personal note内検索 / 「コミュニケーション」で検索した結果

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  • コミュニケーション
    コミュニケーション 新建築の連載対談。大江さんとマイクロソフト社の社長が対談。話題はもちろんコンピューター関係。 マイクロソフト社の社長いわく、コンピューターの急激な普及により、都市や建築の印象が稀薄になってきている。(メールや、テレ会議を頻繁に使用することにより、今どこにいるのかが、あまり意識にあがらないといった感じ。) 一方、大江さんの大学での講義で発見した事に興味を感じた。デジタル時代の中学校を 検討して行く中で、教室を必要としない教科はほとんど考えられるが、休み時間だけは、みな学校に集まりたい、という意見だったそうだ。 確かに、コンピューターの普及に伴い最近よく聞かれる、「わざわざ出向かなくてもよくなる時代」という言葉には疑問を感じていた。 実際設計においても、協力事務所との打ち合わせは以前より減ってきている。初回に顔合わせをして...
  • インフォアーツ論
    ...が、少なくとも理想のコミュニケーション環境を垣間見て、それをさらに持続させたいと願ったことはあると思う。 著作ではそのようなコミュニケーション過程を明確に記述しなおすことで、より広範囲に流通させることを狙っているようだ。教育者の視点でもラディカルさをもって言及している所は興味深い。やはり実践的な領域でイキイキと語れる人の話は面白い。学術的な言葉を使用しつつも、同時代として繋がっていく言葉も使ってくれないと興味をそそられない。 最近CGIを活用した自動でHTMLを生成させるBlog系の個人サイトをよく見かけるようになった。技術的な面からも、サイト運営の実績をある程度もつ方ばかりなのか、コンテンツも充実している。そこから派生したリンクをたどることでネットの現状がレベルの高いところにきていることも実感出来る。RJをはじめとするレビュー系サイトも増えた。多...
  • 1Q84
    ...強烈なトラウマを抱えコミュニケーションの齟齬をきたし生きにくさに繋がっている。思春期を宗教集団の厳しい規律の中で育ち、そこから抜け出し精神の解放を望みながらも、身体に埋め込まれた生き方が消えない青豆。父親の養育に不条理さを覚え、記憶の中だけの倒錯した母親像に救いを求める天吾。カルト教団のリーダーを親に持ち、10歳でそこを抜け出し、彼女の語った不思議な体験記が出版されベストセラーとなる深田絵里子。 連合赤軍以降、タブー視される政治思想の中でかえって先鋭化してく日本的な背景とともに、そもそも思想自体が内面化されやすいコミュニケーションの構造を持っていて、分散型ネットワークとなって1990年代から急速に進化した情報技術革新の手前を描くことは、これらの諸問題が当時から変わらずあって、あたかもアーキテクチャによる環境変化がもたらした訳でないことを言っているようだ。問題は以前からあり、...
  • 潜水服は蝶の夢を見る
    ...の手段のみで言語的なコミュニケーションをはかれるところまで、冒頭から主人公目線によるカメラアングルが続く。 映画は1人称で描けないというか、完全には難しい。きっと閉塞感が強くて耐えられない。主人公の姿をを写したとたんその閉塞感は消える。1人称の外へ、主人公の外へ出られたという開放感。3人称へと転換する場面の差によってのみ得られるカメラアングルからの開放感は、主人公の不自由さをわずかでも共有した気分にさせる。 言語を再度手にした主人公が日常のコミュニケーションだけではなく小説を創作することへエネルギーをそそぎ、言語療法士の導きもそれを期待していたようでもあって、映像は彼の創造世界を表現するかのように軽やかで断片的につながれ、人間は本当に複雑で豊かな生で、その手段として獲得されるパフォーマンスの多様さは、それを支える人たちの中にも多様に表現されている。 原作...
  • ヴァージン・スーサイズ
    コミュニケーションの断絶と監禁された女の子 監督・脚本:ソフィア・コッポラ 製作:フランシス・フォード・コッポラ、ジュリー・コスタンゾ、ダン・ハルステッド、クリス・ハンレイ 出演:キルステン・ダンスト、ハンナ・ハル、チェルシュ・スウェイン、A・J・クック、レスリー・ヘイマン、ジョシュ・ハートネット、ジェームズ・ウッズ、キャサリン・ターナー、ダニー・デビート、スコット・グレン、マイケル・パレ 99年アメリカ作品1時間38分 昨日見た「ロスト・イン・トランスレーション」が気になった。なのでソフィア・コッポラのデビュー作を見ることにした。5人姉妹が皆自殺してしまうという凄まじい話。結構話題になっていたような。「ロスト・・」と同様に女の子が(半ば監禁された)部屋の中から外を眺めているシーンが多い。 ソフィア・コッポラは2作において...
  • 東京湾景
    ...ようです。 ●コミュニケーションにさきだつ一種の過敏さばかりを抱え込んでいるがゆえに、亮介と美緒はすれ違い続ける。 ●話せばなんでも分かり合えるということを前提とする近代的な「友情」なんかよりは、たとえ「すれ違い」ばかりにせよ、その先にあるなにかをこの二人は求めているからだ。 前文が吉田修一の小説でよく出てくる「乾いた部分」で、後文がそれゆえに浮かび上がってくる「情念的な部分」だとすれば、自分が惹かれるのは両者のバランス感覚に対してかもしれない。そして仲俣さんは以下のように恋愛小説を定義している。 ●恋愛とは特殊な形式の友情である、そして、恋愛というプロセスを通ることではじめて一般的な人間関係が形成されるような人間同士の出会いというものがこの世には存在する、恋愛小説とはそうした特殊な友情の成立にいたる経過を描いた小説のことである 確かに上記の定義にした...
  • 階段・・映画的
    ...かけますよね。 必ずコミュニケーションの場として描かれていて、なにか象徴的です。 そんな小さな移動空間というよりは、京都駅のような大階段のほうが映画的空間って感じでしょうか?。 映画的空間なんていうと、どちらが現実 だか分からなくなってしまう状況もあるかもしれません。現実の中に潜むドラマを描くと言うより、ドラマの感じられない現実へもっと楽しく、希望のある方向へ視点を与えるために映画が存在すると言うような。 99.10.06/k.m カテゴリー-映画
  • 暴走するインターネット
    ...、オフラインにおいてコミュニケーションを構築していくことへ難解さを伴う。同時に社会から承認されないオンラインでのコミュニケーションがさんになっていく。著者はこの認識をいずれは変えて行かざるをえないと言っている。つまりオンからオフへと接続される出口を有するようにシステムを設計するというのだ。 どうなのだろう。既に僕らはそれをしつつあるのではないか。オンとオフの社会的認識よりも、有意義なコミュニケーヨンをそこから作り上げている事例の方が先立つ。と、そう思った。どうしても取り上げられるスキャンダルは負の側面を強く取り上げ、たとえ一度の過ちだろうが、不可解な状況は抹消されやすいものだ。「出会い系」の生み出した過ちは、あたかもネットに対する不理解を棚上げにして、それ自体を抹消していこうとする動きにつながってはいないだろうか。そしてそれは、あらゆるワイドショー的感情の系譜をなぞってもいな...
  • カテゴライズ。
    ...ている。分類は一つのコミュニケーションだ。相手への理解を深めるのに助けとなる。けれど人は分類されることを望まない。そこへ限界を突きつけられるからだ。ディスコミュニケーションはささやかな逃げ道となる。資本主義は、それらをも拾い集め商品化していった。もう分類されるものは残されていない。でもそのような分類自体が、薄っぺらな幻想でしかないことも、もはや誰にでも自明なことだった。人々は「やらせ」と薄っぺらな「分類」が繰り返す日常へ、やるせなさを抱きつつも、自らその援護者となっていった。 最近読んだ数冊は、そういった日常感を、対象化させよりいっそう鮮明な形で露呈させてくれた。 そういえばTVを見ていると、こいつはもういいんじゃないか!っていう人いませんか?。そんな思いが今週のTVBros.をみていたらヒットしました。決定 !TV界掃除のし残しワースト20という記事(?)は間違いな...
  • プチ家出
    ...ら、家族の崩壊とか、コミュニケーション不足を訴えてもなにも変わらないでしょ。99.08.05/k.m コメントをぜひ 名前 コメント カテゴリー-社会、東京
  • ウェブ時代をゆく
    ....0時代をとらえて、コミュニケーションのあり方について考察している。という感じでもない。あくまでも「実践的」な書物で、クリエイターへのインタビューのように、勢いのある人からエネルギーをもらう的な印象だ。 ロールモデル思考法というのが、経営コンサルタントらしいなと思った。読んだ本の構成から学び、著作に取り掛かるというスタイルも徹底している。 生き方へ具体的なビジョンを持つことは、強い実行力によって補強されていく。きっとその繰返しが自信となって「見通し」がきくようになるのだろう。振り返ると必然のように筋道は明快なのかも。2008-02-02/k.m
  • われら猫の子
    ...ないとういか、つまりコミュニケーションがちゃんと果たせないのだ。 人に対してもどこか投げやりな態度へ繋がっていき、自暴自棄になっていく気配を感じつつ同じところをグルグル回ってもいる。 こんなときでもなんとか読めてしまう星野智幸の小説へ惹かれる自分には破滅願望があって、前にも後ろにも進めないまま「今」という場所へ宙ぶらりんな状態を甘んじつつ受け入れてしまう弱さに響く風のようにそれは抵抗がない。 破滅願望とはそれを抱き妄想を膨らませていく中で既に果たしていて、必ずしも目に見えて崩壊していく姿に確認できるものではないと、昨日友人と話していて気付かされたような。 だから星野智幸の小説を読む中で果たされているかもしれない破滅願望によって、確実に変化している部分があるんじゃないか。そんな漠然とした不安を抱き、またそこへ溺れている自分を客観的に見ているような気がした...
  • 岡崎京子
    ...「愛の不毛」「ディスコミュニケーション」「80年代」などのテーマをクールかつスタイリッシュに描く。 最近、『文藝別冊・総特集岡崎京子』が発売されるなど、再評価の熱がとみに高まっている。 コメントをぜひ 名前 コメント ...
  • ケンチクスタディー-03
    ...関係のデザイン」にはコミュニケーションの問題がカギをにぎります。どんなにすばらしい提案が出来ても、施主を説得出来なければ実現は不可能です。 施主の承諾を得ても、施工者との関係に失敗すればまた実現しません。 図面はモノをつくるには不十分なので、施工中つねに意志疎通をしていきます。 以上、そうありたいと願う気持ちから出てくる言葉でした。 2000-04-29/k.m
  • ウルトラヴァイオレット
    ...かされる。 コミュニケーションの交わし方に驚きがあったり、愛情の感じ方に未来を見たり、そろそろ上辺の勝負ではないSFが見たいなー。2007-01-03/k.m コメントをぜひ 名前 コメント ...
  • 夕子ちゃんの近道
    ...生活と、様々に交わすコミュニケーションの断片へ。 けれど終盤、このフィクションが与える妙なリアリティーは、むしろ現実の生活こそへ重なるものではないかと思った。社会的な基盤の上に成り立っている思っていた自分の生活も、この小説のように匿名な気楽さと不安を合わせ持っている。 先の見えない不安は一方で気楽さを呼び起こし、不自由だと感じる日常の閉塞感と、どうにでも変えられる選択の可能性とに挟まれる息苦しさとか、様々にシンクロさせる切実な読後感と癒しの「ゆるさ」とが同居する作品。2007-07-14k.m コメントなど 名前 ...
  • ダイアログ・イン・ザ・ダーク
    ...い。 さらにコミュニケーションが救ってくれることの大きさ。見知らぬ方と声を掛け合い、お互いをナビゲーションする。目前の息遣いを感じ、匂いを探る。 今日は有難うございました!。と声を掛け合って終了。2004-08-14/k.m コメントをぜひ りえ こんばんわー。私は今月末に行く予定です。ワクワク。2004-08-19 (木) 20 37 28 k.m あー。是非感想聞かせてくださいね。2004-08-19 (木) 22 46 52 名前 コメント ...
  • 百万円と苦虫女
    ...るのは、主人公の旅がコミュニケーションのあり方をリアルにあぶり出しているからか。ロードムービーは環境の変化を描き、そこへ主人公の成長を被らせる。関わる人たちは環境であって心は風景と同じようにそれらへリアクションを取り続け変化していく。 2009-02-03/k.m カテゴリー-映画
  • 2006・今年のベスト6
    ...題というより、ディスコミュニケーション。 すべての不理解、規制の文脈を塗り替えられ ない窮屈な世界情勢。もう途方に暮れるだけ。 亀は意外と速く泳ぐ ここ数年で飛躍的に売れている上野樹里 もよいが、なにより劇団系の岩松了、ふせえり コンビが素晴らしい。今DVDで見ている時効警察 でも二人のコンビが面白い。 残光 老いても前衛な小説という生き方。 程遠いのだけど、なんだか勇気を 与えてくれました。2006-12-30/k.m コメントをぜひ 名前 コメント ...
  • クライマーズ・ハイ
    ...約束、息子とオヤジのコミュニケーション「下手さ!」。すべて団塊世代がうなるような、オヤジ泣かせエピソードが満載だ。けれど、気づくとぐいぐいと惹きこまれて行くのだった・・。まぁ自分もオヤジなんだけど結局。 2009-01-15/k.m カテゴリー-映画
  • クラッシュ
    ...、 それらのディス・コミュニケーションぶりが生々しく息苦しい。この群像劇によって見えてくるものは、現在という環境に置かれている私たちが、常に近視眼的にしか生きることが出来ず、目先の不安へ脅えながら閉じ込められた迷路の中をだましだまし歩んでいく絶望的な姿ばかりだ。 まさに強い立場から支配的に扱われるように、運命へ翻弄されてしまう姿だと感じるのは、群像劇自体に神の視点めいた構造があるからだろうか。銃社会、多人種社会、劇中のロサンジェルスからは、世界中がそこへ向かってるかのように、様々な不安を徴候させるものばかりだ。それはワイドショー的な視点にも通じる。 一方で、誰もが日常的に怒っている。そんなヒステリー社会はアメリカにこそ顕著なものにも思える。一体なぜこれほどまでにヒステリックなんだろうか。反共ヒステリー。嫌煙ヒステリー。戦争ヒステリー。どうも無意識への抑圧と、それへの定...
  • 僕の小規模な生活
    ...。政治や宗教なんか。コミュニケーションが困難になってきたのはグローバリズムが果たしている反動も大きい。けれどそこを否定するよりも、性や死をタブー視することでやんわりとそのエロスを味わっているようにも思えて、気がつくと人生でお初かもしれない海に浮かぶ初日の出を前に驚愕していた。 2009-01-01/k.m カテゴリー-マンガ
  • ミステリアスセッティング
    ...こそ、疎外感やディスコミュニケーションを緻密に描いていくことでこんなにも面白い小説が出来てしまうのではないか。 もともと阿部の小説には、自意識の過剰さと一方通行の対話が招く様々な困難の交錯を、鮮やかなまでに映像化された描写で脳裏に焼き付けてくる、ある種の爽快感がカタルシスを生むものがあった。 時代の「困難さ」こそが食いつぶすネタだと言わんばかりに、悲壮感を滑稽さへ昇華させてしまう力技があった。僕らはまるで忠犬のように教授され翻弄されることを妄想した。そうして彼の小説に向かい、食いちらかしたい現実を消費した。 しかし今回の小説が新しく切り開いてくれたことは、食いつぶせない現実がまだまだあるという倦怠感すらともなう希望。それは尽くしきれない膨大な何か、あるいは強靭なもの。網の目のようなネットワークの中で弾けるもの。 ニュースが予定調和的なものしか生み出せな...
  • 演劇入門
    ...す。こうした他者とのコミュニケーションについては、あらゆる言及が繰り返されている。特に「ツール化」され、「商品化」され様々に相対化させる材料がそろっている現在の「コミュニケーション」には、それ自体を語る場が極端に増えてきていることも興味深い。「対話」のなさから、「繋がり」への貪欲さまで、現代のマスメディアや言論をにぎわすテーマのほとんどに係わっているのだから。 「演劇」という切り口で上記のテーマに係わる。それがこの著作での試みなのだが、実作を論理的に分解していく過程はとても楽しく、「演劇」自体への興味を増幅させられた。それは日頃感じている「演劇」に対する敷居の高さや、テンションの釣り合わなさといった既成概念が「小屋」へ足を運ばせない大きな原因となっていることを、著者自身が自覚していることに、とても共感出来るからだ。作り手自身がそのような問題意識をもっているというラデ...
  • インタビュー術!
    ...話であるとか。それはコミュニケーションとも言い換えられる。頭の中だけでつくられるモノなどなく、すべて出されたモノとの対話によって生まれていくのだと思う。モノをつくる楽しみとは、そのような対話の楽しみとも言えるのではないか。 「つくる」という言葉自体にはそんなゼロからカタチへの「経過」を見落としてしまいそうな雰囲気がある。そもそも「つくる」という行為の魅力はまさに「つくっている」最中に存在する。出来上がった達成感と引き替えに、最大の楽しみも終了しているのだ。だから実際にはつくることが好きだと言いながら、本当に好きなのは対話の部分に存在しているのだ。 はじめに描き出した時、頭の中ばかりが先行してしまうのは、既に対話への期待が先走っていて、実際の作業というストイックさへのギャップから、身体が戸惑っているのではないか。確かにその状態を「頭でっかち」と言うのも、身体的に的を得て...
  • 決壊
    ...人格は政治化される。コミュニケーションの中で、相手が俺をどう思うか、俺が相手をどう思うか。それは、フェアな合意形成の道筋を辿らないよ。絶対に、ね。(作中引用) 忙しさにかまけてしばらく鞄の中に入れていて、この重さですっかり新しい仕事ケースのポケットが本の形に鋳型されていく姿を哀れに思ってなんとか上巻を読み進めていたら、下巻はあっという間だった。 長編ならではの重厚感ある作品。けれど一方で上のような引用箇所から見えるのは、相手によってキャラクターを使い分ける僕らの日常をとてもナイーブに膨らませた世界観であって、そこへ翻弄される主人公の姿へどこか既視感をいだく分、その重みが差し引かれていくようでもあった。 要するに作者の文体は常に生真面目というか、緻密さを持っていて、不条理に命を奪われた家族の生に対し、残された遺族がその不在感を構築していく(=消え行く記憶の)過...
  • 建築
    ...・ブランリー美術館 コミュニケーション コンペ コールハースは語る ジャン・ヌーベル展 スティーヴン・ホール展 スペイン-ポルトガルを探る場所-書物編 セキュリティ社会 ダニエル・リベスキンド展 テレビ朝日を見学 パレード プロトタイプ ロンドン・パリ旅行記 ロンドン・パリ旅行記/2000年1月29日-ロンドン ヴェルナー・パントン展 偶然性の精神病理 六本木ヒルズ 夜の散歩 嫌オタク流 家族を容れるハコ家族を超えるハコ 広告都市・東京-その誕生と 建築における「日本的なもの」 建築はまちの中に生きる 建築的反省 建築雑誌新刊ダイジェスト 未見坂 東京・ドバイ・ラゴス 業界感覚 模型による住宅のスタディー 片山博文展 玉川高島屋S・C 空中庭園 越後妻有アートトリエンナーレ 大地の芸術祭 過防備都市 金沢21世紀美術館 飽きる力 2003問題 80年代建築/可能性としてのポストモダン...
  • 「伊東豊雄 建築|新しいリアル」展
    ...セスとは社会であり、コミュニケーション能力であり、人間関係である。出来上がるまでに経由していく状況の全てが現場には出てくる。その中で「新しいリアル」ってなんだろう。果たして建築自体にそのような革新性は生み出せるのだろうか。 外に実在するだけでは、リアルだと思わなくて、それを自分の言葉で解釈したり記述したりしようとするのに、それまで使っていたメソッドではそれが十分にできない、そういうときにリアルだと思う。(保坂和志) 最近、建築に対して何か行き詰まりのようなものを感じている。それは建築の問題と言うよりも、自分の状況とモチベーションから出てくるものなんだろうけど。毎月発売される雑誌を見ていても、以前のように興奮を覚えないし、新しい空間に出会ってもそれほど元気が出てこない。 恐らく世界レベル的にも先端を走っている伊東豊雄の新しい建築にですら、余分な感情を入り込...
  • バベル
    ...大で荒涼とした大地。コミュニケーション不全に溺れる夫婦、そして女子高生。 不全と息苦しさはこの後も続き、様々な場面で展開される。そして不法労働者の乳児が子供を連れメキシコとアメリカを横断する中、耐えようもないほどに成長した不快感は、もはや後戻りできない状態を向かえついに破綻した。劇中で誰もが追い詰められた瞬間となって。 このように4つの物語は徐々にシンクロして行くのだけど、その折重なった共時性に見ているこちら側が酔ってしまいそうな地点でもう一度自立的な展開へ戻っていく。その絶妙なタイミングと造り込みが素晴らしい。 聖書におけるバベルの塔の物語とは、世界にさまざまな言語が存在する理由を説明するためのようだけど、その多様性と相互の断絶は人間を混沌へと落とし込むワナのようだ。 経済が急速にグローバリズムへ向かうほどに、世界は益々断絶からくる困難へと落ち込んで...
  • 最近のノート
    ...・ブランリー美術館 コミュニケーション コンペ コールハースは語る ジャン・ヌーベル展 スティーヴン・ホール展 スペイン-ポルトガルを探る場所-書物編 セキュリティ社会 ダニエル・リベスキンド展 テレビ朝日を見学 パレード プロトタイプ ロンドン・パリ旅行記 ロンドン・パリ旅行記/2000年1月29日-ロンドン ヴェルナー・パントン展 偶然性の精神病理 六本木ヒルズ 夜の散歩 嫌オタク流 家族を容れるハコ家族を超えるハコ 広告都市・東京-その誕生と 建築における「日本的なもの」 建築はまちの中に生きる 建築的反省 建築雑誌新刊ダイジェスト 未見坂 東京・ドバイ・ラゴス 業界感覚 模型による住宅のスタディー 片山博文展 玉川高島屋S・C 空中庭園 越後妻有アートトリエンナーレ 大地の芸術祭 過防備都市 金沢21世紀美術館 飽きる力 2003問題 80年代建築/可能性としてのポストモダン...
  • ネオリベラリズムの精神分析
    ...況のことで、他者とのコミュニケーションなどで発生する困難とは、まさに見えなかった「現実」が現前していることになる。幻想と「現実」の差異を見かけ上小さくしてくれていたものが「大文字のA」であって、それのなき現在はひたすら差異の大きさに翻弄され「生きにくさ」として感じられる。 幻想の中で埋もれるように生きている僕らは、自家中毒になりそうな脆弱さで「現実」を恐れ、同時に憧れる。「現実」とは他者性の同義でもあって、憧れつつ怖いのが人との対面ということになる。一方で、優れた芸術には「現実的なもの」があって、鑑賞者の幻想を解体する他者を垣間見せてくれる。 ネットで小さな他者と通じあい、映画や文学の中で他者性に触れ、自己の幻想と「現実」の差異が生む軋轢へ負けないように生きていくのが「私の生きている時代」ということになる。・・って、この本を読みながら自分なりに了解してみるのだった...
  • 虐殺器官
    ...な出来事に翻弄されるコミュニケーションベタな若者像を論うキーワードではないか。 いったい惹かれるSFには夢も希望も救いもないものが多い。バラードにしても伊藤計劃にしてもウエルベックも冷たい語りと終末的な世界ばかりだ。近未来を思考する人間の本能的態度か。けれどそれゆえに心を動かされ、実は救われている。あるいは、志向性がマイノリティーだという幻想に癒されている。それは坂口安吾が言う「文学のふるさと」のようなものか。 ライフグラフという情報をもとにコンピューターが作り出す「伝記」へ惹かれた。ミッシェル・ウエルベック、『ある島の可能性』にも「人生記」という果てしなく興味深い作業が登場する。個人情報はすべて監視・保存され、公開規定に従い本人の死後3年たってアカウント登録時に指定された開示候補者へ送られる。主人公はこの「母」の情報によって決定的なダメージを受ける。それまで思い描い...
  • 第二回Wikiばな
    ...「いかに」ネット上でコミュニケーションを図っていくかを考え、実践することの出来る稀なツールだと思っています。私は個人サイトを始めて5年ほどになりますが、Wikiを使用してからの1年と数ヶ月で色々と興味深い状況を確認できました。 1)コメントについて それまでのコメントが掲示板に書き込まれるだけだったことに対して、すべてのページにコメント欄を設けることが出来るようになった。 コメントが他の自分で書いたものと同様に、編集可能なテキストの一部となった。 これにより、いただいたコメントへ「ふくらませたい」テーマを見出し、新しいページを作成して掘り下げていくことが可能になった。 以上の特徴はマルチスレッドの掲示板に近いですが、「ページをデザイン出来る」という構成上の自由度は、はるかに大きいと思います。 2)ブログとの比較につい...
  • 嫌オタク流
    ...スイッチングしながらコミュニケーションを図るしかない。 そんな時代にモノをつくるとは一体どういうことなのだろう。そういえば、今月の住宅特集では「住まいをめぐる言葉」として特集が組まれている。「創出」よりも「選択」に意味の比重が傾斜している(監修:奥山信一)。2006-06-04/k.m コメントをぜひ 名前 コメント ...
  • アンダー・コンストラクション−アジア美術の新世代
    ...語ではなく写真が築くコミュニケーションの可能性にチャレンジした試みだそう。すごく大きい。タタミぐらいに引き伸ばされた写真。ドキュメンタリー映画の一場面を、さらに昇華させたようなおもむき。不思議な魅力がある。ちょっと注目したい写真家。 2003.02.14 k.m コメントをぜひ michimi 上記のチェン・シャオシン氏の作品ですが、僕もこれに似せたものを作ったことがあります。自室のインテリアではなく、街中で撮った写真をフォトモ風にして作ってみたのですが、引越しの際に破損してしまいました。2003-08-29 (金) 21 15 48 k.m それは見てみたかったですねぇ。色んなところに自分がいる。じゃあないですけど、住まいをこのようにして再現すると意外とショッキングな結果になりそうですよね・・。2003-08-29 (金) 23 1...
  • シンガポールビエンナーレ2011
    ...意味での境界を超えたコミュニケーションや交流から生まれる現代美術と重ね合わせているようだ。2011.04.19k.m カテゴリー-展示
  • リセット・ボタン
    ...ではなく、「匿名でのコミュニケーション」という新たな特権を得たネットユーザー達の直面した「現実感」が、はたしてどのように存在しているのかという所へ、同時代的なリアルを感じられることが面白みの大きい所だろう。 「死ぬ事」へそれ相応の理由を述べられないこと、また他者へ納得のいくような絶望感が、今の日本に存在するのだろうかという気持ち。時代的に大きな困難に行き当たらない世代と、極限まで追いつめられなくとも、簡単に身内が世間から身をまもってくれるシステムが硬直に出来上がっているこの国ならではの「この物語」ではなだろうか。それは「ひきこもり」がその独特な「お国柄」ゆえに大量に生み出されていく社会を十分に表してもいる。 何か不自由な障害や、達成不可能な壁に当たったとき、人はそれなりに充実感を感じる。人生の意味など考えも出来ないくらい忙しい毎日を送っている人ほど、幸せを感じているの...
  • 野口里佳の展示を見て
    ...と思っていたが、今はコミュニケーションを取った先の現実も引き受けるようになったと言う。 色んな現実を受け入れ、かえって身近な日常へ制作意識が向かうのも、当然な成り行きかと思った。けれど森山大道のようにストリートの空気を捉えるようなスナップではなく、畠山直哉や松江泰治のように大型カメラで定着させるモダニズム以後でもない、野口里佳の魅力は両者のどちらにも属さない所にあると思う。実験的な作品も良いけれど、「フジヤマ」のように正確な写像でありながら、どこかノスタルジックに見える引力をさらに追及した作品が見たいと思った。 2009-08-22/k.m カテゴリー-展示、写真
  • あらゆる場所に花束が…
    ...いるだけなのだから。コミュニケーションも自分の思う方向性への確認作業だ。想像のつかない物語など求めてはいない。すべてが予測通りの展開。人生の大半を、決まり切ったルールに乗せることで築かれる安心。凶器のやどる隙間は沢山に存在する。きっかけを待っているそれらを意識することもない。他人への無関心さが鈍感な自分をもつくる。 残忍な衝動が不意に口元からあふれる。他者の声となったそれを耳にして、またしてもスイッチがはいる。 突然目の前で惨劇が繰り広げられる。映像に鍛えられた感覚からは、おおきな動揺すら生じない。蓄積された惨劇はいつしか僕らの原風景となって、懐かしさすら伴う。心の「ふるさと」となったそれら残忍さは、ハードディスクへと可能な限り保存され、引き出されるのを待ち望んでいる。 ストレスはもはやエネルギーでしかない。屈辱も侮蔑もみな保存される。余暇活動にカタルシスを持...
  • トーク・トゥー・ハー
    ... 配給:ギャガ・コミュニケーションズ Gシネマグループ 『オール・アバウト・マイ・マザー』もよかったが、こちらもシブくてクールな作品。 この映画に流れているエッセンスは、どこか仏教的なもののようでもある。それは、固定した実体ではないというあの「空」を思わせる。すべての事物や現象は、ほかの事物や現象が原因となって、そこに何らかの条件が働いた結果として成立しているのであって、決してそのものだけで独立しているのではない。相対的な存在として世界を認識していく方法だ。 それは宗教の世界だけでなく、普通に生活を送っていく上でベースになっているような考えでもある。前半部分ではむしろ不条理な現実として、受け入れることを強いてくる残酷な連鎖だった。 主人公の男性マルコ(誰が主人公かは、いろんな見方があると思う)はTVを見てその女闘牛士リディアを知り、取材を...
  • 瀬戸内国際芸術祭
    ...担う。アートが世代間コミュニケーションを生む。アートがエコ思想を促進させる。アートが土地を愛する気持ちを呼ぶ。 いっぽうで、2)アートは感覚を研ぎ澄ます。アートは世界を認識する態度を刷新させる。アートは日常の歪みを覚醒させる。アートはオルタナティブな可能性について思考を開く。自分にとってアートの魅力は2)だ。 もちろん、2)の中へ、あるいは2)の先に、1)が期待できるという話は理解できる。ただ1)は目的としては弱く、2)はその手段にもならないだろう。 ただし、名所旧跡を訪れるのが旅で、うんど屋を食べ歩くことが四国の旅行だとも思えない。3000人程度の島へ年間40万人訪れる直島。その間へ点在する100人規模の小島へ流れ込む観光客達。この夏、瀬戸内がどんな成功を納めるのかとても興味深い。 日本中で盛り上がる夏フェス、既存の空間や土地へ組み込まれるアートイベ...
  • 見えない家族
    ...ル商品の若者達によるコミュニケーションツール化。 晴れ舞台のためのビデオカメラ→子供のために使うカネにはおしまない。高額なデジタルカメラの普及。撮るという行為だけが重要で、イベントにしか利用しない。 車のなかでの一家団欒→ファミリーイベントの道具。レジャーが家族を確認するセレモニー。車が家族の絆の象徴。 ソニープラザの郊外化→かつての銀座のOLが、新居を構える近郊都市。親のセンスを子供にも。国道16号沿い地域へ進出。 その他様々な分析と共に語られる商品。これらの商品はどれも、現在の社会状況をとてもリアルに写し込んでいる。 商品開発がいかに社会をとらへ、具体化させているか、その力技に改めて驚かされた思いだった。 ただ、こんな社会状況を「嘆かわしく思う」的な言葉をよく耳にするが、僕はあまりその様に思ったことはない。ヨーロッパの個人主義をはき違えた、こんなものは「孤人主義」...
  • イタリア旅行記/2000年12月25日
    ...の思い出になるようなコミュニケーションがとれるのだろうが・・・。1時間ほど走ると乗車券チェックにきた。僕らのチケットをみせると車掌は急に困った顔をした。何か不都合があったのだろうか。 どうやら僕らの乗った列車はヴェネツィア行きではなく、ボローニャ行きのようだ!。二人とも愕然とし、そして不安に駆られた。ボローニャといえばフィレンツェにも遠くない中部地方。もっぱら北部を回る旅行だったので夢にも思っていなかった方向だ。幸い車掌も色々と気を使ってくれ、ボローニャでの乗り継ぎを教えてくれた。すっかり気落ちしたが半分やけくそな気分で、ボローニャ駅で記念撮影。いい勉強だと開き直り気おとりなおす。夕方には何とかヴェネツィアへ到着し、ボローニャでのチケット買い換えも、ほぼ1000円くらいの追加で済むように計らってもらえた。 いろいろあったが「水の都」へたどり着く。鉄道でのアプローチだと...
  • レイアウトの法則-アートとアフォーダンス
    ...あることを認め合えるコミュニケーションができるフレームを作れればと思います。 “知覚者が対象の変化から見ているのは「形(form)」ではなく、対象そのもの、それのリアルな「姿(shape)」である。「姿」は、形からではなく、それ自体は形をもたない「変形」から知覚されるのだ。重要なのは、変化しないことではなく、変化することによって、対象の不変な性質が明らかになることである。知覚にとっては「変化という次元」こそが問題なのだ。「変化」のなかに埋め込まれている「 不変」が知覚されることなのだ。” “アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。アフォーダンスとは良いものであれ、悪いものであれ、環境が動物に与えるために備えているものである。” “アフォーダンスは事物の物理的な性質ではない。それは「動物にとっての環境の性質」である。...
  • 「世間」とは何か
    ...「こじん」を支援するコミュニケーションツールの氾濫によって、世間が元々持っていた排他的な性質が助長し、若者の他を省みない行動に繋がっていくさまと、どこかパラレルではないだろうか。 2001.08.11k.m コメントなど 名前 コメント ...
  • 鬼が来た!
    ...、お互い「命がけ」のコミュニケーションを繰り広げつつ、自己防衛すべく通訳の機転によって、コミカルなやり取りに変換されるシーンが印象深い。香川照之の汗を浮かべ必死に愚劣を装った「新年の挨拶」にもマンガ的な面白さを感じる。そして同時に「背後で拳銃をもって笑っているような」惨劇の前兆をも感じる、冷や汗をかきながら笑う居心地の悪さがある。それは繰り返される海軍の「軍艦マーチ」にもフィードバックされる、パチンコ屋を思わせる「まがい物」的おかしさと、逆らうと殺されるかも知れないという、中国人の微笑む姿に同居する感覚だ。 日本兵・花屋と村人・マーの関係は様々に変わっていく。捕らわれそれでもその尊厳のために「殺せ」と叫ぶ花屋と生かさねば自分の命が無くなると必死なマー。やがて「私」があらわれず2人を殺せと話し合う村人、立場は変わって命乞いする花屋。その後2者が結んだ契約が元で引き起こされる大惨...
  • 倫理21
    ...くたにされた思考が、コミュニケーションを成立させないことを見かける。ある論点を明確に議論するときに、括弧にいれなくてはならない判断をまず明確に選択すること。それをないがしろにした議論は、単なるヤジの飛ばし合いや一方的なぶつかり合いで終わってしまう。この著作で教えられるのは「明確な議論の立脚点」ではないだろうか。 マルクスが「資本論」において行った議論は、道徳的なレベルを括弧に入れることにより導かれた。 資本家自身の善い・悪いといった判断を括弧へ入れることにより、たとえ資本家が道徳的に善くふるまおうと、資本の担い手である限りにおいて彼らが強制されてしまうような関係構造の把握を可能とした。美的判断もまた、関心を括弧にいれることにより成立する。 その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がありません。それに対する通常の諸関心を括弧に入れて...
  • 回路
    ...かも知れない。恋愛・コミュニケーション中毒症。携帯端末などを通してのそれらへ、時代の共同体意識への変化を見ること。様々なツールによって、あたかもお互いを繋ぎ止めているかのような感覚に満たされること。すでにそれらへ、虚構間を感じ始めている時期ではないだろうか。 自分を取り巻く環境や世界が、自らの物語として存在している日常生活。いわば自分を中心に世界は動いている、そんな認識に近い感情を、僕らは持っている。同時にそれらは、自分と「関係なく」世界は存在していけること、自分を取り巻く環境も、自分の身の回りのモノですら、自分と関係なく存在していけることを実は知っているのだけれど、「意識の奥へ隠している」ことをも表している。 そんな意識の奥に隠しているモノが「死」の空間ではないか。それは全く遠くの存在ではなく、この日常と表裏の関係で存在するような認識ではないか。 僕らは意識...
  • :近況-2004-7-2004-12
    ...ようです。 ●コミュニケーションにさきだつ一種の過敏さばかりを抱え込んでいるがゆえに、亮介と美緒はすれ違い続ける。●話せばなんでも分かり合えるということを前提とする近代的な「友情」なんかよりは、たとえ「すれ違い」ばかりにせよ、その先にあるなにかをこの二人は求めているからだ。●前文が吉田修一の小説でよく出てくる「乾いた部分」で、後文がそれゆえに浮かび上がってくる「情念的な部分」だとすれば、自分が惹かれるのは両者のバランス感覚に対してかもしれない。そして仲俣さんは以下のように恋愛小説を定義している。●恋愛とは特殊な形式の友情である、そして、恋愛というプロセスを通ることではじめて一般的な人間関係が形成されるような人間同士の出会いというものがこの世には存在する、恋愛小説とはそうした特殊な友情の成立にいたる経過を描いた小説のことである●確かに上記の定義にしたがえば、『蹴りたい背中』と『東...
  • 華氏911
    華氏911 2004米/ギャガ・コミュニケーションズ=博報堂=ヘラルド 監督・脚本・出演:マイケル・ムーア 製作:キャスリーン・グリン/ジム・ザーネッキ 撮影:マイク・デジャレ 音楽:ジェフ・ギブス 果たしてこれはプロパガンダ映画なのだろうか。そもそも現実を歪ませていない情報など世の中に存在するのだろうか。むしろそれと気づかずに歪んでいる「見え掛かり的現実」のことを情報と呼ぶのではないか。 この映画をみて泣いてしまいそうだった。それは遺族を悲しむ母の鳴き声に感化されたわけでもなく、多くのイラク人達がすさまじい姿で死んでいく映像に対してでもない。もちろんそれらは戦慄を覚えるほどに悲痛なものとして目に映った。 けれどなによりも突き刺さってくるのは、どんなに情報化社会と言われようが、人は「今そこに見えてい...
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