ククールが宿の一階に降りてくると、エイトとヤンガスが受付前に設けられたソファに腰掛けてまったりしていた。
「…やぁ、ククール」
エイトが、気の抜けた笑みで手を挙げる。彼らも疲労に満ちた顔をしている。ククールは苦笑した。
「…おう」
「ゼシカ、落ち着いた?」
「なんとかな」
「それはよかった」
ソファに深々と座り込んで、ふぅ、と息をつく。ククールもその横に座った。
「……ったく、俺の寿命50年分は返せってんだ」
ヤンガスが不機嫌に呟き、エイトも同調してうんうんと頷く。しかし本当に疲れているのだろう、
それ以上ククールを責める声は聞こえてこなかった。それよりも、安堵のほうが勝っているようだ。
ククールも重ねて謝ることしかできなかった。そして彼らの想いが、やっぱりくすぐったかった。
ククールが彼らの前に姿を現した時、大騒ぎのあとひとしきり小突かれ、殴られ、罵倒されて、
それでもあのトロデやヤンガスやエイトが目に涙を浮かべているのを見て、ククールは
謝罪と感謝と、ことの経緯を伝えようとした。
しかしすぐに「そんなことはどうでもいい」と耳を疑うようなことを言われ、
そして「すぐゼシカのところに行け」と強引に促されたのだった。
今、ククールは改めて奈落に落ちてからの数日間のことを説明し、本当に死にかけたと笑った。
「笑いごとじゃないよほんと…。体は?大丈夫?」
「あぁ、助けられてからどっかの神父が回復してくれたみてぇでさ。全快じゃないけどケガもねぇよ」
「ちゃんと休んでないんだろ?」
「いや、しばらくあっちで休ませてもらったから。自分にホイミできるくらいには休んだ」
「腹はへってねぇんでげすかい」
「断食状態だったからいきなり食べると良くないってんで、軽いもんだけ食わせてくれたから
今は減ってねぇな。多分明日には食欲も元に戻るんだろうぜ」
あっけらかんと話すククールに(それはわざとなのかもしれなかったが)、仲間たちは心底脱力し、笑った。
「…まったく…。その調子だと、ゼシカに殴られたんじゃないの?」
「――え、いや。…………アイツ泣きっぱなしで、それどころじゃ」
照れ隠しなのかあさっての方向を向きながらボソボソ呟くククールに、エイトとヤンガスが顔を見合わせる。
「…泣いてた?ククールがいなかった間、ぼくたちゼシカが泣いてるの見たことなかったよ」
「……え?だって、あんなボロボロ…」
その時、階段を転げ落ちるように降りてくる騒がしい足音が響いて、3人はビクリとそちらを振り返った。
階段の手すりにすがるようにして、今にも倒れそうな足どりで、ゼシカがそこにいた。
最後の段差を降りたところでドサリと床に座り込むのを、ククールが驚いて駆け寄る。
すぐにゼシカの指がククールの腕を強く掴んだ。
「――よかっ、た…っ、ククール…ッ」
ゼシカは精いっぱいの笑顔でククールを見上げながらしがみついた。
「…ッや、やっぱり、ゆめだったって、…おも…」
悲壮な笑顔はたちまち歪み、あっというまに両の目から大粒の涙を流し始める。
ククールはようやくしまった、と軽率だった自分に舌打ちした。反省するが、遅い。
「わ、悪かったゼシカ。ごめんな、置いてって悪かった」
「…っや、だ、もう…っやだぁ…っ」
うわぁぁと泣き声をあげるゼシカと同時に、内心でうわあああと大焦りの悲鳴を上げながら
必死で彼女を抱きしめあやそうとするククールの背中に、
「……まさかククール、黙って置いてきたの…?」
信じられない、と呆れを通り越して軽蔑すら感じさせる冷たい声が突き刺さる。
「ち、ちが…っ、黙ってつーか、寝てたから!」
「…………それ、余計サイテーだよ」
「えええ」
再び仲間たちに追いやられ、ククールはゼシカを抱き上げて追いたてられるように部屋に戻った。
エイトとヤンガスは肺も吐き出さんばかりの巨大なため息をつく。
「……なんであんなに世話かかるの、あの2人」
「げす」
しかし突然に訪れる死の別れに比べればあまりにも平和すぎるくだらない問題に、2人とも諦めたように苦笑した。
*
ゼシカをベッドの上に座らせる頃には、ククールも自分のしでかしたことのマズさに気づいていた。
それは彼女の立場になって鑑みればすぐにわかることだったのに。
「ゼシカ…ごめん」
渡されたタオルで涙を拭きながら、ゼシカはようやくおずおずとククールと目を合わす。
気を抜けばまた泣いてしまいそうなのを堪えながら、真っ赤になってしまった目でククールを見つめる。
ククールは彼女の前に跪いて見上げながら、その視線に答えるように冷たい頬に両手を添えた。
「…オレが悪かった」
「ッ、ち、ちがうの…私、ご、ごめんなさい…今、ほんとに…ダメなの…ごめん…」
「もうどこにも行かないから」
そう告げられた途端、ゼシカはくっ、とのどを詰まらせ、涙を飲みこむ。
「…ごめん、なさい…私…今、変だから…」
「ずっと心配してくれてたんだろ?」
ゼシカは大きな瞳を見開いて、それからゆっくりと頷きながらまぶたを閉じた。
頬に触れているククールの手に涙が伝う。
「…私、自分でもどうしようもないくらい、動揺しちゃって、本当に、もう、ずっと、ずっと…」
ゼシカは消えそうな声で、啼きながら話す。
「…もし、このままククールが帰ってこなかったら、って…もう、会えなかったら、って…
考えて、死にそうになった…こんなのもうイヤだって、ずっと叫んでた…」
ククールは痛々しげに目を細めた。
…そうだ、自分はゼシカのトラウマを抉るような真似をしてしまったんだ…
「こんなに、こんなに、ククールが大切だったなんて、思わなかったの。大切だったけど、
こんなにも苦しいなんて、思わなかったの…」
「…オレもだよ」
「…ククールも…?」
「助け出されるまで、ゼシカのことしか考えてなかった。もしもう会えないなら、なんであの時
こうしておかなかったんだとか、ああ言っておかなかったんだとか、後悔ばっかりで死にそうだった」
「…私もよ」
再びゼシカは涙が抑えられなくなり、肩を震わせながら頬を包む彼の手に自分の手を重ねた。
「…何回も、何回も…、ッ…、ククールが帰ってくる幻ばっかり見えた…
声が聞こえて、慌てて振り向いても、誰も、いないの…ッ…必死で探しても、どこにも…」
「オレは幻じゃない。絶対にもう消えたりしない」
「…ッ、だ、から、さっき、起きたら、ククールがいなくて、私…ッ」
倒れこむように声をあげて泣き出した身体を抱きながら、ククールもそのままベッドに腰掛けた。
―――幻ではなく今度こそ本当に帰ってきたのだと思ったはずの相手が、
目覚めたときそこにいなかったら、どんな気持ちがするだろう?
暗闇で一人目を覚ましたゼシカは、どんな思いでオレの姿を探したんだろう。
ゼシカは、魂のよりどころになるほどに大切だった人を、過去に一度失っている。
その時の喪失感は、彼女の中に思ったよりずっとずっと深く根付いていたんだろう。
そして自分が思っていた以上に、オレは彼女に必要とされていたんだと、思い知った。
自分が彼の人と同じだけ想われているなんて自惚れはしないけれど、それでも、絶対に、
自分は彼女を一人にするべきではなかった。
ずっとずっと、抱きしめていてやるべきだったんだ…
腕の中で震える身体を、ククールはもう手加減などできず強く強く抱きしめる。
この腕は幻想なんかじゃないのだと、彼女にわからせるために。
再びゼシカが泣きやみ、しばらくの間心地よい静寂の中で2人抱き合っていた。
しかしふいに部屋の隅に置いてあったランプの灯が消え、薄暗かった室内は唐突に暗闇になってしまった。
タイミングの悪いことで、などとボヤキながらククールが火を灯すために立ち上がろうとすると、
ゼシカが慌てて彼の腕を掴み、ぐいっと引っ張ったのだ。
「…?どうした?」
「えっ…」
当の本人もびっくりしたように、掴んだばかりの腕を離す。そしてなぜか顔を赤く染めて
俯いてしまった彼女を、ククールは無言でじぃっと観察するように見つめたあと、
少しの罪悪感を覚えながらもこっそり苦笑してしまう。
ほんの数歩だけの距離を、さっさとランプに火をつけて戻ってくる。
再びベッドに座ったと同時に、ゼシカがククールの胸に飛びつき、ポスリと顔をうずめた。
想像以上に直球だったので、ククールは目を丸くする。
「…ゼシカ?」
「……………ごめんね」
それだけをシャツ越しに小さく囁いて、ゼシカは押し黙ってしまった。
その一言で、困惑がありありと伝わる。多分、本人にも今の自分の行動が制御できていないんだろう。
嬉しいのだが、やはりどうにも慣れなくて、こそばゆい。ククールは複雑な表情を浮かべつつ、
(……まいったな)
心の中で照れ隠しに近いため息をついた。自分の行動が制御できそうにないのは、こっちもだ。
そして色々なものをごまかすために、わざとふざけた調子で声を上げる。
「ゼシカ。オレ、そろそろ風呂に入りたいんだけどなぁ」
「え」
「オレが出るまで、一人で待っててくれる?」
意地悪な瞳でのぞきこまれ、ゼシカはククールをちょっぴりにらみ返した。…わかってるくせに、という非難。
「離してくれないと、風呂入れねぇ」
にっこり笑ってそう言われても、ゼシカはその手を頑固に離さない。怒ったように言い返す。
「…イヤよ」
「ふーん、ゼシカちゃん大胆。じゃあ手繋いで一緒に入ろうか」
「んな…っっ!!」
もちろんククールはゼシカをからかい、緊張を和らげるためにそう言ってみたのだが…。
咄嗟に怒って顔をあげたゼシカの顔が、真っ赤になり、怒りから、歯を食いしばり、悔しそうに、
そして泣きそうに変わるのを目の前で見つめながら、ククールは心底焦る羽目になった。
いつもなら間違いなく殴られたり燃やされたりするような発言を、はっきりと否定も拒否もしないまま、
相変わらずククールの胸にしがみついてうつむいてしまったゼシカ…。
このままククールが沈黙を保ち続ければ、そのうち、きっとおそらく多分、かなりの確率でゼシカは
ククールのふざけた申し出を受け入れてしまうような気が、ものすごくした。
その反応は想定外にもほどがある。あのゼシカに“そんな”決意をさせてしまうほど、彼女は怯えているのだ。
ククールは焦りに焦った。そして猛烈に後悔し、すぐさま震える身体をぎゅっと抱きしめた。
「ウソ。ごめん。疲れてるし、もう今日は風呂に入る気なんかねぇよ」
「…っ、べつに、わたしは」
「だから一緒に入るのは、また今度な」
「…ぅ…もう…バカ…」
ゼシカも、彼の言葉が自分を気遣ったものであることに気づいている。
抱きしめるだけじゃなくて、ちゃんと抱きしめられても、それでも不安で胸が震えて。
彼に触れていないと、目の前で幻と消えてしまうのではないかという強迫観念が
自分でも理解できないほど、胸を締め付ける。羞恥心もなげうって彼にしがみついても、
その不安は心のどこかに澱のようにこべりついていて、底が知れない。
―――どうしてこんなにも不安なのか。
「…ごめん、ね…。……バカみたい…ククールは、…ここに、いるのに」
「ああ。…ここにいるよ」
ククールのあたたかい言葉が逆にいたたまれない。ゼシカは情けない自分を恥じ
どうにかしなければと思うのだが、やっぱり掴んだ手を離せない。
これ以上ククールを困らせたくないのに、彼をどうにかして繋ぎとめておかないと
何をしでかすかわからない自分が、怖かった。
…だけどククールの腕は、何もかもをわかってくれているように、優しい。
いつまでも抱き合っていられればいいのだろうけど、そうもいかない。
ククールはこの数日ほとんど寝ていないという彼女の体調が気になった。
「…お前、もう寝ないと。全然寝てないんだろ?」
「……」
「ゼシカ?」
顔をのぞきこむ。
途端にゼシカは顔を赤らめ、彼の腕の中でさらに小さくなり、ボソボソと囁くように言った。
「……一つだけ、お願い…きいて」
この状況での「おねがい」がなんなのかなんて、ククールにわからないはずもない。
「あぁ」
「……ッ、……今日だけ、だから……。…ぃ、一緒に寝て…おねがい」
予想通りの返答にククールは苦笑するしかない。なんて無邪気で、大胆なことだ。
ゼシカは己の不甲斐なさに泣きそうになる。
「私、私、今日はもう、ほんとにダメ…ごめんなさい…ほんとに…ごめんね、バカみたい…」
「いいよ。ただしオレも男だから、何が起こってもいいっていう覚悟はできてるんだよな?」
あえてそんな風に言ってくれる予定調和のセリフにも、いつものように威勢よく返せない。
「……覚悟なんて、ない…。…でも、それでも」
―― 一人で寝るなんて耐えられない。
ククールの胸に顔を押し付け、ゼシカは心の底から呟く。
「おねがい…今夜だけだから。…明日になったら、ちゃんとするから…」
「…ウソだよ。なんにもしない。お前が安心できるなら、明日だってあさってだって一緒に寝るよ」
「…うん…」
夜着にも着替えず靴だけを放り出して、ククールはまずゼシカをベッドに横たえふとんをかけた。
不埒な思考を完全にシャットアウトしてから、自分もその横に寝そべり、ふとんにもぐりこむ。
不安そうに見上げてくるゼシカの前髪を枕にひじをついて弄びつつ、優しく微笑む。
「どこにも行かないから。…おやすみ」
「ククールは…?」
「なんかゼシカの寝顔見てからじゃねぇと、眠れそうにない感じ」
そんな風に苦笑して見せて、彼女がなるべく早く眠るようにと促す。しかしそれは本心だった。
ゼシカは頬を染める。そして躊躇したのち、小さな囁き声で言った。
「…もうひとつだけおねがい、きいてくれる?」
「…いいよ」
「………ホイミ、して」
意外な申し出にククールは目を見開いた。
ゼシカがそっとククールの手を取り自分のあたたかくやわらかい胸に押しつける。
見つめてくる信頼と甘えに満ちた瞳に、思いもかけない言葉が自然とククールの口をついで出た。
「………じゃあ、オレのおねがいも、きいてくれる?」
「え?…うん」
「キスしていい?」
今度はゼシカが目を丸くした。そして一気に全身を赤く染めた。
胸の上で重ねた手の平から伝わる鼓動が、どんどん速くなっていく。
ゼシカは、肯定も否定もできず動揺した。ククールは返事を待たずに、彼女のあごに手をかける。
鼻先を触れ合わせて、少しだけ覚悟する時間を与えてから、ゼシカが何かを言いかけた瞬間に口唇をふさいだ。
上下の口唇を丸ごとふさいで、何度も何度も角度を変えて、優しく噛んで、舌先で舐める…
はじめは戸惑ってククールの身体を押し返していたゼシカの指が、しだいに力を無くしていった。
そして口唇を合わせたまま唱えられた回復呪文が、ゼシカの全身を覚えのある心地よいあたたかさで
包みこむと、まるで彼の口唇から癒しの力が流れ込んできたような錯覚に陥り、ゼシカは恍惚とした。
気づけばなぜか、一筋の涙が頬を伝い落ちていった。
「…ゼシカ?」
「……やっぱり、ククールだ。……本当に、ククールなんだね…」
ゼシカが新たな涙を流しながら艶やかに微笑む。
ようやく実感できた、ククールは帰ってきたんだ、と。
「もう…きっと大丈夫。不安になんかならない。でも、ね、やっぱり今日だけは…」
「…あぁ。このまま手を繋いで一緒に寝て、明日の朝も、繋いだまま一緒に起きような」
ゼシカはいつのまにか握られていた手を握り返して、頷く。
おいで、と広げられた胸の中におずおずと顔をうずめて、ゼシカは安堵の息をつく。
ククールも、ただ優しく交わしただけの口付けですっかり満たされてしまい、
この状況にも関わらず、もはやなんの葛藤も欲望もわいてこなかった。
ゼシカが、ククールがここにいることをやっと信じられたように、ククールも今頃になってようやく、
ゼシカを抱きしめてここに生きていられることを実感し、その事実に心から喜びを感じた。
そばにいられるだけでいいと思っていた自分たちは、それが間違いだったのだと気付いた。
いつ何があったっておかしくない。ましてや自分たちは世界の敵を討ち取ろうとしている。
後悔しないように、いつだって心の内を素直に相手に伝えておかなければいけない。
きっと他の人には簡単なそれが、自分たちには一番難しいんだと、わかってはいるけれど。
明日になったら、伝えよう。素直に。ただ、素直に。
だから、繋いだ手に力を込める。
「―――離すなよ?」
「―――離さないでね?」
2人同時に口にして、驚いて見つめあい、それから小さくクスクスと笑った。
明日になったら、伝えよう。二度と後悔しないように。―――あなたが好きだと。
最終更新:2009年12月03日 02:23