意識が朦朧としている。
視界は白濁としたフィルターに遮られ、脳は活動を停止したかのように重い。
その、抗いようのない重みの誘惑に誘われ、シン・アスカは力つきようとし。
「くぉらアスカーッ! 補習中に寝ようとするんやない!」
マンツーマンで世界史と日本史の重要単語をシンの頭に叩き込んでいた黒井ななこにブン殴られた。
ゴンッ、と鈍い音が二人しかいない補習室に響きわたる。
「ッッたーー!?」
「起きたか
アスカ、ならまとめテスト始めるで」
「ちょ、いきなり叩き起こされた後じゃまだ…」
後頭部に見事なたんこぶを作り抗議するシンの目の前に、まるで親の仇というような力強さで、この時のためだけに造られたテスト用紙が
叩きつけられた。
シンは己の担任教師を見上げた。彼女は笑っている、こめかみにまるで漫画みたいな青筋を立てて。
「ほな、始めよか」
「……はい」
いつものメンバーで唯一赤点を取ってしまった愚か者、シン・アスカは再び勝てぬ戦いに挑み始めた。
これまでの戦績は、この時間だけでも既に四回目だ。そしてシンの0勝四敗だった。
「ん~何とか合格ラインやな」
採点を終えた
ななこは、丸の比重が高いテスト用紙から目を離し、真ん前の席で座っているシンの方を見た。
「ありゃ…また寝てもうたんか。ま、さっきから眠そうやったもんな」
自分の生徒であるシンは、それこそ息絶えたカツオのように机に上半身を倒し寝ていた。どうやらよっぽど疲れていたらしい。
「ま、とりあえず合格はしたんや。しばらくはこのまま寝かしとこ」
持ってきていた教材を仕舞いながら、ふと時計を見る。最終下校時間まではもう少し時間があるが、外は茜色一色に染まっていた。
その、温かいとも辛いとも言えるような西日が窓から差し込んで、教室の中を照らし出した。
瞼を痙攣させ、歴史の偉人にでもカバディされてるのか、魘されながら寝ているシンの横顔に、まるでカーテンのように寂しげな黄昏が落
ちている。
「な~に魘されてるんや?うりうり」
まるで心配する気が起きない魘され方に苦笑しつつ、彼の頬をつついてみた。
女として羨ましいほど柔らかくスベスベだ。何だか不公平な気がして、さらにつついてみる。
シンの頬が窪むように変形し、ななこの好きなときに元に戻る。
「こうしてると、ほんまただのガキやな、アスカは」
年齢より幼く見える顔立ち。けれど、時々教師の自分よりも大人びた顔をする少年。一体どっちが彼の本当の顔なのだろう。それとも、ま
ったく自分が知らない表情こそ、彼の真実なのだろうか。
知りたい、この子のこと――この人のことを、もっと。
「…アカン」
シンの顔をつついていた手が、不意に止まった。それを止めたのは、ななこの、辛そうな、無理やり泣くのを止めようとするような少女の
顔だった。
「ウチは教師や。アスカは生徒や。だから、ウチはアスカをそういう目で見ちゃダメや」
ともすれば、今すぐにでもシンを抱きしめたいと思う自分の心に言い聞かせる。
そんなことをしてしまえば、何か自分の中にあったものが、硝子細工のように崩れてしまいそうだった。
「ウチのバカ……何思春期みたいなこと言ってんねん」
何時もの自分らしからぬ自嘲的な言葉に、力のない笑み。
黄昏が自分の心を表側に晒しだしているのだろうか。
なら、今一度自分の、教師としての倫理が止めるべきだという、一人の女として止めることができない気持ちを引っ張り出す。
黒井ななこは、どうしようもなくシン・アスカが好きだ。
初恋ならしたことがある。普通に男に興味もある。
ただそれらとは違う、どこか初恋の気持ちに似た辛さと甘さと温もりが、シンに向ける自分の想いだった。
もしかしたら、愛しい、とでもいうのかもしれない。
「アホらし…アスカにはそもそも、泉たちがいるやないか」
言ってから、まるで鋭くも太い突起のついた針金の縄に締め付けられるような痛みが、胸の中に起きた。
重症だな、また自嘲。
彼の周りには色々な娘たちがいた。その誰もが、一部の例外を除いて、彼に好意を持ってるのは知っている。
ななこが授業を終えて教室を出るとき、ふと視線をシンの席に走らせると、そこにはいつもの少女たちが集まっていた。
それを見るたびに、シンが彼女らに向ける笑顔を見てしまうたびに、ななこの胸に黒くドロドロとした炎が渦巻くのを感じた。
それが嫉妬だというのも理解しているし、自分は何様のつもりだと呆れ、何度も嫌いになりそうになった。
自分は、キレイなままでいる気なのだろうか。シンの周りにいる彼女たちのように。
「……なぁ、アスカ」
遠ざけようとしていた恋心が、ななこの口を勝手に動かしていた。シンはまだ起きる気配はない。
「ウチってキレイか?それとも可愛いか?年上って、好きか?年下の方がいいんか?それとも泉や高良みたいな同い年の子がいいんか?」
言葉は止まらない。決壊したダムのように。
「なあ、どうなんや。実は起きてるとかそんなオチやないよな?……ウチのこと、嫌いか?」
いつの間にか涙ぐみそうになってる自分に気づく。
自分はこんなにロマンチストで弱かったのかと叱咤し、目元を拭って頬を叩いた。
その時ちょうど、最終下校時刻を告げるアナウンスが流れた。それに起こされるようにシンが呻き、身じろぎする。
助かった。あのまま自分の気持ちを吐露していたら、どうにかなってしまいそうだった。
「あれ、黒井先生」
寝ぼけ眼のシンが起き上がる。その間に、いつもの自分に入れ替わる。
「おう、起きたかアスカ。テストは合格やったから帰ってもええで」
「ほんとですか!?よかったぁ……って、それなら何で起こしてくれなかったんですか!」
「いやあ、アスカがあまりにも爆睡しとるんで、起こすのもどうかなーっと思ってな」
「…そんなに寝てました、俺?」
「寝てた時間そのものは短いで。辛かったらはよ帰ってはよ寝ればええんや」
それだけ言って、教材を持ってドアの前まで歩いていく。今の自分は、ちゃんといつもの自分だろうか。
「あ、そういえば…黒井先生っ」
唐突にシンに呼び止められる。なんだろう、これ以上何を話すというのだろう。今の自分は、きっと嫌な顔だ。
「なんや?」
発した声は苛立たしいものを含んでいた。本当はこんな顔も声も、聴かれたくないのに。
「あー、えっと…次の日曜日空いてますか?」
「まーいちおーな。それがどうかしたんか?」
尋ねると、シンは机にかけてあったバッグから、何かの紙を取り出した。
それは色とりどりにアトラクションの写真を組み合わせた、レジャー施設の一日フリーパスチケットだった。それが二枚。
「ここ一緒にいきませか?いつも世話になってるお礼ってことで」
「……はい?」
間抜けな声が漏れた。突然の申し出に一瞬思考が止まり、なにも考えられなくなる。
だがそれを無視するかのように体は動き、チケットの一枚をもらった。
手中の細長いチケットには、丁度次の日曜日の日付がなされていた。
「無理だったら別にいいですよ?たまたま手に入れただけですし…」
「なぁ…なんでウチなんや?どうせなら泉とかを誘えばええんちゃうか?」
無意識が訊ねていた。
これを渡されるには、自分ではないような気がしてならない。
それこそいつものメンバーの誰かか、それとも…
「それは」
まるでななこの心中をせき止めるように、シンの口が開いた。
「正直、よくわかりません。けど、黒井先生と一緒にいきたいって思ったんです」
「…そか」
一つ、ため息。そして今度こそ背を向け、補習室から出る。しかしドアを閉める前に、一言。
「まー暇やし、いってやってもえーで。ま、代金は誘ったアスカ持ちな」
「んなっ!教師が生徒にたからないで…」
「答えは聞いてへんっ」
ドアを閉める。そしてシンが不平不満の喚きを立て、ついで深い溜め息をついているだろう教室を離れる。
最初はゆっくりとした歩いていた。
だが歩みは徐々に速く、速くなっていき、ついには駆け足となっていた。
幾つもの階段を下り、人のいないだろう給湯室に駆け込む。
暗さの混じった西日がななこの顔を照らした。そのせいか、それとも急に走ったせいか、はたまたまったく別の理由でか、彼女の顔は真っ
赤になっていた。
「……はふ」
締めたドアに背中を預け、もらったばかりのチケットを口元に当てる。
彼の肌の暖かさがまだ残っているような気がした。
「…これって、デートなんやよな」
言葉にしたら、顔の火照りが酷くなった。
胸の鼓動が凶悪なエンジンのように暴れ回り、頭の中がシンのことだけで埋め尽くされる。
本当に、恋に焦がれる少女のようにウブだ。だけど今の自分は、しっかりと相手がいて、狂わされてる。
「もう年や年やって思っとったのに…ウチのバカ。マジになりすぎや」
口には出したが、こんな自分は嫌いではなかった。
「アスカ…ううん、シン。絶対ウチの虜にしてやるから、覚悟しときや」
高鳴る気持ちをそのままに、黒井ななこは給湯室を出て、教師としての後始末をしてから帰宅の徒に入った。
とりあえずは、当日何を着てくか決めなくてはならない。
そしてとっておきを選んだ自分の姿を見て、赤面するシンのことを想像すると、愉快と愛しさが一緒に沸き上がってきた。
その気持ちが彼女を一人の乙女へと変えていく。
黒井ななこ、27歳。世界史教師。花も恥じらい顔を背ける立派な乙女であった。
尚、当日のデート(?)にはシンの友人後輩同居人たちが尾行し、様々な妨害をされ中々二人きりの良い雰囲気にはなれなくなるのだが、そ
れはまた別の話である。
どっとはらい。
最終更新:2010年02月06日 23:06