14-67

「…何…だって…?」
 ひよりの言葉にシンは耳を疑った。
 出来ることなら、またいつものように単なるひよりの悪趣味な冗談だと笑い飛ばしたかった。
 だが、ひよりは何時に無く神妙な表情で、シンの願望を否定するかのように首を振った。
「……マジっす。なんか調子が悪いなーって思って病院で検査を受けたら、わかったんすよ。
 もうすぐ三ヶ月だって…ホラ、きっと先輩と一緒に泊り込んだ、あの時だと思います。
 その、何ですかね、私、先輩以外にああいう経験ってしたことないっすから…」
「俺の……子供?」
 心此処にあらずという風に、呆然とシンは呟く。
 あの日、漫画を描く手伝いをしてくれとひよりに頼まれたシンは、自分で良ければと快くそれを承諾した。
 最初はシンも何気ない気持ちで引き受けた仕事だったが、実際は相当切羽詰っていた状況だったらしく、
鬼気迫る様子で原稿にペンを走らせるひよりの姿を見て、シンは畏怖と共に尊敬の念を抱いた。
 自分の好きなこと、やりたいことに、これだけ真剣に取り組めるひよりの姿がシンには眩しかった。
 だからシンも、ひよりの気持ちに応えるべく力の限りに彼女のサポートを続けた。
 長い時間を掛けてようやく二人で漫画を完成させた時、シンは深く感動すると共にひよりと本当の意味で心が一つになったと思った。
 誰かと一緒に何かを作り上げるということが、こんなにも素晴らしいことだったなんて。
 精根を使い果たして疲れきっている筈のひよりが浮かべていたあの力強い笑顔の意味を、シンは何の理屈も抜きにして理解することが出来た。
 そして原稿を然るべき場所に届けた後、二人はそのまま別れてお互いの家でぐっすりと休む筈だった。
 だが、そうやって帰ろうとするシンのことを、ひよりが引き止めたのだ。

「もう少しだけ――もう少しだけ、私、先輩と一緒にいたいっす」

 こちらの腕をそっと掴んで照れたように呟くひよりのことを、シンは振り払うことは出来なかった。
 その日から、シンとひよりは恋人として付き合い出すようになったのだ。
 恋人同士と言っても、他愛も無い世間話で大騒ぎしてみたり、シンがひよりの漫画を描く手伝いをしてみたり、
シンのアルバイト先にひよりが押し掛けてみたりと、それまでと何ら変わらない日々。
 それが今日、ひよりの一言によって脆くも崩れ去ってしまった。
 今まで何気ない日常と思っていた日々は、最初から猶予期間を与えられただけの仮初の物に過ぎなかったのだと、シンはようやく気付かされることになったのだ。
「はは…どうしたもんですかね。漫画とかドラマだったら、こういうのって珍しくも何とも無いっすけど…
 まさか自分がこういう立場に立たされるなんて思ってなかったっすよ。
 これから、どうすればいいんでしょうね……本当に…私、どうしたらいいんだろ……」
 シンの目の前で、ひよりは小さく体を震わせる。普段の明るい彼女からは想像も出来ないくらいに弱々しい姿だった。
 今にも泣き出しそうなひよりの顔を見て、シンはやがて真剣な表情を浮かべて、ひよりの背に手を伸ばす。
「――ひより、聞いてくれ」
「先……輩」
 そのままシンはひよりの体を優しく抱き締めて、滔々と言葉を続ける。
 ひよりの心臓と、そして彼女のお腹に宿る新しい生命の鼓動が、そのまま伝わって来るかのようだった。
「ごめんよ、ひより。そんなつもりじゃなかったとは言え、俺はひよりを深く傷付けちまった。
 そしてお前の人生を滅茶苦茶にしちまったんだ。これはお前や、お前の家族には謝ったって謝りきれることじゃない」
「な、何言ってるんすか先輩……私が傷付いたとか、別にそんなことは…」
「いいんだ、本当のことなんだからさ。それからひより、そのままでいいから聞いてくれ。
 俺はもう元の世界に返らない。このままずっとこの世界にいて、そしてお前とお腹の中の子供と一緒に暮らすよ」
「な……っ!?そ、そんなの駄目っすよ先輩!そんな大事なことを、そう簡単に決めたりなんかしちゃあ!
 先輩だって元の世界に返りたい筈っす!そこには先輩にとって大事な人達がいる筈でしょう!?
 私に会う前から、ずっと……ずっと先輩のことを待ってる人が……いるんじゃないんですか…!?」
 ひよりの言葉に、シンはかつて自分が元いた世界のことを思い出す。
 あの頃の記憶も、今は遠い昔のことのように思える。
 本当はあの世界で、もっと多くの物を守ってあげたかった。
 生まれ故郷のオーブが戦火に焼かれた時に失ってしまった最愛の家族。
 他人の都合で勝手にその生命を弄ばれた少女。信頼するミネルバの仲間達だってそうだ。
 自分にもっと力があれば、皆を守ることが出来たのかもしれない。
 あの世界で守れなかった人達のことに対して、未だにシンは悔いを残していた。
 恐らく自分には永久に忘れることが出来ないのだとシンは思う。
 一体、あの果てしない戦争の続く世界は今頃どうなっているのだろう。
 気にならないと言えば嘘になる。ひよりが言う通り、自分のことを待っていてくれる人もいるかもしれない。
 もし生きているなら、共に戦い抜いたミネルバの仲間達に会いたいとも思う。
「……いいんだよ、ひより」
 それでもシンは頭を振って、ひよりの言葉をはっきりと否定した。
 元の世界でシンが帰るべき場所は、もうミネルバの艦内しか無かった。
 しかし、かつての上司との戦いを経て、平和な今のこの世界にやって来ることによって、
自分がミネルバで振るっていた力などは、本当はどのような世界でも必要無い物だったのではないかと思うようになっていた。
 あの世界はシンにとって帰るべき場所かもしれないが、自分の腕に抱かれて泣いている一人の少女を置き去りにしてまで帰りたい場所では無い。
 シンには今、守りたい人がいる。この平和な世界の中で、自分にしか守れない人がいるのだ。
 その人を守る為ならば、元の世界に残して来た皆だってわかってくれると、シンはそう思いたかった。
「ひより、俺はお前が好きだ。例え何があっても、お前のことを守ってやりたいと思う。
 だけど今の俺には、お前を守ってやれるだけの力を持っていない…それが本当に悔しいよ」
「………っ」
「――なあ、俺にチャンスをくれないか、ひより。
 俺、これから一生懸命色々なことを勉強して、お前のことを幸せにしてやれる男になってみせるよ。
 今の俺が言うことじゃあ、まだまだ頼りないかもしれないけどさ…それでも俺は、お前のことを…」
「……ズルいっすよ」
「え?」
「先輩はズルいっす。そんなお約束で、王道でありきたりで陳腐でありがちな台詞を言われたら…
 こんな時にそんなことを先輩に言われたら、私、言う通りにしたくなっちゃうじゃないっすか…!」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、ひよりはシンの体を力一杯に抱き返しながらそう言った。
「まったくっ…こんなベッタベタな展開、今時アニメや漫画ですらありませんよ…っ!
 もう……もう先輩はっ、本当にっ、呆れ返っちゃうくらいにお話を作る才能が無いっす…!
 何でも勉強するって言うなら……っ、まずは文才の一つでも…ぐすっ、身に付けるべきっす…!
 そんなんじゃあ先輩はっ……世間の流行から、取り残されちゃって……私まで困っちゃいますよ…っ!」
 喜びと不安が入り混じった表情で、何度もしゃくり上げながらも言葉を続けるひよりの頭を、シンは優しく撫でた。
「ああ、そうだな。お前の言う通りだ。きっとお腹の赤ん坊も、ママを泣かせちまうダメなパパだって呆れてるだろうな。
 頑張んなきゃな、俺。俺達の子供と一緒に、三人で幸せになんなくちゃな」
「……私、待ってますよ。先輩が本当の意味で私を迎えに来てくれるのを。
 先輩のこと、『あなた』って呼べる日のこと……私ずっと、ずっと待ってますから……」

 そして二人はお互いの顔を見つめ合った後、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
 シン・アスカと田村ひよりの結婚式の招待状が知人達の元に届くのは、それから数年後のことだった。

 戻る 

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2008年05月02日 15:32
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。