第6章 日本国憲法における統治構造の原理

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論   第6章 日本国憲法における統治構造の原理    本文 p.148以下


<目次>

■1.権力分立(権限の分割)


一. 日本国憲法における権力分立の全体像


[98] (1) 日本国憲法における権力分立のタイプ


国家の統治は、複数の国家機関(憲法上の機関)が様々な権限を別々の作用形式のもとで遂行することによって為される。
ある権限が有効に効果を発生させるには、複数機関の作用形式が順序よく組合わさることを要件とする憲法がある。
これが権力分立(権限の分割)である(⇒[52])。

日本国憲法が権力分立構造を採っていることは自明の如くに論じられてきたが、いずれの作用が相互抑制関係に入っているというのか、探すことは容易ではない。
また、一言で、権力分立といっても、それには様々な原型がる(たとえば、合衆国憲法における権力分立構造について、T. ジュファソンは完全分離論に、J. マディソンは相互作用論によった)。
憲法の教科書は、モンテスキュー理論でさえ正確に理解しないままに、権力分立という言葉だけをドグマ化してきた感すらある。

“日本国憲法は、権力分立構造を採用している”という命題は、“日本国憲法は、○○のタイプの権力分立構造を採用している”と言い換えられねばならない。
そうしない限り、権力分立の理論はドグマのまま語り継がれるだろう。
“□□の論点は、権力分立の中核部分を侵害しない限り、国会の権限に属すると解してよい”などとドグマティークに教科書風に解説されても、読者は何の手掛かりすら与えられないのである。

[98続き] (2) 明治憲法との比較


明治憲法は、三権の行使方法を次のように規定した。

 「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(5条)
 「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(55条1項)
 「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」(57条1項)

これは、立憲君主制の明示にとどまり、「権力分立」の採用ではない。
“明治憲法は外見的権力分立を採用した”と称せられることがあるのは、天皇の統一的統治権を不動のものとしながらも、立法、行政、司法の権限行使方法に言及した上記規定に、統治権の区別であるかのような外観が与えられたからである。

これに対して、日本国憲法は次のような関連条文をもっている。

 「国会は、・・・・・・唯一の立法機関である」(41条)
 「行政権は、内閣に属する」(65条)
 「すべて司法権は、最高裁判所・・・・・・に属する」(76条1項)

この条文のスタイルは、国家作用を区別したうえでそれぞれ独立させてその担当機関を国会・内閣・裁判所に分離して、各機関にそれぞれの作用を独占的に帰属させる「完全分離」であるかのようにみえる(完全分離論については、既に [53] でふれた)。
完全分離論は、明治憲法での外見的立憲主義を克服するのに好都合だった。

[99] (3) 権力分立に関する通説的理解


そのため、我が国の学説には、少なくとも教科書レヴェルにおいては、フランスやアメリカのような「完全分離/相互作用」、「形式的捉え方/作用別捉え方」の論争はみられない。
おそらく、完全分離論が暗黙の了解事項となってきたのだろう。

権力分立に関する通説的な理解を紹介してみよう。
ある論者はこう述べた。
“権力分立とは、国家の作用を、その性質に応じて、立法・行政・司法の3つに区別し、それらを独立の権限として別個の機関に配分するとともに、互いに抑制し、均衡を保たせることによって、国家の権力を緩和し、もって権力の濫用を防ぎ、個人の自由を守るのがその狙いである”(頭点は阪本)。
完全分離論が我が国の通説らしいことは、“立法権は実体的にも手続的にも国会が独占する”という「国会中心立法」、「国会単独立法」が自明であるかのように語られてきたことに表れる(これらの原則については、後の [109] でふれる)。
内閣の法案提出、裁判所による文面違憲の判断と抵触してくるが、そこは“それらは立法作用ではない”との説明で切り抜けられている。
説明にあたって“それらは、実質的意味の立法作用ではない”といわれると、人々は実質的に納得した気になってしまうのだ。
ところが、そう説明しても、他の国家機関が立法手続に関与していることに違いはない。
そこに完全分離説の綻びがくっきりと現れているのだ。
通説のもうひとつの綻びは、「独立の権限として別個の機関に配分」された統治構造のなかでは、それぞれの機関が相互に抑制しようにもしようがないのではないか、という点にも現れた(この欠陥については、既に [53] でふれた)。
この欠陥は、「権力の濫用を防ぎ、個人の自由を守る」という誰もが納得する機能に言及することで覆い隠された。

[100] (4) 日本国憲法における権力分立


日本国憲法が権力分立によって「抑制と均衡」を図ろうとしている明文の規定は、二院制(42条)、地方自治(第8章)である(会計検査院による決算検査(90条)は、権力配分に関わらないから、ここに挙げないほうがいいだろう)。
内閣が条約を締結し、国会がこれを承認することも(73条3号)、権力分立の明文の表れである。
また、予算を内閣が編成・提案し、国会がこれを審議し議決することも同様である(86条)。
81条の司法審査制は、そのなかでも特別に重要で、国会が制定した法律を審査するだけでなく、内閣が制定した政令、行政庁による処分までをも、あくまで法の問題として審査し、司法府と他の二権との「抑制と均衡」を図るのである。

抑制と均衡の例としてよく言及される、国会の召集、衆議院の解散については、直接の明文規定はない(7条3号は権力とは関係のない国事行為に関する規定である。解散や召集についての論議は、先の [87] でふれた)。
今日の権力分立において無視できない政党の働きは、日本国憲法において何の言及もない(この点については、先の [57] でふれた)。

さて、権力分立にとって中核部分であるはずの、立法・行政・司法という国家作用は、国会、内閣、裁判所にどのように分配されているのか?
関連の条文は、先に引用したとおりである。
そして通説の理解が、完全分離論に影響されてきたことも、上に論じたとおりである。
完全分離論で説明し切れないことは、次の例でよく理解できるだろう(下にふれる例以外にも多数ある)。

第一は、 法律の制定である。
内閣の発案した法律案Aが、衆議院で審議可決された後、参議院に送付され、参議院では異なる議決となったため、参議院から衆議院に返付されたところ、衆議院によって再議決されると(59条2項)、これに主任大臣が署名する(74条)、という一連の流れこそ、「抑制と均衡」の狙いのはずである。
第二は、 法律の執行である。
73条1号の文理からすれば、“国会の制定した法律を、内閣が誠実に執行する”と読める。
が、内閣は法律を執行する行政機関ではなく、執政の機関であり、行政機関に法律を執行させ、これを監督するのである(⇒[134]。この監督は、内閣法においては「統轄」と称される)。
さらに国会が、行政機関を監督する内閣を監督するのだ。
国会は、立法の執行段階に対しても一定の権限を持っているわけだ。
完全分離論によったとき、国会のこの監督は、何であるといわれるのだろうか?
その解が“民主的コントロール”である。
“民主的コントロール”という表現は、機能を表すにとどまり、これが権力分立論として有意になるにはコントロールのための権限を摘示するものでなければならない。
完全分離論は「立法/執行」が別個独立のものだと捉えたために、両者の抑制関係を権限で表すことが出来ず、機能論で応えたのだろう。

日本国憲法の権力分立構造は、相互作用(権限の分割)論によっている。
もっとも、その相互作用の具体的な姿は、比較憲法的にみて特異である。
まず、立法府と執政府との関係については、日本国憲法は、その二元的対立を避けるためにアメリカ的大統領制(厳格な分離型)によらなかった。
国会と内閣との間に統治方針の一致原則をもたらそうとしたのだ。
これが、議院内閣制の構造の狙いである(⇒[60])。
連携と反発の関係をもつ議院内閣制は、完全分離論ではますます捉え切れないはずである。

“日本国憲法は議院内閣制を採用した”と、これまでよくいわれてきた。
その議院内閣制として念頭に置かれていたのは、イギリス型の「議会中心の統治」のことだった。
このことは、41条が「国会は、国権の最高機関であつて、・・・・・・」としている部分に表れているといわれる。
が、それは、内閣主導の統治を否定する法的意味まで持ってはいないのだろう(だからこそ、後の [108] でふれるように、「最高機関」とは政治的美称だ、といわれるのである)。

ニ. 二院制


[101] (1) 二院制の意義


二院制は、政治的実践のなかで成立したものであったために、これを理論的に正当化することは容易ではなかった。
フランスにあっては、一般意思が単一でなければならない以上、それを代表する議会も単一でなければならないはずだ、という理論のほうが強い影響を持った。
《二院制の存在理由は「議会の専制」を抑制することにあり》という権力分立の観点を説いたのがモンテスキューだった(彼の権力分立論における重要ポイントが二院制にあってことにつては、[52] で既にふれた)。

二院制とは、議会(国会)という機関をふたつの合議体に分割することではない。
二院制とは、組織原理を異にし議事ルールをも異にする、ふたつの独立自足的な審議体が憲法上の機関として存在することをいう。
ふたつの独立機関がそれぞれの議事ルールに従って意思の合致をみたとき、議会(国会)の決定事項とされることが二院制の真の姿なのだ(議会とは、両院が有している立法権を含めた諸権限を共同行使する際に浮かび上がる観念体に過ぎない)。

それぞれの独立機関として重要な権限が、法律制定にあたって審議し可決する権限である。
もっとも、二院制が、相互抑制・均衡のメカニズムを発揮するには、両院が同質の審議可決権限を持たないことが望ましい。
一院が法律案を提案する権限を持ち、他院が審議し可決したとき、一院がそれをそれを阻止する、というように、一院には提案権と拒否権とを与えるにとどめる、という方法こそ、二院制の当初の構想に忠実である。

日本国憲法において、国会の意思は、59条に定められている法律案の議決手続にみられるように、両者の意思の合致をもって成立することを原則とし、例外的に、衆議院が特性の審議事項について優越的な地位に置かれることがる(衆議院の優越)。
これは、二院に同類の審議権限を与えないための工夫である。

[101続き] (2) 二院制の組織原理


それぞれの院が、権限において異なるためには、その組織原理を違えておくことも重要な視点である。
そのためには、
(ア) 一院を直接選挙としながら、他院については、間接選挙型、任命型または貴族型とするが如く、選出方法を変える、
(イ) 一院を全国民代表、他院については、職能代表または連邦制下での州代表とするが如く、選出の母体・利益を変える、
(ウ) 被選挙権資格、任期、選出方法を違える
等々、さまざまに工夫される。

二院制を採用した明治憲法は、衆議院を公選制とし(35条)、貴族院を貴族院令の定めるところにより皇族、華族および勅任議員によって構成させた。
貴族院の存在理由は、“社会の上層の地位の代表機関とすること”にあった。
一院を非公選院とした明治憲法下の二院制は、通常、「保守的二院制」と呼ばれている。

日本国憲法も「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する」(42条)「法律案は・・・・・・両議院で可決したとき法律となる」(59条1項)と定め、二院制によることを明らかにしている。
現行の二院制は、いずれかの院が国民を代表するのではなく、両院ともに国民を代表し、両者の意思の合致をもって国会の決定事項とする、とするための制度である。
そのことは、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と定める43条に覗える。
この二院制は、双方ともに公選院であるところから、通常、「民主的ニ院制」と呼ばれる。
議員の任期に関して、日本国憲法は、衆議院4年(45条)、参議院6年(46条)と定め、両議院議員の兼職を禁止する(48条)等、二院制に相応しい条件を幾つか取り入れている。


■2.選挙と選挙制度


一. 選挙制度原則


[102] (1) 権力分立における普通選挙制


選挙人(有権者)によって代表者を選出する行為を「選挙」という。
選挙制度の選択は、民主制にとってだけでなく、権力分立や二院制にとっても、重要である。
議会(国会)における少なくとも一院が、かつての身分制代表のように出自によって選出されるのではなく、選挙人資格を有する者すべてによる自由で平等な投票によって選出されたとき、議会中心の統治が実現したのである(⇒[64])。

選挙人資格を財産、身分や教養によって制限することのない普通選挙制の実現したことが、権力分立の構造を変容させたことについては既に [56] でふれた。
国民主権または民主制のもとでの権力分立の全体像は、統治部門における抑制・均衡だけをみたのでは把握できないのだ。
統治部門における抑制・均衡は、定期的な選挙(または解散に伴う選挙)の際投票者によって修復されるのである。
選挙制度の全体は法律によって描かれるが、選挙法制が「憲法附属法」とか「実質的意味の憲法」と呼ばれることがあるのは、こうした重要度を示している。

普通選挙制は、選挙人資格について実質的な考慮事項を原則として排除するところに成立した。
制限選挙制のもとでは、国家にどれほど貢献できるか(貢献したか)という実質が要求された。
たとえば、兵役期間、納税額、識字能力のように。
普通選挙制にとって本質的な要素は、国籍と最低年齢だけに限られてきた(最近では、国籍すら本質的要素ではない、という主張すらみられてきている)。

[103] (2) 日本国憲法における選挙制


日本国憲法15条に、成年者による普通選挙制(3項)、秘密投票の保障(4項)の定めがあるものの、44条は、その但書きにおいて「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」という条件のもとで、選挙人資格を法律の定めに委任している。
そればかりでなく、47条は「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」と選挙に関する大綱をも法律に委任している。
こうしたやり方は、諸外国の憲法でもよくみられる(たとえば、ドイツ基本法38条は、普通・直接・自由・平等選挙制と秘密の投票保障を(1項)、18歳の選挙権年齢・20歳の被選挙権年齢を(2項)定めるほか、3項において「詳細は連邦律で定める」としている)。
これは、“選挙法の内容形成を議会に委ねている”と表現されることがある。
それだけ選挙法制の技術的・専門的な領域は、大綱を定める憲法の規律領域ではない、と考えられているのである。

平等選挙制は“一人が一票もつ制度だ”といわれ、選挙人に与えられる票数に格差を設けるものは「差等選挙制」と対照されてきた。
が、比例代表制の導入後は、一人一票の定義は微妙となった。
比例代表制のもとでの政党への一票と、選挙区における候補者に対する一票の、二票を各選挙人が持つからだ(公選法36条の但書きを参照すると、そのことがよく分かる)。
選挙人資格の保有者が全員それぞれ同じ票数をもつ制度の論拠は、14条の平等条項であるのか、44条の但書きであるのか、はたまた、両者の合わせ業であるのか、定説はないようだ。
この論点は、14条の平等概念を、形式的平等と捉えるか、それとも、実質的平等と捉えるか(*注1)にかかっている。
もし、14条の平等が、《各人の違いに応じて合理的に処遇せよ》といっているのであれば、資格付与にあたって、実質的な要素を勘案してもよいことになる(※注釈:配分的正義)。
平等選挙制にいう「一人一票」は、これではない。
なぜなら、「一人一票」は、《選挙人有権者の投じた票は、誰のものであれ、一票として数えられる》という形式的な平等概念によっているからだ。
《何人もひとりとして数えられ、それ以上には数えられない》という形式的平等観に最も近いのは、上に引用した44条但書きだろう(※注釈:交換的正義)。

直接選挙制とは、選挙人の投票を以って代表者の選出にとって最終決定とする制度をいう。
選挙人が特定数の中間選挙人を選出し、その中間選挙人の選挙によって公職就任者が選出される制度を「間接選挙制」という。
被選議員によって構成される合議機関が別の議員を選出する制度を「複選制」という。

自由選挙制とは、選挙人の意思決定に対して直接または間接の圧力をかけることのない制度をいう。
自由選挙制を担保するためには、選挙人の投票内容が直接・間接の圧力によって開示されることがあってはならない。
投票内容が第三者には判明しないよう工夫された投票方法を「秘密投票」という。
日本国憲法15条4項は、公私にわたって責任を問われない、と秘密保護の範囲を列挙している。
これを受けて公選法は、「何人も、選挙人の投票した被選挙人の氏名又は政党その他の政治団体の名称若しくは略称を陳述する義務はない」(52条)、「投票用紙には、選挙人の氏名を記載してはならない」(46条4項)と定めている。

(*注1)「形式的平等/実質的平等」について
形式的平等や実質的平等が何を指すのか自体について、定見がない。
この点については、『憲法2 基本権クラシック』 [40] を参照願う。
(※注釈:阪本氏の理解では、①形式的平等→交換的正義(応報的正義、算術的正義)、②実質的平等→配分的正義(幾何学的正義)となっている)

ニ. 代表と選挙方法


[104] (1) いくつかの選挙方法


選挙制の原則と並んで、代議制にとって重要なポイントが、“選挙区をどう設定し、そこにおいて誰を当選人とするか”という選択である。
その選択は、議会には多数派の政治的選好を反映させるべきか、それとも、少数者のそれをも反映させるべきか、という代表方法と絡んでいる。

選挙区の多数が票を投じた候補者こそ当選者とされるべきだ、という代表選出方法を「多数代表法」という。
これは、“代表機関は多数者の政治的選好を反映すべきものだ”という思想を基礎にしている。
大選挙区制のもとでの連記投票制や小選挙区制がこれにあたる。

ところが、これによれば多数派が代表機関を独占するおそれが生ずるため、少数派もまた代表を送りこめる方策が模索される。
この“少数者も代表されるべし”という考えのもとでとられる方策を「少数代表法」といい、典型的には、大選挙区制のもとでの単記制がこれにあたる。
もっとも、この方法によっても必ずしも少数派が代表を送り出せるわけではなく、立候補者の数や政党の投票獲得キャンペーン等の外的要素も大きく影響する。

[104続き] (2) 比例代表法


19世紀後半からヨーロッパ各国で実施されてきた比例代表制は、多数派・少数派に各々その勢力に比例した代表数を確保しようとする工夫である。
比例代表法の基本的特徴は、
(ア) 当選に必要な標準票数(当選基数)が一定されること(その方法も様々であって、採用頻度の高いものがドント式である)、
(イ) 当選基数を超える得票が他の候補者に移譲されること、
この二点にある。

比例代表法は、移譲の方式によって、単記移譲式比例代表法と、名簿式比例代表法とに大別される。
単記移譲式比例代表法は、大選挙区制のもとでの単記投票で、当選基数を超えた残余の得票が選挙人の指定する順序に従って移譲される方式をいう。
名簿式比例代表法は、政党の作成した候補者名簿に対して選挙人が投票し、投票の移譲は名簿上の候補者内で為される方法をいう。
この方法には、さらにふたつがある。
ひとつは、政党の決定した候補者名簿の順位が絶対的に優先する厳正拘束名簿式と、他のひとつは、同一名簿上での候補者順位について選挙人の選択の余地を認める単純拘束名簿式である。

我が国の衆議院の比例代表選挙で採用されている方式は、厳正拘束名簿式であり、当選者の決定はドント式によるものとされている(公選法95条の2)。
参議院の比例代表選挙においては非拘束名簿式が採用されている。
多数ある選挙方法のうち、いずれを選択するかは国会の裁量に委ねられている(最大判昭51.4.14民集30巻3号223頁。以来、一貫した最高裁判例の見解)。

三. 選挙と選挙権


[105] (1) 選挙権の法的性質


先の [4] で指摘したように、我が国の憲法学説は、ドイツ流の国家法人説の影響を受けてきた。
国家法人説のもとで、選挙権の法的分析をしたのがG. イェリネックだった(*注2)。

(※注釈<公務説>) 我が国の通説は、国家を法人だとは捉えない方向を示しているにもかかわらず、選挙に関しては、イェリネックと同じように、“国民が有権者団(選挙人団)という国家機関を作り上げるのだ”と捉えている。
この観点からすれば、「選挙権」とは、選挙人団の構成員となるための資格を求める権利(選挙人資格請求権=選挙人名簿への登載を求める権利)だと特徴づけられる。
この資格は、国家という法人の構成員であるが故に認められるのであるから、国籍保有者に限定されるのが当然だ、ということにもなる。

上の意味での選挙権が主観的権利であるのに対して、選挙権保有者が有権者団として行動する選挙は、国家機関としての活動であるから、公的行為であって権利ではない、と説明される。
これは「公務説」と呼ばれることがある。
さらに、日常の用語では相互互換的に用いられる「選挙・投票」は、この説に従って厳密にいうなら、同じではなく、《選挙における個々の選挙人が意思を表示する際の方法を、投票という》のである。

上の考え方をまとめると、《選挙人団の行為は、国家機関としての公務であるのに対して、選挙人資格請求権という選挙権は、主観的権利である。また、各選挙人が選挙の際に投票箱に用紙を投函する行為を投票という》という図式となる。
イェリネックにみられた、〔公務+主観的権利=選挙〕という理解は、「二元説」と呼ばれることがある。

もっとも、我が国の通説である「選挙権に関するニ元説」は、《選挙権は選挙人団という機関の公務でるとともに、「参政の権利」としての主観的権利でもある》という主張であることには、留意を要する。
(※注釈<権利説>) この通説に対して、国家法人説をはっきりと拒絶する有力説は、“選挙権は主観的な権利だ”と一元説にでる。
この立場は「権利説」と呼ばれている。

権利説のなかにも、様々な分岐がみられ、自然権だというもの、主権者として市民が持つ不可譲の権利だ、というもの等々一定しない。
ただ、権利説に共通する狙いは、
(ア) 選挙人資格と国籍とを当然のごとく関連させてきた古典的な発想に反省を迫ろうとする点、
(イ) 選挙権・被選挙権の欠格事由(*注3)を必要最小限に限定しようとする点、
(ウ) 選挙権を個人の自由な処分に委ね、自由選挙制を徹底させようとする点、
等にあるのだろう。
確かに、選挙が有権者団の行為であると解すれば、“日本国籍を有する者だけが資格を有する”“選挙または投票は国民の義務である”と説かれ易い(ベルギー憲法62条は、投票は義務である、と述べている)。
この点、権利説によれば、“地方自治レヴェルでの選挙においては、日本に定住する外国人も有資格者としてよい”、とか、“棄権も自由だ”と主張しやすい(*注4)。

(*注2)イェリネックの地位の理論について
『憲法2 基本権クラシック』 [18] 頁を参照願う。
(*注3)選挙権・被選挙権の欠格事由について
公職選挙法11条は、成人被後見人、禁固以上の刑に処せられた者や一定種の選挙犯罪人を「選挙権及び被選挙権を有しない」と定めている。
(*注4)外国人の選挙権について
『憲法2 基本権クラシック』 [26] 頁を参照願う。

[106] (2) 多元的な政治的選好


《国民が有権者団となって政治的意思を統一的に形成する》という説明の仕方には、次のような欠陥がある。
第一は、 国民が実在するものと想定している点である。
国民が統一的意思をもつはずはないのだ(⇒[37])。
統一的意思という言い方はあくまで擬制だと受け容れるとしても、国家法人説的発想自体も擬制である。
こうしてみると、上の命題は二重の擬制の上に成立しており、実にリスキーな考えである。
第二は、 選挙区制のもとで実行される選挙が統一的意思を生み出すはずはないという点である。
第三に、 秘密投票制のもとで、投票内容について責任を問われない選挙が、国家機関の公的意思を創り出すとは考え難い。
秘密投票のもとで投票者の動機づけは、自己利益を促進することにあるだろう。

選挙人は統一的国家意思の法上の単位ではない。
選挙人は、それぞれの政治的選好をもった、求心性を欠く個別の存在である。
その人物が、個別に投票(通常は秘密投票)した後、有効投票の多数を得た者が、法上の効果として、代表者として扱われるのである。
このことを“主権者による政治的統一意思の表示である”と語ることは、大仰な擬制である。

選挙とは、代表者(リーダー)からみれば選挙人の投票の獲得を目指して競争する過程である。
またこれを投票者からみれば、その競争過程の最終段階において、代表者を選択する行為である(⇒[27])。
これが私の選挙の見方である。
これは、《選挙権とは、統治される者が代表者を選出したりしなかったりするための主観的利益だ》といいたいのである。

[106続き] (3) 立候補の自由


民主制の意義については、先の [27] でふれた際、《選挙における候補者が政治サービスの生産者であり、有権者がそのサービスの消費者である》という見方について私はふれた。
この生産と消費の連鎖が円滑に機能するためには、まず、生産者側の自由がなければならない。
その自由が「立候補の自由(*注5)」である。
もっとも、日本国憲法はこの自由について何も語っていない。
学説は、この自由の憲法上の根拠として、13条の幸福復追求権を挙げるもの、14条1項の政治的関係における平等処遇を挙げるもの等、様々である。

(*注5)連座制と立候補の自由について
公職選挙法は、選挙運動総括主宰者等が買収等の選挙犯罪について有罪判決が確定されれば、当選人の当選無効のみならず、判決確定から5年間の立候補を禁止する「連座制」を採用している。
この連座制は現在では秘書にまで拡大されている。
最高裁は、いずれの連座制も、選挙の公明、適正を実現する合理的な目的を持っており手段として必要かつ合理的である、との合憲判断に出ている。
最1小判平8.7.18判時1580号92頁(県会議員選挙)、最3小判平10.11.17判時1662号74頁(衆議院議員選挙)。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論

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最終更新:2013年03月24日 00:47