岡豊同盟
岡豊同盟(おこうどうめい)とは永禄7年5月に締結された、姉小路家と長宗我部家の同盟である。
概要
永禄7年3月15日、姉小路・三好間の同盟関係は正式に破棄された。これを受けて、
雑賀城の戦いにおける三好の敗残兵が筒井城付近を通行していた際、
武田信虎が手勢を率いてこれを掃討している。つい先日までの盟友に対するこの豹変には、抗議や意趣返しがあっても不思議ではなかったが、三好からはこの件で何一つ反応らしきものは生じなかった。これは、既に両者の関係は冷え切っており、敗残兵とはいえ敵軍が領国を侵していれば排除するのは当然という認識であったからだ、という説が有力である。室町幕府ひいては足利家による権力を否定する方針を固めた姉小路家と、堺公方を擁しつつ室町公方との距離感を測ってきた三好家との間に妥協点は存在せず、両者の関係が破綻するのは当然であった。
新たな盟友を求めた姉小路家は長宗我部家へ盛んに使者を送って交渉を繰返し、同年5月25日、
長続連による交渉の末、両者の間で起請文が交わされ、同盟が締結される。姉小路家は
滝川雄利を人質として土佐に送った上、技術交流はもちろん技術支援にも積極的であり、一方の長宗我部家もその滅亡までこの同盟を違えることがなかった。
同盟成立の経緯
【武田信虎による三好の残党駆逐】
破約したとはいえ、当時の情報伝達速度では、大名級はともかく、庶民の間では同盟が継続しているのかいないのか、知らない者が多かった。そのため、三好の敗残兵は落ち武者狩りを受けることなく、時に民家に宿を借りながら大和の山中を移動していた。
これを聞いた信虎は即座に掃討を指示、手勢を率いて三好勢の居場所へ向かい、休息している集落へ夜襲同然の攻撃をかけ、三好の敗残兵を追い散らしたという。信虎は、「夜襲の成功は敵を油断させた村人の功績である」と褒美を与えて引き揚げた。褒美をもらったとはいえ集落を荒らしたのは主に信虎勢であり、敵と知らずに善意で泊めているつもりの村人も多かったことから、当初からこの掃討には非難が多かった。しかし
「武田様は、わしらが敵を匿った罪を問われぬように、あえて乱暴なふりをして禍根を断ってくだされたのじゃ」
と感謝する者もいた。
以後、三好と姉小路は和泉や瀬戸内をめぐって争うが、大和は姉小路の版図にありつづけたことから、三好の敗残兵を助けたという事実があり、内通の嫌疑がかけられれば集落は周囲から迫害され、さりとて親三好派が助けてくれる位置でもなく、危機に陥ったことは疑いない。
信虎がそこまで集落の将来を案じたかは不明だが、乱世では即断即決が熟慮に勝ることが多いと知る練達者らしい行動といえる。
【両家を取り巻く状況】
周知のように姉小路家はこの後倒幕に動くが、山城を支配下に入れ、畿内平定に動くとすれば、東の武田・上杉・北条、西の毛利・本願寺・三好らとの敵対が決定的となることは明らかであった。この時期の姉小路家は、これら全てを排除するにはまだ力不足であった。倒幕を成就すれば、直接領土を接する勢力とは、たとえ同盟したとしても関係を維持することは困難であり、隣接勢力ははじめから候補に入っていなかったようである。
当時、姉小路家の技術官僚は主力である鉄砲兵装や、騎馬隊対策の技術研究に忙殺されていた。育ちつつあった民政に長けた官僚集団も膨張する領内の掌握と領民の慰撫に追いまくられており、技術官僚の手伝いをする余裕は無かった。姉小路は徒歩兵装が貧弱であり、この点を補強できる技術力を持った諸侯との盟約を求めていた。長宗我部家は、一領具足という簡素ながら機能的な装備の歩兵集団を主力としており、格好の相手であった。次点は龍造寺あたりであっただろうが、こちらは畿内から距離がありすぎるため、技術交流するにも、後の包囲網勢力を背後から脅かすにも不便であった。
一方、長宗我部家は四国の覇権をめぐり三好・毛利と争っていたため、それらの後方を扼してくれる姉小路家との利害は一致しているかに見えるが、三好はともかく、毛利と姉小路は領土が離れており、将来、毛利と敵対する尼子が姉小路との戦いで弱体化し、姉小路が毛利と長期間開戦しないようなことがあれば、逆に状況が悪化する危険もあった。長宗我部としては、姉小路との盟約か、毛利・三好のどちらか(恐らくは戦った期間の短い毛利であろう)と休戦し、他方を攻撃するか、どちらが有利かという選択肢があった。となれば必然、毛利派と姉小路派の家中対立があったはずである。
【交渉開始と人質要求】
長宗我部当主の国親は、忍従の末に再興を果たした苦労人だけあって慎重で、この盟約の締結を3度にわたって見送っている。交渉は全て姉小路側から打診しており、一度目の交渉では、国親は何と姉小路家嫡子の頼綱を人質に要求したとされている。大身である姉小路が小身の長宗我部に盟を持ちかけているにもかかわらず過大な要求を受け、使者であった越中衆筆頭・
小島職鎮は唖然としたものの、国親の態度は横柄でも軽薄でもなかったと伝わる。
国親がもうけた簡素な酒宴でもてなされ、帰途についた職鎮からは、良頼に「脈あり」との報告がなされた。要するに国親は「家中をまとめるのに時間がかかるから、また後日に参られよ」ということを伝えたかったのであるが、それを口にしてしまえば家中の反姉小路派との関係が完全に決裂してしまう上、実は二つ返事で受諾するつもりだったという話が流布すれば、周囲からも明らかに従属同盟と見なされることになる。そこで、跡取りを人質に要求するという大きな態度を見せることで、土佐の諸豪族に「長宗我部は上方から(既に本拠は観音寺に移っていたこと、公家衆との関係が深いこと、三木から姉小路に改姓したことから、西日本の諸勢力からは姉小路家は飛騨の豪族というよりは畿内の勢力とみられていた)の要求には屈しない」という姿勢を示すことができ、使者の職鎮も、あまりに無茶な要求を受けたからには、任務失敗の言い訳が十分に立つのである。
良頼は失敗を謝す職鎮を許し、土佐の情勢を細かく報告して今後の糧とするように命じた。
【
紅美鈴の指名と融和期間】
二度目、三度目の交渉では不思議なことがあった。国親は頼綱を人質に要求した件を取り下げ、代わりに紅美鈴を要求したのである。美鈴は朝倉から姉小路に仕え直すも、まださほどの勇名を馳せてはおらず、当然ながら土佐での知名度も低かった。頼綱を要求した時に較べて、態度の軟化を見せようとしたとしても、この指名は奇妙である。これには
・長宗我部は元の姓は秦と称し、始皇帝の末裔を自称したこともあり、大陸との縁があったことから、大陸風の名前を持つ紅美鈴を選ぼうとした、という説。
・家中をまとめる時間を稼ぐための、冗談であったという説。
・親睦を深めるための親善大使的な存在として、女性である美鈴を本気で受け入れ、利用するつもりがあったという説
などがある。
前田玄以は唐突な指名に驚いたが、異能の者を含む女性を人質にという要求は容れるべからず、という外交方針が姉小路良頼から内々に示されていたこともあり、国親に再考を要請した。美鈴は姉小路に仕えて日が浅く、また武家の慣習に従わせにくい異能の者であることから人質には向かない、と説いたが、国親は聞き入れず、美鈴にこだわったという。
この指名には長宗我部家中、というより土佐の諸豪族の間で反響が大きく、「紅美鈴とはいったい何者だ」と調べる動きが広まったとされる。そんな中、
博麗霊夢が土佐を訪れ、交渉にあたった。細部の折衝は霊夢の従者と長宗我部家中の者に任せ、霊夢と国親の交渉はもっぱら人質の人選が話題であったという。
霊夢は人選を変えさせるため、美鈴の性格や能力が人質に向かないと説得し―そのせいで美鈴への悪口が話題の中心となってしまったようであるが―彼女の知る逸話を披露した。時に霊夢自身の武勇譚があり、時に愉快な漫談を交えての物語を国親は絶賛し、数日の交渉期間で、同席者がどんどん増えていったという。当時、国親の三男親泰を養子に迎えていた香宗我部親秀は、親泰の代理として同席しようと廊下を歩いていた。すると使用人が立ち聞きしようとしていたのを発見したので制止したところ、その使用人は、てっきり交渉は既に終わり、宴席になったとばかり思っていたと言ったという話が、親秀の甥である中山田泰吉の日記によって残っている。盟約が成立しなかったのが不思議なほど笑い声の絶えない席でありながら、その実、人質の人選については何一つ歩み寄りがみられないという奇妙な一幕であった。
このやり取りが岡豊城から漏れ―国親らが故意に流布させたことも大いに考えられるが―美鈴は武功にこそ恵まれていないものの、事実として相当な女傑であり、陰湿なところの無い人物であったから、土佐の男たちには良い印象を与え、姉小路との盟約の話題に対する感情も、警戒心が和らぎ好意的な方向に向かったという。
これが国親や元親ら長宗我部一党の策であったとすれば、長宗我部は中央に対するかなりの情報網を持っていたことになる。三好の間者を買収するなりしていたのかも知れないが、憶測の域を出ない。両家の勢力比から言って、半ば従属同盟的な関係となるのは明らかであったから、小勢力である長宗我部には食い物にされるのではないかという恐怖がつきまとう。前田玄以は後日、「長宗我部家とすれば、こういった時は普通、盟約にまつわる細かな利害に過敏になるものであるが、争点を人質という点に固着させることで、その他の実務的な折衝を円滑に進めることができた。国親公と元親殿を中心とした長宗我部家中の対応は用意周到をきわめ、まことに優れていた」と評し、外交僧として参考にするところ大であった、としている。
しかしそれにしても、異能の者には陽気な気質の者が多く、土佐人の気質に合う女性も少なからずいたはずであるが、なぜ国親が美鈴に白羽の矢を立てたのかという点は不明である。せめて征夷大将軍
足利義輝との一騎打ちで名を上げた後であったならば、まだわかるのであるが・・・。ある論評では国親あるいは元親の兄弟たちの性癖を挙げているが、邪推に近く、根拠のある史料は見当たらない。
【合意への根回しと神仏の加護】
この盟約は四度にわたる交渉を経て締結されたが、かなり早い時期から、両家は盟約を締結するという路線では一致していたという解釈がある。宗教的な観察を加えれば、二度目の使者の前田玄以は僧侶、三度目の使者の博麗霊夢は巫女である。神仏の後ろ盾があると粗略にはされにくく、敵対していても危害は加えられにくい(当時の人々は、多かれ少なかれ祟りを恐れたため、異宗派であっても単身・丸腰の僧侶や神職に刃を向けることは稀であった)。この間の両家は交渉の進行そのものよりも、両家の友好を深め、盟約成立後も土佐の諸豪族が長宗我部から離反することなく、逆に味方する者が増えるような根回しを優先していたらしい節がある。であれば、使者の人選は姉小路家だけの判断ではなく両家の合意の上であったとも考えられる。敵であり瀬戸内の制海権を持つ三好をはさんでいるにもかかわらず、使者を容易に行き来させていることから、この間の外交活動に土佐水軍衆の協力があったことが示唆される。最終的な人質が元僧侶の滝川雄利となったことからも、神仏の権威をも借りつつ人心を和らげていく意図があったのであろう。
同盟の影響
倒幕と、その後は周囲の諸侯を併呑していく意志を固めた姉小路家にとっては、この盟約に不利益な点は無かったが、長宗我部にとっては強力な後ろ盾を得る代わりに、反姉小路勢力との妥協点が無くなり劣勢となった場合でも講和の余地が消える賭けであった。
こういった利害の点でやや不均衡があったため、双方が利を取れるように様々な工夫がなされている。姉小路としても長宗我部が強力な足軽兵団や水軍衆を維持し続けることが技術面から言っても有利であったから、大身側ながらも人質を出して土佐の国人達に対等同盟であると印象付けたり、技術支援を積極的に行うなどした。長宗我部は四国方面の戦いを続ける一方、姉小路は武田・上杉・北条の畿内侵入を防ぎつつ、山陰の諸侯を降して毛利との接敵を目指した。
この同盟の結果、山名、尼子といった西国の中堅大名は後の姉小路包囲網に参加するほか無くなったが、過去の経緯から毛利による支援は全く期待できず、互いを支えあうものの、姉小路に飲み込まれていくことになる。
その後の経緯
長宗我部は毛利・三好の攻勢をその後5年間にわたって支え、最後の一城まで戦い続けた。謀略の天才である
毛利元就からさまざまな破約の誘惑を受けても断り、姉小路との信義を貫いた長宗我部一党の実直さは諸国に知れわたった。
一方、姉小路としてはどこかの段階で讃岐方面の三好軍を叩き、長宗我部を救援し、その恩義とそれまでの友誼をもって、土佐衆を一領具足もろとも自軍に取り込む計画があったらしい。そうなれば、越前衆や近江衆と同様の家臣団としての知遇を受けたと思われる。この同盟直前の雑賀城の戦いなどにおける三好衆の無様な戦いぶりを見て、讃岐進出は十分可能であると姉小路陣営は考えていたようである。
しかし、明智筒の技術奪取、鉄甲船の発明などにより、三好家の讃岐―淡路戦線は思いのほか強固となっていた。讃岐が堅守されてしまうと、水軍を持たない姉小路は土佐を直接救援することはできず、土佐水軍の規模では、数名の使者ならばまだしも、姉小路の援軍を乗せて淡路・塩飽水軍衆を突破して土佐・阿波に送り届けることは不可能であって、唯一の盟邦の滅亡を防ぐことができなかった。
これは姉小路にとって痛恨事であり、本州における領土をことごとく喪失した毛利が得た最大の戦果であった。滅亡の報に接し、西国方面から東海道攻略に移っていた頼綱はしばし絶句した後、長宗我部一党の安否を気遣うなどしたが、詳細は長宗我部氏滅亡の項に譲る。
最終更新:2012年03月28日 21:29