「……にが」
一口目の率直な感想をこぼしたゼシカを見て、ククールが微かに笑う。
「これは普通のビールよりキツいからな。ゆっくり飲むといいぜ」
「それにしても、修道院でビールを作っていたなんて知らなかったわ」
「宣伝してるわけじゃないし、今までここにも修道院にも長居はしなかったしな」
特に誰かさんは長居をしたくなかったようだし?と付け加えながら、ククールは意地悪く笑う。
「もぉ!それはククールも同じでしょ?」
「オレは修道院はともかく、ここならいくらでも居られるぜ?」
そう言うククールの表情からは、ベルガラックで見られた蔭はすっかり態を潜めていた。
「修道院で作られてるのはビールだけじゃないんですよ」
そう言いながらマスターは一皿を二人の前に置いた。
「これも修道院から仕入れてるものでしてね。チーズとバター。バターの方は店でレーズンバターにしてるんだけど」
「あー、頼もうと思ってたら先越されちまった」
悔しがるククールに、したり顔のマスターは続けた。
「これは私から奢り。こんなご時世だから、ククールぼっちゃんが素敵なお嬢さんを連れて久々に来てくれたのが嬉しくてね」
マスターの言葉を聞いたゼシカは頬を染め、再びぼっちゃんと呼ばれてしまったククールは思わずむせ返る。
「だ……だいじょぶ?」
「ぼっちゃんは勘弁って、さっき言っただろ……」
息も絶え絶えにマスターに抗議をするククールは、気の毒というよりはどこか滑稽に映る。
そんなククールの様子を見て、ゼシカは遠慮なしに笑う。
「あら、私だってリーザス村やポルトリンクではお嬢様って呼ばれるわ。兄さんだってずっとサーベルトぼっちゃんって呼ばれてたし。そういう場所があるって、いいことだと思うけどな」
「お嬢さんの言う通りだと思うよ。あとは私の口癖だね。今更、ククールさん、とは呼び辛いし」
「分かったよ……。ゼシカにもマスターにも叶わねぇな」
そう言うククールの表情は、苦笑しながらもどことなく心地よさの漂う風情だった。
「そんなことより、な?チーズとレーズンバター」
ククールはどうにも話題を逸らしたいようで、出された皿をつい、とゼシカの方に移動させる。
少し酔いが回ったのか、ゼシカはチーズを口にしながら唐突にクスクスと笑い始めた。
「美味いと笑うのかよ?ゼシカは」
「ううん、そうじゃないけど。あ、マスターご馳走さま。美味しいです」
「どういたしまして。ごゆっくりどうぞ」
笑顔で応じたマスターは、軽く会釈をすると他の客の注文をこなすために二人の前から離れていった。
「チーズを見ると、どうしてもトーポを思い出しちゃって」
「なるほど、そういうことか。ひとかけら持って帰ってやってみるか」
「それ、いいわね。でも食べたら何か吐くかしら?」
何気ないククールの言葉に、ゼシカは楽しげに同意をする。
「マイエラのチーズだからなぁ。……ダジャレを吐いたりしそうだよな」
「やだっ!ほんとにそんな気がしてきたわ」
意図的に真顔になったククールの言葉は、再びゼシカを笑いの渦に巻き込んだ。
二人は杯を重ね、それぞれ程良い心地に酔っていた。
チーズとレーズンバターに代わって、二人の前には皮のまま丸ごとオーブンで焼かれたイモが出されていた。
ゼシカはパリパリになったイモの皮を器用にナイフとフォークを使って剥がし、小さなココット皿に入れられたバターを一口サイズに切り分けたイモの上に乗せる。
「はい、できたわよ」
「サンキュ」
ゼシカが皿をククールの側に置き直すと、ククールは待ってましたとばかりにイモを手元の皿に取り分ける。
ベルガラックでは少ししか食べることがなかったククールは、どうやら今頃になって食欲が出てきたらしい。
ゼシカもその皿からひとかけらのイモを取り分け、口に運ぶ。
「レーズンバターも美味しかったけど、普通のバターも美味しいわね」
「当然だろ?」
そう言いながらにやりと笑うククールは得意げだ。
なんだかんだで自分の出身地のことを褒められるのは、悪い気はしないらしい。
「このバターもチーズもビールも、たまらなく好きなんだよな」
「うん、分かるわ。だってこんなに美味しいんだもの」
ぽつりとこぼされたククールの言葉に、ゼシカはニコニコしながら素直に頷く。
「もちろん美味いってのもあるけどな。同じ理由で酒場も好きなんだ」
「酒場って、ここだけじゃなくて?」
「そ。マスターも、そこで働く女の子も、全部ひっくるめてな」
そこで働く女の子、という言葉が少々引っかかったが、ククールの口調からは真面目な雰囲気が漂っていたので、ゼシカはそのまま話を聞くことにした。
「酒場ってところはさ。貧乏人でも金持ちでも、同じ金を払えば同じ分だけ満たされることができる場所だと思ってる。だからオレは、そこで働く人たちが好きなんだ」
滔々と語るククールを見て、ゼシカは目から鱗が落ちる思いがした。
今まで、ククールは単に酔っぱらいながら女の子と戯れているだけだと思っていたからだ。
過去に何度となくククールがこぼしていた、教会は金持ちしか救わないという批判と、修道院時代に自らに課せられたという、金持ちから寄付金を集めて廻る日々の話。
生きるために取らざるを得なかった自らの行動に疑問を抱きながら、ククールが自身の安息を求め行き着いた場所が、教会とは対極にある酒場だったのだろう。
「バターもチーズも、それと同じなの?」
「ああ、大雑把なイメージはな。そのまま食べても料理やお菓子に使っても、誰が食べても美味いだろ?」
「うん、そうね」
「美味いものを食べると、大人も子供も、誰でも幸せな気分になれるからな」
「あ!!そうよね。それってステキなことね……」
ゼシカはククールをまじまじと見つめながら思う。
この派手で気障な外見からは想像もつかないが、ククールには聖職者たりうる素質が十二分にあったのだと。
そしてその思想と解釈は、世にいる数多の聖職者の中で誰よりも純粋で、それでいて柔軟で、きっとどんな人の心をも満たすことができるのだろう、と。
もっとも、当のククール自身はそれに気付いていないような気もしたのだが。
「ん?オレの顔に何か付いてるか?」
視線に気付いたククールがゼシカに問う。
「別に何も?しいて言えば、口許にビールの泡がほんのちょっとかな」
微笑みながらそう言うゼシカの心もまた、気付かぬうちに満たされているのだった。
「……正直、院長が替わってからは、この味も変わっちまったんじゃないかって心配してたんだが。変わってなくて安心したぜ」
何杯目かのグラスを空にしたククールは、ふぅ、と息をつきながら呟く。
「この味が変わったら、うちの店は多分商売あがったりになっちゃうわよ」
カウンター奥の厨房から二人の前に小瓶を持ったバニーが現れ、ククールの言葉に相槌を打つ。
「はい、お待たせしました、ゼシカさん」
「ありがとう」
ゼシカは礼を言うと、小瓶を預けたときに相談していたらしい対価をバニーに渡し、嬉しそうに小瓶を受け取った。
「これで明日の朝は美味しいお茶が飲めるわ」
そう言いながらゼシカは席を立った。
ククールの気持ちもある程度は和らいだであろうし、明日決戦になるかは分からなかったが、それに臨む態勢は整えておかなければならないからだ。
見るとククールは若干名残惜しそうにしていたが、やがてマスターに勘定を頼むとゼシカに続いて席を立つ。
「また来てね、ゼシカさん、ククール」
「ああ。終末半額フェアーが終わったらな」
「うふふ、終わるといいんだけどね」
二人にかかるその言葉の重さを知る由もないバニーは、いつものように妖艶に微笑んだ。
酒場を後にした二人を、火照った身体にちょうど心地のよい夜風が包む。
「涼しくて気持ちいいわね」
ゼシカは一足先に階段を下りると、そう言って伸びをした。
「ね、ククール、少し……」
散歩してから帰ろうか、と、振り向きながら言おうとしたゼシカの言葉は、思わぬククールの行動に遮られてしまった。
ククールが片腕をゼシカの肩に回し、反対側の肩に顎を乗せる状態でその身体を預けてきたのだ。
ちょうどゼシカがククールに肩を貸しているような体勢になってしまっている。
「なっ……ちょ、ちょっとククール!どうしたのよ?」
振り向くことの叶わなかったゼシカは、その視線だけをククールの方に向けた。
顔をそちらに向けることも出来ただろうが、ゼシカにはどうしてもそれが出来なかったのだ。
「もしかして、酔っ払いすぎちゃった……とか?」
今しがた夜風で冷まされたはずの身体が酔い以外の何かで再び火照るのを感じながら、ゼシカは辛うじて言葉を絞り出した。
「ああ……恥ずかしながらな。座ってる時はさほどでもなかったんだが」
ククールはそう言うと顔をゼシカとは反対側に向けてから大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
その動作の一部始終を背中で感じることは、ゼシカには刺激が強すぎた。
このような状態になった酔っ払いを介抱した経験がないことも相俟って、ゼシカはどうすれば良いか分からないままにククールの様子を観察する。
やがてククールはゆっくりと顔をゼシカの側に向けると、空いた側の手で前方を指差しながらこう言った。
「今はルーラできそうもねぇや。わりぃけど、宿屋で少し休ませてくれないか?」
ククールに他意は無かった。
以前に酔った状態でルーラを唱えて失敗したことを思い出し、万が一にもゼシカに怪我をさせるわけにはいかない、と、強烈な睡魔に襲われる中でただそれだけを考えての提案だったのだ。
しかし、そんなことを耳元で吐息混じりに言われたゼシカはたまったものではない。
一瞬にして頭の中が真っ白になってしまった。
宿屋で休む、ということは、つまりいわゆる……。
ククールに寄り掛かられ固まったままの姿勢でゼシカは頭の中の真っ白な霧を必死に振り払い、もの凄い勢いであれこれと考えを巡らせる。
酔った勢いで云々……という定番の話は耳にしたことがある。
もしやククールのこの行動は、自分を誘うための手の込んだ演技ではなかろうか?
しかし純粋に辛そうにも見受けられるので、この懸念は取り越し苦労かもしれない。
ここまで酔った姿は見たことがないし、大体ククールはいつも何かにつけては口説き文句を口走るので、たとえしらふだったとしてもその正否を見極めること自体が難しい。
今の状態でベッドに放り込めばそのまま寝てしまうかもしれない。
しかし仮に寝たとしても、回復までに一体どのくらいの時間がかかるのかが全く判らない。
起こすタイミングなど皆目見当もつかないし、起きるまで待っていて朝になってしまうのもよろしくない。
それでは自分も休めないし、何より他の仲間たちに朝帰りと思われてしまうことが問題だ。
はっきり言ってそれは嫌すぎる。
「なぁゼシカ、宿屋に……」
固まったままのゼシカの耳元で再度ククールが囁いたのと時を同じくして。
(「メラはだめだよ。ラリホーあたりにしといて」)
というエイトの言葉がゼシカの脳裏をよぎり、次の瞬間ゼシカはククールの言葉をかき消すようにラリホーを唱えてしまっていた。
本来味方には効かないとされる呪文だったが、ククールが酔っているせいか、あるいはゼシカの精神力の賜物か、あっさりとククールはその術中に陥った。
(ごめん、ククール。今は……今はやっぱりこうするのが一番いいと思ったの……)
心の中でククールに詫び、その吐息が寝息に変わったことが耳で認められたことでゼシカの緊張もようやく解け、ククールの方を見ることができた。
初めて至近で目の当たりにするククールの安らかな寝顔はまるで天使のようで、起きている時とのあまりのギャップに思わず笑いがこぼれてしまう。
(それなりに楽しんで貰えたようだし、まぁ、これで一応は作戦成功……よね)
ゼシカは暫しの間ククールの寝顔を堪能すると、その胸中に安堵と微かな名残惜しさを覚えつつ、腰のポーチからキメラの翼を取り出して満天の星空の中に投じた。
~ 終 ~
最終更新:2008年10月23日 04:55