「旅行に行こう、次の休みに」
季節は冬。
今日も若手実況アナウンサーとしての仕事を終えて、相方と別れた帰り道でふと思い付く。
何でそう思ったのかは分からないが、きっかけとは、えてしてそういうモノである。
一人暮らしのアパートに帰宅した京太郎は早速、自宅のPCから旅行サイトを開いた。
◆
「で、岩手までやってきたわけだけど……」
駅を出てから、歩いても歩いても目的の旅館が見つからない。
それどころかどんどん民家から遠ざかっているような気がする。
地図の方向では間違っていないのだが。
「コレ、もしかしてヤバイ……?」
携帯は圏外。
少しずつ雪も降り始めて、自分の歩いてきた道が分からなくなりつつある。
嫌な予感が頭を過る。
このままでは、遭難――
「あっ! も、もしかして!?」
「わー! 須賀アナだよー!!」
雪の中を猛スピードで駆け寄って来る身長2m弱の黒い服を着た女性。
京太郎の体が震えるのは雪のせいだけでは、ない。
「私、大ファンなんです! あの熱い実況が大好きで!」
「ど、どうも……」
両手を掴まれてブンブンと振られる。
旅先で熱烈な自分のファンに出会えたのは歓迎するべき状況だが、今は素直に喜べない。
「あの、一つ聞きたいことがあるんですけど」
「何でもどうぞ! 趣味でもスリーサイズでも大歓迎だよー!」
「そ、それでは……」
肉体的にも精神的にも豊音に圧倒されながら、京太郎は口を開いた。
◆
「そこはこことは反対方向ですねー。今から歩くと日が暮れちゃうよー」
「何てこった」
次第に強くなる雪に立ち話も出来なくなって、京太郎は豊音の家にお邪魔することになった。
外は既に日が沈み、吹雪の影響もあって完全に前が見えない。
そして頼みの綱の携帯は圏外。
この中を歩いて行けるのは自殺志願者くらいである。
「参ったな……」
「あ、あの……もし良かったら……」
額に手を当てる京太郎に対して、豊音がモジモジと、胸の辺りで指を組みながら。
「わ、私の家に泊まって行きませんか……?」
豊音の提案に頷いた京太郎は――というより、この場合は受け入れる以外の選択肢はないのだが、吹雪が大人しくなるまで豊音の家に泊まることになった。
夕食と風呂まで用意してもらい、至れり尽くせりである。
予定とは大分違うが、コレはコレで良い体験が出来た。
「旅にハプニングは付き物って言うし、これも醍醐味なのかな……ん?」
風呂上りに首にタオルを掛けて廊下を歩いていると、小さな棚に写真が立ててあるのを見付けた。
「これは……」
恐らくは豊音の学生時代に撮ったものなのだろう。
制服を着た豊音と、4人の女子が写っている。
「それ、私の高校時代なんだー」
「っ!?」
急に背後から声をかけられ、京太郎の心臓が跳ねる。
振り向くと、豊音が悲しそうな顔を浮かべていた。
「みんな仲良しだったけど……みんな、いなくなっちゃった」
「豊音さん……」
今日に知り合ったばかりでも、豊音の人となりはある程度は分かった。
体は大きくても心は無垢で、子どものように純粋な人。
その彼女がここまで悲しんでいるのだから、彼女の寂しさはとても大きいに違いない。
その寂しさを埋めてあげたいと、京太郎は思った。
「……豊音さん、俺と友達になりませんか?」
「……え?」
「これも旅の縁ですし……俺は、豊音さんと仲良くしたいです」
「……いいの?」
「勿論」
「!!」
冷静になって考えてみれば、まるで口説いているようだと思ったが――嬉しさの余り小躍りしている豊音の姿を見れば、小っ恥ずかしさなんて吹き飛んだ。
吹雪が止んだのは、ちょうど京太郎の休みの最終日だった。
「今度は、こっちに来て下さいよ。歓迎しますから」
「うん! うん! 絶対に行くよー!」
豊音に両腕を大きく振られながら見送りされる。
今度は迷うことなく、駅まで辿り着けた。
◆
結局、計画通りには行かなかったがそれ以上に良い思い出が出来た。
明日からの仕事にも力が入りそうだ。
「……ん?」
ほんの一瞬、電車の窓に見覚えのある黒い影が映った気がしたが、振り返っても誰もいない。
「気のせいか……」
電車に揺られながら、帰宅する京太郎。
旅先から持ち帰ったものが増えていることに、彼が気付くことになるのは――
【ぼっちじゃないよー】
それは、今よりもずっと、昔のお話。
「先生」
「ん? 何か分からないところがあったか?」
とある伝手で受ける事になった家庭教師の仕事の途中。
教え子の少女が、握っていたシャープペンをパタリと倒した。
今まで淀みなく進んでいた問題を解く手が止まったということは、何かの壁に突き当たったのだろうか。
「英語を学ぶ意味が、わかりません」
「あ゛ー……」
少し捻くれた子どもなら誰もが考えること、京太郎にも覚えがある。
その疑問を家庭教師の自分にぶつけられても困るのだが、仮にも先生という立場なのだから、答えてあげる必要がある。
「まぁ、確かに今の段階じゃそうかもしれないけどさ。ある程度喋れるってだけで大分便利だぜ?」
「……例えば?」
「旅行に行った時もそうだし、仕事の幅も広がる。俺も将来、使うことになるから勉強中だし」
「先生が海外に……仕事ですか?」
「おう。プロになったら必要な場面は増えるしな」
「……」
京太郎の言葉を受けた少女は、シャープペンの先に付いた消しゴムを顎に当てて考え込む。
納得してくれただろうか。
まぁ、納得できなかったとしても、問題は進めてもらわなければならないのだが。
「……先生、例文のここなんだけど」
「お、ハイハイ。そこは関係代名詞が――」
それから室内に、シャープペンの進む音が響く。
外では蝉が鳴き始める季節だが、今の二人には無縁なことだった。
京太郎も忘れていた昔のお話。
覚えている人がいるとすれば、それは――
――次は白糸台、白糸台――
「……はっ」
電車内のアナウンスで目が覚める。
危うく通勤中に寝過ごすところだった。
もう大人なのだから、流石にこんな理由での遅刻は許されない。
「……にしても」
本当に、懐かしい夢を見た。今まで忘れていた昔の記憶。
教師という立場のせいだろうか。
あの子は、元気にやっているのかな。
◆
「グッモーニン、きちくティーチャー!」
開口一番、登校するなりそんな言葉を浴びせてきた教え子に、京太郎は額を押さえた。
「……なーにが鬼畜だ、なにが」
「私を散々にイジめたクセに」
「……」
まぁ、確かに。
天狗気味で、相手を侮るフシのあった彼女の鼻を折る意味で色々やったけど。
こんな誤解を招くような言われ方をする覚えは無い。
「……大星、一つ訂正させてく」
「まー、それはそうとして、今日という今日は――」
京太郎の言葉を遮って、淡が放った言葉は――
「ギャフンと言わせてやるっ」
目力を込めて京太郎を見詰める淡。
リベンジに燃える瞳からは強い意思が伝わってくる。
「ほー、それは楽しみなことで」
「ふっふっふ、もう作戦だって考えてるんだからね」
「なんと」
以前の彼女なら考えられなかった言葉に驚く。
ミーティング等で相手の情報を研究しても、それらを無視して真っ正面から支配して勝つのが彼女の麻雀だったのだが。
「……ま、それじゃ後でたっぷりと拝ませて貰うわ」
「別に今でもいいよ?」
「お前は授業があるし、俺は仕事があるだろ? それじゃな」
と、淡に背を向けて職員室へと歩き出す――が。
「……」
「? 入んないの?」
何故か、職員室の入口までピッタリと、淡が後を付けて来た。
「……お前、何でいんの?」
「まずは敵をよく見て知ることって、菫先輩が言ってたから」
「……」
「じーっ」
左に一歩ズレてみる。
淡の視線が追いかけて来る。
「じーっ」
右に一歩ズレてみる。
淡の視線が追いかけて来る。
「じーっ」
グルりと、淡の周りを回ってみる。
淡の視線が追いかけて来て――
「ふぁ……」
目を回す。
「うしっ」
ガッツポーズを取り、この隙に職員室へと入る。
これが作戦というものだよ淡――と、京太郎は意味もなくしたり顔を晒した。
だが、そうは問屋が卸さない。
直ぐに再起動した淡が職員室に飛び込んで来る。
「甘いよ先生! この前とは違うんだからね!」
面倒くさい。
京太郎は、思わず溜息を吐きたくなった。
「あのなぁ……ん?」
追い返す為の方便を言う前に、淡の背後から白い腕が伸びて。
「どったのせんせー?……っ!?」
そのまま万力の如き力で、淡の両頬を引き千切らんばかりの勢いで引っ張り出した。
「いっひゃあぁあっ!?」
「淡――」
淡の背後から現れた、彼女の第一声は――
「頭は冷えた?」
「うう……いっひぁ……」
涙目で頬を摩る淡にも、照は容赦がない。
微かな怒気を瞳に宿して睨み付けている。
その様子が、『彼女』を想起させて――
(……いや、ねえよ)
即座に浮かんで来たイメージを掻き消す。
彼女と照では性格も容姿も、何もかもが違い過ぎる。
「ふう、先生……これ、さっきすれ違った先生が渡して下さいと」
溜息を吐いた照が鞄からプリントを取り出し、京太郎に差し出す。
「ああ、ありがとな、宮永」
照からプリントを受け取り、内容を確認するとファイルに仕舞う。
その様子を見届けると、照は涙目の首根っこを掴んで職員室を後にした。
「それでは、また部活で」
「お、覚えてろー!!」
「……もう少し、頭冷やそうか」
「ひっ!?」
京太郎は、苦笑しながら手を振って二人を見送った。
白糸台は麻雀の強豪校であると同時に進学校だ。
例え部活で活躍していたとしても、それなりに高い学力も必要となる。
そして京太郎も、その事で生徒からの相談を受けることがよくあるのだが。
「なぁ、ちゃんとした先生に聞いた方がいいんじゃないか?」
英語のテキストを抱えて、職員室の自分を訪れて来た照。
家庭教師の経験もあり、教えられない事はないが、所詮自分は非常勤。
分かりやすさで言えば本職には遠く及ばないだろう。
「……」
それに対する、照の返事は――
「先生の方が、好きなので」
臆面もなく真っ向から瞳を見詰められて、言葉を失う。
つい、いつもより速いペースで瞬きを繰り返すが、目の前の照が目線を逸らす事はない。
京太郎は一つ咳払いをして冷静になると、引き出しからペンとルーズリーフを取り出す。
「よし、わかった……それで、どこがわからないんだ?」
その言葉の通りに受け取っては恥をかく。
英語の教師の教え方よりは、自分の教え方の方が照には合っているということなのだろう。
一人で納得すると、京太郎は照にテキストを開くように促した。
「ここなんですけど……」
「ふむふむ……」
京太郎の言葉を聞き漏らさないようにしながらも、照の目線が京太郎から外れることはなかった。
◆
京太郎に礼を言って職員室から出た照の足の歩みは速い。
らしくもなく、胸の鼓動が高鳴る。
教えてもらう最中に触れ合った手の温かさが忘れられない。
「京ちゃん」
小さく、呟く。
「京ちゃん」
ただ、それだけで。
「京ちゃん」
ほんのちょっぴり、幸せな気持ちになれた。
「じーっ……」
「ふむ……」
放課後。
部活も終わり、廊下を歩いていたら視線を感じたので、立ち止まって振り向く。
「ささっ」
角にチラリと金色の影が見えたが、それ以外は何もない。
「気のせいか……」
一人頷いて、再び歩き出す。
「じーっ……」
「ふむ……」
すると、またもや似たような視線を感じたので、立ち止まって振り向く。
「ささっ」
近くの教室に飛び込む金色の影が見えたが、それ以外は何もない。
「気のせいか」
「ささっ」
一人頷いて、再び歩き出す――ように見せかけて思いっ切り振り向く。
「大星ィっ!」
「あ!」
「ずっこい!」
「そりゃお前、バレバレだし」
本人は完璧な尾行のつもりだったのかもしれないが、アレで気が付かないのは相当だ。
「早く帰れよー? もうすぐ日も暮れるし」
「うー……先生の強さの秘密を解き明かすまでは……」
少なくとも、あんなバレバレの尾行で渡せる情報は何もない。
が、それを口で説明してこの場は帰らせても、淡は同じことを繰り返すだろう。
となると、京太郎の取る手は一つ。
「えーっと……宮永の携帯の番号は」
「さよなら先生また明日!」
荒療治である。
◆
「悪いな、宮永」
「いえ、好きでやってますから」
各校の情報を集めた資料の束を抱えて廊下を歩く京太郎と照。
かなりの量ではあるが、成人男性からすれば持ち切れない量ではない。
だと言うのに、照は『一緒に分けて運ぶ』と言って聞かなかった。
『先輩に、そんなことをやらせるわけには行きませんし……。それに、私が好きでやることですから』
その行動が、やっぱり『彼女』を思い出させて。
似ても似つかないのに、隣の照と記憶の中の彼女を比べてしまう。
「……」
「……」
隣を歩く京太郎が何を考えているのか、そこまでは分からないが。
遠くを見るその瞳に、自分が写っていないことは確かだ。
「……」
――気に入らない。
自分と京太郎は、生徒と先生だから。
――気に入らない。
いつまでも一緒にいることはできないのに。
――気に入らない。
その人は、側にいないにも関わらず。
――気に入らない。
ずっと、京太郎の心の中にいる。
――気に入らない。
「先生」
「あ、ん?」
自分に出来ることは、精々。
「これからも、よろしくお願いしますね。ずっと」
「あ、あぁ……」
こうして、京太郎の気持ちを引き寄せることだけなのに。
いくら麻雀が強くても、京太郎は振り向いてくれない。
それが何よりも、歯痒かった。
――本当、に?
◆
「ずっこい!」
ベッドの上で淡は部活での風景を思い出し、ジタバタと手足を暴れさせる。
どう見ても京太郎はヘーボンな男だ。それなのに、あんなに麻雀が強いなんて。
ずるい。それしか言えない。
「ホントずっこい!」
尊敬する先輩も、最近は京太郎にベッタリだ。
ずるい。尊敬する先輩まで独占している。
ずるい。一緒にいるのが羨ましい。
ずるい。私は頑張っても先生の側にいれないのに――
「……あれ?」
……私は、誰の文句を言ってたんだっけ?
◆
自分が憧れたプロとの、二人っきりでの牌譜整理。
いや、正確には元プロだが――そんな些細なことは、菫にはどうでも良かった。
幼い頃にビデオで見て憧れた雀士が隣にいる。
その事実が重要であり、嬉しいのだ。
「弘世、何か良いことでもあったのか?」
「え?」
「珍しいと思って。鼻歌とかさ」
「ええ、とても。良いことが」
「ほお」
恐らくは無意識で口遊んでいたのだろう。
京太郎に指摘されるまで気が付かなかったが、悪い気はしない。
他の部員に見られていたら恥ずかしいけれど、ここにいるのは菫と京太郎の二人だけなのだから。
「~♪」
「相変わらず良い声してるなぁ……」
強豪校、王者白糸台。
その部長と指導者がいる部屋は、とても和やかで。
世間一般で持たれているイメージとは真逆のものだった。
◆
「……おい」
「えへっ」
朝、京太郎が職員室の自分の机に座ろうとしたら。
机の下のスペースで体育座りをしている淡と、目が合った。
「私、考えたんだ!」
「……なにを?」
「先生ってば、私のストーキング術を尽く見破ってくるから――こうして待ち構えてればいいんだって!」
「……」
無言で額を抑える。
「ふっふっふ、どーだ参ったか!」
「……ああそうだな、参ったよ」
「ふふん!」
「だから、ちょっと違うところで仕事してくるわ」
「へ?」
机の上から必要な物を整理して鞄に入れる。
そのまま部室の鍵を取ると、職員室を後にした。
「へ? え?」
ポツンと一人、机の下に残された淡は――
「あ、そうなんだ」
「私が、こんなに先生のこと見てるのに」
「先生は、私のこと、見ないんだ」
「……ま、いいか」
「それなら、先生が私のこと見てくれるまで」
「ずーっと、追い続けてやるんだから」
「見てくれるまで」
「ずーっと、ずっと」
「テルーにもジャマさせない」
「せんせーの側は、私のテリトリーだもん」
「……あはっ♪」
「なんだか、楽しくなってきたかも」
「待っててね、せんせー」
「今、行くから」
◆
「待てー!」
京太郎の後を追って部室に飛び込んで来た淡が目にしたものは、PCを立ち上げてネット麻雀の準備をする京太郎の姿だった。
「おう、来たか。思ったよりちょっと遅かったな」
「へ?」
思わぬ言葉に淡の目が点になる。
「強さの秘密、知りたいんだろ? 座れよ」
「う、うん……」
促されるままにPCの前の椅子に座る。背後の京太郎が手を伸ばし、マウスの操作をする。
何となく、胸がドキドキする。
「……つってもまぁ、今はそんな大それたことはしないんだけどな。流石にこの時間帯だと人いないし」
「えっと……」
「指導だよ。部活でも満足できないってなら、放課後の空いた時間にでも、家に帰った後にでも、このサイトで相手してやるから」
「……」
「まぁ、やる気がないのなら別に――」
「やる! 絶対やる!」
「ん。じゃあ朝のHRまで時間あるし、ちょっとだけやるぞー」
心地良い時間だ。ネット麻雀なんてつまらないって思ってたのに。
先生と二人だとマウスのクリック音ですら気持ち良い。
画面の中の状況は理想とは程遠いけれど、心の中はとても晴れやかで。
このままずっと、ここにいてもいいかも。
「…… 鍵、空いてる?」
部室の戸を開けて入ってきたのは?
「あ、おはようございます、先生……と、淡」
部室の戸を開けて入って来たのは、チーム虎姫の副将、亦野誠子だった。
京太郎はともかく、淡までいるとは思っていなかったようで、少しだけ驚いた顔をしている。
「おう、おはよう。早いな」
「いやー、恥ずかしながらケータイ忘れちゃって……朝一で取りに来ようと思ってたんですよ」
「成る程、こっちは朝練中みたいなもんだけど……亦野もやるか?」
「いいんですか? それなら是非とも」
「……」
「ありがとうございました!」
「お疲れ様」
朝練を終えて、部室を出た頃にはHR開始5分前を告げる予鈴がなる時間になっていた。
急なことにも関わらず、指導をつけてくれた京太郎に誠子は頭を下げる。
「……今に見ててよね、先生。直ぐに100回泣かせたげるから!」
「そりゃー、楽しみだな。まずその前に、お前はテストの点数に泣きそうだけど」
「うぐっ」
対局の結果は芳しくなかったが、確かに掴めるものはあった。
自信満々に宣言した淡だが、痛いところを疲れて後退る。
誠子は苦笑して、淡と一緒に部室を後にした。
◆
「……そういえば」
どうして淡は、こんな朝早くから?
疑問を感じた誠子は隣を歩く淡に目を向ける。
コイツがこんな朝早くからいるとは思わなかったのだが――
「先輩」
「ん?」
「私、先生のこと、好きだから」
「……は?」
全く脈絡がなく、予想していなかった言葉に固まる。
そんな誠子に構うことなく、淡はさっさと自分のクラスへと歩いて行った。
「……え? マジ?」
何となく、胸のあたりに何かが引っ掛かったような感覚がした。
◆
「私は、先生のことが好き」
「……な」
授業の内容で分かりにくい箇所があったため、後ろの席に座る照に確認をしようと振り向いたら、開口一番に言われた言葉。
ポカンと間抜けに口が開き、テキストが滑り落ちる。
「……私は、先生のことが――」
「ああいや、分かった。二度と言わなくていい」
慌てて照の口を塞ぎ、周りを確認する菫。
幸いにも、周りには聞こえていないようだった。
「協力して欲しい。私に」
「そうは言ってもだな……」
照の目は本気だ。
LIKEではなくLOVEの方。
相手は教師で、自分たちは学生。
上手く行く筈がないが、放って置いて失敗しても不味い。
「……ああ、分かった。どうにかしようじゃないか」
「ありがとう、菫」
万が一にも、これがきっかけで照が調子を崩すようなことがあれば。
期待をかけてくれる親にも、OBの先輩方にも、監督にも、そして憧れの人にも、顔が合わせられない。
白糸台の部長という立場の重さを思わぬところで感じて、菫は溜息を吐いた。
「……負けないから」
照の呟きも、自分の中に眠る気持ちにも。
まだ、菫は気付かなかった。
「はぁ……」
廊下を歩く菫の足取りは遅い。
気が重いのは、最後の全国に向けて緊張しているから――という訳ではない。
照と淡、チーム虎姫の先鋒と大将。
インターハイでの勝利の為の重要な要。
この二人が、こぞって一人の男性に向けて恋慕の情を向けていること。
そして、その男性が教師――正しくは麻雀の為の特別コーチという立場にあり、恋が叶いそうにないこと。
「どうすればいい……?」
悩んでも答えは出ない。
眉根を寄せたまま、菫は職員室の前を通り掛かり――
「……もう、大丈夫か? 俺がいなくても」
「……どういうことですか、先生」
京太郎が職員室の戸を開けた瞬間に菫に投げかけられた言葉に、京太郎はバツの悪そうな顔をした。
「あー、聞こえたか?」
「はい……盗み聞きをするつもりはなかったのですが」
「ああ……ちょっと、場所を移そう」
◆
「……転勤、ですか」
「すまない……最後まで面倒をみてやれなくて」
「いえ……それは……どこに、なるんですか。次は」
「それは――」
「姫松高校だ」
「姫松――大阪、ですか」
もしかしたら、転勤先が近くの高校で。
いつでも会いに行けるかもしれない――そんな淡い期待は、直ぐに否定された。
「本当に、すまない」
「いえ……先生のお陰で、私たちは更に強くなりましたから」
姫松高校――全国でもトップクラスの実力校。相手にとって不足はない。
必ず打ち破る。
どちらがこの人の教え子として相応しいのか、見せ付けやる。
「全国で、期待して待っていて下さい。先生に教わったことは無駄にしませんから」
「ああ……楽しみに、してるよ」
◆
「お父さんが亡くなってから大分経ったけど……」
「オカンが連れて来た新しいオトンが年下だった……」
「なんか……代行、最近機嫌良くない?」
「あー……」
ヒソヒソ声で会話をする姫松高校麻雀部のレギュラーメンバー。
話題の中心は、前の監督に代わって自分たちのチームの指導を受け持つ赤坂郁乃について。
悪い人ではないが良い人とも言い難い、ぶっちゃけて言えばよく分からなくて面倒くさい人、というのがチームメンバーの郁乃に対しての共通認識だった。
「なんか……最近はお洒落し始めたらしいし」
「あー……」
絹恵の言葉を受けて、恭子はパソコンのメールをチェックする郁乃に目を向ける。
「~♪」
鼻歌混じりだ。そして、いつも緩い表情を浮かべているので分かりにくいが、何となく嬉しそうな雰囲気を感じる。
「うーむ……アレは、男絡みと見た!」
「ええっ!?」
◆
「あ、あのー……」
「ん~? なあに~?」
「何か、良いことでもあったんですか?」
今回の対局で最下位になった人が代行に話を聞いてくる、という条件で見事に最下位を踏み抜いた漫が、恐る恐る郁乃に尋ねる。
「あら、分かる~?」
「は、はい」
「ふふ、それな――」
「とーっても、良いことがあるんよ~」
「は、はぁ」
「勿論、みんなにも良いことだから……期待しててな?」
と、ノートパソコンを畳むと、郁乃はバッグに荷物を片付けて立つ。
「代行?」
「ごめんな~、急用出来ちゃったから。今日は、自主練習で頼むわ」
「そういうことでしたら」
「ふふふ……ずっと待っとったんよ、ダーリン♪」
◆
――それから、数日。
京太郎は、大阪に来ていた。
「えっと……スーパーが、そこで……あっちには公園があるのか」
引っ越しの片付けを終えて、前監督への挨拶を済ませた京太郎は、自分の生活圏内となる地域を探索していた。
私用でも仕事でも大阪を訪れたことは過去に何度かあるが、ここいらの土地勘は無い。
時間のある内に、どこに何が有るのかは覚えておきたかったのだが――
「あーっ! 危ない!!」
「へ?」
悲鳴に近い叫び声。
振り向くと、何やら白いボールのようなものが猛スピードで迫り――
「――以後、気をつけるように。一歩間違えてたら大変なことになったんだからな」
「はい……すみません……」
濡れたタオルで赤く腫れた腕を冷やし、京太郎は公園のベンチに座って、一人の少女に説教をしていた。
しょげ返っているこの少女の話によると、散歩のつもりで公園を訪れたところ、サッカーボールが落ちているのを発見して。
元サッカー部の血が騒ぎ、公園内の木をゴールに見立ててシュートしたところ。
ボールが思ったより古かったということと、久しぶりの動きで体がイメージ通りに動かなかったことが重なって。
ボールの軌道が予想よりも逸れて、目標の木から外れて、道を歩く自分に当たってしまった、とのこと。
「まずは周りをよく見ること。体がうずくのは
「――以後、気をつけるように。一歩間違えてたら大変なことになったんだからな」
「はい……すみません……」
濡れたタオルで赤く腫れた腕を冷やし、京太郎は公園のベンチに座って、一人の少女に説教をしていた。
しょげ返っているこの少女の話によると、散歩のつもりで公園を訪れたところ、サッカーボールが落ちているのを発見して。
元サッカー部の血が騒ぎ、公園内の木をゴールに見立ててシュートしたところ。
ボールが思ったより古かったということと、久しぶりの動きで体がイメージ通りに動かなかったことが重なって。
ボールの軌道が予想よりも逸れて、目標の木から外れて、道を歩く自分に当たってしまった、とのこと。
「まずは周りをよく見ること。俺も元運動部だから偶に体がうずくのは分かるけど、それで誰かが怪我したら洒落にならん」
「はい……仰る通りです……」
ふう、と京太郎は溜息を吐く。
俺も中学時代にこんな過去があったなぁ、と京太郎は懐かしい気分になった。
「お、絹ー!! オカンがそろそろご飯って、呼んどるでー!!」
「お……?」
「兄ちゃん、どっかで見たよーな」
「ちょ、お姉ちゃん、失礼だから――」
突如として乱入し、自分の顔をまじまじと見詰めてくる少女。
しかし、当然のことながら、京太郎にはこの少女と出会った覚えはない。
『お姉ちゃん』という言葉からして、この少女はサッカー少女の姉なのだろうが。
「いや、人違いじゃないか?」
「んー、そっか……?」
「ああ……すいませんすいません……」
もしかしたら現役時代の自分のファンなのかもしれないが、わざわざそれを自分から言う気にはならない。
相手が知らないなら自分も知らない、京太郎はそういうことにした。
「……それじゃあ俺はここで」
「あ、せめてお詫びを!」
「いや、いいよ。次から気を付けてくれれば」
「おー、またな。兄ちゃん」
ふと空を見上げれば、雲行きも怪しい。
雨が降り出す前に、さっさとここを去るのがお互いの為になるだろう。
京太郎は二人に背を向けて、公園を後に――
「あ……あーっ!!?」
「っ!?」
足が出口に差し掛かったところで、公園内に響く無遠慮な大声。
驚いて振り向く前に、先程の少女が回り込んで来た。
先程までの怪訝な瞳が驚きの色に染まっている。
「や、やっぱり! 絹! ペン、サインペン持ってない!?」
「あるわけないやん、そんなの……どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるかい! だってこの人、この人は――!」
「……」
……大阪って、こんなに忙しい場所だったか?
京太郎は、小さく溜息を吐いた。
京太郎は奥ゆかしいな
乱入してきた少女の名前が愛宕洋榎、現役時代の自分のファンであるらしい。
サッカー少女の名前が愛宕絹恵、洋榎の妹らしい。
そして二人とも、姫松高校の麻雀部のレギュラーメンバーだとのこと。
「ああもう! こんなことならもっと洒落た格好を――」
「いや、そんな服そんなんばっかやん、お姉ちゃん」
「うっさい!」
一線を退いてから大分経ったが、こんな場所で思わぬ出会いをするとは。
京太郎は嬉しくなって頬を緩めた――が。
「……それは嬉しいんだけど、そろそろ雨降ってきそうだから」
「あー……? ホントだ」
「サインは、また。今度会った時にでも。それじゃ」
「あ、はい」
「また今度ー」
洋榎の反応を見るに、自分が彼女たちの指導を受け持つというのは、サプライズにしておいた方が面白そうだ。
京太郎は二人に手を振って、今度こそ公園を後にした。
◆
その日の夜。
京太郎の予想通り、あの後に降り始めた雨はどんどん勢いを増して、太陽が完全に沈みきった今でもアパートの窓を雨が強く叩く音がする。
――ピンポーン。
「……こんな時間に?」
宅配便ということはないだろう。
お隣さんの挨拶にしても、少し不自然に感じる。
京太郎は怪訝に感じながらも、玄関の扉を開けて――
「えへへ、来ちゃった~♪」
心臓が、跳ねる音がした。
――そんなとこで寝てると、風邪ひいてまうよー?
昔に、自分を支えてくれて。
――ねぇ、どうして?
昔に、自分が傷付けて。
――そっか。行っちゃうのね
昔に、別れた人。
その人が。
「とりあえず、中に入れて欲しいな~、なんて」
今、自分の前に、立っていた。
雨でずぶ濡れの彼女を招き入れ、扉を閉める。
「あー……部屋は変わっても、雰囲気は変わらんなぁ。やっぱり」
赤坂郁乃。昔に付き合っていた彼女。
分かっていた筈だ。姫松高校の麻雀部の指導を請け負うということは、彼女と再会するということに。
……まさか、こんなにも早いとは、思わなかったけど。
「……とりあえず、風呂いれますから。待ってて下さい」
「あら、京ちゃん大胆~」
「は?」
「シャワー浴びて待ってろ、だなんて」
「……風邪は引きそうにないですね、その様子だと」
「あーん、いけず」
それに。
「……そういう関係じゃあ、ないでしょう。俺たちは」
「……」
彼女が、肩に寄りかかってくる。
「……郁乃さん?」
「そんなこと、言わんといて」
「……」
突き放せばいいのに。
京太郎は、郁乃を拒めなかった。
「寒いねん、京ちゃん」
「だから、シャワーを」
「温めて」
「……」
「温めて、欲しいんよ。今晩だけでもいいから」
「あの時みたいに」
「……今晩、だけだぞ」
「……ふふ」
彼女を抱き寄せる。
「明日からは、俺は短期の指導員で、あなたは監督。それ以上でも、それ以下でもない」
「あはっ」
雨の匂いに混じって、ほのかに甘い匂いがした。
「――それで、良いですね?」
「……うん。ええよ、それで」
「今晩は、それで。ね」
彼女の体は、冷たかった。
驚く姫松のレギュラーメンバーたちの表情。
その中でも特に、口をあんぐりと開けた洋榎の顔が印象的だった。
「今日からこの人にもみんなの指導やってもらうから~」
隣の郁乃と視線を合わせる。
その中に、特別な感情は含まれていない。
「須賀京太郎です。今日から皆さんの指導を手伝うことになりました。よろしくな」
「おぉー……」
生徒たちから、驚きと喜びの声があがる。
その反応に大小の差はあれど、概ね好意的に受け入れられたようだ。
◆
「それじゃあ、今日は京ちゃんにはこの子を特に見てもらうから~」
郁乃が指名した子は――
――強い。
鋭い勘と打ち回し、そして何よりも対局相手のことをよく見ている。
牌を引き寄せるツキの良さを活かす技術もある。
攻撃面でも防御面でも抜群の安定性を誇る。
高校生でここまで打てれば、下手なプロよりも強いだろう。
それが、実際に麻雀を通してみての京太郎の洋榎に対する印象だった。
「は、はひっ! ありがとございます!!」
というようなことをさらっと伝えると、洋榎が真っ赤な顔でカタカタと震えだした。
……やっぱり、もうちょっと落ち着きを持った方が良いかもしれない。
全国という大舞台を前にしても堂々としたスタイルを崩さなかった姉が。
それどころか調子に乗り過ぎて対戦相手に咎められたりもする姉が。
「さ、さすが須賀プロ!」
唐揚げを前にした訳でもないのに、キラキラと目を輝かせているではないか。
真っ赤な顔はまるでトマトのようである。
いや、憧れのプロが目の前にいて、更に指導までして貰えるのだから、その気持ちも分からないでもないが。
それでも調子を崩すことなくいつもの自分の麻雀が打てているのは、流石としか言いようがない。
「あんなお姉ちゃん初めて見るわ……」
「せやねぇ」
「あ、監督」
誰に言うでもなく呟くと、いつの間にかに隣にいた郁乃に返事をされた。
「洋榎ちゃんは十分強いから、京ちゃんは必要なかったかも~」
「はぁ……」
郁乃が二人の方へと歩いていく。
京太郎に夢中になっている洋榎は郁乃には気付いていない。
「……ま、何はともあれお姉ちゃんは強いっちゅーことやな」
今度は自分も指導とかして貰えるのかな?
絹恵は二人から視線を外すと、自分の練習を再会した。
「相変わらず、色男やね。洋榎ちゃん、メロメロやったし」
「忘れたとは言わせへんよ? 女の子二人も泣かせといて」
「……ん。まぁ、ええけどな?」
「これから、始まるんやし」
「さ、サインして下さい!」
ペンを渡されてデコを差し出された京太郎は、何と言って良いのか分からない。
上重漫。麻雀の実力では姫松レギュラーメンバーの中では皆に少し劣るものの、時折見せる爆発力には目を見張るものがある。
京太郎の彼女に対する現段階での印象はその程度のもので、洋榎のように自分の熱烈なファンではないと思っていたのだが。
「もしかして、バツゲーム的な何か?」
「!」
どうやら図星だったようだ。
「んん……まぁ、そうだなぁ」
京太郎は受け取ったペンをクルクルと回して考え込む。
「じゃ、こうしよう」
「へ?」
メモ帳のページを一枚切り取り、受け取ったペンを使ってサラサラと記入する。
内容は彼女へのアドバイスと、簡単な練習メニューだ。
最後に自分の名前を忘れずに書き終えると、テープを使って漫のデコにぺたりと貼り付ける。
「これもサインの一つってことで」
「あ……ありがとうございます!」
◆
「京ちゃんも手が早いなぁ」
「はい?」
「聞いたで? 女の子の体に自分の名前を刻み付けたって~」
「ぶっ!?」
完全に間違っている。
が、職員室の至る所から視線を感じてヒソヒソ声が聞こえてくる。
誤解を解くのは、少し面倒くさそうだ。
「須賀先生は……代行とは、どんな関係なんですか?」
「んー……」
恐る恐る、といった具合に恭子が訊ねてくる。
そのまま答えるなら、外部講師と監督という仕事上の関係だが――間違いなく、彼女が知りたいのはそういうことではないのだろう。
「……まぁ、昔の知り合いだよ。現役時代に色々あってさ」
「はぁ……」
「善野さんともあの人がきっかけで知り合ったし」
「……え? 監督と、知り合いなんですか?」
「ああ。興味があるなら――」
「是非とも! 是非ともお願いします!」
「お、おう」
皆に慕われていた善野前監督だが、恭子には特に慕われていたという。
ふとその話を思い出し、持ちかけてみたら凄い勢いで食いついてきた。
「まぁ、これは最初の頃の話なんだけど――」
「ゴクリ……」
子どものように瞳を輝かせる恭子に苦笑しながら、京太郎は話し始めた。
「また、よろしくお願いします!」
「それじゃあ、また明日な」
すっかり話し込んで、気が付けばもう互いに帰らなければならない時間となっていた。
恭子は特別聞き上手という訳ではなかったが、善野一美の名前が出る度に瞳を輝かせる姿は、話していて面白かった。
そして話を聞く恭子としても、自分の知らない監督の姿や大人同士での善野の話には強く興味を引かれた。
「……また、色々と聞きたいなぁ」
京太郎から聞く話は面白いし、指導も的確だ。
また、二人で話をしたい。
恭子は期待に胸を弾ませて、帰路についた。
絶対にメゲない!
『ふっふっふ! 今日という今日はギャフンと言わせたげるから!』
『新しい必殺技も覚えたんだからね』
『それにちゃんと決め台詞とか名前とかも考えたんだから!』
『首を洗って待っててね!』
全く、仕方のないやつだ。
ネト麻を通じて送られてきたメッセージに、京太郎は微笑ましい気持ちになって苦笑し――
「……」
「わっ」
気付いたら、すぐ側にいた洋榎にガン見されていた。
口もいつもの三角形ではなく、横一文字に閉じられている。
「……どうした?」
「センセ……今のは、誰や?」
「今のって……メッセの?」
コクリと無言で頷かれる。
「あぁ……ここに来る前にいたとこの教え子だよ」
「教え子……ウチらみたいな?」
「まぁ、そうなるかな」
「だ、だったら!」
「ん?」
「だったら、ウチにも!」
と、目の前に突き出される携帯。
画面にはプロフィールが表示されている。
「やった!」
ガッツポーズを取って浮かれる洋榎は放って置いたら小躍りしそうだ。
本当に落ち着きのない子だと、京太郎は再度苦笑した。
◆
――で。
『あの』
『なーに?』
『まぁまぁ、細かいことは気にせんといて?』
画面の向こう側に、彼女の緩い笑顔が見えた気がした。
『だれ』
『誰って。お前こそ誰や』
『出てってよ。あんた最近いつもいるけどココ私と先生の場所だから』
『ネットにそんなんあるかアホ』
『ムカつく』
『絡んできたのはそっちや。それに』
『先生は、お前のもんやない』
――さんがログアウトしました。
――さんがログアウトしました。
部活動が休みの日であるにも関わらず。
恭子は一人、部室の机に向かってシャーペンを動かしていた。
「ふぅ……」
「お疲れさん」
「あ、ありがとうございます」
今までに得たデータを自分なりにノートに整理して一息吐くと、京太郎がコーヒーを差し出してきた。
お礼を言って紙コップを受け取る。コーヒーの良い匂いがした。
「休日なのに人がいるから誰かと思ったよ」
「……まぁ、いつもやってるわけやないですけど。部室のが家より集中できますし、やれる時にやれることはやっておかんと」
「流石だな」
「いや、それ程でも」
照れ隠しに受け取った紙コップに口を付ける。
苦過ぎず甘過ぎず、程良い塩梅だった。
――良い人やなぁ、やっぱり。
末原恭子の京太郎に最初の対する印象は、「凄い人だけど良い人でもある」というもので。
「あの」代行がやけに推す人なので最初は不安に思ったものの、話してみれば案外普通の人だった。
善野監督の見舞いに行った時に聞いた話からも、悪い人じゃないことは伝わってきたし。
休日なのにも関わらず、こうして色々と面倒を見てくれる。
「本当にありがとうございます。休日なのに手伝ってもらっちゃって」
「いいって。俺も楽しんでやってるから」
――また、休日に来れば二人で会えるかな?
シャーペンを進めながらふと、そんなことを頭の隅で考えた。
それが何を意味するのかは、恭子自身にもまだよく分かっていない。
「あっ」
「あっ」
近所のスーパーにて。
特売シールが貼られた鶏肉のパックを手に取ろうとしたら、白い手が重なって。
反射的に横を見れば、すっかり見慣れた姫松のエースがポカンと口を開けていた。
京太郎は一つ咳払いをすると、手を引っ込める。
「どうぞ」
「え、センセもこれ買いに来たんとちゃいます?」
「まぁ、確かに唐揚げが食いたくなったから来た訳だけど。別にコンビニのでもいいからな」
「ぬー……それじゃ、遠慮なく」
京太郎に促されてパックを籠に入れる洋榎。
この鶏肉のパック以外には特に目ぼしいものもなかったので、帰ろうとした京太郎だが、
「あ、そや!」
「え?」
ガシッと、洋榎に手を力強く掴まれた。
「唐揚げがいいならウチに来ればいいんや! オカンの唐揚げは絶品やで!」
「い、いや……流石に――」
「いや、流石にそこまではね」
「ウチのオカンの唐揚げ食べたらそんなことも言えなくなりますって!」
大阪の押しの強さは何度か経験しているが、洋榎の手から伝わってくる力は今までの中でも特に強い。
京太郎が首を縦に振らない限りは、この指が離れることもないだろう。
「鶏肉如きにいつまでかけとんねん」
「あ、オカン!」
「あっ」
そうして京太郎が困っているところに現れる洋榎の母親。
愛宕雅枝、京太郎も何度か面識がある元プロ雀士。
鶏肉を買いに行かせたっきり戻ってこない洋榎をもどかしく感じて、鶏肉コーナーまで来たようであるが。
「ん? ああ、アンタか」
「どうも」
雅枝は京太郎の顔を見ると、納得したように頷いた。
「ウチのが世話になっとるらしいな。コイツ、家でもアンタのことばっかりやで。前までズボラにしてたこともしっかりやるようになったし」
「は、はぁ」
「この前なんかは、風呂上がりに――」
「オ、オカン!」
雅枝の言葉を遮り、洋榎が真っ赤な顔をして叫ぶ。
自分の恥ずかしい点を憧れの人の前で暴露されているのだから無理はない。
だが、雅枝は容赦しない。
「今現在、そんなことしてるヤツが今更何を恥ずかしがるっちゅーねん」
「え?……あっ!」
雅枝に指摘され、慌てて京太郎の手を離して後退りする洋榎。
「ハァ……すまんなぁ、ウチの洋榎がこんなんで。指導でも迷惑かけとらんか?」
「いえ、洋榎さんはとても素直ですし、指摘したことも100点以上の結果で返してくれますから」
「ほぉ?」
ニヤニヤと視線を向けてくる雅枝に、洋榎は頭を抱えて蹲る。
穴があったら入りたい、そんな顔を浮かべていた。
「……ん、そうだ。アンタ、今晩はウチで食べてくか?」
「え?」
「遠慮すんな、色々と聞きたいこともあるからな」
こうして京太郎は雅枝に強引に連れられて、愛宕家の食卓にお邪魔することになり。
洋榎の父親とも面識を持つようになるのだが、それはまた別の話である。
「相変わらず手が早いな~」
「ですから、そういった誤解を招くようなことは止めて下さいよ」
郁乃の皮肉めいた言葉。
幸いにも、この会話が聞こえるような範囲に人がいないとはいえ。
先日の職員室での会話のような、彼女の意図的に誤解を招くような言い回しは少し疲れる。
「そう? 洋榎ちゃんとか、京ちゃんにメロメロみたいだけど~」
「まぁ、彼女は現役時代にかなり応援してくれてたみたいですから」
「本当に、それだけなんかなぁ」
「……」
郁乃と長い付き合いの京太郎には、彼女の言わんとしていることが、理解できた。
「……あなたと俺は、監督と外部講師だ。それ以上でも以下でもないと、言った筈だ」
「……」
「ですから、辞めにしましょう。こんな話は――」
その言葉を遮るように。
郁乃が、京太郎の手を取った。
「なら」
「……」
「また、新しく始めればええんとちゃう?」
京太郎は、あの夜の出来事を拒むように。
そっと無言で、郁乃を突き放した。
「……止めましょう、こんな場所で」
郁乃は、何も言わない。
何も、言えない。
「……それに。今の俺に、あなたを受け入れることは、出来ません」
「……」
「受け入れたらそれでまた、何も出来なくなってしまう。あなたに甘えて、昔みたいに」
「……ええんよ、甘えてくれても」
「それは……駄目です。今の俺には、俺を待ってくれてる人たちがいるから」
「……ウチは、ずっと待ってたんよ。京ちゃんを」
「……」
「ずっと、ずっと」
「……時間を」
「……」
「時間を、下さい。直ぐには返事を返すことは出来ません」
「……だから。全国大会が終わって、俺に余裕が出来るまで」
「……」
「待っていて、くれませんか」
小さく口を開けて、郁乃が息を吐く。
「――」
チャイムの音に紛れて、声は届かなかったけれど。
京太郎には、郁乃の言葉が、間違いなく聞き取れた。
――私は、京ちゃんのお嫁さんだから。
須賀京太郎。
麻雀は弱くて、ちょっと三枚目なところもあるけれど。
私にとっては、誰よりも大好きで、誰よりも大切な人。
――はいはい、分かりましたよ。お姫様
困ったように笑って、頭を撫でてくれる人。
子どもみたいな扱いに、むっとすることはあるけれど。
大きな手の平が温かくて、何よりも気持ちが良かった。
――えいえんのあいを!
夢も現実でも、愛しいあなた。
――側にいますから、俺は
どんなに辛い時でも、手を取ってくれた人。
――ちかいます!
だから、これからも。
――指切りでも、しますか?
ずっとずっと、愛してる。
「すいません、待ちました?」
なんで?
「いや、今来たところだ」
「約束の30分前なのに、びっくりしましたよ」
どうして?
「ふふ、私にも待ちきれないことはあるのさ」
なんで、その人と、手を繋いでいるの?
「例えば、そう――こんな風に」
どうして、その人と、キスしてるの?
「っ! 不意打ち過ぎますよ……」
やめて。
「ああ、その顔を見れただけでも、早く来た甲斐はあったな」
やめて。
「……まさか、人前でこんなことするなんて」
やめて、やめて。
「お前が変えたのさ、私をな」
やめて、やめて、やめて、やめて。
「っ! もう、行きますよ!」
やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて。
「ふふ……そう照れるな。まだ始まったばかりだろう?」
やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて。
「ああもう……! 仕返しっす!」
やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて。
「っ!……やるじゃないか、お前も」
わたしを。
「ほら、行きますよ――!」
おいていかないで。
「――」
まってよ。
「――」
京、ちゃん。
「……」
どれだけ、ここに立っていたのかは分からないけれど。
この季節なのに、体はとても、冷たくて。
「……」
自分の体を抱いても、震えはちっとも、止まらなくて。
「……寒いよ。京ちゃん」
温めてくれる人は、側に、いなくて。
「ねぇ、京ちゃん」
「私は、どこに」
「帰ればいいの?」
返事は、返ってこなかった。
【ずっとずっと】
彼は、余計なものに纏わり付かれて疲れているだろうから。
少しだけ眠ってもらって、そのうちに、私が彼を誰の手も届かないところで守ってあげよう。
そう計画して、途中までは上手くいったのだけれど――
「おかーさん! 監禁場所ってどこがいいのかなー!?」
◆
「はい、あーん♪」
「あーん」
京太郎は、健夜と同棲している。
いや、同棲と呼ぶには余りに一方的な関係なのかもしれない。
「他の女のせいで変な物が入っているかもしれない」という理由で、食事は常に口移しで行われ。
「目を離したら危ない」という理由で、風呂も睡眠も、片時も健夜が側にいる。
自由はあるが、健夜が必ず側にいる。
ある意味で、監禁のようなことをされているわけだが――
「京太郎くん、お歳暮のメロン食べる?」
「あーっ! 入って来ないでよおかーさん!!」
――わりと、どうにでもなりそうな気がした。
――朝、目が覚めると、自分の胸板を枕代わりにして眠る小蒔の顔が目の前にあった。
「んん……」
まただ。
見慣れた光景ではあるが、いつまで経っても愛おしい。
初めこそ飛び起きる勢いで驚き、恥じらいを覚えたシチュエーションだったが。
今では落ち着いて、彼女のさらさらとした髪に指を通して、その感触を楽しめる。
……けれど、いつまでもこの感触を楽しんでいるわけにはいかない。
障子の間から零れる朝の日差しは、今が起床時間であることを告げている。
名残惜しいが、起こさなければならない。
「ほら、起きて下さいよ」
「んぁ……ん、あと五分……」
「起きる時間に五分もなにもありませんってば」
肩に手をかけて少し強めに揺さぶる。
遠慮はしない。生半可なことでは彼女は起きないし、早く彼女を起こさないと――
「あらあら、まったくもう。二人とも」
――どうやら、間に合わなかったらしい。
石戸霞。
普段はおっとりした雰囲気の女性で、ある特定部位の大きさから母性すら感じさせる。
いつもは冗談混じりで「母さん」なんて呼んだりして、彼女も乗って返してくれるのだけれど。
こういう時に、彼女が来ると。
「昨夜は……いえ、さっきまでもお楽しみでしたね?」
「えっと……」
「ん?……むぅ……京太郎さま、もっと……」
「あら」
そして、タイミングの悪い小蒔の寝言。
霞は障子を閉じると、一歩足を踏み出した。
「ふふふ……姫様の望みとあらば、私もお手伝いしなきゃね?」
「い、いや――」
するりと、衣擦れの音がする。
「それじゃあ、いただいちゃおうかしら」
舌舐めずりをして迫る霞の顔に今後の展開を予想して、京太郎は身を震わせた。
「ぐ……」
途中から『目覚めた』小蒔の相手もどうにか済ませ、散々に搾り取られながらもヨロヨロと朝の食卓へ向かう途中。
京太郎の経験から、この次に会う相手が何となく予想できた。
「おはよう、はっちゃん」
「はい、おはようですよー」
背後に感じた気配に振り向くと、京太郎の予想した通りに彼女が立っていた。
彼女の名前は薄墨初美。京太郎がこの屋敷に来た時から、色々と面倒を見てくれた先輩である。
そして――
「大分、大きくなりましたね」
――京太郎の、始めての相手でもある。
「ふふ……きっと、京太郎に似て元気に育ちますよー」
「いやー、はっちゃんにそっくりな可愛らしい子になると思うな」
初美のお腹に手を当てる。
何となく、命の鼓動のようなものが感じ取れた気がした。
「にしても、発覚した時はただただビックリしたけど……こうしてみると、本当に愛おしいですね」
「ふふ……お母さんの気持ちが、分かってきましたよー」
和やかな朝の光景。
この屋敷に住む者なら、見慣れた光景。
であるならば、この後に起こることも勿論、
「ぺろっ」
「ひゃっ!?」
誰もが、想像できる。
ほのぼのしていた京太郎の首筋を文字通り「舐めた」彼女の名前は、滝見春。
ここでは唯一の京太郎と同じ年で、同じクラスだったということもあって一番一緒にいる時間が長い。
無愛想で無口だが意外と優しいところがあり、しかし考えが読み取りにくい。
そんな少女なのだが。
「はっちゃん、借りてくから」
「どうぞですよー」
元々体力を消耗していた京太郎は、今の春の一撃で腰が抜けてしまい。
べたりと座り込んだところを、ズルズルと春の部屋へと引きずられていった。
「お、お手柔らかには……」
「じゅるり」
「……無理、か」
この後の展開は、京太郎にも容易に想像できた。
春との行為を終えて、風呂場で身を清める行為を手伝う彼女の名前は狩宿巴。
汗や様々なもので汚れた京太郎の体を、後ろから丁寧に洗い流す。
「……ごめんなさい。私のせいで」
彼女の指が、そっと背中のある箇所に触れる。
大きな傷跡。
彼女が京太郎に刻み付けた、消えない跡。
「私が……」
震える巴の体を、そっと抱き寄せる。
安心させる為に背中をぽんぽんと、軽く叩いてやる。
きっと彼女には、言葉で言うよりも、こうして抱き寄せた方が分かってもらえるから。
残された傷は、薄くなっても、きっといつまでも消えることはない。
女が流した涙を見た。
男が流した血を見た。
今でも夜に、傷跡が痛むこともある。
それでも。
「俺も、あなたも。ここにいる」
小蒔がいて、霞がいて、初美がいて、春がいて、巴がいて。
そして来年には、もっと笑顔が増えて。
「やったことは消せないけど、これから作っていくことは出来るから」
体も心も痛んでも。
こうして、前を向いて生きていける。
これから辛いことがあるかもしれない。
些細なことに傷付くかもしれない。
それでも。
「あなたが、あなたたちが、いてくれるから」
きっと、いつまでも。
歩いて、進んで行ける。
「――あなたが、側にいてくれるのならば」
【IFEND 傷んだ過去と、今と、あなたと】
最終更新:2026年01月05日 19:30