「天原先生、さようならー」
「はい、さようなら」
擦れ違い様に会釈して来る生徒達に向けて、天原ふゆきはにっこりと笑って挨拶する。
今日一日、この陵桜学園で行われていた授業も全て終わって、既に時間は放課後。
廊下の窓から外に視線を送れば、そこには校舎から出て行こうとする沢山の生徒の姿が目に入って来る。
そのまま帰路に着くべく校門を潜り抜けようとする生徒達は勿論、部活動や課外活動に従事する為に学校の敷地内を走り回っている生徒の姿もあった。
皆が今日という一日を無事に過ごすことが出来て良かったとふゆきは思う。
この学校の養護教諭として生徒達を見守っている彼女にとって、彼らがこの学生生活の中で元気な姿を見せてくれることが何よりの喜びであり、何物にも換え難い宝物なのだ。
「………ふぅ」
今、放課後を迎えて生徒達の大半が帰宅したとしても、まだまだ校舎の中には大勢の人間が残っている。
ひょっとしたら、彼らがふゆきの存在を必要とするような状況が起きるかもしれない。
その時は自分に出来る精一杯の力を振り絞って皆を助けてあげたい。
その為にも一刻も早く保健室に戻らねば。改めて自分の為すべき仕事を確認したふゆきは少しだけその歩幅を早める。
「ん…あれ、天原先生じゃないですか」
ふゆきが廊下を歩くその途中で、反対側から歩いて来た男子生徒に声を掛けられる。
その男子生徒は、そのままやけに礼儀正しい姿勢でふゆきに向かって頭を下げて来た。
「どうもこんにちは、天原先生」
「こんにちは。……あら、確かあなたは…」
「
アスカです、シン・アスカ。いつもお世話になってます」
ふゆきにとっても、彼の顔は全く見知らぬ物でも無かった。
最近になってこの学校に転校して来た生徒で、運動神経抜群、成績も中々に優秀ということで、学内ではちょっとした有名人である。
だが、突然の転校生というただでさえ目立ちやすい身の上に加えて、彼の周囲を取り巻く多数の女子生徒の存在もあって、嫉妬や僻み根性から彼に絡んで来る男子生徒達とのトラブルも決して少なくなかった。
事実、そんな男子生徒とシンの間で喧嘩騒ぎにまで発展したことも一度や二度ではない。
勝利するのは決まってシンの方だったが、お互いにいつも無傷という訳にもいかず、何度かシンも保健室に足を踏み入れている内に何となくふゆきも彼の顔を覚えるようになっていたのだ。
「そうそう、アスカ君だったわね。アスカ君はこれから帰るのかしら?」
「ええ、そのつもりです。ちょっと桜庭先生の所に用事があったんですが、それももう終わりましたから」
シンの言葉に、ふゆきは生物教師の桜庭ひかるの顔を頭の中に思い浮かべる。
今でも仲の良い幼馴染である
ひかるがシンと一体どういう会話を交わしたのかを想像しながら、ふゆきは再び口を開く。
「そうなの。先生はまだお仕事があるけれど、それならアスカ君も気を付けて帰って下さいね。
交通事故なんかは特にそうですし、それに……」
そこまで言い掛けて、ふゆきは一瞬言葉に詰まった。
果たして、この先を言うべきなのかどうか、ふゆきにはすぐに判断することが出来なかった。
だが、次にふゆきが口を開くよりも早く、目の前で逡巡するふゆきの様子から、彼女が何を言わんとしているのかを察したシンが彼女の後を引き継ぐような形で言葉を続ける。
「…わかってますよ。くれぐれも喧嘩なんかしないように、でしょう?」
そこまで言ってから、シンは軽く嘆息する。
「……アスカ君」
「いいんです、気にしないで下さい。他の連中が俺のことを気に食わないって思うのは勝手ですし。
俺もあいつらに対して、その辺りのことでどうこう言うつもりなんてありませんから。
まあ、殴られたから殴り返すっていうのは……正直、もう繰り返したくは無いですけどね」
一体、何が起因となってシンが男子生徒達に絡まれているのか、それぐらいはふゆきとて把握している。
彼が他の生徒達と騒動を起こしたとしても、それは決して彼自身の意思による物では無いのだ。
恐らく、こうした問題が起きた時に、一番辛い思いをしているのは間違いなくシンの筈。
それなのに自分は今、無神経な口を利いて、逆に彼を傷付けてしまったのではないかと、ふゆきの胸は痛んだ。
「……ごめんなさい、アスカ君」
「天原先生?」
「決してアスカ君が悪いわけではないのに、まるであなたにも責任があるような言い方をしてしまって。
先生の立場から喧嘩なんてしては駄目、仲良くしなさいと言うのは簡単だけれど…
そうやって、ただ無責任にこちらの意見を押し付けるだけでは何の解決にもならないものね。
そんな風に上から見下ろすような言い方をしてしまったことを、私、本当に申し訳ないと思っています」
本当は今ふゆきが口にした言葉すらも、シンにとっては余計なお世話に過ぎないのかもしれない。
だが、それでもふゆきは、シンに向かって頭を下げずにはいられなかった。
「先生…先生が謝ることじゃないですよ。これは俺自身の問題なんですから」
「でも、アスカ君」
「本当に大丈夫ですって。そりゃあ、俺だって好き好んで喧嘩したいわけじゃないですけど、だからってそれを本人達に言った所で、それこそ相手は見下されてると感じて余計に反発するだけでしょうし。今、天原先生が言ったみたいにね」
「………っ」
「天原先生、俺のこと心配してくれてありがとうございます。こんな風に親身になって考えてくれる人って、今まで俺の周りにはあまりいませんでしたから…何だか嬉しいです」
「アスカ君……うぅっ」
そこまで言い掛けた所で、ふゆきは急激な虚脱感を覚えて頭を抑える。
手にしていたファイルが彼女の手から滑り落ち、渇いた音を立てて床へと転がる。
「天原先生!?」
「う…だ、大丈夫よ。何だか、ちょっと…疲れちゃっただけだから、気にしないで……ひゃうっ!?」
いきなりシンが手の平を自分の額に押し当てて来て、その突然の感触にふゆきは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
彼の手のひんやりとした感触が何とも心地良い。
少し曖昧になって来た意識の中で、真っ先にふゆきが思い付いたのはそんな感想だった。
「……すごい熱じゃないですか!ったく、これの何処が大丈夫だって言うんですか!?」
「え、あ……さ、さっきまでは、本当に何ともなかったんですよ…だから、少し休めばきっと平気…」
「……失礼します!」
言うが早いか、シンはふゆきの身体を引き寄せて、そのまま両方の腕で彼女の身体を抱き抱える。
この年頃の男子にしては比較的小柄に見える彼の身体の何処に、ここまでの力があるのか不思議なぐらいだった。
「あ、あ、アスカ君…!?」
「そんな熱を出しておいて、平気も何も無いでしょう!俺が保健室までお送りします、少しの間我慢していてください!」
ふゆきに反論の余地を与えぬまま、シンはしっかりした足取りで保健室までの道程を踏み締めて行く。
体こそ寒気による震えが止まらなかったが、シンの腕に抱かれる中でふゆきは何とも言えない安心感を感じていた。