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弓張月6 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/25(月) 02:05:43 ID:/gcC7/cP
放課後のグラウンドでは、多くの学生たちが、青春に汗を流している。
かく言う俺もその一人、ところどころにシミのある白いユニフォームを着て、マウンドの上に立って白球を握っている。
対面に座るキャッチャーが、ミットを構えた。
ふう、と息をひとつ。
両腕を振り上げて下ろすことで、多少の勢いをつけながら右足をあげ、体をぐっとひねる。
右腕を前に突き出して、だん、と右足を地面に突き刺し、ボールを持った左腕を振りおろした。
指に、ボールの縫い目が引っ掛かる感覚。スナップを利かせる。
変化球なんて殆ど投げられない。そんな俺が此処に立てているのは、伊佐里高校野球部の部員が少なく、
10回試合をして1回勝てばラッキーと言えるぐらい弱小だからに他ならない。
渾身のストレート。それでも球速は110キロちょいと言ったところ。
バッターがバットを振るい、迫る白球をジャストミートした。
カーンと小気味よい音と共に、白球が夕焼けの空に吸い込まれていく。
おお、かなり飛んだ!と嬉しそうな歓声をあげて、バッターがダイヤモンドを駆けだす。既に3塁ベースに居た走者がホームベースを踏んだ。
白球の行方を追いながら、俺は、ちっと舌打ち。これで何本目のクリーンヒットだろう。
自分で言うのも何だが、こんな弱小野球部のチームメイトに打たれこむなんて、しょぼ投手の俺でも珍しい事だった。
寝不足のせいか、今日は球に力が乗らない。
球速がある訳でもない棒球なんかで、抑えるのはさすがに難しかった。
† † † † †
「どうしたんだ、今日は調子悪かったな、飛鳥」
ユニフォームを脱ぎ制服に着替えていると、肩に手を置いて真木が話しかけてきた。
振り返ると、何故かにやにやと頬を緩めている。心配してる人間がする顔じゃないだろ、それ。
「そう言うお前は、ご機嫌だな」
真木から顔を反らして、着替えを再開しながら不機嫌をにじませて呟く。
あ、やっぱりわかる?と真木は声を弾ませている。
殴ろうとする衝動をぐっと抑えた。
「花音のメアド手に入れたのがそんなに嬉しいかね……」
真木の上機嫌は、昼休みのメアド交換に端を発していた。
それからずっと、にやけっぱなしでウザい事この上なかった。
「は、お前には分かんないだろうな。花音ちゃんのメアドを他の男子生徒に売りつけたら数万の値はつくぞ」
「……お前」
じとっと、睨む。妹のメアドをそんな事に使わせるわけにはいかない。
「冗談だって、売るわけないだろ!ただ、それだけの価値はあるってことだよ」
「もし売れば、どうなるか分かってるんだろうな」
「分かってる、分かってるって」
真木は結構ビビリな所があり、いつもなら睨んだりするだけで怯むのだけど、今日はへらへらと暖簾に腕押し状態。
ムカムカする気持ちを腹にためながら、ユニフォームを畳む。
ぐしゃぐしゃなままでスポーツバッグに押し込んでもいいのだけど、そうすると花音がうるさい。
どうせすぐ洗濯するんだからそんな些細なことで怒んなよ、と思うのだけれど家事は花音に頼りきりなので、唯々諾々と従うほかない。
「大体、花音のメアド貰ってどうすんだよ」
「へ?」
「メールするのか?」
「……」
「まあ、メールでデートの約束でも取りつけられるんなら話は別だけどな」
ぱっぱとユニフォームを全てたたみ終え、スポーツバッグに詰め込む。
よし、と一息。スポーツバッグと通学カバンを持って立ち上がる。
真木を見ると、さっきまでのにやけ顔が消え去っていた。
がっと肩を掴まれた。がくがくと揺すられる。
「やっぱ、そう思うよな!メアド交換したんだから、メールくらいしてもイイよな!」
「いや、俺、そんな、事は、言って、ないん、だが」
43 弓張月6 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/25(月) 02:08:46 ID:/gcC7/cP
俺の返答も聞かず、真木は俺をつき飛ばした。
突然のことでバランスを取る事ができず、ドスンと尻もちをついてしまった。
「そうだよなー。よし、今夜帰ったら、早速メールしちゃうぞー」
うひひとおやじ笑い。お前は出会い系にはまった親父か。
立ち上がり、パンパンと尻を叩き土埃を落とす。
ウザいを通り越してキショい真木にはもう気にせず、さっさと帰る事にする。
部室のドアを開けて、部室の外に出てドアを閉める前に一言、
「ま、精々頑張れよ」
と言い残して、ドアを閉めた。
まあ、花音が絡むとどうやら変人になってしまうようだが、いつもはいたって普通のいい奴なのだ。
いつもは真木と分かれ道までは一緒に帰るのだが、正直今日はもうアイツと絡む気力はなかった。
只でさえ寝不足気味――授業の殆どを寝て過ごしても、寝不足は治らなかった――の上に、部活終わりで疲れているのだ。
それに、多分今夜も花音との眠れない夜が待っている。
「眠れない夜って何だよ……」
思わず漏れる声も、気力10%未満。
とぼとぼと言う表現がぴったりな歩調で、校門をくぐろうとして、
「眠れない夜って卑猥ですねー。どうかしたんですか?」
「ええ、それは花音が……って」
思わず普通に喋ってしまいそうになる口を、ぐっと閉じた。
いつの間にか俺の背後に、吉野先輩が立っていた。
「あれ、続きは?花音ちゃんがどうしたんですか?」
自分の唇に人差し指を当てて、小首を傾げる吉野先輩。
「生徒会長ともあろう人が、盗み聞きは感心しませんね」
「あらあら、盗み聞きなんて人聞き悪いです。飛鳥ちゃんが勝手に喋っていたんじゃないですかー」
心外ですね、と吉野先輩は頬を膨らませる。
いつもなら何らかの反応くらいするのだけれど、今の俺に吉野先輩に構ってやる余裕なんてなかった。
無言で少しスピードを上げて、すたすたと歩く。
しかし、吉野先輩は鈍臭そうな印象の割に、中々機敏な動きで俺についてきた。
こんななりをして、と言ったら失礼千万であろうが、吉野先輩は運動全般が得意だという。
ただ、水泳とか短距離走などスピードを競うものは、比較的苦手だと言っていた。
……まあ、胸にそんだけカイデーなパイオツつけてたらなあ、としみじみ思う。
「何だか、疲れちゃってるみたいですね。大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。部活帰りですから。吉野先輩は、生徒会だったんですか?」
「はい、そうですー。そろそろ新入生歓迎オリエンテーションとして球技大会があるので、その準備です~」
「ああ、そう言えばそろそろでしたね」
新入生歓迎と銘打つ割には、開催時期が微妙に遅い球技大会。
クラスごとに幾つかの球技で交流を深めながら、勝敗を競うものだが、優勝したチームに何か商品がある訳でもなくその存在感は薄い。
生徒にとっては一日授業がつぶれてラッキーといった程度のモノだ。
そんな影の薄いモノのために、こんな時間まで雑務をしなければならないなんて生徒会と言うものは予想以上に面倒なもののようだった。
「今朝も早かったですけど、それ関連ですか?」
「ええ、そうですよ」
「生徒会長ってのも大変なんですねえ」
「そうですね。でも生徒会メンバーは、皆、優秀な方ばっかりですからそれほど負担ではないですよ~。ただ、」
「真面目すぎるけど、ですか?」
「ピンポーンです」
あはー、と吉野先輩が笑う。
上品に控え目に笑う花音や快活に笑う都とも性質を異にする、吉野先輩の笑み。
吉野先輩の傍にいると、何だか癒されるような感覚を覚えるときがある。
言葉にするのは難しいけれど、ぽかぽかとした春の日射しの様な存在だろうか。
俺だけではなく、他の人にとってもそういった印象を抱いているからこそ、吉野先輩の人気は不動の物となっているのだろう。
その後は、何となく二人とも無言のまま、ぽてぽてと歩く
昼間から雲がかかって薄暗かったけれど、この時間になれば辺りは完全に暗くなっていた。
しんと静まり返った町。
淡い明かりが灯った家々からは、夕食の良い香りが漂ってくる。
今日の夕食は、何だろうか。
44 弓張月6 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/25(月) 02:11:23 ID:/gcC7/cP
最低だと罵られるかもしれないが、自分の家での楽しみと言ったら花音の作る料理のみで、それ以外は俺にとっては苦痛でしかない。
花音の存在さえも苦痛に感じられる時があり、そんな自分が凄く醜くて、吐き気さえした。
道の両脇に連なる家々。その一つ一つに、ささやかな家族の団欒が存在するのだろうか。
俺は家族の団欒と言うものがよく分からない。両親ともに忙しい人だったし、彼らと過ごした年月もそれほど長い物ではなかったから。
一つの家から、微かな笑い声が聞こえた。
そちらを見ると、カーテンの隙間から笑いあう家族の姿が覗いていた。
俺と花音も、何時かあんな風に家族として過ごせる日が来るのだろうか。
ぼんやりと無言のまま、10分ほど歩くと、やがて前方に新築の大きな家屋が聳え立った。
“成金屋敷”なんて揶揄される事もある、この町で一番大きい、そう、まさに屋敷と言うに相応しい家屋。
ここが、吉野先輩の自宅だった。
屋敷の、矢張りこれも大きな門の前まで行って、吉野先輩がくるりと振り返った。
ふわふわとした柔らかそうな癖っ毛が、宙に舞った。
「そういえば、都ちゃんとは上手くいっていますか?」
唐突な質問に、一瞬呆気にとられる。
「ええ、まあ……」
曖昧な答えになってしまったのはそのせいだろうか、それとも。
吉野先輩は、そうですか、と嬉しそうに頷いた。
「というか、吉野先輩って都と知り合いでしたっけ?」
「都ちゃんとは、昨年委員会が一緒だったので仲良くなったんですよ。今も都ちゃんはクラス委員ですから、生徒会関係で色々とお世話になってます~」
「はあ、そうなんですか……」
「都ちゃんと会話すると、いつも飛鳥ちゃんとの惚気話を聞かされるんですけどね」
「……ちなみに、どんな事を?」
何だか不穏な話の流れになってきた。冷や汗を感じながら、恐る恐る尋ねる。
吉野先輩は顎に人差し指を当てて、ん~、と暫く考えるしぐさを見せた後、ぱん、と両手を合わせて。
「ごちそうさまでした。いやー、飛鳥ちゃんって結構テクニシャンなんですね~」
「いやああああ!」
かああ、と一瞬にして羞恥に顔が赤くなっていくのが分かった。
え、マジで?マジで都は、そんな事を吉野先輩に言ってるの?
「プレイの幅が聞く度に広がっていくから、飛鳥ちゃんも大人の階段を上ってるんだなってお姉ちゃんとしては、寂しいような、嬉しいような複雑な気持ちです」
「すみません、俺が悪かったです。もう、勘弁してください」
「えー、私としては、今まで都ちゃんから聞き出した、飛鳥ちゃんの成長日記を全校生徒の前で発表する予定だったんですけど」
至って冗談のように聞こえるけれど、吉野先輩ならやりかねない所が怖い。
「そんなことされたら、俺、学校通えなくなりますって」
「あらあら、学校に通えなくなるような事をしているって自覚はあるんですね~」
からからと吉野先輩が笑う。いや、笑い事じゃないですって、マジで。
「何でもするんで、都から聞いた事は吉野先輩の胸の中にしまっておいてください」
地面を舐めんばかりの勢いで、頭を下げた。
今なら、吉野先輩の靴をなめろと言われても、3回まわってワンと鳴けと言われても喜んで出来る。
プライド?
はは、そんなものは、その辺の側溝に投げ捨てた。
「何でもですか?ふふ、どうしましょうか」
吉野先輩の声は、滅茶苦茶弾んでいる。間違いなくこの人は、この状況を楽しんでいた。
何でもすると言った自分を早くも後悔しつつも、俺は、頭を下げたまま裁決が下るのを待つ。
ぽん、と手を叩く音が聞こえた。
「それじゃあ、私の事を吉野先輩って呼ぶのをやめてもらいましょうかー」
「……諦めてなかったんですか」
最近は言われていなかったから、てっきりもう諦めてくれたのだと思った。
顔を上げる。相変わらず吉野先輩は笑顔を張り付けていて、何を考えているのか全く読めない。
「そうですね、何度か言ってた事ですけど、お姉ちゃんって呼んでもらいましょう」
「……それは」
なんというか、まずい気がする。
そんな馴れ馴れしい呼び方をすれば、親戚一同の反感を買いかねない。
45 弓張月6 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/25(月) 02:12:02 ID:/gcC7/cP
「別にいいじゃないですか。私と飛鳥ちゃんが親戚同士ってことはみんな知っている事ですし。呼称を変えた所で、誰も私たちの血縁について気付いたりしませんよ」
「いや、そうかもしれませんけど……」
「ああ、親戚一同の事を心配しているのなら大丈夫ですよ。私が一言いっておけば、彼らは何も言えなくなりますから」
「え……」
「これはオフレコなんですけれど。私、会社の経営をお手伝いしてるんです。私のお陰で、最近利益が上がっていますから、あの人たち、私に強く言えないんですよ」
これでも権力持ってるんですよ~、とのほほんとした声で言う。
そののんびりとした様子からは、到底信じられない。
けれど、否定できないような何かを先輩が持っているのも事実だった。
少々言葉は古いかもしれないが、カリスマとかそんな感じ。人の上に立つべくして、生れて来たような人なのだ。
「まあ、お姉ちゃんは少し恥ずかしいかも知れませんから、佐里
姉さんか佐里姉でもいいですよ。
学年も違うんですから、校内で呼ぶことも少ないと思いますから、そんな気負う事もないと思います」
確かに、お姉ちゃんよりはそちらの方が恥ずかしさも少なくて済みそうだった。
いつの間にか、呼称を変える事前提に話が進められている事にも気付かず、
「分かりました。佐里姉さんとこれからは呼ぶ事にします」
「あはは~、嬉しいです。それじゃあ、契約成立ですねー」
怒涛。あれよこれよと言う間に、話が進んでいく。
本当に、何でこんな事になったのだろう。
と言うか、良く考えてみれば等価交換ではないような気がする。主に、こちらが損をしているような。
「じゃあ、早速呼んでください」
「……」
「わくわく」
態々言葉にして、期待するような視線を向けてくる。
ぐっと拳を握り締めた。
「……佐里、姉さん」
「はぁい」
ハートがぽんぽん飛んでくる。
何だろう、凌辱されたような気分。
否、今まで凌辱されたことなんてないけれど。
この恨みは、明日都にぶつけよう。大体、諸悪の根源はアイツなのだから。
そう心に誓いながら、
「それじゃあ、俺は帰りますね」
逃げるように自分の家に続く道へ足を向けた。
足が重い。まるで鉛を詰め込んだような。
46 弓張月6 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/25(月) 02:12:48 ID:/gcC7/cP
「また明日~」
吉野先輩、否、佐里姉さんの朗らかな声に、振り返って軽く会釈。
歩き出した俺の背に向かって再度、吉野先輩の声が追いかけてくる。
「飛鳥ちゃん、これから、よろしくお願いしますね」
立ち止りかけた足を、ぐっと無理やり前に出した。
今度は振り返ることなく、少しだけ速足になってその場を離れる。
「あははー。それでは、良い夜を」
佐里姉さんの声は、まるで俺を嘲笑っているかのようで。ぞっとするような、うすら寒い感覚を覚えた。
彼女と初めて会った時に感じたものと同じ感覚。
煌びやかなドレスを身に纏った、今より随分幼い彼女の笑顔が頭を過った。
どうしてだろう。俺はこの、ぬるま湯の様な日常で満足しているのに。このままずっと、こんな日々が続けばと願っているのに。
俺を取り巻く環境は、それを許してはくれない。
ギリギリのバランスでこの日常は成り立っている。
漸くその事に気付き始めた俺は、愚かなのだろうか。もう何もかも、手遅れなのだろうか。
空を見上げる。
漆黒の空。厚い雲に覆われて、星も月も見えない。
それでも、雲の隙間を縫うように、見えないはずの星を空に探す。
どんなに探しても俺の目では、光るものを捉える事は出来なかった。
† † † † †
無言で玄関のドアを開く。
何故だろう。妙に仰々しい家の門をくぐった時から、どっと疲れがこみ上げてきた。
まるで、体がこれ以上進むことを拒否しているかのようだ。
ため息をつきそうになって、何となく堪えた。
玄関に座り、靴を脱ぐ。
「おかえりなさい、兄さん」
後方から聞きなれた声がした。
ドクン、と心臓が波打つ。
振り返る。いつの間にか足音もなく近寄ってきていた花音に、背後を取られていた。
何時もの着物姿に、白いエプロン。
呆然と見上げる俺に、花音はそっと首を傾げた。
そのまま、数秒の時が流れる。花音はじっと俺の前に立ったまま動こうとしない。
俺も、花音から視線を反らす事も出来ず、間抜けな恰好のまま膠着する。
更に数秒の時を置いて、ようやく気付いた。
「……ただいま」
「はい、おかえりなさい」
花音の微笑み。どうやら花音は、俺のただいまを待っていたようだった。
俺が立ち上がるのと同時に、花音は、俺の手からスポーツバッグを自然な動作で抜き取った。
「夕御飯とお風呂、どちらも準備できていますけど、どうしますか?」
「そうだな、何時ものように夕飯が先で良いよ」
言いながら、制服を着替えるために自室へ続く階段を上る。
部屋に入り、鞄を置く。ちらりとベッドを横目でうかがう。
このままベッドにダイブして、朝まで泥のように眠りたい。そんな誘惑に駆られる。
一歩ベッドの方へと足を踏み出して、誘惑を振り払うように頭をふる。
もしそんなことすれば、花音の機嫌を損ねてしまいかねない。
生来、誘惑に弱い俺はベッドが放つ、強烈な誘惑を振り払うかのように、さっさと制服を脱いで部屋着に着替え、最後にベッドを一瞥してから部屋を出た。
47 弓張月6 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/25(月) 02:13:49 ID:/gcC7/cP
一階へ降りると、花音が夕飯をテーブルに並べていた。
今日のメニューは鶏の唐揚げと、きんぴらごぼうのようだ。香ばしい匂いに、ぐうと小さくお腹が鳴った。
花音には確りと聞こえた様で、くすくすと笑い声。
妹とはいえ、腹の音を聞かれるのは何となく恥ずかしい気持ちになって、無言のままテーブルに着いた。
丁度タイミングを見計らったかのように、俺の前に白いご飯がおかれた。
気を遣っているのか、湯気が立ち上る白米はいつもよりもこんもりと大きく盛り上がっている。
箸を手にとって、唐揚げに手を伸ばそうとして、
「兄さん」
ぱし、と軽く手を叩かれた。
「頂きますもしないで、行儀が悪いですよ」
そう言いながら花音が、俺の対面に座った。
「あ、ああ、すまん……いただきます」
「はい、召し上がれ」
花音のお許しが出た所で、再び唐揚げに箸を伸ばした。今度は叩かれるようなことはなかった。
小皿にあらかじめ載せられていたマヨネーズをつけて、唐揚げを口に運ぶ。
カリッと音がして、肉汁が口の中で弾けた。ぴりりとした生姜と醤油の香ばしさが口の中に広がった。
濃い味付けを好む俺としては、マヨネーズの濃厚な味も良い。
期待通りに美味しい花音の料理に舌鼓を打ちながら顔をあげると、花音が自分の食事にも手をつけずじっとこちらを窺っていた。
「どうした、食べないのか?」
「いえ、食べますよ」
そう言って、花音も料理を食べ始めた。
けれど、頻繁に視線がこちらへと向けられる。
心の中で首を傾げながらも、まずは空腹の胃を満たすことに専念する。
「そういえば、花音、お前最近部活行ってないのか?」
ある程度、腹を満たした後花音に話しかけた。
じっと矢張りこちらを窺っていた花音は、びくりと身を震わせた。
……一体どうしたというのだろう。さっきから挙動不審だな。
「部活、ですか?」
「そう、弓道部。俺が帰った時は何時も先に家に居るようだからな。時々他の弓道部員が帰ってるところに出くわすし、野球部より早く終わってる訳じゃないんだろ?」
「そうですね。最近は、週に1~2度顔を出すくらいでしょうか」
「1~2回!?少ないな、殆ど幽霊部員じゃないか」
「まあ、放課後は買い物などやることも多いですから。それに、弓道はもうある程度上達しましたから」
「もうかよ!まだ入部して1カ月弱だろ?」
驚いている俺を全く理解できないかのように、花音はきょとんとしている。
「ええ、弓道は毎回同じ呼吸、同じ動作を心掛けながら、確り的を狙って引けばある程度の的中は出ますよ」
「それ、他の弓道部員には言うなよ。恨まれるから」
いつもそうだ。
花音はある程度の事なら、人の何十倍、何百倍の速さでマスターしてみせる。
俺の様な凡人とは、元々のつくりからして違うのだろう。
見慣れてしまった俺としては特に何も感じないが、他人からしてみれば理不尽なまでの才能の違いだ、恨まれる事もあるんじゃないだろうか。
否、もしかしたら花音の才能は、人に恨みを抱かせる事さえ出来ない程のものなのかもしれない。
鬼才。神童。成程、花音は人を凌駕した存在なのかもしれなかった。
考え事をしながら、白ご飯を口に運ぶ。
もぐもぐと咀嚼していると、突然花音が立ち上がった。
そして、真剣そのものの面持ちで身を乗り出してくる。
まずあり得ない事だとは思うのだけれど、殴られるのかと身を竦める。しかし花音の手は、両方ともテーブルの上に載せられたまま。
こんな食事の途中に行儀の悪い事をするなんて、とそんな場違いな考えが過る。
唐突な事に付いていけない俺をよそに、花音の顔が俺の顔へと近づいてくる。
まずい、と思った時はもう遅い。花音の唇がそっと俺の頬に当てられた。
そして、ぺろり、と生温かい感触。
48 弓張月6 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/25(月) 02:14:17 ID:/gcC7/cP
――舐められた!?
混乱する頭。花音が唇を離した。乗り出すようにしていた体も元の状態に戻し、
「御飯粒が付いていましたよ」
そう言いながら、ぺろ、と唇を舐めた。
「な――」
絶句、というのはこういう事を言うのだろう。のどがキュッと締め付けられたようで、言葉が出てこない。
鼓動が、痛いくらいに鳴り響いている。
ふふ、と花音は妖艶に笑う。
その笑みはいつもの撫子でも、何時か感じたようなバラのような笑みでもなく、まるで――。
ぶるぶると勢いよく首を振って、考えを吹き飛ばす。
「な、何するんだよ、突然……」
敢えて平静を装って、何とか声を絞り出した。
「何って、兄さんの頬に御飯粒が付いていたので、取っただけですよ」
「だけって、お前な……」
何かおかしい所でもあったのかと言わんばかりの表情で、花音は椅子に座り、何事もなかったかのように食事を再開した。
「ったく、何なんだ、一体」
少しだけイラついた声が漏れた。
花音も俺の声の調子に気付いたのか、
「嫌でしたか?」
と不安そうな顔になった。
「嫌とかそういう問題じゃなくて……」
慎みとか、兄妹としての倫理観とか云々の説教をしようとして、やめた。
正直、そんな気力はすでに残っていない。今日はさっさと眠ってしまいたかった。
やっぱり、この家で花音と二人で居ると、疲れてしまう。
更に、先程から昨夜と同じような体の火照りが、じわじわと現れはじめていた。
体の中に入り込んだ何か恐ろしい物に、なけなしの理性が、がりがりと削られているのが分かる。
何と言えばいいのか、まるで真綿でゆっくりと首を絞めつけられているかのような。
最後の唐揚げを口に入れて、咀嚼しながらごちそうさま、と形ばかりの挨拶をして食器を流し場へと運ぶ。
行儀が悪いですよ、と何度聞いたか分からない花音の苦言には気付かないふりをして、風呂場へと向かった。
† † † † †
風呂からあがって、自分の部屋へ向かう。
昨夜と同じ。ドクドクと血潮が体の中で暴れまわっている。
頭の中では、ずっと警鐘が鳴り響いている。思考はぼやけて、正常とは言い難い。
ふらふらと、足取りも覚束ない。
部屋に入り、ベッドに倒れこもうとして、気付いた。
木製のベッドは剥き出しになっていて、寝具が何一つ載っていない。
今日、家に帰った時には敷いてあったはずのマットがなかった。布団も、枕さえも。
――何で?
呆然と、呟く。
ほんの1時間前には、ちゃんとマットも布団も枕もあった。
俺が何処かに持っていくはずもないし、寝具がひとりでに動くなんて事はありえない。
となると、誰が寝具を取り払ったのか火を見るよりも明らかだった。
49 弓張月6 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/25(月) 02:16:06 ID:/gcC7/cP
「アイツ、何で……」
自分の口から漏れ出た声は、怒りが滲んでいた。
眠ろうとしていた所を邪魔されたせいか、物凄い量の苛々が蓄積されていく。
ガシガシと両手で頭を掻き毟った。くそ、と毒づく。
勢いよく部屋を飛び出した。階段を駆け下りて、ダイニングに続くドアを押し開けた。
「花音!」
名前を呼ぶと、キッチンで洗い物をしていた花音が驚いたような顔をして振り返った。
「どうしました?」
花音が洗い物を中断し、エプロンで手を拭きながらこちらへ近づいてきた。
こいつ、惚けやがって。ぎり、と歯を噛みしめた。
「どうした、じゃねえよ」
怒りに満ちた声。妹を睨みつける。
「ベッドからマットと布団が取り払われていたが、あれは嫌がらせか何かか?」
「ベッド……ああ、何だ、その事ですか」
飄々とした花音の態度に、沸々と怒りが煮えたぎる。
このまま花音を押し倒して、欲望のままに貪ってしまいそうだった。
「布団ならば、昨日と同じ様に、客間に敷いてありますよ」
「客間?……」
何故、と問おうとしてはたと気づく。そう言えば昨夜、花音と暫くは一緒に寝ると約束していた。
今日の夕方くらいまでは覚えていたのに、いつの間にか頭の中から抜け落ちていた。
もしかしたら、考えないようにしていたのかもしれない。
くすくす、と花音が笑う。
「そんな怖い顔をして、おかしな兄さん。もしかして、忘れていたのですか?」
ち、と小さく舌打ち。怒りが急速に萎んでいく。
代わりに、焦燥が身を焦がしだした。痛いぐらいに、心臓が跳ねている。
喉が、からからに乾いている。ごくり、と唾を飲み込んだ。
獣だ。俺の中に、獣が居る。ぐおお、と目の前に無防備に立つ至上の獲物を求めて、獣が吠えている。
「そう、だった、な……」
獣を理性の壁で囲い、声を絞り出す。ふらつく足取りで客間へと向かう。
「俺、先に寝るから」
「はあ、分かりました。おやすみなさい、兄さん」
「ああ、おやすみ……」
花音はまだ、洗い物の途中のようだし、風呂にも入っていない。
花音が眠る時間まで、まだ猶予はある。その内に眠ってしまえば、花音を襲わずに済む、と思った。
それから、2時間強。
花音が来る前に寝なくては、と思えば思うほど眠れなくなって、布団に入るまでは眠くて眠くて苛々するくらいだったのに、今では目がぱっちりと冴えていた。
そして、最悪な事に俺の隣にはすでに花音の躰がある。
どうやら今夜も眠れない夜を過ごすことになりそうだった。
腹の奥で、ドロドロとしたモノが渦巻いている。
布団の中では、もうずっと下半身が屹立して痛いくらいだった。
妹に欲情している証だ。
睡眠欲よりも、性欲ってわけかよ。俺は猿か。クソ。
歯を食いしばる。
規則的な花音の吐息。五感全てが鋭敏になっていて、それらを含めた体中のありとあらゆる器官が、花音の一挙手一投足に対して向けられている。
ごそ、と花音が隣の布団の中で、蠢いた。
それだけで、俺の体はびくりと反応してしまう。
俺の年で本当は読んではいけない漫画や、ゲームで何度か見た、全身が性感帯になったかのような感覚とはこの事かも知れない。
……男の俺が悶える姿なんて見ても、誰も喜んでくれるはずがないけれど。
50 弓張月6 ◆1zfTn.eh/1Y3 sage 2010/01/25(月) 02:16:48 ID:/gcC7/cP
「ねえ、兄さん」
ひゅと、息を飲む。
背後から声が聞こえてくる。声の主は、当然花音だ。
花音も、まだ起きていたのか。
俺は、花音の呼びかけには答えず、無言で眠っている事をアピールする。
けれど、俺のタヌキ寝入りなど通用しないとばかりに、花音は続ける。
「昨日も眠れていませんでしたよね」
昨日の事まで気付いていたのか。
ごそごそと、布団が擦れる音が、痛いくらいに静まり返った部屋中に響く。
何をするつもりだ?
振り返れば分かるだろうけど、今振り返ってしまえば何もかもが崩れ去ってしまう気がして動けない。
ただ、息を殺して夜明けを待つ。
当然、夜明けはまだ遠く。それどころか、未だ深夜という時間帯でさえなかった。
やめてくれ。心中で懇願する。もう、俺を苦しめないでくれ。
花音の気配が近づいてくる。体が金縛りにあったみたいに、思うように動いてくれない。
やがて、背中に温かく柔らかい物が触れた。
見なくても分かる。花音の身体だ。
甘く、芳しい香り。
俺を掠め取ろうと、触手を伸ばしてくる。
「何を我慢しているのですか?」
花音が、耳元で囁いた。艶めかしい吐息が、顔に降りかかった。
布団の中で、祈るように手を合わせる。
けれど、花音はそんな俺をあざ笑うかのように言葉を紡ぎ続ける。
「我慢する必要なんてないですよ。私は何時でも兄さんの傍に居ます」
するすると花音の腕が蛇のように伸びてきて、俺の手を掴んだ。
焼き鏝を当てられたかのように、花音の手が熱い。
花音が詠う。
「手を伸ばせば、ほら、直ぐここに」
やめてくれ、やめてくれ。
何とも情けない話だが、俺には祈ることしかできない。
もし、声を出して花音の方を向けば、俺は、あっと言う間に流されてしまうだろう。
俺たちは、兄妹なんだぞ。花音、聡明なお前の事だ。お前も自分の行為が、その範疇を超えている事くらい気付いているんだろ?
近親相姦と言うものが、世間でどれだけタブー視されているのか、知らないとは言わせない。
もし、俺たちがこれ以上過ちを犯してしまったら、もう今までの様な関係には戻れない事も。
それなのに、それを知っていて尚、お前は変化を望むのか?
何もかも失ってしまうと分かっていて、俺との刹那の悦楽を求めると言うのか?
臆病な俺は、心の中で問いかけることしかできない。
がりがり。
何かが削れる音が鳴り響く。
もう、終わりが近い。きっと、俺は逃げられない。
その終わりの形が、どういうものであろうとも。
がりがり。
削る。削る。
気が付けば、それを削っているのは花音ではなくて。
俺の中にすむ、獣が出口を求めてその鋭く尖った爪で一心に削っていた。
そんな、言うなれば生殺しの状態が、その後数日間にわたって続いた。
日に日に欲望は膨らんでいき、既にいつ爆発してもおかしくはない。
来るべきその日を、獣が爪を研ぎながら、待っている。
最終更新:2010年02月07日 20:07