阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)

<目次>


■第一部 統治と憲法


第1章 統治

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第1章 統治    本文 p.1以下

<目次>

■1.政府と統治


[1] (1) Government


国家や地方公共団体は、government と呼ばれることがある。
government は、担当機関を指すとき「政府」と訳され、作用を指すときには「統治」と訳される。
その語源は「舵取り」である。

政府としての国家・地方公共団体は、統治のための権力を独占的に与えられている。
与えられているからこそ、government なのだ。

本書では、機関としての government でもなければ、作用としての government でもない、第三のタームである state を「国家」と呼ぶことにしよう(地方自治を論ずる際には、地方公共団体と国家とは別々に扱う)。

憲法学は統治を法的に統制するための装置について論ずる学であるにも拘わらず、政府という意味での government に焦点を当てない
国家(※注釈:state)を軸に据え、その機関と権限を分析対象としてこれらを語る。
政府を語るのが政治学国家機関権限を語るのが憲法学だ、という棲み分けが意識されているのかも知れない。
この意識以上に、政府なる用語・概念には具体的な人の姿や党派性が付き纏っている、とみられているようだ。
政府ではなく、国家・国家機関なる用語と概念は、抽象的で党派的に中立であって、偏向なき分析に適している、とみられるのである(大陸においては、“国家こそ公益性・公共性を独占する主体だ”といわれてきた背景も影響している。すぐ次に述べるように、“国家とは公民からなる政治的共同体だ”という見方は、国家こそ公共性を体現する団体だ、という理解と関連している)。

古くから国家の見方には civitas モデルと status モデルとが存在してきた。
civitas とは公民からなる共同体を、status とは権力機構を指した。
この冒頭で敢えて私の結論らしきものを急いでいえば、《国家は、統治に携わるための権力装置である》。
これが status モデルである。

[1続き] (2) 統治の意義


では、統治(作用としての government)とは何をいうのか

統治とは、一元的・統一的な権力支配を必須の要素とする国家の作用をいう。
権力支配とは、国家に居住する個人・団体に強制力を行使することをいう。
権力支配が一元的・統一的となるために、その作用はルールに従って為されるよう求められる
この点が、ナマの権力の発動と権力支配との違いである。

統治のためには、組織体を必要とする。
国家統治のための諸組織体を法的地位としてみたとき、「国家機関」または「統治機関」という。
国家機関も、統治が一元的・統一的となるために、目的的ルールに従って階層的に構成され配置される。

上のことを纏めていえば、こうなる。
統治とは、国家機関を通して為す、一元的・統一的な権力支配をいう》。
先に、《国家は、統治に携わるための権力機構だ》と述べたのは、この言い換えである。
国家は、統治のための強制力を独占的にもち、これを正当に行使するからこそ国家なのである。
また、強制力をもつ国家だからこそ、それを規範的に制御するための理論が求められるのである([20]をみよ)。

すぐ後にふれるように、“国家は国民の政治的共同体だ”とか“国家は権力機構ではなく、公共的な役務を提供する社会団体の一つに過ぎない”といった見解もみられる。
が、これらの捉え方は、国家の本質を外している。
国家は共同体でもなければサーヴィス提供団体でもない。
共同体であるには、神聖視されている場所または神もしくは権力を共有し、人々が繋がっていることを条件とする。
この条件を人々が暗黙のうちに承認しているとき、構成員相互間に自然的な結合性向が客観的に見て取れるのである。
近代国民国家は、この共同体を崩壊させて成立したのだ(この点については、後の [5] でふれる)。

また、国家が実在するかのように語ること、国家が公共事業体であるかのように考えることは、誤導的な思考だと私は確信している。
国家は意欲する主体でもなければ、単なる公益団体でもない。


■2.統治の特徴


[2] (1) 統治の独占


国際経済に与える影響や我々の日常生活に与える影響は、日本国や小さな地方公共団体と比べて、トヨタやソニーといった巨大営利企業のほうが大きいかも知れない。
巨大営利法人を「社会的権力」と称し、その構成員や取引の相手方などの「人権」保護の観点に立って、営利法人の自由を憲法的に統制しようとする憲法学者がいるのは、そのためなのだ。

ところが、国家・地方公共団体は、民間の企業とは法的性質を決定的に異にしている(いわゆる私人間効力に関する論争と、三菱樹脂事件最高裁大法廷判決を想起されたし(*注1))。
その相違は統治権力を保持しているかどうかという点にある。
民間企業がいかに巨大であっても、それは我々に課税したり逮捕・拘禁したりすることはない。
トヨタやソニーに就職希望している貴方の「契約自由」が、いかに絵空事のように見えても、貴方にはまだ無数の選択肢が残されている。
たとえ、希望通りに事が運ばないとしても、それは、一部は貴方の資質、一部は運のためだ、としか言い様がない。

国家の統治権力は、我々の希望や選択肢を無視しながら発動される。
一方的で、有無をいわさないところにその特質がある。
国家は、公共的な財やサーヴィスを提供することもあるが、それに尽きることはないのである。

(*注1)三菱樹脂事件について
この事件は、基本権が私人間の法的関係をどこまで統制するのかという、いわゆる私人間効力の争点を提起した事案である。
『憲法2 基本権クラシック』 [33] を参照願う。

[3] (2) 統治と政治


統治と似た概念として「政治」がある。
これも捉えどころのない、論争を呼ぶ概念である。
本書では、《政治とは、対話、説得、金銭、権力等を使いながら、人々の利害に影響を与えこれを調整する人間の活動をいう》としておこう。

政治の概念に注目したとき、こう言われるだろう。
“国家機関は統治だけでなく、政治にも従事しているではないか”と。
確かにその通りである。
ところが、統治と政治は同義ではない。

統治と政治との違いは、
前者の統治が一元的であることを目指すのに対して、 後者の政治はその方向性を必然としていないこと、
前者の統治が国家の公式機関を通して為される組織的活動であるのに対して、 後者はそうとは限らないこと、
統治は、国家機関の活動であるだけに、ルールに従って為されなければならないのに対して、 政治はそうとは限らないこと、
等に表れる。

統治について語るのが国法学(または憲法学政治について語るのが政治学(または政治社会学である。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)

■要約・解説・研究ノート


統治とは、 国家機関を通して為す、一元的・統一的な権力支配をいう 憲法学(国法学)
政治とは、 対話、説得、金銭、権力等を使いながら、人々の利害に影響を与えこれを調整する人間の活動をいう 政治学(政治社会学)

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第2章 国家の概念と歴史的展開

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)    第Ⅰ部 統治と憲法   第2章 国家の概念と歴史的展開    本文 p.5以下

<目次>

■1.国家の概念


[4] -


国家を捉えることは、先人たちが大いに悩んできた難問である。
国家概念を把握するに当たって、我々に強い影響を与えてきたのは、次の二つの発想だった。
第一は、 国家を自然人に喩えながら、君主が国家の head に位置して元首(head of the state)となり、○○の機関が手足のように働き・・・・・・という擬人的発想である。
この見方は、国家有機体説といわれる。
第二は、 国家とは政治的共同体だ、という見方である(⇒ [1])。
これは、上の第一の見方でいう「自然人」の部分を「多数人による集合体」に置き換え、“集合体のうちでも、政治的な集合体が国家だ”というのである。
これも、実は、国家有機体説の一種である。
というのも、多数人が有機的に連帯して一つになるからこそ「共同体だ」と捉えられるからである。
政治的共同体説を精緻にしたのが、有名な国家法人説である。
人々が求心的に国家へと集合した持続的な集まりを、自然人を法人格と捉えたときと同じように、法の主体と考えればよい、というわけだ(ドイツの公法学者、G. イェリネック(1851~1911年)がその理論を体系化したといわれる)。
但し、国家が他の法人と異なるのは、国家が主権という独特の法力と領土という広がりを持っている点だ、と必ず指摘されてきた。
「主権・領土・国民」という、お馴染みの国家三要素説はここから来る。

上の二つは、国家を擬人化している点で共通の発想に立っている。
国家法人説は、精緻な擬人化理論である。
これは、国家の意思(精神作用)を語り得るだけに、法的思考に馴染み易く、我々にも分かり良い。

とはいえ、現在の憲法学は、“国家が主権をもつという国家法人説は、国民主権の理論と相容れない”“人権保障の思想と相容れない(*注1)”と、国家法人説に批判的である。
最近の体系書なり教科書で、“私は国家法人説論者だ”と正面から認める論者はいない。
が、多くの憲法学者は、何時の間にか国家法人説に絡め取られている。
“国家は政治的共同体だ”“国民が選挙人団として国家の機関となる”といった説明は、国家法人説だからこそ出てくるはずだ。
国家の三要素に言及しながら、「私は国家法人説論者ではない」という体系書があるとすれば、それは、その筆者の思考の混乱を示している。

この本を書いている私は国家法人説論者ではない。
国家や社会や国民を実在するかのように語ることは、決定的に誤っていると私は考えている(国民主権の [38] でふれるように、私は国民を実体化して考えることをしない)。
国家や社会を「共同体」と表現する論者の知性を私は疑っているほどだ。
知力の高い社会科学者・政治学者は、国家や社会を実体化しないようにと、重々留意しているはずだ。
国家(※注釈: state)や社会(※注釈: society)は、実在の単位である個人および結社(※注釈:おそらく政府 governmentも含む→阪本氏は、非実在の国家 state と、実在する政府 government を区別する)の活動を通して把握の対象となる抽象的観念に過ぎない。

オーストリー生まれの偉大な法学者H. ケルゼン(1881~1973年)が、イェリネック流の国家法人説を否定し、国家を規範的に把握しようとして、《国家は法秩序そのものだ》と主張してのは、炯眼だといわなければならない(但し、ケルゼン理論は「国家論なき国法学」だった)。
政治学やケルゼンの成果があるにも拘わらず、なぜ法学(憲法学)においては、なお依然として“国家は政治的共同体だ”などと口にされるのだろうか?
そこには、「国家とは、公事のための共同体= civitas だ」と捉えてきた歴史的な背景があるからだ。
国家という国民から成る政治的共同体こそ公共性を担うよう意欲する主体だ、という考え方である。

(*注1)国家法人説と人権
イェリネックの国家法人説は、基本権の保障に関して、“国家は主権団体として絶対的な権力をもっているが、自制して、人々に権利を与えよう”という理論を説いた。
これは、人権保障のための理論ではなかった。
『憲法2 基本権クラシック』 [18] を参照願う。


■2.「国家」の歴史


[5] (1) 中世までの「国家」


古く、ギリシャの時代には、“国家は市民たちから成る政治的共同体だ”と捉えられた。
civitas モデルである。
当時の国家は、労働を奴隷たちに任せたまま、兵役義務を有する人たちが城壁に囲まれた狭い地域での政治をいかに舵取りをするかにつき、等しく参加しながら審議し決定する、まさに「共同体」だった。
公事(res publica)を考え実践しようとする人々の繋がりがそこにあった。

その後の「国家」は、領主、武士、貴族、僧侶、農奴、商人等々、さまざまな身分の人たちから構成される、広い地域となった。
いわゆる中世封建制の「国家」である。
そこでの統治は、国王、領主、その臣下、さらにその臣下といったふうに、重層的だったばかりでなく、教会の支配地域、ギルドの支配領域等々、領主の支配権の及ばない地域が散在していた。
ギルド、教会、自治体等は、今日、「中間団体」といわれる。
このような中間団体を擁した「国家」においては、ギリシャ時代にみられた「市民から成る政治的共同体だ」という命題はもはや通用するはずがなかった。
個々人は、「国家内国家」における住民であり、身分制によって雁字搦めにされていた。
君主も、国家内国家の権力によって拘束を受け続けていた。

散在していた「国家内国家」のなかで、自前の軍隊をもち、そのための徴税制度を整備する領主が、次第に勢力を伸ばすことに成功し、ついには、国家のなかに国家が存在することを許さなくなった。
統一的支配者としての君主(国王)の誕生である。
法王の宗教的権威から解法された君主が「国家内国家」を権力的に押さえつけたとき、初めて、近代的意味での国家が誕生したのである。
それは、同時に共同体の崩壊をも意味した([194] もみよ)。
16世紀のヨーロッパにおいてのことだった。

[6] (2) 絶対主義国家


君主は、ギルドや封建領主等の中間団体を否定し、それらの有していた権力(課税権、裁判権、立法権等)を吸収した。
そして、“我が権威は、世俗のいかなる勢力によっても拘束されない”と主張した。
これが「絶対主義」であり、この国家が「絶対主義国家」である。
絶対主義国家を理論的に擁護したのが、フランスにおいてはJ. ボダン(1530~1596年)、イギリスにおいてはT. ホッブズ(1588~1679年)だった。
彼らは、《国家の主権は君主の人格に体現され、それは、全ての法の源泉であり、一切の法に優越し最高である》と説いた。
そのことを決定づけるために必要な第一条件は、王位を世襲とすることだった。
世襲制によって断絶のない統治の制度が可能となった。
当時にあっては世襲制こそ constitution だった。
世襲制は、それまで度々みられた互選制に代わるものとして、君主が長期間に亘る闘いのなかで勝ち取ったものだった([19]をもみよ)。
上のような展開は、フランスに顕著にみられた(英国においては、君主制は絶対主義化することなく、徐々に議会制と調和していった)。

絶対主義の行き着く先は、君主と国家との同一視だった。
「朕は国家なり」というわけだ。
その主張は王権神授説によって頂点に達した。
神授説は、神聖ローマ帝国の権勢が衰退するなかで、君主が法王と同等以上の権力を獲得しようとして意図的に前面に押し出された。
もっとも、絶対的権力といわれる君主権といえども、“慈愛と正義をもって臣民に対するべし”とする神の教え(法則)や“封臣契約を遵守すべし”という制約下に置かれるのが通例であった(この契約は「中世立憲主義」といわれることがある)。
が、その教えは、法的統制力に欠けていた点で、今日我々がイメージする法的統制とは決定的に異なっていた。

理論上、一体性をもつといわれた絶対主義国家も、「市民革命」によって、もろくも瓦解した。
当時の国家の役割は、今日と比べてはるかに限定されたものであったために、自律領域が個人、結社や地方に残されており、理論上は否定されたはずの中間団体が現実には生き残っていたのである。

[7] (3) 国民国家の成立


“国家は政治的共同体だ”という思想を歴史に再登場させたのが、近代啓蒙思想家たちだった。
彼らの説いた「社会契約」にも多種多様なものがあるが、その最大公約数をいうとすれば、《自然権保全という統一目的をもって人々が自由意思によって政治的共同体を樹立するのだ》という政治理論であった。

啓蒙思想家は、かっての共同体が崩壊したいま、自然的な結合性向をもたない人々をいかにして結びつけるかを考えた。
人々を人為的に結合させる動因力、それが「自然権を保全する目的」だった。
啓蒙思想家は、共同体崩壊後に生活する人々が、各自の利害を基点として他者と協働できるときにだけ結合するだろうことを知っていた。
その結合の表象が「社会契約」である。
このように、ひと味もふた味も違う共同体論を説いたところが、啓蒙思想の躍如たる側面だった([20]もみよ)。

「社会契約」は、絶対君主の権力を否定する革命の理論でもあった。
そのために、人間の同質性を敢えて強調し、君主に対抗する全ての勢力を結集してひとつの集団となるのだ、と訴えたのだった。
だからこそ、“人間はすべて法人格であり、普遍的権利の主体だ”と格調高く謳われたのだ。
その主張をさらに補強するために、万人が自由意思や理性をもっていることも指摘された。
こうしたユートピア的理論が、市民革命の原動力となった。

市民革命によって誕生した国家は、「国民国家 nation state」と呼ばれた。
国民国家とは、
第一に、 君主や封建領主が統治する国家ではないこと、
第二に、 「国家内国家」が散在するモザイクの如き凹凸のある国家ではないこと、
第三に、 平等なる法主体となった国民によって構成された国家であること、
を指した。
このうちでも、第三の点を力説しながら、“平等なる法主体、すなわち市民の有する自然権を憲法協約によって守ろう”という理論が、「立憲主義」の原型である。
立憲主義とそれを基礎とする国家論は、18世紀に最高潮に達した(この点については、後の[20]でふれる)。

[8] (4) 国民国家内部の亀裂


ところが、人であり市民であるという点で均質な存在を構成員とするはずの「国民国家」は、対抗する君主勢力が姿を消すと、その内部に様々な亀裂を顕在化させていった。
亀裂の第一は、 「市民」概念に表れた。
市民革命における「市民」とは、ギリシャのポリスにおけると同様に、政治的な責任を自覚し自発的・積極的に判断し行動する人を指していた。
ところが、“国家における主権は誰に帰属するのか”という主権問題が改めて問われる段階で、「市民」概念が国籍と結びつけられたのだった。
ここに、「国民/外国人」という亀裂がまず現れた。
「国民国家」は、外国人を統治過程から排除する、ナショナリスティックな概念ともなっていった。
第二の亀裂は、 統治される者と統治する者との間に現れた。
現実の統治は、「自己統治」「市民自治」などというヤワなものでは決してあり得ない(私は、「自己統治」という言葉を使う論者の知的誠実さを疑っている)。
他の活動と同じように、統治には分業と専門化が必要不可欠である。
統治の分業・専門化のためには、政治家と官僚団とが必要となる(このことは、市民革命以前でも変わらず、政治家と官僚団とが存在していた)。
「国民国家」といえども、政治家とそれを支える合理的官僚制という国家装置によって統治や一定のサーヴィスを提供せざるを得ない。
ここに、「統治する者/統治される者」の亀裂が顕著となったのである。
第三の亀裂は、 「資本家/労働者」「持てる者/持てざる者」という「市民」の中に現れた(といわれる)。
「市民」の中には、その実態をみたとき、自由で平等な主体とは到底いい得ない人々が多数存在している、というのである(⇒[25])。

これらの変化は、ひとえに「国民国家の危機」にとどまらず、「立憲主義国家」の危機となった。
この危機とは、何を指すのか。
これを理解するためには、憲法の意義、憲法に基づく統治(=立憲主義)の意義を知らなければならない。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第一章 国家とその法的把握

■要約・解説・研究ノート


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第3章 「憲法」の意義 - 正確には「国制」

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第3章 「憲法」の意義 - 正確には「国制」    本文 p.11以下

<目次>

■1.国制の意義と類型


[9] (1) 憲法の意義


英語で constitution、ドイツ語で Verfassung といわれるとき、それらは、我々が日常において「憲法」と呼ぶものとはニュアンスを異にする。
我々が「憲法」という言葉を聞いたとき、第一に、“それは法の一種だろう”と直感し、第二に、“日本国憲法のように、成文化された法のことだろう”とイメージするだろう(因みに、“憲法とは法律の一種だ”と貴方がもし考えているとすれば、それは大いに不正確である。その理由は、本書を読み続けていれば判明するはずだ)。

Constitution, Verfassung は、大きく、二つの意味をもつ。
第一は、 国家統治の根本構造のことである。
この場合、constitution, Verfassung は、《そこにある、事実としての国家構造》を指している。
第二は、 国家統治の根本構造とその作用を決定するルールのことである。
この場合、constitution, Verfassung は、国家の根本構造と作用を一定の枠に閉じ込めるための設計図を指している。
この場合には、そこにある国家の根本構造を記述・描写しているわけではなく、《あるべきものとしての国家構造とその作用》をいっているのである。

「かくあるべし」という命題を「規範的」という。
「記述/規範」は、哲学でお馴染みの「認識/価値判断」と同じ区別だ、と考えればよい。
この区別を利用して、
第一の憲法を 「記述的意味の国制」、
第二の憲法を 「規範的意味の国制」
と呼ぶことにしよう。
constitution, Verfassung は、これら二つの意味を同時に持っている。
どちらにせよ、日本語としてそれらは「国制」と訳出されるべきだった。
にも拘わらず、それらが「憲法」と訳されてきたために、本章の冒頭でふれたような感覚を我々は持ってしまうのだ。

本書では、規範的意味の国制だけを「憲法」と呼ぶことにしよう。
いうまでもなく、ここでいう「憲法」は、成文化されているとは限らない。

[10] (2) 国制の類型


規範的意味の国制、すなわち「憲法」が、
慣習に依拠しているとき 「不文憲法」と呼ばれ、
文書化され編・章等に整序されているとき 「成文憲法」と呼ばれる。
憲法は、成文の部分と不文の部分とから成る。
そのことは、「不文憲法の国、イギリス」においても、「成文憲法の国、日本」においても、変わらない。
国家の根本構造とその作用に係るルール全体が憲法なのだ。
この憲法は、ときに「実質的意味の憲法」と呼ばれることがある。
この場合の憲法には、憲法典、憲法慣習法、憲法習律、重要法律(内閣法、国会法、裁判所法等)が含まれる。

なお、不文のルールを人の意思で《語り得るもの》にすることを、《実定化する=ポジティヴとする》という。
legal positivism, positivist が、それぞれ“法実証主義”“法実証主義者”といわれるのは、そのためなのだ。
実定化された国制のうち、法律(すなわち、議会制定法)の改廃と同じ手続によって改正されるものは「軟性憲法」と呼ばれ、法律の場合よりも加重された改正手続を要するとされているものは「硬性憲法」と呼ばれる。


■2.基本法としての憲法(国制)


[11] (1) 憲法(規範的意味の国制)の特性


この硬性と似て非なるものに、「基本法 fundamental law」という概念がある。
これは、《憲法とは、成文化されているか否かに拘わらず、法令を制定し執行する者を拘束する根本的ルールだ》という属性を示す言葉である。
私はこのことを《憲法は、強制力を発動しようとする全ての国家機関の活動を統制するルールだ》、《統治を先導するルールだ》ということにしている。
こえが、先にふれた「規範的意味の国制」のことである。

何を以って fundamental だと考えるか、憲法の「基本」の内容は歴史上多様だった(その歴史的展開については、すぐ後に述べる)。
このうち歴史を転回させたのは、近代啓蒙主義者の説いた自然法思想だった。
その「自然」とは、その時代の人間中心の世界観を反映して、人間の本性(nature)を指した。
これが近代自然法思想である(因みに、私は natural law を「自然法」と訳すことに疑問をもっている。「人間本性の法則」とでも訳すほうが真のニュアンスを伝えるだろう)。

ある啓蒙思想家は、《憲法は自然権を保全する基本法だからこそ、主権者といえども、憲法に従って統治しなければならない》と主張した。
また別の啓蒙思想家は、《憲法は、この世の基本単位である個々人が社会契約という始源的な契約を締結することに合意したのだから、基本法だ》と主張した。
ここでいう「基本」とは《人間の理性によって選択されたもの》または《全員が合意しうるもの》を指している。
これは、これまで君主がもっていた絶対権を打ち破る狙いをもっていた。

君主という存在が影を薄くし、さらには歴史から姿を消して、身分制議会が統治の中心点となった後は、「基本」という属性は、実体(中身)ではなく、手続の側面でも活かされていった。
つまり、こうである。
憲法は、議会を含めた統治者から被治者の権利を守る基本法である以上、身分制議会が立法権の一環として憲法を制定すべきではない。
憲法改正も、身分制議会の法改正と同じように為されてはならない。

この主張は、
《国制を成文化する作業は議会ではなく憲法制定会議という特別の機関が担当しなければならない》、
《改正に当たっても、法律を改廃するが如くに議会が取り扱ってはならない》
と、制定・改廃の手続に活かされた(この理論は「憲法制定権力論」と絡んでいる。これについては、また後の [46] でふれる)。

[11続き] (2) 憲法の手続・実体的特徴


「基本法としての国制」は、上のように、手続的な装置を内臓している。
国制が法律とは別の手続によって制定されて憲法典となったとき、“憲法の効力は、他の様々な国法形式(法律、命令、規則等)よりも、優位する”と表現されることもある。
硬性憲法は、法の存在形式においても、他の国法に優位している、というわけである。
硬性憲法の場合、単に手続面や形式的効力において特異であるのみならず、《この憲法は、他の国法形式よりも、実体的な価値において優位する》と、実体的な統制力(基本法に相応しい中味の法力)を組み込むよう工夫されることが多い。
例えば、「この憲法は、国家の最高法規である」「ここに保障する事柄は、将来に亘って永久に保障されねばならない」「ここに保障されている重要事項は、改正の対象としてはならない」等々を、憲法が、自らの内部で宣明するのである。
もっとも、憲法自らが「この憲法は、最高法規であって、これに反する条規は無効なり」と述べても、それは有名な「自己言及のパラドックス(*注1)」に過ぎない。
そこで憲法は、その最高の効力規定が自己言及に終わらないよう、その規定に執行力を付与すべく、国法の効力関係を審判する権限を特定の国家機関に与えることもある(その典型例が違憲審査制である。違憲審査制、司法審査制、違憲審査制の限界については、後の [15] [16] でふれる)。

このように、憲法は、手続的にも実体的にも、他の国法とは違った特性をもつことによって「国家の基本法」となるのである(この点については、法の支配にふれる際、再びふれるだろう)。
憲法は「国家の基本法」であるため、国家の統治にとっての大綱をその規律対象として取り込むものと成らざるを得ない。
そのため、憲法は、国家統治の詳細部分を「法律によって定める」よう議会に授権するのが通例である。

(*注1)「自己言及のパラドックス」について
ある本の表紙に「この書籍に書かれていること、妥当せず」と見出しに書かれているとしよう。
この見出しが妥当するとすれば、書籍に書かれていることは、まさに妥当しない。
が、自ら「書かれていることは妥当しない」というのだから、見出し自身が妥当しないだろう。
となると、この本に書かれている事柄は?????


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第三章 憲法(典)の存在理由とその特性

■要約・解説・研究ノート


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第4章 憲法の構造と憲法の解釈

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第4章 憲法の構造と憲法の解釈    本文 p.15以下

<目次>

[12] (1) 憲法の構造


実質的意味の憲法(国家の根本構造を定めるルール)は、成文の部分、不文の部分、法律、裁判例、慣習(習律)等の総体から成る(⇒[10])。
が、それらを総計したとしても、憲法が完全な姿を現すことはない。
憲法の全体像は常に朧気で、広範囲にわたり確定的な外延をもたない。
憲法のどの部分であれ、我々が議論しようとするとき、“依拠すべき基準枠がない”という心許なさを感じるのは、そのためだろう。

それでなくても、国家と統治という話題は壮大である。
それを分析しようとするときに、依拠すべき基準枠すらないとは!
“憲法(学)は、入るは易く、出るは難し”といわれる理由がここにある。
ときには、出ようにも手がかりすら与えない「解釈」が、憲法学においては多過ぎる。
例えば、「保護に値する利益が保護される」、「合理的な制約は許される」、「憲法の基本原則に適合的な国家行為は違憲ではない」等々。
これでは、完全な循環論だ。
そういえば、「憲法は、・・・・・・を要請している、よって、・・・・・・である」という論法も同質である。
解釈に求められるのは、「要請されている」ことの論証のはずだ。

憲法は、自己完結的な規範体系ではない。
憲法が憲法典として実定化されたとしても「法の欠缺」は避けられない。
なぜなら、憲法は、統治の歴史上、重要な国家活動だけを大綱的に規範化してきたものであるし、なかでも実定憲法(憲法典)は、統治に関する規範の一部だけを切り出して文章として配列したにとどまるために、条文の文理を細目にわたって解釈したとしても、その真の意味は把握できない。
憲法のある論点は、ときに歴史と思想史を振り返って初めて理解できることが多いのだ。
いわゆる統治機構の部門においては、権力分立制度、議会制度、内閣制度、選挙制度等々の「制度」を論ずるとき、それらの制度を理解するには、それを支えている「概念」を理解する必要がある。
議会を語るとき「立法」という概念抜きには空回りするだろうし、内閣を理解するには、「執政」、「執行」という概念を抜きにしては内閣権限は理解されないだろう。
それらの概念は、また、歴史と思想を抜きにしては掌握できないのである。

憲法が統治の大綱だけを規律対象としてきたのは、政治活動の実践が歴史的な変遷を免れないからである。
歴史的変遷を無視して、ある世代が後世代を長く硬直的に拘束することは、規範として正当でない(⇒[44])。
憲法の内容は、時間に対して開かれていなければならないのだ。

また、憲法はある活動領域を全く規律対象としないで開放しておくこともある。
これは重要な意味をもっている。
例えば、経済体制の選択問題や閣議の議事手続を意識的に開かれた領域としている場合である。
憲法は、この形成を自由とすることによって、自由な選択の幅を意図的に残しておくのである。

さらに、事柄の性質上、活動内容を法規範化し難い領域が幾つかある。
憲法は、それをも自由な形成に委ねている。
その例が外交である。
外交のうち、戦争、条約等、格別に重大な統治領域については、憲法上手続的に規範化されることもあるが、外交全般は規範化に馴染み難いが故に、憲法はこの領域を開いておくのである(この領域が、厳密な意味での「行政」に該当しないことについては、後の [89] [145] でふれる)。

憲法が未決定のままにしている領域は、政治を活気づかせる契機となる。
自由な国家の憲法が自由な政治活動を保障しているのは、国民の自由な討論・決定によってこの開かれた領域を埋めることを可能とするためである。
憲法改正規定は、そのための一つの手続的ルートである。

[13] (2) 憲法の解釈


このように、憲法は不完全な規範の体系である。
不完全だからこそ、せめてその一部であれ、安定的で確実なものとするために、成分化される。
ところが、成文化されたとしても文理が一義的であることは珍しく、確実性が保証されるわけでもなければ、法的統制力が必ず生まれるというわけでもない。
ここに憲法解釈の必要が生まれる。
大綱的な憲法は、解釈過程によって明確化されていくのだ。

憲法は、統治の達成すべき、目標を掲げることがある。
そのために、憲法の条文が理念で満たされることも多い。
理念は現実からズレる。
現実からズレた条規は、目標実現の過程を統制し難くするかも知れない。
そのとき、無理やり目標実現の方向を示そうと、強引な解釈を展開する論者も登場するだろう。
そうなればなるほど、多種多様な解釈がそこに生ずる。
例えば、ある条文を巡って、法的権利を保障したものか、それとも、国家の政治目標として掲げたにとどまるか、と論争されるように(25条を想起せよ)。

憲法は、国家機関の組織法であると同時にそれらの機関の行為規範を含む。
が、これらの規範すべてが裁判規範とはされない点に、憲法の特異さが現れる。
歴史上長く、憲法は、行為規範に違反した国家機関に対して制裁を用意してこなかった。
そうなると、ある行為規範の解釈権者は、当の活動に従事する国家機関それ自身となる。
議会は立法にあたって、自らその合憲性を判断し、行政機関はその適用にあたって“自らがみずからの裁判官となる”おそれも出てくる。
そのうえ問題の憲法条規は、上に述べたように、不完全で大綱的だ。
となると、余りにも強引な解釈は論外としても、多くの理屈が同時に成り立ち得る。
そうなると、ある解釈によれば行為規範に違反するとさっる活動も、別の解釈によれば違反ではない、という事態となる。

「憲法は、真正の法規範ではない」とか「憲法は直接有効な法ではない」といわれてきたのは、そのためだった。

細部にわたって規範化されている他の実定法の場合と比べ、憲法における解釈は、重要である。
なぜなら、大綱的な憲法は解釈過程によって明確化されていくからである。
なかでも、違憲審査制度を擁する憲法においては、違憲審査機関の最終的な有権解釈権者が憲法の内容を表現することとなる(⇒[14])。
違憲審査機関の憲法の解釈と、これに影響を与える憲法学説は特に重要である。

憲法学説は、理解可能なかたちで憲法知識を国民に提供するだけでなく、違憲審査にあたる国家機関に対しても語りかけ影響を与える。
ときに、学説は、審査にあたって参考とされ、引用されることすらある。

[13続き] (3) 憲法解釈の技法


学説は、「違憲/合憲」と白黒をはっきり診断する必要はない。
慎重な医師であれば、病気だと断定しないで、“○○%の確率で△△病だろう”と診断するのと同じように、真摯な研究者は「違憲/合憲」の間に、様々な色調があり得ることを知っている。
違憲審査にあたる機関も同様で、「□□は違憲だ」とはいわないで「違憲の疑いがある」ということがあるのは当然のことだ。

憲法解釈は、成文化されている部分については、条文の文言、制定者の意図、他の条文との関連性、憲法全体構造との関連性等々を引証しながら、行われる。
それらのうち、いずれに最大比重を置くべきかに関して、絶え間ない論争となってきた(憲法解釈の拠りどころとして、①文理、②憲法構造、③歴史、がよく挙げられるが、これら自体、様々に解釈されざるを得ないのだから、確固たるものではない)。
ある者は制定者の意図を最重視すべきだといい、ある者は条文の文理だといい、また、ある者は条文の究極的目的だ、という有様である。
いずれか、ではなく、いずれもだ、と私は考えている。
ただ、論点に応じて、それらのウエイトの掛け方を上手く調整するのが、よき憲法解釈者だろう。

特に、憲法(正確には国制)は、成文化されていない領域を含む。
実証主義的に言葉の論理操作をするだけでは、明らかに足らないのだ。
我々は、言葉自体は地図上の点を指すかのような精度に欠けていることを銘記しなければならない。
憲法条のあるタームは、思想の流れや歴史の展開を知って初めて理解可能となる(⇒[12])。

解釈は、憲法の条規が一義的でないからこそ、必要となる。
そしてまた、論争を呼ぶ重要な局面だからこそ、多種多様な解釈が登場するのだ。
解釈は、一義的でないところを補いながらの創造活動なのだ。
もっとも、創造活動だからといって、引証されるべき要素を無視して為していいわけではなく、上にふれた諸要素が常に勘案されなければならない。

[13続き2] (4) 憲法解釈の解釈


憲法は、国家機関による法令の解釈・運用を、実体的にも形式的にも統制しようとする。
とはいえ、議会や内閣(大統領)といった政治部門は、その機関独自の法解釈に従いながら、法令を制定したり、解釈し、運用したりすることを一定限度許されている。
その独自の法解釈には、憲法解釈も含まれる。
そうなると、特定国家機関がその解釈権をもって“開かれた部分”を閉じることはないだろうか?
その機関が、解釈の名のもとに、憲法改正権者または主権者でなければ為し得ないはずの価値を選択することはないだろうか?

この懸念を考慮したとき、“ある国家機関が自らの行為規範に関して最終的な解釈権者となってはならない”というルールを作り上げることも一法であろう。
日本国憲法73条1項が内閣の職務として「法律を誠実に執行」することを挙げているのは、内閣に法令に関する最終的な憲法解釈権を与えない工夫である。
また、99条の国務大臣その他の公務員の憲法擁護義務は、それが訓示規定にとどまるとしても、憲法解釈に対するマナーのあり方を示したものとして見過せない意義をもっている。

さらには、ある国家機関の憲法解釈を最終的に解釈する国家機関を設置することが望まれるだろう。
この要請を満足させる制度が、違憲審査制である。
違憲審査制は、自らが合憲判定者となりがちな機関に“鈴をつける”工夫だった(違憲審査制については、次章でふれる)。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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第5章 違憲審査制

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第5章 違憲審査制    本文 p.20以下

<目次>

■1.違憲審査制のなかの司法審査制


[14] (1) 法令解釈権の統制


ある法解釈が正当かどうか、その解釈に従った法令制定・解釈・適用が正当化どうかは、第三の機関の判定に服すよう、憲法によって求められることがある。
これが違憲審査機関であり、その制度が「違憲審査制」である。

民主主義の非万能性が気づかれた第二次大戦後の国家において、違憲審査制は、人民の意思であれ、その意思を代表するといわれる議会の意思であれ、多数者意思や国家機関意思を「法」のもとに置くための必須の装置と考えられて、導入された。

[14続き] (2) 正しき解釈の判定者


違憲審査制のうち、我々が最も馴染んでいるのが、司法審査制である。
通常の裁判所が、具体的な法的紛争の解決にあたって、問題の国家行為が合憲か違憲かを、法の解釈として呈示する制度である([154]をみよ)。

もっとも、裁判所が、政治部門の決定、なかでも、議会の制定した法律の憲法適合性を判定できるとする思想は、モンテスキュー(1689~1755年)を始めとする初期立憲主義者以来、一貫して無縁のものだった。
19世紀の法治主義における裁判所の役割は、行政機関が法律適合性原則(*注1)を遵守しているかどうかを審判することにあった。
しかも、その審判権は、通常の裁判所ではなく、行政裁判所の管轄に属するものとされることもあった。
この「法治行政」の思想が普及した大陸法国家において、“司法とは民事および刑事の裁判をいう”といわれてきたのは、そのためである(⇒[150a])。

司法審査が憲法上の制度として誕生するには、幾つかの条件が満たされなければならなかった。

(*注1)行政の法律適合性原則について
この原則は、法治国原理の考え方を、行政機関に対して重ねて求めるもので、
①国民の権利義務に関する法規範(法規)の定立は議会のみが為し得、
②行政機関は法律の留保のもとで始めて行為でき、
③行政機関の制定する法形式は法律の効力を破ることはない、
ということをいう。

[14続き2] (3) 司法の特質


第一は、 政治部門と呼ばれる議会や執政府から独立した地位を保障された国家機関が存在することである。
それが「統治/司法(裁判)」という区別のもとで成立した裁判機関である。
裁判機関の独立保障は、権力分立論に先立って確立されていった。
第二は、 裁判機関が正しき法とは何たるかの解釈機関となることである。
そのためには、これまで裁判所権限だとされていた統治権限の発動(例えば、今日いう許認可権限の裁量的行使)機関から、手続的にも実体的にも正しき法規範によって統制される機関になることが必要だった。
これを支えたのが「執政/司法(裁判)」という区別である。
その展開に力を貸したのが権力分立論だった(権力分立については、後の [52] でふれる)。
第三は、 法の支配という思想の浸透である。
《すべての国家活動は正しき法のもとに置かれるべし》という法の支配の考えは、古くギリシャの時代から説かれ続けてきた。
が、「法/立法」の違いをはっきりと説いたのが近代啓蒙思想だった(法の支配については、後の [31] でふれる)。
法の支配という思想は、人為法が高次の法に服することを説いた。
高次の法が何であるか、コンセンサスはなくとも、少なくとも、国家の法体系のなかに、階梯的構造があることについては多くの賛同を得たのである。


■2.違憲審査制の展開


[15] (1) 司法審査制の成立


司法審査制を最初に確立したのは、アメリカである。
アメリカ合衆国憲法には、司法審査権についての明文規定がなく、Marbury v. Madison (1803年)での連邦最高裁判例によって肯定されて以来、今日に至っている。

有名なマーベリィ判決において、当時のマーシャル長官は、次のようなロジックを使うことによって、巧みに裁判所の司法審査権を説いた。
司法権は、合衆国憲法3条に示されているように、「この憲法・・・・・・の下で生ずる・・・・・・すべての事件に及ぶ」。
栽培所の任務は、司法権の及ぶ事件に法を適用し解決するにあたって、法を解釈することにある。
解釈にあたって二つの法が矛盾するときには、裁判官は優位にある邦を適用しなければならない。
合衆国憲法6条は、法律は憲法に従って制定されなければならないと定める。これは、「上位の法は下位の法を破る」との原則の表明であり、上位法たる憲法典は、これに抵触する法律を破る。
従って、通常の法律が憲法典と矛盾する場合、裁判所は、前者を無視し後者を適用しなければならない。6条にいう公務員の憲法尊重義務も、裁判官に対し、このように求めている。

以上のように、マーシャル長官は、法の解釈権者としての裁判所が、法解釈の一環として司法審査権を行使できることを説いたのである。

司法審査制は、通常の法的紛争の解決に付随して、裁判所が問題の国家行為の合憲性を審査する制度である。
そのために、「付随審査制」とも呼ばれることがある。
司法審査制のもとで裁判所は、「法/統治」の区別を意識するよう求められる。
司法審査は、適法・違法という法解釈の枠内で為されなければならず、政治的・政策的にみて当不当の評価に踏み込んではならない(この点については、すぐ後にふれる。また「司法審査権の限界」についてふれる [158] [159] もみよ)。

[16] (2) 大陸における展開


大陸における違憲審査制は、通常の裁判所の法解釈の枠内にあるものと、枠外にあるものとの区別(「法/政治」の区別)のもとに設計されている。
例えば、ドイツの違憲審査制は、おおよそ次のように制度化されている。
個別的事件の解決を任務とする通常の裁判所は、憲法および法律に拘束される法の解釈者として、適用すべき根拠法条に憲法上の疑義があると考えるときには、その手続を中止して憲法裁判所の判断を求めなければならない。
換言すれば、根拠法条が有効であるときに限って、その裁判所は法解釈権を行使できるのである。
これは「具体的規範統制」と呼ばれる。
この制度は、通常の裁判所が解釈の名の下で立法権を侵害することのないよう、立法を防衛する意味をもっている。
ドイツの違憲審査制の際立った特徴は、連邦憲法裁判所を設置して、その判断に議会を含めたすべての国家機関を拘束する力を持たせる点にある(但し、厳密にいうと、連邦憲法裁判所の権限は、違憲審査権だけではないが)。
憲法裁判所は、一定の提訴権者の請求を受けて、あらゆる種類の法規範について、個別的事件を離れて(このことを「抽象的に」という)、合憲性を判定する。
これを「抽象的規範統制」という。
抽象的規範統制の制度は、国家行為の法適合性・合憲性判断が法解釈の枠を超えた、政治的決定であることを率直に認めたうえで、そのための特別の裁判所としての憲法裁判所を政治的統合過程に組み込むのである。

上のドイツとはまた違って、フランスでは、第五共和国憲法のもとで実現された「憲法院型」による違憲審査制がとられる(憲法評議会とも訳出されることがある)。
憲法院は、司法府に対する国民の不信感が強い同国において、従来の議会優位思想を拒否して、議会と執政府との権力均衡化を図るための政治機関として設置された。


■3.統制機関の統制


[17] (1) 違憲審査機関の統制


違憲審査制を実現して、内閣や議会に鈴をつけたからといって問題が解決したわけではない。
“鈴をつけた者に如何に鈴をつけるか”という争点が残るのだ。
つまり、違憲審査機関が暴走し、牽強付会なロジックによって実体的な価値を創造するとき、どう対処すればいいか、という論点である。
これは、違憲審査機関が民主過程から隔絶されていればいるほど問われる論点である。
例えば、裁判所が、憲法の条文に手がかりのなさそうな領域について、“○○の自由(例:中絶の自由)は憲法の幸福追求権によって保障されており、これを制限する国家行為は違憲である”と新しく判断したとしよう。
「○○の自由」が憲法上保障されるべきか、という大上段の議論は、まず、現行の堕胎法制はどのように改正されるべきか、という立法政策上の検討として民主的に解決されるべき事項かも知れない。
“この争点は、まずは法令が改正されるべきかどうか、選挙民とその代表機関である議会によって検討されるべきだ”という主張は説得的だろう。
こうした手順を踏まないで、政治過程の外にある裁判所が憲法解釈として「○○の自由」を捻り出したという事実は、外国で実際に起こり論争の的となってきた。

裁判所のこうした「解釈」は、ときに「政策形成 policy making」と呼ばれる(もっとも、「政策形成」というタームは、実に散漫に用いられており、要注意語である。私は、これを《解釈にあたって引証されるべき要素から離れ過ぎて“国制の基本方針”を創出することだ》と限定的に理解することにしている)。

違憲審査機関の憲法「解釈」が、たとえ上のようであっても、憲法自らがその機関の解釈を法的に最終のものとしている以上、それを正当な憲法解釈と受け止めざるを得ない。
その後の対処は、民主過程に委ねられる。
すなわち、憲法改正または新たな憲法制定によって対処されることが、民主国家の基本である。

[17続き] (2) 違憲審査制の限界


成文の憲法とその解釈 - なかでも裁判所の有権解釈 - が国制の行き先を舵取りしていくことは民主主義国においては正常ではない。
国家のかたちは、議会の制定する無数の法令によって詳しく描き出されることもあれば、民主過程によって適宜修正されていくこともある。

ということは、ドイツの憲法学の奇才、C. シュミット(1888~1985年)が指摘したように、《国制は、法治国的な構成部分と、政治的な(または民主的な)構成部分とから成る》とみることが適切だろう。
この二つの構成部分のうち、いずれを重視するかは、解釈者の姿勢によりけりで、例えば、シュミットは“法治国的な構成部分は政治的構成部分に単に付け加わったものに過ぎない”と強調した。
これに対して、私のような古典的リベラリストは、政治の動向とともに変転せざるを得ない国制を法規範によって捉えきることの困難さを重々承知しながらも、それでも、法治国的構成部分を最大限重要視すべきだとみるだろう。
それでも、国制の実体は法治国部分に収まりきりことはなく、後の第10章でふれる「憲法(国制)の変遷」をもたらすのである。
この部分こそ統治の領域である。
法治国部分に収まりきらない憲法問題を裁判所の憲法解釈によって解決すべきだ、という考え方は安易である。


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第6章 立憲主義

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅰ部 統治と憲法   第6章 立憲主義    本文 p.26以下

<目次>

■1.立憲主義の意義と展開


[18] (1) 立憲主義の意義


先の [1] で私は、《統治とは、国家機関を通して為す、一元的・統一的な権力支配だ》と述べた。
統治は、限られたリソースを巡る利害の対立を調整しながら、その配分のあり方を権力的に決定する恒常的かつ永続的な国家作用である。
この権力的、永続的な統治活動の牙を抜いて正当な枠に閉じ込めようとするにが、規範的意味での国制の役割である。
統治を、流動的で恣意的な政治に委ねることなく、国制のもとに規律し安定させる思考を「立憲主義 constitutionalism」という。

近代国家が規範的意味での国制によって統制されるに至った段階のものは、「近代立憲主義国家」といわれる。
これは、国家という強制の機構から各人の「自由」を擁護する、統治上のルールとしての憲法をもっている国家のことである。

[18続き] (2) 立憲主義の展開


立憲国家は、先の [7] でふれたように、18世紀の啓蒙思想の産物だった。
その理論は、絶対主義国家論が余りにも不可能な前提に立脚していたことの反省から生じた。
神の如き君主は、現実には存在しないこと、君主の意思が必ずしも人民の利益に一致しないことが判明したのだ。

立憲国家の理論の起源となると、それは中世に遡る。

[19] 〔A〕中世立憲主義


中世においては、“君主を君主たらしめる法が基本法だ”と考えられた。
旧い歴史的産物のもつ力、すなわち、慣習が基本法の内容を成した。
その具体的な内容は、君主の世襲制、長子による王位継承、領土の不可譲性、そして「君主の権利/領主の権利/臣民の権利」という身分制秩序の維持である。
これらの基本法が君主権限を支えるための論拠だった。
“課税するには身分制会議の同意を要する”という命題が基本的内容として確立されるのは、その後である。

「君主を君主たらしめる法」は、君主権限を統制するためにも言及された。
それが「神の法と旧き善き法」である。
これらは、君主の権限よりも上位にあるという意味で「基本法」と考えられた。
こうした主張を「中世立憲主義」という。
もっとも、中世立憲主義は、善き君主となるための帝王学でもあったにとどまり、悪しき王が出現したとき、無力だった。
「中世立憲主義」は実のところ国家統治権を統制する思想ではなかったのである。

[19続き] 〔B〕近代立憲主義の源流?


「旧き善き法」の主張はさらにリファインされていった。
例えば、ある論者は、君主の主権の行使を「統治/司法」に分けたうえで、“君主は統治領域においては無制約の権力を有してきたのに対して、司法領域においては旧き善き法によって統制されている”と主張した。
また、別の論者は、国民の歴史から確定されるはずの実体的な原理として、太古からの憲法 ancient constitution がある、と主張した。

[20] 〔C〕近代立憲主義への転回


こうした主張は英国の国制に大きな変化をもたらした。
それが、“臨席すれども統治せず”という「臨席/統治」の区別である(「君臨すれども統治せず」という訳は適切ではない)。
この区別はピューリタン革命と名誉革命を通して国制に取り入れられ、立憲君主制を成立させたのである。
これに対してフランスの国制は、この区別を取り入れることなく、君主が統治し続けた。
確かに、フランスにおいても、君主の権力を統制しようとする立憲君主制の理論は知られていた。
が、君主は、制度的にも人的にも、国民代表制から独立しており、その意味で超然とした地位と権力をもっていた。
この背景のなかでフランス革命は、この王政を一挙に覆す過激な運動となったのである。

市民革命は、幾つかの歴史的な条件が整わなければ実現しなかった。
この条件とは、宗教改革運動と近代啓蒙思想の勃興である(⇒[23])。
宗教改革は、聖なる組織体である教会の権力に深い懐疑を人々に抱かせた。
信仰なるものは、教会の知識によって客観化(実定化)されるはずはなく、人々の心(内心)にある主観的で非実定的なものだ、と主張し「客観的宗教/主観的信仰」の違いを説いた。
となると、客観宗教と結びついてその権力を誇示してきた君主の権力が正当であるのか、と疑問視されてくる。
また、世俗の権力は主観的信仰に踏み込むべきではなく、踏み込み得ないはずではないか、とも気づかれてくる。
聖なる権力からも、俗なる権力からも、自由な「私事」領域、そして、近代国家国制の基礎である「政教分離」の誕生である。
近代啓蒙思想は、神の恩寵こそ natural law (本来的法則)だ、とするそれまでの神秘主義的な思考を消し去ることに成功した。
そして、自然権思想・社会契約論を展開しながら、「基本」の内容として“自然権または不可侵の人権を保障していること”を挙げた。

もっとも、社会契約という一時点での人々の同意は、その性質上、瞬間的刹那的であることを賢明な啓蒙思想家は知っていた。
社会契約だけでは、自然権を保全するにとって不十分なのだ。
社会契約に示された基本線を一時的なものにしないことが必要である。
だからこそ、《社会契約に次ぐ第2段として憲法協約が結ばれる》というフィクションが用いられるのである。

一時的な社会契約を乗り越えるために憲法協約が定められたからといって、それでもなお、人々の結合関係が安定するわけではない。
自然権保全という共通目的には同意した人々といえども、他の面においては利害を異にし、対立し得る。
ここに国家の統治の必要が現れるのだ。
憲法協約によって成立した結合関係が共同体とは別種であるからこそ、利害対立を調整する一元的な強制の力、すなわち、国家の統治が立ち現れざるを得ないのである。
先に私が「国家は国民の政治的共同体だ、などというべきではない」と指摘した理由は、ここにある(⇒[1])。

統治は特定の組織(統治構造)とそのための人材を必要とする。
この法的地位が統治機関であり、治者である。
統治が治者という階層を必要としている以上、「治者/被治者」の区別は不可避・必然である([8]もみよ)。
憲法協約が自然権保全に相応しい統治構造を決定するばかりでなく、被治者の基本権を列挙するのは、そのためである。
その際、啓蒙思想家は“統治権力が特定の機関に集中しないで、分割されていること”、すなわち、権力分立構造が組み込まれていることを以って、憲法協約の「基本要素」と考えた。

権力分立構想が歴史上確固となるためには、先の [14] でふれた「執行/司法」の区別に加えて、「立法/執行」の別、さらには、「法律/命令」の別が明確にされる必要があった。
一般的・抽象的な法規範を定立することが「立法」であり、
その法規範を個別・具体的な事案に適用することが「執行」だ、
という区別である。
この「一般性/個別性」という区別が、《臨機の法(個別的な命令)は立法ではない》との主張を支えた。
次いで、“たとえ君主の立法が一般的・抽象的であっても、それは「命令」という法形式であって、議会が立法する法形式、すなわち「法律」とは別だ”と主張された。
これが「議会の立法/君主の立法」、「法律/命令」という分離と、命令に対する法律の優位という主張を支えた。
こうした主張が「司法/議会の立法(法律制定権)/残余の君主権限」という権力分立構造を産み出したのである。

自然権の保全と権力分立という二つの要素を憲法の必須要素だと明言したのが、フランス人権宣言16条の「権利の保障が確保されておらず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法を持たない」という有名なフレーズである。
この二つの要素を満たす憲法を「立憲主義的憲法」と一般にいわれることがある。
つまり、
《憲法とは、人権宣言と権力分立を含む成文の法文章だ》、
《この法文章は、国家樹立の際の社会契約および憲法協約を成文化したものであるから、主権者をも統制する法力をもっている》
という思想である。
今日、立憲主義を想起する場合、人々の脳裏に浮かぶのは、一般にこのタイプである。
が、フランス人権宣言とその16条は近代立憲主義のモデルではなく、「このタイプだ」と簡単に片付けることは正確でない。
フランス的立憲主義とアメリカ的立憲主義は、憲法に関する見方を大きく異にしているのだ。

[21] 〔D〕近代立憲主義の枝分かれ


フランス型は、憲法をあるべき国家の最適モデルに適合させようとする理論に従って設計しようとした。
なかでも、憲法を制定する力を民主的に創造するための人為的理論が最重要視された。
これが、後の [39] でふれる憲法制定権力の理論である。
人権も、まったく新たに創設され、最適規範に相応しい内容を人為的に持たされた。
人権は、人が精神的にも物質的にも、あるべき姿となるための規範だった。
こうした憲法のモデルが理論通りには運ばないと判明したときには、また別の理論に従って人為的に憲法が制定された。
フランスの憲法は、何度も何度も制定されては軌道修正された。
そして、結局のところ、自由の構成(constitution)に失敗したのだった。
これに対してアメリカ型は、経験と伝統とを基礎とする憲法制定の道を辿った。
理論的な最適規範を設計したところで、上手く定着することはない、と建国の父たちは知り尽くしていた。
それと同時に、憲法制定会議を頻繁に開設して討議を繰り返すと、統治力学の振り子が大きく揺れ過ぎることも予知していた。
建国の父たちは、モンテスキューが理想としていた「中庸な統治体制=混合政体」から多くを学んだ(合衆国憲法はJ. ロック(1632~1704年)の影響を受けて制定された、といわれることがあるが、これは誤診だと私は考えている)。
合衆国憲法が、House of the Senates(通常、「上院」と訳される元老院=貴族政的要素+連邦制)と House of the Representatives(通常、「下院」と訳される庶民院=民主政的要素)という権力分立、さらには、大統領という「民主化された君主」を置いたのは、そのためだった。

また、アメリカ建国の父たちは、人間の理性・知性の限界を知っていた。
人間は、有徳の存在ではなく、権力欲に満ちており、私利を追求するにあたって公共の利益を口にすること等々を建国の父たちは知っていた。
合衆国憲法は、人権保障にあたっても、“自然権を実定化する”とは考えなかった。
権利章典(Bill of rights)は、歴史的・経験的に徐々に姿を現してきた人の権利を確認するものだった(*注1)。

(*注1)アメリカ合衆国憲法における権利章典について
合衆国憲法にみられる「個人の自由と権利」は、自然権思想の影響をさほど受けてはいない。
そこでのカタログは、歴史的にそれまで存在してきた権益を確認したものである。
『憲法2 基本権クラシック』 11頁を参照願う。

[22] (3) 立憲主義のふたつのモデル - 法の支配か民主主義か


以上のように、一言で「近代立憲主義」という場合でも、一方には純粋理論型または超越型があり、他方には経験型・伝統重視型がある。
見方を換えていえば、
フランス型は 民意を統治過程に統合するなかで同時に自由を作り出すための憲法構造を理論的に追究したのに対して、
アメリカ型は 多元的な民意を統治過程に多元的に反映させる憲法構造を伝統のなかから発見しようとしたのだった。
アメリカ型立憲主義は、《個人の権利自由を擁護するための制度的装置として権力分立制を用意する》とよくいわれる。
他方、憲法の民主化を重視するフランスにあっては、議会に反映される一般意思のもとに行政と司法を置くことが、その眼目であると考えられた。
J. ルソー(1712~1778年)の影響だろう。
そのために、議会中心の統治が理想とされた。

これに対して、合衆国憲法は、モンテスキューの理論モデルを参考としながら、民主主義を万能としない権力分立制を導入した。
アメリカ憲法は、「立憲主義=法の支配=権力分立」という等式を基礎として制定されたのである。

立憲主義のモデルをアメリカに求める人物は、《立憲主義とは、法の支配と同義であり、それは民主主義の行き過ぎに歯止めをかける思想でもある》と考える傾向にある。
これに対して、立憲主義モデルをフランスに求める人は、「立憲民主主義」という言葉を多用する傾向がある。
後者は、「立憲」の中に権力分立と人権尊重の精神を含め、「民主主義」の中に、「国民主権」と議会政を含めているようである(民主主義の中に人権尊重を忍び込ませる論者もいる)。
が、それらの一貫した関連性をそこに見て取ることは困難であるように私にはみえる(自由主義と民主主義との異同については、後の [26] でふれる)。

私は、《立憲主義とは、誰が主権者であっても、また、統治権がいかに民主的に発動されている場合であっても、主権者の意思または民主的意思を法のもとに置こうとする思想だ》と考えている。
本書が「立憲民主主義」という言葉を決して用いないのは、そのためである。
法の支配については、後にふれる(⇒[31]以下)。

なお、立憲主義の必須要素として忘れられてはならないものが政教分離である。
近代の立憲国家は、宗教の教義にとらわれることなく、宗教的に中立であるところに成立したのである。

[22a] (4) もうひとつのモデル - ドイツの「法治国原理」


市民革命の歴史をもたないドイツにおいては、「立憲主義」といえば立憲君主制を連想させてきた。
このため、同国は「立憲主義」よりも「法治国原理」というタームを好んで用いてきている。
立憲主義と法治国原理とは厳密にいえば、異質の構想である。
両者の違いは、予想以上に大きい。
要注意点である。

英米的な立憲主義に必須の要素は、①権力分立、②「法の支配」または法の主権、③法律に基づく責任行政、④私法と公法との区別(国家/市民社会の区別)、そして、⑤司法手続による救済原則、である(これに、上にふれたように、政教分離が加わる)。
これに対して法治国原理の必須要素は、(a)司法権の独立、(b)権利救済のための司法手続の法整備、(c)国民の自由と財産の憲法保障、(d)議会の法律(法規)制定権、(e)行政の法律適合性原則、である。

上のふたつを比較すれば、法治国原理には、立憲主義における必須要素である法の支配と「国家/市民社会」二分法がみられない、という違いが浮かび上がる。
この違いは、ドイツにおいては、市民の「自由と財産」にとっての危険が君主からやってくることに対して、議会制定法を以って対処しようとしてきたこと、これに対して、英米においては、市民社会にとっての危険は全ての国家機関からやってくると想定して、自由の砦を議会制定法に求めようとしなかったことに起因する。

上のふたつの違いは、「市民社会」の捉え方とその評定の違いを反映している。
英米においては、市民の自由と市民社会の自律性とをポジティブに捉えてきたのに対して、大陸においては、次にふれるように、市民社会をネガティブに捉え、市民社会の欠陥を議会制定法によって補正していこうと、国家指導に期待して「法律国家」(法治国家)を国制のモデルとしたのである。


■2.近代立憲主義の転回 - 現代立憲主義へ


[23] (1) 市民社会の成立


立憲主義国家は、それが自然権であるかどうかは別にしても、人の基本権を最大限尊重するための統治構造をもつ国家である。
身分制国家から立憲主義国家への変転は、次のような革命的な思考が法の世界に定着したことを示している。
すなわち、
自由意思の主体となり得る人が、すべて等しく法主体、すなわち法人格または市民となる。権利の享有は出生に始まる、と法認されるに至ったのは、そのことをいう。
すべての人が法主体となった以上、意思能力・判断能力のある者は、その自由意思によって法的関係を形成してよい。
国家がその法的関係に関与するのは、当事者に故意または過失があるとき、または当事者の一方が約束を履行しないときである。
国家は公共的な(全員にとって利益となる)事業を行うために、自由意思の主体のあげた収益を一部強制的に取り上げることがある。課税と収用がこれである。この他には国家が自由意思主体の財産権を侵害することは原則としてない。

上の命題は、「身分から契約へ」という有名なフレーズで表されたり、近代法の大原則といわれたりする。
この命題は、視点を変えれば、国家が人々の自由や財産を法的に取り扱うにあたって、
(ア) 身分制に特有だった特権を承認しないこと、
(イ) 個々人が実際にもっている無数の違い(人種、出身地、門地ばかりか、能力、資産等々)も捨象すること、
(ウ) 個々人(私人間)の法的関係には、上の③以外、原則として介入せず、自律的決定に委ねること、
でもある。
自由で自律的な意思主体は誰でも契約の当事者となり得ることとなった。
このとき、人は「市民」(*注2)と呼ばれ、市民どうしの法的関係によって形成される自律領域は「市民社会」と呼ばれ始めた。

市民社会は、国家がこれまで保護してきた特権階級とその既得権を否認し、個々人(といっても、通常は成人男性)による水平的な法関係形成の自由を法認するところに成立した。
この市民社会は、身分制社会や統治機構における位階構造ではない点に注目され、「公(政治)的領域/私的領域」という公私二分論を支えてきた。

近代立憲国家の役割は、いつかは誰でも利用することになる公共財(警察・司法作用、道路港湾等の建設、経済自由市場の取引ルール)を提供すること、および市民社会の自律的な動きを円滑にさせる私法体系を整備することにあった。

国家の作用は、市民社会の機能とは性質を異にしていた。
市民社会は、国家のように特定の組織規律をもたない自律領域であり、統治の領域からはどんどんズレていった。
市民社会が成熟するにつれて、これまでのような(個人-家族-共同体-国家)という同心円のイメージではこの世を捉えきれなくなったのだ。
だからこそ、市民社会は国家の組織規律とは異なる領域だと強調されて、「国家/市民社会(私的領域)」の二分論となったのだ。
この二分論は、《国家は理由なく市民社会に介入することなかれ》という国家権力の制限のために援用された。

(*注2)「市民」の概念について
「市民」というタームは要注意語である。
法学でいうそれは、「○○市に居住する人」のことではない。
この言葉は、論者の思想傾向を表している。
民主主義が重要だ、と考えるデモクラットは、「市民」とは公的・政治的能力を有する有徳の人を指していうことが多い。
価値中立的な用法を好む論者は、自由で平等な存在として抽象化・理念化された存在をイメージしている。
マルクス主義の影響を受けた論者は、有産階級をもって「市民=ブルジョア」という。

[24] (2) 市民社会批判論


自律的な個々人と、自律的に形成される市民社会は、常に警戒の目で見られ、次第に非難の対象となってきた。
“市民社会は、道徳を忘れた、私的欲望を賞賛する社会とならないか”“経済的な豊かさが実現されても、精神的な荒廃を呼ばないか”と自由主義者ですら、警戒的だった。
その自由主義者の不安に乗じて出てきたのが、マルクス主義だった。

自律的な個人像に対する批判は、“個々人は決して自律的ではなく、貧富の差があるとき、富者の経済的力に屈する弱者だ”となった。
自律的な市民社会に対する批判は、“富者である資本家が貧者である労働者を搾取する階級社会である”“貧富の格差を拡大する不公正な構造をもっている”となった。
上のマルクス主義的批判は、相当数の自由主義者をも巻き込んで進んできた。
そして、近代立憲主義とその国家に対する、大きな批判のうねりとなった。
“近代立憲主義は、人間を形式的・抽象的に捉えるばかりで、階級間の経済格差・権力格差を看過している”“自由と平等という人権は、形式的に捉えられたとき、階級間対立を隠蔽するイデオロギーとなる”というわけだ。
換言すれば、「立憲国家の実態は、階級国家だった」というのだ。

この批判は、現状の生活に満足していない労働者、弱者を自称する人々に歓迎され、穏健な自由主義者たちを大いにたじろがせた。
“市民社会とは、資本主義社会だったのか”“自由主義は、資本主義という影の部分を引きずってきたのか”との見方が普及していった。
そして、こういわれることとなった。
《市民社会における弱者を救済することが正義であり、その正義は国家によって実現されなければならない》、
《近代立憲国家は、消極国家だった、が、今後は、市民社会に国家が積極的に介入して貧富の格差を是正しなければならない》、
《労働者の失業問題を解決するには、国家が総需要を増加させねばならない》等々。
「中性国家」は時代遅れと考えられた。
このターニング・ポイントとなったのがヴァイマル憲法だった。
その14条は「所有権は義務を伴う」と宣言した。
これは、財産権の国有・公有化を目指す社会主義からは一定の距離を保ちつつ、民主過程(議会制定法)を通して社会政策(ブルジョア社会を改良して社会的正義を実現すること)に乗り出す「社会国家」像を国制とすることの表明である。

[25] (3) 現代立憲主義


かくして、国家は「正義」を実現するための強制の機構となった。
ある特定の正義・目標を定め、それに近づくために強制力を用いる国家である。
この正義は、ときに「社会的正義」と呼ばれ、それを実現する国家が「社会国家」といわれる。
この正義原理を憲法に組み入れた国家は「現代立憲主義国家」といわれたりもする([74]もみよ)。

が、不思議なことに、「社会」「現代」が正確には何を指すのか、深く追究されることはなかった。
それは、暗黙のうちに「労働者を中心とする弱者、または、ブルジョア足らざる者に優しい世」を指した。
これらの者の実質的自由を実現することが社会的正義の意だと了解された(後の [74] をみよ)。
だからこそ、「市民法原理」に代わる「社会法原理」が喧伝されてきたのだ。
そして、いつのまにか、農民も、中小企業の経営者も、高齢者も、はたまたときに女性も、“自分たちの実質的な自由は国家によって保護されなければならない”と主張されるようになった。
《この種の主張は社会的正義の美名のもとに自己利益を図ろうとしているのではないか》
《社会的弱者という政治的強者が作られて、既得権の温床となっているのではないか》
と疑問視する向きは、「社会的正義」の前では「冷酷非情」との烙印を押されかねなくなってしまった。

現実を冷静に見直したとき、現代立憲主義国家は、身分上の新たな特権を産み出してしまったのだ。
これは法の支配を侵食しないではおかないはずだ。
近代立憲国家の憲法典は、人の類型として「臣民または市民」、「国籍保有者」そして「外国人」しか知らなかった(⇒[8])。
ところが、マルクス主義の勃興以降の憲法典は、各人の置かれた人的条件を意味する「身分(estate)」という類型を意識し始め、その一定種を強行法規によって保護してきたのだ。

法学者のみならず相当数の社会科学者は、望ましい経済水準や生活水準は人為的に達成できると信じてきたようだ。
そのため、国家は財政・金融政策を通して積極的に経済市場に介入すべきだ、とか、望ましい生活水準を実現するために国家が国民の所得を再分配してよい、と推奨されてきた。
これが「積極国家」といわれるものだ。
今のところ、積極国家の成果は乏しいどころか、マイナスに出ているようにみえる。
現代立憲主義の提唱者は、積極国家における官僚団の数と権力とが必然のごとく肥大すること、そのための行政コストは膨大であること、そのコストは結局のところ国民が負担せざるを得ないこと等々を軽視してきたようだ。

現代立憲主義国家または積極国家のマイナス面は、何も経済的コストばかりではない。
官僚団の規模権限、それを正当化するための無数ともいえる法令が、我々の自律領域に任されてきたはずの領域を閉塞状態に追い込んではいないか?
官僚団が我々の自由を管理の対象としてはいないか?
現代立憲主義国家の病巣は、予想以上に深いようだ。


■3.立憲主義にいう「自由」と「民主」


[26] (1) 民主制におけるフランス型とイギリス型


民主制というとき、イギリスにおいては代表制が前提とされ、自分たちの代表者として誰を送り込むか、という方法を指した。
この民主制の見方を「手続的民主主義観」と呼ぶことにしよう。
手続的民主主義観は、民主制といえば、代議制(間接民主制)というやり方のことだ、と考えてきたのだ。
また、イギリスにおいては、自由といえば、国家から強制を受けないことだ、と一般に了解されていた(*注3)。
つまり、人々が統治過程に参加することと、自由であることとは、直接の関連性はない、と考えられていたのである。
これに対して、絶対王制を経験してきたフランスでは、民主制といえば、人民の自己決定が念頭に置かれた。
そのため、間接民主制は直接民主制の補完物または次善の策だ、という主張が強い影響力をもった。
そして、“人民が自己決定することを通してより自由になるのだ”とも考えられた。
フランスにおいては、ローマ教会との争いのなかで、教権から自由に統治形態を自己決定することが「自由主義」の眼目であると捉えられたために、自由主義運動が民主制運動と結びついたのである。

民主制は人々の自由を保障する政体だ、という見方を「実体的民主主義観」と呼ぶことにしよう。
我が国の社会科学者の相当数が“民主制は個人の尊厳や自由を擁護しようとする政体だ”と今でも説いているのは、この影響を物語っている。
ところが、モンテスキューが指摘したように、「人々は、絶対君主制と比べて民主制の中に自由があると誤信したために、人民の権力と人民の自由とを混同したのだ」。
民主制は、統治のあり方を決定する方法に過ぎず、“個人の尊厳を保障する政体だ”という主張は、政治学のイロハのイを知らない人の言うことだと私は感じている(「司法権の独立や司法審査制は、民主制を実現するためにある」と述べる法学者の知性を私は疑っている)。

こういう見方に対して、実体的民主主義観に立つ論者は“フランスのみならず、アメリカにおいても同様に考えられているではないか”と反論するかも知れない。
アメリカでも相当数の社会科学者が実体的民主主義観に立っている。
それには、アメリカで“リベラリズム”といわれるとき、「社会民主主義」を指すことが多いという事情が影響している。
社会主義を連想させる“リベラリズム”という用語に代わって、“デモクラシー”が自由の保障までをも含む用語として日常化してしまったのだ。
それでも、アメリカでの指導的な政治学者は、実体的民主主義観によることはなかった。

(*注3)自由の意義について
自由は、徹底して妨害排除の力だ、という私の理解については、『憲法2 基本権クラシック』を参照願う。

[27] (2) 民主制の市場モデル


アメリカでの厳密な民主制理論は、経済市場モデルを基礎として打ち立てられた。
政治の生産者と、その消費者との関係として、次のように捉えるのである。
通常の財・サーヴィスの生産・提供のためには分業を必要とすると同じように、政治においても、その生産者と消費者の分業が必要であり、また、それは避けられない。
人民であれ、大衆であれ、多数の有権者全員が政治の決定者(生産者)となることはあり得ず、望ましくもない。
大衆または人民の適切な役割は統治者(政治の生産者)を競争選挙で選ぶことである。大衆または人民は、政治の消費者(被治者)として、政治の生産者(治者)の提供するサーヴィスを購入したりしなかったりして、生産者に有効な影響を与えることが出来る。
政治の生産者の役割は、大衆または人民の投票(消費)を目指して、日常的に相争うことにある。
選挙は、投票を獲得するための生産者間のレースであり、統治の生産者を有権者に選択させる方法である。

以上の見方を要約すれば、
《民主制とは、統治者となるべき人物を選出したりしなかったりするための方法だ》、
《大衆または人民が自己決定・自己統治することではない》、
《個人の尊厳や自由・平等保障とは、直接の関連性はない》
ということだ。
民主制とは、望ましい統治の方法・手段をいうのであって、統治の目的ではない。

こう考えれば、自由と民主とは独立の概念として捉える立場が妥当だ、ということが分かるだろう。
両者が、相互に独立の概念であることは、それぞれの反意語を考えれば了解されるだろう。
democracy の反対物は authoritarianism (=独裁制)であり、liberalism の反対物は totalitarianism (=全体主義)である。

[28] (3) 民主制の正当性


実体的価値から解放された民主制は、なぜ正当であるか?
この疑問に関しては、これまで、次のような解答が寄せられてきた。

(ア) 個人的自由にとっての安全装置であること。
これは、“民主制は自由な個人意思と国家秩序の間のギャップを最小限にする手続(やり方)だから正当だ”という理屈である。
つまり、民主制とは、誰もが一票を等しくもって、いつでも多数派となる自由をもつ政体である、というわけだ。
しかし、これも危ういところをもっている。
自由が守られるかどうかは、多数者の意思次第であって、民主制は自由にとって脆弱な防護壁に過ぎない。
(イ) 長期的にみて、多数者意思を形成するよう国民を教育する効果的な方法であること。
これは、“知見を得た選挙民をつくるには、選挙民に政治の消費者として実際に行動させることが一番だ”ということでもあろう。
しかし、投票につき責任を問われることのない選挙民は、公益を口にしながら私利を図ろうと談合することを覚え、実行するだろう。
民主制の危うさは、この点にある。
(ウ) 平和的な政権交代の方法であること。
すなわち、政治的な消費者の票を獲得せんと相争う候補者に対して、消費者が投票したりしなかったりして、政治的生産者を平和裡に交代させ得ること。
この点こそ、自由主義者の最重視する民主制の正当化理由である。

[29] (4) 自由主義の意義


「民主主義」と訳出されるデモクラシーは主義主張のことではなく、正確には政治体制を表す用語である(それは「民主制」と訳出されるべきだった)。
これに対して、リベラリズムすなわち自由主義は、まさに“主義”にかかわる。

自由主義とは、個人の自由を最優先する思想体系である。
それが、国家統治との関連についていわれるとき、
《国家がもっている強制力を最小化すれば、個々人の選択肢は最大化される》、
《そのためには国家の統治権は厳しく制限されなければならない》
という主張となる。
国家の強制力を最小化するための重要な視点は、次の3つである(*注4)。
第一は、 国家とその統治活動を法の支配のもとに置いて、国家の強制力の恣意的発動を統制し、法的予見性・安定性を最大化することである。
第二は、 国民の自由な活動は、事前の公法規制に服することなく「市場での自由な交易」に委ねられるべきだ、と考えることである。自由な市場には、経済市場だけでなく、「思想の市場」も含まれる(自由主義者といえども、必要最小限の事後規制を否定しはしない)。
第三は、 どのようなものであれ、国家による独占(たとえば消防活動や郵便事業の独占)または独占の法認(特定企業による営業独占、労働組合による労働の独占、法曹による法律事務の独占)に、警戒の目をもってみることである。国法によって保護される独占は市場における自由競争を妨げるからである。

以上の第一ないし第三は、相互に無関係ではない。
強制国法によって保護される独占は市場における自由競争を妨げるからである。
(※注釈:自由主義は)機構としての国家の活動のみならず、国家の経済政策をも法の支配のもとにおいて、透明なルールに基づいた事後規制社会を考えているのだ。

では、法の支配とは何か?

(*注4)自由主義について
自由主義が「自由」をどう捉えているかについては、『憲法2 基本権クラシック』 [19] を参照願う。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第四章 立憲主義と法の支配 第五章 立憲主義の展開
デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る
リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜

■要約・解説・研究ノート


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第7章 法の支配

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第7章 法の支配    本文 p.41以下

<目次>

■1.「法の支配」の捉え方


[30] (1) 法の支配とは何でないのか


「法の支配」は、多くの人が口にする基本概念でありながら、その実体につき合意をみない難問である。
とはいえ、法の支配の目指すところについては、論者の間におおよその合意がある。
“その目的は、可能な限りすべての国家機関の行為を法のもとにおいて、その恣意的な活動を統制し、もって人々の基本権を保障せんとするところにある。”
が、この機能論的な説明は、法の実体の解明にはなっていない。

また、法の支配とは何でないのか、という疑問についても、法学者の間で合意がみられる。
その解答としては、次のふたつがある。
第一。 “法の支配は、絶対君主の統治にみられたような「人に支配」、すなわち、ルールに基かない、その場当たりの恣意的な権力発動を通して人々を支配することではない。”
第二。 “法の支配は、法治主義ではない。法治主義とは、国民の権利義務に変動を与えるとき、その国家意思は議会の意思を通して実定法化されるべきこと、そして、行政はその議会法を執行し(“法律なければ行政なし”)、裁判所は議会制定法に準拠して法的紛争を解決すること、をいう。”

[30続き] (2) 法の支配と法治主義


上の第一の「恣意的な人の支配」に代わろうとしたのが第二の法治主義である。
法治主義(*注1)は、民主的な国民代表機関に法規を創造する権限を集中さえ(法規という特異な概念については、[111]でふれる)、非民主的な行政機関と裁判所とを議会制定法(人為法)のもとに置こうとする民主化の思想だった。

「法の支配」にいう法は、民主的機関である議会の制定する法律をも統制し、主権者の意思をも統制する機能をもっている。
この機能については、法学者は異論を唱えないだろう。
未解決の争点は、“その狙いのために、法の支配にいう「法」がいかなる属性をもっているのか”というところにある。

法の支配を考えるに当たって重要なことは、
《人権または個人の尊厳をよりよく保障することが、法の支配の云いたいところである》などといった機能論も、
《法の支配は人の支配でもなく、法治主義でもない》という消去法も、
上の問いに答えてはいない、と気づくことだ。
《法の支配とは、何であるのか》真剣に正面から検討することが必要である。

(*注1)「法治主義」について
法治主義なるタームは、日本法学の造語だ、といわれる。
我が国の行政法学は、ドイツでの「法治国諸原理」のうち、「行政の法律適合性原則」を指すものとして、このタームを使用してきた(「法治国原理」については、[22a]をみよ)。
「行政の法律適合性原則」は、ドイツにおける法実証主義と不即不離であり、公法についていえば、次のような思考を基礎としている。
(1) 法学の任務は、自由意思の発動の系譜・手続をたどることにある。
法令の中味についてその正邪を評定しようとすれば、価値相対主義のもとでは「神々の闘争」となってしまう。
(2) 議会制定法、すなわち法律は、憲法所定の手続に従って発動された議会意思の所産である。
命令は、行政機関(または君主)意思の所産である。
(3) 国民の自由と財産にとっての“危険は君主からやってきた”。
この危険に対処するには、命令という国法形式を、法律という国法形式のもとに置けばよい。
国法形式の優劣関係は、客観的に認識できる。
(4) 法律(議会制定法)によって行政活動を統制する国家が「法治国」である。
我が国の公法学は、上のように、法実証主義のもとの「法律 - 命令」の形式的効力関係の捉え方を「形式的法治主義」と呼んできている。

[31] (3) 法の支配と正義


法の支配とは、《主権者といえども、人為の法を超える高次の法のもとにある》という思想を起源とする。
それは、法(law)と立法(legislation)との区別のもとで、前者が後者を指導する、という思想である。
高次の法 higher law とは、[11]でふれた“fundamental law”と同じである。
Higher law または fundamental law の内容は、《正義に適っているルール》を指してきた。
ところが、「正義」の捉え方は歴史によって変転し、論者によって様々となっているために私たちを混乱させているのだ。
法の支配を正義と関連づけるとき、その捉え方には、大きくふたつの流れがみられた。
第一は、 問題の法令の実質・内容を問う立場である。
正義の種類からいえば、実質的正義論に属する。
その典型的立場が自然法論である。
第二は、 問題の法令の形式を重視するタイプである。
正義の種類でいえば、形式的正義論である。
これは、問題の法令が、どのような特定の人々をも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で普遍的な形式を満たしているか否かを問うのである。
これは、《人為法が普遍的に妥当する形式をもっていれば、不正を最小化できる》といいたいのだ(この点については [35] でもふれる)。

長い歴史のうえで、盛んに説かれてきたのが、第一の立場だった。
神こそこの世の中心だ、と考えられていた時代にあっては、不可謬の神の意思がこの世の法則決定者だと考えられ、人間こそこの世の中心だと考えられるに至った時代にあっては、人間の理性がこの世の法則を決定づけている、とみられた。
神の意思や人間の理性と、法の支配とを関連づける立場は、“法とは実質的正義を体現しているものをいう”と理解しているのである。
実質的正義に依拠する法の支配論は、今日においても根強い。
なかでも、人間の理性的能力を強調する見解は、“恣意を理性によって統制すべし”とする法の支配の考えと調和的であるために、人々を納得させがちである。
が、「理性/恣意」の峻別は容易ではない。
「理性」は、実に多義的で、恣意的に用いられてきた。
また、人間が理性の塊ではないことは、C. ダーウイン、G. フロイトによって暴露された以上、人間理性と正義(法)とを関連づける理論の信憑性は疑わしい。
かといってこれ以外に実質的な正義の中味をいうとなると、常に論争を呼ぶ「神々の闘争」となって決着はつきそうもない。

そのために、法の支配と密接不可分な正義概念を、手続的に、または、形式的に捉えようとする論者が登場するのである。
「実質的正義/形式的正義」という正義論のふたつの流れは、国法の役割を考えるに当たって、無視できない違いをもたらしている。
実質的正義を強調する論者は、“国法は、ある実体をもった正義を実現しなければならない”と、正義を実現されるべき最適規範と捉えがちとなる。
これに対して、形式的正義を強調する論者は、“国法は、誰であれ、無作為に抽出した受範者に等しく適用される形式をもっていなければならない”と主張するだろう。
この主張には、《正義は積極的に実現されるべき目標ではない》という含意があるのだ。


■2.「法の支配」の理論と憲法典


[32] (1) 法の支配の理論化


法の支配を脱実体化しながら理論体系としたのが、イギリスの法学者A. ダイシー(1835~1922年)である。
彼は、臨機(場当たり)でなく、誰もが知りえて、特定可能な対象にではなく、誰に対しても等しく恒常的に適用され得る法の形式を、「正規の法 regular law」と呼んだ。
それは、《類似の事案は同じように法的に解決される》という平等原則の中から浮かび出た形式である。
それは、多年にわたる実践と蓄積のなかで、次第しだいに、人間が獲得してきた法的知識だった。
その法的知識を専門的に修得するのが法曹であり、なかでも裁判官である。
身分の独立保障をうけてきた裁判官は、当事者の主張に耳を傾けながら、正しい解決のために、誰に対しても等しく適用されてきた論拠を発見するのである。

公正な判断を求めようとする法的紛争の当事者は、誰であれ、この裁判の手続にのるよう求められる。
ダイシーは、このことを《何人も通常の裁判所の審判権に服する》と表現した。
フランスと違って、イギリスが行政裁判所という特別の裁判所を持たないことが、誰に対しても特権を与えない正規の法の表れでもあったのだ。
さらに、ダイシーにとって、国家の強制力を「人権保障規定」によって統制しようとすることは、必要でないばかりか、望ましくもなかった。
自由や権利は、正規の法の展開がもたらすはずのものであって、人為的な法規定によって与えられるべきものではなかった。

ダイシーの法の支配理論は、上のように、
正規の法が人為法に絶対的に優位すること、
誰であれ、通常裁判所の審判権に服すること、
自由や権利は、正規の法によってこそ守られること、
の三点を説いたのだった。

[33] (2) 法の支配の突出部


形式的正義論をベースとする法の支配の考え方には、
(ア) 法は特権を容認せず、一般的普遍的な形式をもたなければならない、
(イ) 法は公知(誰もが前もって知りうるもの)で恒常的でなければならない、
(ウ) その適用に矛盾があってはならない、
という命題が伴っている。

これらの命題は、法の予見性・安定性に資し、経済自由市場における交易を一挙に促進することとなった。
自由市場の生育を可能としたのは、法の支配という憲法上の基本概念だった。

法の支配が、経済的自由、身体・生命の自由その他の自由へと拡大するにつれて、自由主義国家の基盤が出来上がっていったのだ。

法の支配は、経済市場における諸自由だけでなく、国家の刑罰権と課税権とを有効に統制する論拠となった。
罪刑法定主義と租税法律主義が、法令の遡及的適用を排除したり、慣習を法源足り得ないとしたり、法令の裁量的適用に警戒的であるのは、法の支配の思想が、一部実定法上に突出したためである。
それでも法の支配にいう法は実定化され尽くすことはない。

法の支配は、我々の権利義務に関する実定法(人為法)を指導するメタ・ルールである。
法の支配という思想は、あるルールを実定化するにあたって実定法を先導する上位のルールである。
たとえ憲法を含む実定法が法の支配を謳ったとしても、それこそが「自己言及のパラドックス」にすぎないのだ([11]での脚注参照)。

[34] (3) 法の支配と憲法との関係


法の支配は、国家の不正義を最小化するための理念として、歴史上様々な論者がそれに肉付けしてきた。
この理念は、sovereignty、なかでも、君主の有してきたそれをまず統制しようとした。
sovereignty は、「主権」と訳出されるが、この訳語では伝えきれないニュアンスをもった言葉である。
それは、「主権」というよりも、絶対権または最高権といったほうがいいだろう(⇒[37])。

憲法は、最高・絶対の主権を統制するための「基本法」として、歴史に登場した。
このことからも分かるように、憲法は、法の支配という構想の必須部なのだ(が、しかし、憲法が法の支配にいう法ではない)。

主権の帰属先が君主から国民になった場合でも、法の支配の理念に変更はない。
今日においても、すべての国家機関、なかでも国民の主権と、国民代表機関である議会とを、法のもとにおく必要があるのだ。

そのために、憲法は法の支配の理念の一部を組み込もうとする。
統治の機構においては、 ①独立の保障される司法部、②特別裁判所設置の禁止、③憲法条規の最高法規性の宣言、がこれであり、
権利章典の部においては、 ①適正手続保障、②遡及処罰の禁止、③公正な裁判の保障、等がこれである。
もっとも、こうした個別の条規を列挙することは、憲法と法の支配との関係を考えるにあたっては二次的な意味しかもたない。
法の支配と憲法との関係を考えるに当たって最も重要な視点は、権力分立構造という全体的なパースペクティブ(※注釈:見通し、展望、大局観)を持つことだ。
権力分立構造は、ある時点から、違憲審査制または司法審査制の実現によって大きな「変容」をみせるが、この「変容」も、法の支配と関連している(この点に関しては、後の [55] でもふれるが、しかし、違憲審査制は法の支配の内容ではなく、法の支配を有効とするための装置である)。

教科書の中には、法の支配について、
(ア) 憲法の最高法規性、
(イ) 基本権の尊重、
(ウ) 適正手続保障、
(エ) 司法審査制、
を列挙するものがある。
もし、この思考が法の支配の論拠を日本国憲法典に求めようとしているのであれば、ひとつの体系内に根拠を求める「自己言及のパラドックス」に陥ってしまっている。
もし論拠を示したものではなく、“法の支配がかような諸点に現れている”というのであれば、(イ)と(ウ)はダブルカウントであり、(エ)は法の支配の内在的な要素ではなく(英国には、司法審査制はない)、法の支配を有効にするための手段に過ぎないことの説明に欠けている。

このように、憲法と法の支配との関係をみるとしても、要注意点は、《憲法典という実定化された法が法の支配にいう“法”ではない》ということである。
確かに、憲法典は法の支配の理念を一部活かしている。
が、しかし、「憲法典=法の支配」ではない(⇒[82])。

[34続き] (4) 法の支配と主権との関係


《法の支配は憲法典や主権をも統制する》とのテーゼを理解するためには、次の(ア)~(ウ)に留意しておかなければならない。
(ア) 一般の教科書によれば、国民主権にいう「主権」とは、憲法制定権力のことを指す(*注2)(この点については、後の [38] [39] でふれる)。
(イ) 主権は、国制を意味する憲法を創出する力であり(憲法を作り出す力としての主権。以後、憲法制定権力を「制憲権」という)、憲法典は、この制憲権によって作り出される([41]もみよ)。
(ウ) 〔制憲権→憲法典〕という理論上の順序関係を考えれば、憲法典によって主権を統制することは出来ない([46] もみよ)。

では、「憲法典によって主権を統制することは出来ない」とき、主権(制憲権)は何によって規範的な拘束を受けているのだろうか?
実体的正義論者は、自然法、人間の理性、人間の尊厳、等をあげるだろう。
これらの実体的要素はいずれも客観性に欠けるとみる批判的な論者であれば、「主権者の自己拘束だ」というかもしれない。
それらの解答を、私はいずれも受容しない。
《主権を規範的に統制するもの、それが法の支配だ》、これが私の解答である。
法の支配にいう「法」とは、実定的な法ではなく、最低限の形式的正義のことだ、と私は理解している。

(*注2)主権・制憲権について
主権や制憲権の意義にふれない段階で、読者は本文のような記述を理解し難いだろう。
制憲権というテーマを読了してこの部分をもう一度読んでみれば、真意が判明するだろう。

[35] (5) 法の支配と法律との関係


法の支配は、先に触れたように、国民の主権や、国民代表機関である議会の権限(法律制定権)をも統制する理念である。
では、法の支配は、議会の立法権(法律制定権)をどのように統制するか?

実体的正義論者は、この問に関しても、主権を統制するものについて与えた解答と同じものを挙げるだろう。(※注釈:自然法、人間の理性、人間の尊厳、等)
「主権の自己拘束」説に立つ論者は、ここでの問に対して「議会の自己拘束だ」と答えるだろうか。
どうもそうではなく、解答は与えられていないようだ。

私のような、形式的正義論者は、こう解答するだろう。
《議会が法律を制定するにあたっては、一般的普遍的な形式をもたせなければならない》。
この解答は、日本国憲法41条の「立法」の解釈に活かされるだろう(後述の [116] を参照せよ)。

立法(法律)が一般的普遍的であるという形式を満たすとき、それは第一に、一定の要件を満たす限り誰に対しても適用され得るとする点で道徳的にみて正当であり、第二に、予見可能性・法的安定性を増すという点で経済的にみて合理的である。

法の一般性・普遍性とは、法規範の名宛人が事前に特定可能でないことをいう。
法の支配にとって最も警戒され続けてきた点は、法が人的な属性に言及しながら、特定可能な人びとを特別扱いすることだった。
法の支配は、人的な特権を忌避して、誰であれ自分の限界効用を自由に(国家から公法規制や指令を受けないで)満足させてよい、とする思想でもあるのだ。

近代法が、なぜ人間を「人」または「人格」と抽象的に形式的に言い表したのか、我々は近代法のこの発想の基本をもう一度振り返ったほうがよさそうだ(⇒[23])。
そうすれば、正義の女神が、なぜ目隠しをしているのか、すぐに理解できるだろう。
正義とは不正義を排除することなのだ。

ところが、現代法は「強者/弱者」という曖昧な二分法を強調することによって、「人」というケテゴリーの中に様々なサブ・カテゴリーを作り上げて社会的正義を積極的に人為的に(行政法や社会法という実定法を通して)実現しようとしてきている(⇒[25])。
これが正義というものだろうか?
「社会的正義」とは一体何だったのだろう?


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第四章 立憲主義と法の支配 第五章 立憲主義の展開
「法の支配(rule of law)」とは何か

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第8章 国民主権あるいは憲法制定権力

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第8章 国民主権あるいは憲法制定権力    本文 p.49以下

<目次>

■1.国民主権の意義と展開


[36] (1) 問題の所在


国民主権は、我々には馴染み深い言葉である。
我々は、幼い頃から「国民が主権者だ」と教えられ、その論拠として日本国憲法の前文を見るよういわれた。
それを読んで納得してきた。
前文ばかりか、上諭、1条には「日本国民の総意に基」づいて、・・・・・・との表現があることも我々は知っている。
「総意」という表現は、あたかも国民が実在し意思をもっているかのような印象を我々に与えてきた。

そういえば、重大な政治問題の解決に迫られたとき、ある政治家(政党)は、“主権者である国民が○○を望んでいる”といい、別の政治家(政党)は、“主権者である国民が○○を許すはずはない”という。
国民が一体として存在して、何かを望んだり望まなかったりしているかのようだ。
ところが、主権者の一人であるはずの我々は、政治家たちとは全く別の◇◇という選択肢を希望していることが多い。
そのとき、我々は、“国民であるようで国民ではなく、主権者であるといわれながら主権者ではない”と、もどかしく感じるだろう。
実は、国民なるものは、実在しないのだ。
実在するのは、個々人だけである(人民が実在する、などと信じているのは、ナイーヴなルソー主義者だけだ)。
我々が薄々感じてきたもどかしさの原因はここにある。
実在しないものを実在するかのように、意思できないものが意思できているかのようにいうトリックに、もどかしさの原因があるのだ(⇒[4])。

「国民」の政治的選好は、個々人が投票する機会を与えられたとき、多数の票の中に初めて浮かび上がる。
それとて、「国民」の選択ではなく、多数者の選択に過ぎない。

「国民」が実在しない擬制であるのと同じように、「主権」も実体のない、空虚な概念ではないか?
憲法学界の泰斗が「国民主権は建前だ」と率直に述べたのは、そのためではなかったか?

“いやいや”と貴方は考え、「我々は、選挙権者として、度々投票しているではないか、これが国民主権というものだろう」と解答するかも知れない。

“ところが・・・・・・”と私は、こう反論するだろう、
《私たちが、投票し、政治的な選択を時に為すことは、「国民主権」ではなく、民主制というべきだ》、
《我々は民主制の中で統治されているからこそ、間歇的に投票するのだ》、
《投票していることについて、わざわざ実体のない「国民主権」などと大迎なことをいわないほうがいい》
と(⇒[27])。

それでも、「社会契約」のことを思い出した貴方は、“社会契約によって私たちが国家を樹立したことが「国民主権」だ”と、別の解答を見つけるかもしれない(⇒[7])。

国民主権とは、一体、何を意味するのか?
国民とは何をいうのか?
主権とは何をいうのか?
まずは、主権の意義から考えてみよう。

[37] (2) 主権の意義


我々にとって、最も馴染み深い主権といえば、国際社会における国家の対外的独立性だろう。
独立性が国の空間に表されたとき、領土・領海といわれ、この空間が他国によって侵害されたとき、《主権の侵害だ》といわれる。
これを「国家のもつ主権」と呼んで、「国家における主権」とは区別すると分かりやすいだろう。
次に、国家法人説にたったとき、国家という法人のもつ権利が“主権だ”といわれることもある。
ただし、厳密にいえば、この権利は、主権と称すべきではなく、「国家の統治権」と呼ぶほうが適切である。
「国民主権」にいう主権は、上のいずれでもない。
それは、国家(法人と捉えるかどうかに関わりなく)が有する何らかの権限を指すのではなく、国家における統治のあり方を最終的に決定する法力(権限)を指すのである。

これまで、憲法学を含む法学は、権限を分析するにあたって、ある法主体Aが他者や物を支配したり、影響を与えたりする「意思」をキー・タームとしてきた(その割には私は、「意思」の意味合いを正確に説明する論者に出くわしたことが未だかつてない)。
国民主権というタームは、すぐ後にふれるように、君主という自然人の恣意的意思の発動に取って代わるものだった。
君主というひとつの法人格を国民というひとつの法人格に代えるのだ。
そのために、“国民主権は、君主の意思に代わって、国民が意思主体となって、統治の最終的な決定を為すことだ”といわれるのである。

抽象的な観念にすぎないはずの「国民」を語るにあたって、意思なるタームが使用されてきたからこそ、「国民」は実体化され、あたかも実在して意欲するかのように扱われたのだ。
この実体化の誤りに陥らないためには、我々は、意思というタームや、“国民が主権を持つ”という言い方は、あくまで擬制にすぎないということを重々承知しなければならない。
できれば、国民に関しては、「統一的意思」「自己決定」などといった言葉を避けるべきだろう(本書は、できるだけそのように努めている)。

[37続き] (3) 主権の歴史的展開


なぜに、「主権」は、上のように多義的であるのか?
それは、「主権」が次のような歴史的な背景を背負ってきたからだ。
主権と邦訳される sovereign の概念は歴史上さまざまな変転をみせてきた。

まず、中世ヨーロッパにおいて sovereign とは、重層的統治の中で、「優越的な支配権」または「第一の高位を有する者の地位」を表した。
この用法は、いまでもイギリスに残っている。
「議会主権」という言い方がそれである。
そればかりでなく、国家法人説において、国家の統治機関の中で最高意思の決定機関をもって「主権者」というときも、同様の用法である。
例えば、“選挙人団である国民が主権者だ”という日常的にお馴染みの用法がそれである(この用法は、我々の「国民主権」の捉え方を混乱させる元凶だ、と私は考えている)。
その後、国王が、一方で、国内の封建諸侯のもつ支配権を統合し、他方で、法王からの独立を勝ち取るなかで絶対国家を成立させると、sovereign とは、国王の至上権・絶対権を表す言葉となった。
その用法を初めて示したのが、J. ボダンの『国家論』6編(1576年)である。
ボダンは「国外のあらゆるものは王を拘束しえず、・・・・・・国内のすべての権力は王からの派生物にすぎない」と説き、対外的な独立性、対内的最高性のみならず、それらの始源的性格にも言及した(「始源的」とは、伝来的ではない、それ自らが因子となっていることをいう)。
これが君主の主権は法の外に出る絶対権だとする理論である。
この君主主権を市民革命が打倒した。
その際、君主という一自然人の有する命令権としての主権に対抗するために、“市民の総体が主権者だ”という、新しい主権概念を君主勢力に叩きつけた。
この主張は、これまでの君主という一人格の意思を、国民という一人格の意思にすげ替える単純なアナロジー(※注釈:analogy 類推(作用))だった。
それでも、君主主権のもとで他律的に生活することに倦んだ当時の人々にはその新理論は新鮮で、大きなインパクトをもった。
そして、旧体制勢力を打倒した。

ここにおいて主権は、国家の対外的独立性・対内的最高性を表すものから、国家における統治権力が国民の意思に発するという概念へと変容した。
これが「国民『主権』」といわれる際の用法となる。

国民主権原理を実現した国家が、先にふれた「国民国家」であり、その後の変容も既に述べたとおりである(⇒[7]~[8])。
この国民国家は、国民の場合と同じように擬人的に捉えられ実体化されて、国家自身が対外的な意思主体だ、と理論構成された。
だからこそ、“団体としての国家は、始源的な意思力を持ち、対外的には最高・独立の意思力=主権を有している”と、今でもいわれるのである。

[38] (4) 国民主権の意義


“国民主権の意義は、フランス憲法史に見出し得る”といわれることが多い。
フランスにおける国民主権論争は、「国民」が国家統治のあり方を最終的に決定するだけでなく、恒常的に決定し続けるには何を必要とするのか、を巡って展開された。
論争があるとはいえ、その共通の出発点は、社会契約説だった。

急進的な思想家・政治家たちは、“社会契約締結の状態を、いつでも回復できる状態に置いておくこと”を望んだ。
彼らは、国家統治のあり方が代表者によって決定されたり、それが相当期間維持されたりすることを忌避した。
そのために、彼らは、身分制議会、自由委任・純粋代表制(間接民主制)、制限選挙制等に反対した。
そのための理論上の武器が「人民主権論」だった。
それは、“社会契約締結に参加した「市民=シトワイアン(正確には「公民」)」が共通目的へと結集したとき「人民=プープル」として一体的意思主体となる”という理論である。
“実在する人民が自ら政治参加し、自らが決定者となる、これを統治の原則とするときが「人民主権」だ”というわけだ(人民 peuple は、貴族に対する一般庶民または恵まれない人々という語感をもっている)。
これに対して、穏健派の思想家・政治家たちは、社会契約締結前の状態と、憲法制定後の状態とを異質にすることを望んだ。
彼らは、社会契約の理論が革命の理論と容易に結びつくことを知っていた。
そのために彼らが用意したのは、“全員が同意したかも知れない社会契約と、憲法協約とは別物だ”という理論だった。
憲法協約段階では、その制定のために特別に選出された代表からなる「憲法制定会議」の審議・決定に委ねてよく、制定後の国制の運営も純粋代表の手に委ねてよい、というわけだ。
さらに、「国民主権」原理を革命の理論から引き離すために、国民なる概念が実体化されないよう意識された。
そこで、先の「人民=プープル」とは区別して「国民=ナシオン」という言葉が用いられた。
「国民主権」の論者は、この原理と、普通選挙制、代表制、議会の構成(一院制か二院制か)等を直接関連づけなかった。

[39] (5) 憲法制定権力理論


国民主権をめぐる、「人民(プープル)主権/国民(ナシオン)主権」の違いは、制憲権の捉え方に最も特徴的に現れた。

[A]

制憲権という聞き慣れないタームに接した我々は、「制定」という言葉が用いられているため、それは「起草された憲法典について審議し決定することだろう」と理解しがちである。
ところが、憲法制定権力にいう「憲法」とは、憲法典のことではなく、先にふれた「国制」を指す(ということは、「制定」権力という訳語は誤導的なのだ。ある有名な憲法学者は、敢えて「憲法設定権力」なる言葉に拠ったところ、読者からミス・プリントだ、と指摘されたという)。

制憲権とは、国制を決定する権力をいうのだ。

国家の根本構造を意味する国制は、社会契約=全員の合意意思によって決定される。
これが、当時、強い影響力を持った理論であり、特に、市民革命にとって説得的な理論だった。
実際、アメリカ革命とフランス革命は、制憲権発動の産物だと理解された。
それは、ナマの実力の発動でもあったと同時に、規範的意味での国制の決定でもあった。

[B]

国民の意思に淵源をもつとする制憲権論を、社会契約と誤って結びつけながら、最初に実体憲法で高々と謳ったのは、マサチューセッツの憲法だった。
その前文に曰く、「政治的統一は、個人の自由意思による結合によって成立し、それは社会契約の結果であり、この契約により一定の法律に従い一般的利益に合致して統治が為される目的のもとに、人民の全体が各市民と、各市民が市民全体と契約を結ぶのである」。
ところが、その起草者J. アダムスの考えたほどには制憲権論は単純ではなかった。

[40]   [C]

フランスにあっては、制憲権は「人および市民の権利宣言」(フランス人権宣言)にその大枠が実定化され、“権利を保障し、権力分立を定める”立憲主義憲法を制定するよう求めた(⇒[20])。
その作業のために憲法制定会議が召集された。
身分制議会が憲法を制定できない点については、当時の指導者たちの間に合意があったからだ。

同会議は、制憲権の法的性質を論争した。
ある論者は、“制憲権とは実体的にも手続的にも法的制約に服さず、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができる”と主張した。
これは、先にふれたように、社会契約の締結状態を恒常的に残しておきたい、という急進派の理論だった。
穏健派はこの見解に反対だった。
実定法を超越すると同時に、憲法をいつでも改変できるものとする実定憲法破壊的な法的性質を制憲権に与えることは、革命の火種を常に抱えるがごとき危険な理論だった。
そこで、穏健派は、こう主張した。
“制憲権は、いったん発動されて実定憲法を制定した後は、実定憲法を支える正当性の契機となる”
“改正権は「憲法によって作り出された権限」であって、「憲法を創り出す権力」とは異なる”

実際、フランス1791年憲法は、制憲権を実定憲法の正当性原理として凍結させたばかりでなく、改正権から峻別し、さらには、改正権の発動についても厳格な手続を踏むこと、および、改正内容にも限界のあることを明示したのだった。

[D]

同時代のアメリカにおいても、フランス類似の展開を示した。
革命当時は、人民主権(popular sovereignty)による憲法制定権力(constitution-making-power)の理論は、強い影響力をもった。
が、その危険な性質は次第に気づかれていった。

先にふれたように、歴史上初めて制憲権の理論に依拠したアメリカではあったが、そこでの人民主権の理論は、《すべての権力が人民に由来する》というところで立ち止まった。
経験主義的な発想を重視した憲法制定会議は、人民自らが主権を行使するわけではないこと、人民は多元的な集団から成っていることを知っていた。
合衆国憲法は、直接民主制とはならないよう、様々な工夫を施した。
例えば、大統領や上院議員の間接選挙制、二院制、そして、司法審査制もそのためだった。
さらに、公職者の一年ごとの改選、憲法改正の簡単な手続、仰々しい権利章典は意図的に避けられた。
建国の父たちが、合衆国憲法の統治体制を、わざわざ「共和制」(Republican Government)と名づけて、民主政体から区別したのはそのためだった。

[41]   [E]

制憲権の理論は、人またはその集合体の意思が権力(power)または権威(authority)を創り出す、という近代合理主義哲学の法学版だった。
それは、社会契約論の影響を受けて、“意思の発動の源が誰であるかに応じて、作り出される権力または権威に序列ができる”とする理論でもあった。
「人民の意思>憲法制定会議の意思>議会の意思」という序列である。

このことを理論として明確にしたのが、ドイツの憲法学者、C. シュミットだった。
彼は、国家の構成員であるとの政治的な自覚をもった国民が、その自覚のもとで、国家全体のあり方を決断する政治的意思を「制憲権」と呼んだ。
彼にとってその権力(※注釈:憲法制定権力)は、ナマの実力で構わなかった。
国民が意欲すれば、そこに統一的秩序と規範とが生ずる、とシュミットは謎に満ちたことを述べた。
これが、「決断主義」と呼ばれるシュミット特有の立場である。

シュミットは、国民のかような意思の所産を Verfassung (憲法、彼の場合、「憲政」と訳すべきか)と呼んだ。
この基盤の上に、個別条規の統一体たる「憲法律」(Verfassungsgesetz)が制定される。
この憲法律は、Verfassung と呼ぶに値しない条規を含むが、それらをも含めて“憲法律だ”といわしむるのは、Verfassung の力だ、というのだ。

憲法律は、特定の国家機関に、立法権、司法権・・・・・・といったように、ある権限を付与する。
憲法改正権も憲法律が付与した権限である。

上のように、シュミットは、〔政治的意思としての制憲権→憲法→憲法律→憲法律によって付与された権能(そのひとつが改正権)〕という公式を作りあげた。
これは政治的意思が階梯的な規範を作り上げていくことをいいたかったのだ(この公式は、憲法改正の限界問題に対してひとつの解答を与えるだろう。この点については、後の[46]でふれる)。
この理論は、意思の発動手続だけに注目して形式的効力の軽重を語ってきたドイツ公法学(いわゆる法実証主義)のなかでは、異彩を放った。


■2.日本国憲法における国民主権


[42] (1) 古典的学説


上にみたように、国民主権を正確に理解することは、我々の予想を裏切るほど困難である。
学説も、次のように多岐に分かれ、主権論争を繰り返してきたのも、むべなるかな、といわざるを得ない。

[A] 最高機関意思説


日本国憲法制定当時は、なお国家法人説が支配的だった。
この見解によれば、国家の諸機関のうち、優越的な政治的決定権を有している機関が「主権者だ」と捉えられた。
この把握の仕方が、先の[37]でふれた「最高機関意思説」だ。
この立場からすれば、日本国憲法のもとでの主権者は、“機関としての国民(選挙人団)だ”となる。
この見方は、我々の常識にもなっていて、疑問を寄せ付けないところがある。
ところが、この説には、次のような難点が残されている。

今日の多くの憲法学者は、国家法人説に批判的なはずである。
というのも、国家法人説は、“国民でもなく、君主でもなく、国家自体が主権を有する団体だ”といいながら、当時忍び寄ってきた国民主権論を否定するイデオロギーだったからだ(⇒[4]をみよ)。
それは、国家主権の万能性を説いてきた。
万能の国家の中で国民が有するといわれる「主権」は、厳密にいえば、統治権の一部ではないか?
選挙人団の範囲と資格は、公職選挙法という法律によって定められる。
法律によって決定された人的範囲・資格をもって、“憲法上の主権者だ”ということは、法律から憲法(国制)を理解するという本末転倒の論理ではないか?
“主権者は選挙人団だ”と考えるとすれば、国民のなかに主権者と主権者ならざる者とが存在することになるが、それでよいか?
日本国憲法41条が「国会は、国権の最高機関」としている文理と抵触しないか?

主権とは、国家統治の源泉を問う概念だった。
にもかかわらず、“国民が主権者だ”との言い方は、憲法典によって権限配分が示された後の統治過程、すなわち、選挙において表示された意思に解答を求めている。
これは、統治の根源を問う主権と、統治の民主化を表す選挙人団とを混同した解答である。
この解答が正答ではないことは、次のような国家を例に考えればすぐに分かるだろう。

【統治権の総攬者は君主であると明文規定をもつ君主主権国家において、選挙人団が普通平等選挙制のもとで議会の構成員を定期的に選出している】。

国家法人説のもとで“国民が主権者だ”といわれるとき、国民がどのような権力を有していればその名に値するのだろうか?
何年かに一度行われる選挙で我々が投票できることで「主権者」は満足すべきなのだろうか?
私には到底満足できない。

[B] 制憲権説


先の[39]~[40]でフランスやアメリカでの革命時の理論を紹介した。
それによれば、“国民主権にいう主権とは、国家統治のあり方を最終的に決定する意思力”を指した。
それが既に検討した制憲権のことだ。

我が国の通説は、国民主権における主権とは制憲権を指す、と解している。
もっとも、制憲権の法的性質の理解の仕方となると、学説は様々な対立を示してくる。

ある立場は、“制憲権とは法外的な政治的決断・意思の発動であって、規範とは無関係だ”という前提に出ながらも、その理論の危険性を看て取って、“日本国憲法の場合、主権者である国民が憲法典をつくりあげるさい、「よき社会」の形成発展のために自然権保障型を中心部分とする立憲主義的憲法典を選択したのだ”という。
国家の自己拘束ならぬ、「国民の自己拘束説」である。
この説に対しては、制憲権の理論は近代立憲主義思想(社会契約論=規範の理論)とともに誕生したという歴史的な展開を軽視しているのではないか、との疑問が生じてくる。
さらにまた、日本国憲法制定にあたって、主権者が自己拘束したことが論証されているわけでもない。
日本国憲法の諸規定から後知恵によって“主権者が自己拘束した証左だ”といっているようにも見える。
制憲権論争は、主権者意思の発動前に、その権力を拘束する法力が内臓されているかどうかを問うはずのものである。
自己拘束説の不十分さは火を見るより明らかだ。
自己拘束説と対照的なのが、“制憲権は根本規範による授権によって根拠づけられた法的な力だ”とする見解である。
これを「権限説」と称することにしよう。
なぜ、「権限」かといえば、“始源的な規範である根本規範によって授権され枠づけられた法力だ”とみられているからだ。
もっとも、根本規範が「根本」である理由はどこにあるのか、何をもって根本規範とするのか、日本国憲法における根本規範は何であるのか、権限説には謎が多すぎる。
根本規範説に近い立場が、“制憲権は、個人の尊厳または人格不可侵の原則によって規範的拘束を受けている”とする見解である。
この説が「個人の尊厳」「人格不可侵」というとき、どうも、人間のあるべき本性(nature)が念頭に置かれているようだ。
日本版自然法・自然権論だろう、と私はこの説を診断している。
この説は、自然権思想を受容している論者以外には説得力をもつことはないだろう。

[43] (2) 制憲権と日本国憲法の構造


実定憲法である日本国憲法の解釈問題を離れて、制憲権の法的性質ばかりを論争することは、有意義ではない。
そのことに気づいた学説は、制憲権の法的性質と日本国憲法の構造との関連性を問い始めた。

(※注釈:
<1>)
ある学説は、実定憲法から制憲権の法的性質に接近して、こういった。
“制憲権は、本質的には権力(意思力)であり、超実定的な性質をもつが、実定憲法制定と同時に実定憲法の中に凍結され、正当性の契機となったのだ”
これを「正当性契機説」と呼ぶことにしよう。
この説は、
制憲権が革命の理論であること、
国民主権がイデオロギーに過ぎないこと、
を知っている。
実体として存在しない「国民」が主権者であるはずはなく、統治する者は常に少数で、統治されるのが「国民である我々だ」とこの説は見抜いている。
この論者の目は覚めている。曇りがない。
ところが、覚めた立場は、冷めた目で批判されるのが常である。
批判者は、“市民が血を流して勝ち取った国民主権という概念が空虚だとか、イデオロギーに過ぎないだとか、あろうはずがない”と、正当性契機説の空虚さを突くのである。
(※注釈:
<2>)
国民主権を無内容としないためには、そしてまた、日本国憲法の解釈と直接の関連性なし、などとクールに割り切らないためには、どうすべきか?
正当性の契機にとどめることなく、権力的契機をも制憲権にもたせて、“その権力(※注釈:憲法制定権力)は、実定憲法制定について、一定のヴェクトルを示している”と語ることだ。
ある論者は、そう解するにあたって、
権力的契機を示す場合の制憲権の主体が選挙人団
正当性の契機を示す場合の制憲権の主体は全国民だ、
と、その担い手に変化をもたせる。
これは、一見巧みな解釈技法にみえる見解ではあるが、国家創設後に国法上に登場する概念である選挙人団を唐突に登場させるところで、破綻してしまっている。
(※注釈:
<3>)
別の論者は、主体云々よりも、制憲権が実定憲法(日本国憲法)の構成原理を指し示している点に留意している。
この論者は、
(ア) 民意をできる限り反映する「民主的」統治メカニズムを備えること、すなわち、選挙人となりうる人的範囲が最大であること、
(イ) 選挙人の意思が反映されるよう統治制度が整備されること、
(ウ) 選挙人の意思が自由に反映されるために、統治者批判が自由であること、
といった要素を挙げている。
ところが、上の(ア)~(イ)は、「国民主権」によって必然的に要請されるものではない。
先の[27]でふれたように、これらは、《統治される国民が統治者に対して有効なコントロールを及ぼすための要素》である。
“統治のあり方を最終的に決定する力を国民が持っている”という命題と、“日本国憲法には、国民が統治者を定期的に交替させる装置が組み込まれている”という命題とは、必然的関連性はないと私は考えている。
実定憲法に用意されている民主的なチャネルは、社会契約でもなければ、その擬似物でもない。
(※注釈:
<4>)
先の[38]でふれたように、社会契約の思想を実定憲法制定後も生かし続けたい、と考える人々もいるだろう。
それに賛同する論者が直接民主制原則に立つ国民主権を唱えるのであれば、その論旨は一貫したものとなる。
「自同性」を満たす統治構造でなければならない、というわけだ。
ところが、実定憲法制定後も、“制憲権は権力的契機を持ち続けている”といいながら、民選議会、参政権、公的言論の自由等の保障で妥協する論者も多い。
民選議会、普通平等選挙制(選挙人資格の拡大)等の要素を満たす統治構造は「半代表制」と呼ばれることがある。
半代表制については、[64]において代表制を論ずる際にふれるが、大いに曖昧な概念にとどまっている。

[43a] (3) 制憲権論から解放された理論を


憲法典上要請される構成原理または統治構造は、あくまで、制定後の憲法典から理解すべきものであり、我々はそこでとどまって憲法解釈に従事すればいいだろう。
制憲権理論は、自然状態から抜け出る際の国制決定の力を「主権」と呼ぶ、実に特殊な場面へと主権概念を限定する思考である。
これに対して、私たちが「国民主権」と聞いてイメージするのは、実定憲法のもとで展開されている、日常的な統治において、誰が(どの機関が)最終的決定権をもっているか、という視点のはずである。
このイメージは、先の[42]でふれた「最高機関意思説」にいいたいところである。

国家法人説の臭いのする「最高機関意思説」に共鳴できないとすれば、「国民主権といわれてきたものは、デモクラティックな統治過程において、国民が何を為し得るか」という見方のことだ、と割り切るとよい。
こう割り切ると、《国民主権とは国政選挙において示された国民(有権者)の多数意思に従って統治される政治体制だ》となろう(⇒[27])。
日常的な統治、または、実定憲法の構成原理を検討するにあたっては、制憲権論は不要である

それでも国民主権はあくまで建前であり、理念にとどまる。
“国民主権原理を採用する実定憲法であれば、その構成原理としてこれこれの要素が選択されるはずだ”と予見することはできない。
“国民の意思が規範を生ぜしめる”という国民主権の理論には、私は合点がいかない。
私には、国民を擬人化したうえで、国民の意思が規範を生むと考えることは、二重の誤りをおかす理論にみえる(⇒[37])。

“法人格の意思が、ネガのかたちで存在している規範をポジにするのだ”という法実証主義を信奉する論者であって初めて、国民主権の理論は受容されるはずだ。
それにしても、法学の基本的タームである「意思」を正面から論じないまま、“意思が規範を生む”などという命題を繰り返してきた法学を、哲学者はどう評価するだろうか?


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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第9章 憲法の改正

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第9章 憲法の改正    本文 p.62以下

<目次>

■1.改正条項の必要性


[44] (1) 軟性憲法回避の理由


T. ジェファソン(1743~1826年)は、 “死者は生存者に対して一切権利を持ってはならない。憲法も世代ごとに - 具体的には19年ごとに - 検討し直し改正されていかなければならない”と述べた。これに対して、
J. マディソン(1751~1836年)は “毎年代わっていく世代をどこで区切るか容易なことではなく、ある年限をもって憲法が変更されると予め分かっていれば憲法への支持は弱まるだろう。法律と憲法とは性質が異なるのだ”と回答した。
ジェファソンが正しいのか、それとも、マディソンが正しいのか?
視点を換えていえば、軟性憲法が望ましいのか、それとも、硬性憲法が望ましいのか?

ある世代が憲法を制定して、“この憲法は我等の子孫を永遠に拘束する”と決定してしまうことは、一世代の傲慢な選択だろう。
ある時点での決定が永久に妥当する、という命題自体妥当ではない。
そればかりか、時代とともに世論は変化するだけでなく、制定時には予想もしない事態が生ずることは必定である。
こう考えたとき、「ジェファソンが正しい」と感じられるだろう。

ところが、国家の根本構造を定めているはずの憲法が法律と同じ重みしか持たない、というのも納得のいかない考え方だろう。
マディソンは、そこを考えたようだ。
「マディソンが正しい」というためには、“法律と憲法とは性質が異なるのだ”という論拠が説得的でなければならない。

[44続き] (2) 憲法典の重み


“憲法は法律とは重みが違う”、この命題を説得的に述べてみせたのが、先にふれたシュミットだった(⇒[41])。
《憲法典は始源的な意思の所産であるのに対して、法律制定権は憲法典上の権限にとどまる》というわけである。
「始源的な意思の所産」という意思主義を好まない人のなかには、こういう者もある。
《憲法は、我々の歴史を一種の物語として我々が共有し、これを基調としながら後世代に伝えていくための法文書である》。

「歴史という物語を語り継ぐ」、ああ、何と麗しいことか!
これを聞いた我々は、思わず「そうなんだ!」と頷いてしまいそうになる。
が、「我々の歴史」という共通項がどこにあろうか。
それがあるとしても、「物語」とは一体何なのか?
意思主義に負けないくらいミステリアスだ。

H. ケルゼンならこういうだろう。
《憲法と法律とでは、根本規範からの授権の距離が違う》。
この解答は、意思主義ではないものの、シュミットと同じように、階梯的規範構造を持ち出したものだ。

かように解答の仕方が複数があるとはいえ、“マディソンが正しい”といわざるを得ないだろう。


■2.改正の意義と限界


[45] (1) 憲法の改正


そこで、憲法典は、憲法(国制)上の社会的・政治的プラクティスの変化に対応させるべく、憲法(の一部)またはその条規に変更(削除、追加等)を加える手続を、法律の場合よりも厳格にしたうえで、組み込んでおくのが通例である。
これを「硬性憲法」と称することは、先の [10] でふれた。

憲法の定める正式の手続に従いながら、改正権者の明示的意思によって、憲法(の一部)またはその条規に変更(削除、追加等)を加えることを、「憲法の改正」という。

憲法全体の変更(全部改正)も改正といえるか、それとも、改正とは憲法中の個別的条規につき、削除、修正、追加または増補するという部分的変更(部分改正)をいうのか?
この論争が「改正限界説/改正無限界説」の一面である。
“改正とは、全部改正を含まない”などと、同じ「改正」という言葉を使いながら定義を絞り込んで限界説にでる論理は、筋が悪い。
アメリカの州の憲法の中には、全部改正を revision、一部改正を amendment と使い分けるものがある(たとえば、カリフォルニア州。同州では、“amendment”とは「憲法規定の目的をよりよく実現するために特定の憲法規定を数行付加または変更すること」を、“revision”とは「憲法規定に対する包括的な変更」、「基本的な統治の設計の大幅な変更」をいう、とされている。そのうえで、「改正」手続に違いをもたせている。これは、全部改正も改正の一種であるという前提に立っているのだ)。

我が国の通説は、“改正とは全部改正を含まない”と考えている。
もとの憲法の内容との「同一性」を保持する変更だけが「改正」であり、
「全部改正」は新たな憲法典の制定だ、
というのである。
では、「同一性」はいかにして判断されるのか?
その基準となるのが、憲法典の基礎にある constitution である。
この憲法をこの憲法として統一性をもって成立させている契機は、constitution にあるのだ。

[46] (2) 憲法改正の限界


上のように論じてくると、憲法論争としてお馴染みの「憲法改正に限界ありや」という問について、既に解答が出たようなものだ。
が、実は、その問に対する解答の仕方は、もう少し複雑なのだ。
複雑だ、というのは、改正権の法的性質を分析して初めて正答に至るからだ。

改正権の法的性質の見方には、複数ある。
見方の違いの根底には、“改正権は制憲権と如何なる関係にあるのか”という捉え方の違いが流れている。
改正権は、超法的な、事実の力としての制憲権と同質であるという理解がある。
これに拠れば、改正権には限界がないことになろう。
これに対して、シュミットのように〔制憲権→憲法→憲法律→憲法律上の権能〕という階梯的公式を採用するとなると、改正権は「憲法律上の権能」にとどまることになり、限界が現れる。
この階梯的見方は重要である。
上の階梯的公式のもとで「憲法制定」と「憲法改正」(すなわち、個々の憲法律的規定の修正)といわれる場合、前者の「憲法」とは「全体決定としての憲法」を指し、後者の「憲法」とは「憲法律」を指し、質的に異なることに留意されなければならない。
この立場によれば、改正規定はその母胎たる憲法からの派生物にとどまり、従って、“憲法律上の改正権でもって、全体としての憲法(国制)を変更できない”との結論に至る。

我が国の通説は、シュミットに倣って、改正権をもって、「法制度化された制憲権」と表現している。
「法制度化されている」という意味は、
それが発動されるためには、憲法典の改正手続規定に従わなければならないこと(手続的な制度化)、
事実の万能の力ではなく、規範的に統制された権限であること(実体的な制度化)
にあるのだろう。
この通説によるとき、いわゆる「改正限界説」以外の選択肢はない。
ところが、この改正限界説にいう実体的限界が、
改正権の母胎である制憲権自体の限界づけから必然的に出てくるものなのか、
それとも、憲法典上の権能としての改正権であることから出てくるものなのか、
そのロジックは曖昧である。
《改正権は法制度化された制憲権だ。だから、改正権には限界がある》というロジックを首尾一貫させるためには、《事実の力としての万能の制憲権が、憲法典上の権能となった(法制度化された)ために、その法的性質を激変させたのだ》と説くことだろう。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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第10章 憲法(国制)の変遷

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第10章 憲法(国制)の変遷    本文 p.66以下

<目次>

■1.憲法変遷の意義と変遷の要件


[47] (1) 憲法変遷の意義


成文憲法をもつ国家において、ある国家機関のプラクティス(反復継続される定型的行態)不文の実質的憲法を生み出すことを、憲法の変遷という。
「憲法の変遷」にいう「憲法」とは、憲法典のことではない。

第9章でふれた憲法の改正が、 憲法に明文化された改正手続に従って、改正権者が幾つかの選択肢のなかから新しいルールを選び出す顕示的行為であるのに対して、
憲法変遷は、 国家機関が特定のプラクティスに従事していると、新しいルールが国制のなかに次第に生まれ出てくることをいう(新しいルールの法的性質については、すぐ後の[50]でふれる)。

実定憲法は、国家機関の統治活動を統制するために存在するにも拘わらず、そしてまた、実定憲法の内容が簡単に変更されないよう硬性憲法とされることも多いにも拘わらず、“憲法変遷が生ずる”と論じて良いものだろうか?
この疑問に解答するためには、人のプラクティスがどのような条件を満たしたとき、“法となるか”という法哲学的な課題をまずクリアしなければならない。
変遷論を本格的に唱えたといわれるG. イェリネックは、この課題を次のように考えた。

法は、実効性(efficacy)と妥当性(validity)というふたつの要素からなる。
実効性とは「現に、ある規範が適用され遵守されていること」をいい、妥当性とは「規範として拘束力をもつこと」をいう。
実効性は、人々の継続反復する活動(プラクティス)のなかに現れ、そのパターンが人々の心理のなかに定着したとき、妥当性が生まれる(この考え方は、“慣習が人々の法的確信に支えられたとき、慣習法となる”と説明されるのと、よく似ている)。
あるプラクティスが、妥当性をもつに至ったとき、それは法となる。

以上が、“事実の反復継続が規範を生む”という、いわゆる「事実の規範力説」である。

[48] (2) 変遷の成立場面


変遷の例を一、二挙げれば、変遷論の説くところが理解しやすくなろう。
例1:  ある憲法典が「君主は、議会を一年に一度召集する」と規定しているとしよう。
この明文規定にもかかわらず、統治に無関心な君主(または議会嫌いの君主)が、長年にわたって召集しなかった。
そこで、業を煮やした議員たちは、期日を決めて自主的に議会に集合しえ活動し始め、今日に至っている。
このプラクティスは、上の規定を凌駕する効力を持っている。
例2:  ある憲法典は、内閣を国家機関のひとつであると定めておきながら、内閣における意思決定方法については何も規定していないとしよう。
長年の閣議のなかで、“内閣が意思決定するためには、閣僚の全員一致を要し、そのことを確認するために閣僚の署名を要する”とされてきた。
現在の内閣の構成員も、その慣行に拘束されるべきものと考えて、それに実際に従っている。
この慣行は、閣議の議事ルールとして効力をもっており、憲法典の空白部分を補充している。

上の例1は、憲法典正文に意味の変化をもたらす変遷であり、例2は、憲法正文に欠ける部分を補充する変遷である。

我が国憲法学者の相当数は、9条と自衛隊との関係を念頭において、“憲法典の正文にもかかわらず、国家機関がそれに違反するプラクティスを為すとき、変遷は成立するか”という問の立て方をしている。
この問題設定は正しくない(その設定自体に“憲法正文である9条を破る変遷などあってはならない”という結論が私には透けてみえる)。

変遷論は、違憲事実の反復継続の場面だけに限って説かれているわけでもなければ、憲法典正文の意味変化だけを念頭に置いているわけでもないのだ。

憲法変遷には、
(ア) 憲法典正文の意味を補充・発展させるもの、
(イ) 憲法典の欠缺部分を埋めるもの、
(ウ) 憲法典の正文を凌駕するもの、
がある。

また、その成立の契機としては、
(a) 憲法典正文についての公権的解釈の変更、
(b) 国家機関による特定事実の反復、
(c) 国家機関による特定権能の相当期間の不行使
等が考えられる。


■2.憲法変遷の法的性質


[49] (1) 後法は前法を破る?


変遷論が提唱された時代は、法実証主義の時代だった。
法実証主義によれば、憲法典は改正手続の加重された法形式である点だけに特徴をもつ。
法主体による意思の発動形式(手続)に着眼する法実証主義にとって、法形式の中に効力の軽重があると論ずることはもともと背理だったのだ。

そうなると、国家機関が憲法の予定せざる意思の発動形式を反復継続的に示していれば、その形式に着目して「それも法だ」という結論となる。
ここでは、ふたつの形式 - 憲法の予定していたものと予定せざるもの - が並存するわけだが、その競合関係は、「後法は前法を破る」という法の一般原則によって解決される。
憲法変遷論は、かような法実証主義の考えに従って提唱されたのである。

ところが、法実証主義の衰退した今、それも、憲法保障の具体的方策として形式的効力についてであれ最高法規性を憲法典中に宣明し、なおかつ、違憲審査制までをも導入してきた今日、上のごとき捉え方が従来と同じように成立することはないだろう。
なるほど、憲法の法源(*注1)には、不文のものも当然に存在するとはいえ([10]をみよ)、“ある国家行為の反復継続が最高法規である憲法典の条文と同じ地位を獲得する”と軽々に承認することは出来ない。
かといって、数世代前に制定された憲法典のすべての条規が、その後の経済・政治・文化等々の変化から超然として、そのままのかたちで妥当する、ということも前世代の専制である。
“その専制を避けるために改正規定があるのではないか”という反論も勿論あるだろう。
が、憲法変遷は、憲法を支える事実が徐々に徐々に変化するからこそ、生ずるのだ。
変遷は、改正権者が明示的な選択をしないところに生ずる、といってもよい。

(*注1)法源について
法源とは、①法を法たらしめる論拠は何か、②何が法とされているか、を知る手掛かり、つまり、如何なるかたちで法が存在しているか、を指す。
本文でいう「法源」とは②の意味である。
この場合の「法源」には、「成文/不文」「法律/命令」といった区別がある。

[50] (2) 学説の対立


我が国の学説は、憲法変遷の法的性質をどのようにみているのか。
学説は次のような3つの対立を示している。

第一は、 “ある国家機関が一定の活動を反復継続し、さらに国民の法的(規範的)確信がそれを支えるに至ったとき、その部分について変遷が成立する”とみる立場である。
この説にいう「成立する」とは、“実効性と妥当性が獲得されて憲法成文を凌駕することもある”ということを指している。
これは、イェリネックさながらの全面的肯定説である。
ところが、この説に対しては、
(ア) 改正権者の顕示的な選択よりも慣行の法力を優先させてよいか(何のための成文・成典・硬性憲法だったのか)、
(イ) 慣行が人々の確信を通して法となるという思考は正しいか、
(ウ) 憲法変遷論は、関係国家機関の法的確信を論じているはずで、「国民の確信」をここで持ち出すことは筋違いではないか、
等、疑問は絶えることがない。
第二は、 “国家機関によるプラクティスは習律(convention)を作る”とする見解である。
これは、「限定的否定説または習律説」と呼ばれることがある。
この説にいう「習律」とは、統治に携わる人々が義務的なものとして受け入れる行為規範ではあるものの、裁判所による裁定の論拠とはならないものをいう。
これを「法以前 pre-legal のルール」と表現する論者もいる。
この説によれば、変遷は国家機関を拘束する規範的力を生むが、憲法典の正文を破る法力までは持ち得ない。
なぜなら、法以前のルールが、明文の法的ルールを破るほどの妥当性をもつことはあり得ないからである。
この習律説は、変遷の問題領域を的確に捉えているばかりでなく、憲法と憲法典との区別を意識しつつ憲法の法源には不文のものもあることを指摘している点で、正当である。
第三は、 変遷とは、国家機関による違憲のプラクティス領域にかかわる問題であるとの限定的な変遷観を前提に、“違憲事実が幾ら集積されても、それはあくまで違憲事実の積み重ねに過ぎず、その種のプラクティスが憲法典正文を破るということはあり得ない”、とする見解である。
全面的否定説」と呼ばれることがある。
この説の根底には、変遷を肯定するとなると恒常的に制憲権が発動される状態を容認することになって、硬性憲法典の論理からしても、その事態はあり得べくもない、との見方が横たわっている。
政治的な事実の集積と法とは別種のはずだ、というわけだろう。
この説に対しては、
(a) 変遷の概念が限定的過ぎる、
(b) 「違憲」事実の集積という場合、「違憲」であるとの評価は論者による結論の先取りに過ぎない、
(c) この説を徹底すれば、憲法の法源は憲法典正文のみということになる、
といった疑問が残る。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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第11章 権力分立(権限の分割)

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第11章 権力分立(権限の分割)    本文 p.71以下

<目次>

■1.モンテスキューのいいたかったこと


[51] (1) モンテスキューの着想


モンテスキューの有名な著作『法の精神』の日本語訳は、次の一文で始まっている。
 「法律とは、その最も広い意味では、事物の本性に由来する必然的な諸関係である」

この冒頭部分を「法律」と訳出したのでは、意味が通らない
モンテスキューにとって、国家における法は、異なる国家機関が異なる作用を及ぼしあう諸関係として - 単独者の命令としてではなく - 現れるのである。
彼の『法の精神』にいう「」とは、今日我々が想像する“法律”からは程遠く、ある関係における法則(law)を指したのだ(このことは、法の支配と権力分立との関係を論ずる際に再び言及するだろう)。
モンテスキューは、ニュートンの法則のように、相互に引き合う力のなかに法則が現れる、と期待したのだ。

モンテスキューは、人間の本性を強調する自然法思想に反対だった。
人間の本性といわれてきたものが、エートス(精神)によっていかに可変的であるかを論ずるために、彼は『法の精神』を書いたのだ。

彼は、経験的に人間を観察しようとする目をもって、人間の権力欲と専制的権力の濫用の歴史に注意を払った。
そのとき、彼の目にとまったのがイギリスという特定の国の国制だった。
今日の言葉でいえば社会学的な観点に立ってイギリスの代議制を「観察」したうえで彼は、自由な政体を理論的に構築しようとしたのである。
これが、後世、「権力分立」と呼ばれる理論の出発点であった(モンテスキュー自身は、「権力分立」という言葉を一度も用いなかった)。

[52] (2) モンテスキューの理論


彼は、あるべき政体を、次のような順序で理論化していった。

第1 国家作用を、理論上、類型化する。
第2 さらに、その作用を活動形式別に分類してみる。
たとえば、立法作用についていえば、提案、審議、議定(制定)、異議(再審議要求)、署名、監督、というように。
第3 社会に存在している諸勢力(国王、貴族、庶民)がそれぞれ国家機関となり得るよう構想する。
そのために、それらが、君主、議会の一院、同じく議会の一院をそれぞれ構成する。
ある機関の構成員が他の機関に属することはない
第4 先の活動形式を、この3つの国家機関の性質別に割り当てる。
たとえば、立法作用においていえば、「審議し議定する活動形式」という最も重要な実体権限を議会に配分する。
第5 議会のこのメジャーな実体的権限を取り巻くように、他の機関にマイナーな手続的な関与権限を配置する。
たとえば、「阻止する活動形式」という手続的権限が君主(政府)権限となる、というように。
第6 ある作用が完遂されるには、ある機関のメジャーな実体的権限と、他の機関のマイナーな権限とが関連づけられねばならない。
つまり、分離独立した機関が複数の活動形式をもって連携したとき、ある作用が完遂する、という相互関係を持たせる。
第7 そうすれば、国制のなかに、機関相互の制御関係が「相対的に正しい法則」をもたらすだろう。
《抑制し合え、然らば均衡がもたらされる》
第8 その法則に従ってそれぞれの国家機関が活動すれば、特定の国家機関が権力を濫用することはなく、公民の政治的自由にとって危険は最小化される。

上のように、モンテスキューは、
国家作用(統治権)を理論上区別し、
担当機関を区別し、
さらには人をも分離(兼職を禁止)し、
いったん区別した国家作用を複数の機関に分有させることによって、
相互の抑制を図り、
その抑制関係のなかに均衡が産まれたとき、政治的自由は保障されるだろう、
と、あくまで理論的に構想したのである。

このうち、上の④・⑤または先の第4・5に留意すれば、権力分立理論は、作用の分離独立論ではなく、権限の分割論だということが分かるだろう。
そう理解する立場を、「相互作用論」と呼ぶことにしよう。
モンテスキューの理論は、相互作用論だったのだ。
それもそのはず、彼は、庶民を代表する議会が法律制定権を独占することを阻止したかったのだから。
だからこそ、議会が二院となること(一院は貴族院)、君主が立法作用の一部を担当することを説いたのだ。
ひとつの権限の分割である。

彼の政治的意図は権力の均衡論(均衡政体論)のなかで立憲君主のための権力分有論を説くことにあった。
その理論は、法的な様相をとっているものの、実は、当時の社会勢力(君主・貴族・庶民)を均衡させる政治的デッサンだったのである。

こうした背景を無視して、“モンテスキューの権力分立論は、民主的な統治構造のあり方を説いたもの”と解するとすれば、それは浅薄な理解である。

[53] (3) モンテスキュー理論の俗流の理解


その浅薄な理解とは別に、彼の理論の誤った理解が今日にまで流れてきている。
誤った理解とは、“権力分立は、立法・行政・司法の3つの国家作用を完全に分離し、それを各機関に担当させることだ”という理解である。
この理解は、“権力分立とは権力の集中を排除し、もって市民の自由を保護することだ”という機能論のもとで、もっともらしく響いた。
こう解答されたとき、権力分立構造においては、作用Aは機関aが担当し、作用Bは機関bが担当すること、機関Aは機関Bの存立を左右する権限をもたないこと、機関Aの人的構成は機関Bの構成と異なること、といった一作用一機関対応型イメージとなる。
縦割りを強調する権力分立論を「完全分離論」と呼ぶことにしよう。
完全分離論が特に強調するのは、法律制定作用の議会による独占である。

なぜ、かような誤導的な理解が世を席巻することになってしまったのか?
その理由は、3つあるように思われる。

第一は、 「分立(separation)」という用語からくる印象である。
第二は、 ヴァージニア憲法がいち早く完全分離論に与して「立法、執行、司法の各部門は分立され区別され、他の部門に属する固有の権能を行使しない」と謳ったことである(ヴァージニアにおいては、民主主義者T. ジェファソンの完全分離論が強い影響力を持った。ジェファソンは、モンテスキュー理論に比較的忠実に相互作用をもたせた合衆国憲法の権力分立構造に反対だった)。
第三は、 権力分立を民主的なものだと理解し直そうとしたとき、“立法権は議会が独占する”という主張が説得的にみえたためである。
言い換えれば、法治国における権力分立構想は、モンテスキューの権限の分割論を意図的に変形し、議会に大きなウェイトを持たせるための「分立」論となったのである。

議会中心の「分立」論とは、議会が一般的抽象的な法規範を制定し、行政権がこれを個別具体的な事案に適用する、という「作用別」の理論である。
これは、一見したところ分立論であるかのようであるが、モンテスキュー理論以前に既に説かれていた「立法/執政」の区別を説いているに過ぎない。
モンテスキュー理論の重要ポイントは、法律制定権限が一院ニ院一君主または大統領に分割されるべし、という点にある。
にも拘わらず権力分立論の民主化を望む人々は、法治主義(行政の法律適合性原則(*注1))の要請が、完全分離の構想のもとでこそ、ピタリ実現されるとみたのである。

完全分離論は、分立論の狙いと機能(権力の集中を排除し自由を擁護する働き)に論議のウェイトを置いて、多くの賛同者を獲得した。
完全分離論は、「抑制と均衡 check and balance」という表現を常用したにも拘わらず、完全縦割り構造のなかで各機関がどのように抑制できるというのか、真剣に問い直すことはなかった。

(*注1)行政の法律適合性原則について
[14]の脚注を参照願う。

[54] (4) 法の支配との関連づけ


俗流の権力分立論が、縦割りの完全分離を説いてきたのに対して、“モンテスキューは、国家作用が重層的に発動される順序を考えることによって、法の支配を実現しようとしたのだ”“権力分立論は、法の支配という壮大な構想の一部だ”と唱え続けてきた論者もみられた。
今日では、この見方が我が憲法学界に次第に浸透しつつある。

この立場は、モンテスキューが次のような段階的な国家作用論を考えていたのだ、という。
 第一段階は、 「正しい法の制定」、
 第二段階は、 「制定された正しい法への服従」である。
 第一段階においては、 国家における最高位の作用である立法段階に抑制均衡を作り出す工夫が施される。そして、
 第二段階においては、 〔立法→その執行〕という理論的な優先関係を作り出し、行政府と裁判所の作用を立法に服従させる工夫が施される。
 以上のふたつの段階を通して、モンテスキューは「法の支配」(相対的に正しい法則)を実現する理論を考えた。

これを私なりに整理すればこういうことになろう。
第一に、 立法の段階においては、「立法が事物の本性に由来する」よう、「君主⇔第一院⇔第二院」の抑制均衡を作り出す。
この抑制の相互関係のなかに相対的に正しい法則が出来上がるだろう。
第二に、 立法の執行段階においては、行政が正しき法を正しく執行しているかどうか、議会は常に監督する。
裁判所に関しては、「制定された法を語る口」として統治権力から外して「無」とする。
そのために、裁判所は常設の機関とはされず、必要なときに設置されて紛争解決と同時に解散する。

本章の冒頭に引用した『法の精神』の一文を眺め直したとき、モンテスキューは上のような相互作用関係のなかに「相対的な正しさ(法則)」が確保されるものと期待したのではないか、と推察していいだろう。

もっとも、モンテスキューには、法の支配理論で説かれてきた「高次の法」なる発想はない、と私は診断している。
彼の理論には、“法が本質的に正しいかどうか”は眼中にはなく、“異なる国家機関間の相互関係のなかに「法則」が現れるはずだ”というニュートン的な自然法則(本来的関係)があったのだ。
彼のいう「法」のイメージは、今日の公法学者が思い描きがちな「法の支配」にいう「法」とは程遠いものだったろう。

《モンテスキュー理論は、自然法思想とは系譜を異にしながらも、正しい法の制定と、その法の執行という重層関係を考えていた》のである。
で、私は、我が国の憲法学界が権力分立論を再解釈してきた傾向を歓迎したい気持ちになっている。


■2.権力分立論の受容と変容


[55] (1) 権力分立論の受容


モンテスキュー理論は、アメリカの邦(独立までの「州」をいう)の憲法に受容された。
ついで、合衆国憲法にも受容された。
アメリカ合衆国の憲法典は、
“モンテスキュー理論をブルー・プリントとして制定された”といわれることがあると思えば、
“いやいやモンテスキューとは違っている”という見方もあって、
我々を混乱させる。
私は前者の見方が正しい、とみている。

建国の父たちは、モンテスキュー理論を正確に理解していたからこそ、分離の原則だけでなく、機関間の緊張関係(ひとつの権限の分割)を合衆国憲法典に組み入れたのである。
緊張関係の例は、「議会の立法権⇔大統領の一時的拒否権」、「大統領の条約締結権⇔上院の条約承認権」、「大統領の高官任命権⇔議会の承認権」等である。

合衆国憲法がモンテスキュー理論とは異なっている点も幾つかある。
もし、モンテスキュー理論に忠実であったとすれば、“議会は大統領によって招集されて初めて活動能力をもつ”“大統領は議会によって弾劾されることはない”“司法府は「法を語る口として、いわば無」となって統治に容喙することはない”となっただろう。

合衆国憲法とモンテスキュー理論との違いを強調する論者は、裁判所が司法審査権をもつ点を挙げることもある。
ところが、建国の父たちが、憲法制定にあたって当初から司法審査権を構想していたものかどうか、論争はいまなお続く謎である(合衆国憲法は司法審査権に関する明文規定を欠いている。もっとも、建国の父たちは「司法審査制」という概念と制度を既に知っていた)。
モンテスキューの知らなかった司法審査権という新発見物が憲法にあるからといって、“合衆国憲法はモンテスキュー理論に忠実ではなかった”“合衆国憲法は権力分立論をはやくも変容させた”というのは性急だろう。

合衆国憲法がモンテスキュー理論に比較的忠実であったかどうかは、個別的な機関の個別権限からみるのではなく、全体の構造のなかで主要な権限がどう配分されたか、という視点から判断されるべき事柄だ。
そのためのパースペクティブは、「完全分離論/相互作用論」である。
“合衆国憲法は、いずれの理論をその基本原則としているか?”と問われたとき、その正解は、相互作用論である。

[56] (2) 権力分立論の古典的「変容」?


多くの論者が、「権力分立の変容」について語ってきた。
「変容」というとき、何がどう変わった、といいたいのだろうか?
権力分立の原型すら明らかにしない論者が「変容」を語れるはずがない。
そのために、我々は大いに混乱させられてきた。

モンンテスキューの権力分立論は、あくまで理論である。
合衆国憲法にあってさえ、その理論をそのまま実定化したわけではなく、ある意味では「変容」させたのだ。
大統領制や司法審査制がその好例だろうが、論者のいう「変容」は決してこれではない。

変容にも、古典的なものと、現代的なものとがあるようだ。
現代的なものは、比較的分かり易い。
《近代憲法の知らなかった政党と巨大官僚団とが、統治過程すべてを「統合」しているかのようだ》という意味での変容である(この点については、後の [71] でも再びふれる)。

現代的変容ではないものを、「古典的な変容」ということにして、論点をクリアにすることにしよう。
それでも、古典的な変容を理解することは、国によって展開が異なるために難儀な業である。
そのうえ、論者が変容前の原型をどう捉えているかによって、変容の中味も全く違ってくる。
たとえば、「完全分離論」をイメージする論者にとっては、他の国家機関が立法権に関与することが“変容”と映るだろう。
たとえば、司法審査制である。
これに対して「相互作用論」をイメージする論者にとっては、議会が法律制定権を独占するルソー的議会主義こそ“変容”である。

「変容」とは、このことでもないようだ。
ここで再度確認すれば、権力分立論は、3つの社会的勢力のための権力の均衡を正当とする理論だった。
その理論は、一院と他の一院、議会と君主の間にみられる「引力の法則」に期待して、国のかたちを探究する均衡政体論だった。
この理論は、君主勢力の強い国家において、立憲君主制へと展開するだろうことは、我々にも容易に予想できる。

立憲君主制とは、
(ア) 君主と議会とが憲法上の国家機関であること、
(イ) 法律の制定にあたって君主が何らかのかたちで参与すること、
(ウ) 議会が君主・臣下の活動を常時監督すること、
(エ) 君主の活動に主任の大臣が副署すること
等を憲法が定めている体制をいう。
これらの要素は、権力分立理論を君主制に合うように焼き直したものである。
これらのうち立憲君主制にとって重要な要素が (エ) にいう「大臣助言制」である。
これは、大臣の助言(副署)権のなかに実質的決定権を読み込むことによって君主の責任を「空」にし、君主無答責を論拠づけるやり方である。
この君主に対する大臣の責任が、デモクラシーの進展に伴って、やがて議会に対する責任、それも、政治責任へと拡大されたとき、その統治体制は議院内閣制となるのである(議院内閣制については、次章でふれる)。

権力分立の「変容」とは、立憲君主制や議院内閣制へと展開したことでもなさそうだ。

「変容」とは、権力分立における抑制関係が画期的に変化することをいうのだろう。
では、権力分立論後の、抑制関係の画期的変化とは何であるのか?
それは、選挙人(国家法人説によるとすれば、有権者団という国家機関。 [105]をみよ)が、〔議院-議会-政府〕の間の均衡関係に、公式の影響力を持つに至ったことだ。
国家機関のうち、「政治部門」と呼ばれるこれらの機関の間にみられる抑制・均衡関係は、普通選挙制が実現された時点で画期的に変わったのだ。
《選挙人が、選挙または人民投票を通して、政治部門の緊張関係を最終的に均衡させる国家構造》へと「変容」したのだ。
換言すれば、抑制均衡関係の起点が選挙人となったのだ。
この点を、古典的な権力分立論は、知らなかったのである。

その具体的な影響は、二院をともに公選制とすることに表れた。

[57] (3) 権力分立論の「現代的変容」 - 官僚団と政党


国家の役割が増加するにつれ、統治の基本方針の大綱を考え、法案にまとめ上げ、修正していく作業は、専門的官僚団の仕事となった。
「積極国家」においては特にこのことが顕著である。
専門的官僚団は、現実の統治のなかでは、議会以上の働きを示しているといっても過言ではない。

《官僚団をいかに統制するか》、この問題は、実は、現代のものではない。
議会は、官僚団のひとつである軍隊を法的に統制する課題を、ずっと負ってきたのである。
もっとも、軍隊を除く官僚の統制がどうあるべきか、この論点を真剣に扱ったのは、憲法学ではなく、行政法学と行政学だったのだが。

先に、均衡抑制関係の起点が選挙人となった、という「変容」についてふれた。
そこでの選挙人の役割は、間歇的である。
これに対して、統治の役割が金銭的利害の再分配や希少なリソースの分配にまで及んでくると、相当数の国民は間歇的な役割を超えて、統治に対して日常的に影響を与えようと試みてくる。
そのためには、結社を作り上げて声を大きくしなければならない。
この結社が政党である。

自由な国家に存在する複数の政党は、選挙人がもっている無数の政治的選好を、議会の内外で、処理可能な数にまとめあげる政治的結社である。
複数政党制の役割を抜きにした統治の理論は、通用力を持たないだろう。

この現代国家における権力抑制構造は、「立法府 対 大統領(内閣)」といった公式機関の間にあるというよりも、「議会内部の与党 対 野党」の抑制、そして「政党によって組織化された国民 対 政治部門」の抑制、という非公式で流動的なかたちをとっている。
政党、与党・野党、圧力団体といった勢力は、憲法典上の公式機関ではない(政党については、後の [67] 以下でふれる)。
フォーマルな機関とその作用にみられる抑制均衡関係を説いてきた権力分立論と、それを制度化した憲法は、上のよなインフォーマルな組織体とその活動を射程に捉えていないのだ。

こうした現象が「権力分立の変容」として捉えられてきているようだが、それが憲法規範学にどのような見直しを求めているのか、私には分からない。
多くの論者が語ってきた「変容論」は、憲法社会学の視点からのものにとどまっていたように私にはみえる。

[58] (4) 三権分立という誤導的表現


権力分立の「現代的変容」よりも、私にとっては、権力分立論が当初より抱えてきた、次のような落とし穴に留意するほうが重要である。
第一に、 権力分立を三権分立と同視しないこと、または、相互互換的に用いないことだ(⇒[53])。
これが誤りであることは、モンテスキュー『法の精神』を一読すれば、すぐに分かるだろう(私は、三権分立というタームを用いる憲法学者の知性を疑っている)。
権力分立は、議会においては二院制、執政府においては君主権限と大臣団の間の機関内抑制、国家統治においては中央政府と地方政府との抑制関係等々にもみられるのである。
第二に、 権力分立理論と実定憲法における権力分立構造とをはっきりと区別しておくことだ。
または、特定の権力分立理論を金科玉条として、そこから憲法典に実現された構造の乖離・逸脱を強調しないことだ(なかでも、「完全分離論」がモデルとされるとき、“我が国における統治の実態は権力分立から乖離してきている”という権力分立論が幅を利かせた)。
第三は、 “権力分立は民主的だ”と断定しないことだ。
モンテスキューの理論における民主的な要素は一院だけに表れる。
合衆国憲法におけるその側面は、一院と大統領に表れる(ただし、“大統領は間接選挙によって選出される、擬似君主だ”と考えるほうが厳密には正しいだろう)。
権力分立論は、統治構造に民主化を徹底させない工夫である。
では、“権力分立論は自由主義の産物だ”というのはどうか?
これも正答には、まだ遠い。
モンテスキューの理論は、自由主義から程遠い。
《集中化された権力は必ず濫用される、だから抑制関係を相互に持たせる》と彼が述べたことは、自由主義とは直接には関係がなかった。
権力分立の思想は、人間の本性に対する懐疑的な見方の発露であって、自由主義の発露ではなかったのである。
第四は、 権力分立論のもとで、すべての国家作用が〔立法→そのもとでの行政・司法〕に類型化できるはずだ、と即断しないことだ。
特に、権力分立を三権分立と表現する論者は、すべての国家作用から立法と司法とを控除した領域が「行政だ」と考えがちである。
これが所謂「行政に関する控除説」である。
この第四の落とし穴については、もう少し説明したほうがよさそうだ。

控除説によれば、立法・司法・行政から漏れ出る作用はない。
そればかりか、控除説のもとでいう「行政」を法律適合性原則のもとにおいてこれを統制できるとすれば、控除部分すべての牙を抜くことができる。
このように、法治国原理を貫徹させようとする控除説は、一見、よく出来ている。

控除説的な見方は、“権力分立論とは、君主のもっていた行政権を議会が統制しようとする民主的理論だ”という俗流の理解と相俟って、さらに説得力をもつようにみえた。
ところが、イギリスには、「行政」とは別に国王の「大権 prerogative」、アメリカには「行政」とは別に大統領の「執政権 executive power」が存在してきた。
日本国憲法の場合、解散権、外交権、予算作成権等が内閣の権限とされているが、これらは、法律の執行を指す「行政」でないことは明らかである。
このことを考慮して私は、内閣を「執政府」、内閣権限を「執政権」と呼ぶことにしている(この点については、内閣の章でもふれる)。
C. シュミットの鋭い分析をここで引用すべきだろう。
 「『分立』は、正確には、諸権力のひとつのものの内部での区別、たとえば、立法権を、元老院と代議院のようなふたつの議院に分割することを意味する。」
「(モンテスキューの)本来の関心事は、ただ立法権と執政権の区別のみである。この場合、・・・・・・執政権は決して単に法律の適用ではなく、本来の国家活動(そのもの)である。」

権力分立論にいう「行政」は、法治主義(行政の法律適合性原則)という概念に納まり切らないのだ。
この点に留意すれば、ふたつの解決策しかないことに我々は気づくだろう。

第一の解決策は、 《モンテスキュー以来の権力分立論は、すべての国家作用を網羅する理論ではなかった》と割り切ることだ。
第二の解決策は、 《権力分立論は、国民の自由に関連する国家作用を、理論的に3つに分けたのだ》と、同理論の作用法的性質を強調する方向である。

我が国の有力な論者は、作用法(*注2)的な発想である後者を選択しているようだ。
が、もともとの権力分立論が、君主による議会の召集、二院制等、組織法的な体系から出来上がっていたことを考えたとき、有力説の採る筋道は私にはどうも納得がいかない(権力分立の歴史的展開は、まさに、組織法的側面の争いだった。この点については、次章の議院内閣制を検討すれば明らかになるだろう)。

(*注2)「作用法/組織法」について
法学において「作用法/組織法」は、「実体法/手続法」と同じくらい基本的で重要な区別である。
作用法とは、国民の権利義務を規律する(権利義務に作用する)法令をいい、組織法とは統治機関の構造を定める法令をいう。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論

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第12章 議院内閣制

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第12章 議院内閣制    本文 p.83以下

<目次>

■1.権力分立のなかの議院内閣制


[59] (1) 連携か分立か


“日本国憲法は議院内閣制を採用している”といわれ続けてきたために、「そうに違いない」と我々は信じてきた。
それと同時に、“日本国憲法は権力分立制を採用している”とも教示されて、「そうに違いない」とも信じてきた。

ところが、権力分立制を「完全分離論」で理解したとき、上のふたつの命題が両立するのか、疑問を抱いて当然だ。
また、権力分立を“議会(国会)と執政府(内閣)との間に抑制と均衡をもたせることだ”と理解するとしても、内閣が国会の信任に依存する議院内閣制は権力分立とどうもしっくりこない、と薄々感じざるを得ない。
なぜなら、国会の多数派から内閣総理大臣のみならず、多数の閣僚が選出される制度は、国会と内閣との連携関係をくっきりと浮かび上がらせるからだ。
そればかりでなく、現実の我が国の統治過程をみたときには、内閣が議会の信任に依存するのではなく、議会が内閣に指導されているようにもみえる。

さらに現実をみれば、先の第11章でもみたように、内閣は議会制定法に従いながらそれを執行する「行政」部門ではなく、官僚団を従えながら法律案を作成し、国家の基本方針を模索し、予算を作成し、外交関係を舵取りしていく・・・・・・国政の最高機関のようだ。

ひょっとすると、現実が理論から外れているのかも知れない。
が、その現実は、短期間、我が国だけに現れた例外現象でもなさそうだ。
議院内閣制の母国といわれるイギリスにおいても、強力なリーダーシップを発揮する首相のもとで、国会(野党)が事後的な監督作用に専心しているかのようである。
国会の多数派が内閣の構成員を送り出そうとするとき、彼らは多数派のリーダーたちを選出するだろう。
そうなると、〔議会-その多数派-内閣〕という連携が生まれるに違いない。
この三者の連携におけるリーダーシップの序列は、〔内閣>その多数派>議会〕となるだろう。
このイギリスにおける統治の実態は、「議会中心の統治」と称するより「内閣主導型統治」あるいは「首相指導型」というほうが適切である。

議会と内閣の上のような関係は、果たして権力分立なのか、はたまた、議会を中心とする統治= parliamentary government であるのか?
議院内閣制の真の意味を知ることは、予想以上に難題のようだ。

[60] (2) 議院内閣制の歴史的展開


“議院内閣制は、行政権を民主的にコントロールしようとしてイギリスに産まれた”とよくいわれる。
ところがこの説明は、ふたつの不正確な部分を残している。
第一に、 イギリスで誕生したのは憲法上の制度ではなく、統治の慣行としてだったという点である。
第二に、 民主的にコントロールしようとした相手方は、内閣ではなく、官僚団だった点である(厳密な意味での「行政」部門を民主的部門が統制しようとしたのだ)。
つまり、
君主を「尊厳の部分」に置くことが確固とした国制となり、しかも、
〔国民→議会→内閣〕という民主的な垂直的な関係が国制の慣行となった次の課題が、
非公選部門でありながら情報と権限を蓄積しつつあった官僚団をいかに民主的に統制するか、であった。
そのための慣行が、《政と官とは分離されておりながら、政が官に優位する》という規範となった。
これが parliamentary government (※注釈:議会政治)である。


■2.議院内閣制の合理化


[60続き] (1) 大陸の動き


議会中心の統治を憲法に制度化しようとしたのは民主主義を渇望してきた大陸においてだった(⇒[53])。
大陸においては、長い二元的統治の歴史があった。
二元的統治とは、国家のなかに君主と等族という、ふたつの「国家内国家」が存在したことをいう。
もし「君主-議会」というふたつの国家機関が存在するとすれば、統治を安定させない二元的統治が再び演じられるだろう。
君主は「われが血筋または伝統の力によって最高機関である」といい、議会は「われは国民の代表機関であるが故に最高機関である」というだろうから。
これを避けるためには、君主と議会との間にあって、両者の蝶番(ちょうつがい)となる機関を置けばいい。
君主に対しては議会の声を伝え、議会に対しては君主の意思を伝える導管役である。
この役が大臣団、後の政府または内閣である。

ちょうど歴史は、立憲君主制にまで到達していた。
立憲君主制は、《大臣を置かなければならない政治体制》である。
それは、すべての国家権力の源泉を君主に帰属せしめながらも、君主を無答責とするために大臣が助言する体制だった。
大臣助言制における責任は法的なそれであり、大臣の法的責任を追及するために議会の用いた手段が弾劾裁判だった(この法的責任追及によって法治国が完成した、といわれることもあった。が、責任の構成要件は曖昧だった)。

[60続き2] (2) 法的責任から政治的責任へ


その後、議会勢力が次第に優勢となるにつれ、“君主こそすべての国家権力の源泉だ”との主張はもはや通用しなくなる。
立憲君主制は、議会が立法の中心部分を担当する、という権力分立構想に歩み寄ることを余儀なくされたのだ。
そのため、立憲君主制を採用する憲法は、立法権を君主と議会とが共同行使する、という手続を組み入れた。
そればかりでなく、執政権の中心部分は大臣団(政府)に移行し、これが憲法上の正式機関としての地位も得た。

ここに、権力分立構造における機関のひとつとして、内閣が誕生したのだ。
この新たな誕生物は、議会と対等な地位を占めると主張することによって、議会の優越性を否定するイデオロギッシュな働きもした。

憲法上の正式機関として内閣が誕生したことで、ふたつの変化が現れた。

第一は、 君主権限が内閣の執政権によって控除されて「中性的権力」へと限定されていったことだ。
「中性的権力」とは、国家諸機関間の憲法抗争を最終的に調整・中和する君主権限である。
大臣の任命権、議会召集権、民選儀院の解散権、恩赦権等の調整権がこれである。
これらの調整権限がさらに形式化・儀式化されたときの主体は「元首」と呼ばれることがある。
第二は、 大臣の責任の性質が変化したことだ。
上にふれたように、大臣助言制のもとでの責任は、もともと法的責任であり、議会による追及方法が弾劾裁判だった。
大臣の守備範囲が広くなるにつれて、議会は政治的な責任を問い始めた。
そうなると、大臣訴追や弾劾制の方法は後退し、それに代わって、内閣の活動は議会の統治の基本方針と食い違ってはいないか、という政治責任追及の方向が望まれた。
議会は「内閣が議会の統治の基本方針から明らかに逸れている」と判断したとき、議会は内閣の政治責任を問う、弾劾権とは別の武器を持とうとした。

このふたつの政治的な展開が、議院内閣制を憲法上設計する際の参考とされた。

[60続き3] (3) 統治方針一致原則の固定化


議会と内閣との間に、統治方針の一致原則を恒常的に維持するにはどうすればいいか?
政治の成り行きに任せて慣行が出来上がるのを待つことでは、この一致原則は心許なくなる。
一致原則を憲法上の制度として取り込むことだ。
「政治過程から法的過程へ」固定化すればよい。
この選択は「議院内閣制の合理化」と呼ばれることがある。

統治の基本方針を一致させるという原則を憲法に制度として固定するにはどうすればよいか?
選択肢はふたつだ。
ひとつは、 “内閣(または大臣)は、恒常的に議会の信任に依存する”と規定することだ。
他のひとつは、 “議会が格別に責任を追及しようとしないときには内閣は信任を受けているものとみなされるが、統治方針一致原則は破綻したと議会が判断したとき、内閣は政治責任を正式に追及され、場合によっては辞職しなければならない”と規定することだ。

制度の真価は、危機の際に発揮されるのが世の常である。
ということは、憲法上制度化されるにあたって最重視されたのが、後者の方法である(但し、ある憲法が“議院内閣制を採用する”と明文で述べることはない)。
もっとも、後者に従うとしても、“議会と対立したときは、内閣は辞職すべし”との議会の判定だけが決め手だとされれば、内閣はあたかも議会の中の委員会の如くなってしまうだろう(このタイプは、「議会統治制」とか「議会主義」と呼ばれ、議院内閣制とは区別される)。
そうならないためには、内閣または大臣が議会に対抗する武器を持たなければならない。
その武器が《君主・元首への副署権を通して、君主・元首の持っている中性権(調整権)としての議会解散権に訴えること》だ。
《連携せよ、さもなくば抑制し合え、然らば新たな均衡がもたらされよう》というわけだ([52]と比較せよ)。


■3.議院内閣制の特質


[61] (1) 権力分立の変形


このように、議院内閣制は、権力分立の変種となるよう、設計主義のもとで抽象理論として大陸に登場した。
権力分立と同じように、憲法に取り込まれるとき、当該国家の歴史と政治状況のなかで「変容」させられた。
議院内閣制の実態が、国によって大いに異なるのはそのためだ。
そのことは承知のうえで、議院内閣制の特質をまとめるとすれば、次のようになる。
第一は、 権力分立の一態様だ、という点である。
確かに、議院内閣制は、執政府と議会との協働体制であって「分立」の形跡すらないではないか、との疑問が生ずる。
しかし、議院内閣制は、議会も、政府(内閣)も、憲法上はそれぞれ独立したひとつの機関であるという点で、議会に権力を集中する、先にふれた「議会統治制」ではない。
そしてまた、次にふれるように、協働の体制ばかりではないのだ。
第二は、 権力分立の一態様であることの証左として、執政府と議会とが抑制の関係におかれている点である。
これが、上で既にふれた、「議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権」である。
この解散または辞職によって、再び、議会と執政府との間の統治方針一致原則を取り戻そうというのである。
第三は、 執政府が二元構造となっており、内閣は議会および君主の双方に責任を負う点である。
但し、歴史の流れを振り返ったとき、元首または(および)大統領が君主に取って代わったことが多く、二元構造も変わってきた。
なかでも、内閣とは別に、公選にかかる大統領が存在する場合、大統領は解散権を発動し、選挙民の選挙を通して、議会と執政府との間の統治方針一致原則を回復しようとすることがある(この点が、アメリカの大統領制との違いである。確かに、アメリカにおいても「内閣」は存在するが、それはあくまで大統領への諮問機関である。また、アメリカの大統領は議会の解散権を持たない)。
特に、大統領が均衡の回復起点を選挙民の投票に委ねるとき、国民が主役となり、大統領の調整(解散)権は二次的な意味しか持たなくなった。

上の第三の特徴に留意したとき、議院内閣制は、権力分立の場合と似て(⇒[58])、〔国民-議会-大統領〕という構造のなかで捉え直されるべきだろう。
それでもなお、治者と被治者の分離が厳然たる事実であることを軽視しないとなると、治者の中での〔議会-内閣・大統領〕の関係こそ決定的な意味をもっている。

[61続き] (2) 責任か均衡か


〔議会-内閣・大統領〕という決定的な局面で、「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」といえるのが、先にふれた〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権〕である。
この見方は「均衡本質説」、または執政府がふたつあることに注目されたとき「二元説」と呼ばれることがある。
それは、《議会解散権と不信任決議権とが、あたかもピストンとシリンダーのように対をなして作用することこそ、議院内閣制の本質だ》というのである。
換言すれば、議院内閣制を決定するものは、〔議会-内閣・大統領〕の連携関係(統治方針一致の原則)が一旦崩壊したとき、それぞれが、どのような公式権限を発動するか、という反発・抑制関係にある。
反発・抑制関係が残されているからこそ、議院内閣制は権力分立の一種だ、ともいえるのである。

〔議会-内閣・大統領〕の間に、統治方針の一致をもたらす工夫は、勿論、これ以外にも複数ある。
たとえば、
議会に対する内閣または宰相の責任を憲法典に明記すること、
大臣に対する質問権、大臣の議会出席要求権を議会がもつこと、
首相は議会構成員から選出すること、
大臣の一定数を議会構成員から選出するよう総理大臣に義務づけること、
等である。
②~④は、①にいう「議会に対する責任」を内閣をして全うさせる手段である。
①に集約され得る工夫をもって「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」と捉える立場が「責任本質説」である。

「均衡本質説/責任本質説」の対立は、実は相互排他的ではない。
責任本質説、均衡本質説ともに、〔議会-内閣・大統領〕の間に統治方針一致の原則をもたらすことを念頭に置きながら、その一致を確保する手段として「責任か、均衡か」を問うのである。
責任本質説は、執政府が恒常的に議会の信任を受けておく点に着目するのに対して、均衡本質説は、議会が執政府不信任の意思をある時点で特定・明示的に表示した際に、執政府が取り得る公式権限に着目する。
一方がポジの接近法であり、他方がネガのそれである。
この場合に限っては、ネガの接近法が我々の目に鮮やかである。
というのも、責任本質説にいう「責任」または「信任」概念は多義的であり、しかも、「内閣の議会への責任」を強調するあまり、選挙民の最終的選択を軽視しがちとなるからだ。


■4.日本国憲法と議院内閣制


[62] (1) 明治憲法との比較


明治憲法のもとでは、天皇の輔弼機関として国務大臣が置かれた(55条1項)。
大臣助言制は、立憲君主制の常道であったが、明治憲法での輔弼は、主任の大臣が意見・案を上奏して大権の執行につき過誤なきことを期すばかりでなく、天皇の責任部分を「空」とするためだった。
国務大臣は、担当の国務に関する大権を輔弼するにあたって、文書による詔勅に副署することを要した(同条2項。大臣の輔弼を要する範囲は、天皇の国務上の大権に限定され、統帥大権および栄典大権には及び得ないと解されていた)。
これは、諸外国の立憲君主制のもとで採用された大臣助言制に倣ったものといわれるが、輔弼の法的拘束力について通説は「国務大臣の進言を嘉納せらるゝや否やは聖断に存する」ということにしている。
この大臣助言類似の制度のもとでは、主任の大臣は天皇に対して責任を負うにとどまり、議会から超然としていた。
超然内閣制である。
これに対して、日本国憲法は内閣が連帯して国会に対して責任を負うことを明示した(66条3項)。
超然内閣制を排斥したのである。
では、日本国憲法における内閣と国会との関係は、どう捉えられるべきか?
圧倒的多数の学説は、内閣と国会の関係を議院内閣制だ、と捉えてきた。
ところが、学説が議院内閣制というとき、その念頭に置かれるモデルと狙いは曖昧だった。
ある論者は、イギリス型の議院内閣制がモデルとなっているとみて、“議会が内閣の進退を左右し得ることをその核心とする制度だ”と説明してみせた。
ところが、当のイギリスにおいては、先の [60〕 でふれたように、「議会中心の統治」ではなく「内閣主導型統治」となっていた。
また、同論者は、議院内閣制の狙いとして、「行政権を民主的なコントロールの下に置こうとするにある」ことを挙げた。
この説明は、“明治憲法下にあっては議会の権限が弱すぎた”という反省も手伝ってか、多くの人を納得させた。
が、戦後、内閣が統治を先導し議会が事後的に監視している、という政治状況がほぼ一貫して続くなか、この理論は、“議会が内閣の進退を左右する”どころか、内閣が議会の進退を決定している実状を説明できなかった。
学者のなかには、“現状のごとき議院内閣制は、権力分立の趣旨に悖(もと)る”と考える者もあった。
その論者の頭の中には、“国会が統治の基本方針を決定し、国会によって法令化された事柄だけを内閣が執行することこそ議院内閣制または権力分立制のはずだ”という思考がこびりついているのだろう(⇒[140])。

現状が理論から逸脱し過ぎたのだろうか?
それとも、理論がもともと間違っていたのだろうか?
あるいは、理論は正しいものの、そのモデルとして取り上げたサンプリングに間違いがあったのだろうか?
さらには、もっと根源に立ち返って、“日本国憲法は議院内閣制を採用したとは言い難い”と問い直すべきなのか?
最後の疑義が私の頭にある。

[62a] (2) 議院内閣制の特徴 - 再確認


議院内閣制の特徴は何であったのか、もう一度、ここで確認してみよう。
その特徴のなかでも、ここで最も重要な点は、
 (ア) 執政府が二元構造となっていること、
 (イ) 〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による議会解散権〕という対等の権限を有していること、
 (ウ) 「内閣の議会(民選議院)解散権」は、二元構造の執政府のひとつである元首または大統領の調整権に淵源するもので、内閣自体が有しているわけではないこと、
である。

日本国憲法の場合、上の (ア)~(ウ) 特徴をすべて欠いているようにみえる。
“執政府が二元構造となっている”というためには、天皇が国政に関する権限をもっていることが必須となろう。
だが、そう論ずる学説は稀有である。
次に、(イ)は、なるほど、満たされているように思える、が、戦後ほぼ一貫して内閣が不信任決議を待たないで、7条に基づいて衆議院を解散してきていることを解明できない。
また、(ウ)については、学説論争に決着はついていない(この学説の対立については、内閣の助言と承認を論ずる [87] でふれることにしよう)。

学説は議院内閣制のイメージを当初から描き損なったように私にはみえる。
通説の議院内閣制は、41条のいう「国会は、国権の最高機関」のイメージに引きずられて、国民を代表する国会が内閣を民主的にコントロールする、という〔国民→国会→内閣〕という垂直的配列を説いた。
だからこそ、“内閣の存否が議会の信任に依存する”という責任本質説が影響力をもったのだ。

議院内閣制という概念は、日本国憲法を理解していくうえで、予想以上に不毛だった、と私は感じている。
最近の学説のなかには、議院内閣制というタームに代えて、「国民内閣」と表現しつつ、内閣が統治し、国会がこれを監視しているという実態を上手く説明しようとするものがある。
これを「国民内閣制」というかどうかは別として、思考の筋としてはこれが妥当だろう。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十一章 議院内閣制

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第13章 代表と議会制

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第13章 代表と議会制    本文 p.92以下

<目次>

■1.代表


[63] (1) 代表という言葉と意義


「代表」という言葉は要注意語である。
それは、人を表したり、人・機関の地位や役割を表したり、ある権限それ自体を指したりする。
人も役割も権限もひとつの言葉で表現しようというのだから始末が悪い。
本書では、人を表すときには、「代表者」、機関を表すときには「代表機関」ということにしよう。
代表機関とは、統治に携わる人または人の集合体を指す。
法律の執行を任務とする行政機関(官僚団)や、法令を正しく解釈・適用することによって法的紛争を解決する裁判所・裁判官は、代表ではあり得ない。

さらに、代表の行為は、公開・公然のなかで繰り広げられる統治活動であって、秘密裏の行為ではあり得ない。
代表者 representative は、もともと、ある事柄を我々に再現してみせる(represent する)人のことだ、と考えれば分かり易いだろう。
もっとも、「ある事柄」が何であるのか、ここを理解することがツボなのだが。

君主が代表者だった時代には、“君主は国家・国民の一体性を再現する存在だ”といわれたこともあった。
この代表の機能を「象徴的代表」ということにしよう。
君主は儀式を好むが、それは国家・国民に一体性をパノラマのように儀式を通して人々に再現してみせるためだ。
君主が象徴的代表である根拠は、血統(世襲)、伝統、神の啓示等々さまざまだった。
議会は、君主に対抗して《我々は国民の意思を再現 represent する機関である》という、もうひとつ別の代表概念を突きつけた。
これが選挙制代表となっていった。
選挙制が普及した今日、我々が「代表者」というときは、選挙民によって選出された人を指す。
代表者の集合体を「代表機関」という。
代表機関が議会である。

私法において「代表」とは、法的効果が誰に帰属するのか云々するタームであるが、憲法における「代表」とは法的効果の帰属先を論ずるものではない。
憲法と私法でのこの違いを鮮明にしようとするとき、“代表とは政治的意味であり、政治的代表のことだ”と強調される。
つまり、代表者とは、ある政治体制のなかで国民の政治的選好を公然と再現してみせる人をいう、というわけだ。
これを「国民代表」(*注1)ともいう。
代表制とは、国民のうちの多数者の政治的選好を反映するように統治機関が組織されていることをいう。

(*注1)国民代表について
国家や国民があたかも実在するかのように論じてきたこれまでの憲法学であれば、国民代表を次のように説明するだろう。
「国民代表とは、統一的な国家意思の形成のために主権者意思によって選任された人をいう」。
国家の意思や主権者の意思について語ることは擬制に過ぎると信ずる私は、意思に代えて「政治的選好」と表現し、その選好を多元的であるとみて「統一的」という表現を用いることをしない。

[64] (2) 議会の歴史


今日の代表概念は、議会制、選挙制、複数政党制を represent したものである。
つまり、代表概念は議会の歴史を反映しているのだ。
中世中期以降、財政危機に瀕した王は、等族(司祭、村長、修道院長等)に対して、自主的援助金を提供するよう求めた(これが後には税となる)。
その際、王に意見を具申するための会議体として誕生したのが等族(身分)制会議である。

各等族身分は、その伝統的な固有の特権を君主から守るために、等族会議に代表者を送り出した。
その代表者は、選出母体からの命令的・個別的委任を受け、指示されたとおり発現・表決する存在だった。
委任の条件と範囲に違反した代表の行為は無効とされたばかりでなく、代表者の罷免事由とされた。
この代表は「命令的委任代表」と呼ばれる。

確かに、この委任代表のもとでの代表者の役割は限定されていた。
が、これが統治にもたらした変容は重大だった。
というのも、この代表者の登場は、等族の権力と王の権力という二元構造のもとで、王の権力が制限されることを象徴的に示す事態となったからである。

近代主権国家は、等族国家にみられた君主と等族との二元構造を克服することによって成立した。
ヨーロッパ大陸では、その克服は、政治的統一を一身で代表する君主の登場、すなわち、絶対君主制の確立によって達成された([5] [6] えおみよ)。
絶対君主の権力に対抗する際に引き合いに出されたのが、等族会議による王権の制約の例だった。
“代表なければ課税なし”の標語のもと、市民たちは、統治に携わる集会(governmental assembly)のひとつとして代表機関を作り上げることを要求し、これに成功した。
代表機関は、すべての人を代表する我々こそ国家統治の正当性の根源である、と主張して、立法の実体権限を君主から奪い取ったのである。
これが、今日の議会の原型である。
このように、近代立憲主義にとって代表という考え方は極めて重要な発明であった。
この考え方によって初めて、絶対君主の権力から分離独立した議会という統治機関が成立し得たのである。

議会成立の背景に留意したとき、代表機関としての議会は立法機関としてのみ成立したのではないことが分かる。
議会は、課税への同意という、立法でもなく行政でもない君主の作用に同意することから発生生育したことに表れているように、執政府を監視監督しながらそれを抑制することを目指していた。
その本来の目的に従って議会は、課税に対する同意権に始まって予算審議権、立法権限、さらには執政府の政治責任追及権まで獲得していく。
この段階であっても、君主はなお立法の裁可権を保持するのであるが、立法権の実体が議会に移るにつれて、それは国家機関間の調整権限となって(⇒[60])、ほぼ全面的に制限された君主となる。
議会が君主に代わって統治権力の中心となるためには、代表者は、選挙区の利害をそのまま伝える役割ではなく、“すべての人の利益を考慮する存在だからこそ、議会の正当性は君主に優位する”と自らを位置づけることが必要だった(※注釈:つまり「委任代表」から「国民代表」へ代わる必要があった)。

[64a] (3) 純代表


“すべての人の利益を考慮する存在”としての代表者を選出する方法、それが公営選挙だった。
選挙によって選出された代表者は、選出母体からの指示・訓令から自由に、発言・票決できるよう保障された。
代表者はその発言・票決等について責任を問われないという免責特権はそのためである(これについては、後の [136] でふれる)。
この代表のあり方を「純(粋)代表」という。

「純(粋)代表」は、アキレス腱をもっていた。
この代表制における代表者は、“自分はもはや選出母体のローカルな利害を君主に具申する存在ではない”との否定命題を浮かび上がらせるために、“我等は全国民の代表である”とポジティブに強調した。
ところが、現実には、選挙権者・被選挙権者ともに「自由と財産」「教養と財産」を有する同質の市民階層の代表に過ぎなかった。
純代表には実態が伴っていなかった、という意味で、イデオロギーに過ぎなかったのだ。
純代表制は、一見すればデモクラシーのための装置のようでありながら、個々の代表者と彼と利害を同じくする人々の自由を守ろうとしているという意味での“リベラリズム”を基礎としている(シュミット)。

これは視点を換えていえば、国民主権と議会制のギャップでもある。
このギャップに敏感な急進的なデモクラットであれば、〔国民主権→国民の自己統治→直接民主制〕という直線的配列を念頭に、こういうだろう。
“議会または代表が必要であるとしても、それらは直接民主制の次善の策であって、国民が主権者となるには純代表制は排除されなければならない”。
急進主義者は、代表制原理には個人主義的な臭いがあるとこれを警戒して、デモクラシーを自同性原理に定位させようとするのである。

上の主張は、そのままの形で憲法体制に実現されたことはない。
なぜなら、直接民主制は、ナポレオンやヒトラーのような、「英雄的指導者」を激情の中で誕生させる怖れがあるからだ。
これを「プレビシットの危険」(※注釈:人民投票(plebiscite 指導者選出や領土帰属のための人民投票で、投票結果に強制力がある点で一般の国民投票 referendum と区別される)による指導者の決定が独裁者(人民投票的独裁 plebiscitary dictatorship)を生み出す危険)ということがある。
直接民主制は、政治的争点を「イエス/ノー」という単純な選択肢に変えてしまい、それだけ性急な政治的選好を統治過程に反映させるのである。

[64b] (4) 半代表


直接民主制のもつ危険は多くの人たちを納得させた。
とはいえ、国民主権の理念と、制限選挙制・純代表制とが整合しないとの見方も多くの人たちを納得させた。
その結果、新しい代表観が登場した。
それは、19世紀中葉、普通選挙制の実現をみたフランスにおいてであった。
フランス第3共和国憲法(1875年)は、純代表に代わる別の代表制を模索して、選挙民の意向を無視しないための工夫を凝らした。
具体的には、
(ア) 大統領による民選議院の解散制度を導入し、
(イ) 選挙民を直截に代表する議会が最高機関であると謳った
のである。
これによって選挙民は、代表者の発言・票決を従来に比べて実効的に統制できるようになったのである。
ここに《選挙人と代表との政治的選好の間に事実上の同質性が確保される》とする新たな代表観が誕生した。
この代表制は「半代表制」と呼ばれることがある。

[64c] (5) 多様な代表観


但し、フランスの流れは決して普遍的ではないことには留意を要する。
イギリスにはイギリスの、アメリカにはアメリカの代表観が存在してきた。
アメリカ合衆国憲法は、人民が憲法制定権力を有するという、人民主権(popular sovereignty)の原則を標榜しはしたものの、だからといって、人民主権に相応しい代表制は○○のはずだ、といった硬直した考え方を採用しなかった(⇒[40])。
合衆国憲法は連邦制という独自の権力分立制を導入した関係で、州利益を代表する上院議員が各州の代表者とされた(州の大小に拘わらず2名が割り当てられた)。
州の人口に比例して選出される下院は、直接民主制の次善の策として位置づけられた。
が、下院議員が強い権限を揮(ふる)わないよう、2年ごとの頻繁な選挙に服せしめた。
さらに同憲法は、一身で全国民を代表する大統領を置いた。
もっとも、その選出にあたっては、人民の激情による選出を阻止するために間接選挙制とされた。

このように、アメリカ合衆国は、州や地域の代表としての議会、全国民の代表者としての大統領というふたつの代表機関を置いたのである。
大陸諸国の相当数が、君主と議会というふたつの代表機関を置けば、かつての二元構造の復活となることを危惧し、議院内閣制という新たな理論によってこれを克服しようとしたのに対して(この議院内閣制の狙いについては、既に [60] でふれた)、アメリカは独自の代表観を権力分立構想のもとで独自の道を歩むのである。


■2.議会制


[65] (1) 議会に期待されるもの


私は、[64] において、議会は統治に携わる集会として成立した、と述べた。
歴史的にみれば議会は、君主を重心としてもつ権力分立制と、これに対抗しようとする民主制との接点に登場し、君主の統治権を削ぐ権力組織体として、予算審議、法律制定、軍隊編成、外交処理、官僚統制等々の権限を獲得していった。
この動向のなか、19世紀になると議会こそ国民の自由と財産保障の砦だ、と期待され、実際そのような機能を一部果たした。

議会こそ人民の意思を表明する機関だ、と期待する論者は、議会がルソーのいう一般意思またはカントのいう定言命法を表示する機関となるだろう(なるべし)、と期待した(今日の我が国の憲法学者にも、この期待を表明する者がみられる。最高機関としての国会に立法権を独占させ、内閣を法律執行機関に押しとどめようとする憲法学説は、この期待を表している)。
“議会こそ、統治の自同性原理(治者と被治者の自同性)を実現する機関となろう”というわけである。
ところが、普通選挙制確立後の大衆民主主義における統治の実態は、自同性原理の理想とは程遠く、国民の利益または公共性の名のもとでの個別的利益の争奪戦となっている。
純代表のもとで選出され構成される議会は、一般意思を表明するところなどでは到底なく、対立する利害を公開審議の場で討議しながら「調整する場」となっている。

自同性原理から懸け離れた代表制原理のもとで、「政治的利害の取引の場」となった議会をみて、急進的デモクラットは、主権者であるはずの国民と議会構成員(代表者) - 一般意思と代表者意思 -との間に広がるギャップを埋めたがる。
国民代表機関の権限を「人民主権」のもとに脱構築しようとする見解がこれである(先の [39] でふれた憲法制定権力論は、この流れのなかで理解されるとよい)。
これに対して、デモクラシーの過剰を警戒する穏健派は、国民のバラバラの選好を束ね、これを公然と審議し穏やかに調整することこそ現代議会の役割だ、という([69]もみよ)。
これが、自同性原理または自己統治という言葉のもつ魔術から解放された、妥当な見解だろう。

民主制を徹底させれば、各人が代表者として統治上の争点を審議し票決する、自同性原理のもとでの直接民主制となるだろう。
これは権力の集中制だ。
権力分立は、これを避ける工夫だった。

[65続き] (2) 間接民主制の要


確かに、我々全員が統治に関心を持って、その決定に自ら参与し責任を負うという統治体制は、多くの思想家たちの理想とするところだった(現在でもそれを実現したいと熱望している思想家や哲学者は消え去ることがない)。
ところが、我々は、日常の生活をしなければならず、統治に費やす時間・エネルギーを十分に残しているわけではない。
たとえ余裕があるとしても、それを統治以外の分野に向けたいと希望する人々も相当数存在するだろう。
その種の人々を誰が非難できようか。

経済市場が分業で成り立っていると同じように、統治の分野も分業が必至なのである。
「統治する者/統治される者」の分業である(⇒[8]、[27])。
統治する者が代表であり、それが選挙制代表に拠るとき、議会の議員となったり、アメリカ的大統領となったりするのである。

統治における分業体制にあっては、政治の消費者である選挙民が、統治する者に対して有効な統制を及ぼし得る政治体制、すなわち民主制となる(この点については、既に [27] でふれた)。
我々全員が政治の生産者となると同時に消費者となる直接民主制(自同性原理)は、ヒステリックな統治となるに違いない。
民主制は、議会制=間接民主制と繋がるとき、近代立憲主義の常道となったのである。

但し、純粋代表のもとでは、被治者が治者(代表)に対して統制を及ぼそうとしても、選挙民と代表者との関係は法的に切断されている。
このために、選挙民は有効な統制の手段を日常的に持ってはいない。
代表者への統制は、間歇的選挙の機会のみである。
有効な統制の機会であるはずの選挙も、争点は必ず複数あって、統制の焦点を一点に集中することも困難である。
純粋代表の制度は、多数者の政治的選好を反映するのではなく、少数者の利害が組織化されてある争点に集中したために偶然に出来上がる塊を反映するだろう。
この点に留意したとき、間接民主制または純粋代表制は、統治技術としてベストではなく、様々な、次のような工夫によって、その欠陥を埋めなければならない。

まず第一に、 民意の多元的な分布を可能な限り正確に反映する代表制とするために、選出(選挙)のあり方を工夫することである。
その工夫のひとつが比例代表制である。
これは、複数の政党の掲げる公約または綱領を選挙の争点として、基本的には、選挙民が投じた票数に応じて議席を配分する選挙制であり、“少数者も代表されるべし”という構想である。
但し、すべての議会の議席を比例代表制によるとすれば、多数意思の形成が困難となって、政局が不安定となりがちとなる。
そこで、各国は、比例代表制と小選挙区選挙制との組み合わせを採用することが多い。
第二に、 地域的利害は、住民の生活に最も密着した地方政府に直接表明されることが望ましく、そのための補完的チャネルが整備されなければならない。
地方自治制度はそのためにある。
第三に、 一定種の公務員につき、任命による公務員であっても、国民による選定罷免権の対象とすることもひとつの対応である(日本国憲法にみられる最高裁判所裁判官の国民審査はその一例である)。
競争試験によって選抜される公務員は、通常、その対象外とされる。
第四に、 代表者は公益を口にしながら自己利益を最大化しようとしたり、議会での多数を占めたときには、その自己利益を固定化しようとしたりするものだ、という議会政治の欠陥を補正するための統治機関の役割である。
これが、たとえば、会計検査院であったり、独立行政委員会であったり、オムブズマン(※注釈:ombudsman 行政監察官)であったりする。
なかでも、私たちの自由領域が多数決によって削減されるとき、民主過程を破る司法審査制の役割が忘れられてはならない(⇒[17])。
憲法規定の大部分は、移ろい易い議会の多数の意思に対抗するためにある。

[66] (3) 日本国憲法上の代表制


日本国憲法の採用する国民代表制は、徹底した直接民主制であると解し得る余地はなく、次のいずれかだろう。
まず第一に、 選挙人の選好を法的に遮断するなかで、代表者が独自に政治的選好を形成する代表制、すなわち「純代表制」、
第二は、 代表者が選挙人の利害との事実上の同質性を維持しながらも、独自に政治的選好を形成する代表制、すなわち「半代表制」、
第三に、 主権者であるはずの国民(人民)と代表者との距離が短ければ短いほど望ましいとの前提に立って、命令的委任に服する代表制すなわち「委任的代表」(直接民主制の次善手段としての代表制)、
以上の3つである。

日本国憲法の文理をみれば、「権力は国民の代表がこれを行使し」と謳う前文、国会議員が「全国民を代表する」と定めて選出母体からの統制を受けないことを示唆する43条、それを具体化するために代表に免責特権を与える51条等から考えて、上の第三の選択肢は消去される。
となると、日本国憲法上の代表制は、純代表制または半代表制のいずれかだろう。

“選挙人の意思と代表者の意思とが事実上、同質性を示している”半代表制は、日本国憲法上のどの要素に表れているか?
半代表論者は、普通選挙制、衆議院の解散制度、政党制等の要素を挙げる(政党の機能については、後の [68] でふれる)。
これらの要素によって、事実としては、代表者への自由委任は貫徹し得なくなってきた、というわけである。
半代表論には、“地域的利益は同質であってその意思は代表され得る”という想定があるのだろう。
ところが、地域的利益も実は多元的であって、代表され得ると思われる利益も、実は、同質的ではなく個別的でしかないのである。
半代表論は、国会を地域の特殊・個別的利益の巣とするだろう(大統領公選制や首相公選制は、特殊利益代表と化した議会に対して、全体利益代表としての執政府の長を置いて、議会の半代表機能を修正する試みである)。
さらには、参議院議員の任期が6年、衆議院議員のそれが4年と長期であることからして(45、46条)、選挙人と代表との事実上の同質性が果たして見て取れるだろうか?

確かに、後でふれるように、先進諸国における政党の発達は、代表者の行動を変えてきており、“議員は政党によって拘束された、政党のための受託者だ”ともいわれることがある。
これは、単に代表者が党則・党議に拘束されているということだけでなく、〔政党支持者または一般党員→政党→議員〕という連鎖のなかで、多数の政党支持者(選挙人)によって代表者が統制されていることをも意味している。
このことは、選挙人が選挙において政党に票を投ずる比例代表選挙制、なかでも、選挙人に候補者名簿上の順位の選択を許さない拘束名簿式比例代表制においては、特に頷(うなず)けるだろう。

[66a] -


では、拘束名簿式比例代表選挙制のもとで選出された代表者が、所属政党から脱退または除名されたとき、その議員としての地位は不動であるか?
選挙人は、当該代表者の所属した党に投票した、にもかかわらず、事後、その人物の所属政党に変動が生じた場合、当該代表者の議員としての資格はどうなる?

このケースの結論を左右するのは、上でふれた日本国憲法における代表制の理解である。
半代表制だ、と解する論者であれば、脱退等によって事実上の同質性を表す〔政党支持者または一般党員→政党→議員〕の配列に狂いを生ぜしめた以上、その議員は代表者としての資格を失うはずだ、というだろう。
これに対して、日本国憲法における代表制は純代表制だと解する論者は、《選挙人が党の規律を通して代表を間接的に統制できるとしても、それはあくまで政治的な意義をもつにとどまり、憲法典上の代表の法的地位に変更を迫るものではない》というだろう。
これらのうち、半代表なる概念が事実上のものにとどまることに留意すれば、法的効果を発生させようとする思考は、いただけない。


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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十一章 議院内閣制

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第14章 政党

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第14章 政党    本文 p.102以下

<目次>

■1.政党の意義と機能


[67] (1) 政党の意義


政党の意義を正確にうち立てた論者は未だに存在しない。
それだけ複雑な問題なのだ。
何が複雑だというのだろう?

政党には、それこそピンからキリまである。
私ひとりでも政党を名乗ることが出来る。
ところが、私のこの「政党」では趣味のサークルや市民運動と変わらない。
少しばかり人数が増えたとしても、圧力団体にすら届かないかも知れない。
また、政党を名乗らないことを好む人もいるだろう(「緑の党」と訳されるドイツの組織は、もともと党ではなかった)。

政党とは、どうも名称によって決まるわけでもなければ、人数の問題でもなさそうだ。
では、議会における議席を獲得する、という目的を掲げるものが「政党」だろうか?
それを目的としない「政党」も存在する。

“国民の政治的選好を国政に反映することを目的とする団体”では限定的すぎる。
地方公共団体の政治レヴェルでも「政党」は存在するからだ。

ドイツの政党法の定義を見てみよう。
「永続的または長期間にわたって、連邦またはラントの領域での政治的意思形成に影響を与え、かつドイツ連邦議会またはラント議会における国民の代表に協力しようとする市民の結社」となっている。
これは、自治体政党が政党法にいう「政党」ではないことのほか、「政党/選挙人団」、「政党/圧力団体」の区別を暗に示している。
要するに、“政党法の立法目的からすれば、これを政党と呼ぶのだ”というのである。
この例から分かるように、政党の定義は、立法の目的によって多様とならざるを得ないのである。

政党は、結社の自由を享受することによって、次第しだいに姿を現してきたことに留意すれば、結社の意義と重ね合わせるのが有効だろう。
結社とは、共通の目的のもとで複数の人間が自発的に結合し、その構成員の変動にも拘わらず継続性をもつ組織体である。
政党の特質は、ここにいう「共通の目的」に、政党特有の目的を挿入すれば判明するだろう。
ドイツ政党法に倣っていえば、“国民の政治的意思形成に協力すること”となるだろう。
これが、どうも国民を実体化しており擬人的で宜しくないと考える人は、“人々の多数の政治的選好を間まとめ上げること”を挙げてもいいだろう。
以下にいう「政党」は、国政に政治的選好を反映しようとする組織体が念頭に置かれている。

[68] (2) 政党の機能


現代政治における政党の機能は、次のように要約できる。
さまざまな個人や集団の表出する利害・要求を、処理可能な数セットの選択肢にまとめる利益集約機能
政治に関する情報を選挙民に提供し、公論の形成を助ける情宣機能
政治的リーダー(議員、首相等)を選抜して、統治機構上の地位に就任させる選出機能
内閣や大統領府を組織したり、議会や委員会での審議のイニシアティブを握ったりするための、意思決定マシーン化機能

今日、選挙民が政治的リーダーを選出したり交替させたりする民主制において(民主制の意義については、[27]をみよ)、上のような政党の機能は不可欠である。
良きにつけ悪しきにつけ、政党は現代政治の動脈だ、といわざるを得ない。

政党が議会を通じて政権を掌握し、運営するに至った段階の政治を、「政党政治」という。
また、政党政治において、政党相互間作用が展開される枠組みを「政党システム」という。
政党システムは、行動単位数に焦点を当てて、一党制、二党制、多党制に従来は分類されてきたが、今日では、この分類の単純さに気づかれて、一党制、一党優位政党制、二大政党制、穏健な多党制、分局的多党制等が挙げられる。

19世紀から20世紀にかけて、政党政治と民主主義とが矛盾なく結合していたのは、イギリスとアメリカだけであった。
それ以外の西欧世界の諸憲法典が、政党をタブー視することなく正式に政党の存在に言及するようになるには、第二次大戦の終了とその後の先進自由主義国の政治的安定を待たねばならなかった。

概して、大陸においては、多元的国家観、代議制、中間団体等は警戒感をもってみられた。
国家は有責の公民から成る一元的な政治的共同体であることが望ましい、と考えられてきたからだろう(⇒[57])。
この見方は、議会のあり方にも反映された。


■2.政党の歴史的展開


[69] (1) 議会観の変容と政党


市民革命とともに誕生した国民代表機関としての議会は、身分制議会への反動も手伝って、《国民の一般意思を表すべき組織体だ》と期待された(⇒[65])。
この古典的議会観は、代表もその選出母体も「教養と財産」をもつ同質の人々であった時代だったからこそ成立し得た(⇒[64])。
古典的議会観は、普通選挙制が実施された後は、大きな変容を被らざるを得なかった。
選挙人は、多様な社会的背景をもった多元的な人々から成っており、一般意思の主体であるはずがなかった。
彼らの利害関心は、凝集した一体ではなく、政治的には勿論、経済的・宗教的・文化的にも多様である。
大衆民主主義の時代である。

この時点から、議会は、統一的な国民意思の表示の場ではなく、社会における利害対立を、公式のルールに従いながら議事公開のなかで調整する場だとみられてくる([102]もみよ)。
議会が、現実的利害対立の調整の場であるとすれば、その利害を明確に表示し、集約化する媒体が登場すること必定となる。
この利害の表出・集約機能を果たす最も重要な結社が、政党である。

先の章でふれた議院内閣制は、政党政治が議会の内外で確立するのと並行して、憲法にも定着したのである。
議院内閣制の成立する条件は、複数政党のうち、議会における多数派を占める政党のリーダーたちが内閣を組織することにあった。
この条件が満たされて初めて、議会と内閣の間に統治方針の一致の原則が成立し得るのである。
議院内閣制は政党政治の行われる国制上の装置として生成し発展してきたのである。

[70] (2) 政党の歴史


政党は、国民のなかでの利害対立を政治過程に表出するための基本的条件が整った後に登場した。
その基本的条件とは、言論・集会・出版の自由が保障されて権力回路が開かれていることであり、代表制や議会政治のルールが確立することであった。
政党の存在が憲法典を頂点とする実定法によって認知されるまでには、有名なトリーペルの政党の4段階説(敵視→無視→法制化→憲法編入)にみられるように、紆余曲折がみられた。

政党の存在がまず国法によって忌避された理由は、《議会は自由で平等なる議員から成る》という古典的議会観と相容れなかったことによる。
当時の国家が、中間団体に対して一般的に強い警戒感を抱いていたことはいうまでもない。
だからこそ、19世紀までの憲法典上の規定は命令的委任の禁止、免責特権条項、を組み入れ、議院規則は、議席の抽選による配分等、政党組織発生を阻止するよう様々な方策を施したのである。
当時までの国家理論によれば、統治権なるものは憲法典上の正式機関に排他的に委ねられるべきものであった。
この時期は「政党敵視の時代」だった。
その後、19世紀の諸憲法にいう結社の自由には政治的結合の権利が含まれる、と理解され始めた。
この理解は、政党の誕生を手助けはしたものの、政党そのものは、国家秩序のなかに何らの地位をも占めなかった。
無視の時代」である。
さらにその後、生育の基本条件も整った段階で、政党は、主に選挙法によってその存在を認知されつつも、規制の対象となっていく。
この「法制化の時代」への第一歩は、ヴァイマル時代の選挙法だった。
同法は、各政党が候補者名簿を作成し、選挙人は自己の支持する政党の候補者名簿に票を投ずることを法認したのである。
ところが、この法律上の承認にも拘わらず、ヴァイマル憲法自身は、命令的委任の禁止(21条)、議員の免責特権(36条)規定を有しており、政党に対して防御的態度を維持した(また、130条において、官吏は全体の奉仕者であって一政党の奉仕者であってはならない、とされていたのも、政党に対する警戒心の表れであった)。
この時期にあっても、「政党は憲法外の現象」との評価が一般的だったのだ。
憲法典自身、議会は自由・平等な独立して表決する議員によって構成されるものだ、という理念に依然として依拠していたのである。

政党は、政党政治の時代に突入した段階で、あたかも国家機関の創設機関の如くとなってきた。
先に指摘した政党の選出機能(政権担当者としての政党)および政治的意思決定のマシーン機構化機能(政局運営者としての政党)は、国家機関創設機関さながらの機能である。

政党は、このように、一方の顔を市民社会に向け、他方の顔を国家に向けているヤヌスの如くである。
今日の政党は、市民社会と国家とのギャップに架橋すべく、議会を起点として、他の政党と競争しながら、国家機構に手をのばすのである。
このことからすれば、政党をフォーマルに公的機関と位置づけることも、不合理ではない。
第二次世界大戦後の諸外国の憲法典のうちの幾つかは、一国の政治が政党の動向によっても決定されるとの認識に立って、政党のあり方につき言及してくる。
たとえば、ドイツ基本法は、結社条項(9条)とは別に、政党条項をもち(21条)、「政党の内部秩序は、民主的諸原則に合致しなければならない。政党あh、その資金の出所および使途ならびにその資産について、公開の説明をしなければならない」と、政党の活動を統制しようとしている。
これは、憲法の前提とする議会制民主制が機能するには、政党の活動を必要とすることを承認しながら、他方、政党制度を憲法秩序のなかに正式に位置づけようとする規定である。
この規定は、私的結社とは異なる憲法上の地位を政党に与えている点で、トリーペルのいう「政党の憲法編入」という第4段階を示唆するかのようである。
特に、「内部秩序」、すなわち、党の意思形成、候補者の選定、綱領・党則の決定、役員の選出等につき、民主的諸原則に合致するよう求めている基本法21条1項は、他の国にみられるような、政党の役割を宣言するスタイルとは性質を異にしている。

それでもなお、ドイツ基本法は、政党を公式の国家機関として位置づけているというには程遠い。
そのことを表すように、基本法は、命令的委任禁止条項(38条1項)をもっている。
これは、議会は自由で独立の議員から成るという古典的議会観を基本法が残しているのだろう。
政党条項は、命令的委任禁止を乗り越えることは出来ないようだ。ドイツ基本法は政党の憲法編入の時代まで、いまだ至っていないのだろう。

政党は、国家機関と違って、市民社会において消長を繰り返す任意結社である。
憲法は、政党について詳細な定めを持たないほうが望ましいように私には思える。
その設立や解散が自由な政党は、国家機関として公式化されるべきではなかろう。
自由に設立され、政治過程の自主的な仲介者となるところに政党の存在理由がある。


■3.政党の病理と法的規制


[71] (1) 政党の病理


確かに、政党は、国民と議会を、さらに、議会と執政府とを結ぶ不可欠のリンクであり、議会制民主制(代議制)の生命線である。
純代表制のもとでの議会が国民の意思を代表することはないのに対し、政党はその支持者の意思を代表する、と期待されるからである。
政党は、国民の政治的選好を誘導し、明確化するところに徹すれば、まさに民主政の生命線として機能する。
「徹すれば」というのは、政党は、行政や司法に足を踏み込むべきではない、という分離の規範を含意してのことである。

ところが、政党は、議会内外での法案・政策作成過程において、専門知識を有する官僚組織の協力を得なければならないために、官僚団と癒着し、「全体の奉仕者」であるはずの官僚団を「政党の利益の奉仕者」へと変質させている。
そしてまた、国民との関係をみれば、政党は、世論の最大公約数にターゲットを当てるために、各党の公約は政治的争点を相対化し、曖昧にしがちである(耳目に優しいスローガンばかりとなる)。
その実、政党は、最も有効に票を獲得しようとして利益誘導的政治活動へ流れ、組織票をもつ特定の集団利益を代表する傾向をみせる。
政党が選挙時に掲げた政策表明(公約)や「マニファスト」は、選挙に勝った後の行動指針ともならないのが現状である。
政治学者たちが、「選挙民の政党嫌い」を口にし、選挙民の多数が既存の政党に満足していないのは、こうした現象を反映している。

上のように、政党は、民主制にとって病理現象をもたらしつつある。
それでも、統治者の平和裡の交替は、政党なしにはあり得ない(官僚に求められる政治的中立性は、統治者の交替を平穏かつ円滑にするための条件なのだ)。
その意味では政党は、病理をもたらすとはいえ、統治過程にとって必要な存在である。
病理は、政党法、選挙法等の法律によって対処されなければならない。

[72] (2) 政党の法的規制


政党条項をもっているドイツ基本法のもとで、政党の憲法典上の性質につき、学説は、
(ア) 政党の政権担当機能を重視して、政党をひとつの国家機関、すなわち、国法上の創設機関であると解する国家機関説
(イ) 政党がその根を市民社会に置いている任意の非営利的結社であると解する社会団体説
(ウ) 政党の地位は「公/私」いずれかであるとする硬直した態度を避け、画一的に法処理できぬ独自の法理に従うものと理解しようとする媒介説折衷説)、

と、鋭く対立している。

上の学説のうち、政党の公的性格を強調するものほど、政党に対する法的規制の許容度が大となる。
但し、結社の自由の産物である政党を過剰に法規制してはならない。
過剰な法規制は、政党の機能を損なうだろうからだ。
過剰な法規制とならないためには、問題の法令(たとえば、政党法)は、政党の自由を相対化(弱化)するのではなく、党員が党の指導者たちを平和裡に交替させる方策を定めることで止まらなければならないだろう。
党内民主制の確立を政党に義務づけることが、その典型例である。
立憲主義のもとでの統治が、開かれた権力回路のなかでの多数者意思によって為されなければならない以上、権力奪取を目指す政党の内部的運営は、その範型(モデル)となるよう求められている。
その限度にとどまる法的関与は、規制ではなく「規整」と呼ぶのが相応しいだろう。

[73] (3) 日本国憲法と政党


我が国の憲法典は、政党条項をもたない。
日本国憲法は、政党の憲法編入の時代まで相当の距離を残している。
先の政党の4段階でいえば、「法制化の時代」にとどまっている。
そのことは、我が国の憲法典が命令的委任の禁止(43条1項)、議員の免責特権の保障(51条)、そして公務員の政治的中立性(党派的中立性)に関する規定(15条)等をもって、政党に対して防御的姿勢をみせていることに表れている。
政党に関連する規定は、憲法21条の結社の自由である。
政党は、設立の自由、内部組織・運営・活動の自由、解散の自由を保障される。

周知のように、八幡製鉄政治献金事件における最高裁判決は(最大判昭45.6.24民集24巻6号625頁)、政党が議会制民主主義を支える不可欠の存在であると指摘したうえで、憲法は政党の存在を当然に予定している」と述べた。
ところが、議会制民主制は、政党に対して懐疑的であったことを考えれば、「当然に予定されている」と間単に片付けるわけにはいかないのだ。

日本国憲法が政党条項を持たず、政党に対して憲法21条上の各種の自由を保障していることは、我が国憲法典の政党への姿勢は、違憲政党を禁止するドイツ流「戦う民主主義」とは根本的に異なると解するほかない。
我が国の場合、いかに「自由」や「民主主義」を否定することを綱領として掲げる政党であっても、このこと自体を理由にして、その設立を禁止することは出来ないだろう。

現在のところ、我が国は政党法を制定していない。
政党は、任意結社のひとつと捉えられて、その組織運営も、政党の自主的な運営に任されている。
それだけ、我が国の政党は、国法による規律に神経質なのだ。

現在のところ、政党を規制する法令として挙げられるものは、政治資金規正法のみである(これは、表題が示すように政党を「規制」するのではなく、政治資金の流れを「規制」するのである)。
同法は、「議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性」に鑑み、政治団体の政治活動を国民の不断の監視と批判のもとに置いて、政治団体の届出、政治資金の収支の公開および授受の規制その他の措置を講ずることを目的としている。

政党が現実問題として国家意思の形成に重大な影響を与えているといわれているにも拘わらず、現行法は、政党を国家機関として扱っていない。
実状をみれば、政党は、正式の国家機関である国会と内閣に対して、その選好を実現させようとしているといわざるを得ない。
それでも、現行法制は、“国家意思の決定は国家機関によって為されるべし”という古典的スタンスに出ている
これは「統治/政治」の違いの反映である(⇒[3])。

日本国憲法は、一般に考えられているよりは、ずっと古典的な憲法典である。
が、それにしても、政党の党内民主制の確立を法令で求めることは、柔軟な憲法解釈を通して可能であるばかりでなく、そう実現すべきだ、と私は感じている。


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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十ニ章 政党論

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■第二部 日本国憲法の基礎理論


第1章 日本国憲法における立憲主義

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論   第1章 日本国憲法における立憲主義    本文 p.111以下

<目次>

[74] (1) 立憲主義の意義


立憲主義は、大きく、「近代立憲主義」と「現代立憲主義」に区別することが出来る。
前者の近代立憲主義は、また大きく、「立憲君主制」と「立憲民主制」とに分けることが出来る(但し、私自身は、「立憲民主制」というタームは避けることにしている。なぜなら、既に [22] でふれたように、近代立憲主義の狙いは、民主制の実現にはなかったからである。立憲民主制なる用語は、「君主制でも、貴族制でもなく、僭主制でも寡頭制でもない立憲主義」を表そうとして選択されたのだろう。が、それは、立憲主義の本来のニュアンスである《憲法によって統治権を制限すること》を表し切れていない、と私は確信している)。

体系書または教科書は、上のような幾つかの立憲主義を念頭に置いたうえで、「近代立憲主義から現代立憲主義へ」の展開に言及することが多い(⇒[24]~[25])。
このふたつの違いと展開は、通常、こう説明される。
近代立憲主義とは、 自由権(国家からの自由)の保障を第一義とするために「制限された権力をもっての統治」を目指す憲法体制のことをいう。これに対して
現代立憲主義とは、 「社会国家の樹立を目指すために権力を積極的に行使する統治」を容認する憲法体制をいう。
現代立憲主義は、近代立憲主義のもたらした負の遺産、すなわち、貧富の差、経済恐慌、失業等に有効に対処するために20世紀当初以降立ち現れたのだ(⇒[24])。

ところが、不思議なことに、「社会国家」の真の意味は明確にされたことがない
私の推察するところ、それは、「ブルジョア(市民)/労働者または弱者(社会)」という亀裂を念頭に置いて(⇒[8])、“社会権(社会保障)を充実させることが国家の任務だ”という国家観をいう(「社会」の意味は、「市民法秩序/社会法秩序」といわれるとき、最も明確に浮かび上がる。この点については [25] をみよ)。
社会国家の原型は、ヴァイマルそして今のドイツにあり、思想的論拠は「社会民主主義」にあり、その最大の特徴は所得再分配政策である

ドイツ理論の影響を受けて、我が国の憲法学者の相当数が、“日本国憲法は、社会国家原理を採用してきた”と論じてきた。
が、私は、この理解に大いに批判的である(社会権や社会保障については、『憲法2 基本権クラシック』において、私は既に私見を披瀝した)。
《日本国憲法は、想像以上に、古典的な種類の立憲主義憲法に属している》と私は診断しているからである。

日本国憲法が採用している、法の支配、権力分立、議会制、議員の地位、条約締結、普通選挙制、自由権保障等々は、近代立憲主義に忠実である。
また、議会(国会)について二院制を採用していること、各院に強い自律権を保障していること、執政府について内閣制を採用していること、司法府について自律権を保障しアメリカ型司法審査権まで付与していること(司法審査制はアメリカ建国時に既に気づかれていた)、硬性憲法としていること等も、日本国憲法が近代立憲主義、なかでも古典的な種類のそれに属していることの反映だといえる。
社会権はこの例外だ、と考えたほうがいいだろう([80]もみよ)。

[75] (2) 日本国憲法の特異さ


もっとも、日本国憲法における統治構造には、主要立憲主義国の現行憲法には見出し難い、独自の特徴が見出される(基本権保障については、ここではふれない)。

第一は、 かつての君主であった天皇につき、世界でも稀な象徴天皇制(*注1)としている点である。
天皇が元首かどうか論議があるとはいえ、憲法の全体構造のなかで天皇制を考えれば、日本国憲法が立憲君主制によっていないことは明らかである(この点については、後の [84] 参照)。
象徴天皇制は、社会国家とか現代立憲主義とかに特徴づけられる日本国憲法にあって、いかにも古色蒼然とした色合いをみせている。
これは、現代立憲主義から大きくズレており、内閣(宮内庁)の天皇に対する処遇は、明治憲法の臭いすら感じさせるところがある。
第二は、 日本国憲法には、自衛戦争まで放棄する決意まで読みとれる、徹底した「平和主義」が謳われている点である(9条は天皇制の存続と引き替えとしてGHQから提案されたと指摘する論者もいる。この視点からすればこの第二点も第一点と絡んでいる)。
9条の解釈論争については後の [95] でふれるとしても、その文理を一読したとき、主要立憲主義国家の憲法を「抜け出ている」との印象は免れない([89]もみよ)。
この特異さを“現代立憲主義の一要素だ”と考えてよいか、それとも、“普通の立憲国家からの逸脱だ”と考えてよいか、この評価の違いが9条の解釈に反映されるだろう。

我が国の憲法学界は、明治憲法に否定的な評価を与え、他方で、日本国憲法を“民主的に”解釈すればするほど正しい姿勢である、といてきたところがある。
確かに、現実の統治過程には、明治憲法におけるプラクティスまたは習律が、時々顔を覗かせており、私にとっても気になるところがある。
上にふれた天皇の処遇以外について、少しばかり例を挙げると、
(1) 予算を法律の形式で審議議決しないこと、
(2) 閣議に全員一致を要するとしてきたこと、
(3) 院の自律権よりも、国会の議決(法律)を優位としてきたこと、
(4) 地方公共団体を国家の下位機関であるかのように扱ってきたこと、
(5) 法の支配を法治主義と同じものであるかのように意味づけてきたこと
等である。
なかでも(5)は、統治の要であるはずの法の支配が我が国に根付かないことの原因となっている。

(*注1)象徴天皇制について
アメリカのある論者は、“象徴天皇制は談合オリエンタリズムだ”と、それが日米の妥協の産物だったことを絶妙な表現で象徴天皇制の由来を指摘した。
いわゆる国旗・国歌法の制定(平成11年)にあたって小渕総理大臣は「君が代の『』は日本国および日本国民統合の象徴であり、その地位が日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことを指しており・・・・・・」との解釈を示した(平成11年6月29日衆院本会議)。
この芒洋とした一文は、天皇制と国民主権との不整合さを浮かび上がらせている。

[75続き] (3) 日本国憲法と法の支配


以下では、近代立憲主義が法の支配とセットとなって歩んできたことの重要な意味に留意しながら、日本国憲法の統治構造を概観していこう。
その基本的な構造を理解するには、第Ⅰ部でみた基礎理論を応用すればいい。
そのままのかたちで応用できない箇所があれば、その理由を考えればいいのだ。

もっとも、「基礎理論を応用する」といっても、その応用の仕方には、論者それぞれの選好が反映される。
先にふれたように、我が国の多くの憲法学者であれば、“民主的に”応用することを好むだろう。
それに対して、私のように、“自由主義的に”応用することを好む研究者もいるだろう(民主主義、自由主義の意義については、既に [26]~[29] でふれた)。
この本の筆者として正直にいえば、基礎理論の部分を私は既に“自由主義的”に語ってきた。
この第Ⅱ部では、自由主義的に構成された基礎理論をさらに自由主義的に日本国憲法へ刻み込もうと私は努めるだろう。


※以上で、この章の本文終了。
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第四章 立憲主義と法の支配 第五章 立憲主義の展開

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第2章 現行憲法制定の法理

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論   第2章 現行憲法制定の法理    本文 p.115以下

<目次>

■1.大日本帝国憲法の制定とその特質


[76] (1) 明治維新と大日本帝国憲法の制定


明治維新は、復古の名のもとで国民国家を樹立した(「維新」は、グローバル・スタンダードでいえば、市民革命または王政復古のいずれかである。明治維新は市民革命ではない、と私はみている。我が国の維新期の指導者たちが「国民国家」を市民革命によらずして樹立したことこそ、まさに、革命だった)。
国民国家の樹立は、それまでの藩体制(日本版等族国家)を否定し中央政府を作り上げることから始まった(そのための施策としては、廃藩置県が最重要だった。これによって初めて、国民国家の基礎である租税徴収体制を全国一律に張り巡らせることが可能となったのだ)。

議会の開設を約束した明治政府の課題は、何よりも国制(憲法)を整備することにあった。
先進国における憲法事情調査のために、伊藤博文等の憲法調査団が、明治15年、ヨーロッパに派遣された。
伊藤等は、主としてプロイセン、オーストリアにおいて、憲法を制定することの意義についてL. シュタインやグナイスト等から修得して帰国した。
憲法制定の狙いは、復古の体制を堅固とすることにあり、そのために、まず、貴族院への布石として華族令が(明治17年)、内閣への布石として内閣官制が制定された(明治22年)。
憲法典の起草に着手されたのは明治19年になってからだった。

[76続き] (2) 明治憲法の特質


憲法典を起草するにあたっては、プロイセンの範に倣って、
(ア) 欽定憲法とすること、
(イ) 漸進的性格とすること、
(ウ) 議会の権限を希釈すること、
(エ) 天皇の地位を不可侵とすること、
等が前提とされていた。
が、プロイセン憲法とは別の特異さも準備された。

明治維新が復古の形式をとった関係上、大日本帝国憲法(以下、「明治憲法」という)は、「国体」を宣言することを目的とした。
「国体」とは、発布勅語にいう「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ」た主権(統治権および制憲権)が天皇に帰属することのみならず、天皇家や天皇の身体について国民またはその代表者が容喙すべきでないことを意味した。
そこでまず明治憲法は、その告文で、「皇室典範及憲法ヲ制定」する目的は「皇祖皇宗ノ後裔ニ胎シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スル」ことにある点が明らかにされた(平易にいえば、「先祖代々と天皇の子孫に伝えられた統治の手本を受け継ぎ、これによる」こと)。
続いて、発布勅語に、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権」という天照大神にまで遡る神勅による制憲権を謳ったうえで、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)と定めた。
神権主義的天皇制の採用である。
また、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)との定めは、天皇の政治的・刑事的無答責のみならず、不敬の禁止、廃立の禁止を含意していた。

これらは後知恵からいえば、西洋の王権神授説を遥かに超えた、自らを神としようとする選択を近代憲法の中で敢えて謳う無謀な国制だった。
しかしながら、当時の指導者の立場に立ったとき、それは国民国家を人為的に樹立するためには止むを得ざる選択だったように思われる。
とはいえ、その神秘的色合いが、皇室による無数の神道儀式、教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓等々、憲法周辺のプラクティスの中で次第に増幅されてしまった。
この点が現行の憲法と比較されたとき、負の部分として浮かび上がり、「昭和維新」以後、民主主義論者による批判の対象となった。

現行憲法との比較や後知恵の助けなしに明治憲法をみたとき、それは誕生したばかりの国民国家に立憲主義を平和裡に植え付けたのであり、まさに革命的な事柄だった。
このことは、フランス革命やアメリカ革命が流血の惨事を掻い潜った後に立憲主義を誕生させたことと対照すればよく分かるだろう。

「明治憲法が立憲主義を我が国に植え付けた」といっても、それは、立憲君主制を限定的に採用したことを指す。
立憲主義よりも国体を優先させる憲法は西洋の立憲君主制からはズレていた。
明治憲法は、近代立憲主義の核心である法の支配、権力分立、さらには「行政の法律適合性原則」等の理論を、理論どおりには実現しなかった。
そのことを以って後世は、明治憲法典が「外見的」立憲主義を採用したにとどまった、と評価することになる。

明治憲法が立憲君主制的な色合いを持っていることは、
天皇は統治権の総攬者であること(4条)、
天皇は議会の協賛をもって立法権を行使し(5条)、法律の裁可権を有すること(6条)、
天皇の輔弼機関として大臣が置かれること(55条)、
憲法典の明文保障する基本権を制約するには「法律の留保(*注1)」原則を満たさねばならないが、それ以外の利益は勅令や命令により得るとされていること、
に典型的に表れている([56]もみよ)。

ところがそれでも、明治憲法における立憲君主制の基調は、憲法発布勅語にみられるように、「此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ」統治することを約する「主権者の自己拘束の理論」にあった。
そればかりか、告文や発布勅語にみられる神権主義は、立憲君主制にも、西洋の王権神授的絶対主義にもみられない要素だった。

(*注1)法律の留保の意義について
法律の留保といわれるものにも、ふたつの用法がある。
第一は、本文に述べた用法である。
第二は、“基本権は法律の範囲内で保障される”という用法である。
後者においては、この言葉が基本権規定に使われているとき、“議会は法律によって基本権を制限できる”ことを意味している。

[77] (3) 明治憲法の病理


「此ノ憲法ノ条章」の間隙に現れたのが「統帥権の独立」というマジカル・タームだった。
明治憲法は、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(11条)と定めていた。
統帥事項は、陸海軍の編成・兵額の決定(12条)とは違って、議会や内閣の関与を許さない事項だ、との解釈が幅を利かせ、ガン細胞のごとく増殖し、日本という国を蝕んでいったのである。
その病巣は、明治憲法の抱えていた神権主義的憲法観が立憲君主制思想に打ち勝つうちに、ますます転移していった。
それが、我が国特有の「国体」護持として、太平洋戦争の敗戦後まで国家の哲学とされてしまった。


■2.明治憲法から新憲法へ


[77] (1) 全面改正までの経緯


アメリカ、イギリス、ソ連、中国が発したポツダム宣言は、「平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」が「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ」樹立されること(12項)、その実現まで占領軍が支配力をもち、日本国の独立性は否定されること、等を明らかにしていた。
日本政府は、同宣言が「国体」の変更まで要求していないことを確認しようとしたものの、連合国側の拒否を受けたまま、昭和20年8月14日、同宣言を受諾した。
この受諾は、決して無条件降伏の承認ではなかった。
にもかかわらず、連合軍による日本の占領が開始された後、無条件降伏であることが前提了解であったかのように、占領政策が進められた。

占領政策の最重要課題が明治憲法の「改正」だった。
連合軍最高司令官D. マッカーサーは、ポツダム宣言にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従」う、民主的な憲法制定を当時の幣原内閣に指示した。
松本蒸治を委員長とする憲法問題調査委員会が憲法の改正作業に入った。
同調査会は、国体に変更を加えない方針だった。
これを知った連合国軍総司令部は、
(ア) 元首たる地位におかれる天皇の権限は、憲法に基づいて行使されること、
(イ) 国家の主権的権利としての戦争を、紛争解決のためであれ自衛のためであれ、放棄すること、
(ウ) 日本の封建制を廃止し、予算のタイプを英国の制度に倣うこと、
の三原則を内閣に示した。
「マッカーサー三原則」である。

マッカーサーは総司令部民生局に憲法草案の検討を命じ、9日間で作成された「マッカーサー草案」が昭和21年2月に政府に提示された。
これを拒絶することは許されない雰囲気のなかで、政府はこれを基礎にして憲法改正草案要綱を作成した(昭和21年3月)。
同要綱に若干の修正を加えた帝国憲法改正案が、枢密顧問の諮詢を経て、明治憲法73条所定の改正手続に従って第90帝国議会に附議された(昭和21年6月)。
その際の勅書は、「朕・・・・・・国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し、・・・・・・」と述べた(頭点は阪本)。
この全面改正案は、衆議院による若干の修正の後可決され、貴族院によっても若干の修正のうえ可決された後、枢密顧問の諮詢さらに天皇の裁可を経て、公式令3条により、日本国憲法として昭和21年11月3日に公布された(施行は昭和22年5月3日)。

[78] (2) 「改正」論争


このように、日本国憲法は、明治憲法73条の改正手続に従って、国家における主権(制憲権)の所在を天皇から国民へと転換せしめた。
これは、改正という名のもとでの新憲法の制定であっただけに、“法理上、あり得ない事態ではなかったか?”との疑問が生じてくる。
これが、先に憲法改正の限界を論じた際にふれた、制憲権と改正権との繋がり如何、という論点である(⇒[46])。
今日まで日本国憲法の素性の正当性に疑問を抱く人たちがいるのは、日本国憲法が「明治憲法の改正」として成立したこの事情も絡んでいる。

上のような日本国憲法「制定」の経緯は、通説的な憲法改正限界説に立つとき、一貫性をもって解明することは困難である。
通説的な憲法改正限界説は、《改正権は制憲権に変更を加えられない》という前提に出ることは既にふれた(⇒[46])。
そうなると、明治憲法の「改正」手続で国家の根本構造を変更することは法理上不能だ、ということになる。
しかし、だからといって、“改正権の限界を超えて制定された日本国憲法は無効だ”と結論することは避けたい(無効だ、と主張する少数説もないわけではない)。
そう考えた論者は、国家の根本構造が変わったという契機を明治憲法の改正という国内の事情に求めないで、ポツダム宣言の受諾という国際的な事情に求めた。
つまり、同宣言の受諾にあたって寄せられた連合国の回答(バーンズ回答)にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ依リ決定セラルヘキモノ」との条件を日本国が受諾した時点で(昭和20年8月11日)、“我が国は国民主権へと主権原理を転換していたのだ”というわけである。
この説の提唱者は、これを「8月革命」と名付けた。

8月革命説は、数々の弱点を持っていた。
たとえば、ポツダム宣言とそれに基づく降伏文書のごとき国際法上の法文書が国内における主権の転換をもたらすことはあり得ないはずだった。
が、それでも、改正限界説を前提とする限り、これ以外に説得的な論理がなかったために8月革命説は世に受け入れられていったようだ。
憲法改正無限界説にでる論者であれば、欽定から民定へと制憲権帰属をまったく異にする新たな憲法が「改正」によって誕生すると説くことは、容易なはずだった。
実際、ある学者は、“日本国憲法は明治憲法の改正によって成立した欽定憲法だ”と論じてみせた。
ところが、学界では、主権在民を謳う新憲法(民定憲法)護持の立場が圧倒的で、改正無限界説からの分析は精緻にされることはなかった。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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第3章 日本国憲法前文と基本原理

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論   第3章 日本国憲法前文と基本原理    本文 p.121以下

<目次>

■1.憲法前文


[79] (1) 前文の意義と構造


法令の条項の前におかれる文章を前文という。
世界の憲法のなかには、前文をおかないもの、前文には憲法制定の経緯を短文で述べるにとどめるものもみられる。
これらの場合、憲法の基本原則は本文の冒頭に組み込まれることが多い(法律によく見られる、第1条の制定目的規定を想い起こせばイメージが沸く)。
これに対して、多くの国の憲法は、日本国憲法のように、前文に憲法典制定の経緯のみならず、一定の基本原則を謳っている。
日本国憲法の場合、制定の経緯と公布の事実は、前文に先立つ公布文に掲げられている。

日本国憲法における前文は、日本国憲法の一部であり、法の存在形式を意味する「法源」であることについては、今日の学説上異論はない。
学説は、
前文が法源であるとして、裁判所が具体的事件に適用するという意味での法源(強い意味での法源)であるのか、
それとも、具体的事件に適用されるのは本文の個別的条規であって、前文はその解釈の際尊重される程度の法源(弱い意味での法源)にとどまるのか、
この点をめぐって対立してきた。

前文は、日本国憲法全体の基本理念を一般的・包括的な文章によって謳っているにとどまり、具体的事件の結論へと導く力に欠ける、と理解されるべきである。
もっとも、
前文が裁判規範として弱い通用力しか持っていないということと、
前文が憲法のグランド・デザインを示す重要部分であること
とは、別の事柄である。
前文は、憲法の骨格、すなわち国制を描き出す重要部分である。

国制の姿はどこに描写されるか?
ある姿を描こうとしたとき、すべてを明示的にするわけにはいかず、暗喩や空白部分によらざるを得ないとしても、その本質部分を前文に表したいと起草者なら考えるだろう。
確かに、日本国憲法の前文には、本質部分が描写されているようだ。
そう考えると、前文が格別重要な意味をもってくる場面のひとつが、憲法の改正との関連だ、という筋が見えてくる。

もう一度、ここで憲法改正の限界論を確認してみよう。
《憲法改正規定は、憲法典上の権限(憲法によって授権された力)であるから、憲法の根本構造を変革する力をもつことは、法理上、あり得ない》。

[80] (2) 日本国憲法の基本原理


憲法改正の対象とはならない国制が、「日本国憲法の基本原則(原理)」と呼ばれてきたものだろう。
“これらの基本原則が、日本国憲法をして日本国憲法たらしめる必須要素であり、これらのいずれかが欠ければもはや日本国憲法ではなくなる”というわけである。
なぜ、これらの原則が必須要素となるのか、と問われたとき、通説は“なぜなら、それらが制憲権者の本質的な意思決定だからだ”と、意思主義で以って解答するだろう(*注1)。

では、制憲権者が本質的な意思決定を下した事項とは何であるのか?
従来の通説は、日本国憲法の基本原則として、国民主権(または民主主義)、基本的人権の尊重、平和主義、の3つを挙げた。
これは、我々にもお馴染みとなっている。
別の論者は、個人の尊厳、国民主権、社会国家、そして平和国家、を挙げてきた(我が国が社会国家ではないと私が理解していることは、既に [74] でふれた)。

(*注1)日本国憲法の基本的構成要素について
意思主義によらない私は、こう考えている。
《前文には、立憲主義の流れや人類の歴史的経験が反映されているに違いない。読み手としての我々が前文から読み取り重要なものとしてそれを受容するからだ》。

[81] (3) 前文第一段の法意


ところが、次の前文一段をよく読めば、それらが必須要素だとなるはずがない

前文一段に曰く、
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。

この一文は、各フレーズの相互関係が読み取れない悪文ではあるものの、こういっているように読める。

“日本国民は、(ア) 代表制(議会制)を統治のやり方とするが、(イ) 統治する者が戦前のように暴走しないように抑制し、(ウ) 諸外国とも協調しながら「自由」と「平和」を享受できるようにと決意して、これらの内容をもつ憲法を受け入れる。”

さらに前文は、次のように続く。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」

「国民による信託」、「国民の権威/代表者の権力」、「普遍的原理に反する統治の国民による排除」に言及する上の引用文は、いかにもアメリカ的J. ロック解釈の表れである。
「信託」、「普遍的原理」といった言葉は、「高次の法」を彷彿とさせる。
高次の法は、憲法制定権力者をも統制する、といいたいようにみえる。
すなわち、法の支配である。

法の支配、国民主権、代議制、自由の尊重、これらは、古典的な立憲主義の要素である。
そうなると、日本国憲法の本文が権力分立を採用しているだろうことは、想像にたやすい。
本文をみればそのことはすぐに看て取れる。

以上、少なくとも前文から判読する限り、日本国憲法の基本原理は、近代立憲主義の標榜してきた、法の支配、国民主権、代議制、そして、自由の尊重である。
これに、戦争の惨禍の反省に基づいた国際協調路線という日本国憲法特有の原則が加わる。


■2.日本国憲法と法の支配


[81] (1) 立憲主義と法の支配


日本国憲法は、立憲主義の憲法である。
立憲主義は、見方を変えていえば、統治を「規範的意味の国制」によって先導しようとする思想である(⇒[11])。
立憲主義とは法の支配と同趣旨なのだ(⇒[22])。

また、立憲主義は権力分立をその必須の構成要素とするとよくいわれる(⇒[20])。
このことは、《権力分立は、正しき法の制定とその執行を目指す装置だ》と理解すれば(⇒[54])、〔立憲主義-法の支配-権力分立〕という一連の関係として浮かび上がるだろう。

近代立憲主義憲法は、法の支配の思想を一部取り入れて、リヴァイアサンともなりがちな統治を規律しようとするのである。
もっとも、法の支配にいう「法」は、文章化されるルールを超えている(⇒[32])。
法の支配を理解するには、「法」という言葉を通して描くよりも、「正義」なかでも「形式的正義」のイメージを通して描くほうがいいだろう(この点については、先の [31] でふれた)。
我々が「正義」を語り尽くせないのと同じように、法の支配にいう「法」を法文書化することは出来ないのだ。
ということは、憲法典という法文書が法の支配を完全に実現することはない、ということになる(⇒[34])。
法の支配という考え方は、崇高な理念であって、憲法とそのもとでの統治は、その理念に最も接近するよう求められるのである。

[82] (2) 日本国憲法における法の支配


“日本国憲法は、法の支配を取り入れている”とよくいわれる。
その論拠として、次のような個別の条文が挙げられる。
その個別条文とは、統治構造に関するものについていえば、
(ア) 司法権を一元的に通常裁判所に帰属させ、司法権の独立を保障し、さらに、特別裁判所の設置を禁止している76条、
(イ) 憲法典の最高法規性を宣言して、階梯的法規範構造を採用し、これに反する国家行為の効力を否定している98条1項、
(ウ) 司法府が、一切の国家行為につき、統治を先導する基本法(最高法規)と適合しているか否かを判断できるとする81条、
である。

こうした個別の条文は、法の支配の論拠ではない。
これらは法の支配の表れに過ぎない。
論拠は個別条文の背後にある。
そう考えたとき、我々は“権力分立が法の支配の構造的な表れだ”という命題に思い至るだろう。
日本国憲法の41、65、76条が権力分立構造における権限配分規定であること、これが「正しき法の制定→制定された法の正しき執行」を守ろうとするのである。

次いで、基本権保障に関する領域においては、
「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と謳い、形式的法治主義を排除している13条(*注2)、
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めて、法令の規定なく刑罰を科せられないことを確認している31条(31条の解釈によっては、実体規定の明確性まで要請しているとみることも出来る)、
「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」と謳って、事後処罰と二重の危険の禁止を定めている39条等に表れている。

法の支配は、理解の仕方によっては、41条にも反映されるだろう。
私は、この41条解釈が、法の支配にとって最も重要だと考えている(この点については、後の [114] [116] でふれる。また、[35] もみよ)。

(*注2)公共の福祉と法の支配の関係について
私は、公共の福祉にいう「公共」とは、“誰にとっても”という意味だと理解している。
これは、《法律は、特定可能な人々を有利に扱ったり不利に扱ったりしてはならない》という法の支配の考え方を「公共の福祉」に活かそうとする私の工夫である。
『憲法2 基本権クラシック』 [37] を参照願う。


※以上で、この章の本文終了。
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第4章 象徴天皇制

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☆★重要な注意事項★☆当サイトは、阪本氏の皇室に関する見解を支持しているわけではありません。
※阪本氏は、政治思想としては「リベラル右派(真正リベラル=古典的自由主義=新保守・経済保守)」に分類され、ハイエク+ハートに基礎を置くその憲法理論は、通説的な左翼憲法学を論破する上で非常に有益であるため、当サイトで詳しく紹介していますが、残念ながら皇室観に関しては「伝統保守(旧保守=真正保守)」の見識とは相当のズレがあります。⇒(参考ページ) 政治の基礎知識 右派・右翼とは何か

<目次>

■1.君主・元首・天皇


[83] (1) 象徴天皇制


“象徴天皇制は、国民の意識のなかにしっかりと根づいた”といわれることがある。
国民の意識のレヴェルではそうかも知れない。
ところが、象徴天皇制の法的意味合いを正確に理解することは、想像以上の難題である。

なにしろ、君主は、国民や議会、さらには実定憲法よりも古い歴史をもっている。
君主権限を支えるための理論は、それだけ古く、伝統と重厚さをもっている。
ある論者によれば、君主主権に関する伝統的理論は、近代立憲主義を支える諸理論よりも精緻であるという。
それもそのはず、なにしろ君主は国家自体であったり、国民の一体性を公然と represent する特殊な存在だ、と長く考えられてきたのだから(⇒[63])。
それを支えるための理論にも長い積み重ねがあるわけだ。
君主の地位やその正当性等を理解しようとする者は、おのずから、国家の理論、憲法の理論、歴史等々へと足を踏み込むことになるだろう。
ある憲法学者が「君主を理解できれば、国家と憲法のすべての謎が解明できる」と誇張気味に語ったのも、理由がないわけではなさそうだ。

日本国憲法の象徴天皇制も、君主の歴史を背景として成立している。
確かに、象徴天皇制は君主制との違いをもたせようとした制度である。
が、ふたつの制度の特徴は、チェック模様の如く、一方が他方を浮き立たせている。
だからこそ、象徴天皇制を考えるとき、我々は君主制のことを考えなければならないのだ(立憲君主制の特徴については、[56]をみよ)。

君主制を見届けた後に我々は日本国憲法特有の「象徴天皇制」を検討することになるが、「象徴」とは、権限ではなく、役割を表すタームだけに、法的把握に馴染み難い。
おまけに、「天皇」というタームは、制度をいうとき、職(機関の地位)をいうとき、○○という名をもつ自然人をいうとき等々、様々であり、要注意語である。
心してかからねばならぬ。

[84] (2) 君主の意義


古くは、君主とは、統治権を意味する主権を一人で保持する自然人を指した。
ひとりで国家の機関となる存在を「独任制機関」という。
独任制機関として統治権を保有するときの君主は、「古典的君主」と呼ばれる。
その後、立憲主義の展開とともに君主の統治権が制限されてくると、議会の地位との対照のなかで、新しい君主概念が登場する。
それによれば、君主とは、
(ア) 独任制機関であること、
(イ) その地位取得原因が多くの場合世襲であって、またその地位が終身認められること、
(ウ) 無答責であること、
(エ) 国家や国民の象徴としての地位または役割をもつこと、
(オ) 国を代表する対外交渉権能をもつこと、
(カ) 統治権の重要部分を行使すること、
の全部または何れかの特性をもつ自然人を指した。
このうち、君主であるための標識として、(ア) (オ) (カ) が通常挙げられる。

この観点からすれば、現行憲法における天皇は、4条にいうように「国政に関する権能を有しない」以上、これらの特性に欠け、君主ではないことになる。
これに対して、天皇が世襲の地位を占め、国民による尊崇の対象とされていることを根拠として、天皇は君主だ、と解するのが内閣の立場である(昭和46.6.28の政府公式見解)。

[84続き] (3) 元首の意義


元首(※注釈:chief of state[a sovereign])という言葉は、国家有機体説のもとで擬人的な比喩として用いられてきた(⇒[4])。
そのため、厳格な法的意味をもたず、さまざま散漫に用いられる。
ととえば、
古典的君主を指すとき、
執政府の首長を指すとき、
明治憲法4条のような統治権の総攬者を指すとき、
対外的に国家を代表する機関を指すとき、
の如くである。

現行憲法典上の天皇は、④の意味において元首であると解することも不可能ではない。
ところが、日本国憲法が外交処理権限を内閣に付与していることを考えれば(73条3号)、天皇は、法上、国家・国民を対外的に代表する機関ではなく、従って、元首ではない。
もっとも、プラクティスとして、諸外国は天皇を対外的な代表機関として扱ってきており、天皇は元首であると意識されているようである。
が、それは、7条において、大使・行使の信任状の認証、その接受などが天皇の国事行為とされていることからの帰結に過ぎない。
その国事行為は、国家の代表機関としての活動ではなく、あくまで形式的・儀礼的な象徴としての行為である。

[85] (4) 象徴天皇制の狙い


先の [78] でふれたように、日本国憲法は、明治憲法のもとでの国体を根本的に変革した。
その選択肢のなかには、天皇制自体の廃止もあり得た。
が、総司令部は、占領政策を円滑に進めるために、換骨奪胎した形での天皇制を残す方針を選択した。
それが、象徴天皇制だった(⇒[75])。

象徴天皇制は、ふたつの狙いを以って選択された。
第一は、 神権天皇制を否定することである。
それは、憲法制定前には、天皇の神格性の否定(「天皇の人間宣言」昭和21年1月1日)、制定後には、教育勅語の排除(昭和23年6月19日)等の一連の措置とともに実現された。
第二は、 古典的君主概念を否定することである。
そのために、日本国憲法は、先にふれたように、天皇の「国政に関する権限」を一切否定したのだった。

[85続き] (5) 象徴的代表


象徴とは、先に代表の箇所 [63] でふれたように、“国家・国民の一体性を再現できる存在だ”ということを指す(イタリア憲法には、「大統領が国民的統一を代表する」との規定がみられるが、我が国の象徴天皇制は、それと同趣旨である)。
天皇は象徴的代表だ、というわけだ。
では、何を通して天皇は国家・国民の統一性を代表する、というのだろうか。
解答としてあり得るのは、
その一身を通して、
職を通して、
天皇制という「制度」を通して、
であろう。
正解は、③だ。
制度というルール体系を背景にして、その一身や職の意義も始めて浮かび上がるからである。

ところがそう理解したとき私たちは、さらに難題に遭遇する。
上にいう「制度」とは「制度保障」にいうそれ、つまり、反復継続されるプラクティスのうちに立ち現れるルール体系のことである(⇒『憲法2 基本権クラシック』 [20a])。
このルール体系は、現行憲法制定までは、祭政一致を最大の特徴としてきた。
政教分離を明示している現行憲法が祭政一致という制度を公式に受容しているはずはない。
となると、象徴天皇制という「制度」とは、宗教と切り離された世襲のルールを指すことになろう。
いずれにせよ、象徴天皇制は、旧憲法と現行憲法との切断のなかで、据わりの悪い制度である。

もっとも、象徴的代表とは、ある人物または機関の果たす役割を指すにとどまることに留意されなければならない。
それは、公式権限を意味する言葉ではないのである。
通説風にいえば、“国民主権のもとでは、主権という権限を有するものは有権者団という機関であるのに対して、天皇という機関は象徴という機能をもつにとどまっている。だから、両者は矛盾しない”といえるのだ。

このように、「象徴」は、憲法上の権限配分と無関係であって、法的意義を持たない。
1条の「象徴」規定を根拠として、たとえば国会開会式における「おことば」を述べる行為を、国事行為でもない私的行為でもない「象徴としての行為」として説明することは出来ない、と私は理解する(この点については、すぐ後に再びふれる)。
1条は、自然人としての天皇の公式権限、その為し得る行為の範囲を決定してはいないのだ。
それらは、2条以下の個別的な規定によって決定されるのである。


■2.天皇の国事行為


[86] (1) 天皇の国事行為と内閣の助言と承認


憲法3条は、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と定める。
明治憲法下における輔弼制は、立憲君主制のもとでの大臣助言制に倣ったものだったことについては、既に [62] でふれた。
では、現行の内閣の助言と承認の趣旨は何であるのか?
これについては、大別してふたつの見解がある。

ひとつは、助言と承認が天皇の実体的権能を控除して、天皇の地位を名目化する点にあると解する立場である。
この説によれば、“助言と承認は内閣が憲法上有する実体的決定権を行使する(した)旨を天皇に告知するルートだ”ということになる。
憲法上の実体的権能が内閣以外の他の国家機関にあるときには、助言と承認を通して控除すべき対象もないのであるから、この場合、助言と承認は不要だ、とされる。

この立場は、〔天皇の権限-内閣の実体的決定権=国事行為〕という等式か、あるいは、〔執政府の二元的実体権能-内閣の実体的権能=国事行為〕という等式のいずれかを考えているのだろう。
どちらにしても、この見解は、助言と承認とは君主に代わって実体的権能を行使する大臣助言制に類似の制度だ、とみていることになる(ここで「類似の制度」といわれるのは、内閣の助言と承認は、個別の大臣が君主の補佐機関として為す助言とは違っているからだ。[62]をみよ)。
ところが、天皇が国政に関する権能を一切持たないとする4条1項に着目すれば、名目化されるべき実体権能自体はもとより調整権限すら、当初より、存在しないはずである。

そればかりか、現行の内閣の助言と承認の制度は、次の点で大臣助言制でもなくれば、それ類似の制度でもない(助言制が君主の無答責を引き出すための工夫だった点については [56] をみよ)。
第一は、 その主体が合議体としての内閣であることである。
第二は、 その助言と承認について責任を負う相手方が国会だということである。
第三は、 天皇に対して絶対的拘束力をもつ点である。
第四は、 すべての「国事行為」について必要とされている点である。
以上の相違点に留意したとき、“助言と承認は我が国独自の象徴天皇制に特有の制度ではないか”との着想に至るだろう。
そして、4条1項と照らし合わせれば、こう考えることになるだろう。

内閣による助言と承認の制度は、象徴制を防御せんとするところにその意義を有する。
すなわち、内閣は、天皇が国政に関する権能を行使しないよう、また、統治へ影響を与えず、さらには、統治から影響を与えられないう注意しながら、助言と承認の制度を通して象徴制を防御するのだ、と。

この理解に立った場合、内閣による助言と承認は、次のような意義をもつ。
第一に、 国事行為のなかには、認証や儀式のように本来的に儀礼的な行為があるが(7条8、10号)、この場合の内閣の助言と承認は、儀礼的な行為が適式に行われるよう配慮すべき義務を指す。
第二に、 内閣総理大臣や最高裁判所長官の任命のように、実体的決定権の配分が憲法典上明記されているものがあるが(6条1、2項)、これに関する内閣の助言と承認は、他の機関によって正式に決定されたことを内閣が天皇に確認する意味をもつ。

[87] (2) 助言と承認と衆議院の解散


国事行為のなかには、国会の召集(7条2号)、衆議院の解散(7条3号)のように、実体的権限の所在が明確でない場合がある。
この場合、実体的権限をどこに読み取るか?
この解釈に、助言と承認の法的正確の理解の違いが反映される。

上にみた学説のうち、助言と承認に内閣の実体的権能が含まれていると理解する立場は、国会の召集権、衆議院の解散権を内閣権限である、とみる。
召集、解散は、内閣がその実体的決定権を持つからこそ、天皇による国会召集・衆議院解散行為は、内閣の決定を外部に表示する形式的行為になる、というわけである。
これは、召集・解散に関する「7条説」といわれる立場に繋がっていく。

これに対して、助言と承認それ自体には実体的権能は含まれていない、と解する立場によれば、召集・解散に関する実体権能は、7条ではなく、憲法上の他の条規または憲法の統治構造に求めることになる。
その際の鍵はモンテスキューの権力分立論にある。
まず、召集から考えてみよう。
モンテスキューはこう主張した。

 《議会は自ら集まって活動してはならない。何となれば、議会は国家作用の第一段階である立法権をもつ強力な機関であるから、これ以上強力な機関とならないとめには、他の機関によって活動能力を与えられることを要す》。

これが、君主の召集権の論拠だった。
いわゆる「他律的招集(召集)(*注1)」である。
この解散権限が大臣の副署権によって統制され、さらには、調整権となっていく(⇒[60])。

次に、解散権と助言と承認の関係を考えてみよう。
解散とは、議員の任期満了前に、議員全体についてその資格を喪失させる行為をいい、日本国憲法においてその宣示行為は、先にふれたように、天皇の国事行為とされている。
助言と承認に実体権能を読み込む立場は、解散権は内閣の7条権限だ、という(7条説)。
これに対して、助言と承認に実体権能は含まれないと解する立場は、日本国憲法の権力分立構造、または議院内閣制に手掛かりを求める。
これは、7条説と対照されるとき、「非7条説」と呼ばれることがある。

この対立のうち、助言と承認のなかに実体権能を読み込む7条説は適切でなかろう。
その理由は、議院内閣制の箇所でふれた、君主または大統領の解散権と内閣または大臣の副署権の関係を思い出せば、すぐに分かるだろう。
それは、《解散は、内閣(または大臣)がその副署権を通して君主(または大統領)の持っている中性権(調整権)としての解散権に訴えることによって為される》ということだった(⇒[60])。
大臣助言制においても、助言(副署)のなかに解散についての実体権限は詰まってはいないのだ。

それでも、7条説は、次のように、議院内閣制について非7条説とはひと味違った理解の仕方をしている。
議院内閣制の要請は、内閣の存在が議会の信任に依拠する点にある([61]をみよ)。
議会 対 内閣というふたつの機関の対立図式は、国民主権の確立したときに「国民へ責任を負う内閣」に変容している(これについても [61] をみよ)。
内閣は、69条の場合に限らず、民意を問うために7条に基づき解散権を行使できる(国民を基点とする統治方針一致原則の実現)。
上の考え方を一言でいうとすれば、“解散権のもつ民主的な意義を重視せよ”ということだろう。
ところが、これでは「民主主義」の名のもとで、内閣に自作自演を許容する理論となって、それこそ民主的でない。

(*注1)召集か招集か
君主が議会を召し集めるときに「召集」というタームが用いられ、その他の場合には「招集」と記すのが普通である。

[88] (3) 国事行為の意義


さて、内閣の助言と承認を要する「国事行為」とは何か。
憲法4条は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と定め、さらに、6条、7条に国事行為の種類を列挙している。
これらの関連条文から、「国政に関する行為 acts related to government/国事に関する行為 acts in matters of state」との線引きがくっきりと浮かび上がるのであれば、学説の対立など生じないだろう。
「国政」とは「統治」のことである。
ということは4条は“天皇はもはや統治権の主体ではない”と確認しているものと解される。
それでも「国事」の意味は分からない。
残念ながら、「国事/国政」の区別は、憲法学に馴染み深いものではなかった。
そのため、“すべて国事行為は、本来的に、形式的・儀礼的なものだ”と明言することが出来ないのだ(学説のなかには、国事行為が本来的に形式的である、と主張するものもないわけではない)。
だからこそ、7条の1号~10号までのうち、8号の認証行為や10号の儀式のように、本来形式的・儀礼的なものは別にして、学説の対立が生じてくるのだ。

上でふれたように、ある学説は、〔天皇の権限-内閣の実体的決定権=国事行為〕という等式によって、“結果として、国事行為は形式化される”といい、別の学説は、その等式に天皇権限を組み込むこと自体に反対してきた(⇒[86])。

[88続き] (4) 天皇の行為の類型


「天皇」という言葉は、本章の冒頭 [83] で指摘したように、制度を指すとき、職(国家機関としての地位)を指すとき、その地位を占める自然人を指すとき、そして○○という名前をもって生活をしている人物を指すときがある。
日本国憲法が、「天皇の国事に関するすべての行為」(3条)、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」(4条)、「天皇は、・・・・・・左の国事に関する行為を行ふ」(7条)という場合の「天皇」とは、天皇という職(国家機関としての地位)をいう。
その職にあるため「天皇」と呼ばれている私人(○○という名前をもって生活している人物)が為す行為(私人としての行為)は、右法条の関知するところではない。

天皇職は、国政に関する行為に出ることを憲法上禁止され、国事に関する行為だけに限定されている。
これは、もし天皇職が統治に関与すれば国家・国民の一体性を象徴する役割に亀裂が入るということに配慮したためだろう(⇒[86])。
なぜなら、象徴としての役割は、国家・国民の一体性を儀式と形式のなかでパノラマのように公然と亀裂を入れることなく表出する(represent)ことにあるからだ。

上のような思考の筋道は、《天皇という職にある人物が国事行為を為すとき、象徴としての役割を果たしている》ということになる。
つまり、〔国家機関としての行為=国事行為=象徴としての行為〕という配列が考えられているのだ。
この理解は、“日本国憲法第1章における天皇の行為類型としては、国事行為と、私人としての行為のみがある”というのである。
この立場は、「国事行為限定説」と呼ばれることがある(*注2)。
この説は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」と定める4条に忠実である。
この説によれば、天皇の外国への親善訪問、元首との慶弔伝、国会開会での「おことば」は、象徴としての行為として正当化されることはない。
これらの行為は、国事行為として列挙されていない以上、天皇は為し得ないのである。

この国事行為限定説に対して、天皇の活動範囲を広く捉える学説もみられる。
これは「国事行為非限定説」と呼ばれることがある。
この非限定説も幾つかの立場に分かれている。
天皇が外国元首の慶弔の儀式に参加することを例にとって、幾つかの立場を紹介すると、次のようになる。
第一は、 この儀式への参加は、「儀式を行ふこと(主宰すること)」に該当しないとはいえ、“天皇は日本国の象徴として公式にこれを為し得る”という立場である。
この立場は、「国家機関としての行為/象徴としての行為/私人としての行為」という3つの行為類型を考えていることになる。
これは「象徴行為説」と呼ばれることもある。
第二は、 儀式への参加は、“公人として天皇の為し得る行為だ”という立場である。
この説によれば、天皇という職(国家機関上の地位)にある自然人は、地位と関連する公人としての地位を占めており、機関行為かそれとも私的行為かという二者択一で説明すべきでない、というのである。
これは「公人行為説」と呼ばれることがあり、「国家機関としての行為/公人としての行為/私人としての行為」の三類型を考えている。
第三は、 儀式への参加は、“国事行為に準ずると認められる公的行為として天皇はこれを為し得る”とする立場である。
つまり、外国元首を訪問することは「外国の大公使の接受」が国事行為とされていることとの均衡上、公的行為として認められる、というのである(※注釈:「準国事行為説」)。

これらの非限定説は、いずれも、機関としての行為以外の範疇を置いて、それを、内閣の助言と承認のもとに置こうとする点では共通している。
この第三の範疇を承認した場合には、内閣の助言と承認のもとで、「皇室関係の国務事務」(宮内庁法1条)として宮内庁の所掌となる。
また、その行為に金銭の支出が伴えば、宮廷費(公金)として支弁され、「宮内庁でこれを経理する」(皇室経済法5条)こととなる。

非限定説は、機関行為以外の天皇の行為を内閣の責任(助言と承認)のもとに置くとはいえ、別個の範疇設定によって、限定的であるはずの国事行為の制約を解除することになり、適切であるとは思えない。
但し、この点の広狭いずれが憲法の本意であるかを論ずることは水掛け論となるだろう。

非限定説が適切でないという理由は、次の点にあると私は考えている。
「象徴」は、天皇制という舞台で繰り広げられる天皇の行為を通して、我々が透かして見て取る何物か、である。
象徴とは、天皇が如何なる行為に従事できるかを決定する概念ではないのだ。
次に、公人というタームは何であるのか、英語に置き換えてみれば、その意味が明らかになる。
“public figure”、言い換えれば、celebrity、要するに有名人のことだ。
私はこれを「公衆に知られた存在」と訳すことにしている。
「公人」なる言葉で、天皇の行為を語ることは、私にとっては噴飯ものである。

天皇の行為は、最も簡明な国事行為限定説によって説明されるべきである。
“列挙するは限定するにあり”。

(*注2)天皇の国事行為に関する私見について
日本国憲法第1章は、私人としての天皇の行為については、8条の財産の接受以外何も語っていない、と理解するほうが素直だと私は考えている。
私人としての天皇の行為は、日本国憲法第3章問題だ、というのが私の理解である。
『憲法2 基本権クラシック』 [22] を参照願う。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第ニ部 第三章 君主・元首・天皇

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第5章 戦争の放棄

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論   第5章 戦争の放棄    本文 p.137以下

<目次>

■1.軍事の憲法的統制


一. 民軍関係


[89] (1) 行政としての軍事


立憲主義の課題のひとつが、政官の関係を如何に配置するか、だった。
そのひとつの解答がイギリスにおける parliamentary government(※注釈:議会政治)、公選部門と官僚とを分離したうえで、公選勢力の官僚に対する優位を慣行として作り上げることだった(⇒[60])。

立憲主義は、それを実現する以前にも、広い意味での政官関係のうち、政と軍との関係(民軍関係)を統制しようと試みていた。
それは、これまでの「君主の軍隊」から「議会の軍隊」とする試みだった。
イギリスは、いち早くこれに成功した。

それでも、軍隊は、通常の官僚団以上に専門的知識と装置を抱える機能集団であり、議会がこれを有効に統制することは至難の業だった。
そこで、専門職業的将校団を統制する特殊な法制度が考えられた。
これが、civilian control である。
シヴィリアンとは、「現役軍人でないこと」をいう(シヴィリアンというタームは、軍人や警察官と区別するときには、「民間人」を指すことがある。日本国憲法制定に先立って、連合国から、いわゆる civilian control 条項が呈示されたとき、当時の政府関係者は日本語にどう訳せばよいか、困惑しながら、結局は「文民」という新造語をこれに充てた。以来、非軍人が軍隊を管理することを意味する civilian control は「文民統制」と称されてきた)。

国家の安全を軍事的に保障する作用を「行政」と特徴づけたうえで、それを文民統制、最終的には議会の監督下に置くことが、立憲主義憲法の重大関心事だったのだ。
その他、立憲主義憲法は、正規軍の編成、予算、宣戦の承認権等に関する議会の審議承認権をも明文規定しながら、軍隊を統制してきた。

[90] (2) 戦争の憲法的統制


国家または国際団体の正規軍が武力を行使し合う法状態のことを「戦争」という。
この定義から覗えるように、戦争は「行政」を超えていた。
憲法が、安全保障体制の大綱と戦争の手続的統制とを定め、その細部を議会制定法(憲法より下位の実定軍事法制)で埋めたとしても、戦争遂行を目的とする軍隊を有効に統制できなかったのだ(⇒[12])。
そこで、特に第二次大戦後、一定種の「戦争」自体を憲法によって明示的に禁止しようとする憲法が制定されてきた。
侵略戦争や制裁戦争を放棄するイタリア憲法(11条)、国策の手段としての戦争を放棄するフィリピン憲法(2条2節)、侵略戦争の準備行為まで違憲とするドイツ基本法(26条)等がこれである。
これらは、戦争または武力行使の廃止ではなく、その限定に向けられた動きである。

ニ. 9条の特異さ


[91] (1) 9条ロマンティシズム


これら諸外国の憲法と比較対照したとき、日本国憲法9条は、戦力不保持と交戦権の否認を謳っている点で特異である。
9条解釈は、護憲か改憲か、革新か保守か、という分水嶺となっていた。
思想を異にする人々も、“9条は戦争を放棄している”または“軍隊の保持を禁じている”との理解のもとで、この枠内に収まろうとしない人々を“保守”だと称してきた。
この“革新派”(護憲派)の理解は、9条の文理、マッカーサー原則、吉田内閣時代の公式見解等々を今見詰め直しても、素直だった。
9条2項冒頭にいう「前項の目的を達するため」を論拠として、“自衛戦争は禁じられていない”と論ずることは強引だった。

9条は、憲法を直接有効な法としようとしてきた憲法の歴史を逆行させたようだ。
政治にみられる事実と、憲法の文理との間の溝はあまりにも大きく深くなってしまった。
軍事費と称さないで防衛費といい、戦車といわないで特車といっている間に、世界に有数の軍事力を持つに至った日本、これではまるでカリカチュアだ。
人々が憲法のもつはずの重厚さを軽視しているのは、ここに起因している。
現実の国際政治が、非武装中立を許すほど甘くないことは、今では誰もが了解していることだろう。
私のような醒めた人間は、9条が日本国憲法の輝きではないこと、戦勝国が敗戦国に対して課したペナルティだということを、知っている。
“平和”というタームから非武装中立を連想することのイマジネーションの貧困さを知っている。

[91続き] (2) 国際政治からみた9条


第二次大戦後の、いわゆる冷戦構造は崩壊した。
だからこそなのだろうか、地域紛争が頻発している。
地域紛争の予防や解決にあたって、国連の安全保障理事会の役割、国連憲章には明文の根拠はなく、プラクティスとして展開されてきている「平和維持活動PKO」の役割は、重要である(国際的にはPKOは、PKF活動を含むと理解されている)。

日本国憲法前文が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というフレーズは、国連または(将来実現するものと期待された)国連軍を念頭に置いていたともいわれる。
国連憲章は、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、・・・・・・慎まなければならない」と規定しながらも(2条4項)、51条においては、加盟国の個別的自衛・集団的自衛権を条件つきながら承認している。
これが、国際政治の「常識」だろうし、これがグローバル・スタンダードだろう。

日本国憲法前文が国際社会の公正と信義に期待するというのに、9条を論拠にPKOや安全保障理事会による軍事的措置への協力を拒むことは、国際社会の常識に反するだろう。
“9条を地球規模で実現しよう”というロマンティックなスローガンでは、国際社会の常識に対抗することが出来るはずはない。
そのことは重々承知のうえで、“日本国憲法が、もし軍隊を認知すれば、権力分立構造を根底から変質させ、立憲主義を危機に陥れるだろう”と考えることも出来る。
何しろ、先にふれたように、軍事を行政として位置づけがちだった立憲主義憲法は、軍隊と戦争を有効に統制する術を知らないで来たからだ。
だからこそ。戦略的な配慮に立って、自衛隊が、軍隊おいう立憲主義にとって異物とならぬよう、9条の「平和主義」を敢えて強調する向きもみられるのだ。

以下では、国際政治の冷淡さにも目を瞑(つむ)り、戦略的な思考にも門を閉ざして、9条の文理を実証主義的に理解することに努めてみよう。


■2.武力行使違法化の歴史


一. 戦争の意義と戦争の一般的禁止


[92] (1) 戦争の意義と類型化


国際紛争を解決する強制的手段は、非軍事的措置(たとえば、相手国の大使・公使の国外退去の如く、自国の領土内で採り得る措置)と、軍事(武力)的措置とに分けられる。
軍事的措置のうち、最も徹底したそれが、これまで「戦争」と呼ばれてきた。
国際戦時法の範囲内で、国家または国際団体があらゆる強制的加害手段、なかでも正規兵力を用いて相手国の抵抗力を制圧できる法状態が「戦争」といわれた(今日の国際法では「戦争」概念は放棄されている)。

人類は、歴史上、「戦争」をさまざまに類型化し、統制しようとしてきた。
たとえば、古典的な「正戦/不正戦争」という区別による統制や、主権者によって開始され宣言されたかという手続による統制がそれである。
後者の考え方を「無差別戦争観」という。
無差別とは、戦争を「正/不正」に類型化しないことを指す。
この考え方が第一次世界大戦に至るまで国際法学の主流を占めた。

人類に未曾有の惨禍をもたらした第一次世界大戦後、国際平和維持を目的として国際連盟が設立された(1920年)。
連盟規約の前文は、加盟国による戦争に法的歯止めをかけるべく、紛争当事国がその解決手段として「戦争ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾」することを概括的に謳った。
これは、従来法的野放し状態にあった戦争に対して、限定的ではあるが法的規制を課し、戦争を違法化する第一歩であった。
が、連盟規約は戦争の一般的禁止にまで踏み込まなかった。

[93] (2) 戦争の違法化


1928年の不戦条約(正式には「戦争放棄ニ関スル条約」)は、条約締結国があらゆる紛争の平和的解決を約束するとともに、「国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スル」ことを謳った(1条)。
これは、戦争のなかでも、侵略戦争と国策の手段としての戦争とを禁止し、自衛戦争を例外とする趣旨である。
これによって、戦争が原則的に禁止されることとなった。

こうした国際的努力をもってしても、第二次世界大戦の勃発は阻止し得なかった。
国際連盟の経験と反省を基礎に設立された国際連合は、不戦条約の内容をさらに前進させて、ひろく武力行使の違法化に乗り出した。
その点に留意して国連憲章2条4項は、「戦争」という表現を避け、すべての加盟国に、ひろく「武力による威嚇又は武力の行使」を慎むよう義務づけたのだ。
国連憲章は、国連による強制措置、「自衛権」の発動等一定の場合における例外を除き、国際紛争解決の手段としての武力行使を一般的に禁止し、戦争の違法化からさらに武力行使の違法化原則までをも確立したのである。
というのは、「侵略戦争/自衛戦争」という区別のもとで、“9条は自衛戦争を許容しているか”という教科書的な論点の立て方自体、今日では通用しないのである(9条について論じ得る論点は、自衛権行使およびそのための組織であって、自衛戦争云々ではない)。

[94] (3) 自衛権の意義


国連憲章は「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」ことを確認し(51条)、自衛権については、その行使を禁止対象外としている。
国際法上、「(個別的)自衛権」とは、不法な攻撃を除去するために、緊急やむを得ない場合に必要な範囲にとどまる限りで行使される国家の固有の権利である、といわれる。
これは、国家であれば当然に有する自己保存権だ、ともいわれる。
そのうえで、「自衛権」の発動要件として、不法な危害の急迫性と、排除の必要限度性とが挙げられる。

この自衛権の意義づけは、個人の正当防衛の意義に倣ったのではないか、と感じさせるところがある(実際、政治の言葉では、たびたび、そういわれる)。
近代啓蒙思想は、個々人が自律的な自由意思主体であるのと同じように、国家も独立の自由意思主体だ、と捉えた。
そのために、国家が個人の権利を侵害してはならないのと同様に、“ある国家は他の国家の権利を侵害してはならない”“他の国家に不当に強制力を用いてはならない”と考えられた。
フランスの1791年憲法、1793年憲法が、いち早く征服目的の戦争を放棄したのは、そのためだった。

果たして、「自衛権」は国家固有の不可譲の「権利」であるのか?
自衛行為は権利だ、という理論が説かれたのは、次のような事情からだった。

不戦条約は、侵略戦争および国策の手段としての戦争を禁止するにあたり、その例外を「権利」という積極的用語を選択することによって、主要国の参加を容易にしようとした。
こうした政策的配慮が背後にあったために、「権利としての自衛権」が説かれたのである。

自衛とは、厳密にいえば、《武力行使違法の原則に違反して他国の主権を侵害した場合であっても、緊急の必要性の故に、違法性の阻却される国家行為だ》と定義するのが正確である。
「自衛権」概念が、右のような背景で説かれたことに留意したとき、“主権国家たる以上、日本も国家固有の権利としての自衛権をもっている”“自衛権は、独立国に当然の固有の権利であって、憲法典によって放棄したり、否定できる筋合いのものではない”とする論理に疑義を抱いて当然である。
しかも、右論理は、〔主権国家→固有の自衛権保持→武力の行使可能→そのための武力装置の準備は当然〕という一連の思考に流れ易い。
この筋道は、〔主権→対外的独立性→その手段としての固有の自衛権→自衛権行使のための正規軍〕と、主権概念を手段に変質させてしまっている。
「固有の自衛権」という用語が、国家の属性と手段との間にみられるはずの溝を隠すのだ。

ニ. 9条の解釈


[95] (1) 9条における個別的自衛権


たとえ独立国家が自衛権を有しているとしても、各国家は、その憲法において、自衛行為の態様と、そのための装置如何を選択することが出来る。
その際の選択肢に、武力不行使原則を徹底させることも含まれてよい。

日本国憲法の場合、9条1項だけであれば、不戦条約のスタイルに似て、論争を呼ばなかっただろう。
9条の特異さにとって決定的な要素は、「陸海空軍その他の戦力」(一切の戦力)の保持の禁止および交戦権の否認だった。
これらは、9条が武力不行使原則を徹底する選択肢によったことを示唆している。

もっとも、この理解は、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」、2項の「前項の目的を達するため」というふたつのフレーズにこだわらず、“9条全体の流れと文理に素直な読み方をすれば”という留保つきである(このふたつのフレーズについては、すぐ後にふれる)。
2項が軍隊のみならず「その他の戦力」まで放棄したうえで、交戦権をも放棄したとき、国家の有するとされる自衛権(ここでは個別的自衛権)は、何を指すことになるか?

国際法上、伝統的に、《自衛権とは、外国から現に行われている違法な侵害に対し、緊急の必要がある場合必要な範囲で、武力をもって反撃する権利だ》といわれ続けてきたことは先にみた。
一切の戦力の不保持・交戦権の否認のもとでは、この自衛権が登場する余地はないように思われる。
理屈をこねれば、“日本という国家は、自衛権を有している、が、9条がその行使を禁じている”ということは出来なくはない(集団的自衛権に関する政府の解釈が、これに近いことを考えれば、あながち屁理屈でもなさそうだ)。

こうした強引なロジックは筋が悪い。
そのことを自覚してのことだろう、学説のなかには、9条は将来の国家目標を掲げた“政治的マニフェストだ”というものもみられた。

[95続き] (2) 武力によらない自衛権/自衛のための武力


伝統的意味の自衛権は否定されている、という命題を法的に有意としながらも、《国家であれば、当然に固有の自衛権をもつはずだ》という思考に拠ろうとするとき、次のような言い方が好まれる。
“9条は、伝統的な意味での自衛権を放棄してはいるものの、「武力によらない自衛権」を容認している。”つまり、9条の選択は、世界に前例がないだけに、「自衛権」概念も、前例に縛られることなく、新たに選択されたのだ、というわけである。
「武力によらない自衛権」としては、レーダー網の整備、電波妨害、警告装置の設置等が考えられている。
平和的外交をこれに含めようとする見解もあるが、自衛権なるものは、外交努力が尽きたところに発生するのであるから、ここまで拡大することは不当である。

以上の如き、「伝統的自衛権放棄・武力によらない自衛権の保持説」に対して、“9条は伝統的な自衛権を放棄していない”とする見解も根強い。
この見解には、ふたつの説き方がみられる。

第一は、 〔伝統的自衛権保持→自衛戦争→自衛のための戦力保持〕という流れを考える立場である。
これを「自衛戦力合憲説」と呼ぶことにしよう。
この説の論拠は、
(ア) 1項にいう「国際紛争を解決する手段としては」というフレーズが、国際法上、自衛戦争の放棄を含まないと理解されてきたこと、
(イ) 2項の冒頭にいう「前項の目的を達するため」とは、国際紛争解決手段のための戦争または武力行使の放棄を通して国際平和を誠実に希求することを指す、
という点にある。
しかしながら、「前項の目的」は、“平和を希求する”点に求めるのが素直なはずで、平和実現のための“手段として”の部分に関連づけることは、如何にも強引過ぎる。
第二は、 〔伝統的自衛権保持→ただし、自衛の「戦争」放棄→自衛のための武力の行使・武力による威嚇は放棄されておらず→自衛のための武力の維持・行使可能〕という流れを考える立場である。
これを「自衛武力行使合憲説」と呼ぶことにしよう。
この説は、「国際紛争を解決する手段としては」という限定が、「戦争」、「武力による威嚇」、「武力の行使」の3つのうち、後二者に掛かるものと読むところに特徴をみせる。
換言すれば、「戦争」は無条件に放棄されているのに対して、後二者は限定的に放棄されている、と理解するのである。
この「戦力/武力の行使」分離論は、“だからこそ、2項では「陸海空軍その他の戦力」の不保持が謳われるのだ”と2項を解明してみせる。
自衛武力行使合憲説は、このように、“自衛権行使の範囲内で武力を行使すること、そのための装置を維持しておくことは、9条の禁止するところにあらず”という。
しかしながら、「戦争」の原則禁止から「武力による威嚇」の禁止にまで拡大してきた国際法上の展開に鑑みたとき、「戦争/武力行使」、「軍隊/非戦力的武力」という区別自体成立し難く、この見解の説得力は大いに削がれる。

内閣の統一的公式見解は、前文及び9条1項の平和主義といえども、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための装置をとりうる」ことを認めており、9条2項もその手段として最小限度の実力保持を禁止していない、という(昭和58年3月17日参議院予算委員会における法政局長官答弁)。
自衛権は独立国家であれば当然に保障されている固有の権利だ、というのである。
統一見解は、自衛権発動の要件として、
(1) 我が国に対する急迫不正の侵害があること、
(2) これを排除するための他の方法がないこと、
(3) 必要最小限の実力行使にとどまるべきこと、
を挙げてきている(昭和44年3月10日参議院予算委員会における法政局長官答弁以来の内閣見解)。

[96] (3) 9条における集団的自衛権


上に述べてきた自衛権は、個別的自衛権、すなわち、独立国家がそれぞれ有しているといわれる権利のことだった。
これ以外に、「集団的自衛権」がある。

個別的自衛権という伝統的な概念のほかに、集団的自衛権という概念が登場したのは、先にふれたように、国連憲章51条においてである。
集団的自衛権とは、自国の軍事的安全保障にあたって、他国または国際機構とともに自衛にあたる国家の権利をいう、とされる。
このための体制としては、NATOや旧ワルシャワ条約機構のような地域的な集団防衛体制と、2国間条約によるものとがある。

内閣は、我が国は集団的自衛権を国際法上有しているが、9条によってその行使を禁じられている、と解釈してきた。
そうなると、2国間条約による安全保障体制を取り決めている日米安全保障条約が合憲であるかどうか、疑問となってくる。
内閣は、安保条約5条にいう共同行動は我が国自身の自衛として為されるのであって、集団的自衛権には該当しない、との見解によっている。
ところが、この条約の前文は「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し・・・・・・」とはっきりと述べており、内閣の解釈には説得力がない。

さらに、1997年の「日米防衛協力の指針(ガイドライン)」は、防衛協力における自衛隊の役割分担を見直させた。
これは、集団的自衛権概念で初めて説明できることである。
学説のなかに、“9条は個別的自衛権の保持と行使を容認しているが、集団的自衛権行使を否認している、という内閣のロジックは一貫性がない”と論断するものがあるのも当然だろう。

[97] (4) 9条に関する裁判例


昭和26年に設置された警察予備隊に関する違憲訴訟以来、9条に関する裁判例は、数多い。
最高裁判所は、9条問題に関し、いまだ正面から見解を明らかにしてはいない。
が、砂川事件上告審判決は、「我が国が主権国としてもつ固有の自衛権は何ら否定されてものではなく、我が憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」との判断を示している(最大判昭34.12.16刑集13巻13号3225頁)。
これは、安保条約および行政協定に基づくアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性判断にあたってふれたところであるとはいえ、最高裁は、先にふれた〔伝統的自衛権保持→自衛戦争→自衛のための戦力保持〕という「自衛戦力合憲説」に与しているのではないか、と推察できる(もっとも、圧倒的多数の憲法学者は、政治戦術的な考慮があるのだろう、“最高裁の判断はまだ明らかにされていない”とだけ述べている)。

下級審判決ではあるが、百里基地訴訟第一審判決は、伝統的意味の自衛権を国家の基本権と捉えたうえで、9条は自衛権行使のための有効な防衛措置を予め組織することを禁止していないとした(水戸地判昭52.2.17判時842号22頁)。
その上告審判決は、自衛隊用の土地を私人から購入する国の私法的行為には、9条の統制力は及ばないと判断した(最3小判平元.6.20民集43巻6号385頁)。

自衛隊が9条2項によって保持を禁じられている「戦力」に該当し違憲だと、我が国の司法府として初めての判断を下したのが、長沼事件訴訟第一審判決である(札幌地判昭48.9.7判時712号24頁)。
この事件は、自衛隊の基地建設のために保安林の指定を解除することの合憲性を争ったものである。
同判決は、「わが国が、独立の主権国として、その固有の自衛権までも放棄したものと解すべきでない」としながらも、その自衛権を「武力によらざる自衛権」に限定した。
伝統的意味での自衛権行使は放棄されている、とみたのである。
判決は、「民衆が武器をもって抵抗する群民蜂起の方法」等の、軍事力によらない方法によるべきことを説いた。
が、しかし、民衆による抵抗は国家による行為ではなく、これを自衛行為と位置づけることは筋違いだった。
その控訴審判決は、代替施設が整備されたために周辺住民への災害の恐れはなくなり、原告の訴えの利益は消失したと原判決を取り消したが、その際、傍論として、他国の武力侵略に対して如何なる防衛体制を採るかは極めて高度の政治的判断を要する統治行為の範疇に属する、と指摘した(札幌高判昭51.2.17行集27巻8号1175頁)。
上告審判決は、訴えの利益に関する原審判決を支持したが、その傍論部分については何も言及しなかった(最1小判昭57.9.9民集36巻9号1679頁)。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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第6章 日本国憲法における統治構造の原理

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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論   第6章 日本国憲法における統治構造の原理    本文 p.148以下


<目次>

■1.権力分立(権限の分割)


一. 日本国憲法における権力分立の全体像


[98] (1) 日本国憲法における権力分立のタイプ


国家の統治は、複数の国家機関(憲法上の機関)が様々な権限を別々の作用形式のもとで遂行することによって為される。
ある権限が有効に効果を発生させるには、複数機関の作用形式が順序よく組合わさることを要件とする憲法がある。
これが権力分立(権限の分割)である(⇒[52])。

日本国憲法が権力分立構造を採っていることは自明の如くに論じられてきたが、いずれの作用が相互抑制関係に入っているというのか、探すことは容易ではない。
また、一言で、権力分立といっても、それには様々な原型がる(たとえば、合衆国憲法における権力分立構造について、T. ジュファソンは完全分離論に、J. マディソンは相互作用論によった)。
憲法の教科書は、モンテスキュー理論でさえ正確に理解しないままに、権力分立という言葉だけをドグマ化してきた感すらある。

“日本国憲法は、権力分立構造を採用している”という命題は、“日本国憲法は、○○のタイプの権力分立構造を採用している”と言い換えられねばならない。
そうしない限り、権力分立の理論はドグマのまま語り継がれるだろう。
“□□の論点は、権力分立の中核部分を侵害しない限り、国会の権限に属すると解してよい”などとドグマティークに教科書風に解説されても、読者は何の手掛かりすら与えられないのである。

[98続き] (2) 明治憲法との比較


明治憲法は、三権の行使方法を次のように規定した。

 「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(5条)
 「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(55条1項)
 「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」(57条1項)

これは、立憲君主制の明示にとどまり、「権力分立」の採用ではない。
“明治憲法は外見的権力分立を採用した”と称せられることがあるのは、天皇の統一的統治権を不動のものとしながらも、立法、行政、司法の権限行使方法に言及した上記規定に、統治権の区別であるかのような外観が与えられたからである。

これに対して、日本国憲法は次のような関連条文をもっている。

 「国会は、・・・・・・唯一の立法機関である」(41条)
 「行政権は、内閣に属する」(65条)
 「すべて司法権は、最高裁判所・・・・・・に属する」(76条1項)

この条文のスタイルは、国家作用を区別したうえでそれぞれ独立させてその担当機関を国会・内閣・裁判所に分離して、各機関にそれぞれの作用を独占的に帰属させる「完全分離」であるかのようにみえる(完全分離論については、既に [53] でふれた)。
完全分離論は、明治憲法での外見的立憲主義を克服するのに好都合だった。

[99] (3) 権力分立に関する通説的理解


そのため、我が国の学説には、少なくとも教科書レヴェルにおいては、フランスやアメリカのような「完全分離/相互作用」、「形式的捉え方/作用別捉え方」の論争はみられない。
おそらく、完全分離論が暗黙の了解事項となってきたのだろう。

権力分立に関する通説的な理解を紹介してみよう。
ある論者はこう述べた。
“権力分立とは、国家の作用を、その性質に応じて、立法・行政・司法の3つに区別し、それらを独立の権限として別個の機関に配分するとともに、互いに抑制し、均衡を保たせることによって、国家の権力を緩和し、もって権力の濫用を防ぎ、個人の自由を守るのがその狙いである”(頭点は阪本)。
完全分離論が我が国の通説らしいことは、“立法権は実体的にも手続的にも国会が独占する”という「国会中心立法」、「国会単独立法」が自明であるかのように語られてきたことに表れる(これらの原則については、後の [109] でふれる)。
内閣の法案提出、裁判所による文面違憲の判断と抵触してくるが、そこは“それらは立法作用ではない”との説明で切り抜けられている。
説明にあたって“それらは、実質的意味の立法作用ではない”といわれると、人々は実質的に納得した気になってしまうのだ。
ところが、そう説明しても、他の国家機関が立法手続に関与していることに違いはない。
そこに完全分離説の綻びがくっきりと現れているのだ。
通説のもうひとつの綻びは、「独立の権限として別個の機関に配分」された統治構造のなかでは、それぞれの機関が相互に抑制しようにもしようがないのではないか、という点にも現れた(この欠陥については、既に [53] でふれた)。
この欠陥は、「権力の濫用を防ぎ、個人の自由を守る」という誰もが納得する機能に言及することで覆い隠された。

[100] (4) 日本国憲法における権力分立


日本国憲法が権力分立によって「抑制と均衡」を図ろうとしている明文の規定は、二院制(42条)、地方自治(第8章)である(会計検査院による決算検査(90条)は、権力配分に関わらないから、ここに挙げないほうがいいだろう)。
内閣が条約を締結し、国会がこれを承認することも(73条3号)、権力分立の明文の表れである。
また、予算を内閣が編成・提案し、国会がこれを審議し議決することも同様である(86条)。
81条の司法審査制は、そのなかでも特別に重要で、国会が制定した法律を審査するだけでなく、内閣が制定した政令、行政庁による処分までをも、あくまで法の問題として審査し、司法府と他の二権との「抑制と均衡」を図るのである。

抑制と均衡の例としてよく言及される、国会の召集、衆議院の解散については、直接の明文規定はない(7条3号は権力とは関係のない国事行為に関する規定である。解散や召集についての論議は、先の [87] でふれた)。
今日の権力分立において無視できない政党の働きは、日本国憲法において何の言及もない(この点については、先の [57] でふれた)。

さて、権力分立にとって中核部分であるはずの、立法・行政・司法という国家作用は、国会、内閣、裁判所にどのように分配されているのか?
関連の条文は、先に引用したとおりである。
そして通説の理解が、完全分離論に影響されてきたことも、上に論じたとおりである。
完全分離論で説明し切れないことは、次の例でよく理解できるだろう(下にふれる例以外にも多数ある)。

第一は、 法律の制定である。
内閣の発案した法律案Aが、衆議院で審議可決された後、参議院に送付され、参議院では異なる議決となったため、参議院から衆議院に返付されたところ、衆議院によって再議決されると(59条2項)、これに主任大臣が署名する(74条)、という一連の流れこそ、「抑制と均衡」の狙いのはずである。
第二は、 法律の執行である。
73条1号の文理からすれば、“国会の制定した法律を、内閣が誠実に執行する”と読める。
が、内閣は法律を執行する行政機関ではなく、執政の機関であり、行政機関に法律を執行させ、これを監督するのである(⇒[134]。この監督は、内閣法においては「統轄」と称される)。
さらに国会が、行政機関を監督する内閣を監督するのだ。
国会は、立法の執行段階に対しても一定の権限を持っているわけだ。
完全分離論によったとき、国会のこの監督は、何であるといわれるのだろうか?
その解が“民主的コントロール”である。
“民主的コントロール”という表現は、機能を表すにとどまり、これが権力分立論として有意になるにはコントロールのための権限を摘示するものでなければならない。
完全分離論は「立法/執行」が別個独立のものだと捉えたために、両者の抑制関係を権限で表すことが出来ず、機能論で応えたのだろう。

日本国憲法の権力分立構造は、相互作用(権限の分割)論によっている。
もっとも、その相互作用の具体的な姿は、比較憲法的にみて特異である。
まず、立法府と執政府との関係については、日本国憲法は、その二元的対立を避けるためにアメリカ的大統領制(厳格な分離型)によらなかった。
国会と内閣との間に統治方針の一致原則をもたらそうとしたのだ。
これが、議院内閣制の構造の狙いである(⇒[60])。
連携と反発の関係をもつ議院内閣制は、完全分離論ではますます捉え切れないはずである。

“日本国憲法は議院内閣制を採用した”と、これまでよくいわれてきた。
その議院内閣制として念頭に置かれていたのは、イギリス型の「議会中心の統治」のことだった。
このことは、41条が「国会は、国権の最高機関であつて、・・・・・・」としている部分に表れているといわれる。
が、それは、内閣主導の統治を否定する法的意味まで持ってはいないのだろう(だからこそ、後の [108] でふれるように、「最高機関」とは政治的美称だ、といわれるのである)。

ニ. 二院制


[101] (1) 二院制の意義


二院制は、政治的実践のなかで成立したものであったために、これを理論的に正当化することは容易ではなかった。
フランスにあっては、一般意思が単一でなければならない以上、それを代表する議会も単一でなければならないはずだ、という理論のほうが強い影響を持った。
《二院制の存在理由は「議会の専制」を抑制することにあり》という権力分立の観点を説いたのがモンテスキューだった(彼の権力分立論における重要ポイントが二院制にあってことにつては、[52] で既にふれた)。

二院制とは、議会(国会)という機関をふたつの合議体に分割することではない。
二院制とは、組織原理を異にし議事ルールをも異にする、ふたつの独立自足的な審議体が憲法上の機関として存在することをいう。
ふたつの独立機関がそれぞれの議事ルールに従って意思の合致をみたとき、議会(国会)の決定事項とされることが二院制の真の姿なのだ(議会とは、両院が有している立法権を含めた諸権限を共同行使する際に浮かび上がる観念体に過ぎない)。

それぞれの独立機関として重要な権限が、法律制定にあたって審議し可決する権限である。
もっとも、二院制が、相互抑制・均衡のメカニズムを発揮するには、両院が同質の審議可決権限を持たないことが望ましい。
一院が法律案を提案する権限を持ち、他院が審議し可決したとき、一院がそれをそれを阻止する、というように、一院には提案権と拒否権とを与えるにとどめる、という方法こそ、二院制の当初の構想に忠実である。

日本国憲法において、国会の意思は、59条に定められている法律案の議決手続にみられるように、両者の意思の合致をもって成立することを原則とし、例外的に、衆議院が特性の審議事項について優越的な地位に置かれることがる(衆議院の優越)。
これは、二院に同類の審議権限を与えないための工夫である。

[101続き] (2) 二院制の組織原理


それぞれの院が、権限において異なるためには、その組織原理を違えておくことも重要な視点である。
そのためには、
(ア) 一院を直接選挙としながら、他院については、間接選挙型、任命型または貴族型とするが如く、選出方法を変える、
(イ) 一院を全国民代表、他院については、職能代表または連邦制下での州代表とするが如く、選出の母体・利益を変える、
(ウ) 被選挙権資格、任期、選出方法を違える
等々、さまざまに工夫される。

二院制を採用した明治憲法は、衆議院を公選制とし(35条)、貴族院を貴族院令の定めるところにより皇族、華族および勅任議員によって構成させた。
貴族院の存在理由は、“社会の上層の地位の代表機関とすること”にあった。
一院を非公選院とした明治憲法下の二院制は、通常、「保守的二院制」と呼ばれている。

日本国憲法も「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する」(42条)「法律案は・・・・・・両議院で可決したとき法律となる」(59条1項)と定め、二院制によることを明らかにしている。
現行の二院制は、いずれかの院が国民を代表するのではなく、両院ともに国民を代表し、両者の意思の合致をもって国会の決定事項とする、とするための制度である。
そのことは、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と定める43条に覗える。
この二院制は、双方ともに公選院であるところから、通常、「民主的ニ院制」と呼ばれる。
議員の任期に関して、日本国憲法は、衆議院4年(45条)、参議院6年(46条)と定め、両議院議員の兼職を禁止する(48条)等、二院制に相応しい条件を幾つか取り入れている。


■2.選挙と選挙制度


一. 選挙制度原則


[102] (1) 権力分立における普通選挙制


選挙人(有権者)によって代表者を選出する行為を「選挙」という。
選挙制度の選択は、民主制にとってだけでなく、権力分立や二院制にとっても、重要である。
議会(国会)における少なくとも一院が、かつての身分制代表のように出自によって選出されるのではなく、選挙人資格を有する者すべてによる自由で平等な投票によって選出されたとき、議会中心の統治が実現したのである(⇒[64])。

選挙人資格を財産、身分や教養によって制限することのない普通選挙制の実現したことが、権力分立の構造を変容させたことについては既に [56] でふれた。
国民主権または民主制のもとでの権力分立の全体像は、統治部門における抑制・均衡だけをみたのでは把握できないのだ。
統治部門における抑制・均衡は、定期的な選挙(または解散に伴う選挙)の際投票者によって修復されるのである。
選挙制度の全体は法律によって描かれるが、選挙法制が「憲法附属法」とか「実質的意味の憲法」と呼ばれることがあるのは、こうした重要度を示している。

普通選挙制は、選挙人資格について実質的な考慮事項を原則として排除するところに成立した。
制限選挙制のもとでは、国家にどれほど貢献できるか(貢献したか)という実質が要求された。
たとえば、兵役期間、納税額、識字能力のように。
普通選挙制にとって本質的な要素は、国籍と最低年齢だけに限られてきた(最近では、国籍すら本質的要素ではない、という主張すらみられてきている)。

[103] (2) 日本国憲法における選挙制


日本国憲法15条に、成年者による普通選挙制(3項)、秘密投票の保障(4項)の定めがあるものの、44条は、その但書きにおいて「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」という条件のもとで、選挙人資格を法律の定めに委任している。
そればかりでなく、47条は「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」と選挙に関する大綱をも法律に委任している。
こうしたやり方は、諸外国の憲法でもよくみられる(たとえば、ドイツ基本法38条は、普通・直接・自由・平等選挙制と秘密の投票保障を(1項)、18歳の選挙権年齢・20歳の被選挙権年齢を(2項)定めるほか、3項において「詳細は連邦律で定める」としている)。
これは、“選挙法の内容形成を議会に委ねている”と表現されることがある。
それだけ選挙法制の技術的・専門的な領域は、大綱を定める憲法の規律領域ではない、と考えられているのである。

平等選挙制は“一人が一票もつ制度だ”といわれ、選挙人に与えられる票数に格差を設けるものは「差等選挙制」と対照されてきた。
が、比例代表制の導入後は、一人一票の定義は微妙となった。
比例代表制のもとでの政党への一票と、選挙区における候補者に対する一票の、二票を各選挙人が持つからだ(公選法36条の但書きを参照すると、そのことがよく分かる)。
選挙人資格の保有者が全員それぞれ同じ票数をもつ制度の論拠は、14条の平等条項であるのか、44条の但書きであるのか、はたまた、両者の合わせ業であるのか、定説はないようだ。
この論点は、14条の平等概念を、形式的平等と捉えるか、それとも、実質的平等と捉えるか(*注1)にかかっている。
もし、14条の平等が、《各人の違いに応じて合理的に処遇せよ》といっているのであれば、資格付与にあたって、実質的な要素を勘案してもよいことになる(※注釈:配分的正義)。
平等選挙制にいう「一人一票」は、これではない。
なぜなら、「一人一票」は、《選挙人有権者の投じた票は、誰のものであれ、一票として数えられる》という形式的な平等概念によっているからだ。
《何人もひとりとして数えられ、それ以上には数えられない》という形式的平等観に最も近いのは、上に引用した44条但書きだろう(※注釈:交換的正義)。

直接選挙制とは、選挙人の投票を以って代表者の選出にとって最終決定とする制度をいう。
選挙人が特定数の中間選挙人を選出し、その中間選挙人の選挙によって公職就任者が選出される制度を「間接選挙制」という。
被選議員によって構成される合議機関が別の議員を選出する制度を「複選制」という。

自由選挙制とは、選挙人の意思決定に対して直接または間接の圧力をかけることのない制度をいう。
自由選挙制を担保するためには、選挙人の投票内容が直接・間接の圧力によって開示されることがあってはならない。
投票内容が第三者には判明しないよう工夫された投票方法を「秘密投票」という。
日本国憲法15条4項は、公私にわたって責任を問われない、と秘密保護の範囲を列挙している。
これを受けて公選法は、「何人も、選挙人の投票した被選挙人の氏名又は政党その他の政治団体の名称若しくは略称を陳述する義務はない」(52条)、「投票用紙には、選挙人の氏名を記載してはならない」(46条4項)と定めている。

(*注1)「形式的平等/実質的平等」について
形式的平等や実質的平等が何を指すのか自体について、定見がない。
この点については、『憲法2 基本権クラシック』 [40] を参照願う。
(※注釈:阪本氏の理解では、①形式的平等→交換的正義(応報的正義、算術的正義)、②実質的平等→配分的正義(幾何学的正義)となっている)

ニ. 代表と選挙方法


[104] (1) いくつかの選挙方法


選挙制の原則と並んで、代議制にとって重要なポイントが、“選挙区をどう設定し、そこにおいて誰を当選人とするか”という選択である。
その選択は、議会には多数派の政治的選好を反映させるべきか、それとも、少数者のそれをも反映させるべきか、という代表方法と絡んでいる。

選挙区の多数が票を投じた候補者こそ当選者とされるべきだ、という代表選出方法を「多数代表法」という。
これは、“代表機関は多数者の政治的選好を反映すべきものだ”という思想を基礎にしている。
大選挙区制のもとでの連記投票制や小選挙区制がこれにあたる。

ところが、これによれば多数派が代表機関を独占するおそれが生ずるため、少数派もまた代表を送りこめる方策が模索される。
この“少数者も代表されるべし”という考えのもとでとられる方策を「少数代表法」といい、典型的には、大選挙区制のもとでの単記制がこれにあたる。
もっとも、この方法によっても必ずしも少数派が代表を送り出せるわけではなく、立候補者の数や政党の投票獲得キャンペーン等の外的要素も大きく影響する。

[104続き] (2) 比例代表法


19世紀後半からヨーロッパ各国で実施されてきた比例代表制は、多数派・少数派に各々その勢力に比例した代表数を確保しようとする工夫である。
比例代表法の基本的特徴は、
(ア) 当選に必要な標準票数(当選基数)が一定されること(その方法も様々であって、採用頻度の高いものがドント式である)、
(イ) 当選基数を超える得票が他の候補者に移譲されること、
この二点にある。

比例代表法は、移譲の方式によって、単記移譲式比例代表法と、名簿式比例代表法とに大別される。
単記移譲式比例代表法は、大選挙区制のもとでの単記投票で、当選基数を超えた残余の得票が選挙人の指定する順序に従って移譲される方式をいう。
名簿式比例代表法は、政党の作成した候補者名簿に対して選挙人が投票し、投票の移譲は名簿上の候補者内で為される方法をいう。
この方法には、さらにふたつがある。
ひとつは、政党の決定した候補者名簿の順位が絶対的に優先する厳正拘束名簿式と、他のひとつは、同一名簿上での候補者順位について選挙人の選択の余地を認める単純拘束名簿式である。

我が国の衆議院の比例代表選挙で採用されている方式は、厳正拘束名簿式であり、当選者の決定はドント式によるものとされている(公選法95条の2)。
参議院の比例代表選挙においては非拘束名簿式が採用されている。
多数ある選挙方法のうち、いずれを選択するかは国会の裁量に委ねられている(最大判昭51.4.14民集30巻3号223頁。以来、一貫した最高裁判例の見解)。

三. 選挙と選挙権


[105] (1) 選挙権の法的性質


先の [4] で指摘したように、我が国の憲法学説は、ドイツ流の国家法人説の影響を受けてきた。
国家法人説のもとで、選挙権の法的分析をしたのがG. イェリネックだった(*注2)。

(※注釈<公務説>) 我が国の通説は、国家を法人だとは捉えない方向を示しているにもかかわらず、選挙に関しては、イェリネックと同じように、“国民が有権者団(選挙人団)という国家機関を作り上げるのだ”と捉えている。
この観点からすれば、「選挙権」とは、選挙人団の構成員となるための資格を求める権利(選挙人資格請求権=選挙人名簿への登載を求める権利)だと特徴づけられる。
この資格は、国家という法人の構成員であるが故に認められるのであるから、国籍保有者に限定されるのが当然だ、ということにもなる。

上の意味での選挙権が主観的権利であるのに対して、選挙権保有者が有権者団として行動する選挙は、国家機関としての活動であるから、公的行為であって権利ではない、と説明される。
これは「公務説」と呼ばれることがある。
さらに、日常の用語では相互互換的に用いられる「選挙・投票」は、この説に従って厳密にいうなら、同じではなく、《選挙における個々の選挙人が意思を表示する際の方法を、投票という》のである。

上の考え方をまとめると、《選挙人団の行為は、国家機関としての公務であるのに対して、選挙人資格請求権という選挙権は、主観的権利である。また、各選挙人が選挙の際に投票箱に用紙を投函する行為を投票という》という図式となる。
イェリネックにみられた、〔公務+主観的権利=選挙〕という理解は、「二元説」と呼ばれることがある。

もっとも、我が国の通説である「選挙権に関するニ元説」は、《選挙権は選挙人団という機関の公務でるとともに、「参政の権利」としての主観的権利でもある》という主張であることには、留意を要する。
(※注釈<権利説>) この通説に対して、国家法人説をはっきりと拒絶する有力説は、“選挙権は主観的な権利だ”と一元説にでる。
この立場は「権利説」と呼ばれている。

権利説のなかにも、様々な分岐がみられ、自然権だというもの、主権者として市民が持つ不可譲の権利だ、というもの等々一定しない。
ただ、権利説に共通する狙いは、
(ア) 選挙人資格と国籍とを当然のごとく関連させてきた古典的な発想に反省を迫ろうとする点、
(イ) 選挙権・被選挙権の欠格事由(*注3)を必要最小限に限定しようとする点、
(ウ) 選挙権を個人の自由な処分に委ね、自由選挙制を徹底させようとする点、
等にあるのだろう。
確かに、選挙が有権者団の行為であると解すれば、“日本国籍を有する者だけが資格を有する”“選挙または投票は国民の義務である”と説かれ易い(ベルギー憲法62条は、投票は義務である、と述べている)。
この点、権利説によれば、“地方自治レヴェルでの選挙においては、日本に定住する外国人も有資格者としてよい”、とか、“棄権も自由だ”と主張しやすい(*注4)。

(*注2)イェリネックの地位の理論について
『憲法2 基本権クラシック』 [18] 頁を参照願う。
(*注3)選挙権・被選挙権の欠格事由について
公職選挙法11条は、成人被後見人、禁固以上の刑に処せられた者や一定種の選挙犯罪人を「選挙権及び被選挙権を有しない」と定めている。
(*注4)外国人の選挙権について
『憲法2 基本権クラシック』 [26] 頁を参照願う。

[106] (2) 多元的な政治的選好


《国民が有権者団となって政治的意思を統一的に形成する》という説明の仕方には、次のような欠陥がある。
第一は、 国民が実在するものと想定している点である。
国民が統一的意思をもつはずはないのだ(⇒[37])。
統一的意思という言い方はあくまで擬制だと受け容れるとしても、国家法人説的発想自体も擬制である。
こうしてみると、上の命題は二重の擬制の上に成立しており、実にリスキーな考えである。
第二は、 選挙区制のもとで実行される選挙が統一的意思を生み出すはずはないという点である。
第三に、 秘密投票制のもとで、投票内容について責任を問われない選挙が、国家機関の公的意思を創り出すとは考え難い。
秘密投票のもとで投票者の動機づけは、自己利益を促進することにあるだろう。

選挙人は統一的国家意思の法上の単位ではない。
選挙人は、それぞれの政治的選好をもった、求心性を欠く個別の存在である。
その人物が、個別に投票(通常は秘密投票)した後、有効投票の多数を得た者が、法上の効果として、代表者として扱われるのである。
このことを“主権者による政治的統一意思の表示である”と語ることは、大仰な擬制である。

選挙とは、代表者(リーダー)からみれば選挙人の投票の獲得を目指して競争する過程である。
またこれを投票者からみれば、その競争過程の最終段階において、代表者を選択する行為である(⇒[27])。
これが私の選挙の見方である。
これは、《選挙権とは、統治される者が代表者を選出したりしなかったりするための主観的利益だ》といいたいのである。

[106続き] (3) 立候補の自由


民主制の意義については、先の [27] でふれた際、《選挙における候補者が政治サービスの生産者であり、有権者がそのサービスの消費者である》という見方について私はふれた。
この生産と消費の連鎖が円滑に機能するためには、まず、生産者側の自由がなければならない。
その自由が「立候補の自由(*注5)」である。
もっとも、日本国憲法はこの自由について何も語っていない。
学説は、この自由の憲法上の根拠として、13条の幸福復追求権を挙げるもの、14条1項の政治的関係における平等処遇を挙げるもの等、様々である。

(*注5)連座制と立候補の自由について
公職選挙法は、選挙運動総括主宰者等が買収等の選挙犯罪について有罪判決が確定されれば、当選人の当選無効のみならず、判決確定から5年間の立候補を禁止する「連座制」を採用している。
この連座制は現在では秘書にまで拡大されている。
最高裁は、いずれの連座制も、選挙の公明、適正を実現する合理的な目的を持っており手段として必要かつ合理的である、との合憲判断に出ている。
最1小判平8.7.18判時1580号92頁(県会議員選挙)、最3小判平10.11.17判時1662号74頁(衆議院議員選挙)。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論

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最終更新:2019年12月29日 01:24