム・アーランダ国際空港に到着する。
 そこから先は、あちらで手配してくれるだろう。
 あまり注目を浴びる機会のない科学者がその業績の報いを受けるせっかくの機会だ。少しぐらいスカンディナヴィア人も彼女に尽くすところがあっていい。
 なら、俺もこの自慢の姉貴に何かしてやるかな。
 そう思い、サロン(日航が機内サービスとして提供しているシャンパン)を彼女の分まで持ってきた。
「姉貴、要るか?」
 専門の原子物理に関する書籍だろうか―――何せ俺は私大の文系学生だから姉貴の専門分野なんてチンプンカンプンだ―――、なにやら分厚い本を読んでいた姉貴は、少し考える様子を見せていたが、その本を閉じるとにこやかに応じた。
「ええ、ありがとう」
「では……、
 姉貴の受賞を祝って」
「私たちのこれからの幸せを祈って」
「「乾杯」」
 この時、俺には姉貴の言葉が少し引っかかったが、気に留めないことにした。とは言っても、このすぐ後で明かされる意味を俺が推察し得ていたとしても、もはや手遅れであったことは否めないが。


411 原子の蜘蛛 ◆3AtYOpAcmY sage 2009/12/10(木) 20:06:14 ID:yRfBuTbg
 俺の姉、浅見豊奈(あざみ とよな)は、日本人の原子核物理学者としては初めてノーベル賞を受賞した才媛である。24での受賞も最年少記録だ。もちろん、エスニシティや年齢のレコードとは関係なく、ノーベル化学賞を受賞するということは科学者として無上の栄誉である。
 そんな彼女の弟である俺、浅見葵(あざみ まもる)は、天才的な能力を持っているわけでもない二流大学の普通の一学生である。
 幼い頃から天才少女として持て囃されていた姉貴とは、隔たりを感じるようになった、というよりもそれが物心ついたときから当たり前で、まったく別の人生を送るものだと信じて疑わなかった。
 そんな姉貴が、10月の受賞決定後、俺に問いかけてきた。
「葵、ストックホルムの授賞式には一緒に来てくれる?」
 俺は悩むまでもなく承諾した。大学の講義ならある程度都合はつくし、それになにより一生に一度あるかどうかという貴重な体験である。益川教授ではないが、「どんなかな」といった純粋なインタレストも、大きな動機となった。

 11時前に空港に降りた俺たちは、そのままアーランダ市内のホテルに泊まった。財団が前もって予約していたから助かった。
 スーツケースを床に放り出し、安堵と疲労の混じった溜め息をつく。
「疲れたな、姉貴」
「ええ、でも明日は早いからね」
「明日……? 何かあるのか?」
 何も聞かされていない。この日は空白だったから、時差ボケと旅の疲労を抜くために一日休むものかと思っていた。
「市内観光にでも?」
「最高の思い出を作りにね」
「そういうことなら任せとけよ」
 実は、姉貴が繰り出すときのために付け焼き刃でストックホルム市内の観光スポットについて予習しておいた。こんなに早く役に立つ機会があるとは。


412 原子の蜘蛛 ◆3AtYOpAcmY sage 2009/12/10(木) 20:08:32 ID:yRfBuTbg
 翌朝、ホテルでスクランブルエッグ、ベーコン、サラダ、オニオンスープといった朝食を摂ってから、ホテルをチェックアウトし出発した。
 ほどなく、姉貴が手配したハイヤーが車寄せに着いた。本来俺が世話をするべきなのだろうが、姉貴は自分でするといって聞かなかった。どこに行くかも最初は教えてくれないそうだ。何のつもりなのだろう。
 揺られること数十分、着いた先は……
「なんだここ、ストックホルム市庁舎じゃないか」
「ええ、そうよ」
 わけがわからない。授賞式の日には晩餐会やパーティーが行われる場所なのだから、何も今来なくてもいい気がする。
「この市庁舎は受賞記念晩餐会が開かれるホールだぞ、今来なくたっていいだろ」「バカね、授賞式の日は忙しくてゆっくり見て回れるわけないじゃない、だから今来たのよ」
「それもそうだな、じゃあ入ろうか」
「ええ」

 なぜか、姉貴は窓口に向かった。
「……これが政府の許可証明書で……」
「はい、全部そろっていますね」
「おいおい何やってんだ?」
「あ、葵。入国審査の書類。ここにサインしないところがあるから」
 いまさら入国審査? わけがわからなかった。防疫関係か何かか。だが、署名せずに済む雰囲気ではなさそうだったから、この場はおとなしく従うことにした。
「はいはい。Mamoru……、Azami……、っと。いっちょ上がり」
 姉貴愛用のパーカーをコトリと机の上に置く。
「ありがとう、これでもう大丈夫よ、あなた」
 刹那。
「…………え?」
 激しい後悔を招く行いをしたことに気づいた。
「これで、姉弟じゃなくて夫婦だね」
「な、な、な、何を言ってるんだよ姉貴。
 俺たちは姉弟で……」
 嫌な汗が、額に、掌に、たぱたぱと止め処なく流れているのが自分でわかる。
「姉弟? そうね葵、私たちは姉弟よ。でもね、この国では姉弟でも結婚できるのよ。
 父親か母親、どちらかが違っていれば、ね」
 スウェーデン婚姻法は異母もしくは異父の兄弟姉妹の結婚を認めている、と知ったときには、もはや後の祭りだった。


413 原子の蜘蛛 ◆3AtYOpAcmY sage 2009/12/10(木) 20:09:36 ID:yRfBuTbg
 そう、姉貴と俺は、姉弟は姉弟でも腹違いである。
 俺の親父は、俺のお袋と不倫し、妊娠させた。姉貴のお袋は、俺の親父が姉貴を引き取ることを主張したこともあって最初は離婚にかなり抵抗したらしいが、ついには以下の一点を親父が呑むことと引き換えに離婚を承諾した。
 曰く、「豊奈の恋愛、結婚に際してその自由意志を認め、決して口を差し挟まない」こと。
 遊び人の父親ほど自分の娘は可愛く感じるものらしい。親父がそうだとすれば、姉貴のお袋はつまらない男を姉貴にあてがうことで親父に復讐するつもりだったのか。

 そうすると、今回のことも三者間でコンセンサスを踏んでいる可能性が高い。
 つまり、結果的に見れば、俺は再婚するために親父とお袋に売られたことになる。
 ……親父も親父だし、お袋もお袋だが、その姉貴のお袋も大概ひどい女性(ひと)だ。

「この事、親父は? 俺や姉貴のお袋は?」
「もちろん知ってるよ~。結婚式には来てくれるって」
「結婚式『には』って、じゃあ、授賞式には?」
「ああ、あんまり長い間仕事を休めないからどっちかしか参加できないって言うから」
「バカな!」
 あまりのことに叫んでしまった。
 だってそうだろう、ノーベル賞という学者として最高の栄誉と、結婚という、誰もが迎える小さなイベント、人によって重さはよりけりだが、どちらが重要かは論を待たないところだろう。それをだ。
「だって、スウェーデンは18歳にならなきゃ結婚できないから、今まで受賞を遅らせて葵が18になるのを待っていたんだよ。どっちが大事かなんて言うまでもないんじゃないかな?」
「受賞を? わざわざ?」
「だって、そんなことのために葵との結婚プランを台無しにされたくなかったんだもん。
 ノーベル委員会だって少しぐらいわがまま聞いてくれたっていいよねぇ?
 ねっ、それじゃあ……」
 まともじゃない。姉貴は価値観が狂っている。
「これからもよろしくね、『あなた』」
 だが、おれは……。
「ああ、一緒に生きていこう、あn、いや、……『豊奈』」
 この狂気の女に身を委ねる以外の術を知らなかった。


「ねえ、あなた」
 実の娘の晴れ姿を見ながら、二重に満足した面持ちの浅見清奈(きよな)は、自分の(元)夫・操に声をかけた。
「私は、いつでもいいですからね」
「え?」
「私のマンションにお越しになりたいときはいつでもお待ちしておりますし、復縁なさりたいときにはいつでも応じますから」
 清奈は操の今の妻、有希を一瞥した。
 敵ではない。
 それは、彼女の一貫した認識であり、妻の座を奪われた今でも変わらない確信であった。

「愛しています、操さん。ずっと、永遠に」

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2014年09月11日 14:56
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。