とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

Part04

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匿名ユーザー

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―amnesia―


 美琴は俯き、視線は下に向け、ただひたすらに真っ直ぐに走っていた。
 今日は既に一度全力で長い距離を走ったこともあってか、息はすぐにあがった。
 心臓もこれでもかというほど早く脈打ち、肺はやたらと苦しい。
 だが、美琴はそれでも走り続けた。

(そんな、そんな…こんなのって…!)

 今美琴の頭の中を埋め尽くしている、ある一つのことを頭の中から払拭するために。
 記憶喪失。
 それも、永らく帰還を待ち望んでいた上条当麻の。

(なんで、なんでアイツなのよ……よりにもよって、また…!)

 上条の記憶喪失は今回が初めてではない、過去にも一度経験している。
 具体的にいつから記憶喪失なのか、治る見込みはあるのかなどのことは美琴は知らない、知らないがそうであったということだけは知っている。
 尤も、それはそのことを美琴が上条に打ち明けた時、それを周りには言うなと口止めされた上、その後ボロボロの身体を引きずってどこかへと行ってしまったりと、話をする機会に恵まれなかったことに起因しているのだが。
 ともかく、これだけは言える。
 上条当麻は、“二度目”の記憶喪失をした、と。

(どうして、アイツばっかり…!)

 美琴は考える。
 いつ、記憶喪失になったのかと。
 恐らくロシア上空に浮いていた正体不明の空中要塞で会った時にはまだ記憶はあったはず。
 確かにあの時上条は戸惑ってはいたが、あの戸惑いは初対面の者に対する時のそれとは明らかに違っていた。
 第一、そうでもないと『まだ、やるべきことがある』などという言葉を美琴に残さないだろう。
 だからあの時は違うはず、違うとすればあの後にやってしまったのだろう。
 恐らく上条の言うところの“やるべきこと”の最中に。

(私が、あの時アイツをちゃんと救ってれば…)

 だから美琴はこうも考える。
 上条の記憶喪失の直接的な原因は美琴自身にあるわけではない。
 だがほんの少し見方を変えると、美琴が上条を救っていれば上条は記憶喪失にならずに済んだかもしれない。
 言ってしまえば、記憶喪失の原因の一つとして間接的ながらも自身が絡んでいるのではないか、と。
 この考えを聞いた者は恐らく十人いれば十人が違うと言うだろう。
 美琴はロシアでのあのやり取りでは全力を尽くしたのだ。
 そして故意がどうかはわからないが、美琴の救い手を断ち切ったのも上条自身。
 彼女に否があるわけがない、と。

(私、が…?)

 しかし、今この瞬間に美琴の周りにはこの考えを否定する者はいない。
 周りの人々は道を全力疾走していく常盤台の生徒がいると、物珍しがって美琴を見ているだけ。
 誰もその常盤台の生徒の心がどうのということなど考えていない。
 美琴に救いの一言をかけてくれる者など、この場にはいない。

(私のせい、なの…?)

 美琴は底のない泥沼にはまっていく。
 足掻けば足掻くほど、思考を巡らせれば巡らせるほど、沈んでいく。
 暗い暗い、孤独と絶望しか待っていない泥沼の中へと。

「あは、ははは…」

 立ち止まり気付くと、常盤台女子寮がもう目の前にあった。
 幸い常盤台女子寮の前に誰もおらず、美琴の乾いた笑いを聞いた者は誰一人としていなかった。
 美琴はポケットにしまっていた携帯を開いて、時刻を確認する。
 どうやら今の時刻は17時13分らしい。
 時刻は知ることはできた、しかし美琴は携帯を開いたことを即座に後悔する。
 その携帯のディスプレイに表示されていたのは、美琴と上条のツーショットの写真と今の時刻。
 昨日までならいざ知らず、今の美琴にとってそのツーショットはただ辛いだけだった。
 確かに昨日までは上条当麻は学園都市にいなかったが、“上条当麻”は美琴の中に息づいていた。
 だが今は学園都市に彼はいても、“上条当麻”はいなくなってしまった。
 そして携帯のディスプレイに映し出されているのは“上条当麻”。
 美琴は即座に携帯の設定をいじり、待ち受け画面の画像を初期設定のものへと変更する。
 設定を改められた画面の中では、可愛らしいカエルのキャラクターがニッコリと美琴に笑いかけていた。
 待ち受けが変更されたことを確認すると、美琴はそっと携帯を閉じ、重くなった足を引きずりながら住まいである女子寮の中へと入っていく。
 寮の中へ足を踏み入れると、何やら用事があるのか、外出しようとしていた寮監が扉を開けようと扉の目の前に立っていた。
 寮監は美琴の様子を見てを何かを察したのか、大丈夫かと美琴に問いかけるが、美琴は大丈夫ですとやや素っ気なく答えると、怪訝な表情のままの寮監をその場に残して一目散に自身の部屋へと走り出した。
 今は誰とも話をしたくはない。
 美琴は、一人になりたかった。
 一人になってどうするということはない、むしろ一人になってしまえば思考のどつぼにはまってしまいそうな気さえもする。
 だが少なくとも、他人と何かをしたいという気分でもなかった。
 部屋に着くまでに時間はかからなかった。
 入り口からそう遠くもない上に、走ったのだ。
 部屋の前には1分もかからずに着いた。
 しかし美琴はそのまま扉を開けず、ドアノブに手をかけ、動きを止める。
 中から、人の気配がした。

(黒子…?)

 一人になりたかった美琴としては、一瞬扉を開けることを躊躇った。
 だが扉の前でいつまでも突っ立っているわけにもいかない。
 後に帰ってくるであろう他の寮生達に見られては少々面倒なことになる。
 だからと言ってこのまま部屋に戻らず、また外に繰り出すには時間が微妙すぎる。
 だから美琴は一瞬の躊躇の後に、握っていたドアノブを回し、扉を開け放った。

「―――お帰りなさいですの、おね……お姉様?」

 部屋にはやはり、この部屋のもう一人の同居人、白井黒子がいた。


         ☆


 勢いよく部屋のドアが開閉される音に反応し、白井は部屋に入ってきた者に向かってお帰りと声かける。
 白井以外にこの部屋に入ってくる者は2名。
 この部屋のもう一人の主である美琴と、この寮の監督者である寮監。
 寮監が部屋に入ってくる場合、それは寮監独特の足音などにより判別できる。
 だから白井は足音とドアの開け方により、振り返らずとも部屋に入ってきた者を断定し、声をかけた。
 そして結果的に部屋に入ってきた者はこの部屋の主であるお姉様こと、御坂美琴で合ってはいた。

「……お姉様?」
「た、ただいま…」

 しかし、白井は部屋に入ってきた美琴を見て首を傾げ、怪訝な表情で美琴を見た。
 呼吸は乱れており、それにより激しく肩を上下させ、額には若干の汗。
 さらに美琴は俯いていてはっきりとは見えないが、目の周りには若干の腫れもある。
 そして何より白井が気になったものは、美琴の雰囲気。
 明らかに美琴の様子はおかしかった。

「お姉様…? 何か、何かありましたの?」
「……ごめん、今は…何も言いたくない。 口にしたら私、私…っ!」
「お姉様!?」

 美琴はそれを言い終える前に、ゲホゲホと大きく咳き込んだ。
 それを見た白井は血相を変えて美琴に駆け寄るが、それは次第に落ち着き、収まっていく。

「だ、大丈夫ですの…?」
「それは、大丈夫。 ……けどごめん、今はちょっと横になる」

 そう言うと、美琴は自分のベッドへと歩み寄り、そして倒れ込んだ。
 美琴のその足取りもやはり、ふらふらとしていておぼつかない。
 美琴のその様子は、誰かが見たとしても大丈夫ではない。
 だから白井は考える。
 今日という一日のうちに絶対に何かがあり、そしてその何かが美琴の雰囲気を変えたと。
 それは毎日美琴を美琴を見ている白井にとっては一目瞭然の事実。
 恐らく美琴とてそれはわかっているだろう。
 にもかかわらず、美琴は大丈夫と白井に告げた。
 あからさまの事実であるのに、美琴はその何かを白井に隠した。
 だからそんな美琴の様子、態度を見て、白井は“キレた”

「…………何が」

 ぼそっと、呟くようにして白井は体をわなわなと震わせながら言う。
 白井には、最近の美琴に対して言いたいこと山ほどがあった。
 それこそ身体の内から次々と溢れ出てくるほどに。
 いつもはそれらを言いたいと思いこそすれ、話すことは堪えていた。

「何が……大丈夫、ですの…?」

 美琴はその性格から自身のことについて話したがらないのは白井も知っている。
 それがどんなに大きな問題であったとしても、いや、大きければ大きいほど自分一人でどうにかしようとする。
 以前がそうであったように、例え美琴に他人を頼るように促したとしても、他人を決して頼ろうとしない。
 そういった理由もあって、白井は今まで敢えて何も言わずにいた。
 いつの日か、以前のお姉様に戻ることを信じ、夢見て。

「お姉様のその状態のどこが大丈夫ですの!! そんな状態になるなら、そんなに苦しいなら、誰かを頼ればいいじゃありませんの!!」

 だがそれももう限界。
 昨日までの美琴もあまり見られたものではなかったが、今の彼女は明らかに度を超えている。
 もう何も言わずにはいられない。
 心の内から湧き上がる激情に抗うようなことは、もうしない。
 声を荒げて、白井は何も取り繕うことなく、告げる。

「ロシアから帰ってからお姉様の調子がおかしいのは最早一目瞭然。 何に対してそこまでお悩みになっているかも大体想像ができますわ。ですから!」
「わかってるなら、尚更話したところでどうなるっていうの? ……話したところで、もう“アイツ”は……絶対に、帰ってこないの…」

 白井の言葉を遮るように、美琴はベッドに委ねていた上半身を起こして、扉の前に立つ白井には振り向かずにそう言った。

「絶対…?」
「………」

 絶対という単語にひっかかりを覚え、白井は眉をひそめた。
 美琴が言うアイツが一体誰を指すのかはわかる、わかるからこそ、わからなかった。
 風紀委員の権限をフルに活用し、あの少年があの戦争が始まる少し前から学園都市から姿をくらましたということは情報として掴んでいる。
 だからこそ、何故今はどこにいるかもしれない男に対して、絶対など言えるのだろうかと。

「絶対、とはどういうことですの…? ……まさか」
「………」

 白井が想像するのは最悪の結末。
 対して美琴は何も答えない。
 目を瞑り、両手で握り拳をつくり、わなわなとその拳を震わせるだけ。

「お姉様!!」

 そんな美琴に対して、白井は怒鳴り、先を促す。
 やり方は確かに強引かもしれない。
 だが、いつかはやらねば状況は変わらない。
 例え強引であっても、自ら問いただしていかねば美琴は絶対に喋らない。
 ここはどんな手を使ってでも美琴に話させる、それほどの覚悟で白井はいた。

「……アンタには、関係ない」
「っ!!」

 その言葉を聞いた瞬間、白井は能力を使用した。
 ヒュン、と小さく音をたて、次に白井が現れた場所は美琴の目の前。
 さらに白井が現れた時には既に目一杯を右腕を引いており、そして、

 パァン! と、肌を叩く乾いた音が部屋中に響き渡った。

 白井が、美琴の頬にビンタした音だった。

「……痛い」
「ええそれは痛いですわよね、本気でしたので。 ですが、黒子の心はもっと痛んでますの」

 二人はやけに落ち着いていた。
 美琴は白井に思い切り殴られたからと癇癪を起こすなどのことはせず、俯いて殴られて赤みが増してきた箇所を片手でさすっている。
 白井は自らが慕う美琴を殴ってしまったことによる気負いは全くなく、非常に冷たい口調でそう告げた。

「……お姉様。お姉様はあの殿方が何かに真剣に思い悩んでいて、お姉様はそれを知っていて、それでいてあの殿方がその悩み事を相談してくれない時、どう思いますの?」

 今度は先ほどとは打って変わって、諭すような口調で美琴に語りかける。
 辛いのはお姉様だけではない、白井の心中にはそんな気持ちがあった。

「……嫌に、決まってるじゃない」
「ではその殿方に、関係ないから話さないと言われたら、どう思いますの?」
「………」

 白井のその問いかけに対する美琴の返答はなかった。
 ピクリと一瞬反応を見せているあたり、わかってはいるのかもしれない。

「私だって、お姉様にそう言われるのは嫌なんですの。 それがわからないお姉様ではないでしょう?」
「……でもね」
「でもやけどなんて言葉、今は聞きたくありませんの。 きっと話せば少しは楽になりますわ。 ですから、お姉様の心の内を話してくれませんか?」
「……でも、それでもっ!」
「お姉様には!!」

 美琴の言葉を遮り、白井は力強く言い放つ。
 美琴の心に届くように、響くように。
 そして、

「……お姉様には、お姉様を心から心配する味方がいますの。 決してお姉様は一人ではありませんわ。 私はもちろん、佐天さんや初春だっています。 お姉様の力になりたい人間はちゃんとおりますのよ? ……ですから、一人で思い悩むのは止めてください」
「……!」

 美琴の心配を払拭するかのように、優しく言葉を囁いた。


         ☆


(……私は)

 美琴は、頭の中で白井の言葉を復唱していた。
 一人では、ない。
 確かに白井に美琴が抱える悩みを話したところで、それが解決するなどというむしのいい話があるわけがない。
 話したとしても、美琴を取り巻く状況は何一つ変わらない。
 その考えは未だに美琴の頭に残っていた。

「……一回しか言わないから、よく聞いておくこと」

 それでも、美琴は話そうという気になっていた。
 例え話したところで何も状況が変わらないとしても、ここまで心配してくれるこの子には、信頼できる後輩である白井になら、話してもいいと思えていた。

「……アイツは、いつからいるのかは知らないけど、もう学園都市に帰ってた」
「えっ?」

 それを聞いた瞬間、白井の口から意外だと言わんばかりに小さく声が漏れた。
 対して美琴は、今日の夕方に知ったばかりの事実を思い出しながら、続ける。

「今日の学校帰りにさ、いつも通り一人でぶらぶら辺りを歩いてたら、久しぶりにアイツに会ったのよ。 それで、学園都市に帰ってきてることを知った」
「……?」

 白井は美琴が話す話がいまいち理解できなかった。
 当然ながら、白井は美琴が言うところのアイツとは一体誰であるかはちゃんと理解しているし、今までそのアイツが学園都市にいなかったということも知っていた。
 更に言えば、今の美琴の不調もそのアイツの不在が原因であるということも。
 恐らくロシアで何かがあったのではないかと、白井は考える。
 だがそれでも白井はわからなかった。
 先ほど美琴は、“アイツ”はもう絶対に帰ってこないと言った。
 絶対、と帰ってくる可能性を全て否定してまで。
 それが実際に美琴の話を聞いてみればどうだろうか。
 美琴の話によればアイツは既に帰ってきているらしい。
 この矛盾を白井はどうにも理解できなかった。

「……けど、会って話を聞いた瞬間に、わかった。“アイツ”はもう、帰ってこないって」

 そこだ。
 そこが、白井がどうも理解できない点。 先ほどと今の美琴の話の、矛盾点。

「帰ってきているのに、帰ってこない…? そこがいまいち理解できないのですが…?」
「………」

 首を傾げ、怪訝な表情で視線を送る白井をよそに、美琴はまた黙る。
 美琴とて、それは決して認めたくも思い出したくもない事実。
 長い間彼への想いを秘め、いずれはその想いを告げて、もし最良の結果にならなかったとしても、いつかはきっとまた彼との日常を送れると信じていた美琴にとっては、特に。
 しかし事実は事実。
 例え認めることが嫌であったとしても、口にすることが嫌であったとしても、


「―――アイツ、記憶喪失なんだって」


 それはもう決まってしまった不変の事実。
 嫌でも受け入れるという選択肢しか、残されていない。

「なん、ですって…!?」

 美琴が口にした事実は、想いを秘めていた美琴にとってはとても残酷で、冷たいもの。
 そしてそれは同時に白井にとっても衝撃的なことであり、思ってもみなかった事実。

「だから、だからアイツは、もう…!」

 そして美琴は、ベッドのシーツを握る拳を声をわなわなと震わせ、絞るようにして呟いた。
 先ほど美琴は白井にアイツはもう絶対に帰ってこないと言った。
 白井はそれを学園都市には帰ってこないものとして理解していた。
 普通はそう考えるのが妥当だろう。
 しかしそこに本当に込められた意味を考えるとそれは正しくなく、正しくは上条当麻という人格がもう帰ってこないという意味。
 つまり美琴が本当に言いたかったこととは、美琴が好きだった上条当麻は帰ってこないということ。
 話を聞いた限りではそう考えるのが至極自然であり、そう考えると美琴の話の辻褄が合う。
 白井の心の内にあった矛盾への疑問はこれできれいに解けた。

(上条さんが、記憶喪失…?)

 だが目の前に突きつけられた現実という名の理不尽を納得するのはどうにも難しかった。
 白井としても、美琴から今までの対戦についての話を何度も聞いていたので、上条が常人離れした頑丈さと強さ、そして不幸を持ち合わせているのは知っている。
 しかも以前、上条には絶体絶命の状況から命を救われたことさえもあるのだ。
 そんな殺しても殺しても死ななそうな男が、記憶喪失。
 いや、そんな男だからこそかとも考えだが、それでも彼の身にどんな不幸が降りかかればそうなるのかなどは見当もつかない。

「な、治る見込みは、ありませんの…?」

 それが今の白井が言える唯一の言葉だった。
 幸いという言い方は、記憶喪失がある意味死より酷な美琴にとっては酷な言い方かもしれないが、上条はまだ死んではいない。
 幸いにもまだ記憶喪失で済んでいるのだ。
 白井は記憶喪失についての知識はあまり豊富とは言えない。
 だからこその疑問。

「……わからない」
「!! な、なら、病院にでも連れていって診てもらえば」
「けどね」

 わからないという言葉に少し安堵した白井だったが、その安堵もそう長くは続かない。
 提示しようとした救いの一手を言い切る前に美琴に言葉を遮られた。

「アイツは色んな人には隠してるけど、前にも一度記憶喪失になってるのよ」
「!!」
「その一回目の記憶喪失にいつなったのかとか、治る見込みがあったのかはわからない。 けど前にアイツに一回目の記憶喪失についてを聞いた時、アイツは記憶喪失を完全に受け入れてた。 医者から治る可能性はないと言われてたんじゃないかな? ……だから、今回もそう考えるのが妥当なんじゃない?」
「そんな…」

 どこか達観したような表情で、美琴はそう語る。
 その表情は言外にもう諦めたから、ダメなのはわかっているからと言っているように白井は感じた。
 いつもの美琴ならば、こんな状況認めないと言わんばかりに何とかしようと動いていたかもしれない。
 諦めない気持ちで目の前に立ちはだかる壁やハードルに、そしてどんな難題にも立ち向かおうとする、御坂美琴とは本来そういう人間。
 しかし今の美琴には、目の前の難題へと立ち向かうだけの芯がもうなかった。
 美琴は元々今日上条と会う前の時点で心はもう限界に近かったのだ。
 毎日毎日上条のことを、1ヶ月前のロシアでの出来事を思い、心の底から心配して美琴の心は痛み、疲弊しきっていた。
 他の誰でもない、上条以外には癒せないほどまでに。
 そんなただでさえボロボロだった美琴にトドメをさしたのは、皮肉にも本来待ち望んでいたはずの上条の帰還。
 帰ってきた上条当麻は上条当麻であっても、美琴の待ち望んでいた上条当麻ではなかった。
 その事実の前には、美琴は何の希望も見いだせず、打ちひしがれ、もう完全に提示された事実に対して屈するしかない。
 美琴の心はもう半ば折れていた。

「……ですが、可能性は零ではありませんの」

 美琴は自分では何もできないという無力感、どうすることもできないという虚脱感、そして事実対する絶望感に苛まれ、何も言わなくなっていた。
 そんな美琴に対し、白井はぼそっと呟く。

「確かにそう見るのは妥当かもしれませんの。 ですがそれでも、記憶が戻る可能性は零ではありません。 零ではない限り、可能性を追い求めるべきですの」
「………」
「不確実なのは認めますわ。 それでも何もせず、足掻かずに今という日々を無為に過ごしても、状況は何一つ変わりませんの!」
「………ゃめて」

 次第に語気が強くなってきた白井に、美琴は弱々しく静止を求めた。

「まだほんの少しでも可能性があるのならそこに賭けてみるべきですの! それがだめならまた違う可能性がきっと…いや、絶対ありますわ!! ですからお姉様、どうか諦めずに可能性を追い求めて」
「やめて!!」

 止まらない白井に、美琴は今度は両手を耳にあて大声で静止を求める。
 その叫びは最早懇願に近いものさえあった。
 聞きたくない、何も耳にいれたくないと訴えるかのように。
 美琴は、限界だった。

「もう…いいの。 アイツのことを考えると、どうしようもなく辛くなる。 もうこんな辛い思いするのは嫌なの。 アイツが私のことを忘れてるんだから、私もアイツを忘れる。 それで全て解決じゃない? そうすれば、みんな辛くない。 それでいいじゃない。 ううん、それが一番よ。 ……だからもう、いいの」
「お姉様、それでは何の解決にもなってませんの。 それはお姉様の気持ちを誤魔化しているに過ぎませんの。 第一それでは、お姉様の気持ちは…」
「だからさ、もういいんだってば。 それに私は前々からアイツに喧嘩ばっかりふっかけてきた。 街中で呼びかけてもスルーされることが多かった。 万が一記憶を戻せたとしても、私はきっと嫌われてるわよ。 それならどう転んでも私の願いは叶わない。 だからそんな結果しか生まないなら、どうせ失ってしまうような希望なら……戻さなくてもいいし、いらない」
「そんなことわかりませんわ!人が人をどう思っているかなんて読心術者でもない限りわかりませんの!」

 自分は、何を言っているのだろうか。
 白井は美琴を諭そうとしながらもそんなことを考えていた。
 正直な話、白井は上条に対してそこまで良い印象をもっているわけではない。
 当然ながら以前助けられたことに対する恩義は感じている。
 だがそれでも上条は美琴の心を根こそぎ奪っていった。
 自身が心の底から敬愛する美琴の心を、こんなにしてしまうほどまでに。
 白井はそんな敬愛する美琴と上条が仲良くしている時を見ているとどこか腹立たしく思う時さえある。
 あの類人猿さえいなければ…、などと思った時など数え切れない。
 だからこそ白井のにとって上条とは、美琴や自身を救ってくれたことへ一応の感謝はしてはいるものの、本来自身と美琴の仲を邪魔する憎たらしい人物でしかなかったはずだった。
 しかし今はこうして美琴に対して上条を諦めるなと言外に促している。
 自身にとって邪魔でしかないはずの上条をどうにか助けられないかと必死に思考を巡らしている。
 放っておけば美琴は上条を諦め、邪魔が入ることはなくなる。
 放っておくことこそが、自身にとって全て良い方向へ進めるための最善の策のはずであるにもかかわらず。
 それが何故ここまで必死になっているのか。

(そんなの……決まっていますの)

 全ては、美琴の笑顔を取り戻すため。
 本来邪魔でしかないはずの存在を助けようとするのも、美琴に諦めるなと諭すのも、全てそのため。
 確かに放っておくことも良い一手かもしれない。
 ただそれを実行すればほぼ間違いなく、美琴は以前の美琴を取り戻せないという確信めいたものを白井はもっていた。
 それだけはダメだ、それだけは避けなければならない。
 美琴を心底敬愛する白井だからこそ、美琴がずっとこんな状態を続けることをよしとはしない。
 しかしそれをするには自分だけでは確実に不可能。
 今までの状況から、白井一人ではその力が自身にはないことがわかってしまっていたのだから。
 本音を言えば、自分が美琴を救いたかった。
 自身の手で本来の美琴を、大好きな彼女を取り戻したかった。
 そのためにここ一カ月で様々な手をうってきたのだ。
 結果として、ここ一カ月ではその本心は叶わず、以前の美琴に戻ることはなかった。
 だから白井は不本意ではあるがその役目を上条に託す。
 彼こそが美琴を元に戻せる最後の希望。
 だがその白井にとっての、また美琴にとってのでもある最後の希望の光も、今や覚束なくなっている。
 それ故に、白井は上条の記憶を戻すために極小の可能性を探る。
 最後の希望を費やさないために、美琴のために、ひいては自分のために。
 白井は、そのためならば全てを投げ打つ覚悟さえあったのだ。
 しかし、

「ありがとね、黒子。 ……でも、本当にもういいのよ…」
「!!」

 美琴は立ち上がってゆっくりと白井の隣まで歩み寄り、ひどく優しく、悟ったような口調で白井に対して語りかけると、そのまま部屋を出て行った。
 美琴が扉を開けた際に、部屋の外からはガヤガヤと寮生達の声で賑わう音が聞こえてきた。
 そろそろ夕食の時間なのかもしれない。
 だが今の白井にとってはそんなことなどどうでもよかった。
 何故今美琴を引き止めなかった。
 何故今美琴を引き止めて、もう一度催促しなかった。
 ひたすらに自身に問いを投げかけ続け、ある一つの答えを得た。
 白井は行動をしなかったのではない、できなかったのだ。
 美琴の目には、以前のようなギラギラとした光はもう灯っていなかった。
 美琴の表情には、以前のような凛々しさも覇気もなかった。
 そして全てを悟ったような、全てを諦めたようなあまりの口調の美琴に、白井もまた悟ってしまったのだ。
 これ以上自分が何を言っても、無駄なのではないか、と。
 だから白井は何も言うことも、静止を求めることもできず、自身の無力加減にただただ呆然としていた。
 またそれは同時に、白井の説得は失敗に終わったことも意味する。
 美琴を救うことはおろか、美琴を再び立ち上がらせることさえも成せずに、説得は失敗に終わったのだ。

「――――っ!!」

 今や一人しかいなくなった部屋の中では、一人の少女の心の底からの嘆きが、虚しく響いていた。


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