395 銀世界でワルツを ◆1zfTn.eh/1Y3 sage New! 2010/01/21(木) 01:08:13 ID:YaNBdMgI
カリカリと鉛筆の走る音。ペラペラと紙をめくる音が、俺を焦らせる。
何でだよ。
頭を抱えた。視線を落とした先、薄い冊子に印刷された数式が踊っている。マークシート式の解答用紙はぽつぽつとしか黒点がない。
考えようとしても、頭が働かない。
腹が痛い。ごろごろと腹が鳴る。最初の方は腹が鳴るたびに、周囲の反応が気になったものだが、今となってはもうどうでもよかった。
お腹をさすりながら、問題文を必死に追う。だめだ、腹痛で集中力が散漫になっていて思考に霞がかかっている。
思えば今日は朝から最悪な一日だった。朝食に食べた卵が悪くなっていたのか、朝はずっとトイレに篭っていた。
何とか腸の中すべてを出し切ってセンター試験会場に来たのはいいが、腹痛で思うように問題に集中できない。
今日はセンター試験二日目。理数系科目の試験日で理系学部をねらっている俺にとっては、最も大事な一日。
なのに、この有り様だ。理不尽だ。俺が一体何をしたというのだ。叫び出したい衝動を堪える。
こんな所で叫び出した日には、不審人物としてあっという間に教室から連行されるだろう。
まあ、こうして机にかじりついて悪あがきしてみたところで、出来ることなんて高が知れているのだけれど。
周囲の音が、解けていないのは俺だけじゃないかという焦燥を抱かせる。その焦燥に意識を取られ、問題を解くのに集中できないという、悪循環。
何で、何で、何で、何で、なんで 、なんで―――
ぴぴ、と機械音。
「鉛筆を置いてください」
試験官が無情にも死刑宣告を告げた。終わった。呟く声は小さく、しわがれている。
試験官の指示によって素早く解答用紙が集められ、試験官が出ていく。やがて教室が、にわかに活気づき始めた。
どうだった、まあまあかな、結構簡単じゃなかった、この問題の答え何にした……。
何故か耳が拾うのは、喜びのにじんだ声ばかり。他に居ないのか、俺のように魂の抜けた奴は。はは、と疲れ切った笑みが漏れた。
「終わった」
再び呟く声は、一度目よりも少し大きく。それが、何の救いになるはずもない事が妙に悲しかった。
銀世界でワルツを
396 銀世界でワルツを ◆1zfTn.eh/1Y3 sage New! 2010/01/21(木) 01:12:25 ID:YaNBdMgI
ざく、ざく、と雪道を歩く。
雪があまり降らないこの町で、数年ぶりに雪が積もったのは俺に対する皮肉か何かだろうか。
神なんていない。そんな若干ガキ臭い言葉を口の中で転がした。俯いた顔が上がらない。肩もこれ以上下がったら、きっと関節が外れてしまう。
「俯いてたら、いい結果も悪くなるわよ」
そう言って今朝送り出してくれた姉の声が蘇った。悪くなるも何も、最初から最悪だったんですが。
2日間の大学受験の最初の関門、センター試験から一夜明けた今日。何故か高校に登校して、皆で揃って自己採点し予想通り、否、予想以上に酷かった点数を持ち帰る。
足が重い。足の裏が雪にくっ付いて凍ってしまっているんじゃないか、と思うくらいに。
道端に小さな雪だるま。間抜けな顔をして、こちらを見ている。
「何見てんだよこの野郎」
ギスギスした気持ちで、雪だるまを蹴飛ばした。頭がころころと転がっていく。
その拍子に小枝と木の実で出来た目、鼻、口が抜け落ちてのっぺらぼうが俺を恨めしげに睨んでくる。ざまあみろ。
まぁ、俺も転がり落ちたんですけどねー、はは……はぁ。
もうこれ以上は下がらないと思っていた肩がさらに落ちた。
はあ、と吐いた深く、暗く澱んだ息は冬の空気に白く光って、直ぐに霧散した。俺も同じように消え去ってしまいたい。
一日目は良かった。国語は8割取れていたし、英語に至っては9割だった。1日目終わった後は余りの手ごたえの良さに、小躍りしてしまった。
しかし問題は二日目だった。数学はどちらも四割、生物と化学は五割。物理なんか三割、赤点だった。
文系の大学へ行くならば、まあ、高望みしなければ落ちる事はないだろう。しかし理系となれば話は別、というか論外だった。
採点する前からある程度結果は分かっていたが、点数が出たら出たでがっつり凹んだ。
数日後志望校への合格率が出る前に、行けるわけがない事は火を見るより明らかだった。
更に、そんな俺に追い打ちをかけるかのように、中学のころから付き合っている恋人に振られた。
何でも、別々の大学に行きながら付き合い続けるのは無理、なんだそうな。
二次試験は頑張るからとか前期がもし駄目でも後期が、終いには文系の学部に変更するからと説得を試みたのだけれど、受かる訳ないじゃん、と一蹴された。
俺と彼女の志望校は国内有数の大学で、文系であっても理数系の科目がこんなに悪すぎては受かる可能性は限りなく低かった。
それならどこでもいいから近くの大学を受けるよ、と縋ってはみたものの、どうせ直ぐに同じ大学の人と浮気するんでしょ、と何故か睨まれた。
何でだろう、俺ってそんなに信用なかっただろうか。別々の高校に進んでも、俺は恋人一筋だったのに。
かくして、俺は志望校どころか希望していた大学全ての合格が絶望的になり、挙句、恋人すら失った。
俺はたった一日のそれも、腹痛という情けない理由で地獄のどん底にたたき落とされた。もう、面白すぎて笑いも出てこない。代わりに何でだろう、涙が……。
「ぐす、泣いてないもん」
少しでも気分を盛り上げようと呟いて、鳥肌が立った。我ながら今のはキモすぎた。ふらふらと、小さな公園に入り込んだ。真っすぐ家に帰る気分にはなれなかった。
この名もない公園――否、正確には名前はあるんだろうが、俺は知らない――は、俺にとってとても思い出深い場所だった。
俺は母親の顔を知らない。俺を産んで1年後に死んでしまったので、幼かった俺は母親との記憶が一切ないと言ってよかった。
父も俺と
姉さんとの生活のため、と妻を亡くした悲しみから逃げるために、仕事に懸りきりになり俺は両親の愛を知らずに育った。
幼い俺は、周囲の子供たちが各々の両親と仲よく過ごしているのを見るたびに、まるで自分が世界で一番不幸であるような、今思えば幼稚な悲しみに暮れた。
そんな俺を支えてくれたのが、たった2つしか年の違わない姉さんだった。
姉さんは俺に優しく、そして時には厳しくまるで母親のように接してくれた。そう、俺にとっての姉さんは姉であり、そしてまた、母でもあった。
しかし、矢張り俺も当時は幼かったのか、姉の愛情に気付けず両親のいない寂しさから反抗し、家を飛び出してしまう事が多々あった。
そんな時は、俺はいつもこの公園の、まさにこのベンチに座ってぐずっていた。
この公園のベンチは、丁度俺たちが住むアパートの窓から見える場所にあってここに居れば、探しに来てくれた姉さんが俺を迎えに来てくれた。
幼いなりの反抗は、やっぱり姉さんに構って欲しい故の行動だった。見慣れた公園も、一面銀世界でまるで違う場所に迷い込んだようだった。
397 銀世界でワルツを ◆1zfTn.eh/1Y3 sage New! 2010/01/21(木) 01:14:03 ID:YaNBdMgI
姉さんは、俺の事をいつも第一に考えてくれた。姉さんの大学進学の時も、本当は進学せずに就職するつもりだった姉さんを散々説得して、どうにか説き伏せたのだ。
その時も姉さんは、理由を言わなかったけれど、きっと俺のために就職するつもりだったのだろう。
この田舎町に住みながら通えるような大学は、一つもなく、姉さんは俺を一人にしないために進学をあきらめるつもりだったのだ。
そして姉さんの大学進学から2年がたって、今度は俺の受験の年になった。その年の夏休みに帰省した姉さんは、唐突に、
「半年間、学校休むから」
と宣告した。驚いた父親と俺が理由を尋ねると、
「一理の家庭教師やるから」
と、さも当然といった顔でさらりと言ってのけた。
「文系の姉さんに理系の俺の家庭教師が務まる訳ないじゃん」
と抵抗する俺に対して、
「センターの範囲くらい楽勝よ。というか、もう休校届も出してきたから」
とまったく聞く耳もたなかった。
その日から、姉さんのマンツーマンによる勉強会が始まったのだけれど、超スパルタだった。
問題が解けなければ、手どころか足まで飛んでくるわ、恋人と勉強会に行くと言えば、
「二人きりで勉強しても、どうせイチャイチャするだけで集中できないわよ」
と、許してくれなかった。
何度かこっそり彼女の家に行こうとしたら、悉く見つかってみっちり折檻された。姉さんには第三の目でもあるのだろうか。
まあ、その時は恨み節を心の中で毒づいていたけれど、姉さんのお陰で成績が上がったのは確かだった。
やはりというか理系科目についてはあまり成果が出なかったけれど、苦手な文系科目がぐんと上がったのは姉さんの分かり易い教えがあってこそだった。
理系は元々得意だったから、文系の点数底上げによって志望校が合格圏内にたった半年で近づいたのも事実だった。
センター一日目が終わった時なんて、センター試験が終わったら姉さんに何かお礼をしようと思っていたくらいだ。
それなのに、終わってみればこのザマ、合わせる顔があるはずなかった。
俺のために、わざわざ半年間休校してまで俺に勉強を教えてくれた姉さんに申し訳が立たない。
姉さんは、まだ結果が出ていないんだからウジウジしないの、と昨夜から落ち込んでいる俺を優しく慰めてくれたのに、
「うるさいな!放っといてくれ!」
と、八つ当たりしてしまったのも会いにくい要因の一つだった。それから口も聞こうとしなかった俺を今朝、姉さんは哀しそうな顔をしながら笑って送り出してくれた。
あんな姉さんの顔を見るのは、そう、姉さんが大学進学を機に家を離れるとき以来だったと思う。公園のベンチに積もった雪を払い、腰を下ろす。
ひんやりと尻が残った雪に冷やされる感覚。普段はズボンが濡れるのは最悪だと思うところだけれど、今日はその感覚さえ何処か心地よかった。
雪。
ぱらぱらと雪が降っている。大粒だが綿のような、確か牡丹雪と言っただろうか。
この町は、普段ならば雪は降らない。余り雪が降っている様子を見た事がない俺としては、テンションが上がってもいいものだろうが、
残念ながら、今の俺がそんな気分になれるはずもなかった。寧ろ、絶望の象徴でしかない。次から次へと、舞い落ちる、舞い落ちる、と。
座ったまま、足元に積もった雪を蹴り飛ばす。花びらのように、雪が中空にふわりと舞う。そして落ちる。
せめて。
せめて、雪じゃなくて、雨が降ってくれればよかったのに。
地面に叩きつけるように、強く、強く、降ってくれれば思いきり泣けそうな気がする。思いきり泣けば、このやり様のない気持ちも楽になってくれるかもしれないのに。
只、冷酷に雪だけが降る。それはまるで、絶望にも似た。
たった、一日だ。たった一日で俺の人生は、大きな転換を余儀なくされていた。
「どうすればいいんだよ」
曇天の空に吐き捨てる。浪人や私立に行くようなお金はウチにはない。頼めば許してはくれるだろうけど、今まで男手一人で育ててくれた父親に負担はかけたくなかった。
「どうしたら、いいんだよ……」
俯く。かくんと首が曲がり、暫くは顔を上げる事が出来ないかもしれないと思った。
神様なんていない。
もし居るならば、せめて、これから俺はどうしたらいいのか教えてほしい――
と、制服の胸ポケットでケータイが震えた。どうせメールだろうと思ってしばらく放置しても振動は止まらない。どうやら電話のようだった。
ゆるゆると手を胸ポケットにつっこんで、ケータイをとりだした。
画面には「姉さん」の文字。
電源ボタンを押そうとして、刹那の躊躇の後、通話ボタンを押した。
398 銀世界でワルツを ◆1zfTn.eh/1Y3 sage New! 2010/01/21(木) 01:14:55 ID:YaNBdMgI
「もしもし……」
ケータイを耳にあてた。
「……」
けれど、ケータイの向こうに居るはずの姉さんは応えない。ただ、かすかな息遣いのみが聞こえてくる。
「姉さん?」
再度呼びかける。それでも返事はない。
イライラがこみ上げてくる。弟がこんな思いをしてるときに、イタ電かよ。ち、と聞えよがしに舌打ち。
「何だよ、悪戯かよ。何もないなら、もう切るぞ」
イライラを隠さずに告げて、電源ボタンに手をやろうとして――
ぐす、と鼻をすする音が聞こえた。
「な、まさか泣いてるのかよ」
その時の俺の気持ちは、驚愕、といっても良かっただろう。姉さんが泣いてる所なんて、最近見たことなかった。
申し訳ないな、という気持ちが再び胸を過った。姉さんは俺の事を思って勉強を教えてくれて、そして失敗した俺の事を心配してくれている。
それなのに、俺ときたら自分の事ばかりで。姉さんの気持ちなんて、考えようとしなかった。
「姉さん、その……」
ごめん、とどうしても言いにくい一言を絞り出した。小さくて聞き取りにくかっただろうけれど、姉さんまでは確かに届いただろうと思う。
その証拠に姉さんは、
「ずず、へ、何か言った?」
「鼻すすってただけかよ!?」
俺の感動を返せ!利子つけて返せ!
「んで、何の用だよ」
ケータイの向こうに向かって話す俺の声は、すっかり剣呑なものになっていた。
「何よ、不機嫌ね。何かあった?」
対する姉さんは、至って涼しげ。全く気にした風もない。
何かあったって、テメエな……。
「別に何も」
何もなかったわけがないのだが、はっきりと答えるのが癪で意地を張る。
それでも姉さんには、何があったか手に取るように分かったらしい。
「ダメだったのね……」
と、ようやくしおらしい声で呟いた。
まあ、昨夜からあんなに落ち込んでいたんだから結果がどうであったかなんて推して知るべし、だろう。姉さんの献身的な助力空しく、俺は失敗した。
ごめんな、と謝ろうとしたけれど羞恥とかプライドとか、そんなちっぽけな感情が邪魔をして言葉にはならなかった。
無言のままの俺に対し、
「それで、どうするの?」
「どうするって……」
「玉砕覚悟で第一志望受けるの?」
「無理に決まってんだろ」
玉砕覚悟とかの前に、既に砕け散っている。木っ端微塵に。
「じゃあ、ランク落とす?」
「こんな点数で行ける大学なんて、国立にはねえよ」
もしかしたら、私立や片っ端から探せば国立にもあるのかもしれないが、このセンターの点数で行ける所なんて言葉は悪いが高が知れている。
第一志望が、第一志望だっただけに、何というかプライドが許さないのだ。
「でも、それなら、彼女とどうなったの?」
「……振られた」
「そう、それは何と言うか……ご愁傷さま?」
「慰める気あんのか、この野郎」
野郎じゃないわよ?と惚けた事をぬかす姉さん。
志望校が分不相応にレベルが高かったので、姉さんにしつこく理由を聞かれ結局ゲロってしまったのだ。
こんな傷口に塩を塗りこまれるような羽目にあうと知っていたなら、どれだけ暴行にあっても決して口を割ったりしなかったのに。
399 銀世界でワルツを ◆1zfTn.eh/1Y3 sage New! 2010/01/21(木) 01:15:42 ID:YaNBdMgI
「浪人するつもり?」
「出来るわけないだろ」
「何で?金銭面の話なら別に1年くらいなら大丈夫だと思うわよ」
「そうかもしれないけどさ……」
父親に負担をかけたくない、とは何となく恥ずかしくて言えない。
俺が口ごもっていると、くすくす、と笑い声が聞こえた。
「一理らしいわね」
「な、何がだよ」
笑い声で姉さんが答えた。どうやらお見通しのようだ。俺の顔が、かあっと赤くなったのが自分でもわかる。
寒さのせい、寒さのせい、と言い聞かせる。首をすくめマフラーに鼻から下を埋めた。
「ねえ」
姉さんの声。何だろう、さっきまでとは声の質が違って聞こえた。
何だか、緊張しているような、少し硬い声。
緊張?姉さんが?一体何に?
「一理はさ、」
姉さんが俺の名を呼ぶ。少し上ずったような声で。
俺は眉をしかめた。何だろう。姉さんのこんな声聞いた事がない。
何だよ、と訝しげに尋ねる。
うんとね、と姉さんは歯切れが悪い。それからお互い無言のまま、5秒くらい間をおいただろうか。
ようやく姉さんが口を開いた。
「私と同じ大学受ける気はない?」
「は?同じって、姉さんの大学でも無理なんだけど……」
姉さんが通う大学は、俺の第一志望ほどではないにしろ、そこそこ偏差値が高い。
国立大学には珍しく、都市部にキャンパスがあるので受験者も多いほうだ。俺のセンターの結果では前期も後期にも受かる芽はなかった。
けれど姉さんは、そうじゃなくて、と少し必死さのにじんだ声色で否定した。
じゃあ何だよ、と答える俺の声はまた剣呑さを増していた。
自分にしか非はないと分かっていたとしても、センターの結果について触れられるとイラついてしまう。
「一理が言っているのは理系の学部に限定しての話でしょ?文系の私と同じ法文学部なら倍率も例年低いし、文系科目のセンターの配点高いし……」
大丈夫、だと、思うん、だけど。
俺の無言をプレッシャーのように感じたのか、姉さんの言葉が尻切れトンボになっていく。
俺はと言えば、姉さんの言葉を咀嚼していた。法文学部ねえ。
「俺、法律とか全く興味ないんだけど」
「そんなの、不純な動機で第一志望選んだ一理には関係ないと思うんだけど」
俺の声ににじんだ迷いに感づいたのか、姉さんの声が直ぐに平常に戻る。
確かに俺は将来の夢もない、ニート予備軍のような人間で、志望校も彼女に合わせただけだが。
それでも、法律を学ぶというのはちょっと腰が引けてしまう。
大体法律を勉強して、どうするというんだろう。将来は弁護士にでもなれっていうのか?
「最初に言っとくけれど、法文学部に言ったからって法律ばっかり勉強するわけじゃないから。まあ、大学によってくるとは思うけど、
少なくとも私が通う大学は、法律科目以外の講義もあるし、何より単位を取るのはそんなに難しくないわよ」
あと、弁護士とか一理には絶対無理だから、と付け加えてきた。
……姉さんは俺の心の中が読めてたりするんだろうか。
「そこなら、私二次試験の勉強についてもアドバイスできると思うし、何より入学した時家賃もかからないし……経済的だと思わない?」
「って、一緒に住むのかよ!」
「別にいいじゃない、どうせ当初はモトカノと住む予定だったんでしょ。それが私になるだけじゃないの」
「恋人と姉じゃ、全然違うと思うんだが……」
「元、恋人、でしょ?」
嫌がらせなのかわざわざ元を強調しやがる。この野郎。心の中で毒づいた。
「父さんに負担をかけたくない一理に、私としても物騒な世の中で女の一人暮らしは何かと不安なの。どう、利害は一致すると思うんだけど?」
「不安って、姉さんがそんなタマかよ」
「あら、自分でも言うのもなんだけど私結構綺麗な方なのよ?」
「本当に自分で言うのもなんだな」
だが、否定はできなかった。確かに姉さんは綺麗だ。
女性の割に背は高く、足がすらっと長く所謂モデル体型。胸は少し小ぶりだが、時に運動もしていないはずなのにウエストはきゅっと引き締まっている。
高校までは、肩までの長さだった黒髪が大学生になって、色は茶色に、長さもさっぱりとショートカットにして印象がガラリと変わっていた。
目は少し切れ長で鼻はすっと筋が通り、唇は小さい。大学生になって何度かスカウトされたこともあるようだ。
その割には男の気配が全くないのは、ちょっぴりSっ気のある性格のせいか、はたまた彼氏はいるが只隠しているだけなのか。
後者だとすると、この半年俺に付きっきりだった姉さんを彼氏として許せるほど、心の広い男と言う事になるが。
400 銀世界でワルツを ◆1zfTn.eh/1Y3 sage New! 2010/01/21(木) 01:16:57 ID:YaNBdMgI
「何信じてないの?これでも、何度か痴漢にあった事もあるし、不審者に声かけられたこともあるのよ」
「え、大丈夫だったのか!?」
「大丈夫に決まってるでしょ?そうじゃなかったら今こうして一理と話せていないわよ」
「……それもそうだな」
それにしても、正常な男の俺にとっては、痴漢とかそういうのは漫画とかフィクションの世界のモノでしかなかったが、こんな身近に存在しているモノなのか。
「それで、どう?悪くはない話だと思うんだけど」
確かに悪い話ではない。何度も言うようだがセンター試験1日目、つまり文系科目の手ごたえは良かった。
自己採点による点数も文系に限って言えば8割ちょいで、姉さんが通う普通の大学の文系学部は、基本的にセンターの文系配点が理系よりも高く受かる可能性は高い。
倍率も1~2年でそうそう上がるものじゃないだろうし、姉さんの言うとおり低いのだろう。
「それなら、別に姉さんと一緒じゃなくても別の大学の文系受けるのも手だと思うんだけど」
姉弟一緒の大学と言うのは、やっぱり気が引けるというかなんというか。けれど、姉さんは、
「あのね、今更別の大学の二次対策として勉強を始めた所で、そうそう上手くいくわけないでしょ」
「そうなのか?二次試験なんてどこも似たり寄ったりじゃ……」
「そんなわけないじゃない。二次試験はセンターよりも難易度は上がるし、正直私に教えられるのなんてウチの学部の二次対策だけよ」
「う~ん、でも別に赤本とか買って、1か月みっちり勉強すれば……」
「元々、理数系の一理じゃ無理よ。何、浪人したいの?」
「そ、そういうわけじゃ……」
別にどこの大学も国立で似た偏差値ならば、二次試験に大した差はないとは思うのだけど、経験のない俺よりも経験者の姉さんの言葉の方が説得力があった。
もし、自分の考えを信じて姉さんの通う所とは違う大学を受けて失敗したら、それこそ目も当てられない。
それに、こう言う事で姉さんが嘘をつく動機がない。俺と一緒の大学に通いたいと言うならともかく。
浪人・私立は無理、姉さんの言葉を信じるならば、残された道は確かに一つしかないようだった。俺は、深く息を吐いた。相変わらず吐息は、白く光る。
「分かった。そこ目指してみるよ」
「そう、それなら明日から二次対策ね」
素っ気なさを装ったような声はしかし、ほんの少し喜色が滲んでいるように感じたのは俺の錯覚だっただろうか。
それにしても、いつまでたっても姉さんに頼ってばかりだな。
俺だって、姉さんに何かしてあげられるような事があればいいのだけど、今の身分じゃ経済的にも地位的にもできる事は少ない。
「姉さん、あのさ」
「ん、どうしたの?」
「いつも、ありがとう、な」
「……どうしたの急に」
「センターの事もそうだけどさ、俺っていつも姉さんに頼りっぱなしだからさ。それに、これからもきっと頼る事になりそうだからさ」
「ふふ、いいのよ。私がやりたくてやっているんだから」
「うん、でもさ」
手袋に包まれた自分の掌。温かく、柔らかいものに守られている俺の掌には、マメ一つない何の苦労も知らない、掌。
この掌は小さくて、限られたものしか掴めない。凡人である俺に守れるものなんて、そう多くない。
「俺さ、大学に合格したらバイトするから。家事だってやる。姉さんがいない2年間の間に料理できるようになったんだ」
姉さんへ少しでも多く恩返しがしたい。そのためなら、一緒に暮らすというのも悪くない。勿論、恥ずかしいけれども。
「そう、それは今から楽しみね」
姉さんがケータイの向こうで優しく笑う声が、やけに近く聞こえた。
「俺、頑張るよ。今度こそ、絶対上手くやるから」
ええ、と姉さんが耳元で囁いた。ふわ、と体が温かく、柔らかいものに包まれた。
え、と思わず口から声が漏れた。いつの間にか背後にいた姉さんに、抱きすくめられていた。
401 銀世界でワルツを ◆1zfTn.eh/1Y3 sage New! 2010/01/21(木) 01:18:02 ID:YaNBdMgI
「良く、頑張ったわね」
姉さんの声が、耳にピッタリと付けたケータイよりも近い所から聞こえる。
目頭が熱くなる。いつもそうだ。姉さんに抱き締められると、とても安心して泣きたくなってしまう。
「まだ、終わってないし」
何とか平然を装ってみせる。けれど、そんな強がりが姉さんに通用するわけもなくて。
「そうね、これからも一緒に頑張りましょ」
ぐす、と鼻が鳴ってしまう。態と体を震わせて、寒いせいだよとアピールする。姉さんは何も言わず、抱きしめる腕の力を強めた。
やっぱり姉さんには敵わない。少なくとも、今はまだ。
「一理は変わらないわね。幼いころから、何か辛い事があったらこの公園のベンチに座って。じっと涙を堪えている姿が、今でも目に浮かぶわ」
ねえ、覚えてる?と姉さんは続ける。お互い厚着なのに、密着した体から熱を伝わってくる。姉さんの吐息が耳にかかって、こそばゆい。
「一理がこの公園に逃げ込んだ時は、いつもここで一緒に踊ったこと」
「『哀しい事を全部ばらまいて、一緒に蹴り飛ばしながら踊りましょう』だろ」
今もしっかりと覚えている。初めての家出でこの公園に迷い込んだ俺をあっという間に見つけた姉さんは、そう言って俺の手を取り一緒に踊りまわったのだ。
踊るというには余りにも拙く、傍から見れば、ただ、足を振り上げながらぐるぐる回ってだけにしか見えなかったのだろうけれど。
それ以来、俺が何か悲しい事があってこの公園に逃げ込んだ時はいつも、姉さんと一緒に踊る事が習慣になったのだ。
「もう、そんな言葉まで覚えていたの、恥ずかしいじゃない。あの頃はまだ私も多感なお年頃だったの」
姉さんが、俺の頬をきゅうと引っ張った。俺が痛てて、と軽く呻くと姉さんは直ぐに手を離した。次いで首にまわした両腕もほどき、俺から離れた。
すうっと冷たい風が、体に吹き付ける。少しだけ、名残惜しい気持ち。うう、俺ってシスコンなのだろうか、なんて。
そんな俺のささやかな苦悩には気付かず、姉さんが俺の目の前に回った。中屈みになって、すっと手を差し出してきた。
白く、細やかな姉さんの手。けれど、その手には手荒れのあとが深く残っている。
感謝と申し訳ない気持ちになって、俺は自分の手から手袋を取った。その手袋を姉さんに渡そうとするけれど、姉さんは軽く首を振って、
「さあ、踊りましょう?」
普段の俺なら、恥ずかしがって手を取ろうとはしなかっただろう。けれど、今日は無意識に姉さんの手を取っていた。
姉さんの手、冬の空気にきんと冷やされている。まだ熱を持っている俺の手で、少しでも温める事が出来たらと思う。
俺の掌より、一回り小さな掌。零れおちないように、そっと力を込めた。姉さんに手をひかれて立ち上がる。
そして、やっぱり拙い足取りで、二人、くるくると回り出す。時折足を蹴り上げて、その拍子に積もった雪が花吹雪のように中空を舞う。
宙に舞った雪が、キラキラと輝く。気がつくと、雲の切れ間から一筋の光がさしていた。
祝福の光の射す銀世界を、疲れて息が上がるまで踊り続けた。
402 銀世界でワルツを ◆1zfTn.eh/1Y3 sage New! 2010/01/21(木) 01:18:31 ID:YaNBdMgI
ふむ、と一理が問題文を視線で追っている。私は、愛する弟である一理のすぐ隣に座ってその様子を眺める。
一理が新たに目指す大学の二次試験まで、後1か月弱しかない。マークシート方式のセンターとは違って、二次試験は記述式でそれだけでも難易度は高くなる。
とはいえ、一理のセンター試験の結果は文系科目だけならかなり良い点を取れているのでこのまま行けば、ほぼ合格だろう。
そう、最早、私と一理が姉弟で一緒の大学へ通うだけでなく、一緒に暮らす事は確定事項と言っても良い。
「どうしたんだ、姉さん、にやにやして」
問題を解き終わったのか、一理が訝しげな視線を送ってくる。
いけない、いけない。あまりにも計画が上手くいきすぎて、思わずにやけてしまった。
まずあり得ないだろうけれど、一理に計画の事を悟られるのはまずい。
ふむ、念には念を押して、後で下剤も処理しておいた方がいいかしらね。
あと、ケータイにある一理の元恋人とのメールとメアドも。
……他に、処理しておいた方がいい物はあったかしら。
頭の中で、後始末の手筈を思い浮かべながら首を振る。
「何でもないわよ」
「ふーん?」
一理は特に気にした風もなく、再び参考書に視線を落とした。
「ねえ、一理?」
「ん~?」
呼びかけると、視線はそのままで一理が生返事。
「楽しみね、これから」
「ん~、まあ、大学受かってからだな。まずは」
「ふふ、そうだったわね」
そう言いながらも、私は来るべき日々に思いをはせる。
久しぶりにこの町に降った雪もあと数日後には、跡形もなく溶け去ってしまうだろう。
そして、直ぐに桜が咲いて、春が来る。麗らかな日射しの中で、まずは一理と二人散歩をしよう。日当たりの良い公園で、昼寝をするのも良いかもいしれない。
キラキラと輝く、眩しい未来を想起して、私の頬は矢張り緩んだ。
最終更新:2010年01月24日 20:36