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チラチラと、こちらを見てくる豊音の視線に気が付かない京太郎ではない。

何か言いたいことがあるけれど、引っかかるものがあって言い出せない。

分かりやすく、そんな顔をしている。


「姉帯さん、何かある?」

「え!? いや、その……」


両手で口元を隠して、目が左右に泳ぐ豊音。

やがてゴクリと息を飲むと、そっと口を開いた。


「わ、私も、その……羨ましくて、エイスリンさんが」


直後、両手で真っ赤っかになった顔を両手で隠して伏せる。

『きゃーっ!! 言っちゃったよーっ!!』という声が聞こえた気がした。


「えっと……コレで、いいか?」

「あー……」


ちょうどいい具合に頭の位置が下がっていたので、エイスリンと同じようにポンポンと頭を撫でてやる。

蕩けたような、心地良さげな声が耳に響いた。


「私、もう頭洗えないよー……」

「いや、それは汚ぇよ」


冷静に、京太郎は突っ込んだ。





「ふあー……」


テレビで見た憧れの人は、直接出会って話しても、その印象が変わることはなくて。

こうして頭を撫でて貰えると、夢のようにうっとりした心地になれる。

人生で初めての経験に、豊音の心は蕩けそうになっていた。

そして。


――でも、これって。

――エイスリンさんも、同じだったんだよね?


生まれて初めて、『独り占めをしたい』という気持ちが、胸の中に浮かび上がった。


――私は、京太郎さんのことはずっと前に知っていたのに。

――どうして、エイスリンさんも、同じことをしてもらえたの?


「あぁ……」


――私だから?

――私も、エイスリンさんみたいに可愛かったら、良かったの?

――もしも、エイスリンさんがいなかったら?


「……しちゃおうかなぁ」


声に出した言葉は、京太郎にも、エイスリンにも、そして豊音自身の耳にも届かず、形にならずに消えていった。









――だるい、なぁ。


こんなに胸がざわざわするのに。

こんなに指が迷うのに。

いつもと変わらない筈なのに。

どうすればいいのか、わからなくて。



「……ダルい」



きっと、原因を取り除かない限りは、この胸のざわめきも消えないだろう。

けど、その理由がわからないし、何よりも――


「本当に……面倒くさい」

胸がざわめく理由が解った時が、自分の感情を自覚した時が楽しみだ



「最近、みんなの様子がおかしいような……」


豊音は言うまでもない。

エイスリンは初めての全国大会に向けてソワソワしている、ように見えてどこかがおかしい。

胡桃はよく頭を抱えてゴロゴロしている。

そして、シロはいつも通り――ではない。

ダルいダルいと連呼する様は一見すると普段通りに思えるが、長い付き合いの塞には、瞳の奥に何かを抱えていることが分かる。


「でも、なぁ……」


全て、京太郎が来てからのこと。

しかし、あの人は悪い人ではない。それどころか好感が持てる人だ。

宮守という無名校が相手であるにも関わらず真摯に一生懸命に、塞たちに向かってくれる。


もし彼が、私よりも年下だったら――


「……って、そうじゃないでしょ」


一人、自分の思考にツッコミを入れる。

最近、もしも京太郎が自分の後輩だったら――と、考えることがある。

あり得ない。塞と京太郎が出会ったのは最近のことで、昔からの付き合いがあるわけでもないのに。


「はぁ……」


おかしいのは皆だけではなく、塞自身もだと自覚しているからこそ、モヤモヤは大きい。



「どうかした?」

「あ、先生」




――あなた、私たちに何かしましたか?


「いや、ちょっと最近寝不足で……」


何てことは、勿論言える筈もなく。

本当のことではないが、嘘でもない答えを返す。

勉強であったり大会に向けての緊張であったり、皆のことであったり――様々な要因が重なって、少し睡眠が足りていないのも事実だ。


「そうか、気をつけてな。肌にも悪いし」

「はい」


……やっぱり、そんなことはないよね。

こうして話してみても、彼が何か悪いことをするようには感じない。



「なのに……」


胸のモヤモヤは、また少しだけ、大きくなった。

モノクル越しに見る別の世界線の風景ってスゴイ中二っぽい



――これくらい、私にだって出来るんだから!

「この本だろ?」


――そりゃ去年の服だって着れるけど、流行りとかあるんだから!

「鹿倉さん、結構お洒落なんだな」


――これならきっと、安手で抑えられる筈

「手堅いプレイングだね。好きだよ、そういうの」


――好きだよ、そういうの

――好きだよ

――好き



「うあー……」


何をしても、より深みにハマっていく。


バカみたい。

だって、こんなの。

こんなの、自分には無縁だと思っていたのに。


「おかしいでしょ、こんなの……」


この感情の名前は察しが付く。

否定したいけれど、そういうわけにもいかない。

だってホラ、ちょっと先生の方を見ると――




「な、名前で呼んで欲しいなーて……なんて」


――豊音が、先生に向かって。

鏡で見る自分と同じような表情をして、話しかけている。


「……」


すっと、頬の熱が覚めていくのを感じる。

同時に、ささくれ立つ自分の心も。


「……公平じゃないよ、こんなの」


自分よりずっと、先生と近い目線で話している。

だと言うのに、豊音はそれが不満らしい。


「……卑怯」


口にしても、どうしようもない。

誰にも変えられないバカみたいなこと。

理屈でそう割り切れたら――きっと、こんなに、悩まないのに。


胡桃は無意識に、手の平に爪を食い込ませた。










「一月後に龍門渕グループのパーティーがあるのですが――是非とも京太郎くんを御招待したいと、透華お嬢様が仰っています」


京太郎が夏休みの企画を練っている時に訪れて来たハギヨシ曰く、龍門渕グループ主催のパーティーに招待して貰えることになったらしい。

この夏に何か特別な体験をしてみたいと思っていた京太郎にとってはまさに渡りに船であり、頷く意外の選択肢はない。


「それでは――参加なさるということで、よろしいですね?」


やけに強く念を押してくるハギヨシに怪訝に思いながらも、京太郎は再び頷いた。


「……わかりました。それではまず、こちらを」


直後、ドサリと目の前に置かれる分厚い本の数々。

京太郎は呆気に取られて言葉がでない。

あんぐりと口を開けたままの京太郎に、ハギヨシはさも当然と言わんばかりに。


「客人の立場とは言え、格式ある場所ですから。最低限のマナーは、身に付けていただきます」

「ご心配無く――私が、誠心誠意ご指導致しますので」



地獄の一月が、始まった。



そして、パーティー当日。

シャンデリア、ワイングラス、テーブルクロス、壁に掛けられた絵画。

どれ一つとっても煌めいており、そして会場内で見かける他の参加者たちも、誰もが一度は見たことのある著名人ばかり。

一般人なら間違いなく萎縮する光景。


「本日は、ようこそおいでくださいました」

「こちらこそ、本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」


だが、オーダーメイドの礼服に身を包んだ京太郎は、気品すら漂わせて透華に返礼する。

ハギヨシの指導はそのままの意味でのスパルタ指導。

一般的なマナーは当然。立ち振る舞いについても徹底的に叩き込まれた。

しかし、経営学や帝王学、挙げ句の果てには格闘術まで学ばされるのはいくらなんでもおかしいと抗議した京太郎だが――


「京太郎様は、透華様に恥をかかせるおつもりですか?」


ハギヨシの感情のない眼差しを前にしては、何も言うことはできなかった。

とにかく、こうして京太郎は外側からも内側からもこの場に相応しい人間として作り変えられた。

元の素材が良かったこともあり、今では貴族と名乗っても通じる風格を身に付けている。


「ほう、君が透華の言っていた」

「お父様」


透華と話をしていると、有名人が集まる会場の中で一際目立つオーラを放つ人物が声を掛けて来た。

お父様と呼ばれたその男性は、京太郎を見ると、まるで品定めをするように目を細める。


「幾つか、君に聞きたいことがある」


そのまま、幾つか質問をされる。

龍門渕についてどう見るか、この先の日本経済についてはどうか、透華についてはどう思っているのか。

個人的なことも含めて様々な分野の質問を繰り出されるが、ハギヨシの特訓の成果により、全て淀みなく答えることが出来た。

やがて問答を終えると、透華の父は満足したように腕を組んで頷いた。


「どうやら、私の娘の目に狂いはなかったようだな」

「それでは!」

「ああ、認めよう――お前と、京太郎くんの婚約を」


どういうことか問いかける前に、透華に唇を奪われる。

心は酷く動転していたが、身体は当然のように、透華を強く抱き締めていた。


「……」


その様子を、ハギヨシは穏やかな微笑みを浮かべて見守っていた。




【注文の多いレストラン】










もう少しだけ、彼のことを知れば。

この胸のざわめきも、面倒くさいという思いもなくなるかもしれない。

そう思い立ち、最も彼に詳しいであろう友人に京太郎のことを尋ねたシロだが――


「うん! 京太郎さんはね! すっごい人なんだよー!! 昔は無名校の清澄ってとこから全国までいってね! 」

「あの小鍛治プロとも――」

「現役時代の健康の秘訣は――」

「ペットはなんと珍しいカピバラで――」


――聞いてない。誰もそこまで聞いてない。

このままでは日が暮れるどころか、朝日が登っても無限ループで話を聞かされることかになるだろう。




要領を得ないと感じたシロは、彼女から彼に感する資料を幾つか貸してもらうことにした。

雑誌の切り抜きや高校時代のインタビュー、プロ雀士カードの余りなど。

少しでいいと言ったのに、目の前に置かれているのは膨大な量の彼に関する資料。


「ダル……」

「お、なんか懐かしいのがあるな」


どれから手を付けたものかと迷っていると、ちょうど当の本人が姿を現した。


「これ、豊音のだから」

「分かってるよ。こんなに色々集めてるのはあの子くらいだろう」

「……」


何となく、コレを自分の私物だと思われるのは恥ずかしいと感じたシロだが。

さらっと返された答えも、面白くないものだった。



「……知りたいから。私も」

「え?」


この場にいない豊音に対して対抗心を燃やしても仕方が無い。それは分かっている。

意味のないこと、迷うまでもないこと。

十分に理解しているのに、口から出たのは正反対の言葉。


「……何でも、ないです」


ガサガサと資料を掻き集めて、席を立つ。

自分らしくもないと分かってはいたが、止められなかった。


「……少し、お小水に」

「もうちょっと恥じらい持ってくれ。頼むから」


頬に若干の熱を感じるが、京太郎には気付かれていないようだ。

シロはその言葉通り、部室を出てトイレへと向かった。






空いた窓からの微風が、少し古びた雑誌のページを捲る。

――熱■■覚!? 相■はあの、■■■■――

ズタズタに引き裂かれ、小さな穴が虫食いのように広がっているそのページは、誰の目にも止まることはなかった。









「ア」


ある日の休日。

京太郎が気分転換にデパートを歩いていると、教え子の1人とばったり鉢合わせした。


「コンニチハ!」

「こんにちは。今日は一人で?」

「ミンナデ、ナツフクヲ!」

「成る程」


どうやらエイスリンの他にも、麻雀部の部員がこのデパートに来ているらしい。

軽く辺りを見渡すと――部員の姿は見つからなかったが、良いものが目に入った。


「エイスリンさん」

「?」


ちょいちょいと手招きしてやると、小首を傾げながら歩いて来る。

トコトコと無警戒に歩いてきたので、手に持ったものをスッポリと彼女の頭に被せることができた。


「うん、やっぱりよく似合う」

「コレ……」


麦藁帽子。夏の風物詩の一つ。

素朴なデザインが、エイスリンによく似合いそうだと感じたのだが、それは正しかったようだ。

店内に設置してある鏡の前に立ち、ツバの両端を手で抑えて被り心地を確認するエイスリン。


「オニアイ?」

「うん、お似合い。よく似合ってる」

「ジャア――」



「マタ、センセイイロニ、ナリマシタ!」

「うん。その言い方はちょっと間違ってるからな」

「?」

「いや、首傾げないでくれな」


確かに指導や日常を通して様々な知識を与えてはいるが、エイスリンの言い方では語弊が生まれる。

エイスリンの真っ直ぐな瞳の眩しさに、どことなく居心地が悪くなる京太郎であった。


「ドンドン、センセイガ、ハイッテキマス!」

「いや、もっと駄目だからそれ」


これは近いうち、特別日本語講座でも開く必要があるかもしれない。


「ワタシノナカ、センセイガイッパイ!」

「もうわざとだろ!?」


京太郎は周囲の一目がないことに、ほっと一息ついた。





真っ白な画面に、インクを垂らすみたいに。

最初はほんの一滴だったものが、どんどん色の種類も増えていって。


「センセイイロニ、ナリマシタ!」




多彩な色が、私の心の中に先生を描く。

麻雀を教えてくれる先生。

頭を撫でてくれる先生。


「ドンドン、センセイガ、ハイッテキマス!」



私の見た先生。私の見たい先生。私を見て欲しい先生。

でも、足りない。まだまだ余白はたくさんある。

だから、もっと。


「ワタシノナカ、センセイガイッパイ!」


私の中を、先生で満たしてほしい。











エイスリンと別れてデパートの中をぶらぶらしていると、店内の広告をじっと眺めている豊音を見付けた。

画面に映されているのは、サラサラの金髪を自慢気に見せ付ける白人の女優が出演しているシャンプーのCM。

食い入るように画面を見詰めている豊音はちっともこちらに気付きそうにない。


「私も……」

「髪、染めたいのか?」

「わっ!?」


京太郎から話しかけると、文字通り飛び上がって驚く豊音。

長い髪がばさりと広がり、いい匂いがした。


「先生……」

「さっき、エイスリンにも会ったよ」

「エイスリンさんに……」


豊音が顔を伏せる。

長い髪が垂れ下がり、影となって表情が隠れる。


「……先生は」

「ん?」



「先生は、エイスリンさんみたいな子の方が、好きなの?」





「誰と比べて好きなのかはわからないけど、目の前の魅力的な女の子の前で他の娘のことを語るつもりはないよ」


キリッ

歯の浮くような台詞を、毅然とした態度で堂々と告げてみせる。

彼女には彼女なりの魅力があり、何やら悩んでいるようだったので、豊音はそのままでいいという意味での言葉なのだが。


「魅力的……私が……?」


当の本人は目をパチパチと瞬き、呆気にとられた表情を浮かべている。

ツッコミを期待していた京太郎は少し恥ずかしくなり、咳払いをする。


「ん、ゴホン……まぁ、豊音は豊音の魅力があるし。エイスリンさんにはエイスリンさんの魅力があるから、どっちの方がってことはないよ」

「……」

「それに――豊音は金髪より黒い方が似合うと思う。折角、そんなに綺麗なんだし」

「……ホント?」

「ホント。俺はその女優さんより豊音の髪の方が好きだな」

「そ、そっかー……」


俯いて顔を伏せる豊音だが、今度はその表情がハッキリと分かった。


「そ、それじゃあ。またな」

「は、はい……」


京太郎は豊音とも別れて、デパートの美容コーナーを後にした。






「誰と比べて好きなのかはわからないけど、目の前の魅力的な女の子の前で他の娘のことを語るつもりはないよ」

「……」

「誰と比べて好きなのかはわからないけど、目の前の魅力的な女の子の前で他の娘のことを語るつもりはないよ」

「……」

「誰と比べて好きなのかはわからないけど――」


「堪忍してつかぁさい……」








「ダルい……」


その言葉のままなら、いつもの彼女となんら変わりない。

シロと付き合いの短い京太郎でも、彼女の口からこの単語を聞いた回数は数え切れない。

ただいつもと違うのは、シロが京太郎に寄り掛かっていること。

恋人に、甘えるように。


「小瀬川さん?」

「シロでいい……」


迷いもなく、京太郎を見上げる瞳。

その奥にある感情は――


「シロ、先生に何してんの」


呆然とした様子で部室に入ってきたのは部長の塞。

一見すると甘える恋人のように見える二人だが、シロと京太郎がそういった関係でないことは理解している。

そして京太郎の人柄もある程度は理解しているので、アプローチを仕掛けたのがシロであることも。


「……」


だが、シロは塞の問いには答えず。

無表情に塞を一瞥すると直ぐに京太郎に視線を戻し、静かに手を――






頬へと伸ばされた手を止めたのは、京太郎ではなく塞だった。


「何してるの」


その問いかけは、シロに対するものか。

それとも、自分に対するものか。

塞自身、突発的に湧き上がる衝動によって突き動かされたので、よく分からない。


「……」


その塞の顔を見て。

シロはようやく、今までの胸のざわめきの正体を、理解した。


「そうか。そういうこと」


……いや。

本当は、ずっと前から――それこそ、京太郎と出会った日から。

理解していたのだ。この気持ちの理由も、名前も。


「……ダルいか、そりゃ」


たが、こうして今までの自分のように、理由も分からずに自ら苦しめられている塞の姿は――


「羨ましい?」

「ふざけないで!」



――何とも、滑稽だった。








「先生?」

――先輩?


「京太郎さん」

――京ちゃん



彼女たちの眼差しは見覚えがある。

彼女たちの声音は聞き覚えがある。


「……だけど」


そんな筈は、ない。

もしそうだとしても、今の自分には答えられない。


――待っとったんよ、ずっと


彼女たちより先に、答えを返さなきゃいけない人がいるから。





「落ち着いたら、また私のところにこないかい?」


「現役復帰をする気があるならその面倒も見てあげるよ、色々とね」


「……まぁ、今すぐに答える必要はないさ」



「……さて」

「短い間だったけど、あの子たちにも良い経験になっただろう」

「お疲れ様」


「次は、どこに行くんだっけか?」










「最初は……本当に許さないって、思ったの」

「私にとって京ちゃんは、とても大切な人で――なのに、玄ちゃんは、私から京ちゃんを取ってっちゃったから」



「だけど……やっぱり駄目」

「だって……京ちゃんも、玄ちゃんも」

「大好きなんだもん。二人とも」


「だからね、良いこと思い付いたの」

「ずっとずっと、あったかくなれる方法」

「また他の誰かに、京ちゃんを取られなくなる方法」


「ここで」

「三人で」


――いっしょに、あったまろ?









――許さない、絶対に


玄は、姉が誰かを本気で憎む表情を、生まれて初めて見た。

目を逸らしても、怯えて涙を流しても、その表情が変わることはない。

そして――その対象が、自分であることも。





「京ちゃん」



「あたためて、ほしいな」


「大丈夫だよ」


「玄ちゃんは、いないから」


「だから、もっと」




「こっちにきて、私に触れて?」











「あ、部長」

「すいません、俺なんかの見舞いの為に貴重な時間を……」

「はは……ありがとうございます、菫さん」


「この右目、ですか……」

「いえ、それは違います」

「そういうヤツらは、いなくなりましたから。菫さんたちのお陰で」

「はい、自分で。やりました」


「……菫さんたちの争いの原因は、俺にあるって、気付いたんです。やっと」

「だから最初は、俺さえいなければ――って思ったんですけど」


「……ごめんなさい」


「……最初は先輩たちが、俺のことを好きだって。信じられなくて」

「だけど、言葉で示されて、菫さんたちにあんなことをさせて――やっと、分かったんです」


「俺なんかを好きでいてくれる人に、どうやって答えるか、悩んで悩んで悩んで」



「――淡が、俺の目を好きだって言ってくれたのを思い出して」



「ああ! 勿論、他の先輩たちも、部長のことも考えてましたよ!」

「部長、俺の手を綺麗って言ってくれましたよね。こんな手を」

「ただ、目が一番楽そうだし。他のところを先にやると後が大変そうだなって思ったんです」



「だけど、中々難しくて――はい。最初にやってる時に、そのまま寝ちゃいました」


「すいません、ちょっと恥ずかしくて……」


「……菫さん?」


「顔色悪いですけど、ナースコールとかします?」


「あの……菫、さん?」




【恩返し】






須賀京太郎と池田華菜――もとい、須賀華菜は仲睦まじい夫婦である。

二人の出会いは高校の麻雀部。

当時のキャプテン、福路美穂子に一目惚れして入部してきた京太郎に対し、華菜が釘を刺してきたのが始まりだ。


「私の目が黒いうちはキャプテンに変なことはさせないし!」


一方的な言い掛かり。

最初は尊敬するキャプテンに色目を向けるヤツなど許さない、というような理由で京太郎を監視する華菜だったが。


「……なんか、意外といいヤツ?」


気が付けば、部内で最も京太郎と触れ合う機会が多くなっていた。

そうして互いに誤解と偏見が抜けてしまえば、根っ子は面倒見がいいもの同士、打ち解けるのも早い。


「京太郎! 一緒に帰るかー!!」


華菜の妹たちも京太郎のことを気に入った。

夫婦だなんだと、冷やかされることも増えた。

最初は照れ隠しに、互いに否定し合うこともあったが――


「俺……先輩のこと、名前で呼びたいです。本当の意味で」


――華菜が卒業する日に、ようやく二人は結ばれた。


華菜が卒業しても、互いの仲が冷えることはなく。

むしろ普段会えない分、休日は二人で多いに盛り上がり。

京太郎も華菜も社会人となって、生活が安定すると、晴れて結婚式を迎えることとなった。



「須゛賀゛ア゛ァ゛ッ!!」



結婚式では両親以上に号泣したかつてのコーチにちょっとだけ引いたりもしたけれど、多くの友人が祝福してくれた。


――ただ一人、かつてのキャプテンは、やって来なかったけれど。










子宝に恵まれ過ぎるという幸せな悩みを抱えた二人は、家政婦を雇うことに決めた。

三つ子どころか六つ子ともなれば、流石の二人でも厳しいものがある。




「今日から、よろしくお願いします」


ぺこりと頭を下げる女性に、京太郎は言葉を失った。


「小さい子の相手は得意なので、任せて下さいね」


左右の、異なる色の瞳が。


「他にも、精一杯頑張りますから」


真っ直ぐに、一切揺れることなく。


「末長く、よろしくお願いしますね」


京太郎を、見詰めていた。










「おかーさん」

「こーら、あなたたちのお母さんは華菜さんでしょう?」


指を咥えてトテトテと美穂子に歩み寄る子どもを、そっと窘める。


「それに、指をしゃぶっちゃ駄目よ? 病気になっちゃうから」

「う?」

「でも、おねーちゃん。おかーさんみたいに、おとーさんと――」


しっと、人差し指を子どもの口に添えて。

小さく微笑みながら、美穂子は子どもの口を塞いだ。


「ヒミツだから、ね?」

「ヒミツ――うん、わかったし!」

「ふふ、よくできました。後でおやつを作ってあげる」

「やった!!」


ジワジワと、蜜が染み出すように。

甘い匂いが、ゆっくりと家の中に広がった。









久しぶりに感じる――と言っても時間的には大して経っていないのだが、故郷の空気を吸って京太郎は大きく背伸びをした。

東京・大阪・岩手と仕事をしてきて、全国大会の前の最後の仕事となる場所が母校の清澄。

やはり何かしらの縁があるのだろうか。


「ま、しっかりやりますか」


とは言え、仕事で来ている以上はいつまでも感慨に耽っているわけにはいかない。

仕事のため、後輩のため、そして当時に世話になった母校への恩返しのため。

京太郎は肩を回してリラックスすると、よく見知った道を歩き始めた。





どさっ。

何か、荷物の入ったビニール袋を落としたような音。

京太郎が振り向くと、見覚えのある顔が驚いた表情を浮かべて立っていた。


「よっ」

「京、ちゃん?」

「おう、久しぶり。相変わらずちみっこいな」


宮永咲。

白糸台でよく自分を慕ってくれていた教え子の、妹だ。




「じゃあ、今度からは清澄で?」

「ああ。教えることになった」

「そっか。それで部長、あんなのだったんだ」

「部長?」

「うん。私も、麻雀部だから」


「……そうか」

「……白糸台にも、いたんだよね?」

「ああ……」

「負けない……」


幼い顔に、闘志を奮い立たせて前を見る咲。

負けない――その言葉の相手が誰なのかは、言うまでもない。

強い意思が伝わるが、京太郎は特定の誰かを贔屓するようなことはしない。

京太郎に出来ることは、彼女たちが全国大会という舞台で悔いを残さないようにすることだけだ。


「ん。まぁ、頑張れよー」

「わっ」


ポン、と頭に手を乗せてわしゃわしゃと撫でる。

アタフタと慌てる姿は、さっきまでの咲とはまるで別人のように思えた。





――白糸台。

――姫松。

――宮守。


あなたたちが京ちゃんの何を知ってるのかは知らないし、知る気もないけど。

この手は、私だけのものだって。

教えて、あげるから。




一方その頃。


久「……」(そわそわ


ガラッ


久「!!」(ビクッ

和「すいません、遅れました――何か、ありました?」

久「いえ……何でもないわ……」




久「まだかなぁ……」(そわそわ

まこ「あからさまじゃのう」







子どものように、まだかまだかと待ちわびても――いざ目の前にすると、固まって頭が真っ白になってしまうのだと。

清澄の部長、竹井久はその身で知った。


「今日から皆さんの指導を受け持つことになりました、須賀京太郎です。よろしくな」


もう一度、清澄で全国に行きたくて。

この人に追い付きたくて、私は――


「ほれ、しゃきっとせい」


友人に肘で小突かれて我に帰る。

上手く体で隠れているので京太郎には見られていない。

心の中で友人に礼を言いながら頬を叩き、久は――




――自分たちの意思の強さを示すように、強い眼差しで。


「はい。こちらこそ――」


この10年で、清澄の麻雀部は大分廃れてしまったけれど。

私なら、私たちなら。

そこに、この人の力が加われば。


「――よろしく、お願いしますね」


絶対に、優勝してみせる。

今この瞬間、久の想いは、誰よりも強かった。

その気持ちが全員へと伝わり、部内の空気が高まって行く。



「……ところで、誰なんだじぇ?」


……ただ、一人を除いて。





「先生、少し教えてほしいのですが」


京太郎に問いかけるのは、デジタル打ち一筋の原村和。

全中王者の看板に偽りなく、その実力も京太郎が出会った少女たちの中では上から数えた方が速い位置にいる。

自分の実力を自負し、効率に従って麻雀を打つ和だからこそ、疑問に感じる点があった。


「……ここです。効率で言えば、明らかこの牌を切るのはおかしかった筈なのですが」

「ふむ……」


京太郎の打ち方も基本はデジタルだが、時折妙な牌の切り方をする。

元が付くとはいえ相手はトッププロであるし、その実力は疑ってはいないが――だからこそ、腑に落ちない。

そう顔に表して問いかけてくる和に対して、京太郎は少し考える素振りを見せた。


「まー……みんながみんな、原村さんみたいな打ち方をするわけじゃないからさ」

「……」

「この人はこういう打ち方を好む、この人はよくドラを抱える――だなんて考えて打ってたら、自然と非効率的な打ち方になることがあるんだよね」

「……そういう、ものですか?」


ぶっちゃけて言えば経験によるカン頼りなところも大きいのだが、それを伝えたところでこの原村和という少女は納得すまい。


「ただ……そうだな。原村さんの場合は、そのままの打ち方でいた方が良さそうだね」







「原村さんはデジタル重視の打ち方だし、基本は――」


頬が、熱い。


「……原村さん? 大丈夫?」


理由は、簡単。


「……和で」

「……え?」



「和と、呼んで下さい」


この人のせい――お陰、ですね。








彼の手をとり、指を撫でる。

この手が、この指が。


「ふふ……」

「は、原村さん?」


私をいいように操って――そして、これからも。


「和でいいと……言った筈ですよ?」


私を、マリオットみたいに導いてくれる。


あぁ、こんな気持ち、生まれて初めてなのに――きっと私は、この為に生まれてきたのだと。

さっきまでの私なら、そんなこと有り得ないだろうと否定するのでしょうが。

もう、私には――先生しか、見えません。


「先生の教え方は、とても分かりやすくて……丁寧で……」


だから、これからも。


「とても……ために、なりました」


一生――あなたに、ついていきます。




「先生は……」

「ん?」

「先生は、前から咲とは知り合いだったんですか?」

「あー……」


咲には、学校では先生と呼べと言ってあるのだが、よくそれを忘れられて「京ちゃん」と呼ばれることがある。

それが久には気になったのだろう。


「そうだな。知り合いというか……咲のご両親とは仲良くしてもらってたよ」

「へぇ……」

「前から宮永家とは家族ぐるみでの付き合いだったからさ」


懐かしいなー、と目を細める京太郎の姿は、久の知らない一面だ。

憧れの人のそんな様子を、久は――




通りで、あの人見知りの咲が、彼にはあんなに馴れ馴れしいものだと。

まるで、周囲に見せ付けるような態度は「そういうこと」かと、久には頷いた。


「じゃ、咲があんなに懐いているのも?」

「まぁ……そういうことだろうね」

「ふーん……じゃあ、咲のあーんなことやそーんなことも?」

「……知りたいか?」

「ええ、勿論」

「ふっ。それじゃあ――」


××才まで××してた、とか。

小さい頃は本当にベッタリで××だった、とか。

将来のお嫁さんに――みたいなベタなネタまで、心のメモ帳に書き留めながら。


――本当、人生って不公平よね。


どうして自分じゃなくて、咲なんだろう。

そんなことを妬んでも、ひっくり返しようがないというのに。


「なるほどなるほど……本当、先生って何でも知ってるのね」

「いやあ、それほどでも」



久は、笑顔の裏に泥の様な感情を押し留めた。









雀壮、ルーフトップの経営は別に苦しいわけではない。

しかし今後も生き残っていくためには、また新たな戦略を打つ必要があるだろう。

そう考えて部員たちに意見を求めたまこだが、出て来たアイディアは実用化するには厳しいものばかりで。

こうなれば大人を頼ろうと、久が提案したのだが――


「……あぁ。これは、そういうことか」

「すみません……」

「てへっ」


生徒たちに来て欲しい場所がある、と言われてみれば、行先は『あの清澄のレジェンドに会える!』との垂れ幕がかかっている雀壮。


「……いやまぁ、言ってくれれば協力はするけど。無断でこういうことするのは病めてくれ」

「はい……すみません」

「……ごめんなさい」

「……まあでも折角だし、今日はここで――」


話の途中に、背後からドアの開く音。

メイド服を着たまこが、いらっしゃいませと顔を向けると――


「おや……これは、これは」


現役にしてルーフトップ常連のプロ雀士。

藤田靖子が、驚いた顔をして京太郎を見ていた。






「お久しぶりです」

「久しぶりですね」


軽く頭を下げてくる靖子に、京太郎も会釈を返す。

二人のやり取りを見て、久が目を丸くした。


「ヤスコ、知り合いなの?」

「昔に世話になったのさ……『色々と』な」


靖子が舌舐めずりを見せる。

実に久しぶりに見せるその動作に、京太郎はこの後の展開を予想した。


「どうです? ここで、一つ」


トンと、人差し指で雀卓を叩く。

その行為が意味することは、一つしかない。


「プロ二人の対局、これはいい宣伝になるわね」

「しかしのぅ……」


チラリと、まこが申し訳なさそうな目線を向けて来る。

京太郎は、苦笑して頷いた。


「……それじゃ、打とうか」




京太郎がトップで靖子が2位、久が3位でまこが4位。

プロが点数を高くとり、学生がそれに続くという、ある意味で順当な結果となった。

大差を着けて敗北したというのにも関わらず、靖子は嬉しそうにくつくつと喉を震わせた。


「相変わらず――お強い」

「……」


無表情で河を見つめる京太郎と、心底楽しそうに頬を吊り上げる靖子。

対して学生2人組みは、グッタリと椅子に体重を預けていた。


「けっこー自信あったのに……」

「思いっきりやられたのう」


眼鏡をズラして、近いイメージを探っても、すぐに別のモノに塗り替えられてしまう。

これがプロの戦いか――と、まこは世間の広さを知って溜息を吐いた。



「まぁ……でもコレで、良い宣伝になるんじゃない?」

「あっ」

「すっかり忘れとったの」




その日の夕方。

ルーフトップのブログを書きながら、まこは――



眼鏡を外し、眉間の辺りをマッサージしながら、まこはどっと溜息を吐いた。

今日一日で大分疲れたような気がする。

時間で言えば大したことはないが、非常に精神を削られる試合だった。


「ふぅ……」


しかし、本当に面白かった。

まるで良いところの見せられない対局だったが……それでも、多くのことを教えられた。

靖子も今回のことをブログに書いてくれるというし、これは良い宣伝になっただろう――




「……」


靖子のブログにアップされている写真。

真剣な表情をして卓に向かうその姿は非常に見覚えがあり――そして、それは貴子が世界で一番に愛していた男の顔だ。


「……」


この雀壮の名前は知っている。

靖子の口からもよく聞く名前だ。


「……あぁ」


行こうと思えば、車で直ぐに。

だというのに――貴子は今一歩、決心が付かずにいた。





「そっかぁ……京ちゃん、今はそんなとこにおるんかぁ」


カチカチとマウスを操作する郁乃は、画面の中の京太郎の顔を食い入るように見詰める。

久しく見ていなかった彼の雀士としての表情に、吐息が零れる。



「長野……ちょっと、遠いかぁ……京ちゃんにも待ってて言われとるし……」


「でも、やっぱり……」


「京ちゃん、かっこええなぁ……♪」



やがて、部屋の明かりが消えるが――声が途切れたのは、そのずっと後からだった。






「それで、どうだった?」

「ええ、確かにそれなりに効果はありました」


後日、京太郎が宣伝効果を尋ねると、その言葉の通りにある程度は有効だったようだ。

悩んでいた表情も、いくらか軽いものになっている。


「それでまぁ……お礼というには少し、足りないかもしれませんが」


まこがカバンから弁当箱を差し出してきた。

いつも出来合いのもので昼食を済ませている京太郎には有難かった。

料理もそこそこには出来るが、忙しいと面倒になってつい手抜きをしてしまいのだ。


「ありがとう。いただくよ」


頬を緩ませて、弁当箱を開けるとバランスの良い彩の品が並んでいる。

特にこの玉子焼きが美味しそうだ――と、京太郎は箸を伸ばした。




「それで、次はいつの日に行こうか? 日付とか決めといた方が宣伝もしやすいだろ」


考えるよりも先に、口が答えていた。

まこ特製玉子焼き。

久も保証するその味は、まさに絶品。

こんなものを食べさせられては、次も協力せざるを得ない。


「いいんです?」

「勿論。俺も楽しかったからな」



――あまりの美味しさに口が勝手に……!


後に、京太郎はこの時のことを、そう語った。

咲日和からネタを拝借していくスタイル



「須賀先生は……いないか」


京太郎への用事があって部室を訪れた久だが、タイミング悪く入れ違いになったようだ。

机には京太郎のものらしきカバンが置いてあり、椅子には男物の上着がかかっているが、肝心の姿は見当たらない。

そして、まだ他の部員たちは来ていないようだった。


「……」


何となく、キョロキョロと辺りを見渡してみる。

周りには当然ながら誰もいない。


「……ゴクリ」


久は、椅子にかかった上着へと、手を伸ばした。



「他意はない……他意は、ないから……」


誰も聞いていないのに言い訳をする時点で、後ろめたさを感じているのは分かる。

だがそれ以上に、今の久は好奇心が強かった。

椅子にかけられた京太郎の上着を、久は手に取って――思いっきり、顔を埋めた。



――あー、ヤバイ……コレ、ヤバイ……



のーみそとろける。

実のところ、匂いなど詳しくは分からないが……このシチュエーション自体に、久は酔いしれていた。

もっと匂いを、もっと深く匂いを。


「……ん?」


そして、上着をひっくり返してみたら。

ぽとりと、ポケットから何かが落ちた。

何だろうと、身を屈むと――


「……だれの?」


――女性もののイヤリングが、落ちていた。













優希は、タコスを口いっぱいに頬張りながら悩んでいた。

友達二人の様子がなんだかおかしい、と。


「うーん……?」


咲には焦りのようなものが見受けられる。

「絶対に勝たなければならない」という、焦燥感のようなもの。

外部から来たコーチの前だから――部長曰く咲の小さい時の初恋の人らしいが――良いところを見せたいのかもしれないが、それにしてもおかしい。

咲とは、それ程付き合いの長くない優希にも感じ取れるほど、最近の咲の麻雀には鬼気迫るものがある。


「それに……」


チラ、と隣にいる中学からの親友――和に視線を向ける。

頬が赤く、どこか上の空な様子。

最初は「珍しいな」とその程度にしか感じなかったが、その様子が数日ずっと続けば――流石に、おかしいと気付く。


「なんなんだじぇ……」


たまに、二人してどこかにいってしまうこともあるし。

何となく置いてけぼりにされたような気がして、胸がモヤモヤする。


「……むぅ」


タコスの味は、いつも通り、美味かった。




「おーい」

「はっ!?」


ポン、と肩に手を置いて声を掛けると、飛び上がらんばかりの勢いで驚く久。

やれやれだと、まこは肩を竦めた。


「そんなんで大丈夫か?」

「え、えぇ……大丈夫、問題ないわ」


剣呑な表情でブツブツと何やら呟いている姿は、後輩には見せられない。

それに、恐らくは無意識なんだろうが――


「爪、大丈夫か?」

「爪?……あ」


歪に欠けた親指の爪。

久が自ら噛んで削った痕が痛ましい。


「……悩みがあるなら」

「いや、大丈夫。大丈夫だから……」


――本当に、大丈夫なのか?

じっと自分の爪を見詰める久の瞳からは、何も読み取ることが出来なかった。




「なんでこんな日に……!」


降りしきる土砂降りの中、カバンを傘代わりにして帰路を急ぐ。

傘を忘れるなんて――と、嘆いても雨の勢いは留まることを知らず、それどころか更に勢いを増していく。


「そうだ……!」


――京ちゃんの家で、雨宿りさせてもらおう。

宮永家までは距離があるが、須賀家までなら近い。

意中の金髪の彼。

最近は、彼にまとわりつく余計な人たちが多いけれど――まるで灯りに誘われた、鱗粉をばら撒く蛾みたいに。

それでも、咲の中では誰よりも大事な人。


そして漸く、彼の家が見えてきて――


「……え?」




女→京

じゃなく

京→女

になる?

あそこに髪の長い女性がおるじゃろ?

元 カ ノ だ

的な?

――彼と、長髪の女性が話している。

咲にとっては知らない女だが――京太郎には、そうではないようだ。


「あ……」


俯いて、何やら家の中に入るのを躊躇うようにしている女を、京太郎が手を引いて誘う。

ほんの一瞬だけ、咲と女の目線が交わったが、直ぐに須賀家の扉は閉じてしまった。


「……」


手から、カバンが滑り落ちる。

雨水が跳ねて、靴下にかかった。


「そっか……」


――京ちゃんは、大人だもんね。

原村さんや部長だけじゃないよね。

京ちゃんに惹かれる、毒虫は。


「どうしようかな……」


雨に濡れて、身体は冷え切っていくけれど。

不思議と――体の奥底から、熱が沸き上がってきた。





「先生、体調は大丈夫ですか? この前の雨は……」

「ん? 大丈夫だよ、少し濡れたけど」


唐突に教え子に心配された京太郎は、少し戸惑いながらも答えを返す。

酷く心配しているようだが、何故だろうか。


「少し? 全身がずぶ濡れになってたようでしたが……」

「いや、でも直ぐに温まったし――ん?」


あの日、自分は家にいて。

和とは、会わなかった筈だが。


「それに、この手も――」


和が、京太郎の手を取り――





「あの人に、触れてしまいましたからね」

「っ!」



和を振り払うように後退する。

肘が、机にぶつかった。


「な、何を……」

「知っていますから。先生のことを、全部」



「だって、知っていなきゃいけないし……私は、先生のものですから」


「……ああ、でも。一つ、分からないことが」



「あの長髪の女性は」


「誰、ですか?」


心臓が、跳ねる音がした。






「この唇も」


そっと、和が歩み寄る。


「あの女性に、触れられてしまったのですね」


静かに、両手を伸ばして。


「ああ――なんて、こと」


京太郎の、頬へと――



「……和」




「……少し、おかしいぞ」

「……おかしい? どこがですか?」


小さく首を傾げる。

その仕草は可愛らしいが、京太郎の背筋には冷たいものが走った。


「だって。当然じゃないですか」


「私は、先生のものですから。先生のことは隅々まで知っていないといけないのに……」


「……ああ、そっか」


「相手のことを知りたいなら」


「まず、私のことを知ってもらわないといけませんね」


うっかりしていました。

クスリと、小さく笑う。


「どうぞ、ご覧になって下さい。私の全てを――」


和が、制服のリボンに手をかけた。



「のどちゃん……と、先生?」


和の行為を制止するようにかけられた戸惑いの声は、たった今部室に入って来た優希のもの。


「何をしてるんだ?」

「……」


和は、優希に背を向けたまま、リボンを結び直す。

目線はじっと、京太郎を捉えたまま。


「――少し、分からないことがあったので。先生に、教えてもらってました」

「そ、そうなのかー……のどちゃんは、マジメだな」



――続きは、また今度にしましょう?

振り向きざまの和の口が、そう告げた。










「ごめんなさい……俺、小瀬川先輩とは付き合えません」


――シロの遺体が屋上で見つかったのは、それから一週間後のことだった。




また、酷い夢を見た。

酷い吐き気と倦怠感。

もう二日はベッドから降りていない。


「……あぁ」



何十件と溜まったメールと留守電。

自分を心配する先輩たちからのメッセージ。

特に多いのは、『彼女』からのもの。

今も携帯の画面は電話の着信を告げるものに切り替わっているが――どうしても、出る気にはなれなかった。


――夢、だったら良かったのに。



「……起きなきゃ」


体も心も、そのまま眠りたいと感じているけれど。

このままずっと眠り続ければ、きっと二度と目覚めることはない。


京太郎は、ダルい体を引きずるようにして、やおら起き上がった。

枕元には、白い髪が一本、落ちていた。

「……え?」


眠り続けている間に弱まって、丸みを帯びた体。

真っ白に染まった髪。

そして何よりも、この気怠げな瞳は――




渡さないから。誰にも。




――洗面台の鏡に映る唇が、言葉を紡いで。

忘れられないあの声が、確かに聞こえた。







――私は、こんなに女々しいヤツだったか?


貴子は、パソコンの画面の前で自嘲の笑みを浮かべた。

ディスプレイに映し出されているのは、先日の靖子のブログ記事。


「はは……」


プロになって忙しくなっても、無理をして自分との時間を作ってくれた彼。

あの人の重しになるからと、自ら『振った』立場にありながら。

あの人が長野に戻ってきていると知った途端――会いたいと、思ってしまうのだから。



『京太郎先輩』



アドレス帳から消そうと思っても消せなかった名前。

幾度となく押した番号。最後の発信ボタンがどうしても押せない番号。

迷いに迷って、煮え切らない。

生徒たちの前ではとても見せられない姿。



私は――





……今更、情けない。

静かに腕を降ろし、携帯を畳む。


「……先輩」


あの人は、元気でやっているようだ。

それで……それで、いいじゃないか。

それこそ、私が望んだことなのだから。


「本当に、情けねぇ……」


椅子にもたれ掛かり、窓の外を眺める。

薄暗い空には、暗雲が垂れ込めている。

長い雨が、降りそうな気配がした。

本当に土壇場でヘタレるコーチである





長野、県大会。

全国へと進むのであれば、龍門渕や風越といった強豪を相手に勝ち進まなければならない。

今の清澄高校の麻雀部は零細部。

経験も部の規模も他校には劣るが、それでも久は負ける気がしなかった。

何故なら、今の自分たちには、頼もしい味方が――


「あれ……先生は?」

「ちょっと知り合いに挨拶とか言ってたじぇ」

「そう……」

「……部長?」


「ちょっと、私も色々と挨拶してくる」


「へ?」

「大丈夫――すぐ、戻るから」


強いて言うならば女の勘。

さざめきのような胸騒ぎに従って、久は控え室を後にした。



――カリ。

「どこに、いるのかしら」


――カリ、カリ。

「先生」


――カリ、カリ、カリ、カリ。

「私たちを」


――カリ、カリ、カリ、カリ、カリ。

「私を」


――ガリッ

「置いて」



何処からか聞こえてくる耳障りな音に、眉を顰めて。

久が、廊下の角を曲がると――







――先生に、長髪の女が抱き付いている。


ガリ


「ごめんなさい……先輩」



ガリ、ガリ



「あなたと私は、もう、そういう関係じゃない。それは分かっています」



ガリ、ガリ、ガリ



「……ただ、どうしても。抑えられないんです……あなたを、前にすると」



ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ



「だから、今だけは――」



ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ、ガリ



「……ありがとう、ございます」



ぶち











「あ。帰ってきた……じぇ?」

「まったく、どこをほっつき歩い……て……」

「部長!? その指は……」

「すぐに絆創膏を……いや、医務室に――」


「大丈夫」


「いや、大丈夫ってソレ」


「大丈夫、だから」





「心配しないで」










清澄高校は、団体戦で全国に出た事は一度しかない。

それも、10年以上も昔のことだ。



『決勝を制したのは――』



だから、今年も龍門渕が県大会を制すだろうと、大方が予想したが――



『今大会、まさかのダークホースの――』




――まるで、私たちを見ていなかった。

――誰か、遠くにいる誰かを見ているみたいだった。



『――清澄高校です!』



中堅戦、副将戦、大将戦で大きく他校を引き離して。

清澄高校が、全国への切符をもぎ取った。






「つ、疲れたじぇ……」

「みんな、少し休憩した方が……」

「いえ、それには及びません」

「うん。全国まで、時間はないし……」



「それに」



「今度は、絶対に」

「個人戦でも、負けられませんから」

「ええ。先生の教え子だもの」



「絶対に。絶対に――潰す、から」



【清澄編 了】




――それは、突然のこと。


「先生」



彼女の冷たい両手が、頬へと伸びる。



「私は、先生のことが、ずっと好きでした」


甘い匂い。


「先生は、どうですか?」


甘い味。



「ふふ……振り向かせて、みせますよ」



柔らかいものが、触れ合った。




プロローグ 了】













――でも

――赤ちゃんは、産めるよ?


「……ろ! 京太郎!」

「……あ」


気が付けば、顧問の晴絵の顔が真ん前にあって。

京太郎は、ポカンと間抜けな口を開けてた。

ゴホン、と晴絵が咳払いをする。


「聞いてた? 今の話」

「え? えーっと……」

「ハァ……遠征をするの。これから毎週」

「……遠征」

「そ。具体的には――」



あれから。

京太郎は、親にも、友達にも、先生にも、そして――憧にも言えない秘密を胸に抱えたまま、日々を過ごしていた。





三代目日産・キューブ。

晴絵の運転する愛車で、他県へと遠征することになった阿知賀学院のメンバー。

時折、揺れる車内で京太郎の隣に座るのは――



右隣に憧、左隣に宥。

京太郎を真ん中にして、その二人が京太郎の両隣に座ることになった。


「寒い……」

「ね、姉さん……」


ひしっと抱き付いてくる姉に、眉をハの字にする京太郎。

車内であることと、先日のことが頭の隅をチラついて、強く拒む事も出来ない。

困った京太郎がふと視線を横に向けると、憧が気怠げな表情を浮かべて窓の外を眺めていた。


「……」

「憧? 大丈夫か? 顔色、悪いけど」

「……うん。昨日、少し眠れなくて」

「遠征で緊張とか?」

「それもあるけれど――色々、考えることがあって」


浮かない幼馴染の顔。

出来れば、晴らしてやりたい。


「憧――」



「最近、ずっとそんな感じだろ?」

「え……」


憧が振り向く。

少し驚いた顔をして、京太郎を見詰める。


「俺じゃ頼りないかもしれないけど、力になれることもあるかもしれない」

「……」

「何かあるなら話してくれないか?」

「……そっか」


憧が目を閉じて、京太郎の肩にもたれかかる。

小さな口を開いて、京太郎にだけに聞こえるような声でポツリと


「……京太郎は、優しいね」

「……」


「……うん。ごめん。少し寝るから、肩貸してくれる?」

「……分かった」


少し後に、小さな寝息が聞こえてくる。

結局、悩みは話してくれなかったけど――こうして、寄り添って眠るのは小さい頃を思い出させて。

少しだけ、京太郎は嬉しくなった。



だけど。


「……憧ちゃん」

「……」


空いた片手を姉に握られて。

きっと、昔みたいには戻れないと、思った。





京太郎を挟んで、ほんの一種だけ交わった目線。

見上げる憧と、見下ろす宥。



――渡さないから、京ちゃんは


――聞いて、ないから。



京太郎は、気付けない。







三人の仲睦まじい様子。

真ん中の京太郎に寄り添うようにして目を閉じる憧と宥の姿は、少し羨ましい。

――が。


「仲良いなー。やっぱり」

「……」

「……玄さん?」


京太郎の姉であり、宥の妹である玄は。

何も言わず、じっと目を細めていた。


「……何で?」

「……え?」

「何で、私はあそこにいないんだろ」


穏乃には玄の言わんとすることが分からず、また玄もそれ以上は言葉を繋げなかったので、会話は続かなかった。

静かな空気が車内を包み、晴絵の運転するキューブは、順調に目的地へと向かって行った。



「これは、どういうことでしょうか」

「……」


京太郎は、みさきによって目の前に突き出された写真に、沈黙した。

それは、自分の彼女にずっと隠していたことが写されているモノ。

恒子と京太郎が、口付けを交わしている写真。


「彼女――針生アナが見たら、何と言うでしょうか」


口を噤むことしかできない京太郎に対して、淡々と問いかけるみさき。

その声音は京太郎の不義理を責めるものではなく、かと言って好奇心が込められているわけでもない。

みさきの意図が掴めず、京太郎は困惑する。


「……ええ、語らずとも、わかります。あなたが、福与アナと浮気などと――不誠実なことを、する筈がない」

「……その、写真は」

「彼女が、強引に迫ったのでしょう? お酒の勢いに任せて」


……当たっている。

まるで、その場で見ていたかのように。


「私は、この写真を針生アナに見せたいわけではありませんし、福与アナを責めたいわけでもありません」

「……」


では、何が言いたいのか。

みさきが、京太郎に突き付ける要求は――


「――私にも、同じことをしてください。彼女たちと、同じことを」



京太郎は、何も答えることができなかった。

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最終更新:2026年01月05日 19:58