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第二次美濃防衛戦 - (2009/10/13 (火) 23:56:15) の編集履歴(バックアップ)


第二次美濃防衛戦

第二次美濃防衛戦(だいにじみのぼうえいせん)とは永禄11年冬から12年春に姉小路家と武田家の間にかけて起きた戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路家
稲葉山城兵72154 守将:竹中重治
第一部隊:鉄砲隊3000:霧雨魔理沙山崎片家仙石秀久
第二部隊:鉄砲隊8000:博麗霊夢関一政ルーミア
第三部隊:鉄砲隊3000:明智光秀六角義治斎藤龍興
第四部隊:鉄砲隊3000:八雲紫松本氏輔
弾幕隊:鉄砲隊各1000:斎藤利三
山中幸盛中川清秀
丹羽長秀日根野弘就
宮部継潤
滝川益重
淡河定範
明智秀満鵜殿長照
弓隊1000:赤井直正吉田重政

武田家
岩村城兵
武田信玄:弓隊22000
高坂昌信:騎馬隊14500
榊原康政大関高増大田原資清:騎馬隊14500
太田資正:足軽隊9500
沼田祐光保科正俊:足軽隊8000
藤原妹紅:9000
内藤昌豊:9000

長野業正小幡信貞:破城槌隊16000
武田信繁:破城槌隊13000
諏訪勝頼山本晴幸:破城槌隊20500
武田義信:破城槌隊14000

姉小路家は尾張攻略戦の勝利により東海道方面の武田軍を撃破したが、そちらに兵を多く回したため美濃の守りが薄くなっている。加えて、弾幕要塞を捨てているため防御力は落ちている。
武田家は尾張陥落により東海道方面の兵力は減少したものの、中山道方面は多数の兵を擁しており、未だ武田の驚異は衰えを見せていない。

背景

尾張攻略戦後の時点で対武田方面の姉小路家の兵糧は必ずしも余裕があるわけではなかった。
事実、同時進行で行われている対上杉家への侵攻作戦に必要な物資を考えれば
尾張かその次の三河が侵攻の限界点であった。
しかし、第二次稲葉山会戦によって武田の圧力が減殺したため、
姉小路家は弾幕要塞を破棄して美濃国の農業を振興していた。
この試みが成功すれば姉小路家の兵糧事情は大幅に改善されることは確実であった。
武田家にとってこれは姉小路家の侵攻の圧力が強まることを意味する。
武田家の侵攻は対武田最大の補給基地として生まれ変わりつつあった稲葉山城を叩いて、
美濃復興を妨げ、あわよくば奪取することを目的としていたと考えられる。

概要

この合戦が行われる直前に一部軍団長クラスの所属の変更が行われており、
これまで稲葉山城防衛に当たってきた蜂須賀正勝は清洲城代に着任、
武田信虎の軍団も清洲城に所属している。
そのため、姉小路頼綱は竹中重治、明智光秀、異能衆を初めとした諸将を美濃へと派遣した。
陣割では重治が守備を固め、博麗霊夢が東門守備を担当した。
これは基本的に、正勝、八雲紫の役割をそのまま交代させたものである。
東門守備がこれまでの八雲紫ではなく博麗霊夢なのは、長く同僚として勤めている
明智軍団及び竹中重治とのチームワークを優先したからであろう。

一月二十日、武田軍の先陣、高坂昌信隊が南門付近に着陣。
以下、南門に武田信玄隊、西門に榊原康政隊、藤原妹紅隊、
北門に内藤昌豊隊、太田資正隊、沼田祐光隊など続々と配置に付いた。
ただし、武田一門衆、長野業正率いる破城槌部隊は行軍にやや手間取ってこの時点では着陣していない。

当時、武田家は馬不足に悩まされていた。清洲城での戦いで多くの軍馬を失っていたからである。
そのために騎馬部隊は榊原、高坂両隊のみであり、その他の部隊は足軽が主力となっていた。
信玄自身の部隊はあまり熟練していない農兵中心の弓兵であった。

これに対して姉小路家は敵の一隊に火力を集中させる方針をとる。
まず最初に交戦状態となった高坂隊に照準を定めた。
数万丁に及ぶ鉄砲の銃撃を受けた高坂隊はまたたく間に兵を損耗し、退却しなければ危険な状況であった。
しかし、後方に控える武田信玄本隊は先述の事情で脆く、攻撃に晒された後の信玄の危険を危惧した彼は
南門に居座わり続けた。
彼は早朝の濃霧に紛れて稲葉山城へ攻めかかり、放火を試みたが突然の雨で失敗。
逆に城方に気づかれて銃撃を受け、その上、撤退時に雨で濡れた岩肌で滑落する兵が続出。
隊は壊滅して高坂昌信は岩村城への撤退を余儀なくされた。
しかしながら、姉小路方は信玄隊が新兵中心であることに気が付かずに他の門を塞ぐ諸将への攻撃を優先させる。
次いで北門内藤昌豊隊が標的となるも、霧雨魔理沙隊の強襲で兵の過半を失った上に陣屋を焼き払われ、
敗走するところを明智光秀隊に補足され全滅。
その次に標的となった沼田祐光隊は滝川益重によって主将が狙撃され討死。
副将の保科正俊が指揮を引き継ぐも八雲紫隊の銃撃の前に長くは持たなかった。
続いて内藤昌豊隊、藤原妹紅隊と各個に退けていった。
ここまで戦果を挙げられたのは戦えたのは稲葉山城を守る竹中重治が上手に敵の攻撃を引きつけたことによる。
これによって弾幕隊を集中運用することが可能になったからである。
武田勢は完全に攻めあぐねたといって良い。

しかし、ここでようやく破城槌隊が到着、城門への攻撃を開始した。
4部隊、6万5千近い後続には流石に稲葉山城の城門が耐え切れず2月10日、武田義信は城門の破壊に成功した。
榊原康政隊、太田資正がこれに続き、稲葉山城内で激しい戦いが行われた。
しかし、榊原康政隊は序盤から参戦しているために疲弊しており、さらに城内突入直前から集中砲火を
受けて副将が負傷しているなど戦力は長く戦うに耐えなかった。
八雲紫隊の攻撃で半壊。霧雨隊によって完全に壊滅した。
直後に太田資正隊も明智光秀隊の猛攻の前に壊滅。
この時点で戦場に残る武田軍は信玄弓隊と破城槌隊のみとなった。



この戦いの影響


逸話