金曜日の放課後。土日は休日ということもあってか、いつにも増して元気のいい生徒たちの声が遠くに聞こえる。
「ふう・・・」
私は自らが監督する保健室の机で、今日だけで二十を数える溜め息をついた。
「先生、どうかしたんですか?」
「小早川さん」
ついさきほど具合が悪いとこの部屋を訪れた小早川さんが、さっきまでとは違い血色のいい顔でベッドのカーテンの隙間から心配そうに
私の顔を見ていた。
「なにか悩んでいるようだったんで・・・迷惑でしたか?」
そう言って、彼女は小動物のような瞳で見てくる。その様子が可愛らしくて、私は自然と微笑を浮かべる。
「そんなことありませんよ。それより、具合はもう大丈夫ですか?」
「あ、はい。もう、すっかり良くなりました」
少しずるいけど・・・大っぴらに相談できることでもないので話題をそらして誤魔化すことにする。それに、私の読みが正しければ、彼女は
ライバルだ。
「じゃ、じゃあ。ずっとここにいるのも悪いですし・・・失礼しますね」
「そうですね。今はちょうど帰りのHRの時間ですから」
小早川さんは人見知りな性格だ。他の先生に比べたら、私が一番か二番を争うほど打ち解けているだろう。それでも少し緊張しているの
だから、彼女が本心をさらけ出すのはよほど信頼を得てなければならないだろうと分かる。
そんなこと考えていると、彼女が本心で接している男の子の姿が浮かぶ。
(
アスカくん・・・か)
彼のことを考えると、頬が熱くなるのを感じる。ああ、いったいいつから私はこんなふうになってしまったんだろう。
扉に手をかけて去ろうとする小早川さんの背中に、前から思っていた予測を尋ねてみることにした。
「小早川さんは・・・アスカくんのこと、どう思いますか?」
「え・・・・・?」
思いがけない質問だったのだろう。小早川さんが驚いた表情で私のほうを見ている。そして、目を伏せて遠慮がちに小さく、本当に小さ
く呟いた。
「いい先輩だと思ってます」
嘘が苦手なのかな、小早川さん。ふたりの様子を遠目で見ていても分かる。小早川さんはアスカくんに好意を抱いているだろう。
だから、少し意地悪な気持ちで聞いてみる。
「アスカくんのこと・・・・・・・・・好き、ですか?」
「え・・・と。はい」
「・・・・・そうですか。すいません、引き止めてしまって」
小早川さんは軽く頭を下げて部屋をあとにした。
「・・・ライバルは多いようですね」
そう。多分、いや・・・確実に。私もアスカくんに惹かれている。
プールで泳ぎ方を教えてもらったのは、偶然だ。泳ぎが苦手な私は、別にそれを克服しようなんて考えてなかった。
桜庭先生にしつこく泳ぎの特訓を勧められ、仕方なく温水プールにいってみれば、そこにいるのは学校でも見かけたことのあるアスカく
んだった。
もちろん、生徒習うのには抵抗があった。だから少し泳げるふりをして、適当に帰ってもらおう、なんて思った。
けど、そんなとき不幸・・・いや、今思うと幸運な出来事なのかもしれない。そんなことが起こった。
「え・・・う、うそっ!?」
突然、左足に痛みが走った。足を攣った!?
私は本当に泳ぐことができない。だから、攣った足を使わず、プールサイドに辿りつくなんてことも勿論できなくて―――
「た、助けっ・・・!!」
アスカくんに助けを求めようと必死でもがく。
「・・・大丈夫か?」
このときのアスカくんには少し苛立ちを感じた。人が溺れそうな状況で、よくそんなのんびりとした声が出せますね!!でも今はそれよ
り・・・
「アスカくん、た、助けて!!」
「って、言ってもな」
そんな。私の心を絶望が突き抜ける。実はアスカくんは私を見殺しにするつもりなの?
「足、地面に付いてるだろ・・・どう助ければいいんだよ」
「そ、それでも!!し、死にそうなんで・・・うっ」
「はいはい。分かりましたよ・・・」
アスカくんはやれやれと呟いてから、やっと私をプールから引き上げてくれた。
「あ、アスカくん・・・す、すすす、すぐ助けなかったこと、う、恨みますよ」
「そんなこと言われても・・・そもそもあんな浅いところで溺れても大したことないだろ?」
私は肩で息をしながら、アスカくんを睨みつけた。
「でも・・怖いものは本当に怖いんですよ。だって・・・いつ死ぬか分からないんですからね」
少し誇張して言ってみる。怖いものはほんとうに怖いのだ。万が一のとき、妥協でもされて溺れ死んだらそれこそ笑えない。
「・・・・・・・・・・・・・そうですね。ちょっと軽率でした。すいません」
アスカくんは頭を下げてから、プールに視線を向けた。その横顔は少し寂しそうで、なにか悪いことを言った気がして私の心がズキリと
痛む。
「なにか、思い出してるんですか?」
アスカくんは穏やかな水面を見たまま。少し間を置いて呟いた。
「・・・・・・・・・・水でひとつ思い出したんですけど。昔、海に落ちた女の子を助けたんですよ。
でも、相手は錯乱して、俺のこと引っ掻くは、深いほうに行こうとするわ・・・とにかく散々でした」
アスカくんはもう今はない傷を思い出すように頬をなぞった。
「でも、その子のおかげで、今の俺があるようなもんです。こっちにきて、その女の子との出来事とか、思い出す暇もないくらい忙しかっ
た。でも、なんだかさっきの先生の溺れっぷりを見てたら・・・・・」
「思い出した・・・・・ってことですか」
アスカくんは少し意地悪な顔で笑った。からかわれてるのだろうか。教師として、少し情けない。同時に、軽い優越感を覚えた。
最近は彼を居候させているという泉さんを中心に、アスカくんに少なからず想いを寄せている女子生徒が増えている。そんな中、なんの
関係もない自分が話題の男の子の過去を少し知れたことが嬉しかった。
「ま、この話はここまでにしましょう。午後からはちゃんとバタフライまで教えますから」
「そ、そんな・・・無茶ですよ」
「大丈夫・・・・・・・・・・・今度こそ、俺が守るよ」
アスカくんが真剣な表情でへんなことをさらりと言う。
「はあ・・・なにを言ってるかよく分かりませんが。とにかく頼りにさせてもらいます」
「ま、まぁ、気にしないでください」
顔を赤くしたアスカくんが恥ずかしそうに顔を背けた。その仕草がかわいくて、私の胸が小さく弾むのを感じた。
「あれからでしたね・・・」
泳ぎは多少いい方向に成長している。最近は、月に何度かある水泳のレッスンが待ち遠しい。
そして、彼との距離が縮まるたびに、いつも思う。
教師という立場は、こんなにも煩わしいのか。もし、もしもあと数年遅く生まれていれば・・・。もしもアスカくんがあと数年早く生まれて
いれば・・・。
「・・・って、私らしくないですね」
そしてまた溜め息。そうやって自問自答を繰り返していると、コンコンとノックの音が聞こえた。
「はい?」
「失礼します」
入ってきたのは予想を裏切らずアスカくんだった。いつも週末にレッスンの予定を話し合うから、そろそろかな、と待っていたところだ
。
「だれかいます?」
「いえ。今はだれもいませんよ」
病人がいたら出直すつもりだったのだろう。私に確認すると、アスカくんは近くの椅子に腰かけた。
「今度のレッスンですけど、明日でも大丈夫ですか?」
「明日は茶道部もないから大丈夫ですよ」
「あ、じゃあ。明日、いつものプールで待ってます」
素っ気ない返事。アスカくんは、事務的なことはほんとうに必要なことしか話さない。友達と話すときは余計な一言で女の子から怪我を
させられるときがあるのに・・・。不思議な子だ。
「アスカくん・・・・・・・暇なら、ちょっとお話しませんか?」
「え・・・いいですけど。俺と話してもいいことなんてありませんよ」
ありますよ。私は話せるだけで幸せです。なんて言えるわけもなく、私は別の話題を持ち出した。
「アスカくんは、先月から三年生ですけど。進路とか決まってますか?」
「ああ・・・進路ですか」
少し顔がくもる。どうやら、あまり触れられたくない話題だったらしい。
「いちおう、今は
こなたのところに世話になってて、
そうじろうさんも大学まで出してくれるって言ってくれてるんですけど・・・・・・やっぱ
り、とてもじゃないけど頼めないですよ」
「・・・・・・・・・・」
「だから、いちおう・・・就職のほうを考えてます。こなたたちには世話になりっぱなしだから、少しでも恩返しができたらいいかなぁ・・・っ
て」
照れくさそうな彼の顔が、とても遠くに感じた。彼が遠くに行ってしまうのだ。
就職といっても、流石に都会の大企業などは高卒では無理・・・だろう。でも、この辺りで安定した職に就けるとも限らない。やっぱり、アス
カくんは遠くに行ってしまうのだろうか。
そう考えると、とても寂しくて、今までの日々がとても儚いもののように感じた。
アスカくんはいなくなる。どこか遠くに行ってしまう。
仮に大学に行ったとしても、変わらないのだ。この高校で働く自分とは接点がなくなる。
彼への想いを募らせて、来年からひどく寂しい思いをするくらいなら、今のうちに諦めたほうがいいのではないか。その悩みは、今までず
っと考えてきた。しかし、まだ結論はでていない。
「就職するとして・・・地元と、都会どっちがいいですか?」
「え?そうですね・・・俺は地元に残りたい、けど」
そう聞いて、少しだけ安堵する。
「でも、まずはふゆき先生に水泳教えなくちゃですね」
「え?」
「だって、泳げないと先生に彼氏ができても、海に遊びに行く機会なさそうじゃないですか。先生、船嫌いなんですって?
だから、船旅もできない不幸な未来の彼氏を助けるために、ね」
アスカくんが、少しにやりと笑う。
その言葉がどれだけ私の胸を抉ったろう。まるで、溶けかけのアイスをスプーンですくうように、簡単に、あっさりと削り取られた気が
した。
彼にはわからないだろう。あんなにも女の子たちから好意を寄せられて、気づかない彼だから。
あるいは気づいているのかもしれない。でも、その関係を壊したくなくて、知らないふりをしているのではないか。
考えれば考えるほど頭の中がぐちゃぐちゃになって、つい私らしかぬことを口走ってしまう。
「その一言が・・・どれだけの人を悲しませてるか・・・・・考えたこと、ありますか?」
「え・・・と、どういう意味ですか」
今度は彼が呆然とする番だ。突然、悲しそうに呟いた私を見て、なにがなんだか分からないといった顔をしている。
「アスカくんの言葉で、みんな元気をもらってます。でも、ときにアスカくんは女心をまるで理解してない発言をします」
「そ、そんなこと・・・っ」
「いいですか。それがどれだけの子たちを悲しませてきたか・・・胸に手をあてて考えてください」
アスカくんは戸惑ったように私を見ている。態度からして、状況をまったく把握していない、というわけでは無さそうだった。
「・・・・・・・気づいてましたね?泉さんや小早川さんたちが、あなたのこと・・・・・」
そこまで言うと、アスカくんが観念したように口を開いた。
「・・・・・・この際だから言いますけど。答えは・・・イエス、です」
やがて、アスカくんはひどく疲れた表情で語りだした。
「・・・・・・・・・去年まではこなたたちが、なんで俺の言動にあれだけ敏感なのか不思議だったんです。
でも俺は、その理由を知ろうともせずに・・・・・悪く言うと、軽く考えてました」
私はアスカくんを厳しい目で見つめる。彼はなにか迷っているようだった。
「でも、あるとき、そうじろうさんや白石にも、ふいに言われたんです。そろそろだれか選ぶタイムリミットかもしれないって。
昔の仲間も、そろそろクライマックスに向ってるって・・・それで、俺なりにいろいろ考えたんです。あいつらの態度の理由を」
「それで、分かったんですか」
「・・・・・・はい。でも、まだ信じられないんです。なんであいつらが、俺なんかのことを好きになったのかって。
でも、それだと今までのいろんなことの辻褄が合うんです。でも、確かめたくても、本人に聞くことなんて・・・・・・・・・・・・・・・・・出来ませんし
」
おろおろとするアスカくんは面白かったが、それよりも彼の不器用さには呆れた。
まったく、気づいたなら気づいたで、さっさとひとりを選ぶなりすればよかったのだ。
「アスカくん・・・・あなた、不器用すぎです」
「・・・・・」
「はい。・・・・・なんでみんな、あなたを好きになっちゃったんでしょうね」
みんな、というのには私も含まれる。それを知ってか知らずか、彼は居心地悪そうに視線を泳がせた。
「いいですか。このままの関係を保つのも大切です・・・でも、そうやって保身に入るといつまでもずるずると引きずってしまいかねません。
悪いとまでは言いませんが、私は卒業までになんらかの形で決着をつけるべきだと思います」
「はぁ・・・」
「あの年頃の子は、複雑です。アスカくんが思ってるよりも、ね。だから、もしも覚悟ができたら・・・素直な気持ちを伝えてあげてください
ね。
そうすれば、きっとみんな祝福してくれますから」
私はバカだと思う。結局、好きな相手に告白どころか、ライバルのことを持ち上げて、自分はさも彼をサポートする立場にいようとする
のだ。卑怯で、臆病な、最低な方法だと思う。
でも、こんな大事な場面に限って、私の頭にはやっぱり教師としてのメンツやらなにやらが強く刻まれていてどうしても正直になれない
のだ。
「・・・・・・・・・・・・ふゆき先生、大丈夫、ですか?」
「・・・どういうことですか?」
「だって・・・・・・・・・・・・・なんだか、必死に・・・・・」
気づくと、私はアスカくんの制服の裾を力強く握っていた。
途端に、今まで無意識にやっていたことへの羞恥心と、彼の体温を身近に感じて慌てて手を離した。
「そ、そんなことないです。
い、いいですから、ほ、ほら。きょうは帰って・・・・・みんなのことを考えてあげてください」
半ば追い出す形でアスカくんを外に出す。
「で、でも・・・っ!?」
「いいですから!!もう、いいですからっ・・・」
それが、私にできる精一杯の拒絶で、別れの言葉だった。
彼がいなくなった途端、さっきまで心の奥で感じていた緊張が解けて、ベッドにごろんと横になる。
こんなとこ、だれかに見られたらやだな・・・
「・・・うぅ」
何時の間にか、小さな嗚咽をあげていた。
少し乱暴な勢いでドアが開かれた。
「さ、桜庭先生?私、これから帰るとこですけど」
「まぁまぁ・・・風の噂でふゆきに元気がないと聞いてな」
アスカくんか。そういえば、彼女もアスカくんに少なからず好意を持っているはずだ。
「桜庭先生は・・・アスカくんのことどう思ってます?」
「う~む・・・好き、なのかな」
「そうですか・・・」
やっぱり。でも、じゃあ・・・
「アスカくんと・・・付き合いたいとか。その、け、結婚したい・・・・・とかは」
私らしくない質問に、彼女は目を丸くしていたが、すぐいつもどおりに戻って、男らしく答えた。
「少なからずはあるな。趣味は合うし、おもしろい。世話してくれそうだしなぁ」
「ふふ・・・そればっかりですね」
「悪いか」
元気を分けて貰ったような気がした。やっぱり、つらいときに頼れる友達がいることはいいことだ。
「いえ・・・でも、立場とかあるじゃないですか。世の中は難しいですよ・・・?」
「・・・ま、そうだな。でも、そんなの関係ねぇ!!だって、アスカだって卒業したらただの一般人。そんなやつと交際しようがしまいが、だれ
にも文句は言われないだろ」
「・・・・・・」
よくよく考えればそうだ。アスカくんが卒業してしまえば、教師と生徒という立場なんてなくなる。
少し考えれば分かることだった。
なぜ、私はあれほど彼との交際を、立場を気にして諦めてきたのだろう。
「あー、
ふゆき。多分、お前はアスカを好きになりすぎて、早く付き合いたいとかそういう願望が強くなって
・・・・ほかのやつに取られたくないって、強く思ってたんじゃないかと思う」
「え・・・?」
「つまりな、お前は今すぐアスカといちゃいちゃしたいから、世間体とか気にしてたんだよ。
だって、あと一年も待てばあいつは大学生か社会人。だからべつに焦ることはないんだ。・・・ま、ふゆきの気持ちなんて、私にはよく分から
んけどな」
う・・・そう考えると、今までの自分の思考がただ好きな人と早く恋人関係になりたいから、という短絡的な理由で暴走してた気がしてとて
も恥ずかしい。
「・・・・・・・よく、考えなくても・・・そうですね」
「はっはっは。ふゆきは私がいないと駄目だなぁ~」
「それを桜庭先生が言いますか・・・・・・・?」
でも、ひとつ疑問が残る。なぜ、桜庭先生はそんなに私の心を理解しているのだろう。
心でも読めるのだろうか。いや、それはないか。
そんな私の表情を読みとったのか、彼女はにやりと笑うと種明かしをしてくれた。
「いやな。小早川っていう一年の子が、私のとこに来て、ふゆきのことを教えてくれたんだよ。心配だーってな。
お前、アスカへの想いを隠してるつもりだったらしいが、傍から見ればバレバレだぞ」
な、なんてことだろう。まさか小早川さんにまで悟られていたなんて・・・。
ということは、恐らく彼の近辺の子たちには・・・
「ああ。もちろん知ってるだろうな。あっちはあっちで、きっとふゆきのことライバル視してるだろうな」
はぁ。これでもう今日で五十を超える溜め息だ。
「・・・・・・・・・・・なんだかとても疲れました」
でも・・・どうやら明日からは、アスカくんとも積極的に付き合っていけそうです。
適度に、ね。適度に。
翌日。アスカくんは少し眠そうにプールに来た。昨日あれからずっと決着について考えていたらしい。
「あの、俺、一生懸命考えたんですけど・・・・・やっぱり考えがまとまらなくて」
そういってうなだれる彼の手を握る。思っていた以上に、力強かった。
「もういいんですよ、アスカくん。・・・そうですね、あと一年くらい。結論を出すのを待ってもらえませんか?」
「は!?はぁ・・・そう、ですか・・・・・・?」
訳が分からず困るアスカくんを愛おしく思いながら、私は来年の決着に向けての策を耽々と考えるのだった。
追記 レッスン中、フラグ成立を阻止するためにかこなたや
かがみ、
つかさみゆき、果てには
ゆかりさんまでもがプールに訪れるという事
件が起こった。
その際、シン・アスカに断罪という名目で勝負を挑み、ジャンプ台からの飛び込みを失敗・大怪我をした白ウという変質者が現れたという。
最終更新:2010年01月25日 00:05