――どうして、こんなことになってしまったんだろう。
「ふふ……旦那さまぁ♥」
「今夜も……精一杯、ご奉仕しますね」
一糸纏わぬ少女たちを前に自問しても、答えは出ない。
彼女たちの望むままに押し倒され、彼女たちの望むままに、その肢体を貪る。
「忘れさせて、あげるから……」
そっと、脇腹の傷跡に指を添えられて。
その痕を埋めるように、少女たちの身体が重なる。
「ああ……」
今日もまた、少女たちを拒めないままに――夜が、深くなっていく。
痴情の縺れ。
京太郎が生まれ育った長野から離れて暮らすことになった理由を説明するのなら、その一言に尽きる。
――起きてよ、京ちゃん……起きてよぅ…
最後に聞いた、幼馴染の言葉。
彼女を庇って、脇腹に尖った何かが突き刺さって。
熱いだとか痛いだとか寒いだとか、頭の中がごちゃ混ぜになって――目が覚めた時には、病院の一室にいた。
――俺の、せいか。
長い眠りから覚めて、最初に発した言葉。
運が悪ければ間違いなく死んでいた。
――俺が、あいつらを……
仲が良かった彼女たちをそこまで追い詰めてしまったのは――間違いなく、自分のせいだ。
自分を刺した少女への恨みでもなく、その後に彼女たちがどうなったかでもなく、自分をひたすらに責める気持ち。
目が覚めたばかりの京太郎の胸の中を、ただひたすらに自責の念が埋め尽くした。
彼女たちに謝ることも、再び会うことも、京太郎は出来なかった。
両親が許さなかった。
息子を傷付けた彼女たちを、父と母は糾弾した。
「……」
そして、退院の日。
迎えに来た父親の運転する車が向かう先は、住み慣れた我が家ではなく――
「京太郎」
耳をねぶるのは、春の舌。
「ここには、京太郎を傷つける人はいない」
刷り込ませるように、何度も聞かされた言葉。
「だから――全部、忘れよ?」
そして今夜も、彼女たちを抱く。
父の実家の鹿児島。
再会した少女と、出会った少女たち。
向けられる好意に気付いても、応えることは出来なかった。
関われば、彼女たちの絆を壊してしまう。
――京太郎くんは、何もしなくてもいいの。
だが。
――後は、私たちに全てを委ねて……ね?
最初から、欠けたものがあって。
ぴたりとそこに、はめられたとしたら。
求める少女たちを、京太郎は拒めない。
京太郎の全てに応え、受け入れる少女たちを。
もし、自分がいなくなったら。
きっと、清澄にいた頃よりも取り返しのつかないことになる。
「あなたさえいれば……他には、何も……」
彼女たちの愛を受けて、囲われて。
何もかも忘れてしまえば、楽になれる。
「……っ」
けれども。
痛む傷跡は――きっと死ぬまで、あの泣き顔を忘れさせてはくれないだろう。
「照……それは、なんだ?」
眉を顰める菫は、最早不快感を隠そうともしない。
「……」
「……照」
朝食の席に、想い人と恋敵が手を繋いでやって来たのだから、彼女の内心は穏やかではいられない。
直接声に出さずとも、尭深や誠子も考えていることは同じだ。
「……」
照は、答えない。
今の彼女には見せびらかすだとか、牽制だとかの打算はない。
隣に京太郎がいること。
それは、雨が振れば傘をさすように当たり前のことなのだから。
「……」
京太郎も、何も言えない。
あの時に、照を受け入れることを選んだから。
危ういと感じた照を、繋ぎとめてしまったから。
だから、今は照の手を握り返すことしかできなかった。
菫さんの怒りが臨界状態ww
俺の臨海編への期待も臨界状態
明日が、準決勝の日。
「……」
心配せずとも、白糸台は、チーム虎姫は準決勝を制して決勝戦へ歩を進めるだろうが――
「……買い出しに、行こう」
今はマネージャーとして、チーム虎姫に同行して来ているのだから。
麻雀で力になれなくても、出来ることをしなければならない。
「……」
それぐらいしか、自分には出来ないのだから。
買い出しから戻ってきた京太郎を出迎えたのは、部長の菫だった。
「お疲れ様」
「いえ、これが俺の仕事ですから」
労いの言葉に片手を上げて応じ、部屋に戻ろうと踵を返す。
だが、京太郎が振り向いた瞬間、その肩に白く滑らかな菫の手が置かれる。
「……少し、話がある。私の部屋に来てくれ」
「え、えっと……」
引き留めた手から伝わる力は強く、菫の瞳は京太郎を真っ直ぐに射抜いている。
彼女がここまで強く出るということは――今朝のことについての、言及だろうか。
「……わかり、ました」
だとするならば、京太郎も頷くしかない。
いつまでも、知らん振りではいられないのだから。
かちゃり、と。
背後で菫が鍵をかけて、ドアチェーンをかける音まで聞こえる。
「……」
当然ながら、部屋には菫と京太郎の二人きり。
そこまでして、人に聞かれたくない話をするのだろうと思えば、京太郎の決意も固まる。
「……なぁ、京太郎」
菫が話を切り出すのを待っていると、唐突に衣擦れの音が聞こえて。
「……え?」
振り向くと、胸のリボンを解きながら、菫が一歩ずつ、ゆっくりと歩み寄って来た。
「……私は、君に応えたい」
一歩、菫が踏み出す度に、彼女の足元に制服が脱ぎ捨てられていく。
「京太郎」
京太郎の目の前。
菫の髪の匂いがわかるほどの近い距離。
彼女が身に纏うものは、最早黒い下着しかない。
「私の全てを、君のものにしてほしい」
京太郎は――
憧れの人が、手を伸ばせば届く距離にいる。
期待に揺れる瞳で、熱く零れる吐息で、京太郎を待ち望む。
「……服を、来てください」
「ぁ……」
それでも、京太郎は。
菫を拒むことを、選んだ。
「……」
するりと、力が抜けて。
糸の切れた人形のように、菫はその場に崩れ落ちるように、座り込んだ。
「おかしいですよ……こんなの」
「わ、私……は……」
「とても、魅力的でした」
例えば、もう少し早く、菫に迫られていたら。
京太郎は、躊躇うことなく、菫の肢体に欲求をぶつけていただろう。
「……でも、ごめんなさい」
だけど。
今の京太郎には、それ以上に、大事なものがあった。
「……照、なんだな」
京太郎は、答えない。
ただ、静かに鍵を開けて、菫の部屋を後にした。
「おかえり」
部屋に戻ってきた京太郎を、ソファに座った照がポッキーを齧りながら出迎えた。
何故ここに――だとか、鍵はどうやって――だとか。
問いかけても無駄に終わることは京太郎にもわかっているので、軽く溜息を吐くだけに留めて、照の隣に座った。
「……」
「……照、さん?」
照がじぃっと見詰める一点。
京太郎が照の視線の先を追う前に、彼女の白く滑らかな指が京太郎の肩を撫でた。
「……照、さん?」
照が指先で摘まむもの。
細く、見えにくかったそれは――
「肩……髪の毛」
「あ……」
長い黒髪。
部内で、そして今この場で思い当たるその持ち主は、一人しかいない。
「――」
背筋に走ったのは、あの時と同じ、覗き見られる感覚。
何もかもが無遠慮に暴かれていく感覚。
全身を這いずる視線に、京太郎は身を震わせた。
「……大丈夫、だから」
自身の肩を抱いて身を縮ませる京太郎の頬を、照が優しく撫でる。
凍えるような感覚の中で、照の指が触れた頬だけが、陽の光のような暖かさを覚えた。
「京ちゃんを穢すやつは、みんな――」
――夜が明けて、準決勝の日が訪れた。
阿知賀女子、千里山、新道寺。
名だたる強豪校の先鋒を相手にする照の様子は普段と変わらない。
「……京ちゃん」
だが。
照の瞳は、何かを期待するように京太郎を見上げている。
「……」
何かが欲しい、けれど何も言わない。
無言でじっと見つめてくる照を、京太郎はそっと胸に抱き寄せた。
「……!」
そのまま照の前髪をかき分けて、口づけを落とす。
腕の中で、小さな体が大きく震えたのを感じた。
「……京、ちゃん」
「今のが、俺の……精一杯、です」
頬を朱に染め、瞳を潤ませる照の顔は部活でも雑誌でも見たことがない。
照の想いに応えることが出来たかはわからないが――
「……うん。いって、くるね」
――踵を返して準決勝の舞台へ向かうその背中に、不安は見られなかった。
――結果として、白糸台は準決勝を通過した。
だが、その試合の内容は快勝とは言い難い。
先鋒の照が大きく相手校を削ったが――
「……京ちゃん」
「自分のせいだって、思ってる?」
「自分がいなければ、私たちはもっと良い結果が残せたって」
「そう、思ってる?」
「……」
「ううん、違うよ」
「悪いのは、京ちゃんを穢すことばかり考えて」
「練習が疎かになっていた、菫たち」
「……でも」
「安心して」
「京ちゃんを不安定にさせるのは」
「私が」
「みーんな、やっつけてあげるから」
「だから――ね?」
2位通過という結果は、当然ながら満足のいくものではない。
敗北に等しい事実を胸に抱えながらも――早くも全員が、次の試合に向けて再起している。
「……」
ならば、自分も。
いつまでも、悩んでいるわけにはいかない。
自分に出来ることを、最後までやり通すべきなのだろう。
「照さんは、何か欲しいものありますか?」
そう聞いたのは、マネージャーの役目として。
少しでも役に立ちたいという京太郎の願いに、照は――
「欲しいもの……」
顎に手を当てて、考え込む素振りを見せる照の姿は意外と珍しい。
最近は京太郎が側にいることで、常に満ち足りているために、改めて欲しいものと言われると中々に思い浮かばない。
その小さな口からどのような要求が飛び出して来ても、京太郎は全力で応じるつもりで身構える。
お菓子が欲しいと言われれば行列で評判の店に走りに行くし、データが欲しいと言われれば――
「……あ」
「決まりました?」
「赤ちゃん」
「………………え?」
耳がおかしくなってしまったのだろうか。
おかしいなと、京太郎はこめかみの辺りに親指を当てて――
「赤ちゃんが、欲しい。京ちゃんと、私の、赤ちゃん」
しゅるりと、照が胸元のリボンを解く。
京太郎が呆然としている間に、照は制服を脱いで、下着すら躊躇わず脱ぎ捨てた。
「京ちゃん」
一糸纏わぬ照が、手を伸ばす。
「――きて?」
照の伸ばした手をとって、指を一本ずつ絡めさせる。
雛鳥のように待つ照に深く口付けをして――京太郎は、照をベッドに押し倒した。
「あは……っ」
一人用のベッドが軋む音。
二つの影が一つになるのに――時間は、かからなかった。
――団体戦の結果は、白糸台の優勝。
阿知賀の先鋒が照に飛ばされたことで、呆気なく終わりを迎えた。
個人戦の優勝者も照。
蹂躙の他に言いようがない活躍を見せて、圧倒的な力量でインターハイチャンピオンの座を守った。
大方の予想通り。
白糸台高校は、インターハイ3連覇を成し遂げたのである。
個人戦も絶好調だったか
クロチャー哀れ
団体戦の時、虎姫達はテルーの変化に気づいたのだろうか
インターハイが終わって少し経ってから、菫は失踪した。
彼女の靴や鞄は川の近くで見つかったが――彼女は、どこにも見つからなかった。
京太郎は、照の卒業と共に部活を辞めた。
一番の理由は、彼女がそれを望んだから。
そして――
『バイバイ。きょーたろー』
――自分が傷付けてしまった女の子が、いなくなってしまったから。
菫……、淡……
ただ京太郎が去っただけならともかくきつい別れだな
これ考えると家政婦になったキャプのメンタルは強いわ
短編だったから詳しくは判らないから違うかもしれないが
今回の白糸台のように部活内での修羅場にならなかったからこその手だったかもしれんが
もう、何もかもが昔の話だ。
あの時に、照だけではなく、皆と一緒にいることを諦めなければ。
まだ、未来の形は変わっていたのかもしれないけれど。
「おとーさん。おかーさん、まだ?」
「もうすぐ帰ってくると思う。そしたら晩御飯にしような」
「うんっ」
今は、ここに守るものがある。
専業主夫として、家族を支える生活も悪くはない。
「ただいま」
「おかえりなさい」
――遠くで、何かが落ちた音がした。
【白糸台 照END うたかた】
「ちーっす……あれ、みんなは?」
「あ…ま、まだ来てないじぇ」
意気揚々と部室のドアを開いたはいいが、中にいたのは優希だけ。
部活が始まる前に優希と二人きりという状況は、中々に珍しい。
「そっか、じゃあ俺みんなが来る前に買い出しに――ん?」
踵を返してコンビニにでもひとっ走りしてこようかと思えば、控えめに引かれる袖。
振り向くと、優希が指先で学ランの袖を掴んでいた。
「な、なんだよ?」
「……」
目を合わせると、丸い頬を林檎色に染めて俯いてしまう。
普段の優希にしては珍しい煮え切らない態度だが――ここ最近の彼女は、二人きりになるといつもこうだ。
全国大会が終わって、漸く落ち着いて練習ができると思えば同級生のこの態度。
「んん……?」
何というか、非常に落ち着かない。
そして、様子がおかしいのは優希だけではなく――
「いい加減にしたらどうですか? 須賀くんが困っていますよ」
「の、和……」
機嫌が悪いというか、雰囲気が刺々しいと言うべきか。
敵意と呼んでも差し支えない視線を優希に向ける和。
「……のどちゃんこそ、図々しいじぇ」
負けじと睨み返す優希。
二人の間で針の筵となった京太郎にしてみれば、今の状況は居心地が悪いどころの話ではない。
「お、俺! 買い出し行ってくるからっ!」
「あっ」
優希の手を振り切って、和の制止の声も聞かずに部室から飛び出す。
あの空気の中での三麻は、流石に耐えられない。
……とはいえ。
「……はぁ」
出かけた先は近場のコンビニ。
よく考えれば、今のところそこまで必要な物もなく、買い物もビニール袋一つに収まってしまう。
結局のところ問題を先延ばしにしただけで、すぐにあの部室に戻らなければならない。
「染谷先輩がいれば、いいんだけどなぁ」
最近はまこも雀荘での仕事が忙しく、仲裁は期待できない。
咲は頼りない。
また、あの空気に耐える時間が――
「お困りかしら?」
「あ……部長」
「もう部長じゃないんだけど……ま、いっか」
横から声をかけて来たのは竹井久、元部長。
3年生である彼女は大学進学の準備で色々と忙しいらしかった。
部活での成績に加えて内申点稼ぎを怠っていなかったこともあり、他の3年生に比べればいくらか余裕があるとのことだが、それでも部活に顔を出す頻度は減っている。
「それで、何かあったの?」
「えっと……」
そんな彼女に、悩みを打ち明けて良いものか。
久は何だかんだで頼れる存在であるが、余計な心労をかけるのは躊躇われる。
「……話せないことなら、無理にとは言わないけど……でも、出来れば力になりたいのよね」
「え……」
唐突に、空いた片手を久の両手に握られた。
対局の時でも、見たことのない真剣な表情。
今はそれが、京太郎一人に向けられている。
「……清澄が全国へ行けたのも、私に余裕があるのも」
「……」
「……須賀くん。あなたのお陰だから」
久は、美人だ。
今まで意識していなかったが、こうして真っ正面から見つめられると――兎に角、頷いてしまいたくなる。
ぽつりぽつりと、京太郎は悩みを打ち明けた。
迷惑をかけるのではと思っても――それでも、久に相談したかった。
全ての話を聞き終わると、久は小さく頷いて。
「……わかったわ。私が、力になってあげる」
「部ちょ……先輩!」
やはり久は、何だかんだで頼りになる。
沈みかけていた京太郎の表情に明るさが戻るが――
「……んー、でもさ。先輩ってのも何だかよそよそしくない?」
「へ?」
ちっちと、人差し指を左右に振る久。
急にそんなことを言われても、京太郎には理解が追い付かない。
「久でいいわよ。呼んでみて」
「え、でも……」
「……」
「ひ、久……先輩」
「……ん?」
「ひ、久……さん」
「あと一声!」
「……久!」
「もっと愛を込めて!」
これ以上どうしろと――と、振り回されても悪い気はしない。
やはり先輩に相談して良かったと、京太郎は安堵の息を漏らした。
「……ふふっ」
ちろりと見せた、蛇のような舌舐めずり。
その瞳は、確かに京太郎に向けられていた。
「どこ行ってもーたんやろ……」
「んー? なんか失くしたん?」
家の中をあっちこっちへ歩き回る妹の様子に、寝そべりながらテレビを眺めていた洋榎も流石に落ち着かない。
恐らくは探し物か何かだろうと当たりをつけて、洋榎は上半身を起こして絹恵に声をかけた。
「いやな、見つからへんのよ。この前、京太郎と一緒にUSJ行ったんやけど……」
「だから、何がや」
「写真。私と京太郎で記念にとったんよ」
「ほー……」
ポリポリと頬をかく姉の態度からは、何も期待できそうにない。
絹恵は眉をハの字に曲げて、困った風に溜息を吐いた。
「まぁ、オカンにも行った方がええなソレは。三人で探せばどっかで見つかるやろ」
「うーん……」
妹と一緒に写真を探しても見付からず。
かと行って明日にも学校があるために、いつまでも探しているわけにはいかず。
「……はぁ」
自分の部屋に戻った洋榎は、部屋の隅のゴミ箱を蹴飛ばした。
勢い良くひっくり返されたゴミ箱からは、ティッシュや駄菓子の箱といったゴミ屑が雪崩出る。
その中に混ざって出て来たのは――皺だらけになった、笑顔を浮かべる妹の写真。
「……ホンマに、なぁ……」
乱暴に破り捨てられているが、恐らくは隣に誰かもう一人が映っていたのだろう。
「……なんで、絹やねんなぁ……」
くしゃりと、洋榎の手の中で妹の笑顔が歪む。
怒りなのか恨みなのか、自分の感情の底にあるものが何なのかはわからない。
ただ、玄関に飾られた写真を見て――許せないという想いが、洋榎を突き動かした。
京太郎。洋榎の大好きな男子。
一緒に遊ぶ幼馴染から、初恋の人に変わったのはいつからだったか。
ただ、京太郎の目線は母に向けられていたから――母のようになれば良いと思った。
誰よりも強い雀士になれば、振り向いてくれると思った。
「……」
だが、今は。
その目線が、妹に向けられている。
何もしてこなかった、妹に。
「……ま、そりゃそうか」
洋榎も、頭ではわかってはいる。
妹は何も悪くない。
だから、絹恵に直接この気持ちをぶつけることができない。
尊敬と信頼の眼差しを向ける妹に、醜い情念を向けられない。
「こんなんやから、ダメやねんなぁ」
臆病な自分は、母には似ても似つかず。
女としての魅力は、妹に及ばない。
わかってはいる、わかってはいるが――
「おねーちゃん? おかーさんが、ゴハンやって」
「……ん。わかったー」
――やめられない。
扉越しに声をかけてくる妹に返事をしながらも、写真に映る恋敵を痛め付けなければ、気が済まない。
降り積もる想いを吐き出す場所を、漸く見付けられたのだから。
「……お、この匂いは唐揚げか! すぐ行くで!」
だから、洋榎は絹恵の姉でいることができる。
自分の中で、気持ち悪い感情が育っているのを感じながら。
洋榎は、絹恵の姉で有り続けた。
ファミレスで部員たちと駄弁る京太郎。
対局中の集中した京太郎。
和に鼻の下を伸ばす京太郎。
咏や靖子にからかわれて、困った顔を浮かべる京太郎。
買い出しで両手いっぱいにコンビニ袋をぶら下げた京太郎。
はやりと良子に街中で絡まれて、戸惑いながらも満更ではなさそうな京太郎。
顔が黒く塗りつぶされた女性と抱き合う京太郎。
京太郎。
京太郎、京太郎。
京太郎、京太郎、京太郎、京太郎。
京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎。
京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎。
京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎。
京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎。
京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎、京太郎。
京太郎。
「あ……え?」
床、壁、窓――兎に角、部屋の中を見渡す限り全ての場所に貼られた自分の写真。
そして、その全てが――カメラの方に、視線を向けていない。
勿論、写真を撮られた覚えもなければ、許した覚えもない。
「っ!?」
「あー、片目つぶっちゃったか」
不意打ち気味に焚かれたフラッシュ。
振り向けば、カメラを構えた恒子がイタズラっぽく舌を出していた。
「ね、これとか良く撮れてるでしょ? 自信あるんだよねー」
彼女は。
この光景を、異常だと思っていない。
それどころか、自信有り気に壁に貼られた写真を見せびらかしている。
これは、盗撮だ。
倫理としても、法律としても許されることではない。
だとしても――目の前の恒子は、止まることはないだろう。
「どこ、行くの?」
「っ!」
無意識にした後退り。
手首を掴まれ、逃げることは出来なかった。
「密着取材、OKしたよね?」
ああ、そうだ。
恒子の取材を受け入れたのは、自分だ。
コーチとの練習が長引いて、帰りが遅くなったために、彼女の家に泊まることを選んだのも。
「ふっふっふ……本格的なのは、これからだからね!」
夜はまだ――終わらない。
放課後。
帰宅の準備をする生徒や、部室へ向かう生徒。
多くの留学生を受け入れている臨海高校は、少し見渡すだけでも国際色豊かな光景が見える。
京太郎が所属している麻雀部も、日中仏米具独と個性溢れる面子が揃っている。
「さて、と……」
京太郎も、いつまでも教室に残っている理由はない。
教科書を鞄に仕舞い、さっさと教室を後にするべきだが――
「おし、部室行くか」
チャイムが鳴って間もないから、まだ部室には誰もいないだろう。
一応はマネージャーという立ち位置で麻雀部に所属しているのだから、やるべきことはさっさとやろう。
そう決めた京太郎は、鞄を肩に引っさげて一直線に部室へ向かった。
「――ん? まだ京太郎一人か」
牌譜の整理やお茶の準備でもと、雑用に取り掛かり始めた瞬間に開けられるドア。
団体戦メンバーの中では、どうやら智葉が一番乗りのようだった。
今は髪を降ろしていて、眼鏡もサラシもつけていない。
「お疲れ様です」
「あぁ……」
部室を見渡して、智葉は目を細める。
智葉の持つ雰囲気と家庭の事情から、彼女のその仕草は見惚れる程に綺麗ではあるが、同時に背筋を冷たくさせた。
「ふむ――」
「また、うちに来てくれないか?」
「え゛っ」
智葉の口から出て来たのは、思いもよらない言葉。
うち、というのが智葉の家であることは間違いない。
スキンヘッドのお兄さんや、背中に絵を掘ったお兄さんたちがいる立派な和風のお屋敷だ。
智葉の祖父に気に入られた京太郎は、その意志に関わらず最低でも週一で彼女の家を訪れているのだが――
「部活の後では、時間が取れないからな」
「というと?」
「指導だよ。マネージャーとしての仕事ばかりでは、京太郎も飽きてくるだろう?」
……これは、智葉が付きっ切りで指導してくれるということだろうか。
「お前さえ良ければ、次の日曜に……どうだ?」
日本で三番目に強い女子高生。
その指導が受けられるともなれば、これからの練習もかなり捗ることだろう。
……が。
「すいません、実はバイトが……」
ピクリと。
彼女の整った眉が、小さく動いた。
「……バイト?」
「はい」
「お前は、小遣いも満足に貰えていないのか?」
「いえ、そういうわけじゃないっすけど」
何と言うか。
地雷を踏んだような、何故だがそんなイメージが頭を過った。
「……なら、仕方ないな。どこで働いているんだ?」
「それは――」
「……」
「……どうした?」
何と言うか。
とても、非常に言いにくいのだが。
「まさかとは思うが……人には言えないことをしているのか?」
「言えない、というか……言いにくい、というか……」
「……」
部員に知られたくはないことなのだが。
折角の智葉の誘いを蹴ってまで優先するバイトなのだから――説明せねば、彼女は納得するまい。
「……さ、です」
「ん?」
「――女装バー、ですっ!!」
「……え?」
「……は?」
「は?……え?……ハァ?」
口をあんぐり。目をパチクリ。
智葉のこんな表情は、付き合いの長いメグですら見たことが無いだろう。
正確には、女装カフェ&バー。
秋葉原のとある店舗でやっているニッチな喫茶店である。
名前の響きからは如何わしい香りが漂うが、実体は女装した店員によるメイド喫茶である。
当然ながらお触りといった行為は禁止。健全と言えば健全な経営を行っている。
「……その様子を見るからに、どうやら不本意であるようだが」
一瞬の沈黙の後に。
コホンと、一つ咳払いをして智葉は話を再開した。
「……はい」
「一体なにがどうなって、そんなバイトをすることになったんだ」
「生活が、ちょっと苦しくて……」
「……そうなのか? 意外だが……」
「あ、いや我が家が特別貧乏というわけではなく」
どちらかと言えば須賀家は裕福な方で。
中学までは長野住まいで、親の仕事の都合で高校に上がると共に東京へ引っ越してきた。
ここで問題になったのは――ペットについての、ことである。
「……カピバラ?」
「はい。カピーっていうんですけど」
京太郎が小学生の頃から一緒にいる家族の一員。
そして、カピバラを飼育するには特別な施設が必要である――が。
「幾分、急な引っ越しだったので。あいつを飼える環境がなくて」
「……確かに、そうだな」
加えて、京太郎の入学と合わさり、タイミングが悪く須賀家にカピー専用の施設を作る余裕はない。
けれども、こんなことでカピーと別れたくはなかった。
「だから、出来ることをやろうって」
「それで、一番稼げるバイトがその………………女装、バーだったと」
「……はい」
小遣いも満足にもらえてないのか?
そういうわけじゃないですけど
生活苦で仕方なく
京ちゃんテンパってるな
京太郎は、引っ越した先ですぐにカピー用の施設を作って貰えると思っていたが。
両親は引っ越しが決まった段階でカピーについては諦めるつもりだった。
つい最近になって、カピーとの別れを知ったが故に――焦って、こんなバイトを始めることになった。
「………ふぅ」
長い長い沈黙の後。
智葉は、腹の底から疲れたような溜息を吐いた。
「それなら……私に、良い考えがある」
「ホントですか!?」
「ああ、そんなバイトに頼らずともどうにか出来る……はずだ」
京太郎としても、目覚めてはいけない世界の扉は開きたくない。
それに金を稼げるとはいえ、所詮はアルバイト。カピバラを飼育する環境が整うだけの金となれば、長い時間が必要になるだろう。
「ちょっと、ついてきてくれ」
「え? でも、部活は」
「今はそれよりも――家族の方が大事、だろう?」
カピバラを飼える環境を整えるだけの余裕を持った家。
できるだけカピーと離れたくない、京太郎の希望。
――命の恩人の頼みだ。それぐらい、お安い御用ってもんさ。
確かに、ここは全ての条件を満たしている。
かかか、と豪快に笑う智葉の祖父は、京太郎と智葉の懇願を快く受け入れた。
「ありがとうございます……何と言ったら良いか……」
「気にしなくていい。お前の人徳だ……だが」
「私たちにここまでさせたんだ。出来るだけ、会いに来いよ」
「はいっ!」
例えこの屋敷がその手の道の人が暮らす住居だとしても、またカピーと会えるならどうってことはない。
むしろ、今までよりずっとこの屋敷に訪れる機会は増えるだろう。
無邪気に喜ぶ京太郎の姿を見て、智葉は満足気に微笑んだ。
「あぁ……そうさ」
『家族』は。
何よりも、大事なのだから。
流石にすぐにカピーを連れては来れないし、智葉の家で施設を用意するのにも時間がかかる。
会えるのはまだまだ先の日だが、それでも京太郎の心は弾む。
「あーまだかなー。ホントはやく――」
「嬉しそうですね」
「うわっ!?」
ぬっと、京太郎のすぐ斜め後ろからかけられる声。
あまりにも耳元に近く、意識の外からかけられた声。
物理的な意味でも、京太郎の心は大きく跳ねた。
「は、ハオか……ビックリした」
「何か?」
「いや……近いって」
後半歩近付けば鼻息が当たりそうだ。
意識せずとも漂ってくる髪の香りは、色々な意味で参る。
落ち着こうと数歩後退りすると、ほぼ同じタイミングでハオも一歩一歩を踏み出してくる。
「は、ハオ……?」
「これくらい普通です。それで、一体なにが?」
背後には壁。
観念した京太郎は、昨日のことを全て話した。
「成る程……そんなことが、あったのですね」
「ああ……そうなんだよ」
事のあらましを聞いたハオは、納得したように何度も頷いた。
「私も……カピーに、会ってみたいのですが」
「あぁ……いいぜ」
それは良い。
「ふふ……家族に紹介しなければならない家族が増えましたね」
「あ、あぁ……? そ、そうか……?」
良いの、だが。
「な、なぁ……ハオ」
「はい?」
相変わらず。
「ちょっと……離れて、くれないか?」
距離が、近い。
顔が近い、どころではない。
当たっているのだ。ハオの、立派なおもちが。
本人はそれに気付いているのかは定かではないが、京太郎にしてみれば気が気ではない。
「ほ、ほら……は、離れてな?」
「これくらい、普通だと思うのですが……」
だが、直接的に突っ込む勇気は京太郎にない。
そして廊下の端であるとはいえ人の通りが全くない訳ではなく、さっきから何人かの生徒に目撃されている。
「あ、汗臭いから!……な?」
嘘ではなく、焦りやら何やらで京太郎の背中からはダラダラと汗が流れ出ている。
このままハオのペースで行けば、頭の中まで煮詰まってしまいそうだ。
「……そうですか?」
が。
その言葉に、ハオは身を退くどころか。
「……とても、良い匂いですが」
背伸びをして、京太郎の襟を掴み、匂いを嗅ぎ出した。
間近に見ると、ハオは本当に美しい。
手足は白く滑らかで、それでいて女性的な丸みがある。
髪からは相変わらず良い匂いがするし、自然と京太郎の指はその頬へ――
「何を……している?」
――伸びることは、なかった。
空気が切り裂かれたように一変する。
むせ返るような芳香が漂う空気は、一瞬にして底冷えするものに。
「何を……とは?」
「お前は……そんなことのために、日本に来たのか?」
「そんなこと……? おかしなことを、言いますね」
ハオが京太郎からその身を離す。
解放されても、京太郎に安堵の息を零す余裕はない。
「スキンシップですよ、ただの。明華もよくやっているじゃないですか」
「お前まで、そんなことを」
「それとも……羨ましく、なりましたか……? 今更」
「――」
その言葉に、ほんの一瞬だけ――智葉は、呆気に取られたように目を見開いて。
「……京太郎」
「は、はいっ」
そこから、表情がどのように変化したのかはわからなかった。
踵を返し、艶やかな長い黒髪を揺らす智葉に声をかけられた京太郎は、思わず身を縮ませた。
「カピーのことで、話がある。ちょっと来てくれ」
「わ、わかりました」
また後で、とハオに一言だけ伝えて、京太郎はその場を後にした。
残されたハオは、ただ一人――指を唇に当てて、小さく微笑んだ。
ハオとの出来事を何人かの生徒に目撃されていたので、内心で不安に思っていた京太郎だが、意外なことに噂にもならなかった。
「よかった……さて」
ホッと一息つけば、放課後にいつまでも教室に残っている理由はない。
教科書を鞄に仕舞い、さっさと教室を後にするべきだが――
美人な上に立派なおもち。
京太郎のストライクゾーンを捉えているハオにベタベタされるのは実に嬉しいというか、喜ばしい。
『何を、している』
だけど。
度を過ぎたのだろうか、明華のアプローチも見逃していた智葉に厳しいお叱りを受けることになった。
「はぁー……」
「どったのキョウタロー。相談乗るよ? 1500円で」
「まったく、お前は……」
対してネリーは、可愛いというか子どもにしか見えないスタイル。
ハオとはまさに正反対で、京太郎の好みからは大きく外れているが――実のところ、部内で一番心安らぐ相手である。
「今ならオプションも付けるよ。スマイル500円!」
「調子のんなっての」
「わわっ」
無遠慮にグシグシと頭を撫でてやる。
何気に、ネリーは部内で唯一気軽に軽口を叩ける相手だった。
「まぁ……なんつーか……お前がいてくれて良かったよ、ホント」
「でしょ? 今なら半額でいいよ?」
「何がだよ、オイ」
「折角お得なのにー」
会話を交わしながら、ここが定位置だと言わんばかりにネリーは京太郎の膝の上に陣取った。
ハオや明華のような色気はないが、ネリーの体温は程よく温かい。安心感がある。
「おー、じゃあ席代で1万2000円な」
「んー?」
くるり、とネリーは京太郎を振り向いて。
「お金とるの?」
「安くはないぜ」
「じゃあ」
大きな丸い瞳の中に、京太郎の顔が鏡のように映った。
「お金払ったら、キョウタロー買えるの?」
お前をくれたらやってもいいぜ
冗談だが
「等価交換でもいいぜ」
「とーか……交換?」
「おう。まぁ、この俺と釣り合うぐらいのもんは中々無いだろうがな」
ドヤ顏で胸を張る。
「……」
……が、ネリーからのツッコミは帰って来ない。
膝の上で指を折りながら何やらブツブツと呟いている。
「ん……ゴホン。プライスレスってことで」
いたたまれない気分をわざとらしい咳払いで押し出す。
ネリーはぴょんと身軽に飛び降りて、とたとたと走っていく。
「あ、おい!?」
「ちょっと用事思い出した! サトハによろしく言っといて! お金はちゃんと振り込んどいてね!」
「よろしくって――」
止める間もなく、ネリーは部室の戸を開けて出て行ってしまった。
「なんだったんだ……あいつ……しかも金取るのかよ」
「おかえり」
「随分、遅い帰りやね」
「バイトの夜勤明け?……いつもとシフトが違うけど」
「急に頼まれた?……ふぅん?」
「ええ匂いするなぁ……京くんの髪。女の子が使うシャンプーみたいな香りや」
「誰だったかな……私、覚えあるわ。この匂い」
「それに……ほら、胸のここ。虫さされ?」
「……」
「まぁ、ええよ」
「あったかいスープ用意しとるから」
「今日と明日は休みやろ?」
「たっぷり、うちに付き合ってもらうからな」
「信じてるからな、京くんのこと」
「浮気とかされたら――私、どうなるかわからへんよ?」
私がいなければ女装バーでアルバイトとをすることになっていたとは……危なっかしい
――自分が、見てやらなければ
いい笑顔をする。やはり、家族の絆は大事にしていかなければ
――そう、『家族』は……な。
廊下の端で、何をしているんだお前たちは
――何を、鼻を伸ばしている?
――離れろ
――そいつは、私の――
「……いや、そうじゃない」
自室の布団の中で、智葉はひとりごちた。
自分の中の不可解な揺らぎ。
「……」
ハオのアプローチは風紀の面では褒められたものではないが――あそこまで、威圧的に言うことは無かった筈だ。
あの時の自分はどうにかしていた。
次に会った時に謝ろう。
そう決めると、智葉は目を閉じた。
自分の中にある感情には、蓋をした振りをして。
休日。
部活動は休み、予定も特に無し。
「どうすっかなー」
特に用事はないが、折角の休日を寝て曜日で過ごすこともないだろう。
行き先も決めないままに、京太郎は気の向くままに近所を散歩することにした。
「……ん?」
京太郎の足を引き止めたのは、雀荘の看板。
これでも麻雀部の端くれ、少しだけ興味が湧いてきた。
利用料金もそこまで高いものではない。
「よし、ちょっと行ってみるかな」
臨海の麻雀部のメンバーが強豪揃いなのは、ほぼ初心者の京太郎にもわかる。
ならばこういった場所で打つ人は、どれだけの実力を持っているのだろうか。
店員曰く、ちょうど後一人席が空いている卓があるとのこと。
ネト麻以外で知らない相手と打つのは初めてだが、もしかしたら自分と同じような感覚で来店した客もいるかもしれない。
雲良くお零れが拾えたら、程度のつもりで京太郎が向かった先には――
案内された卓。
京太郎の真向かいに座る少女と目が合った瞬間に浮かべた表情は、恐らく互いに殆ど同じだっただろう。
「京……ちゃん?」
「照……さん、ですよね?」
まさか、こんな雀荘で昔の知り合いに遭遇するとは重いも寄らなかったのだから。
その反応に食いついてきたのは、照の隣の長い金髪の少女。
「ねね、知り合いなの?」
「知り合い……というか」
興味津々といった風に京太郎を見つめる少女。
キラキラした視線の眩しさには戸惑いを隠せない。
「ねね、LINEやってる?」
「ああ、やってる……けど」
逆ナン、というヤツだろうか。こんな場所で。
「――悪いことは言わないから、帰った方がいいかもよ?」
独特の空気に包まれつつあった卓の雰囲気を一変させたのは、和服を着た童女のような出で立ちの女性。
身長はこの中の誰よりも低く、一見年下のようにも見えるが――底知れぬとでも言うのか、彼女に見つめられた瞬間に背筋に冷たいものが走った。
「……やってみなけりゃ、わかんねえよ」
「ほー? 言うねえ」
それでも言い返せたのは、男子としての意地。
照に情けないところを見せたくない、というのもあるかもしれない。
「……そいじゃ、始めようかい」
サイが、投げられた。
「ほら、言わんこっちゃない」
「……っ!」
和服を着た女性の言う通り――結果は、無残なもの。
言い返すことも、できない。
「ま、にーちゃんには此処はまだ早かったねぃ。オムツが取れたらまたおいで」
ま、知らんけど。
そう言い残して、彼女はさっさと出て行ってしまった。
「……」
恥ずかしのか、悔しいのか。
見栄を切っておきながら、結果は惨敗。
自分は初心者なのだから、と言い訳をするのは情けない。
「……大丈夫、だよ」
思わず握った拳に添えられたのは、白い指。
「情けない、なんて思わないから」
格好つかない自分を、照は励ましてくれているようだった。
「……そうそう! あんなヤツ、私がコテンパンにしてやるから!」
何故だか自信満々の金髪少女。
「……いや、お前も3位じゃん」
「いいの、次は100回倒すから」
「……ははっ」
その自信はどこから、と突っ込みたくなったが、彼女なりの強がりなのかもしれない。
「……」
ボロボロに負けて、再会した幼馴染の姉には慰められて。
「……」
ひっくり返っても、お世辞にも格好良いとは言えない。
「……そう、ですよね」
「京ちゃん?」
「……次は」
それでも。
「次は――もっと、やれますから」
火が着いたものは、あった。
放課後になってネリーが部室に来た時、まだ部室にいるのは京太郎一人だった。
それは別段珍しいことではない、が。
「何してんの?」
ドアを開けた音にも反応せず、机に向かって何かを熱心に読んでいるものだから。
気になったネリーが後ろから覗き混んでみると――
「……教本?」
「あ、ネリーか。悪い、気が付かなかった」
麻雀の教本や牌譜。
京太郎が集中して読んでいたのは、どうやら麻雀関連の資料らしかった。
「……どうしたの、急に」
「ま、まぁ……色々、あったんだよ」
普通に考えてみれば、おかしなことではない。
京太郎も麻雀部員なのだから、興味を持つことはあるだろう。
「そうかなぁ」
しかし。
その瞳の奥には、今までとは決定的に違う何かがあるように見えた。
「てい」
「お、おい?」
自分から視線を外して、手元の資料を再び読み込もうとする京太郎。
それが何だか気に食わなくて、ネリーは無理矢理京太郎の膝の上に割り込んだ。
「よくわかんないけど……キョウタローは強くなりたいんでしょ?」
「まぁ……そうだけど」
「じゃ、ネリーが教えてあげる。この牌譜の人、知ってるし」
「え?……マジ?」
「うん」
「おう……じゃあ、頼むわ」
京太郎は自分よりもずっと背丈が低い特別講師に頭を下げて、ネリーの解説を聞き逃すまいと意識を集中させる。
ネリーは満足気に頷くと、小さな指で牌譜をなぞりながら、解説を始めた。
短い間の特別授業。
いつになく素直な京太郎に解説をしながら――ネリーは、ふとあることに気が付いた。
(あ、お金……)
いつもの自分なら、間違いなく授業料をとっていた。
けれども、今は――別に気にならない。
(ああ……そっか)
――お金払ったら、キョウタロー買えるの?
――等価交換でもいいぜ
等価交換。
等しい価値のものを、交換すること。
京太郎の時間という価値を、ネリーが特別講師になることで受け取っている。
「等価交換……ね」
「ん?」
「なんでもない、それでここは――」
今、この時間。
この膝の上は、ネリーだけのものだ。
改めてそう思うと、ネリーは身体の奥が暖かくなっていくように感じた。
――だが、ここが部室である以上。
二人だけの時間は、いつまでも続かない。
「んーむ?」
「どったの?」
「いやさ、どうしてここはリーチしなかったんだろうって」
「それはね――」
「危険だからですよ」
背後から伸ばされた白い手が、京太郎の手を掴む。
白い手に導かれて、他家の河を指がなぞる。
「他家を見れば、すぐにわかるでしょう?」
だが。
そんなことよりも。
「どうです? 京太郎くん」
首筋を髪がくすぐる。背中に押し付けられる二つの膨らみの感触は、ネリーでは絶対にあり得ない。
横を見れば、白い頬がある。
「み、明……華……さん?」
「はい。なんですか?」
明華に、背後から抱き着かれている。
手を掴まれて、もう片方の手は肩に置かれて。
「何か、質問ですか?」
吐息がかかる、そんな距離。
心なしか――いつも以上に、アプローチが激しいような。
「……今は、ネリーが教えてるんだけど」
「あら」
面白くないのはネリーだ。
明華が来た瞬間に、京太郎の胸から伝わるバクバクがとても大きくなった。
それに加えて何がとは言わないが――兎に角、負けたような気持ちになった。
「今は、キョウタローの時間はネリーのものなの!」
「では、こういうのはどうでしょう?」
「京太郎くんに決めてもらう……というのは」
「えっ」
ある意味で妥当な落とし所ではあるのだが。
ネリーと明華の視線の挟み撃ちを間近で受けるのは、少し辛い。
丸い大きなネリーの瞳。垂れ目がちな明華の瞳。
送られてくる視線は不安と期待。
京太郎が選ぶのは――
時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
いくら視線を泳がせても、助けになるものは見つからない。
今ここで、決断を下すしかない。
「ね、ネリーで!」
「キョウタロー!」
膝の上から喜びの声。
明華には申し訳ないが、やっぱり最初はネリーに教えてもらってたわけだし、そっちを選ぶのが筋だろう。
「あら残念……それでは、また次には」
「あ、はい。お願いします」
「ふふ――約束、ですからね」
言質を取られたような形になったが、明華はあっさりと身を退いた。
「個人指導……楽しみですね♪」
次はもっと強く――なんて明華の呟きは、全力で気のせいだと思うことにして。
今はとにかく、ネリーが上機嫌なうちに色々教えてもらうとしよう。
お金じゃ買えない価値がある、とは言うけれど。
この世の中にはお金でしか買えないものが多過ぎる。
その考えは、この先に何があったって変わることはない。
ネリーが今までに欲しいと感じたものは、全てがお金でしか買えないものだった。
だから、わからなかった。
お金では、絶対に手に入らないもの。
どうすれば、自分の――自分だけのものに、できる?
お金ではなく、物なのか。
だとしても、その「物」を手に入れるにはお金がいる。
悩んでも、教えてくれる人はいない。
だけど、意外にも――答えは、すぐに見つかった。
「ありがとな。ホント、為になった」
無遠慮に頭を撫でる、大きな手のひら。
――そっか。こんなに、簡単なことだったんだ。
あたたかくて、安心を与えてくれる。
それは、どうやってもお金じゃ手に入らない。
だって「それ」は――どうやっても、一方的に与えるだけでは得られない。
「……ホントに、欲しくなっちゃった」
今こうして、横になっている寮のベッド。
特に詳しい知識を持たないネリーにも、コレが上質なものだとわかる寝心地を与えてくれる。
「……だけど」
コレはこの部屋以外にもたくさんあるものだし、お金を稼げばコレ以上のものはいくらでもあるだろう。
今、ネリーが欲しいものは世界に一つしかなくて――お金を稼いでも、手に入らない。
「……キョウタロー……」
初めての体験。
胸の奥から少しずつ零れてくる感覚を、彼女は枕と一緒にぎゅっと抱き締めた。
民族衣装に身を包み、マスコミにカメラを向けられながらもまるで緊張した様子を見せずに卓に向かうネリー。
小慣れているというか、仕事に徹しているというか。
いつものように膝の上でじゃれついてくるネリーとは、また違った表情をしている。
「……そうなんだよなぁ」
世界ランカーやU-15準優勝者。
臨海が全国大会に向けてかき集めた麻雀部の面子にいるのだから、ネリーも相当な実力者。
それは以前からわかっていたことだが――麻雀に対する意識を改めた今となっては、より強くその実力を感じられる。
自分との力の差、という形で。
「……」
頑張ろうと意気込んでも、一朝一夕で強くなれたりはしない。
もし、臨海にとんでもない鬼コーチがいたとして。
自分の中の常識をぶち壊すようなスパルタ指導を叩き込み、生霊が取り憑くレベルで熱意を向けてくれたら話は別だが――そんなオカルトはありえない。
道は遠く、壁は高い。
宮永照というインハイチャンプがいる中で、飄々と1位の座を掻っ攫っていったあの和服の女性。
「……はーっ」
何年か、それとも何十年か。
もしかしたら、一生かかってもあのレベルには淘汰できないかもしれない。
「――」
――だが。
それは、彼が一人でその道を歩いていたらの話である。
強くなりたいと願うからこそ――自分にはあのレベルは無理だろうと、心のどこかから聞こえてくる諦めの声。
相反する気持ちによる板挟み。抜け出せない泥沼。
堂々巡りに陥りかけた思考を、自分のすぐ隣から聞こえた、何か軽い物が床に落ちる音が中断させた。
「いや失礼」
振り向くと、アレクサンドラ監督が身を屈めて空の紙コップを拾っていた。
どうやら取り落としてしまったらしい。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと、ね。心配はいらない」
彼女がこのようなドジするのは珍しい。
ネリーの対局を見ても、そこまで同様するような展開があるようには思えない。
何か――彼女を震わせるようなものがあったのだろうか。
「……少しは、良い目をするようになったじゃないか」
「え?」
「君の話。何があった?」
何があった、と言われれば、思いあたることは先日の雀荘での出来事。
無残に負けて、自慢できるような話ではないが、あれが切っ掛けとなって火が着いたのは確かだ。
「……成る程、ね」
憧れのお姉ちゃんの前では、格好付けていたい。
自分よりも小さな相手に挑発されて、ムッときた。
見返したいと、自分なりに麻雀の勉強に熱を入れ始めたが――
「リベンジしたいけど、自分と相手の差に今頃気付いたと」
「……はい」
「……良い目をするようになったけど、まだ殻がついているね」
「……カラ?」
曰く、人は殻や錆がついていく。
自分には無理、失敗するからやりたくない、面倒くさい。
そういった虚仮や見栄の殻。
「確かに、壁はあるよ。努力じゃ消えない壁ってのは」
「……」
「でもね――」
凡人でも、殻を破って進むものはいる。
錆を落とした下から見えるのは、ギラついた勝利への渇望。
アレクサンドラが求めるのは、そういったモノ。
その中でもより一際、強い輝きを放つものにこそ――彼女は、揺さぶられるのだ。
「……君の目の奥。私はそこに、『何か』を感じたんだ」
「……え?」
「君は君らしくあればいい……でも、私は君が殻を破って進めるヒトであることを願う」
そして、その手伝いをすることも吝かではない。
そういい残すと、彼女は席を立って部屋の外へ出て行った。
「……」
自分は、どうするべきか。
答えは未だに出ないが――一歩だけ、前に進めた気がした。
「ん?」
と、ここである事に気付く。
アレクサンドラの座っていた椅子が、微かに湿っている。
さっき紙コップを落とした時に、中身を零してしまったのだろう。
今日は珍しいことが多いと、京太郎はハンカチで椅子を拭った。
翌日の放課後。
帰宅の準備をする生徒や、部室へ向かう生徒。
「さて、と……」
京太郎も、いつまでも教室に残っている理由はない。
教科書を鞄に仕舞い、さっさと教室を後にするべきだが――
「……教本を買いに行くか」
強くなるには勉強と実践の繰り返し。
土台作りの段階を怠ってもすぐに崩れるだけだ。
普通の麻雀部であれば部室から借りられるのだろうが、生憎と京太郎以外では教本が必要なレベルの部員はあそこにはいない。
そう決めた京太郎は、鞄を肩にかけて教室からさっさと出て行くが――
「あ、連絡しとかないと」
このままでは部活を無駄でサボることになる。
そのことに気が付いたのは、本屋で教本の品定めをしている差中。
「ふーむ……」
メールで用があるから部活を休むと連絡を送り、教本選びを再会。
リスペクト麻雀への道だとか、麻雀でのお友達の作り方だとか。
教本と一口で言っても様々なものがあるが――
「これは、お勧めですよ」
不意打ちと耳元での囁き。
これは何度やられても慣れないが、今回は心臓が跳ねる程度で済んだ。
「ハオ……なんで、ここに?」
「何でと言われても……私も、読みたい本はありますから」
「部活は?」
「今日は最初から休みですよ。サトハやメガンの都合がつかないとかで」
「そ、そうだったのか」
当たり前だと言わんばかりに背後にいたハオ。
相変わらず、ネリー以外の部員にはペースを握られっぱなしだ。
「……しかし、教本選びとは懐かしい」
「へ?」
「私も、この本屋で教本を買ったことがありますから」
意外な台詞。
彼女の打ち方からすると、日本人の執筆した教本など必要なさそうに思えるのだが。
「私にも……勝てなかった時期がありますから」
「そうなのか?」
日本の麻雀のルールはハオには馴染みがなく、日本に来たばかりの頃は不調だったという。
そこから試行錯誤と勉強を重ね、自分に合った打ち方を見出すことで、再び勝てるようになったのだ。
「京太郎には普段から世話になっていますから……私も、出来ることなら力になりたい」
「ハオ……ああ、よろしく頼む」
とりあえずは、ハオに勧められた教本から読み進めてみよう。
そう決めて、京太郎は棚へと手を伸ばす。
「待って下さい」
「ん?」
だが、目当ての背表紙に指を引っ掛けた瞬間に、ハオが制止の声をかけた。
「私の部屋に……まだ、私の使ったものがある筈ですから。譲りますよ」
臨海の留学生たちは基本的に寮暮らしであり、ハオもその例に漏れない。
「そのベッドにでも腰掛けて待っていて下さい」
「了解」
善は急げと、ハオに連れられてやってきた女子寮の部屋。
智葉を覗けば、初めて訪れる女子部員の部屋。
緊張してきた。智葉の家とは違う意味で。
「待ってろって言われたけど……」
横目でハオの背中を追うと、本棚を前に腕を組んでいる。
昔使っていた教本をどこにしまったのかを思い出しているのだろうか。
「ただ待ってるのも悪いような……」
自分も何か出来ないか。
すぐに思い当たるのは、マネージャーで培ったお茶の腕。
部員たちのお墨付きである。
「ちょっと、台所借りるな」
ハオの背中に一言かけて、備え付けのキッチンへ。
探すまでもなく、茶葉や急須はすぐに見つかった。
真面目な性格のハオらしく、台所の物もよく整理されている。
お陰でお茶の準備も滞りなく進んだが――
「ん? これは……砂糖?」
茶葉の類に混ざって、砂糖のようなものが見つかった。
調味料をこんなところに置くのはハオらしくないというか、違和感がある。
「ああ……そういえば、海外だとお茶に砂糖入れたりするんだっけ?」
「……いや、お茶に砂糖はやっぱりおかしいよな」
そもそも部室で振る舞うお茶には砂糖なんか入れないのだから、奇を衒うべきではない。
お茶を注いだ二つのカップと急須を盆に乗せて、京太郎は台所を後にした。
「どうぞ、コレを」
ハオから例の京本を受け取る。
綺麗に使い込まれている。いくつか皺のついたページがあるが、決して乱雑に扱った結果付いたものではないことがわかる。
所々に赤いペンで書き足された中国語の注釈も、彼女がこの本を熟読した証拠だろう。
「わざわざありがとな」
「いえ……こちらこそ、客人に気を使わせてしまうとは」
「いいって。友達だろ、俺たち」
「友達……そう、ですね」
「……ハオ?」
「いえ……何でもありません」
「そっか……あ、そういえばハオってお茶に砂糖入れる?」
「砂糖……ですか? 私は入れませんが」
「そっか。やっぱりそうだよな」
その後は、お茶を飲みながら中国語の注釈について聞いたり、ハオのスランプ時代の苦労を聞いたり。
部員の意外な一面を知ることが出来た充実した一日だったと言えるだろう。
「ふぅ……」
教本を受け取って、自分の部屋に帰って来た京太郎が真っ先に考えたことは――
「……良い匂いだった」
こうして、家に帰ってくると。
その違いに、どうしても意識してしまう。
頬に、熱が集まるのを感じた。
「……」
――良い匂いがしますね。
ぶんぶん頭を振る。今は集中。
――力になりたい
ぶんぶん頭を振る。今は集中。
――そのベッドにでも――
「……無理」
――その夜、少年は。
解放感と虚無感と、罪悪感を覚えた――
最終更新:2026年01月05日 20:49