京太郎「修羅場ラヴァーズ」
一人の男を巡って複数の女性が争う。
そんなものは物語の中か、ニュースでしか見れないし、自分には無縁なモノである。
そう、思っていた――自分が、その渦中の男になるまでは。
「京太郎」
背後から自分の名前を呼ぶ声。
鼻腔を擽るシャンプーの匂いと、首に回される腕。
「部活、行こうか」
「……小瀬川先輩」
いつからだったか、皆が通る廊下であるにも関わらず、この人がこうして俺に寄り掛かるようになったのは。
周りに権利を主張するように、べったりしてくるようになったのは。
「シロでいい……って言ったよね」
「……シロ、さん」
しがみつく力がより強くなった。
最初は役得だと喜んだ柔らかい感触も、今はこの後のことを考えると――
「なに、してるの」
憂鬱なものでしかない。
鹿倉胡桃。
自分よりも一回りも二回りも小さな人。
だけど、自分よりも一回りも二回りもしっかり者で頼りになる先輩――の、筈だった。
「なにって……」
「京太郎が困ってるでしょ」
返事も待たず、背後に回り、京太郎からシロを引き離す胡桃。
遠慮が無く、いっそ暴力的とも呼べる勢いだった。
「っ……」
「なに、その顔は」
「……別に」
胡桃はふん、と鼻を鳴らして京太郎の手を取った。
「ほら、行くよ!」
「ち、ちょっと」
そのままシロを置いてけぼりにしてズンズン進んで行く。
「……ちっ」
一拍遅れて、シロも京太郎たちに続いて歩き出す。
……ちらりと見えたブレザーの下に、小さな赤い染みが見えた気がした。
胡桃は京太郎の手を引いたまま、部室の戸を開いた。
まるで見せ付けるようだ、と感じたのは、京太郎の気のせいではないのだろう。
そして――
「ぷっ……なにそれ。幼稚園児みたいだよ、ソレ」
「チャイルド、デスカ?」
「あはは、京太郎くんも困ってるよー。早く離してあげないと、京太郎くんが可哀想だよ?」
にっこりと、笑顔を浮かべてはいるけれど。
三人の視線に敵意のようなものを感じたのも、きっと気のせいじゃない。
「……京太郎」
胡桃が京太郎の手を離し、三人が待つ卓へ着く。
「ネト麻しながら待っててね。後で指導してあげるから」
「ダメだよ京太郎。嫌なことは嫌って言わないと」
「……塞!」
「あはは、怒っちゃったかな? それとも図星?」
「早く始めようよー」
「ガンバリマショウ!」
続けて、牌を並べる音。
なるべく背後の会話は意識しないようにして、京太郎はパソコンの電源を入れた。
今日も、部活が始まる。
京太郎は、小さく溜息を吐いた。
翌日。
授業を終えて、放課後になった頃。
今日も部活か――とカバンを持った時、背筋に気持ちの悪い寒気が走った。
「風邪、ひいたか?」
今朝から若干の気怠さを感じてはいた。
額に当てた掌からも熱を感じる。
「……今日は、帰ろう」
こんな体調で、あの空間に耐えられる気がしない。
全員に今日は休むという旨をメールで伝え、京太郎は昇降口へ向かった。
「あ、確かに顔真っ赤だねー。大丈夫?」
「え?」
そこには、自分よりも背の高い三年生の先輩の。
姉帯豊音が待っていた。
「ちゃんと治さないとダメだよー? 京太郎くんを置いてインターハイになんて行けないもん」
「先輩、なんで……」
宮守高校は今年が初のインターハイ参加で、三年生の豊音にとっては今年が最初で最後の全国。
個人戦で敗退した京太郎とは違い、一日でも多く部活に時間を割かなければならない。
少なくとも、こんなところで話をしている暇と余裕は無い筈だ。
「え? だって、今日は休むんでしょ? それじゃあ、部活とか意味ないよー」
「そんな、こと……」
眩暈を感じたのは風邪のせいか、それとも。
足元も覚束ず、カバンを取り落としてしまった。
「わわっ!? 大変だよー! 早く帰らないと!」
酷く心配そうな顔をした豊音に抱きかかえられる。
京太郎は何もする気が起きず、豊音にされるがままに、帰路に着いた。
病は気から、という言葉がある。
病気は気の持ちようによって良くも悪くもなるという意味だが――風邪が完治した京太郎の体調と心は、完全に相反した状態にあった。
豊音の様子を見た限りでは、自分が休んだら彼女たちの練習の妨げになる。
だけど、自分が部活に参加すれば、部内の空気が険悪なものになる。
俺は、どうすれば――
「ゴハン、タベレナイ? マダ、カゼデスカ?」
考え事をしていたら箸が止まっていた。
隣りに座るエイスリンから不安気に覗き込まれ、我に返る。
「ああいえ、大丈夫ですよ。ちょっと考え事をしてまして」
慌てて返事を返し、食事を再開する。
気持ちは沈んでいても食欲はあるし、エイスリンが奢ってくれたレディースランチは、京太郎の好みの味だ。
「ヨカッタ!」
そして、エイスリンの花が開いたような笑み。
京太郎と二人っきりなら彼女たちは穏やかで、可愛らしい微笑みを見せてくれる。
いつもこうだったらなぁ……。
考え事を再開しながらも、昼休みの残り時間内に食べ終わるように、京太郎は箸の進みを速めた。
そんな京太郎の様子を、エイスリンはじっと見守っていた。
自分の手元のトレーのパンに手を付けることなく。
じっと、じいっと。
「ごちそうさまでした」
昼休み終了の15分前。
今からトレーを片付けて教室に向かえばちょうどいい具合に授業が始まるまでの余裕がある。
「カタヅケテクル!」
「いや、さすがにそれは」
京太郎が止める前に、エイスリンは京太郎と自分のトレーを持って行ってしまった。
パンを口に加えながら一生懸命トレーを運ぶ姿は可愛らしいが、流石に手伝わなくてはと、腰を浮かせて
「ん? これは……」
ある一枚の畳まれた紙が、エイスリンの座っていた席に落ちていることに気が付いた。
広げてみると、デフォルメされた宮守高校麻雀部のイラストが描かれていた。
皆が満面の笑みを浮かべている。
「……」
「タダイマー……? ドウシタ、ノ?」
「あの、先輩。これは……」
「アッ!」
恥ずかしそうに頬を赤らめて、京太郎から紙を奪い取るエイスリン。
丁寧に畳んでブレザーのポケットにしまい、上目遣いに京太郎を見る。
「ミ、ミタ……?」
「ええっと……はい。先輩、やっぱり絵上手ですね。なんというか、ほっこりしました」
「ホッコリ……?」
「えっと……胸があったかくなったというか……嬉しく、なりました」
「 ! ウン! ウンッ!」
きっと、まだやり直せる。
嬉しそうに何度も頷くエイスリンを見て、京太郎はそう思った。
――イラストに添えられていた英語の文章の意味を京太郎が理解できなかったのは、お互いにとって幸せなことだったのだろう。
放課後。
京太郎が部室に着いた時、珍しく部員の誰もまだ来ていなかった。
「準備しておくか……」
誰がいつ来ても始められるように、卓と牌の用意をしてPCの電源を入れる。
お茶も淹れておこう。みんなが練習に集中できるように。
「……いつか、また」
戸棚に飾ってある写真。
京太郎の入部記念に撮った写真。
全員が、満面の笑みを浮かべている写真。
エイスリンに見せてもらったイラストのように、この写真のように。
いつか、また、みんなで――
「京太郎! いる!?」
「へ?」
物思いに耽る京太郎の心を吹き飛ばすように、勢い良く部室の戸が開かれた。
息を切らしながら飛び込んで来た塞の話を纏めると。
どうやら今日は練習が休みの日だったらしく、行き違いで京太郎に連絡が届かなかったらしい。
道理で誰もいない筈だ。
「本っ当ゴメン……」
「いえ、先輩は悪くないですよ。あ、お茶淹れますか?」
「あ、じゃあ私がやるよ。京太郎に押し付けてばっかりじゃ悪いし」
「いえ、一年ですし」
「いいのいいの。これぐらいはやらせてよ」
強引にポットを奪われ、ソファに座らされてしまった。
「~♪ ~♪」
鼻歌を口ずさみながらお茶を淹れる塞。
中学をハンドボール部で過ごしてきた京太郎にとって雑用は一年の仕事という精神が根付いており、今一落ち着かない。
なので、リズムに乗って無意識に振られる腰のラインに目が行くのは仕方がないのだ――と、京太郎は自分に言い訳をした。
お茶を飲んで一息ついた後。
折角だからと、塞が付きっきりで京太郎の指導に付き添うことになった。
教本を使った授業形式から始まり、過去の牌譜、ネトマを通じての実戦指導。
京太郎も塞も熱中して――気が付けば、時刻は夕方18時30分。
「んー……っ!」
大きく伸びをする。
良い意味で、体が疲れていた。
「ふぅー……何だか久しぶりだね、こういうの」
「そうですねぇ……」
一緒に麻雀を打って、笑って。
京太郎が来たばかりの頃は、当たり前の光景だった。
「……」
もし、自分がいなければ。
きっと、何もかもが上手くいっていたのではないだろうか。
シロはダルいダルいと言いながらも何だかんだ言って部に貢献して。
胡桃は口うるさいところはあるけど、みんなのことを考えていて。
豊音はミーハーだけど、強くて、可愛くて。
エイスリンは日本語はまだ拙いし麻雀の経験も浅いけれど、一生懸命で。
個性がバラバラのみんなを苦労しながらも塞が纏めて、全国へと出場する宮守高校。
そんな未来があったのではないか。
「京太郎」
「は――え?」
塞に、抱き寄せられる。
塞の心臓の音が聞こえる。
「大丈夫」
「きっと、上手くいくから」
「きっと、何もかもが京太郎にとって良いように進むから――ね?」
帰りの電車内。
下校時刻と少しずらして乗車したので、周りに宮守の生徒の姿はなく、二人並んで座る程度の余裕はあった。
「すみません、さっきは……」
「いいってこれぐらい。一年に胸貸すのは部長の役目だから。毎日やってあげてもいいよ?」
「ハハ、流石にそこまで情けない野郎では……っふぁ」
「おっきい欠伸だねぇ」
「……なんか、急に…凄い眠気が」
「しょうがないよ。あんなに集中したわけだし」
「……むぅ」
「寝ててもいいよ? 後で起こしたげる」
「いや、ほんとそこまでは――くっ」
カクンと、京太郎の意思とは反して首が下がる。
眠気を必死に堪える京太郎を見て、塞はクスリと笑った。
「無理しないで休みなって、ホラ」
「……す、すいま、せん……」
「おやすみ――京太郎」
どこまでも優しい塞の声と、暖かい何かに頭を抱かれて。
京太郎の意識は、沈んで行った。
「ちゃんと、後で起こしてあげるから」
「家に、着いたら」
「ちゃんと、ね」
それから月日は過ぎて――夏が、終わった。
結論から言えば塞の言う通り――京太郎の望むようになった。ただ、二つのことを除いて。
宮守高校が団体戦で優勝したのだ。
全員で協力してバトンを繋ぎ、永水、臨海、白糸台を破り、栄光の座を掴みとった。
優勝旗を前に全員で満面の笑みを浮かべた写真は、まさに京太郎の望んだものだ。
ただ二つの叶わなかったことの一つは、未だに部員同士の不仲が続いていること。
全国大会優勝によって以前の、下手をすれば死人が出そうな空気は緩和されたが――それでもまだ、以前のようには戻れていない。
そして、もう一つは――
「ねぇ、京太郎? 『眠くない?』」
「ふふ、大丈夫だよ。貸してあげるから――いくらでも、ね」
「心配しなくていいよ。大丈夫」
「何もかも……」
「京太郎にとって、上手くいくようになるから」
きっと自分は、一生この人から逃げられない。
言い逃れは出来ない。
精神的にも肉体的にも、彼女から離れることは出来ない。
そういう風に、刷り込まれてしまっている。
今までも、そしてこれからも、この関係は続いていくのだろう。
これがもし、周りに知られてしまったら。
そんな思考は――彼女の胸の温かさに比べれば、どうでもいいことだった。
中学2年の冬休み。
両親の離婚。
肩の故障によるハンドボール部からの引退。
この三つが重なったのは、京太郎にはある意味で幸せだったのかもしれない。
県大会決勝でエースとして活躍し、来年には全国出場まで見えていたハンドボール。
その夢が断たれてしまった京太郎の目には、かつての仲間たちがグラウンドで練習をしている光景すら、辛く映った。
そして、同じタイミングでの両親の離婚。
父は鹿児島に。
母は岩手に。
二つの選択を迫られた京太郎は、母に着いていくことを決めた。
今の中学から離れることが出来れば、どこでも良かった。
――ただ一つ、人見知りな同級生の女の子が気がかりだったけど。
その子を気遣う余裕は、京太郎には無かった。
降り続ける雪に埋れた道。
冬休み明けには毎日通うことになる通学路。
今まで住んでいた長野とは大分雰囲気が違う。
自分は、ここで上手くやっていけるだろうか。
「うわっ」
考え事をしていたら、雪に足を取られて転んでしまった。
辛うじて手を付くことが出来たので全身雪まみれになることは避けられた……が、
「痛っ……」
肩に走る激痛。
転倒時の衝撃で、肩に大きな負担が掛かったらしい。
寒さで悴む指先では携帯を開くことも出来ず、痛みに耐えかねて蹲り――
「君、大丈夫!? 」
「え……?」
気が付けば、赤毛の髪をお団子に纏めた女の子が寄り添っていた。
酷く心配そうな顔をして、京太郎の手を握る。
「今すぐ、お医者さん呼ぶから――」
彼女の名前は、臼沢塞。
宮守高校麻雀部の部長で――これが、京太郎が入部するきっかけとなった出来事だった。
なんだろう、この子の顔……見てると……。
背が高くて、寒さで指先が真っ赤になっている男の子。
転んだ時にどこかを痛めたのか、苦しそうに顔を歪めている。
速くお医者さんに診てもらわないと――と、焦る気持ちとは、また別に。
塞の心の中に、生まれた感情があった。
なんだろう、この子の顔……見てると……。
痛みに歪む、整った顔立ち。
寒さで震える、長い手足。
彼が助けを求めている。
彼を包み込んであげたい。
彼に甘えてほしい。
彼を、私に。
彼を、自分の手で――
(……って、何考えてんの私!)
ブンブンと頭を振って思考を元に戻す。
今は彼を暖かい場所に連れて、医者を呼ぶことが先だ。
自分一人では力が足りないと考えて、塞は携帯電話を手に取った。
電話の相手は小瀬川白望。
先程分かれたばかりなので、距離的にも近くにいる筈だ。
ものぐさな彼女だがやる時はやる。コタツをリアカーに載せて引っ張ってくるくらいには。
人命がかかっているわけだし、時は一刻を争う。
速く来てくれと祈りながら、塞は通話ボタンを押した。
「ダ……」
――ルい、と続く筈の言葉は出て来なくて。
何故か固まってまじまじと京太郎の顔を見つめるシロの様子を不思議に感じる塞だが、今はそれよりも
「シロ、悪いけど――」
「わかってるよ」
塞が頼むよりも速く、屈み込んで京太郎と目線を合わせるシロ。
それから、「ちょっとごめんね」と断りを入れて、
「はむ」
京太郎の鼻頭に、啄ばむように口付けた。
「ちょっと、なにしてんの!?」
「なにって……寒そうだったから?」
激昂する塞と、平然と答えるシロ。
二人の間に蹲る京太郎は意識が朦朧としていて、何が起きているのかすら理解できない。
「何でそんな怒ってるのさ……」
「何でって……」
自分でも、何がここまで癪に触るのか理解できない。
言い淀む塞をヨソに、シロは出来るだけ負担がかからないように京太郎を起こした。
「ほら、塞」
「ああ……うん」
腑に落ちないが、今はそれよりも優先するべきことがある。
シロに促され、塞は京太郎の手を取った。
ここからなら、駅が近い。そこなら暖房も効いている筈だ。
肩に名前も知らない男子の重みを、心に言い表せないものを抱えて、塞はシロと一緒に歩き出した。
後日、お礼の品を持って、母親と共に宮守高校の麻雀部に訪れた彼。
そこで塞は、彼の名前が京太郎であると知った。
深く頭を下げる京太郎に、胸の底から言い様の無い暖かい気持ちが込み上げてきたが。
まだ、彼女は、この気持ちの名前に気が付かなかった。
そして、一年が経ち。
京太郎が、宮守に入学して、麻雀部に入部して、また暫く経って。
シロや豊音に迫られている京太郎の姿を見て、漸く。
「ああ――そっか。そう、なんだね」
この正体に、気が付いた。
鹿倉胡桃は苛々していた。
共学化した宮守高校、そこまではいい。
問題は、それにより校内の風紀が乱れつつあること。
見学会で多くの数の男子生徒が宮守高校を訪れたが、だらしない格好の男子が多かった。
昔から細かい事が気になってしょうがないタイプの彼女は、これがとても気に食わない。
だから、次にだらしのない新入生を見かけたら思いっきり注意をしてやろうと――
廊下の前を歩く金髪の男子。
ベロンと後ろから出た白いシャツ。
勿論これは胡桃にとって見逃せるものではない。
ガツンと注意してやろうと、勢い良く回り込んで、ビシリと指を突き付け――
「コ、コ……」
「?」
見事に、固まった。
男っぽい……と言うよりは、少し可愛い目の顔立ち。
ちょっとだけシロに似ているかもしれない。
「ハイ?」
困ったように眉根を寄せた表情。
耳心地の良い声。
「コ、コ……」
「あ、あの……?」
その何もかもが、彼女の想像していた姿の反対側にあって。
「……コーラ、飲む?」
何もかもが、彼女のストライクゾーンにどハマりしていた。
胡桃は運命の人なんて言葉は否定するタイプだった。
同級生が今年入ってくる男子に対してその手の話題で盛り上がっている時にも「バッカじゃないの」と切り捨てていた。
そんな彼女が、もしも、一目惚れを体験してしまったら。
もしも、意中の人に思考を埋め尽くされるようなことがあれば。
「あの、先輩……?」
「胡桃」
後は、もう。
「へ?」
「胡桃って、呼んでほしいな」
加速的に、堕ちて行くだけだ。
時は、京太郎の中学時代まで遡る。
一週間もすれば宮守の空気にも慣れたもので、映画でも見に行こうと思い立った日のこと。
携帯で道を確認しながら歩いていると、ある女の子が目に止まった。
「ウゥ……」
金髪で青みがかった瞳。顔立ちから恐らく外国人。
オロオロと、困ったように辺りを見渡している。
運悪く、周囲に通行人はおらず、通りかかっても無視されている。
「……よしっ!」
困っている人は見逃せない!などと言うつもりはないが。
可愛い女の子が困っているのを放っておけるような男でもない。
あまり得意ではない英語の知識を必死に引っ張り上げながら、意を決して京太郎は女の子に声をかけた。
「め、めい、あい、ヘルプユー?」
「エ?」
振り向く女の子。
果たして、結果は――
振り向いた女の子と目が合う。
「……」
緊張で、ゴクリと唾を飲む。
人と話すのは得意なつもりだが、外国人と話すのは初めてのことだ。
それも、教科書に載っていそうなシチュエーション。
果たして、上手くいくだろうか。
「……」
「……」
重なったまま動かない互いの目線。
吹く風が冷たく感じる。
寒さのせいか、女の子の白い頬も、どんどん赤く染まって――
「……I」
「へ?」
女の子が、京太郎の手をそっと握った。
「I fell in love with you at first sight……」
一目惚れをしました、という意味の英語だが。
ニュージーランドの訛りと、エイスリンも緊張していたこともあって、京太郎は上手く聞き取る事が出来なかった。
「え、なんて? え? ええ?」
「……」
じいっとこちらを見つめたまま動かない二つの青い瞳。
握られた手は離される気配が全くない。
京太郎の覚えている限りでは教科書にはこんなシチュエーションなんぞ載っていない。
どうすればいいのか、まるで分からなくなってしまった。
「……ン」
それを焦れったく感じたのか、女の子が背伸びをして、京太郎の両頬に手を添える。
訳の分からないまま引き寄せられ、女の子の小さな顔が――
「どうしたの。こんなとこで」
エイスリンの行為を中断するようにかけられた声。
ほっぺにエイスリンの両手をくっ付けたまま振り向くと、先日世話になった白い髪の先輩が立っていた。
「えっと……」
「小瀬川白望。京太郎、だったよね。で、そっちは?」
「それが……ちょっと、わからなくて。道に迷ってたみたいなんで、声をかけたんですけど」
「ふうん」
じろり。
エイスリンを睨めつけるシロ。
その目線に戸惑いながらも、エイスリンの両手が降りることはなかった。
「ま、いいか。確かその子、確かウチの生徒だし」
「え、そうなんですか?」
「うん。留学生……ホラ、いくよ」
シロが京太郎からエイスリンを引き離す。
ダルいダルいと口癖のように連呼していた先日の印象を覆すように素早い動きだった。
「行きなよ。用事、あるんでしょ。この子は私がどうにかするから」
「え、でも――」
「いいから」
「……はい」
彼女の迫力に、京太郎は頷くしかなかった。
「すいません。それじゃ、また」
「アッ……」
女の子に頭を下げて、その場を後にする。
その後ろ姿を、二つの青い瞳が、いつまでも見守っていた。
その日は姉帯豊音にとって、特別な日だった。
熊倉トシの計らいで、同じ年の女の子と麻雀を打つ事が出来て、しかも宮守に編入することになった。
今日はタイミングが悪く会うことが出来なかったが、新入生として入学してくる予定の男の子もいるという。
もう一人ぼっちじゃない。これからは毎日が楽しい。
浮き足立つ彼女を止める者はいない。
そして、雪で凍結した歩道を歩くことを注意する者も。
今の彼女の隣には、いなかった。
「――え?」
するりと、段差から足を踏み外す。
帽子が宙に舞い、彼女は――
「大丈夫、ですか?」
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ。
――そんな、奇妙な笑い声のようなものが、聞こえた気がした。
背筋に走った悪寒を飛ばすように頭を振る。
大丈夫。幻聴だ。自分に言い聞かせて視線を下に向ける。
「大丈夫ですか?」
瞬きもなく、自分を見つめる赤い瞳。
怪我はないように受け止めたつもりだが。
幸い、肩にも痛みはない。
「……」
反応がなく、彼女の頬が次第に赤く染まっていく。
……何だか似たようなことが、前にもあった気がする。
何となく吐きたくなった溜息をグッと堪えて、京太郎は豊音の反応を待つことにした。
ところでこの姉帯豊音という少女。
見かけに寄らず、ミーハーである。
加えて言うなら同世代の子との触れ合いもインターネットもなく育ってきた彼女にとって、娯楽と言えばテレビと一人で練習してきた麻雀くらいのもので。
「どこの月9だよ」と突っ込むたくなるようなコッテコテの恋愛や、ロマンチックな告白に憧れていたりする。
そして、この状況は、まさしく。
「王子様……」
「は、はい?」
彼女が、憧れた状況である。
「こ、腰が抜けちゃって……」
怪我は無いようだが歩けない、とのこと。
確かに下手すれば一生に残る怪我をする可能性もあったのだから、無理もない。
京太郎も彼女を支える腕が辛くなってきたので、近くのベンチに座ってタクシーを呼ぶことにした。
「お姫様抱っこで運んで欲しかったのに……」と、この時は少し不満に感じた豊音だが。
後に京太郎が肩に故障を抱えていることを知り。
そんな傷があるにも関わらず私を助けてくれた――
やっぱり、京太郎くんは私の王子様だよ――
と。
益々、惚れ込むことになった。
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ
暗闇から、白い手が伸びる
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ
笑い声が、近づいて来る
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ
足が動かない
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ
黒い髪が、首に纏わり付く
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ
赤い瞳が、覗き込んで――
「!!」
まるで、心臓を鷲掴みにされたような。
そんな恐怖を感じて、目を覚ました。
「またか……」
草木も眠る丑三つ時。
最近、悪夢で起こされることが多過ぎる。
「……トシさんにでも相談してみようかな」
布団を被り直して目を閉じる。
枕元に落ちている一本の長い髪には、気が付かなかった。
こうして、京太郎は五人の少女たちと出会った。
「女子5人に男子1人、これで宮守高校麻雀部のスタートってわけだね。折角だし、写真でも撮ってみるかい?」
「おお! いいですね」
「ダる……」
「そんなこと言わない!」
「部長の私と京太郎くんは真ん中かな」
「それじゃ、私は京太郎の前で!」
「じゃあ、私はその後ろかなー。前だとみんな隠れちゃうし」
「ダルいから……定位置で……」
「キョータローノ、トナリ!」
「あ、あの、ちょっと皆さん近過ぎじゃ?」
「はは、仲良きことは――てね。それじゃ、いくよ。ハイ、チー、ズ!……っと」
笑顔で撮った集合写真。
この時、もしも、京太郎が。
彼女たちが笑っているのは、みんなでいるから、ではなく。
京太郎といるからだと、気付いていれば。
もしかしたら、未来は。
ほんのちょっとだけ、優しかったのかもしれない。
【宮守出会い編 了】
廊下ですれ違う、多種多様な制服を来た女子たち。
まさか巫女服を来た女子がいるとは思わなくて、しかもある特定部位がとてもご立派だったので思わずガン見してしまったが――多分、大丈夫だと思う。
向こうもこっちを見てやたらと驚いた顔をしていたのは少し面食らったが、まぁ。
「来たんだな、全国に……」
自分がこの場に居れるのは先輩方の実力のお陰だ。
それでも、このインターハイ会場の空気には気分が高揚する。
来年こそは、自分の実力で。
そして、みんなとの仲も――
「京、ちゃん?」
「え?」
懐かしい声が聞こえた。
ちんちくりんで、ちょっとだけ特徴的な髪の毛で、読者が趣味で。
何やらせてもダメダメで――色んな意味で、目が離せなかった女の子。
そんな彼女が、ここにいるわけが――
「ぎょう゛ち゛ゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん゛っ!!」
「うわぁっ!?」
トイレに行ったら、帰りに思ったよりも人が多くて、道が分からなくなって。
方向音痴にありがちな「とりあえず行ってみる」を繰り返し、角を右に左に曲がり続けた結果、見事に迷子になり。
心細くなったところで、かつての同級生に似た男子を発見。
まさかと思って近付いてみたらドンピシャで、今まで溜め込んだものが吐き出された――ということらしい。
「落ち着いたか……?」
「うん……」
ぐす、ぐす。
頭をポンポンと撫でてやると、咲は照れ臭そうに微笑んだ。
「久しぶりだね……京ちゃん……」
「そうだなぁ……」
まさか、高校生にもなって迷子の保護をするとは夢にも思わなかった。
「京ちゃんも、選手なの?」
「いや俺は付き添いだよ、先輩たちの……ってお前、まさか」
「うん。私、清澄の大将なんだ」
えへへ。
はにかむ咲を前に、絶句する。
このちんちくりんが。
ぽんこつ少女が、大将だと――?
京太郎は若干足元にフラつきを感じながらも、咲を送り届けるために歩き出した。
「でもまさか、京ちゃんが麻雀部だなんて」
「それは俺の台詞だっての」
「スポーツ系の部活やってるかと思ってた。だってハンド部は――あ、ごめん!」
「気にすんな」
グリグリと、少し強引に咲の頭を撫で付ける。
もう。相変わらずだね、と髪を整える咲だが。
その台詞とは裏腹に、口元には柔らかな微笑みを浮かべていた。
「そうこうしている間に、清澄の控室が見えてきたな」
悪待ちが好き。
悪い時に良いものが運ばれてくるが多い。
麻雀でも私生活でも、竹井久はそんなジンクスを抱えていた。
例えば、自軍のエースが迷子になって、友人と後輩を探せに行かせたら。
そのエースが、素敵な出会いを連れてきた、とか。
「えっと、この人は……」
「なるほど……君が、咲を連れて来てくれたのね?」
「ああ、はい。それじゃ、俺はこれで――」
「ちょっと待って」
去って行こうとする京太郎の手を、久が握る。
「お願いだから、少しくらいはお礼をさせてよ――ね?」
少し強引に押し留められる京太郎。
それは、彼が美人に弱いということもあったが、自軍の控室のギスギスした空気から逃れたい……という気持ちもあったのかもしれない。
「あなたが、京ちゃん?」
「え――あ、ああ、うん」
「お茶とお菓子出すから、ちょっと待っててね。咲、手伝って」とソファに座らされた京太郎に、和が話しかける。
その見た事も無いほど豊満な胸に危うく視線が釘付けになりそうになったが――辛うじて、視線を剃らすことができた。
が、しかし。
「ふふ……ごめんなさい、咲さんがよく、あなたのことを話していたもので」
「お、おう……そっか、どんな風に」
「頼りになるけれど、ちょっとエッチで、間抜けなところもある男友達がいたって」
「あ、あいつ……」
勿論、それに気が付かない和ではない。
なぜ、でしょう。
彼を見た時から、彼に見られていると、胸が高鳴って。
この高鳴りのためなら、その視線も――決して、イヤなものではありません。
だから。
「ふふっ」
「おぉ……」
こんな風に、笑って、胸を揺らしてみたり、だとか。
そうすると、とっても正直な彼の目線が動いて。
マリオネットを操っているような気分になって、少し楽しい……です。
なんて。
「はい、どうぞ」
コトリ。
京太郎からの視線を遮るように、久がケーキの乗った皿とティーカップを京太郎の前に置いた。
「すいません、なんか」
「いいのよ、気にしなくて。ねぇ……和?」
「そう……ですね」
「じゃ、いただきます」
両手を合わせて、フォークを手にとる。
チーズケーキと紅茶の味わいが、京太郎の心と体を癒した。
「ふふ、なんならお代わりもあるけど?」
「いえ、さすがにそこまでは!」
「そう? 遠慮しなくていいのに」
「はは、そこのぽんこつ一人分にしては、高すぎる駄賃ですよ」
「私のこと!?」
ケーキと紅茶をご馳走になって。
目の保養も出来て。
少し気がかりだった同級生とも再会できて。
最後に連絡先を交換して――咲は、そもそも携帯を持っていなかったからこっちの番号を渡しただけだが。
麻雀部関連で、こんなに晴れ晴れとした気持ちになったのは実に久しぶりだ。
ああ、きっと。
宮守のみんなとも、またこんな風に談笑できる日が来るだろう。
「ねぇ、さっきの」
「ナニ?」
廊下の角を曲がったら、シロとエイスリンの二人が立っていて。
二人に挟まれるように、問い詰められた。
「なにって……」
「随分、仲良かったみたいだけど」
「ナンパ?」
「ち、違いますよ!」
そんな度胸があれば、ここまで苦しくない……なんてことは、口が裂けても言えないけれど。
「あれは、中学のころの友達ですから。なんでもありませんよ」
さっきまでの良い気分に水を差されるようで、少し強めの口調になってしまった。
「すいません。ちょっと整理したいことがあるので、失礼しますね」
「アッ……」
「え」
二人を振りほどいて、自分の部屋へ向かう。
自分と咲と、清澄のみんなとの仲をそういう目で見られるのは嫌だった。
「……」
「……」
廊下に二人残されて、見詰めあうシロとエイスリン。
中学時代の友達。確か名前は。
「咲って……言ったっけ」
「ウン」
「強敵、かもね」
「ウン」
「――ダルい、なぁ」
「ソウ、デスネ」
このことが、宮守の団体戦優勝のきっかけの一つになることは。
まだ、誰にもわからなかった。
【迷子の迷子の大将さん 了】
「わ! 近くに有名なお弁当屋さんがあるんだってー!」
各高の対策を練るためのミーティングを終えて。
話も纏まり、時計の針も12時を差した頃。
備え付けのテレビを点けた豊音が、目を輝かせた。
「へえ。今日のお昼はそれにする?」
「あ、じゃあ俺が買って来ますよ。みなさんお疲れでしょうし」
「そうかい? 悪いねぇ」
「手伝おうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。すぐ近くですから」
こういう時こそ男子の力の見せ所、だと思ったけれど。
「コラ! 一人で頑張らないの!」
「そうだよー。それに、私もここ行ってみたいし」
「テツダイマス!」
「ダル……」
「じゃ、残ってれば?」
「いや……行くよ」
何だかんだで、全員で行くことになってしまった。
ゾロゾロと大所帯で話題の弁当屋に入店する。
ええっと、確かさっきテレビで見たやつは――
「あっ」
「あ、すいませ……え!?」
弁当を取ろうとした手が、重なって。
顔を上げると、少し前に知り合った清澄の部長と目が合った。
クスリ。
清澄の部長、竹井さんが小さく微笑む。
「奇遇ね、京太郎くん」
「そうですね。竹井さんもテレビを見て来たんですか?」
「久でいいよ。そう、私もテレビを点けたら美味しそうなのが映ってたから」
縁があるのかもね、私たち。
なんて微笑む久さんに、ちょっとだけ見惚れた。
「京太郎? その人は?」
「あ」
胡桃先輩に声を掛けられる。
この瞬間だけ、先輩たちのことを忘れていた。
「この人は、ちょっと前に知り合った――」
「竹井久」
俺の声を遮るように、塞さんが一歩前に出た。
「清澄の部長、だったよね? どうも、宮守の部長の臼沢です。先日は『ウチの』京太郎がお世話になったみたいで」
「いいのよ、気にしなくて。『私たちも』楽しかったし」
ニッコリ微笑みながら。
二校の部長が、握手を交わした。
「とりあえず今は早く行かない? 迷惑になっちゃうし」
そんな二人の様子を見て急かす胡桃先輩。
確かにこんな大所帯で人気商品の前を陣取っているのはよくない。
「向こうに食事スペースあるみたいだよー」
「おわっ」
俺の手を取って歩き出す豊音先輩。
「ダル……」
続けて俺の右隣を寄り添うように歩き出すシロ先輩。
「イキマスカ!」
その反対側を埋めるように寄り添うエイスリン先輩。
まるで、久に見せ付けているようだ。
「良かったら、ご一緒します?」
手を解いて久を誘う塞。
久も、笑顔のまま頷いて。
「ええ、それじゃ――『お邪魔』しようかしら」
円形のテーブルに座る一同。
京太郎の両隣はシロとエイスリンが埋めている。
続くように、豊音、胡桃、塞が席に着く。
久の入る隙間など無いと言わんばかりだが、
「あの、何か?」
「いや、意外と可愛い食べ方するなぁって。京太郎くん」
「は、はぁ……」
そんなことを気にするような久ではなかった。
何だか照れ臭くて、久から目を逸らす。
恥ずかしさを誤魔化すように、箸の進むを速める。
「アッ」
カチャ、と食器が跳ねる音。
隣を見れば、エイスリンの制服の袖に、赤いソースが跳ねていた。
「ああ、コレ染みになっちゃうかも……すいません、じっとしていて下さいね」
「ハイ……」
未開封だったおしぼりを使い、染みを叩き出すように拭う。
応急措置だが、やらないよりはマシだろう。
「これで良し……っと。気を付けて下さいね」
「ウン! アリガト!」
「へぇ、京太郎くんって女子力も高いんだね」
「女子力って……」
「あら、褒めてるのよ? お姉さん的にポイント高いかも」
「からかわないで下さいよ」
「だって京太郎くん、可愛いんだもん♪」
「かわ……ああ、もう」
きっとこの先輩にはどうやっても勝てない。
そんな気持ちを含みながら、京太郎は麦茶を口にした。
「へぇ……」
「ふーん……」
「……お弁当、美味しいね」
「そうだね。東京は違うなぁ、色々と」
特に、それ以上は空気が荒れるようなことも無く。
平和な食事風景が続けられた。
「それじゃあ、また」
「ええ、楽しかったわ……とても、ね」
「次は試合で、ですかね?」
「どうかな? もしかしたらまたヒョッコリ、会うことになるかもね」
それじゃ、連絡ちょうだいね。京太郎くん。
そんな台詞を残して、久は自分たちの泊まっている部屋に帰って行った。
「清澄かあ……」
「あの人も、倒さないといけないんだよね」
「中堅だから、私の相手か」
「私も大将戦頑張るよ!」
「帰ったらまた」
「ミーティング!」
和気藹々と話しながら、自分たちの部屋へと戻る宮守。
その様子に、自分が入部したばかりの頃の空気を感じて。
「……よし、俺も頑張ろう!」
全国大会に来て良かったと。
京太郎は改めて、そう思った。
【お弁当を食べに行こう! 了】
「あっつぅ……」
照り付ける太陽、光を反射するビル。
ジリジリ熱を放つアスファルト。
今まで大都会とは無縁だった京太郎にとって、東京の猛暑は厳しいものがあった。
「張り切って買い出しに出たはいいけど……」
汗が頬を伝うのを感じる。
信号の待ち時間が酷くもどかしい。
「あ、コレ、ヤバイ……」
ぐらぐらする視界、込み上げて来る吐き気。
……この、症状、は……
目が覚めた時。
京太郎の視界は、白くて大きい何かに塞がれていた。
「……あ?」
「あら、大丈夫?」
上から聞こえて来る女性の声。
枕にしては柔らかすぎる後頭部の感触。
これは、一体……?
「苦しそうだったけど……大丈夫?」
「あ……!」
そうだ、確か、買い出しの途中で――!!
「……うぁ」
「こーら、まだ駄目よ。安静にしてなくっちゃ」
勢い良く立ち上がった瞬間に、軽い立ちくらみ。
幼子に言い聞かせるような口調で宥められ、座らされた。
「あ、あなたは……?」
「私は石戸霞。ここは、永水の控室よ」
「ほら、お水飲んで」
「はい、ありがとうございます……」
霞から水を受け取る京太郎。
どうやらさっきは霞に膝枕をされていたらしく、視界を埋め尽くす白い何かは巫女服に包まれた立派なおもちだったようだ。
首に貼られている冷却シートもこの人が用意したのだろう。
「大丈夫? あなた、疲れてるみたいだけど」
「そんなことは……いや、確かに、そうかもしれません」
「ふふ……少し、休んでいったらどうかしら?」
「……すいません。お邪魔、しますね」
そして、いつもなら直ぐに宮守の控室に戻る京太郎だが。
霞の持つ独特な雰囲気に飲まれて、その言葉に甘えることにした。
「ふふ……」
髪を撫でる手は、幼少時の母を思い出させる。
本当に、本当に懐かしい感覚。
昔にも、こんなことが、あったような――
「あーっ! もしかして!!」
「!?」
「小蒔ちゃんっ!?」
「やっぱりそうです! 京太郎くんですよね!?」
「わわっ」
鼻先が触れ合う程に身を寄せて迫る少女。
可愛い顔立ちに素晴らしい胸は実に好みだが、京太郎の記憶にそんな女の子はいない。
京太郎が狼狽えていると、霞が少女の首根っこを摘まんだ。
「ホラホラ、彼も困ってるでしょ?」
「ハ!? そうでした!! ごめんなさい、京太郎くん」
「あ、いえ……」
忙しい女の子だと、京太郎は思った。
「でもまさか、麻雀の全国大会で再会するなんて……」
「へ?」
「覚えてませんか? 確かに、凄い昔なんですけど……」
「……あ」
まだ、京太郎が小学生に上がる前の頃。
父に連れられて行った鹿児島。
そこで出会った女の子の名前は、たしか――
「こまっちゃん……?」
「はい! お久しぶりです!」
ぱあっと、太陽のような笑顔。
今まですっかり忘れていたが。
確かに京太郎は、この子と会ったことがあった。
「あらあら、小蒔ちゃんのお友達だったのね」
「お友達というか――」
「はい! とっても大事な人です」
「いや、その」
「そう、なら良かったわ」
「いっぱいお話しましょうね! 京太郎くん!」
「は、はは……」
小蒔の勢いに圧倒されっぱなしの京太郎。
結局、彼が宮守の控室に戻ることが出来たのは、日が暮れてからだった。
「熱中症で倒れたって聞いたけど……」
「もう。いつも一人で頑張っちゃうんだから」
「へぇ。永水の。先鋒と」
「いいや? 怒ってなんかないよ」
「ただ自分が情けないなぁって」
「ねえ、もっとこっち来てよ」
「大丈夫」
「誰も、見てなんかないから」
【遠い日のこと 了】
「まさか京太郎があんな大物を連れて来るなんてね。どこで知り合ったんだい」
「ははは……」
トシの視線の先には練習に励む少女たちに混ざって指導をする女性。
小鍛治健夜。元世界ランキング2位で現在は前線から退いたとは言え、国内無敗の称号は依然として大きい。
様々なコネを持つトシも、京太郎が彼女を連れて来ることは全く予想出来なかった。
宮守の部員たちも彼女の実力に圧倒されながらも、何とか実力をモノにしようと喰いついている。
驚愕と賞賛の視線を込めて京太郎を見つめるトシだが、京太郎は少し居心地が悪い。
なんせ。
あの出会いは、そう褒められるようなものではないからだ――
マスカラ取れた。
ヒールも折れた。
こころも折れた。
親に勧められて。
相方の口車に乗せられて。
慣れない化粧を頑張って。
気乗りしないながらも挑んだ合同コンパ、結果は惨敗。
気付けば周りはカップルばかり。残された一人は自分だけ。
当て付けで呼ばれたんじゃないか、だなんて被害妄想まで浮かんでくる。
勿論、相方の女子アナがそんな性格の悪い子じゃないって分かってるけど、それでも。
「辛いよ……こーこちゃん……」
無理して飲んだ酒で胸が苦しい。
歩くのがしんどくて電柱にもたれかかる。
ああ、これが誰かの胸だったら――
「だ、大丈夫……ですか?」
「ふえ……?」
見上げると、自分を心配そうに見つめる男の子。
「苦しそうですけど……医者、呼びます?」
イケメンだ。
金髪の髪がキラキラ輝いている――電灯に、照らされて。
私を迎えに来てくれたのか、彼が。
「……そういうことだったんだね、こーこちゃん」
自分が今日、合同コンパに参加したのは。
今、この時のためだったのだ。
「うわ、酒臭っ」
こんな固い電柱よりも、彼の胸がいい。
白いシャツに飛び掛かると、彼はしっかり受け止めてくれた。
「えへへ……」
「酔っ払いだったのか……どうしよ、コレ」
グリグリ。
頭を押し付けて彼の匂いを堪能する。
ああ、これが、幸せ――え?
「……」
「あの?」
「……おえっ」
「え゛」
酒は飲んでも飲まれるな。
京太郎は、胸に刻み込んだ。
幸いにもモノがかかったのは上着のシャツのみで。
女性のアレをおっ被ったまま街中を歩く苦行は避けられた。
「ごめんなさい……」
「あー……何と言うか、まぁ……」
そして、無事に女性を送り届けることが出来たが。
崩れに崩れた化粧が洗面台で洗い流されてようやく、この酔っ払いが小鍛治健夜であると気が付いた。
今にも首を吊りそうな悲壮感を漂わせる健夜を前にしては、怒る気持ちも萎んでいく。
「……死にたい……」
「うわぁ……」
酒の力とは言え恋に燃え上がったテンションからの、醜態。
健夜はこの世から消えてしまいたい気分だった。
しかしそんな健夜の胸中を、京太郎は知る由もない。
どうにか彼女を宥めて、帰りたい。
「だから私はアラフォーなんだ……こんな私は永遠に独り身がお似合いなんだ……」
「いや、ホラ? きっと健夜さんにもお似合いの人が来てくれますよ」
「こんな何の取り柄もない私でも?」
「ま、麻雀とか!」
「そんなの何のアピールにもなんないよ……」
「そんなことないっすよ! 俺も麻雀部っすけど、国内無敗とメッチャ凄いじゃないっすか!」
「え? そうなの?」
「ハイ! だから、自信持って」
「いや、そっちじゃなくて」
「君、麻雀部なんだ」
「あ、まあ。そうっすけど」
――ねえ、光源氏って知ってる?
――ああいやジョーク! 冗談だから! そんな顔しないで!?
こーこちゃん。
ありがとう。
年は干支一つほど離れてるけど。
彼も麻雀部だし、つまりこれって。
そういう、ことだよね――?
「宮守高校、だっけ?」
「はい。俺は付き添いっすけど」
「見てあげよっか」
「え?」
「見てあげるよ、私が。君も宮守の麻雀部も」
――私が、君たちを勝たせてあげる。
……これが、小鍛治健夜と京太郎の出会い。
棚から牡丹餅ならぬ、口から――
「まあ、色々な事情がありまして」
「人生、何があるかわからないもんだねえ」
溜息を吐いて、視線を卓に向けると健夜と目があった。
飾らない素朴な笑みを見せる健夜に、ほんのちょっとだけ、京太郎はときめいた。
……その笑顔があれば、結婚くらいいつでも出来そうなのになぁ。
そんな言葉は、飲み込むことにした。
【若さってなんだ 了】
日差しがキツい日は反射で熱が倍増される。
風が強い時はビル風に圧倒される。
東京ってヤツは、下手な田舎よか過酷な環境なんじゃないか――?
「うわっぷ」
風で飛ばされて来た何かが顔に張り付いた。
突然塞がれた視界に慌てて払い飛ばすと、それは。
「……マフラー?」
こんな季節に、マフラー?
どこかビルの上から飛ばされて来たのか?
辺りを見渡すと――
「あ、あの、それ私ので……」
ぷるぷる震えながら、こちらを見る女の子。
身長は咲と同じ程度で、この季節に真っ向から逆らうように過剰な防寒着に身を包んでいる。
風が肌寒い、というレベルではなく、本当に寒そうに身を震わせている。
「あ、あの……」
「ああはい! すいません、どうぞ!」
思わずガン見してしまったが、急いでマフラーを手渡す。
マフラーを首に掛け、風で飛ばされないように手でぎゅっと握りしめる女の子。
ほっと、安心したように息を吐く。
「ありがとう、ございました……」
ぺこりと頭を下げて去っていく女の子。
色んな人がいるんだなぁ……。
「だから、京太郎の首から知らない匂いがするんだね」
「え? 意外とわかるもんだよ?」
「女の子って、その辺り凄い敏感なんだから」
「京太郎が何してたか、とか」
「私にはお見通しだから、ね?」
【寒がりな女の子 了】
「な、なあそこの君!」
「はい?」
見知らぬ声に振り向けば、息を切らした少女。
黒髪のロングヘアで、背が程よく高い。胸も大きめだが大き過ぎるということもなく、足も肉付きが良い。
京太郎は『バランスの良い、健康的な人』という印象を抱いた。
「ぜぇ……ぜぇ……」
そんな子が膝に手を付き、呼吸を整えている。
汗で髪が首筋に張り付いている。
余程急いで走り回っていたんだろう。苦しそうだ。
「あの、ポカリで良ければどうぞ」
「わ、悪いな……んぐっ」
ぐび、ぐび、ぷはーっ。
一瞬にしてペットボトルが空になる。
見ている方が気持ち良くなる程の飲みっぷりである。
「はー、生き返った。ありがとな」
「はぁ、どういたしまして」
あら……なんなの、コレ……?
目の前の男子を、もっと知りたい。
名前を、趣味を、癖を、好きなものを、血液型を、呼吸を、鼓動を。
もっと深く、表面ではなく、内部まで。
この男の子を、知りたい。
知り尽くして、自分の手で管理したい――
「あの、それで?」
声をかけられて我に返る。
「あ、せやった。なあ、君、怜を見なかった?」
「怜?」
「そ。こんぐらいの、病弱アピールしてる子なんやけど。あ、コレ写真な」
「いや、見なかったですけど……」
「そっか……どこほっつき歩いてんのやら……」
「あの、一緒に探しましょうか?」
「ええの?」
「はい。これも縁ですし」
「よし! じゃ、君はあっち頼むわ! これウチの携帯の番号で、見かけたらよろしくな!」
「うす、了解っす」
「あ、あれか?」
自販機の隣で、ベンチにもたれ掛かっている女の子。
竜華から貰った携帯の画像データと照らし合わせても、間違いはない。
あそこで呑気に寝息を立てている彼女こそ、竜華が必死に探していた怜なのだろう。
「あの……?」
とりあえず、肩に手をかけて揺すってみる。
怜の、反応は――
「ん、ん……?」
ピクリと瞼が揺れて、ゆっくり目が開かれる。
起こす前に先に竜華を呼んだ方が良かったかもしれない、と今になって気付く。
さて、何と言ったものか。
「あのですね、俺は――」
「ああ、おはよ。京ちゃん」
「へ?」
首に腕が回される。
京太郎がその行為の意味を理解するよりも、速く。
「ん」
「!?」
唇を強引に奪われた。
それもただ触れ合うだけの軽いものではなく、深く、味合うように、長く。
京太郎が何も理解出来ずに固まっているにも関わらず、彼女の行為は止まらない。
「――ぷはっ」
やがて、怜から唇を離す。
二人の間に、透明な橋がかかった。
「ん。ごちそーさん」
「あーっ!! 何しとんねん!!」
「ひっ!?」
建物全体に響き渡る怒声。
先程の彼女の印象を覆す形相に、つい情けなく怯えた声を漏らしてしまう。
いや、この表情には、見覚えが――
「ウチの京太郎くんにへんなことすんな!!」
「んー? なにって」
ぽりぽり。
対して、呑気に頬をかく怜。
大者なのか、惚け者なのか、京太郎にはわからなかった。
「昨日はりゅーかの番やったし、今日はウチの日やろ?」
「へ?」
ピタッと止まる竜華。
彼女の反応は、
「ああ、せやったか。せやなぁ」
「りゅーかは変なところでおっちょこちょいやなぁ」
「あは、堪忍したってやー」
あっはっはっは。
楽しそうに笑う二人。
違う。
さっきの竜華の表情は、宮守の先輩たちを思い出させたが、違う。
宮守の先輩たちの表情はまだ、理解できるけど。
この人たちは、
「もー、そんなんで京ちゃんに愛想尽かされても知らんよ?」
「京太郎くんがそんな器の小さい男じゃないのは怜もよく知ってるやろ? なあ、」
「京太郎、くん?」
異質、だ。
「っ!」
考えるよりも先に、恐怖感が体を突き動かす。
纏わり付く怜を跳ね除け、がむしゃらに足を動かす。
今は一刻も速く、ここから逃げ出したかった。
「はぁ……はぁ……」
途中ですれ違った咲も久も霞も小蒔も無視して。
気が付いたら、宮守の控室に着いていた。
竜華も怜も、追いかけては来なかった。
「どうしたの? なんか色々凄いことになってるけど」
「胡桃、先輩……」
今は、この小さな先輩が。
何よりも、頼りに見えた。
「先輩……!」
「え? いや、どうしたの!? そりゃ私も嬉しいけど心の準備ってものが!!」
小さな体に縋り付く。
宮守の先輩なら誰でもよかった。
さっきの光景を、忘れさせてほしかった。
その後、東京にいる間は京太郎が一人で行動することはなかった。
最低でも二人の3年生と、常に一緒に行動した。
塞たちは、「絶対に私たちが京太郎を守る」と決意した。
京太郎の心に、トラウマに近い傷を残したとはいえ。
結果としてこのことが、宮守の絆を深めることになったのは。
何とも、皮肉な話であった。
【宮守、全国大会日常パート 了】
蝋燭の灯火だけが灯りとなっている、薄暗い室内。
二人の男と女が、覆い被さるように横にななっている。
二人とも、一糸纏わぬ姿であり。
二人の間を遮るものは存在しない。
ただ、これは、閨での睦事と呼ぶにしては。
「だめだ、そんな、こと――」
「……」
あまりにも、一方的なものだった。
身体が重い。
まるで、全身の血液が鉛にでもなったかのようだ。
抵抗しようにも、指一つ動かすことすら出来ない。
「なんで、だよ! なんで、こんなこと、するんだよ――!!」
「……」
その問いにも答えず、ただ男の唇に人差し指を添える女。
そのまま唇に、爪を立てた。
「っ!」
血が滲み、指先を赤く染める。
その血が附着した指先を口に含むと、女は小さく微笑んだ。
――朝、目が覚めると、自分の腕を枕代わりにして眠る小蒔の顔が目の前にあった。
「はぁー……」
まただ。
いつもの光景だが、つい溜息が出てしまう。
初めこそ飛び起きる勢いで驚き、恥じらいを覚えたシチュエーションだったが。
今ではもう、呆れが先に出て来る。
きちんと部屋に鍵をかけているし、見張り役も頼んでいるのに。
どうやって毎度の如く部屋に入って来るのだろうか、この寝坊助姫様は。
「ほら、起きて下さいよ」
「んぁ……ん、あと五分……」
「起きる時間に五分もなにもありませんってば」
肩に手をかけて少し強めに揺さぶる。
遠慮はしない。生半可なことでは彼女は起きないし、早く彼女を起こさないと――
「あらあら、まったくもう。姫様ったら」
――どうやら、間に合わなかったらしい。
石戸霞。
普段はおっとりした雰囲気の女性で、ある特定部位の大きさから母性すら感じさせる。
いつもは冗談混じりで「母さん」なんて呼んだりして、彼女も乗って返してくれるのだけれど。
朝の、この時間の彼女は。
「ほら、起きなさい!」
「ひゃんっ!?」
鬼だ。
未だ寝惚け眼の小蒔の頬を叩き、引きずるように立たせる。
「ごめんなさいね、京太郎くん。いつも、姫様が」
「いえ、ぜんぜん構わないんですけど……」
「うぅ……京太郎さまぁ……」
「もう、まだ寝ぼけてるの? この子ったら」
「京太郎くんもあまり姫様のこと甘やかしちゃ駄目よ。すぐあなたのところ来ちゃうから、この子」
「うー……」
「それじゃあ、また朝食の時に、ね」
小蒔を引きずるように去っていく霞の後ろ姿を見て、京太郎は身を震わせた。
身支度を整え、朝の食卓へ向かう途中の廊下。
京太郎の、経験によって磨かれた第六感が、「彼女」の襲来を告げている。
「……! ココだ!」
「むむっ!」
身を捻って振り返る。
瞬間、すれ違う小柄な影。
ベタン!と朝の澄んだ空気を台無しにする音を立てて、京太郎が元いた地点に着地する少女。
「はっはっは! その技、既に見切ったり!」
「むー! 生意気ですよー!」
彼女は薄墨初美。
京太郎と出会った時から「背が高くて生意気です!」なんて難癖を付けて。
あの手この手で京太郎を屈服させようとしている。
この朝の光景も何回も繰り返されており、今では屋敷に住む誰もが慣れている。
そして、
「ぺろっ」
「ひゃ!?」
「あーっ! またー!!」
彼女が最後に美味しいところを掻っ攫って行くのも、誰もが見慣れた光景だ。
油断し切った京太郎の首筋を文字通り「舐めた」彼女の名前は、滝見春。
ここでは唯一の京太郎と同じ学年で、同じクラスということもあって一番一緒にいる時間が長い。
無愛想で無口で黒糖が何よりも好きで、でも意外と優しいところがある、そんな少女。
「ぺろぺろ」
「ひゃあっ」
そして一番、永水の中で考えを読めない少女でもある。
「いい加減やめるのですよ!」
「ぺろっ」
「ひっ」
「あーっ! もーっ!」
うがー!
怪獣みたいだなぁ、と思いながら、春は京太郎の首筋を舐め続けた。
「ああもう……ごめんね、春ちゃんが」
春の涎まみれになった京太郎のうなじをハンカチで拭う少女。
狩宿巴。
「祓い」を引き受ける彼女は、このように誰かの尻拭いを引き受けることが多い。
「いや、巴さんが気にすることじゃないっすよ」
「そうだね」
「お前は反省しろ!」
そんな彼女の苦労など、何処吹く風の春へ突っ込む京太郎。
その光景に、胸の隅で燻りのようなものを感じたけれど――きっと気のせいだと、巴は頭を振った。
そして、全員が揃った食卓。
京太郎の両隣を小蒔と春が囲み、反対側に初美と霞と巴が座る。
「いただきます」
全員で手を合わせて始まる朝の食卓。
男一人でここに混ざることも、既に慣れた。
「はい、あーん♪」
「え、えーっと……」
ごく当たり前のことだと言わんばかりに朝食を箸で摘まんで京太郎に差し出す小蒔。
新婚夫婦にはよく見られるモノで以前は憧れていたが、今の京太郎には抵抗感があった。
いざ直面すると照れ臭さが勝り、そして、どうしても今朝の霞の様子を思い浮かべてしまう。
「~♪」
しかし、不思議なことに。
ちらりと目を向けた霞は、今の小蒔に対して憤りの類の感情を見せることはなく。
むしろ、上機嫌に鼻歌などを口遊んでいらっしゃる。
行儀の良い振る舞いとは、とても思えないのだが。
「あーん♪」
「……」
何故だろう、と考えても答えは出ない。
京太郎は観念して、小蒔の差し出した箸にパクついた。
……痛っ。
考え事をしながら食事を続けていたせいか、下唇を噛んでしまった。
下手をすると口内炎になりそうだ。
「……?」
何だろう。
つい最近、似たような痛みを感じた覚えがある。
所謂デジャブと呼ばれる感覚だが、さてはて――?
しかし思い出せないというのなら、大して重要なことではないのだろう。
そう結論付けた京太郎は、先に食器を片付けて、小蒔たちを玄関で待つことにした。
【プロローグ 了】
最終更新:2026年01月05日 18:29