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柴崎友香・喜安浩平・ジャコメッリ - (2013/04/08 (月) 21:47:05) の編集履歴(バックアップ)


柴崎友香・喜安浩平・ジャコメッリ


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柴崎友香の小説「わたしがいなかった街で」は二人の女性が生き辛さを少しずつ克服していく過程が丁寧に描かれていて、それは喜安浩平・作、監修の芝居「少し静かに」で2つのシチュエーションが同時進行しやがてシンクロしていく演出と似ていて、さらにマリオ・ジャコメッリ写真展での大竹昭子さんと鈴木芳雄さんのトークで、刹那的時間の中へ生の躍動感を覚えて写真という行為を続けたジャコメッリの姿とも重なった。

この3つはたまたま同時に読んだり観たり聞いたりして自分のなかで重なっただけで、こういったことは良くあるのだけれど、共通したテーマに「生きづらさ」と「いま生きてることの奇跡」という一見矛盾した二つがあって、前者の中でもがき苦しみながら、それでも世界の美しさ、素晴らしさを感じるチャンスはたくさん転がっている。そんな作品だということ。


ジャコメッリは記憶や時間をそこへとどめていく作風で、ハイコントラストや多重露光によってかなりイメージを操作してもいて、それは物質を精緻に写し取る(ベッヒャーのような)写真家が人間の視覚的認識を超えた世界の圧倒的なディテールによって表現するのとは違い、むしろ指紋ですら許容する「そのとき・そこへ」あったもの事全てを受け止め、人間の記憶は写真を見るたびに再生産と更新を繰り返し同じ印象を抱かせないことを伝えた。

喜安浩平の芝居「少し静かに」は、誰も聴かないことを前提にウェブラジオのDJを続ける映像監督である主人公1と、バンドもバイトも友人も恋愛の出来なさ全てに平坦な日常を生きる主人公2とが、偶然深夜にネットを通じて彼方の存在を意識しやがて自分と同じような生き辛さを共有する存在、その聞こえない声に耳を傾ける行為へもう一度自分を発見していく。

3つが繋がったのは、柴崎友香の小説の終盤で、棚田で農作業している老夫婦が沈む夕日を眺めている、その奇跡的な美しさを高速バスの中から見つけ出した女性の以下の部分で、


これ以上素晴らしいことなど、人生にはないに違いない、と夏は思った。夏の遅い夕方、田んぼの手入れを終えて帰る夫婦が、何十年も連れ添った相手と、こんなにも美しい風景を眺めるこの時間。悠久とか永遠とか、自分はこれまでに感じたことがないが、そこにはきっとそういうものがあるのだと思う。これ以上の幸福なんてなくていいような、なにかが。

現実をそのまま写す機械によって、時間や記憶を保存するというイメージ概念へ昇華させる写真家、遠く離れた存在と自分との間へ普遍的な繋がりを認める瞬間の歓喜を表現した芝居のクライマックス、どれも現代的な困難を受け止めつつ、生きてることの奇跡を発見せずにはいられない人間の性を描いていると思った。2013-04-07/k.m

カテゴリー写真展示小説