三つの鎖 15

217 三つの鎖 15 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/02/05(金) 22:41:29 ID:NJzB+isD
三つの鎖 15

 昨日の夜、私を振りほどいて兄さんが夏美を追った後、私は兄さんの部屋にいた。兄さんのベッドに転がりぼんやりしていた。
 抱きしめた兄さんの枕から兄さんの匂いがする。
 脳裏に私に背を向ける兄さんの姿が浮かぶ。私は枕をきつく抱きしめた。
 兄さんにとってあの女は私より大切なんだ。家にいる間は私だけを見てくれると思っていたのに、兄さんはあの女が家に入るのを笑って容認した。家にいるときだけは私の傍にいて欲しいという私を振り切ってあの女を追いかけた。
 涙がとめどなく溢れた。
 どれぐらいそうしていただろう。玄関に誰かが帰ってくる音がした。
 兄さん。私は部屋を飛び出して玄関に向かった。
 でもそこにいたのは京子さんだった。
 私はその場にへたり込んだ。兄さんじゃない。
 「梓ちゃん?どうしたの。」
 京子さんは私の様子にすぐ気がついたようだ。駆け寄り私と目線を合わせた。
 その後私は京子さんに連れられ自分の部屋に戻った。京子さんはアイスティーを持ってきてくれた。
 「何があったの?」
 京子さんは私の頭を撫でて優しく尋ねた。兄さんと夏美が屋上でシている様子が脳裏に浮かぶ。怒りと悲しみに体が熱くなる。
 「幸一君の恋人の事ね」
 私は驚いて京子さんを見た。京子さんは微笑んで私を見た。
 「確か夏美ちゃんでしょ?春子ちゃんから聞いたわ」
 京子さんは私を抱きしめた。柔らかい感触。
 「可哀そうな梓ちゃん。幸一君の事を愛しているのに、こんなにつらい思いをするなんて」
 私は京子さんの腕の中で唇をかみしめた。
 そうよ。私は兄さんを愛してる。あの女よりも愛してる。それなのに何でなの。たかが血を分けた兄妹と言うだけで何でここまで惨めな思いをしないといけないの。
 兄さん。好き。愛している。なのに何でなの。何で私を見てくれないの。何であの女を見るの。
 「梓ちゃん」
 京子さんの呼び声。私は顔をあげて京子さんの顔を見た。真剣な表情。
 「話したい事があるの」
 京子さんが私に話したい事。
 何度聞いても教えてくれなかったこと。
 「私を産んでくれた人の事?」
 「そうよ」
 私は私と兄さんを産んでくれた人の事は何も知らない。お父さんは何も言わないし、京子さんも何も言わない。
 知っている事は二つ。お父さんと京子さんの高校の時の知り合いということと、京子さんと同じぐらい胸が大きかったという事だけ。
 「どこから話せばいいのかしら」
 京子さんは目を閉じて天を仰いだ。しばらくして私を見た。
 「実はね、私とお父さんは結婚していないの」
 言っている意味が分からない。
 京子さんは私が物心つくころから傍にいてくれた。いや、家によく来て私たちの面倒を見てくれた。私が中学に上がってしばらくたったころにお父さんと再婚して家に住むようになった。少なくとも私はそう聞いた。
 「どういうことなの?」
 「梓ちゃん達には再婚したって言ったけど、正式には結婚していないのよ。婚姻届は出してないわ。結婚式をしなかったのは知っているでしょ?」
 それは知っている。ただ単に面倒くさいからしなかっただけかと思っていた。二人とも人を呼んで披露宴を行う年齢でもない。だけど婚姻届の事は初めて知った。
 「やっぱり最初から話すわね。お父さん、いえ誠一さんの家庭は複雑なのは知っている?」
 知らない。私は首を横に振った。
 「誠一さんは普通の家庭に生まれたけど、幼い時に交通事故で両親を亡くしたの。それで残された子供達は養護施設に入れられた。そして誠一さんは中学を出ると養護施設を出て就職して働きながら夜間の学校に通ったの。
 誠一さんには妹がいて、妹は養護施設に来てからすぐに他の家に引き取られた。その妹が引き取られた家はひどい家で、妹を虐待していたの。
 誠一さんは妹の事をずっと気にしていたけど、子供には何もできなかった。誠一さんは中学校を卒業すると働き出して、同時に妹を引き取ったの。
 その時はいろいろ大変だった。何せ働いているとはいえ、誠一さんはまだ未成年だったから。その時は職場の方が色々手助けしてくれて妹を引き取る事が出来た。その経験が警察官を志す原因になったのだと思う」
 はじめて知るお父さんの過去。
 お父さんらしいと思った。お父さんは仕事でとても忙しい。昔から接する時間は他の父親と比べても少ないと思う。それでも愛されていないと感じた事はない。接する時間が少ないなりに、私と兄さんに父親としての愛情を注いでくれた。
 「そうだったんだ。だから私達に祖父母はいないのね」
 私は祖父母に今まで会った事がない。最初からいないから何とも思わなかったけど。


218 三つの鎖 15 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/02/05(金) 22:45:14 ID:NJzB+isD
 「誠一さんは夜間の高校に通っていたけど、妹は普通の高校に通学した。誠一さんは妹には苦労はかけたくなかったみたい。妹の同じ高校の友達に優子って子がいて、優子が誠一さんと初めて結婚した人。二人は高校の時から付き合い始めた。
 誠一さんは夜間高校を出てから警察官になった。妹は高校を出てから家を出て遠くの看護学校に入った。優子は地元に就職した。
 誠一さんと優子はしばらくして婚約した。結婚が決まった時に、二人は妹に招待状を出したわ」
 京子さんの話す妹とは誰なのだろう。私に叔母がいるなど聞いた事がない。産んでくれたお母さんの親類もだ。
 「お母さん。私に叔母っていたの?私が覚えている限り、会った事がないけど。それに産んでくれたお母さん、優子さんの親類にも会った事がないよ」
 「聞いていれば分かるわ。話を続けるわよ。この妹は秘めた思いを誠一さんに抱いていた。妹は一人の女として誠一さんを愛していたの」
 心臓がどくんと音を立てたのが分かった。お父さんの妹がお父さんに禁断の愛を抱いていた。
 私と同じ。
 「仕方がないと思うわ。家で虐待される状況で幼い時に生き別れた兄が助けてくれたのよ。その時の誠一さんはすでに働いていて、同年代の男の子とは一線を画す落ち着いた雰囲気だったわ。惹かれない方が無理よ。
 妹が遠くの学校を選んだのも想いを断ち切るためだった。何せ愛する兄にはすでに恋人がいる。一緒にいるのはつらかった」
 分かる。私も同じだから。
 あの女と兄さんが仲良くしているのを見るたびに、胸が張り裂けそうになる。
 「そんな事は知らない誠一さんは結婚式の招待状を妹に送った。妹は看護学校を出てから地元に戻らずに看護婦として、今は看護師と呼ぶけど、病院で働いていた。妹は誠一さんに会いに行った。
 誠一さんは久しぶりに妹と会って喜んだ。もともと情の深い人よ。そうじゃないと幼い時に生き別れた妹を探して引き取るなんてできないわ。妹は家を出て暮らしてから一度も家に帰らなかった。妹は会うのがつらかったのね。
 二人が再開した時、優子は実家にいた。久しぶりに会う兄妹に気を利かせたのもあるし、結婚の準備で実家にいたのもあるわ。
 誠一さんは数年ぶりに会う妹が大人の女性になっているのに驚いて成長に喜んだわ。
 妹は自分の想いを告げたの。愛しているって」
 京子さんは一息ついて私のアイスティーを一口飲んだ。
 私は京子さんの話にのまれていた。私と同じ境遇の人が身近にいたなんて。一度も会った事がないのもこれが理由かもしれない。
 「誠一さんは驚いたわ。青天の霹靂だったのでしょうね。家族として愛していた妹に愛の告白をされたのだから。もちろん誠一さんは断ったわ。妹は愛する兄の性格を理解していたわ。だからこう言ったのよ。
 私、兄さんがいないと生きていけない。でもそれは兄さんを不幸にする事ってわかってる。だからお願い。妹としての想いでだけでなく、女としての思い出をください。その思い出だけを胸に抱いて生きていきます。
 誠一さんは妹が哀れになったのでしょうね。いえ、誠一さんも妹の事を妹として見られなかったのかもしれない。その夜、二人は体を重ねたわ。
 次の日、妹は誠一さんのもとを去ったわ。結婚式にも出席しなかった。優子に兄をよろしくと葉書を送っただけだった。
 妹は二度と誠一さんと会うつもりはなかった。誠一さんに告げたとおり、思い出だけを抱いて生きるつもりだった。でもね、妹は妊娠したの。誠一さんの子を。実の兄の子を」
 心臓が高鳴る。信じられない話。お父さんに隠し子がいたなんて。いえ、私の兄か姉になるのだろうか。
 一度も会ったことのない血の半分つながった存在。近親相姦の禁忌に触れる忌むべき子。一体どんな人生を送ったのだろうか。今はどこにいるのだろう。
 「妹は悩みつつも子を産んだ。もちろん私生児として。父親がだれかなど言えるはずもなかったわ。そして子供を産んだ妹が仕事に戻ったころ、優子から葉書が来た。そこには妊娠した事が記されていた。
 そしてしばらくたってから今度は高校時代の同級生から電話が来た。それは優子の死を知らせる連絡だった。妹は子供を預けて誠一さんのもとへ行った。
 誠一さんは悲しみのあまり気が狂う寸前だった。あれだけしっかりした人なのに廃人のように呆然としていた。結婚して間もない妻と生まれてすらいない子供を同時に亡くしたのはそれだけ衝撃だったのね。
 葬式が終わって、残ったのは誠一さんと妹だけだった。全てが終わって泣く誠一さんを妹は傍にいて慰めた。そして兄妹は二度目の禁忌を犯した」
 私は京子さんの話に心臓が奇妙に高鳴るのを自覚した。京子さんの話はどこかおかしい。お父さんの最初の奥さんの優子さんは子供を産まずに死んだ。


219 三つの鎖 15 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/02/05(金) 22:49:14 ID:NJzB+isD
 私と兄さんは誰の子供なのだ。
 「お通やとお葬式が終わって誠一さんはしばらく休職するように勧められた。周りの人が同情したのでしょうね。誠一さんはその通りにした。警察官のお仕事が務まる状態じゃなかった。
 妹は葬式が終わると仕事を休職してまだ乳飲み子を抱えて兄の世話をするために兄の家に戻った。そこで誠一さんは初めて妹に子供ができた事を知った。妹はあなたの子供だと告げた。
 その時、誠一さんの顔に浮かんだのは禁忌を犯した事を否応なしに突き付けられた怖れと恐怖、そして初めて目にした息子への愛情だった。誠一さんは赤子を抱いて涙を流したわ。
 誠一さんは職場に復帰した。そして前にもまして働くようになった。妹も誠一さんの近くのアパートを借りて病院で働いた。
 子供は誠一さんの養子にした。周りには父親の分からない妹の子供を引き取ることにしたと説明した。これは妥当な判断だわ。まさか妹との子供とは言えないもの。周りは妹の子供、つまり甥の将来のためにと思ったみたい。
 誠一さんは後に話していたわ。死んだ妻と子供が生まれ変わってあらわれたように感じたと。禁忌を犯した忌み子でも、誠一さんにとっては血を分けた息子には違いなかった」
 京子さんは息子と言った。つまり、生まれてきた子は男の子。
 「妹は誠一さんのもとに通った。誠一さんも拒まなかった。といっても体を重ねることはなかった。妹はそれでも満足していた。誠一さんは再婚の意思はなかったし、兄と一緒に子供を育てる事が出来たから。
 数カ月後に、妹は妊娠した事を知った」
 京子さんは疲れたようにため息をついた。私のアイスティーを一口飲む。
 「皮肉なものよね。妹が誠一さんに抱かれたのは二回だけ。それなのに二回とも妊娠した。近親相姦の禁忌に触れる忌み子を。
 二人は話し合って、妹はこの地を離れることにした。そこは知り合いが多いから秘密を保つのは難しいという事情もあった。優子の親類もいるのも理由の一つだった。
 もともと警察官は転勤が多いわ。特に若いうちや階級が上がれば。誠一さんは遠くへ転勤を希望した。そして希望は通った。周りは誠一さんの事を惜しんだけど、亡き妻の思い出のある土地にいるのはつらいのだと思ったみたい。
 そして今の土地に来た。本当なら官舎に住む事も出来たのだけど、同僚の人目を避けるために今の家を購入して住んだ。本当ならこんなに広い家に住むのは難しいけど、色々な事情からできた。
 昔はこのあたりは今ほど開発されていなくて不動産が安かったのもあるし、誠一さんが昔勤めていた伝手もあったみたい。
 そして妹は子供を産んだ。娘だった」
 私は鳥肌が立つのを感じた。
 お父さんの妹が産んだのは娘。
 その娘には兄がいる。
 「生まれた娘はお兄ちゃんと同じように誠一さんの養子とした。妹は近くにアパートを借りた。
 しばらくは誠一さんと妹は離れて暮らしていたわ。周囲には兄妹という事は言わなかった。そして誠一さんは子供と離れて暮らす妹が可哀そうになって家に住むように誘った。子供達には再婚するから一緒に住む事になったと告げて。
 そして今に至るの」
 私は全てを理解した。
 「お母さんはお母さんだったのね」
 「梓ちゃんを産んだ人は私と同じぐらい胸が大きいって言ったでしょ」
 京子さんは茶目っ気たっぷりにウインクした。
 信じられないような話。
 京子さんは私と兄さんのお母さんで、お父さんと京子さんは兄妹。
 「幸一君の名前を決めた由来は誠一さんから一文字と幸せになってほしいという願いを込めて」
 歌うように京子さんは言葉を紡ぐ。
 「梓ちゃんは誠一さんが名付けた。梓弓って知ってる?」
 私は首を横に振った。
 「梓弓は神事で使われる弓。鳴弦の儀っていってね、弓の鳴る音で魔を払う儀式があるの。誠一さんは近親相姦の結果に生まれた子供たちの未来に魔が寄らない事を願い子の名前にしたの」
 お父さんの姿が脳裏に浮かぶ。無口で感情の起伏に乏しい父。それでも子供達に深い愛情を注いでくれた。
 皮肉な話。お父さんは私に魔が寄らないように梓って名前を付けてくれたのに、私はお母さんと同じ禁忌を渇望する女になった。兄との禁断の愛を望む女に。
 「梓ちゃん。私はね、近親相姦を勧めているわけじゃないわ。はっきり言って障害は山ほどある。私と誠一さんの場合は本当に運も味方して今まで奇跡的にばれる事はなかった。
 それに幸一君には恋人がいる。幸一君は誠一さんの情に深いところはそっくりよ。きっと誠実に恋人を愛すると思う。春子ちゃんに聞いた限りは夏美ちゃんはとてもお似合いの子みたいだし。


220 三つの鎖 15 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/02/05(金) 22:52:08 ID:NJzB+isD
 仮に男と女の関係になってもつらいわよ。私は誠一さんに二回しか抱かれた事がない。誠一さんにも思う事はあるみたい。
 私はね、梓ちゃんに絶望してほしくないの。確かに兄妹が愛し合うことは世間では禁忌と見られているわ。でもね例外がいるってことだけ知っておいてほしいの」
 京子さんは話し疲れたようにアイスティーを一口飲んだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 アイスティーは冷たくておいしかった。
 梓ちゃんは無表情な顔をしているけど、瞳は爛々と輝いている。
 私は少し意外だった。私の話した話は自分で言うのもなんだけど相当ショッキングな話のはずだ。何せ自分が近親相姦の禁忌に触れて生まれた忌み子という事実を知ったのだから。
 それなのに梓ちゃんにショックを受けた様子はない。興奮しているのは分かるけど。
 私がこの事を今梓ちゃんに話したのは、梓ちゃんが可哀そうに感じたからだ。梓ちゃんは昔の私と同じ。血のつながった実の兄を愛し、それゆえに苦しんでいる。兄に恋人がいるところまで同じだ。
 そんな娘が哀れに感じた。だから例外があるという事を、可能性は限りなくゼロに近くても無ではない事を知ってほしかった。
 「お母さん。聞いてもいい」
 梓ちゃんは私を見た。表情から何を考えているかは読み取れない。
 「ここまで話したのだから遠慮しないでいいわよ」
 「この事を私達に教えるつもりはあったの」
 「できれば墓の下までもっていきたいというのが私と誠一さんの考えだけど、現実的には難しいわ。戸籍を見れば両親がおかしい事は分かるもの。だから成人した時に母親の事だけ伝えるつもりだった。
 もちろん、本当の父親については言わないわ。昔私が付き合っていた人とごまかすつもりだった。誠一さんの養子にしたのは私生児だと将来的に不利になる可能性があるからって理由で伝えるつもりだった」
 そう。現実問題として全てを隠す事は不可能だ。それならば当たり障りのない部分を伝えることで絶対に知られてはならない事実を覆い隠すしかない。
 「もう一ついい」
 梓ちゃんは無表情に私を見た。何を考えているのだろう。
 私は無言で頷いた。
 「お父さんの最初の結婚相手の優子さんっているでしょ」
 心臓がかすかにきしむ。私の愛する人を奪った人。
 「その人が死んだ原因って何なの」
 今度ははっきりと心臓が跳ねた。
 梓ちゃんは私を無表情に見つめる。瞳が形容しがたい光を放っている。その瞳に心が揺さぶられる。
 「妊娠して入院していた時に階段からこけたらしいわ」
 私は動揺を隠して言葉を紡いだ。暴れる心臓を必死に抑えた。
 「そうなんだ」
 梓ちゃんは無表情に私を見た。その瞳に心が揺れるのを抑えられない。
 おかしい。私は今まで言葉では言い表せないほどの抑圧された人生を送ってきた。養父母による虐待、実の兄に懸想していた苦しみ、愛する人に恋人ができた嫉妬、禁忌を犯した喜びと恐怖。そんな環境の中で私は自分の感情を抑制することは必要不可欠だった。
 それなのに、実の娘の視線に背筋が寒くなるほどの恐怖を感じる。
 「そうなんだ」
 梓ちゃんは同じ言葉を繰り返した。形容しがたい恐怖が私を包み込む。
 まさか。知っているの。
 「お母さん」
 梓ちゃんは私を見上げた。視線を逸らしたい衝動を私は必死に抑えた。
 「もしね、愛する人が他の女を見ていたら、お母さんならどうする?」
 血のつながった実の娘の言葉が私の心に突き刺さる。
 知っているはずがない。もう十数年も前の事だ。
 「うんうん、お母さんはどうしたの?」
 心臓が恐怖に早鐘をうつ。
 知っているの。いや、私以外に知っている者などいない。これは私だけの秘密。
 思考が乱れる。異様に喉が渇く。早鐘を打つ心臓の鼓動をはっきりと感じる。
 「別に。私は何もしなかったわ」
 やっとのことでそれだけの言葉を吐きだした。声は震えていなかった。これも長年の抑圧のせいかなのかもしれない。この状況でも表面上は平静を保つ事が出来た。
 梓ちゃんは私に一歩近づいた。目の前に娘の顔が近付く。梓ちゃんの瞳が放つ光が私を射抜く。
 「本当にそうなの?」
 形容しがたい恐怖が私を包み込む。冷たい汗が背中を流れる。
 一瞬が永遠に感じる。
 終わりは唐突に来た。梓ちゃんは窓の外を見た。私もつられてみると、村田さんの家から誰かが出て行くのが見えた。
 あれは確か幸一君の彼女の夏美ちゃんだ。私が働いている病院で幸一君の傍にいたのを覚えている。
 幸一君の彼女を見る梓ちゃんの瞳に形容しがたい感情が宿る。その瞳を向けられたわけでもないのに背筋に冷たいものが走る。


221 三つの鎖 15 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/02/05(金) 22:53:33 ID:NJzB+isD
 「お母さん。色々話してくれてありがとう。私用事があるから行くね」
 そう言って梓ちゃんは立ち上がり部屋を出た。
 梓ちゃんの後ろ姿が昔の私とかぶる。
 私は自分の部屋に戻りベッドに倒れこんだ。何度も大きな息を吐く。全身に冷や汗をかいていた。全身がどうしようもなく震える。
 深呼吸する中で昔の記憶が水泡のように脳裏に浮かぶ。
 優子が入院していた病院の屋上で、私の腕の中の赤子だった幸一君を見て恐怖と嫌悪に目を見開く優子。逃げるように私に背を向ける優子を私は…。
 吐き気がこみあげる。私はトイレに駆け込んだ。込み上げる吐き気のままに私は嘔吐した。口の中に胃液の酸味が広がる。
 荒い息を落ち着かせてから私は掃除をしてリビングに下りた。口をすすぎため息をつく。
 梓ちゃんの様子は今までに見た事のないものだった。私は小さいときから、それこそ生まれた時から梓ちゃんの事を知っている。梓ちゃんのことは全て分かっているつもりだった。
 それなのに、さっきの梓ちゃんは私の知っている梓ちゃんとは別人にしか見えなかった。
 私は早まった事をしてしまったのかもしれない。梓ちゃんに伝えるべきではなかったのかもしれない。
 梓ちゃんの表情が脳裏に浮かぶ。形容しがたい奇妙な光を放つ瞳。その瞳に魅入られた私が感じたのは言い知れない恐怖だった。
 私は窓の外を見た。夜なのに雲がはっきりと見える。明日は雨が降りそうだった。


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最終更新:2010年02月07日 20:26
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