菅笠日記・此わたり天の香具山の北のふもとなり。

此わたり天の香具山の北のふもとなり。此山いとちひさくひくき山なれど、古より名はいみじう高く聞えて、天の下にしらぬものなく、まして古をしのぶともがらは。書見るたびにも、思ひおこせつゝ、年ごろゆかしう思ひわたりし所なりければ、此度はいかでとくのぼりて見んと、心もとなかりつるを、いとうれしくて、
  いつしかと思ひかけしを久かたの天のかぐ山けふぞわけいる
みな人も同じ心にいそぎのぼる。坂路にかゝりて左のかたに、一町ばかりの池あり。いにしへの埴安の池思ひ出らる。されどそのなごりなどいふべき所のさまにはあらず。いとしのたかゝらぬ山は、程もなくのぼりはてゝ。峯にやゝたひらなる所もあるに、此ちかきあたりのものどもとみゆる五六人、芝の上にまとゐして、酒などのみをるは、わざとのぼりて見る人も又有りけり。さては蕨とるとて、里のむすめ、おんななどやうのもの二三人、そのあたりあさりありくも見ゆ。山はすべてわか木のしもとはらにて、年ふりたる木などは、をさをさ見えず。峯はうちはれて、つゆさはる所もなく、いづかたもいづかたもいとよく見わたさるゝ中に、東の方は、畦尾長くつゞきて、木立もしげゝれば、すこしさはりて。異方のやうにはあらず。この峯に、龍王の社とて、小さきほこらのあるまへに、いと大きなる松の木の、かれて朽のこれるが立てる下に、しばしやすみて、かれいひなど食ひつゝ。よもの山々里々をうち見やりたるけしき、いはんかたなくおもしろきに、「のぼりたち国見をすれば国原は」など、聲をかしうて、わかき人々のうち誦したる、さしあたりては、まして古しのばしく、見ぬ世のおもかげさへ立ち添ふこゝちして。
  もゝしきの大宮人の遊びけむかぐ山見ればいにしへおもほゆ
かの酒のみゐたりし里人どもも、こゝに来て、国はいづくにかおはするなど問ひつゝ、此山のふることどもなどかたりいづる。いとゆかしくて、耳どゞめてきけば、大かたこゝによしなき神代のことのみにて、さもと覚ゆるふしもまじらねば、なほざりに聞きすごしぬ。されど見えわたるところどころを、そこかしこと問ひきくには、よき博士なりけり。まづ西のかたにうねび山、物にもつゞかず。一つはなれてちかう見ゆ。こゝより一里ありといへど、さばかりもへだゝらじとぞ思ふ。なほ西には金剛山、いとたかくはるかに見ゆ。その北にならびて、同じほどなる山の、いさゝか低きをなん、葛城山と今はいふなれど、いにしへは、このふたつながら葛城山にて有けんを、金剛山とは寺たててのちにぞつけつらん。すべて山もなにも、後の世にはからめきたる名をのみいひならひて、古のは失せゆきつゝ、人もしらず成りぬるこそくちをしけれ。されど又いにしへの名どもの、寺にしものこれるが多きは、いとよしかし。又その北にやゝへだゝりて、二がみ山、峯ふたつならびて見ゆ。これも今はにじやうがだけと、例の文字のこゑにいひなせるこそにくけれ。





1990年、センター試験出題箇所

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最終更新:2015年06月14日 00:39