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「あら、あら」


二人の行為を中断させたのは、霞の声。

続いて間も無く扉が開け放たれ、暗かった部屋の中が廊下の灯りで暴かれる。


「……おかしいと、思ったのよ」


彼女の表情は、いつもと変わらない。

ただ、握りしめた拳から、小さな血の雫が零れ落ちている。


「……」


霞に続いて、小蒔が部屋に押し入ってくる。

怒りでも悲しみでもない、能面のような表情。

その瞳は、京太郎を見詰め続けている。




「がっ!?」


初美の表情が苦悶の形に歪み、京太郎から引き離される。

脇腹を春に蹴飛ばされ、漏れた声は形にならず、開いた口からは唾と胃液の混ざったものが垂れ流しになり、畳を汚した。


「巴ちゃん」

「……はい」


部屋の外で待機していた巴が、霞の一言で入って来る。

無理をして、表情を表に出さないようにしているのだろう。

瞳の震えは隠し切れず、噛み締めた唇の端には血が滲んでいる。


「ごめんね……」

「う……あ……」


巴が、倒れている京太郎の額に手を添える。


「すぐに、終わるから」



わからない。巴の言葉の意味が。

わからない。彼女たちの、敵意が。

ただ。


「やめて、ください……!」


自分が。


「俺が、悪いんです……!」


足を踏み入れてはいけない領域を、穢してしまったのだということは、理解できた、


「薄墨先輩は、何もしてないです!」

「俺が、悪いんです!」

「俺が、俺から、先輩に――!!」



「京太郎くん」


霞の指が、京太郎の瞼に触れて。


「おやすみなさい」


京太郎の意思は、静かに落ちていった。












「おはよう」


寝起きにドアップな春の顔。

驚き過ぎると、逆に人はリアクションが取れなくなるのだと、京太郎は知った。





「はい、あーん♪」


箸に摘ままれたまま差し出される朝食。

最初は恥ずかしさで抵抗感があったこのやり取りも、今ではすっかり慣れてしまった。





「大丈夫? 忘れ物はない?」

「小学生じゃないんですから」


玄関で心配そうな顔をした霞に引き止められる。

苦笑を浮かべながら、京太郎は手を振って通学路に向かった。

「んー?」

「どうしたの? 忘れ物?」

「いや……」


忘れ物、というよりは。

何か、足りないような。


「……思い出せないなら、きっと……大したことじゃ、ないんだよ」

「それも……そう、ですね」

「……」


チクリと、胸の奥が痛んだ気がした。



【崩れた均衡 欠けた何か
永水日常パート 了 】







風越女子麻雀部の部室に、怒号が響く。


「池田ァッ!!」

「ひっ!?」


不甲斐ない教え子への叱責は、愛情の裏返し。

厳しい指導は当たり前、時には鉄拳制裁も。

鬼コーチとして有名な風越のOG、それがこの久保貴子という女性であるが――


「コーチ、いつもより機嫌が良いような……?」

「そう、ですか?」


――後輩には決して見せられない、もう一つの顔があった。

鬼コーチの異名を持つ貴子でも、常に険しい表情を浮かべているわけではない。


「ふぅ……ただいま」


帰宅して、玄関で靴を脱げば頭の中身は即座に切り替わる。

外で張り詰めていた気持ちは緩み、鋭い目付きからは力が抜ける。

それは、自宅という素の自分を曝け出せる場であるのに加えて、


「おかえり、姉さ――んぐっ」


出迎えた義弟を抱き締めるには、鬼コーチの顔はあまりにも不適切だからだ。

最愛の義弟。

貴子にとっての京太郎を一言で表現するなら、この言葉以上に適切なものは無い。



両親を亡くした京太郎を貴子の親が引き取ったのが、もう10年以上も前になる。


『……泣いとけ。思いっきり』


自分が、側にいてやらないといけないと思った。

貴子は不器用ながらも良い姉であろうと努め、京太郎はそんな貴子を実の両親以上に慕った。


「ね、姉さん……?」


いつから、だろうか。

昔は貴子が京太郎の手を引いて歩いていたが、


「……頼む。あと、少しだけ」


この手を離したら、生きていけないのは自分の方だということに、気が付いたのは。





肉体的な疲労も溜まったストレスも、京太郎を前にしては全て吹き飛ぶ。

OBや学校にかけられる圧力も、不甲斐ない教え子への苛立ちも、全てを忘れさせてくれる。


「……おかえり」

「ただいま」


ずっと側にいたい。

就職先も自宅から通える範囲に決めた。

出来ることなら、京太郎も風越に通わせたかったが、貴子にもどうしようもないことはある。


「……ふぅ。悪い、ちょっと疲れてた」

「はは……ちょうど、夕飯出来たとこだから」


だからこうして、家にいる時は、思う存分に京太郎の温もりを味わうのだ。

何故、風越は女子高なのか。


「それでさ、咲のヤツが――」


目の前で、義弟が楽しそうに女友達の話をする度に。

貴子の想いは、深く重く、胸の奥で降り積もっていく。


「……清澄、か」

「姉さん?」

「いや、何でもない。続けてくれ」


出来ればずっと、手の届く場所に置いていたい。

けれどそれは、京太郎の意思を踏み躙ることになる。

第一に京太郎の幸せを願う貴子としては、それは出来ない。

……しかし。


「……なぁ」

「ん?」

「話、聞く限りだと……雑用ばっかしてるみたいだが」

「ん、ああ。まぁ、一年だし、男子だからさ」


それはいい。

一年坊が雑用を引き受けるのは部活動においては当然のことだ。

唯一の男子部員であるなら、尚更のこと。



――だが。


「……練習は、出来てるのか? 零歳部らしいが」


それはあくまでも、『きちんと先輩や先生に練習を見てもらえること』という前提条件があって、初めて成り立つものである。

弟がいいように扱われているような状況があるとすれば、決して見逃すことはできない。

場合によっては殴り込みを仕掛けることも辞さないつもりだ。












「ん……うん、まぁ、それなりには」

「成る程……な」


嘘だ。

貴子は、その態度から、一目で京太郎の部活動での状態を見抜いた。


「よし……じゃあ、この後ちょっと見てやるよ。弟がどれだけ成長してるのか、気になるとこだしな」

「えっ」

「何だ、文句あるのか?」

「……いや、無いけど」

「じゃ、決まりだ」


姉の欲目を引いても、京太郎には潜在能力がある。

自分がみっちり付いて、徹底的に鍛えてやれば、長野個人戦くらいは突破出来るだろう。

貴子は、そう確信している。

京太郎が長野男子個人戦で敗退するようなことがあれば。

あまつさえ、一回戦で敗退するようなことがあれば。


――辞めさせるか。


それは、清澄は京太郎には相応しくない環境ということだ。



更に、貴子が危惧していることはもう一つ。


「嫁田のヤツがさ、アイツのこと嫁さんだとか言って――」


京太郎は、男として見ても魅力がある。

貴子とて、姉弟という立場が無ければ押し倒しているだろうと思う。


「お前は、好きなのか? そいつのこと」

「ばっ、いや……アイツは、好きとかそんなんじゃねーし」


世界でたった一人の大事な義弟。

どこぞの馬の骨とも知らない女に、絆されることがあれば。


「ほー……一度、見てみたいもんだな。なんせ、弟の嫁さんだもんな」

「姉さんまで、そんな」





貴子は、拳を握って待つ。

その日が、来るのを。

大義名分が出来る、その時を。


「本当に、楽しみだ」


長野県予選まで、後一ヶ月。

降り積もった想いがどうなるのかは、貴子自身にも、わからなかった。


【義姉】





――まぁ、三尋木プロに会いに行くって時点でわかってたけどさ。


朝帰りからの部長のジト目にも、すっかり慣れてしまった。

確かに、指導を受けているとはいえ高校生の身で徹夜麻雀はとても褒められたものではない。

しかし、京太郎にとってはまたと無い機会なのだから見逃して欲しい。


――確かに。そうなんだけどさ。


何となく、部長が拗ねているように感じたが、疲労と眠気が溜まっている京太郎からすれば構っている余裕はない。

京太郎はフラフラとした足取りで自室へと向かった。





シャワーを浴びて眠りから覚めれば時刻は14時00分。

健康的な高校生の生活とは大分かけ離れている。


「随分と余裕なのね。準決勝を前に」


そんな皮肉を言われてしまうのも、仕方のないことである。

昨日の咏の言葉の通りなら、余裕があると言えば確かにそうだが。


「いや、そのですね――」


京太郎が弁明の為に口を開いた瞬間。

タイミング悪く、京太郎の携帯の着信音が、鳴り響いた。



「ようこそ! はやりのお部屋へ☆」

「お、お邪魔します……」


電話の相手は、牌のおねえさんこと瑞原はやりだった。

『先日のお礼がしたいから是非とも来て欲しいな☆』と、要約するとそのような内容の話を聞いたからには、京太郎には断るという選択肢はあり得ない。


「ちょっと待ってて、お茶入れてくるから」

「あ、はい」


はやりの泊まるホテルの一室で二人きり。

ファンとしては胸が高鳴り過ぎて痛い状況である。


「……ゴクリ」


何だか良い匂いがする気がするし、落ち着かない。


「……ん?」


ソワソワはやる気持ちを抑え、部屋中を見渡していると、ある物がクローゼットの側に落ちていることに気が付いた。

アレは……写真、だろうか。





「これは……」


屈んで、クローゼットの側に落ちている写真を拾う。

裏返してみると、京太郎のハンドボール現役時代の活躍の瞬間が写されているものだった。


「……懐かしいな」


チームメイトとの協力プレイで、ゴールを決めた瞬間だ。

目を閉じれば、今でもあの光景を思い出すことができる――が。


「なんで、瑞原さんが……?」


よく見れば、クローゼットが微かに開いていた。



「……これ、は」


微かに開いたクローゼットの隙間。

何気なく広げてみると、とあるファイルが転がり出てきた。

開かれたページは、京太郎の中学時代の活躍を収めた写真で埋め尽くされていた。


「……」


喉がなり、次のページをめくろうと





「……これ、は」


微かに開いたクローゼットの隙間。

何気なく広げてみると、とあるファイルが転がり出てきた。

開かれたページは、京太郎の中学時代の活躍を収めた写真で埋め尽くされていた。


「……」


喉が鳴り、次のページをめくろうと手を添えて――


「おまたせ☆ アイスティーしかなかったけど、いいかな?」

「うわわっ!?」


不意打ち気味に部屋の奥から現れたはやりに驚き、思わず、ファイルを取りこぼしてしまった。


「む? コラ、勝手に女の子の部屋を漁っちゃダメだよ?」

「す、すいません……でも、コレは?」


指差すのは、たった今見付けた写真。

何故はやりがこんな物を持っているのか、という疑問が浮かぶ。

するとはやりは、「キャッ」と可愛らしく両手を寄せて。


「はやりね――すっかり、京太郎くんのファンになっちゃったんだ☆」

「……へ?」








「あの電車の時は、咄嗟にはやりを助けてくれて」

「あれはその、勢いというか……」

「ううん、勢いでもスゴイことだよ。もしかしたら、大怪我してたかもしれないんだから」


まじまじと見詰められては、京太郎もかなり照れる。

完全にその場の勢いに任せた行動で、しかもセクハラ紛いのことまでしてしまったのだが。


「それでね、京太郎くんが個人戦の選手だって知って、色々調べさせて貰ったんだけど――」

「……」

「スゴイね! 中学時代のハンドボールの試合の動画とか、見惚れちゃったよ☆」


だからね、とはやりは間を置いて。


「京太郎くんが、もっともっと、頑張れるように。もっともっと、いい結果を残せるように」


「はやりにも――協力、させてほしいなって」



「おはよう☆」

「――え?」


気が付いたら、ベッドの上で、目の前にはネグリジェ姿の牌のおねえさん。

窓の外から差し込む爽やかな朝陽は、現在時刻が実に健康的な起床時間であることを教えてくれる。


「えっと……アレ?」


確か、昨日は。

はやりに、お礼という名の個人レッスンを受けて。

夜も遅くなって、それから――


「あぁっ!?」


――今日が、準決勝の日じゃないか!

慌ててベッドから跳ね起きる京太郎を、はやりがそっと制止した。


「大丈夫だよ。まだまだ時間はあるから」

「え? え、あぁ……」


その後、はやりの部屋でトーストとコーヒーをご馳走され、京太郎は清澄の部員たちが待つ控室へと向かった。

この時、もう少し京太郎が冷静だったなら――身に付けている下着が新しいものに変わっていることに、気が付いたかもしれない。







京太郎が部屋を出て行ったことを確認して、鍵を閉めた後。

はやりは京太郎の温もりが残るベッドに、全身で倒れ込んだ。


「……えへへ♪」


さっきまで、彼が眠っていたシーツ。

彼の残り香を感じれる場所。


「幸せ……♪」


外と、中から感じる彼の熱。

このまま、目が覚めなくてもいい――と、まさに天にも昇る気持ちで、はやりは目を閉じた。









「もう言わなくても分かると思うけど――楽しんできなさい!」

「うすっ!!」


準決勝。

ここを越えれば、後に待つのは決勝戦。


「はは……」


意識すると、急に足が震えてきた。

日本で一番麻雀が強い男子高校生。

その看板に、手が届く位置まで、ついに来たのだ。


「――よし!」


咏の言葉を、貴子の指導を、良子のお祓いを、はやりのお礼を。

それぞれのプロに貰ったものを思い出す。

自分にも、皆にも、誇りに思えるような麻雀を――



「待ってたよ」












「酷いなぁ。ずーっと待ってたのに」


「ここで待ってれば、来てくれるって思ってたけど……」


「うん、やっぱりね」


「また、色んなのが付いてる」



「いらないよね――そんなの」



「あぁ……」


彼女のことなんて、あまり知らない筈なのに。

もっと大事な人は、いる筈なのに。


「大好き……♪」


迫る手を、彼女の唇を、拒めない。


「だぁいすき♪」


泥が、胸の中を満たしていく。

何もかも、それまでの価値観を――



「須賀ァッ!!」


何もかもを健夜に委ねて、目を閉じた瞬間に。

現実では久しく聞いていない、あの怒号が、耳を貫いた。


「え……?」


驚いた風に、健夜が振り返る。

廊下の角に、息を切らした貴子が、眉を吊り上げて立っていた。


「もう、準決勝、始まるだろうがッ……!」

「あっ」


そのまま健夜と京太郎の間に割って入り、京太郎の肩を叩く。

出来の悪い教え子を叱責する時と、同じ顔をしていた。


「オラ、はやく行け……こんなんで失格になったら笑えねえ」

「で、でも……」

「いいから! こんなんで手間かけさすんじゃねぇっ!!」

「は、はい!!」


再度、貴子に強く肩を叩かれて。

呆然として立ち尽くす健夜に一瞬だけ目を向けるが――立ち止まることなく、準決勝の舞台に向けて駆け出して行った。






京太郎の朝は早い――というより、早くならざるを得ない。


「……」


太陽が昇り、外からキジバトの鳴き声が聞こえてくる時間帯。

窓から差し込む朝陽を遮るように、無防備な寝顔を晒す京太郎の枕元に一つの影。


「……グッモーニン……」


耳元でボソボソと囁く声。

当然のことながら起きる筈もなく、京太郎は依然として安らかな寝息を立てている。

その様子に、やれやれだと肩を竦める影。


「しょうがねーですね、全く」


すぐに起きないのならば仕方が無い。

これは不可抗力。

そう、あくまで出来の悪い弟を起こす為の行為なのである。


「では、さっそく……」


静かにゆっくりと、眠る京太郎の唇に落とされる口付け。

一切の躊躇いがなく、そして遮るものもないそれは、貪るように京太郎の唇と重なった。



「……ッ!、ンッ!」


堪らず、目を覚ました京太郎がもがいても御構い無し。

マウントポジションを取られた上に両手でしっかりと押さえ付けられては抗う術はない。

侵入してきた舌を押し返そうとすれば絡め取られ、逆に良子の口内に引きずり出されてしまう。


「――ッ!」


息苦しくなり、限界だとタップすれば、良子から息を送り込まれる。

唾液と息と、甘い匂いで京太郎の中が満たされていく。


「んー……ご馳走様」


そうしてたっぷり、良子が満足するだけの時間が経った頃。

解放された京太郎はすっかり頬を紅潮させて、肩で息をしながら良子を見詰める。


「……じゃなかった。グッモーニン、京太郎」


爽やかとは言い難いが、眠気など欠片も残さない目覚め。

これが、この姉弟の毎朝の光景だった。






「ほら、ちゃんとここも流して」


しっかりと目が覚めたなら、次は着替え……の前に、シャワーで寝汗を流す。

時間短縮の為、二人で一緒に浴室に入る。

義姉曰く、こうすることで待ち時間を失くせる上に一人では手が届きにくいところも隅々まで手が届くので一石二鳥だという。


「また、少し逞しくなったね」


シャワーで気持ちをリフレッシュさせたら今度こそ着替え。

当然、二人で一緒に着替えをする。

互いに手伝いながら着替えをすることで、体におかしな部分があればすぐに気付くことが出来る。

義姉曰く、呆れるほど有効な時間の使い方だとのこと。








着替えを済ませたら、二人並んで台所に立つ。

朝食の準備と、昼飯のお弁当の準備である。


「唇にご飯粒が……今、手が離せないからとってくれない?」


残念ながら京太郎も両手が塞がっているので、口で取る。

弁当も最初は良子が一人で用意していたのだが、それでは申し訳ないと京太郎も手伝うようになり。

当番制になった時期もあったが、いつの間にかに有耶無耶になってしまった。


「――いただきます」


そして、朝食。

言うまでもないが、互いに食べさせ合う。

好き嫌いなく栄養のバランスが取れる非常に効率的な方法である。









朝食の後、一緒に食器を片付けたら歯磨き。

勿論、互いに互いを磨きあう。これで客観的に汚れが残っていないかを確認できる。

これらの全てを終えたら、ここで初めて一旦別れる。

京太郎は学校の準備で、良子は仕事の支度で。


「怪しいものは……大丈夫かな」


お互いの支度が終わったら、鞄の中身のチェックも怠らない。

万が一、不審な物が入っていたら大変なことになる。

物騒な世の中、用心するに越したことはない。


「それじゃ」

「いってきます」


全てを終えたら手を繋いで一緒に家を出る。

これで鍵の閉め忘れを防げる。

ご近所さんへの挨拶も忘れずに行い、最後に抱き合ってから、京太郎は学校に向かい、良子は職場に出向く。

目覚めた時から余裕が出来るように行動しているからこそ、こうして姉弟愛を確かめる時間が残るのである。









学校に着いたら、無事に着いたことをメール。

休み時間が来たら、その度にメール。

何か特別な事があれば放課後に電話することを義務付けられている。

報告、連絡、相談は社会人になれば必須になるので、今の内に慣れておけという義姉の心遣いだ。


「おかえりなさい」


部活の後に何も無ければ、出来るだけ急いで帰宅。

玄関の前で待つ良子と抱擁を交わし、お互いにボディチェック。

不審な物が見付かれば即座に処分、決して家に入れないようにする。


「これは……何?」


ここでもし、良子のチェックに引っ掛かるような物が発見されれば、それは報告に漏れがあったということ。

京太郎から見れば他愛ない物でも、保護者の観点から見れば見逃せない物かもしれない。


「いい? 下駄箱に入っていた手紙なんてのは、他の人には見せられないような禄でもないような内容だからね。今度からは読まずに捨てるように」


長い追求の後に、しっかりと念を押される。

少し厳しいかもしれないが、これも義弟の将来を思ってである。

それがわかっているだけに、京太郎も感謝することはあっても、煩わしく思うことはない。
















夕食の光景は朝と変わらない。


「でさ、その時に咲が――」

「ふむ……成る程」


メールで連絡したことを、口頭で伝えながら食事をする。

京太郎はトッププロである義姉の活躍に尊敬の眼差しを向け、良子は義弟の話を興味深く聞く。

仲睦まじい姉弟の食卓だ。


「しっかり洗うよ。汚れを残さないように」


食事の後は、風呂。

これも朝と大差は無いが、より念を入れて全身を洗われる。

時折、痛いほどに背中を流されるが、それも愛があってのこと。


「ふー……気持ちいいね。本当に」


浴槽は二人で一緒に入るには少し狭く、肌が触れ合うがそれも仕方ないこと。

しっかり身体の芯まで温まるように、義姉と抱き合って百を数える。

風呂から上がったら宿題や仕事を済ませ、寝るまでの間にお勉強会。

部活で麻雀の練習が疎かになりがちな京太郎の為に、義姉が特別に指導してくれるのだ。

義姉曰く、麻雀に関しては京太郎もそれなりに潜在能力があるらしい。


「ふふ……そうそう、いい子だね」


そうして指導が上手くいった時、義姉は嬉しそうに微笑んで、いつものように――











「待った待った。ちょいタンマ」

「はい?」








――戒能プロってイタコだとか傭兵だとか言われてるけど実際どうなの?


「えっと、まだまだ続きますけど」

「いや、もういいわ。お腹いっぱい」


久は、単純な好奇心で質問したことを、後悔していた。

最初だけはドン引きしながらも冗談だろうと笑い飛ばせたが、淡々と事実を語る京太郎に、これ以上は聞いてはいけないと悟った。

咲やまこがこの場にいないのは、幸いと言えるだろうか。


「まさか、あの戒能プロが……」

「私が、何か?」

「……へ?」


思わずベッドから起き上がる。

噂をすれば影、とでも言うのか。


「あ、姉さん」


たった今までの話題の中心人物、戒能良子が、部室の入口に立っていた。






「どうして?」

「いつもより、帰りが15分遅かったからね」


そう言うなり、良子は京太郎の手首を掴む。

有無を言わせぬその姿に、久も何と声をかけていいのかわからない。


「……あなたが、ここの部長ですか」

「は、はい」


ジロリと、頭の天辺から爪先までを睨め付けられる。

蛇に睨まれた蛙。今の久はまさしくその状態だった。


「……今日は大目に見ますが。次に、このような事があれば」


それだけを言い残すと、良子は京太郎を引っ張って、さっさと部室から出て行ってしまった。

一人部室に残された久は、その言葉の続きを想像して、背筋を震わせた。






「久しぶりだな、姉さんの運転する車に乗るの」

「そうだね……今度の休み、ドライブに行こうか」


助手席に京太郎を乗せ、鍵を差し込む。

運転を始める前に、京太郎と口付けを交わすことも忘れない。

教師や生徒に見られるかもしれないが、むしろ望むところである。


「あ、そういえば春から電話あったよ」

「へぇ……なんて?」

「久しぶりにこっちの方に来るって」

「……グッド。それは、楽しみだね」


良子は、少しだけ乱暴に、アクセルを踏み込んだ。














『英語、話せるの?』


最初は、ただの見栄だった。


『イ、イエス!』

『かっけぇ!!』


血は繋がっていないとはいえ、新しく出来た家族。

仲良くしたい。良いところを見せたい。

その一心で、良子は京太郎にとっての『理想の姉』であり続けた。


『姉さん!』


素直な義理の弟は、尊敬の眼差しを向けてくれた。

慕ってくれるのは嬉しい。懐いてくれるのは気持ちが良い。

そうして頑張って、義弟の期待に応える為に色々と新しいことを覚えていたら、いつの間にかにイタコやら傭兵やらソロモン王やら言われるようになったけど――それは、些細なことだ。


『京太郎くん』

『京ちゃん』

『京太郎』


いつからかは、わからない。


『ごめん、姉さん。また後で』


ただ、気が付いたら、義弟の周りは、随分と人が増えていて。


『ね、姉さん?』


京太郎が、自分以外の女に目を向けるのが。


『京太郎。ちょっと、いいかな』


何よりも、許せないと感じるようになった。





『どうして、そんな目を?』

『どうして、何の努力もしていないのに?』

『どうして、私には――』



一つ崩れれば、更に一つ。

一つ縛れば、更に一つ。

流れるように、自分の中が壊れていくのを、止めることが出来ない。


『……そうだね。一つ、私の言うことを聞いてもらおうかな』

『大丈夫』

『京太郎の、ためになることだからね』



素直な義弟は、本当によく、言うことを、聞いて、くれた。



「姉さん? 信号、変わったけど」

「あ……ん、ありがとう」


もう、止まれない。

良子も京太郎も、とっくのとうに、壊れてしまった。


「疲れてる? 夕飯は俺が作ろうか?」

「そうだね……お願い、しようかな」


もう、誰にも止められない。

死が二人を分かつまで。

二人だけの歪な日常は、止まることなく回り続ける。




【義姉】











貴子は炎のような激情を瞳に宿し、健夜を睨み。

健夜は、泥沼のように濁りきった瞳で、貴子を見上げる。


「おかしいと、思ったんだ」


もう間も無く準決勝が始まるというのに、京太郎が姿を見せない。

嫌な予感がした。あの時のように。


「……」


健夜は答えない。ただ瞳に宿す感情は、許さないというものだけ。


――彼は、私のもの。


交わる二人の視線、想いの底にあるものは、互いに同じ。

絶対に譲ることの出来ない、呪いのような感情が、彼女たちを縛り付けていた。

『準決勝、終了――!!』


「ふぅ……」


男子個人戦、準決勝。

直前の出来事が気掛かりで、序盤は本来の調子が出せず、危うく敗退するところだったが。


「……ありがとう、ございました」


彼女たちを想うなら、それこそ負けるわけにはいかない。

最後に役満を直撃させ、見事にトップを奪い取った京太郎は、決勝戦へと歩を進めることになった。

恩師たちと対局相手への敬意を胸に京太郎は頭を下げて、準決勝の舞台を後にした。



「おめでとう☆」

「おわっ!?」


胸な残る勝利の余韻と、頭から離れない健夜と貴子の確執。

複雑な想いを抱え、控室へ戻る京太郎の前に、廊下の曲がり角から姿を現したのははやりだった。

不意打ち気味に現れた彼女に、京太郎の心臓が跳ねる。


「び、ビックリしたぁ……」

「ごめんね。でも、すぐにお祝いしたかったから」

「いえ……ありがとうございます。お陰で、勝てました」


昨日のはやりの「お礼」という名の指導。

アレがあったからこそ、自分は勝つことが出来た。


「あはっ! それじゃ、さっそくお祝いにいこっか。奢ってあげる☆」

「えっ」


牌のおねえさんの手が、京太郎の手を握る。

温かく、柔らかい感触が伝わってきた。




「すいません、折角ですけど……」


はやりの気持ちは大変ありがたいが、今の自分にやるべきことはまだ他にある。

それに、素直にお祝いムードに浸る気にはならなかった。


「そっかー……じゃあ、しょうがないね」

「すいません」

「ううん。京太郎くんにも都合があるもんね」


名残惜しそうに、はやりは京太郎の手を離す。

いつか埋め合わせをすると決めて、京太郎ははやりと別れ、その場を後にした。



「……えへへ」


廊下の曲がり角に消えた、京太郎の後ろ姿を見送った後。

はやりは、未だに彼の熱が残る掌を胸に、その場に座り込んだ。


「ダメ……♪ まだ、我慢しないと……♥」


溢れ出る気持ち。


「あぁ……はやくぅ♪」


とめどなく込み上げてくる衝動を、はやりは辛うじて、胸の奥に押し留めた。











――準決勝、お見事!


控室の扉を開けた瞬間、何かが破裂する音と、パラパラと頭上に降り注ぐ紙の破片。

どうやら、一回戦の時のように部長がくす玉を用意してくれていたらしい。

しかも、紙片が妙にキラキラしていて一回戦の時よりも少し豪華な仕様になっている。


「はは……ありがとうございます!」


大分、気が楽になったというか。

胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。


「……すいません。ちょっと、いいですか」


お祝いの言葉をくれる友人や、さっそく決勝戦に向けて対策会議を始めようとする先輩たち。

一杯のカツ丼から始まった縁に、本当に、助けられたと思う。


「ホント、申し訳ないんですけど」


だけど。

ずっと、目を話していたことに、向き合わないといけない。


「今から会いに行かないと、いけない人がいるんです」


このまま決勝戦に進んで、優勝したとしても――きっと、幸せには、なれないから。







あの日からずっと、彼を想い続けた。

抱き締めて、愛してくれた、あの時みたいに。

他には何もいらなくて、二人だけいればそれで良かった、あの記憶の中の日のように。


「……ここに、いたんですね」


健夜が泊まる、ホテルの屋上。

沈みゆく夕陽を見詰めながら、思い出に浸る健夜の背中に。


「……来て、くれたんだ」

「ええ……随分と、探しましたよ」


切れた息を整えながら、京太郎が声をかけた。







勢いで格好付けて飛び出して来たはいいものの、肝心の健夜の場所がわからず。

会場内を隅から隅まで走り回り、彼女の仕事のパートナーである恒子に聞けばいいのではないかと思い付いたのがついさっき。


「でも、来てくれたんだぁ♪」

「はは……」


運命の再会とは到底呼べない、泥臭いものだが。


「聞いてくれますか、俺の話を」


お陰で健夜と、会うことが出来た。



――もういい。君だけが、いてくれたら。

彼の胸に縋り付いて、涙を流した記憶。


「なぁに?」


互いに一目見た時から、健夜も、そして京太郎も、その記憶に縛られている。


「えっと……ですね」


彼女を拒んではいけないと、重く泥のように絡み付いた想い。

全てを捨て去って、彼女を抱き締めたくなる気持ち。


「うん?」


だけど、今の京太郎には、大切な物が多過ぎる。

受け取った想いや、繋いで来た縁。

何もかもを捨て去って、健夜を受け入れても、きっと彼女を幸せなお嫁さんにしてあげることは、出来ない。

だから。


「――お友達から、始めませんかっ!!」












「……え?」


言われたことが理解できない、そんな標準。

けれど見開かれた瞳は。


「な、なにを……?」


京太郎がよく知る、健夜のそれに、よく似ていた。


「えっと……健夜さんは、恒子さんのことは嫌いですか?」

「……私は、君だけがいれば――」

「嫌い、ですか?」

「……そんなことは、ないけど」


京太郎は、俯いて目を逸らす健夜の手をとった。

夕方の屋上の、冷えた風に当たった手は、少し冷たくなっていた。


「……大事な、人だから。このままだと、きっと、幸せにはなれないから」

「……」

「だから、みんなで、幸せになるために」


「お友達から、始めませんか?」







冷たい風が、二人の頬を撫でる。


「……なに、それ」


身を震わせた健夜を、少しでも温めようと、自分の意思で、抱き締める。

胸に、湿った感覚がした。


「……また、抑えられなく、なるよ?」

「何とかなります。何とかします」

「嘘ついたら、酷いよ?」

「大丈夫です。何とかしてくれる人もいます」

「まったく、本当に……君は」


「……うん。でも、だから――」



続く言葉は、風に掻き消されて、京太郎の耳にしか届かない。

だけど、きっと。

あの記憶に縋るのは、これが、最後になるだろう――






コンクリートに、固い何かを叩き付ける音がした。


「……ん?」

「どうした、の?」

「いえ……」


見渡しても、屋上にいるのは京太郎と健夜だけ。

そして、今の音が聞こえたのは京太郎だけのようだ。


「いえ……そろそろ、戻りますか。冷えてきましたし」

「そうだね」


沈む夕陽を反射して、小さなレンズの破片がキラリと光った。












――何か、スゴくいい顔になって帰ってきたわね。


翌日、部長の開口一番の言葉。

確かに、今の自分はとても健やかな気分である。

昨日のあのくす玉には、本当に助けられた。

今思えば、藤田プロに指導してもらえるようになったのも、ある意味で部長のお陰であるし。

そう考えると、彼女には感謝してもしきれない。


――そ、そう? そっかー。


赤くなった頬をポリポリと人差し指でかく部長。

何と言うか、新鮮で可愛らしい。


――な、なに言って……。


「あ、すいません……電話が……」


「――ちょっと、行って来ますね!!」




――あ! ま、待ちなさい!!……もう。



そんな、舞台裏の光景。





貴子に電話で呼び出された先は、先日訪れた雀荘ではなく、彼女の泊まる部屋だった。

部屋の前でノックをしようと右手を胸の辺りに上げたところで、先にドアの方から開いた。


「おう、来たか。入れ」

「お、お邪魔します……」


手持ち無沙汰になった右手をそっと下げて、京太郎は貴子の部屋へと入った。



「座れ」

「は、はい」


年上の女性の泊まる部屋にお邪魔するのはこれで三度目だが、良子やはやりに招かれた時よりも緊張する。

それは相手が鬼コーチというせいだろうか、それとも。


「ほら、お茶」

「は、はい……いただきます」


縮こまりながら、差し出されたお茶を口にする。

砂糖が入っているのだろうか、少し甘い味がした。


「まずは準決勝突破、おめでとう。やるじゃねえか」

「あ、ありがとうございま」

「で、だ」


貴子の目が、細められる。


「昨日、電話に出なかったようだが――お前、何をしていた?」





「それは……」

「……あの人に、会っていたな?」

「……っ」


一見すると、貴子の瞳は冷静だ。

しかし、彼女の握られた拳から、滴る物は。


「……どうしても、行かないと、駄目だったんです」

「……ほお?」

「俺がやらないと、いけないことだったんです」



「……私の知らないところで、勝手なマネすんじゃねえ」

「で、でも」


貴子が、拳を机に叩き付ける。

彼女の手の甲の皮が剥けて、血が出ていた。


「……お前にッ!」

「っ!」

「お前にッ! 何かあったら!! 私はッ!!!」


初めて見る、貴子の顔。

鬼コーチの顔でも、優しく褒めてくれる時との顔でもない。


「それを、お前は……ッ!!」

「貴子、さん……」


一滴の透明な雫が、机の上で弾けた。







貴子の涙。

ここにきて初めて京太郎は、これ程までに貴子に愛されていたのだということを、理解した。


「貴子さん……」


その涙を拭わないといけないと、京太郎は手を伸ばし――



「……ああ。わかったよ」

「っ!?」


――伸ばした腕の、手首を掴まれる。

あまりの痛みに、言葉にならない声が漏れた。


「本当に、お前は……危なっかしい、教え子だ」


もう片方の手で、胸倉を掴まれ、引き寄せられる。

抵抗することは、出来なかった。


「だから、よぉ」

「た、貴子、さ……」


「私が、ずぅっと」


力付くに押し付けられ、重なる唇。

獣が獲物に食らい付くように、乱暴なそれは。


「……見てやらなきゃなあ?」


「お前」が「私」の所有物だと、刻み込むようだった。





「駄目だ……貴子、さ」

「ん?……あぁ。確かにな」


貴子が、乱暴に上着を放り投げ、部屋の明かりを消した。

扉は堅く閉されて、貴子の意思が無ければ開くことは出来ない。


「……私が見てるだけじゃあ、意味がない」


「しっかりと、お前の方からも、私だけを見るようにしなくちゃなあ」


京太郎は、動けない。

身体は、貴子に押さえ付けられているから。

心は、彼女に逆らってはいけないと、刻み込まれているから。


「あぁ……安心しろ。向こうには連絡してある」


「今のお前は、私に身を委ねていれば、それでいいんだよ」



暗闇の中で、互いの血が流れ、交わった。



「ほら、コレ」

「あの三流マスコミ。まだ諦めてなかったらしい」

「あ?……あぁ、心配すんなよ。警告しただけだ」


「また次となればわからないけどな」






須賀京太郎。

高校一年生から麻雀を始めたにも関わらず、あっという間にインターハイを制覇した雀士。

高校を卒業した後にはすぐにプロとしてデビューし、数々の功績を残した。

彼を天才だと讃えるメディアもいれば、指導者が優秀だったとする見解もある。

そして、スキャンダル等も全くなかった、彼の傍らには常に――



「京太郎……わかってるよなぁ?」


「何で、あんなに生温い打ち方をした?」


「相手が、アイツだったからだろう?」


「……は。まぁ、いい」


「本当にお前は、危なっかしい――」




【ED おによめ】





【宮守出会い編より】


「はは、仲良きことは――てね。それじゃ、いくよ。ハイ、チー、ズ!……っと」


3年生の女子が五人に、1年生の男子部員が一人。

京太郎を真ん中にして撮影された集合写真。

今この瞬間より、宮守高校麻雀部の活動が始まるのである。


「ふぅ……」

「ちょ、小瀬川先輩」


撮影が終了した瞬間、肩の力を抜いてマスコットキャラのパンダのようにダラけるシロ。

それだけならまだしも、寄り掛かる先が自分ともなれば、京太郎も平常心は保てない。


「シロでいいって」

「そ、そんなこと言われても……」


柔らかく、温かく、良い匂いがする。

加えてシロのスタイルは非常に京太郎好みなのもあって、つい鼻の下が伸びてしまう。

正直、役得であるが――


「むー……っ」

「はっ」


――周りからの視線の刺々しさに気付かないほど、京太郎も鈍感ではなかった。



「んっ。コホンッ」


わざとらしく咳払いをして、無理矢理平常心を取り戻す。

寄り掛かるシロの肩に両手を置いて、自分から引き離す。


「ほら、しっかりして下さいよ」

「ダル……」


渋々と、それでも真っ直ぐ背筋を伸ばして立つシロに内心で溜息を吐く。

やれば出来るがやらない人、それが小瀬川白望という先輩である。


「まったくもう……」


……が、それにしても、やたらと甘えられることが多いような気がする。

他の4人の先輩も妙にスキンシップが多いし。


「……本気に、しちゃいそうだ」


思わず、ボソリと漏れた呟き。

秋波が送られてる、モテ期が来てると純粋に喜べたら良いのだが、5人の美人から同時に好意のベクトルが送られるなど信じられない。

そんなものは、物語の中でしか――


「いいよ。本気にして」

「……は?」

「あの日に一目惚れした。好きだよ、京太郎」

「え、いや、その」


真顔でいながら、頬には朱が差している。

冗談や勘違いではない。

ライクではない方の意味で「好き」のベクトルが、京太郎に向けられていた。


「だ、ダメだよーっ!!」

「姉帯先輩っ!?」


が、そのベクトルを遮る大きな影。

豊音に両手で力一杯抱きかかえられて、185cmの長身がぷらりと浮いた。


「京太郎くんは私の王子様だもんっ!!」

「ん、んんっ!?」

「ちょっと待った!!」

「わ、私だって!」

「I love you more than words can say!!」


雪崩れ込むように次々と突き刺さる熱愛の視線。

最早これは、勘違いのしようもなく。


「は、ははは……」



やっと、京太郎は理解した。

自分を取り囲むようにして撮られた集合写真。

みんなが、はにかんだような笑顔を浮かべているのは――



【温いラブコメ編、スタート】








須賀京太郎には悩みがあった。

自分の所属する麻雀部でのことだ。


「京ちゃん。ここはね――」


自分の手番時に、あまりよろしくない手牌を前にして悩んでいると、後ろから添えられる手。

京太郎の少しゴツゴツした手の甲に、ほっそりとしたなめらかな指が重なった。


「……照さん」

「ん?」


コテン、と小首を傾げる照はとても可愛らしい。

対局時とのギャップも相まって彼女の魅力を引き立てていると思う。

添えられた手の指先の爪は綺麗な桜色で、よく整えられている。

少し天然な面もある照だが、こういうところを見ると、女性としても努力しているのだと更に魅力を感じて――


「――いや、後輩の指導は部長の役目だろう?」

「……む」

「……あっ」



可愛らしい、というよりは凛々しいという表現が似合う声。

白糸台高校麻雀部部長、弘世菫が照の前に立ちはだかった。


「さ、ここは私に任せろ」


空いたもう片方の手に、菫の白魚のような指が添えられる。

ついでに彼女は気が付いていないのか、密着している肘に彼女のおもちが当たって、京太郎の心中は非常に穏やかでない。


「ぶ、部長っ」

「菫と読んでくれ。君と私の仲だろう?」


――いや、それただの部員と部長の関係ですよね?

そう突っ込みたくても、より強く母性の象徴を腕に押し付けられては、京太郎はコクコクと頷くことしかできない。






右手に照を、左手に菫を。

インターハイチャンピオンと、王者白糸台の部長に挟まれているという状況。

見方によっては羨ましいと言えるかもしれないが、


「……私の方が、京ちゃんのことはよく知ってるから。菫はあっち行ってて」

「いや、ならば尚更、私が手取り足取り教えるべきだな。部長としても、部員のことはしっかり把握しておかないと」


二匹の虎に挟まれた当の本人は、いつ喰われるのかと怯えるのみである。



「本命の部長に一票」

「じゃ、対抗馬の宮永先輩に」

「渋谷先輩かな、ちょっとしたアピールがね」

「良い先輩の亦野先輩で」

「私は大穴の大星かなー」


いつの間にやら、部内には「いつ京太郎が食われるか」などというトトカルチョまである始末。

部活では照と菫、教室では淡、休憩中には尭深、休日に遠出すれば誠子が。

ここ最近、必ずチーム虎姫の誰かが隣にいる。


「はぁ……」


チーム虎姫のみんなを嫌っているわけではない。

好きだからこそ、悩むのである。


「京ちゃん」

「須賀くん」


――どっちがいい?


どの選択肢を選んでも、京太郎に喰われる以外の未来は、無い。



【プチ修羅場ーズ】





スカートをくいくいと引っ張る小さな手。

自分を見上げる、丸くてあどけない瞳。


『おねーちゃんが、おねえちゃん?』


――アレは、天使との出会いだった。

藤田靖子は後に、この時の出会いをそう振り返っている。










――結婚。

夫婦になること。愛の結実。人生の墓場。ゴールイン。

愛、幸せ、夢、利益。

一言で言い表せる言葉でも、その背景には複雑な思惑が絡み合うが、一般的に祝福されることには違いない。

披露宴で煌びやかな姿を見せる新郎新婦は、多くの女子の憧れである。


「んー……」


だが。

片手の指で数えられる年齢の子どもに、それが理解できる筈もなく。


「退屈?」

「うん」


椅子に座って大人しくしてはいるが、足をブラブラさせて退屈そうな様子。

どちらかと言えば外で走り回って遊びたい年頃の京太郎には、「じっとしていろ」という親の言葉は苦痛でしかない。


「やれやれ……」


いかにも子供らしい義弟の態度に、靖子は苦笑を零した。






みんなが幸せそうな顔をしているが、京太郎には今一理解できない。

キッズ用のフォーマル服は窮屈だし、早く帰りたい。

そんな不満がありありと滲み出る京太郎の頭を、靖子は優しく撫でた。


「お嫁さんってのは、とっても幸せなんだよ。見てる皆もね」

「ふーん……? どれくらい?」

「何よりも、かな。お義父さんの両手よりも、ずっと大きい」

「んー……」

「京太郎にも、いつかはわかる日が来るさ。好きな人と結ばれる日がね」


「……じゃあ」

「ん?」


「ねーちゃんとケッコンしたら、わかる?」









「……ク、クク」

「ねーちゃん?」

「いや……うん、15年は早いな」

「えー?」


靖子の言葉の意味は相変わらず理解できない。

しかし、優しく頭を撫でてくれるこの手の平は大好きだった。


「……そうだな、後で私の部屋においで。いいものをあげよう」

「いいもの?」

「フフ……」



披露宴の後、靖子に与えられたプレゼント。

黒光りする革製のそれは、京太郎の期待した玩具ではなく――


「……くびわ?」

「これはね、チョーカーっていうんだ」


目が点になっている京太郎の首に、靖子がチョーカーを着ける。

分厚いなめし革に銀の銀の金具による装飾が施されたそれは、幼い京太郎には少々不釣り合いだった。


「……キツイ」

「やっぱり、京太郎にはまだ早いか」

「なにがー?」

「フフ……」

「おねーちゃん?」


「それが似合うようになったら……さっきの意味も、きっとわかるさ」




「……なーんてことも、あったそうよ」

「ほぇー」


人差し指を立てて何故か得意気に説明する久と、呑気に口を開けて頷く優希。

話題の中心人物である京太郎は、恥ずかし気にそっぽを向いていた。


「どうしたの? 京太郎」

「どうしたもこうしたも……」


――知り合いのプロに頼んでるから。二人をヘコませて欲しいって。

――知り合い?

――そ。京太郎もよく知ってる人よ。

――あ、もしかして姉ちゃん?


……だなんて会話を、優希の前でしてしまったのが運のツキ。

根掘り葉掘り尋ねてくる優希に、ペラペラよく回る久の口は留まることを知らず、次々と京太郎の幼少期の記憶が丸裸になった。





「にしても、お前がなー」

「……なんだよ」

「おねーちゃんっ子だったとは。シスコンってやつか!」

「昔の話だよ、昔の」


いつものようにじゃれ始める二人を横目に、久は小さく溜息を吐いた。

京太郎にも優希にも聞き取れなかったそれは、久の胸の内側の虚しさを大きくさせる。


「本当に……昔の話なら、良かったんだけどね」


その時に貰ったチョーカーを、御守りのように鞄に入れて常に持ち運んでいることを、久は知っている。

彼の私服が若干パンクファッション寄りなのも、誰の影響なのかは明らかだ。

不利な状況から捲りを狙うことが多い彼の麻雀でのプレイスタイルは、誰を意識しているなんてのは最早、言うまでもない。



同性の久から見ても、ヤスコは格好良いと思う時がある。

その彼女を幼い頃から見て育ってきたのだから、ヤスコという存在は京太郎の中で非常に大きなウェイトを占めているのだろう。


「でもさぁ……」


――遠くの灯りばかり追いかけていないで、少しは身近にある物に目を向けてくれてもいいじゃないか。


「部長?」

「なんでもないわ」


そう言い出すことが出来たのなら、久もここまで悩まない。

彼女の得意な悪待ちは、こういう時には決まらなかった。



京太郎が清澄に入学して、麻雀部に来てくれたかと思えば、今度は同級生の和に鼻の下を伸ばす始末。

咲とはあくまでも友達のような関係らしいが、何となく怪しいような気もするし――


「……あ」


――と、ここまできて久は、忘れていた重要なことを、思い出した。


「そういえばヤスコって……」


京太郎が重度のシスコンであることは疑いようのない事実であるが、ヤスコも負けず劣らずのブラコンだ。

その彼女に、咲と和をぶつけさせるということは――


「……まぁ、何とかなるでしょ。多分」





――。


「あなたたちが、ねぇ」

「な、何ですか?」


煙管を吹かしながら、品定めをするように和と咲を見詰める女性。

微かに敵意のようなものが含まれたそれに加えて、圧倒的な威圧感。

見知らぬ相手にそのような感情を向けられる道理はなく、咲と和が戸惑うのも無理はない。


「『私の』京太郎が、随分と世話になっているようで」

「私のって……あなたは?」


だが、たとえ見知らぬ相手でも、その口から出た言葉は見逃すことはできない。

視線に精一杯の力を込めて、咲はその女性を睨み返した。


「えぇっと……」


置いてけぼりにされた和は、ただ首を傾げるばかりである。





――義姉、先輩、幼馴染。

本人の知らないところで、彼を取り囲む輪は、徐々に狭まっていく。

何よりも強固な素材で形作られたそれは、拘束が強まることはあっても、決して緩むことはない。


「大丈夫かな、二人とも」

「大丈夫だったら、ある意味困るのだけどね」


緩やかに、その輪は狭まっていく。

やがて、限界を迎えて千切れるその日まで。



【義姉】







「ま、まさかお前に……」

「へ、どんなもんだ」


決勝前の調整と称した部内対抗麻雀。

先輩二人と同級生を抑え込み、京太郎が首位の座を獲得した。

京太郎の後ろは2位の久、3位のまこと続き、優希が最下位。

信じられないと言わんばかりに震える優希とは対照的に、したり顔で胸を張る京太郎。

久とまこの先輩コンビも、驚いて目を丸くしている。


「……ふ。やっぱり、私の目に狂いはなかったわけね」

「あんたが得意気になってどうする」


ちょうど京太郎にツキが来ていたのもあるが、長野県予選の時よりも確実に強くなっている。

ほぼ毎日のようにしていた朝帰りも、どうやら無駄なことではなかったらしい。

ここまで京太郎が強くなったのは、やはり――


「……そっすね。部長のお陰です」

「へ?」

「本当に、ありがとうございます」

「え、あ……う、うん。当然ね、折角特別コーチを用意してあげたんだから――」


――と、そこでタイミングが良いのか悪いのか。

京太郎のポケットから携帯の着信音。

液晶に表示された、その名前は――



メールを送ってきた相手は戒能良子、京太郎が東京に来てから出会ったプロの一人。

そのメールの内容は、準決勝突破を祝うものに加えて、優勝祈願のおまじないをかけてくれる、とのこと。


「おまじない……ってことは」


京太郎の脳裏に浮かぶのは、先日の扇情的な巫女服を纏った良子の姿。

意識せずとも鼻の下が伸びてしまうのも、仕方のないことである。


「……須賀くん?」

「あ、いや、何でもないっす!」

「ふぅん……?」


久の探るようなジト目。

居心地が悪くなった京太郎は、携帯をポケットにしまうと、さっさと立ち上がった。


「すいません! ちょっと急用が!」

「あ、また!!」


そのまま、勢いよく駆け出す。

向かう先は先日と同じ、良子の宿泊するホテルだ。

「ふぅ……」


部長をやり過ごし、無事に良子の泊まる部屋の前まで辿り着く。

この部屋に来るのは二度目。

お払いだとか何だとかで、良子のキャラも相まって、前回は非常に胡散臭い体験をした。


「でも……それで、何だか調子が良くなったんだよなぁ」


そのお払いの効果かどうかは定かではないが、それ以来ツキが良くなったのは事実。

であるならば、きっと何かしらの意味はあったのだと信じたい。

何だかんだで、目の保養的にも美味しい体験だったわけだし――


「……そういや」


――何故、良子はここまでの厚意を自分に向けてくれるのだろうか?

今まで考えたこともなかったことが、頭の中を過る。


「……知りたい?」

「うわっ!?」


いつの間にやら、開いたドアの隙間から覗く良子の目。

バッチリと目があった京太郎は、驚きで腰を抜かしそうになった。


「ウェルカム。どうぞ、中に」

「お、お邪魔します……」


果たして、この人を理解できる日は来るんだろうか。

そんなことを考えながら、京太郎はおっかなびっくり良子の泊まる部屋に足を踏み入れた。




――部屋へと通された後の流れは、前回と変わらなかった。

決勝を間近に控えてるという事実を胸に、良子の誘惑を辛うじて耐え、おまじないをかけてもらうのだが――


「……む?」


巫女服姿の良子が、京太郎を改めて見て、眉根を寄せる。

何か、気にかかることがあったようだ。



「ソーリー、気のせいでした」

「はぁ」


一瞬、霊的なモノやスピリチュアル的な単語を想像した京太郎だが、杞憂に終わったらしい。

その後は滞りなくおまじないが進み、あっという間に夕方になった。


「おお……何だか、身体が軽い……気がする」


所謂プラシーボ効果というヤツかもしれないが、気分がスッキリしている。

グルングルン肩を回す京太郎に、良子はくすりと笑い――


「京太郎」

「はい……え?」


――チュッ

耳と、首筋。

それぞれに柔らかい感触と、湿った音。


「え、ぁ……」

「ふふ……今のは、おまじないとは別だから。覚えておいて」


……その後のことは、記憶が曖昧だ。

ただ、男子トイレの鏡を見たら、虫さされのような赤い斑点が出来ていた。







「京太郎くん♪」


宿泊先への帰路の途中。

まるで待ち構えていたかのように、道端で牌のおねえさんに出会した。


「奇遇だね!」


耳心地の良い声。

先程の出来事で上の空だった京太郎の瞳に、意思が戻る。


「瑞原さん」

「はやりでいいよ。一緒のベッドで一晩過ごした仲なんだし☆」

「はは……」


道端で爆弾発言を投下するはやりに、苦い笑みが漏れる。

間違ってはいないが、その言い方では必ず誤解が生まれる。

はやりがオフ用の軽い変装をしていることと、周りの人影が偶々少ないだけあって、問題になることはなさそうだが――


「んー、コレって……?」


ニコニコと笑顔を浮かべていたはやりの雰囲気が、一変する。

じっと、はやりが見詰める一点。

それは、京太郎の――



「それなに?」

「えっと、ですね……」


はやりが見詰めながら指を差す一点は、京太郎の頬。

正確には、京太郎の頬の赤い斑点。


「……」


……理由は、明らかだが。

おいそれと話していい内容でもない、気がする。


「……虫さされ、だと思います」

「ふーん?」


蛇に睨まれた蛙。

牌のおねえさんに見詰められた京太郎は、何故だかそんなことをイメージした。

「……屈んで」

「え?」

「屈んで。はやく」


有無を言わせないはやりの声音。

テレビでも現実でも、彼女のこんな様子は初めて見る。

自分よりもずっと背丈の小さな、されど遥かに目力のある瞳を持つ彼女に見詰められて、京太郎は静かに膝を曲げて腰を落とした。


「消毒、してあげるね」









啄ばむように、はやりの柔らかい唇が、京太郎の頬を挟んだ。

そのまま拒む間を与えず、続けて舌先がほをねぶりまわす。


「……がんばってね。京太郎くん、人気者だから、色々と大変だと思うけど」


――それから、どれだけの時間が経ったのかは、わからない。

はやりの成すがままにされる京太郎には、一瞬のようにも、長い時間のようにも感じた。


「はやりも、そういう話は色々と知ってるから……困ったことがあったら、来てほしいな」


耳元で囁く、頭を蕩けさせるような甘い声。


「勿論、一人で……ね」



その言葉の内容が理解出来ずとも、京太郎の首は自然と頷いた。


「ふふ……それじゃあ――また、ね?」



京太郎が我に返った時には、はやりの姿は、もう無かった。

白昼夢でも見ていたような感覚と、立ちくらみのようにフラつく足元。

けれど、風を浴びる湿った頬の冷たい感覚と、襟から漂う甘い残り香は、確かに彼女が存在していたことを、しっかりと京太郎に伝えていた。

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最終更新:2026年01月05日 20:29