翌朝の目覚めと共について来たものは、気怠さと痛みと熱。
「……マジか……」
38度。文句なしの熱である。
両親は共に朝早くから出かけている。
確かに夜遅くまで起きて、体力を消耗したとはいえ、ここまで体調を崩すとは思わなかった。
「学校は――げほっ」
行ったところで、帰されるのがオチだ。
京太郎は体の欲求に従って、布団を深く被り目を閉じた。
寝ては起きてを繰り返し、気が付いたらもう夕方。
相変わらず体は怠いままだ。
――ピンポーン。
インターホンの音が静かな家中に響く。
未だに重たい身体を引きずるようにして、京太郎は玄関へ向かった。
「はー、いっ!?」
来客を迎えようとした瞬間に、ふらつく足元のせいでバランスを崩してしまう。
受身も取れないままに、京太郎の体は投げ出され――
「オゥ、情熱」
――ダイレクトに、メグの胸の中にダイブすることになった。
風邪で汗に塗れた京太郎の体を受け止めたにも関わらず。
メグは嫌な顔一つ浮かべず、それどころかお姫様抱っこで京太郎を布団まで連れて行った。
「ドーゾ」
「どうも」
アメリカ伝統・風邪の時のチキンスープ。
メグも幼い頃に作ってもらったらしい。
朝から水以外は胃袋に入れていない京太郎には、中々に有り難い。
「アチッ」
「焦らずデス。熱いデスカラ」
「……」
「ナ、ナンデスカ?」
じぃっと、メグの顔を見つめる。
やっぱり――
「センパイ、すげぇイケメンっすね」
「ワッツ!?」
体が奥から温まってくる。
心なしか、体のダルさもマシになってきた。
瞼が段々と降りてくる。
「……はやく治シテ、頑張りまショウ」
優しい声音は、普段の彼女のイメージとは少し離れているけれど。
とても、安心することが出来て。
「……オヤスミナサイ」
京太郎はゆるりと、温かい感覚に体を預けた。
家に上げたことの無いメグが、どうしてここの場所を知っていたのかは、どうでもいいことだった。
翌日。
熱は大分下がったが、身体の気怠さは残る。
両親の大事を取って休めとの言葉通り、京太郎は今日も学校を休んだ。
……が。
「……退屈だな」
風邪薬を飲み、たっぷり熟睡。
病は気からとの言葉通り、目覚めた夕方には体調も大分回復してきた。
――ピンポーン。
インターホンの呼び出しにも、今度はしっかりと応じることができる。
確かな足取りで、京太郎は玄関のドアを開いた。
「……!」
そこには、何か身構えていたような智葉の姿。
鬼気迫る姿に思わず京太郎も挨拶のタイミングを逃がしてしまい――気まずい沈黙が、二人の間を覆った。
「くしゅっ……と、とりあえず中へ」
「あ、ああ……失礼する」
どことなく残念な気持ちを滲ませながら、智葉は須賀家に足を踏み入れた。
美人の先輩方が二日連続で見舞いに来てくれるなんて。
「ほら、粥だ」
気持ちに余裕の出来た京太郎は、今のシチュエーションに頬を緩ませた。
女子の家庭的な手料理を味わえるという状況に、不謹慎ながらも風邪に感謝である。
「美味いですね、コレ」
「そうか。それは良かった――で」
「?」
「これとメグのチキンスープ――どっちの方が、良かった?」
ドスを喉元に突き付けられたような感覚。
冷たい汗が背中を伝う。
智葉の意図が掴めないが――なあなあで済ませることは、許されない雰囲気だ。
「え、えっと……」
「……」
「こ、こっち……ですかね」
嘘、ではない。
日本人の舌には、智葉の粥の方が合っていたから。
「そうか……それは、良かった」
心の底から安心した、そんな風な安堵のため息を零す智葉。
何をそこまで追い詰めていたのかは知らないが、正直に答えたのは良かったようだ。
「ああ、そうだ……京太郎。一つ、朗報がある」
「はい?」
「カピーを飼う為の施設の工事が、終わったようだ」
「おお!」
「明日の部活の後にでも――うちに、来てくれないか?」
「はい!」
久しぶりに、カピーに会える。
病は気からと言うのなら、この気持ちを考えれば明日には完全に治っていることだろう。
綺麗さっぱり目覚めた朝。
昨日までの気怠さはないが、様々な国籍の生徒たちに混ざって登校する京太郎の表情は明るい。
鼻歌でも歌いたい気分であるが――
「おっ」
様々な国から来た生徒がいるだけあって、同じ年齢でも体格に大きな差があるのが臨海の生徒の特徴だ。
その中でも、更に一際小さい慎重の女子。
ネリー・ヴィルサラーゼが少し前を歩いていた。
「……ん?」
だが、少し様子がおかしい。
上の空というか、アンニュイなオーラを漂わせている。
空を見上げながらのため息まで吐いている姿は、初めて見た。
さて。
どう声をかけるか――
とんとん、と肩を叩いて。
「え?――ふゅっ」
振り向いたネリーの頬をぷにっと押す人差し指。
大分昔に流行った古典的なイタズラだ。
「よ、おはよう」
「……あ」
ネリーの反応は――
「え……?」
何度も瞳を瞬かせて状況確認。
「キョウタロー……?」
「おう。みんなの京ちゃんだぜ」
「……あ」
惚けていた瞳に宿る光。
この状況を理解するにつれて、頬の指が触れた箇所からネリーの顔が段々と赤くなっていき――
「――っ!」
耳までを林檎のように真っ赤に染めて、走り去っていった。
「……アレ?」
まるで意味がわからないのは、残された京太郎であった。
昼休み。
「……あ」
「あ……」
食堂へ向かう途中。
タイミング良く、保健室から出て来たネリーと鉢合わせすることになった。
「………」
今朝の出来事のせいか、お互いに気まずい沈黙が走る。
この空気を払拭しようと、先に話を切り出したのは京太郎だった。
「だ、大丈夫か? 怪我でもした?」
「……ううん。ちょっと……微熱?があって……でも、お腹空いたし、何ともなかったから」
「そ、そうか……お大事に。じゃあ、俺は食堂行くな」
「……待って」
早歩きで去ろうとした京太郎の袖を、ネリーの小さな手が引っ張った。
遠慮がちで、強い力はなかったけれど、絶対に無視することは出来ない指。
「……一緒に、いこ?」
臨海の食堂のメニューは豊富だ。
様々な国籍の生徒の要望に答えられるように、多くの手間と予算がかけられている。
広さもそれなりで、昼休みという繁盛時でも京太郎とネリーが席を取る余裕はあった。
ネリーと向かい合わせで席に着く。
微熱で休んでいたとのことだが、食欲は普通にあるようで何よりだ。
京太郎も安心して、自分の頼んだうどんに箸を伸ばす。
「……」
手元に視線を落とす京太郎は、気が付かなかった。
ちらちらと、そっと覗いて見るようなネリーの視線に。
そして――
美味いか不味いかで言えば美味いが、これ以上の味はいくらでもある。
そんな味のうどんをズルズルと啜っているうちに、変化が欲しくなってくるのはある意味当然のことで。
テーブルの端に置いてある調味料へと京太郎は手を伸ばし――
「はい、七味です」
「あ、どうも」
ナチュラルに自分が欲しかったものを受け取って、ナチュラルにうどんに振りかけて。
あまりにも自然な流れだったので、そのまま食事を続けてしまったが――
「美味しそうに食べますね♪」
「え? そうです……あ」
「ふふ……隣、いただきますね?」
明華が、すぐ隣に座っていた。
可愛いらしい顔立ちに立派なおもち。
明華は京太郎の好みのど直球ストライクを行くような女子だが――それでも苦手意識があるのは、被食者の本能か。
手を出したら最後、というイメージがなんとなく浮かぶのだ。
「はぁ……どうぞ」
だが、彼女を拒む理由はない。
苦手意識はあるが嫌いというわけではないし、一緒に食事をするには何も問題はない――筈だ。
「それにしても……よくわかりましたね。七味」
「ニホンについて色々学びましたし……それに」
ちらり、と明華はネリーに横目を向けて。
「見ていますから。あなたのことを」
「っ!」
それから、にっこりと花開くような微笑みを、京太郎に向けた。
「はい、あーん♪」
「えっ」
スプーンに乗せて差し出されるイクラ丼。
何の前ぶりも無いので驚いたが、一向に引かない明華の様子を見るにイタズラや悪ふざけではないのだろう。
「……ぱくっ」
こうなれば、半ばヤケだ。
くれると言うなら遠慮なく――京太郎は、思いっきり差し出されたスプーンを口にした。
プチプチ潰れるイクラの食感が美味しい。
「お、美味しかった……です」
「それは何よりです♪ 私も、そのうどんを食べてみたいのですが」
「えっ」
「……」
お金では、絶対に手に入らないもの。
言い換えればお金が無くても手に入るということだが――
「……」
――ネリー以外にも、「それ」を手に入れる資格はあるということになる。
熱で惚けていた頬が、すっと冷めていく。
心地良い浮遊感に包まれていた胸の奥から、冷たい何かが染み出していく。
どうすれば、「それ」を手に入れることが出来るのか
答えは簡単。
つまり、欲しいと願う人が――
「な、なぁ。ネリーも一口、くれないか?」
「……一口?」
「あ、ああ……そのランチ、女子専用だろ? ちょっと食べてみたくてさ」
京太郎に声をかけられて。
まるで、止まっていた時間が動き出したような感覚を、ネリーは覚えた。
「……いいの?」
「それは、お前が聞くことじゃ――あ、そうか。ほらよ」
パスタのように、クルクルとフォークに巻かれるうどん。
目の前に差し出されたそれを前に、ネリーは少しだけ逡巡して。
「……美味しい。スゴく、おいしい」
「そ、そうか……よかったよかった」
ゆっくり咀嚼して、ニッコリ微笑むネリー。
ハオや明華とは違う照れ臭さを感じて、京太郎はそっぽを向いた。
「……ちっ」
昼休みの食堂での出来事は、特に噂になることは無かった。
明華がアプローチを仕掛けるのはいつものことなので、臨海の生徒たちには別段珍しいことでもなかったのかもしれない。
「さて、と……」
放課後。
京太郎も、いつまでも教室に残っている理由はない。
教科書を鞄に仕舞い、さっさと教室を後にするべきだが――
「あ、そうだ」
今日は、部活の後に智葉の家に行く用事がある。
大事な用を思い出した京太郎は、鞄を肩に担いでさっさと部室に向かった。
――私は君が殻を破って進めるヒトであることを願う
監督の言葉は、麻雀に向き合う時には必ず胸に浮かぶ。
凡人でも殻を破って進む者はいる。
この臨海麻雀部のメンバーが生まれついての天才なのか、後天的に努力して強くなったのかはわからない。
しかし、誰もが自分よりも遥かに格上であることは確かで。
「ふーむむむ……」
強者から見て学ぶ、というのは上達するには欠かせないことだと思う。
今日の部活は、誰かの打筋を見て考えてみても良いかもしれない。
さて――
インターハイ女子個人戦、3位。
日本で三番目に強い女子高生。
男子の部が女子の部よりレベルが低いことを考えると、日本で三番目に強い高校生と言い換えてもいいかもしれない。
ならば、その打筋から見て学べるものは多いだろう――
鋭い。
智葉の麻雀を一言で説明するなら、この言葉が最も適切だろう。
稼ぐのも潰すのも上手い。巧みな立ち回りで、気付けば三コロというような状況を生み出している。
「何か掴めるものはあったかい?」
「あ、監督……はい、ちょっとだけ前に進めた気がします」
「いいね。サトハもわざわざ分かりやすく打っている甲斐があるだろう」
「……え?」
それなら、彼女は。
最初から、自分の視線とその目的に気付いて。
それでいて、あの強さを発揮しているというのか。
「……ふっ」
驚愕の視線を送ると、智葉が微かに笑った――ような、気がした。
部活が終われば、待ちかねていた時間。
ついに、カピーと再び会える。
「まるで子どもだな、お前は」
そう言われても、楽しみなのだから仕方ない。
カピーは元気にしているだろうか――
「なぁ……お前、今日は泊まっていかないか?」
黒スーツのお兄さんが運転する高級国産車。
その後部座席で、隣に座る智葉がそう切り出した。
「泊まり……ですか?」
「あぁ。カピーとの時間は多く取りたいだろうし……それに、夜は付きっ切りで教えてやれるからな」
京太郎にはメリットしかない智葉の提案。
ならば、彼女の厚意はありがたく受け取ろう。
「じゃあ、是非ともお願いします」
「よし、なら決まりだな」
この一晩で、更に強くなれる。
この人にも近付ける。
期待に胸を弾ませる京太郎を乗せて、黒塗りの高級車は智葉の屋敷に到着した。
インターハイ、エキシビションマッチ。
男子と女子の境目を失くして、それぞれの強者がぶつかり合う戦い。
――よろしく。
眼鏡の奥の眼差しは研ぎ澄まされた刃の如く。
微かに隙を見せれば喉元を無残に切り裂かれるだろう。
――よろしく、お願いします。
手足の震えは怯えではなく、楽しみから。
間違いなく――この大会で今まで打ってきた誰よりも、強い。
でも。
――◼︎◼︎ァッ!
――応◼︎してるから、◼︎◼︎り◼︎
――やれるだ◼︎、やりゃあいー◼︎じゃね? ◼︎らん◼︎ど
――頑張っ◼︎ね、◼︎太郎
負けない。貴◼︎や◼︎夜、◼︎に◼︎長――多くの人が、ついている。
ギリギリまで頑張って踏ん張って――一歩も下がるつもりはない。
――良い目、だな。
そう言って、クールに笑う彼女に。
これからの対戦相手でありながら――少しだけ、惹かれた。
「――ロー! キョウタロー!」
瞳いっぱいに涙を浮かべた少女。
固い床に倒れている自分。
「ネリー……?」
「大丈夫!?」
「いや……なに、が?」
「倒れたんだよ、お前は」
「え?」
確か、自分は。
智葉の打筋を見て学ぼうとして。
それで――
「っ!?」
激しい頭痛。
頭が割れるかと思える程の痛み。
「キョウタロー!!」
「お前が慌ててどうする……今、監督が保険医を連れて来る。すまないが……少しだけ、耐えていてくれ」
安心させるように、智葉が肩を抱く。
「そして――またいつか、あの日の続きをしよう」
その瞳の奥に宿した執着の情念は――確かに芽を生やした。
「あー、スマンが誰かこのプリントの束を先生に――」
「あ、じゃあ俺が」
「私がやりますっ!」
はいっ!と勢い良く手を上げる義姉。
出鼻を挫かれた京太郎は、伸ばしかけた手をおずおずと降ろした。
「ハァ……」
『ウチの弟に箸より重たい物は持たせない』
言い過ぎでも何でもなく、彼女の顔にはそう書いてある。
過保護……と、呼ぶには少し度が過ぎているように思えるが。
義姉からすればまだまだ足りないくらいだという。
――大変やなぁ、君も。
義姉の同級生の先輩と目が合って、小さく苦笑された。
清水谷京太郎。
母親の再婚によって、変わったものは苗字と周囲の環境。
義父は良い人だし、何だかんだで友達もたくさん出来た。
問題なのは――
「よ、よろしく……な?」
「こちら、こそ……よろしく、お願いします」
血の繋がらない、義理の姉。
ひと言で言うと、実に気まずい。
しっかり者で、スタイルも良く、美人。
竜華という人物は京太郎にとって理想とも呼べるタイプだが――それだけに、家族として一つ屋根の下で暮らしていくにはどう接すれば良いのか分からず。
背が高くて、スケベなところもあるが、何だかんだで根は優しい。
悪い子じゃないのは分かる。けれども、年頃の男子で親しい友人なんて、竜華にはいない。
家族として、毎朝顔を合わせることになると――どんな顔をすれば良いのやら。
「京太郎……くん? ご飯、出来たって」
「あ、ありがとう……ございます。竜華さん」
家族にしては、余りにもギクシャクした関係。
それが変わっていったのは――竜華の、親友。
園城寺怜がいなければ、未だに二人はぎこちない関係だったかもしれない。
ある日の土曜日。
京太郎は休みで、竜華は部活の日。
「
お姉ちゃんお弁当忘れてったみたいだから、届けてあげて?」
ハイ、と母に渡された弁当の小包み。
しっかり者の竜華が忘れ物とは珍しいと思ったが、この時の京太郎は何も疑問に思わなかった。
実のところ、これは母なりに二人の仲を近付けようと仕向けたことなのだが――それを知るのは、もう少し後の話。
京太郎は小包みを受け取って、素直に千里山高校へと向かった。
「……アレ?」
少し道順についてはあやふやだったけど、目の前の義姉と同じ制服を着た女子の後を追えば間違いはないだろう。
そう当たりを付けて歩いていたら――
「あ……これ、アカン……」
ふらりと、その女子が目眩を起こして。
倒れ込むように、その場にへたり込むなんて、思いも寄らなかった。
善人を気取るつもりはないが、見捨てられるほど非情でもない。
急いでその女子に駆け寄って。
その女子――怜の言葉に従って、すぐ近くにあるという千里山高校の保健室を連れて行った。
「怜な――前から、病弱でな?」
白いベッドに包まって、眠る怜の手を取りながら。
竜華はぽつりぽつりと、自分の過去について話し始めた。
中学時代の怜のことが中心だが、義姉がここまで自分のことを話してくれたのは初めてで。
もっと竜華のことを知りたいと、思うようになった。
怜の件がきっかけとなって、二人は少しずつ歩み寄り始めた。
京太郎は前の長野の中学で所属していたハンドボール部や、幼馴染についてのこと。
竜華は怜やセーラとの思い出や、千里山高校麻雀部でのこと。
元から、お互いに悪く思ってはいない。
一度心を開いて、お互いのことを深く知っていけば、ぎこちなさは少しずつ抜けていった。
「入学、おめでとう!」
そして訪れた高校の入学式。
数年前に共学化した千里山高校。
義姉がいるから、というのも高校選びの一因となったことは間違いない。
義姉に祝福され、千里山に入学した京太郎が選んだ部活はバスケ部。
これでも中学時代はハンドボール部レギュラー。
飛んだり跳ねたり投げたりは得意だし、チームプレイも苦手ではない。
千里山男子バスケ部の歴史が浅いこともあり、京太郎は新入生の中でも頭角を現していった。
気のいい友人と、先輩たちに囲まれて。
京太郎の大阪での生活は、順風満帆に進んでいった――
「止めておけば、良かった」
その日は、雨が降っていた。
バスケ部の練習試合は体育館の中で行われるため問題はない。
高い湿気は少なからず試合に影響を与えるが、他校との練習試合には勝つことができた。
「やったなぁ、京太郎」
浮かれていた。京太郎も、竜華も。
有利とは言えない環境の中で活躍できた京太郎は高揚していたし、竜華も自分のことのように喜んだ。
だから、気が付かなかった。
「あ――え?」
帰り道の交差点。
スリップしたトラック。
視界を塗り潰すライトの光。
耳を劈くクラクションの音。
「……うそ」
竜華は、気が付かなかった。
注意しなければならないのは、自分だった。
京太郎が疲れていることも、試合に勝って浮かれていることも。
側で見ていたから、わかっている筈だった。
「うちの、せいや」
とめどなく溢れる自責の念。
瞳からは涙が、口を開けば自らを責める言葉が零れて止まらない。
この日から、彼女は変わった。
京太郎が大怪我で済んだのは、ある意味で運が良かったと言える。
派手な運動にはドクターストップがかけられ、バスケ部を引退することにはなったが、日常生活は無事に送ることができる。
一番変わったのは、義姉だ。
甲斐甲斐しい、なんてレベルではない。
京太郎が死んだら、ウチも死ぬ。
比喩ではなく、そう公言する義姉を誰も止めることはできなかった。
「頼むからウチの麻雀部に来てくれ、マジで。このままじゃエースが使い物にならん……」
麻雀部の監督に、土下座に近い勢いで頼み込まれたのは記憶に新しい。
京太郎センサー。
誰が付けたのか、ふざけたような名前だが当人にしてみればシャレにならない。
廊下でくしゃみでもしようものなら階が違っても飛んでくるし、転んで怪我をした日には京太郎がミイラ男になる。
「愛されとるなぁ、この色男め」
当然ながら竜華は部活どころではなく――打ち出された唯一の打開策が、京太郎を手元に置くこと。
麻雀が打てずともマネージャーなら……という考えは、竜華が京太郎の仕事を奪うため本末転倒に。
怜と京太郎を合わせて『要介護コンビ』と揶揄されることもある。
一時期は京太郎を差して千里山の置物だとかマスコットだとか皮肉を言われることもあったが――
「ん? 誰が、何やって?……なぁ?」
不思議と、一週間も経たずに消滅した。
義姉を不安にさせた責任は京太郎にもあるし、麻雀部に入ることに抵抗はなかったとはいえ。
家ではベッタリ、外でもベッタリ、部活でもベッタリとなると、流石に参ることもある。
経緯は兎も角として、母の目論見は成功したことになるが――
「ちょっと……どうにかなりませんかね?」
「うち病弱やし……」
「それ言えばどうにかなると思ってません?」
「てへっ」
竜華を除いた千里山麻雀部一軍会議。
正確に言えば京太郎も一軍ではないが、議題上参加は不可欠。
「ちゅーてもなぁ……ようは、竜華を安心させなアカンわけやろ?」
「また元気に走り回るとこ見せりゃ解決や。オレと一緒にサッカーせえへん?」
「江口先輩、それ多分地獄の底まで追い回されることになりますよ」
監督と部長である竜華は大会に向けて話し合っているために不在。
ようは、『私がコイツ抑えとくからその隙に何か妙案を頼む』ということである。
「せやかてフナQ、他になんかないか?」
「そーですねぇ。ようは、部長を安心させればいいわけですから……」
「そこが難しいんやけどな」
ピン、と。
浩子の目に、何かを閃いた光が走った。
「こんなのはどうでしょ」
「ようは、部長が京太郎を任せられる人がいたら解決や」
「つまり?」
「京太郎。お前さっさと恋人作れや」
「えぇー……?」
随分と簡単に言うが。
さっさとで恋人が作れたら誰も苦労はしないし、何より竜華が認める相手となれば相当にハードルは高い。
「あ、フリってことですね」
「お前にしては鋭いな泉。そういうことや」
「あぁ……」
だが、まだ問題はある。
誰が、恋人役をするかということだが――
「あ、なら私。やってもええよ」
停滞しかけた空気の中で、真っ先に手を上げたのは怜だ。
その表情には緊張感の欠片もない。
「りゅーかの膝枕は最高やけど。京ちゃんの腕枕も良さそうや」
「え、えっと……」
他の部員の反応は――
「あ、あのっ!!」
「んー?」
じゃあ怜でいいか――と固まりかけた場の空気に待ったをかけたのは泉だ。
怜は気怠げに顔を向けながら、京太郎の膝の上に陣取った。
「京太郎も、同学年の方がやりやすいと思うんですけどっ」
「そうなん?」
「いや別に……」
相手が怜ではなく浩子だったら少し難しかったかもしれないが、怜相手ならそこまで緊張することもない。
怜とは中学からの付き合いだし、伊達に要介護コンビの片割れをしていない。
「そ、それでも……相手役は京太郎が決めるのが、筋とちゃいますか?」
「まぁ、ごもっとも」
膝の上に座る時が、振り向いて京太郎を見上げた。
「で、京ちゃんは誰にするん?」
怜の言葉を受けて、京太郎は一軍メンバーの顔を見渡した。
セーラ――は、義姉からの信頼は厚いだろうが彼女とそういった関係を偽るのは難しいだろう。
フナQは――まるで、想像がつかない。何気に面倒見の良い先輩ではあるが、あーんとか膝枕とか、似合わないにも程がある。
実質的に、怜か泉かの二択。
ちら、と目線を落としてみる。
「~♪」
くんくん、と首筋の辺りの匂いを嗅いでいる
目線を泉に向けてみる。
「……」
いかにもクールですよ、という風を装うとしているがプルプル震えているのはモロバレである。
ここは――
「泉で」
「やたっ!」
「参考までに聞くけど、なんで?」
「いやー……怜さんだと姉さんの弟離れどころか余計にベッタリしてきそうなんで……」
確かに、と泉以外の誰もが頷いた。
離れるどころか、要介護コンビがくっ付いたことでむしろ今まで以上に張り切る未来が見える。
「つーわけで、よろしくな。泉」
「えへ、えへへ……」
「泉ー?」
怜を膝から降ろして泉に近寄る。
顔の前で手を振っても反応ナシ。
「泉ー」
「ひゃいっ!?」
肩に手を乗せるとビクンと跳ねた。
「大丈夫かよ?」
「も、勿論や! 任しといてくださいな! 今日から私が京太郎の――」
「――誰が、誰の……なんやって?」
「ぶ……部長……」
後退る泉の手を。
震える竜華の手が、逃がさぬとばかりに掴んだ。
「ごめんなぁ、さっきまで監督と話し込んでたもんやから」
「ひっ……」
「うちも話に混ぜてや。誰が、誰のなんやって……?」
爪が食い込んで血が滲み出てもお構いなし。
竜華の尋問は止まらない。
「わ、私が……」
「んん?」
「私が――今日から、京太郎くんの彼女ですぅっ!!」
「ふーん……?」
「はぁ?」
「だ、だから先輩は安心して私に京太郎を任せて……」
「なぁ、知っとる? 京太郎の誕生日」
「に、2月2日……です」
「身長は?」
「え? 180くらい……ですか?」
「くらい……? まぁ、ええか」
「……」
「好きな食べ物は?」
「は、ハンバーグ……」
「最近の好きなアイドルは?」
「瑞原……はやり、ですよね」
「体重は?」
「え?」
「平均体温は?」
「え、え?」
「今朝の体調は? 歩く時のクセは? 鼻をかんだ回数は? 欠伸をしたのは? 睡眠時間は? 最後にじ――」
「姉さんっ!」
矢継ぎ早に質問を浴びせる竜華から泉を庇うように、京太郎が二人の間に割って入った。
「やっぱり駄目やって、京太郎。泉、全然京太郎のこと知らんし――」
「これから」
竜華の敵意から解放され、想い人の背中に守られた泉は吐息を零した。
「これから、知っていけばいいだろ。彼氏と彼女なんだから、俺たち」
ひゅう、と面白そうに口笛を吹いたのは浩子だ。
怜は眠た気な目で三人のやり取りを見守っている。
「……ふん」
長い見つめ合いの末、先に折れたのは竜華だった。
初めてとも言える弟の反抗に、どうすれば良いのかわからなかったということもある。
「……」
くすり、と怜が小さく笑みを零した。
「家じゃ竜華がベッタリ」
「外じゃ泉がベッタリ」
「大変やなぁ、京ちゃんも」
「姉に手を出すわけにはいかんし」
「泉は『フリ』やからなぁ……」
「なぁ、京ちゃん」
「今なら、誰もおらんよ?」
「りゅーかは大将戦やし……取り繕う必要もないんとちゃう?」
「なぁ、京ちゃん」
「私」
「京ちゃんが、欲しいな」
フリを強調とは狡猾な、しかし竜華には姉に手を出すわけにはいかないってことだから
これはやっぱ「京ちゃんが、欲しいな」はそういうことかな
フリとか契約関係シチュは、近くには居れるけど
契約破棄シチュというか契約とか関係なくても近くに居たいイベント無いとある程度以上は関係が進まないという弱点を突いたか
「ごめんなぁ、竜華。抜け駆けみたいなマネしてな?」
「けどな、私な――竜華になら、ええと思っとるんよ?」
「それに、こうでもせんと京ちゃん一線越えてくれへんし……」
「親友やし、ずっと、ずぅっと、私と京ちゃんを守ってくれたし」
「……ん、私も嬉しい。そういうとこ、大好きやで」
「……ん?」
「あれ?」
「なんや、泉」
「もしかして、まだ――ここに自分の居場所があるとか、思っとるんか?」
「まぁ、消えろとは言わんけど……」
「怜はな、京太郎が中学の頃からの付き合いで――私と、京太郎の絆を深めてくれたんよ」
「まぁ、せやな」
「ほんのちょっと、ちょっぴりだけ――空気読んでくれたら、それでええよ?」
閉じていく扉に、手を伸ばしても。
開くことは、二度となく。
「……」
『彼』も――こっちを見ては、くれなかった。
『彼』は、もう自分を見てくれない?
『彼』を、諦める?
「……上等、やん」
違う。
この程度で、手放すくらいなら。
最初から、怜に譲っていた。
怜を抱いた、と聞いた瞬間に頭が真っ白になって。
その間に、竜華と怜の二人に掻っ攫われた。
つまり、最初から――自分は、ダシに使われていたのだ。
恋人役になった瞬間から。
怜はずっとこの時だけを考えて、笑っていたのだ。
「……許せん、よなぁ」
全ての発端となった竜華を。
自分を利用した怜を。
自分を傷付けた――京太郎を。
「……」
あの二人は、自分のことを障害とすら認識していない。
だから、付け入る隙はある。
恋人役なのだから当然と言い張って『彼』から受け取った家の合鍵。
「……待っててな、京太郎」
薄暗い外灯の下で。
泉は静かに、歩み始めた。
勝利者などいない
闘争(たたか)いに疲れ果て
星空を見上げる
泣くことも叶わない……
昨日などいらない
朽ち果てた夢も……
「麻雀部、今年は大会出るらしいよ?」
「え? マジ? というか雀卓あったんだ、あそこ」
有珠山高校麻雀部。
麻雀部とは名ばかりの、お遊び倶楽部だった部活。
「まー、多分そろそろ何かしら活動しないと部室取り上げとかされるんじゃない?」
「あー、そっか。勝てるわけないしね、あんなとこが」
「そうそう。いいとこ予選で――」
「やってみなきゃわかんないだろ、そんなの」
岩館揺杏。
飄々としているというか、いつもどこか余裕な態度をとっている二年女子。
麻雀部でも、彼女や爽が中心になって動くことが多いが――
「ふぅ……」
「……」
「ど、どどどどうしよう京太郎、あんなこと言っちゃった……!!」
――ご覧の通り。
二人っきりの時は、わりとダメダメな義理の姉である。
先ほどの啖呵を切った勢いはどこにもない。
「まー……やるしかないんじゃない? 言っちゃったわけだし」
「え、うん……そうなんだけどさ……」
義姉が不安に思うのも無理はない。
由暉子が自動卓を寄贈してくれるまで碌な活動をしてこなかったのは事実だ。
加えて、成香はそれまで麻雀のルールも知らなかったわけだし。
爽や由暉子は文句無しに強いが、誓子や揺杏は全国大会が舞台となると――正直、厳しいものがあるだろう。
「まだ時間はあるわけだしさ、頑張ろうよ」
「う、うん……!」
だが、言ったものは取り消せないし、悩んでも先には進めない。
月並みな言葉だが、今できることは励ますことしかない。
それに――由暉子なら、負けたらどうしようと悩むよりも、どうすれば勝てるかと考えるはずだ。
「で、でさ……」
チラチラ向けられる義姉の視線。
その眼差しが期待するものは、一つしかない。
「はいはい」
仕方ないな、と苦笑して。
「はぁ……あっ♪」
京太郎は、揺杏を両腕で目一杯に抱き締めた。
みんなの前では格好付けて、さばさばした風を気取っても。
人並みに弱いところはあるし、辛いことがあれば泣く。
姉が弱音を吐くところを何度も見てきたし、何度もこうして受け止めてきた。
ただ――
「んん……♪」
最近は、以前に比べて頻度が高い。
貪欲に求めるような、依存して縋り付くような。
身動ぎする揺杏の求めるものは、安心だけに留まらない。
その瞳が潤むのは――きっと、それ以上の温もりを、求めているからだ。
「はい、ここまで」
「……けち」
だから、無理矢理に揺杏を引っぺがす。
文句で口を尖らせてもお構いなし。
紅潮した頬と熱を帯びた吐息は明らかなシグナル。
それでも、答えるわけにはいかない。
「ほらさ、ユキたちもそろそろ来るだろうし……」
ただでさえ、勘の良い爽には釘を刺されている。
それに、一度答えてしまえば――京太郎も、滑り落ちるように止まれなくなる。
そして。
「……また」
「へ?」
「また、ユキなんだ」
どうやら姉は、酷くお気に召さなかったようで。
「姉さん、何言ってんの」
「昔から好きだったもんね。胸デカイの」
ネクタイを解き、上着を脱いで。
「あんなの。触れなきゃ意味ないじゃん」
揺杏は、シャツの裾に手をかけた。
「……ダメだろ、それ以上は」
手が動いたのは、反射的だった。
放って置いたら、後戻り出来なくなる。
普段から義姉のことはよく見ていたから――体が先に動いて、義姉の早まった行為を引き止めた。
「……離してよ」
「離したら、またやるだろ」
「だって」
「……」
「だって、不安なんだよ」
「京太郎がユキに取られちゃう。京太郎、おっぱいも好きだし、可愛い系も好きだし」
「……」
「あの子、何でもやるよ。きっと。そしたら私、勝ち目ないじゃん」
「そしたら――構って、くれなくなるでしょ」
「やだよ私。そんなん、絶対にイヤだ」
「ユキだけじゃない。成香も、チカ先輩も」
堰を切ったように溢れ出る不安や嫉妬の言葉。
「みんなのお陰で部活が出来たことは感謝してるけど……コレは、別」
もう、止まらない。
ずっと前から、揺杏は引き返せないところまで来ていて。
「もう無理。我慢できないから」
ただ、破裂する時が、今だっただけの話だ。
「それでも、止めるっていうのなら」
だったら、京太郎のするべきことは。
「そしたら、私――んっ!?」
揺杏の望むように――その口を、塞いでやる。
押し付けるだけの、拙い行為。
それを姉は、拒まなかった。
「……今は、ゴメン」
十秒。
ちょうどそれだけ時計の針が進んだ頃に、京太郎は唇を離した。
「あ……」
それから、更に十秒。
「あ、あわわわわ……」
自分が何をされたのか、頭での理解が追い付いてくるに従って。
徐々に、揺杏の体温が上昇していく。
「責任、取るから。絶対、不安にはさせない」
「せ、責任……って」
自分に、依存させてしまったことの責任。
「今は、無理だけど。いつか、絶対に」
姉がもう、後戻り出来なくなるのではないのなら。
自分も、同じところまで落ちるしかない。
もう、これで姉が自分を追い詰めるような行動はしないだろう。
そう考えた京太郎だったが――
「京太郎、はやくはやく」
「はい、はい」
あすなろ抱き。
椅子に座る揺杏を、求められるままに背後から抱き締める。
「おいおい……やるなぁ、二人とも」
「へへ、いいだろ。キョータリュームエネルギー補充!」
問題なのは。
今が、部活中ということで。
「酷く頭の悪そうな名前ですね」
「まぁまぁ」
少し。
「……いいなぁ」
早まった、かもしれない。
あの時のように、衝動的な行動はなくなった。
それ以上を求められることも。
「……手、緩んでる」
その代わりに、遠慮がなくなった。
責任は取る、不安にはさせないと言った手前、要求には出来るだけ答えなければならない。
「はい、はい」
「へへっ」
ぎゅっと、シートベルトのようにフィットさせる。
不満気だった顔が一転、花マル笑顔に早変わり。
「……」
「いい、なぁ」
二人の物欲し気な視線の意味は、考えたくなかった。
「なぁ、わかってる? 京太郎は一人しかいないんだぞ?」
爽の言葉の意味は、考えるまでもない。
遠回しに『まだ諦めないのか』と告げられた由暉子と成香だが、その顔は納得とは程遠い。
「あの二人は姉と弟です。結ばれるなんて、ありえません」
「そ、そうですよ! アレはただの、スキンシップで――」
二人が認められないのは、その壁があるからだ。
踏み外せない最後の一線。
常識という名のブレーキが、揺杏と京太郎にはある筈なのだ。
「でも、あの二人――血、繋がってないじゃん」
しかし、そのブレーキも。
揺杏には意味をなさず。
そして――
「そう、ですか……」
「……」
どうやら、そのブレーキがかかっていたのは。
この二人も、同じだったらしい。
頷きもせず、否定もせず。
ただ無表情で、成香と由暉子は部屋から出て行った。
「……もしかして、マズった?」
その日は、雨が降っていた。
用事があるから先に帰っていて、と姉に言われて。
下校途中に姉が傘を持っていなかったことに気が付いたのは――ある種の、虫の知らせのようなものが働いたのかもしれない。
「なに、してるんだよ」
「ん……? あ、どうしたの? 先に帰れっていったじゃん」
「なにしてるんだよっ!!」
顔だけをこちらに向けて、微笑む姉。
その両手が、血管が浮かび上がる程に、握り締めるモノ。
その両足が跨ぐ、小さなモノ。
「――」
涙を浮かべた瞳が、言葉もないままに。
最後に京太郎だけを見つめて――静かに、目を閉じた。
何かを叫んだことは喉の痛みが覚えている。
熱が退いて白くなっていた視界が戻ってきた頃には――姉の胸倉を掴んでいた。
「――かはっ」
背後で、苦しげな息を漏らす音。
続いて、不規則に繰り返される呼吸。
それを聞いた姉は――酷く残念そうに、眉を顰めた。
「私から京太郎を奪うって、ケンカ打ってきたからさー」
たった、それだけのことで。
「何度無駄だって言っても聞かないからねぇ」
たった、それだけの言葉で――
「もう、駄目なんだよね――今だって、良かったっていうよりも残念に思ってるから」
もう、麻雀部にも――有珠山にも、いられない。
姉を壊したのは自分だ。
彼女たちを壊したのは、自分だ。
姉と一緒に、どこか遠くの場所に行く。
きっとそれしか、もう道はない。
「……行っちゃうの?」
だから――最後に、未練で訪れた麻雀部。
休日で、あんなことがあったから、誰もいないと思っていたのに。
彼女は、そこにいた。
「みんな、悲しむわ」
「……」
答えない。
答えたら、きっと決心が揺らぐから。
「……どうしても、駄目なの?」
踵を返して。
思い出の残った麻雀部を後にする。
トランプを広げた机も、楽しんだ自動卓も。
もう、帰ってこない。
「……そう」
「残念、ね」
バチバチと音がする何かが、首のあたりに押し付けられた。
体中に、激痛。
硬直する全身の筋肉は、自由が効かず。
まともな思考能力を奪われた頭では、何も考えることができなかった。
「揺杏の勝手は、あなたを縛り付けた」
「なるかとユキのワガママが、あなたを傷付けた」
「爽の浅慮が、あなたを追い詰めた」
動けない体を、抱き締められる。
一方的な愛情は、拒むことを許されない。
「私が」
「私が――あなたを、守ってあげる」
「ずっと」
「ずぅっと、ね」
勝手に降りてくる瞼。
暗闇に閉ざされていく視界の中で一つだけわかったのは――もう二度と、みんなには会えないということだけ。
かけ間違えたボタンは、二度と直せない。
「弟くん。私は悲しいです」
「……」
「弟くん。私は怒ってます」
「……」
「弟くん。私は――」
「わかった! わかったからっ! 明日一日中言うこときくから!」
11月13日。
それは姉の誕生日であり、京太郎がすっぽかした日である。
「ん……よっと」
竹井家は少し複雑な事情があり、それだけに姉弟の仲も――
「……なに、してんの?」
「湯たんぽ」
もぞもぞと遠慮なく布団に入ってきた姉に思考を中断される。
両腕を胸に回し、脚はカニばさみでがっちりホールド。
湯たんぽ、との言葉通り互いの体温がダイレクトに伝わる状態どある。
「ね、姉ちゃん、寝づらいんだけど」
そして薄手の寝巻きである以上、伝わるものは体温だけではない。
健全な青少年であることを自負する京太郎には、この状況は耐え難い。
「今日一日。言うこと聞くんでしょ?」
対して姉はどこ吹く風。
時刻は00:10。
屁理屈っぽいが――確かに、姉を拒む権利は今の京太郎にはない。
ソファに寝っ転がる時はスカートがめくれていたり。
夏は風呂上がりにタオル一枚で家の中を徘徊したり。
狙っているのか単に無防備なのか。
竹井久という女子は、したたかなようでいて意外と抜けているところも多いので判断しにくい。
だが、この場合は――
「ふぅ」
「――っ!」
唐突に、耳元に吹き付けられる吐息。
背筋にゾクゾクしたものが走り、堪らず身震いする。
それも許さないとばかりに、姉はより強く腕と足を絡ませた。
「ダメよ、勝手に動いちゃ♪」
姉は、楽しんでいる。
こちらの反応とその意味を、理解した上で。
「部活中でも……お願い、しちゃおうかな?」
更なる反応を見るために、楽しんでやっているのだ。
「ん……」
ちろちろと、舌が耳たぶを擽る。
身悶えすることも許されない京太郎は、ただ身を縮こませて姉の悪戯を甘んじて受けるしかない。
「ふふっ♪」
そして、舌の動きと連動するように。
久の指先が、服の中へと伸びて――
「っ!!」
ぷつん、と。
何かが切れた、音がした。
「ごめんっ!」
「あっ」
力尽くで布団もろとも姉を跳ね除け、パーカーを引っ掴みそのまま勢いに任せて駆け出す。
背後で姉が何やら言っているようだが無視。全力疾走で玄関から飛び出した。
「……ちぇっ」
危なかった。
あのまま姉のされるがままになっていたら――決定的な何かを、超えていた。
「……どうすっかな」
勢いに任せて飛び出したはいいが、寒い。
寝巻きの上にパーカー一枚では時期的にも時間的にも辛い。
家に戻って顔を合わせるのも気まずい。
財布も無いので適当な時間潰しも難しい。
咲の家はここからは遠いし、何よりこの時間の訪問は非常識極まりない。
「京太郎っ!!」
さて八方塞がりだと肩を下ろしたところに、背後から酷く心配した調子で自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
赤く上気した頬に、乱れた吐息が寒さで白くなっていた。
「良かった……すぐに、見つかって」
暗い寒空の下、急いで走ってきたのだろう。
電灯に寄り掛かりながら、息を整えている。
「久から、電話があって……京太郎が、出て行ったって」
彼女の名は福路美穂子。
姉の親友で、風越のキャプテン。
世話焼きな性格であり、京太郎もよくお世話になっているのだが――
「どうして、家出なんかしたの……?」
「え、えっと……」
純粋にこちらを心配する瞳に戸惑う。
まさか『ヤバイと思ったが性欲を抑えられそうになかった』などと正直に話すわけにはいかない。
姉から電話で――と言っていたが、どこまで話を聞いているのだろうか。
「け、喧嘩……しちゃって」
必死に自分を探してくれた美穂子に嘘をつくのは心苦しいが――正直に話すのはもっと辛い。
恐らく姉は、自分がこんな風に困るのを見通して美穂子に連絡を取ったに違いない。
今頃は京太郎の部屋の布団に包まってニヤニヤ笑ってることだろう。
「まぁ……」
京太郎の言葉を受けて、美穂子は――
「一緒に謝ってあげるから……帰りましょう?」
「うっ……」
心配した顔の美穂子にそう言われては、京太郎も従わざるをえない。
一度逃げ出したこともあって、戻れば何を要求されるのか大いに不安ではあるが――
「あ、おかえり」
――美穂子を連れて戻ってきた自分を、姉はあっさりと出迎えた。
ご丁寧に二杯のホットミルクまで用意してある。
「……ご、ごめん姉ちゃん」
「京太郎も、悪気はなかったみたいだから……」
「ん? いいのよ、仕方ないし。美穂子もごめんね?」
はい、と差し出されるホットミルク。
ちょっと前まで寒空の下にいた京太郎と美穂子には、姉の気遣いが実に有難い。
「あ、そうだ」
「ん?」
「美穂子――今日は泊まっていったら?」
「し、失礼します……」
おずおずと、ゆっくりと――それでもしっかりと、布団に入る美穂子。
「かもんかもーん」
どうぞ寛いで、と手招きする久。
前門の美穂子、後門の久。
――どうして、こうなった。
「ほら美穂子、しっかり押さえとかないと。また京太郎がどっかに行っちゃうし」
「そ、そうね……えいっ」
控えめな態度でも、思春期の心を掴んで離さない豊かさを秘めた美穂子の柔肌。
そういった魅力では美穂子には数段劣るが、京太郎の心理を理解して巧みに肢体を絡ませる久。
そして、この二人に挟まれた京太郎は――
「あ、あぅ……」
――金魚のように、口をパクパクさせることしかできなかった。
目を閉じれば、二人の香りが鼻腔を擽る。
それすら意識しないようにすると、二人の鼓動が伝わってくる。
加えて、広いとは言えない布団の中に三人。
はみ出さないようにすれば身体を密着させる他無く――結果として互いに温め合うことで、段々と全身が火照ってくる。
「ふぅ……」
美穂子の頬を伝った汗が、京太郎の寝巻きに染み込む。
久の指先が、京太郎の寝巻きの間から滑り込む。
「姉さん……それ、以上は……!」
「いいのよ、しちゃっても」
制止の声を、姉は聞かない。
京太郎の肌を、久の指先が嬲るように這う。
「……京太郎」
「み、美穂子さん……!」
美穂子も、止まらない。
久に負けじと、その顔を鼻先が触れ合う程に近付ける。
「男の子の布団に入るんですもの……どういうことかは、わかっているわ」
「え?……あ」
微かに、唇に触れた感触。
その意味を、理解した頃には――京太郎の意識は、二人の色香に塗り潰されていた。
――チュンチュン、と小鳥が囀る朝。
カーテンから差し込む朝の陽射しは爽やかな目覚めを呼び起こす。
「ヤッちまった……」
が。
京太郎の心境は、様々な想いが嵐のように渦巻いていた。
二人の魅力的な女を相手に初めてを捨てた達成感や、普段は自分を手玉に取る姉を屈服させた満足感。
血の繋がらない相手とはいえ致してしまった罪悪感や、性欲に流された自分への嫌悪感。
「大丈夫よ」
頭を抱えて悩む京太郎を優しく包む香り。
昨夜に散々味わった温もり。
「誰が、何と言おうと――私が、京太郎を守るから」
左右の異なる色が、京太郎を見据える。
躊躇いも戸惑いもないその瞳に――京太郎はもう、彼女たちから抜け出せないことを自覚した。
「京太郎くん、シャンプー変えましたか?」
「え?」
買い出しで頼まれた物を受け渡している途中。
和が、不思議そうな顔をして京太郎に問いかけた。
「部ち……竹井先輩のものとも、違う匂いだったので」
「え、あ――そ、そう! 実は母さん
のと間違えちゃってさ!」
「……」
顎に指先を当てて、和は何かを考える素振りを見せる。
シャワーは十分に浴びて来たのだが、女性の勘のようなものが働いているのだろうか。
「すまん、遅れた」
言い訳を考えている途中に、まこが戸を開き、久がその後ろに続いて入室してきた。
「さ、始めましょっ♪」
京太郎と目が合うなり、イタズラっぽいウィンクを一つ。
周りの三年生は受験で忙しい時期だが、久は推薦により既に進路が確定している。
『インターハイに連れて行ってくれたお礼』として、彼女が後輩の指導に精を出す姿は珍しいものではない。
今のウィンクも、さして気に留める部員はいなかった。
「……」
――約一名を、除いて。
男女の付き合いをして、初めてわかることがある。
美穂子は、思いの外――独占心が強い。
「はい、あーん♪」
「あ、あーん……」
喫茶店で、一つのパフェを一つのスプーンで食べさせあう。
絵に描いたようなバカップルのやり取りだが――意外にも、提案したのは美穂子だ。
こういうのは、久が自分をからかうために面白がってやりそうな――
「……こっち、見て?」
「あ……うん」
『今は私の時間』
美穂子が目で訴えている。
久の時間、美穂子の時間、二人の時間――三人で決めた取り組み。
独占欲の強い美穂子は、京太郎が久や他の女性について思いを巡らせているとすぐに勘付いてしまう。
「もう……」
一度崩れてしまえばこの関係はあり得ない。
全員がそれをわかっているからこそ――三人の関係は歪でありながらも、成り立っていた。
「京太郎くんは、風越の――福路さんとお付き合いしているんですか?」
部活前。
自動卓の準備やお茶の準備をしている最中にかけられた和の言葉で手が止まる。
「いえ、質問を変えます……いつから、お付き合いしているんですか?」
「の、和?」
「見ていましたから。昨日、喫茶店で」
勘違い、などとは言わせない。
和の表情はいつもと変わらないが――その質問の意図が、好奇心ではないことは明らかだ。
気圧されている。
瞳を逸らさずに見つめて来る和に、京太郎はそう感じた。
「……一週間前、かな」
「一週間……」
「姉ちゃんの繋がりで、色々あってさ」
「……母の、ではなかったのですね」
「え?」
「いえ、なんでもありません……お茶の準備、私も手伝いますね」
「それで、和――話って、なによ」
久の問いかけに和は答えず。
無言で、鞄から一つの写真を取り出した。
「……へぇ?」
写っている人物は、京太郎と美穂子と久の三人。
問題なのは、場所と行為。
学校の保健室で、三人がベッドの中でしていることは――
「『偶然』撮れてしまったものなのですが」
「……」
「このままでは――つい、『うっかり』とネットに流れてしまうかもしれません」
夕日も沈み、暗くなった部室が静寂に包まれる。
これ以上の言葉は不要だ。
久ならば、何も言わずとも自分の要求は理解できるだろうと和は確信している。
「……」
加えて、余裕がある。
久と美穂子の、決定的な弱み。
京太郎を想うのなら、従う他に道はない。
故に和は、黙って久の返答を――
「あはっ」
久の口元に浮かんだものは、焦りや怯えではなく余裕の笑み。
くすくすと、和を嘲るようにわざとらしく声を出して笑っている。
「何が、おかしいんですか……!」
久の態度に苛立ちが募る。
それが久の思う壺だとしても、問い詰めずにはいられない。
「わかっているんですか、自分の立場が」
「いや、ね? むしろ望むところかなーってさ」
「はぁ?」
この写真が流出してしまえば、久の推薦取り消しもあり得る。
更に、辱めを受けるのは久と美穂子に留まらず、京太郎も巻き込まれる。
むしろ、来年には卒業してしまう二人よりも、京太郎の方が辛い立場になる可能性もある。
「だってそしたら、これからずっと三人だけで生きてけばいいわけだし?」
「……何を、言っているんですか」
「そのまんまよ? 京太郎には辛いかもしれないけど――ほら、私。悪待ちとか得意だから」
どうにかなると、久は本気でそう思っている。
和が脅しをかけようと――そもそもの価値観が違い過ぎて、話が通じない。
「いざとなったら駆け落ちもいいかもね。倫理的にはアレだけど――こうなったらトコトンいった方が楽しそうだし」
来週までに荷物を纏めて、だとか。
指を折りながらブツブツと独り言を呟き久の瞳には、既に和は映っていない。
「おかしいですよっ!」
「ん?」
声を荒げずにはいられない。
つい先程までの余裕はなく、いつの間にかに追い詰められている。
「福路さんは――」
「言えばわかってくれるわ。京太郎の為なら何でもするだろうし」
私はオマケかもしれないけどね、と。
思い出したように付け足して、久は苦笑した。
「ああ、ありがとね。和」
「は、ハァ?」
「お陰で踏ん切りが付いたし――面白かったわ、あなたの顔」
滑稽だと。
勝ち誇っていたつもりが、泥を塗られて。
吊り上げた口の端が自分を嘲り笑っているのだと理解した時には――もう、手が先に出ていた。
「っ」
乾いた音を立てて、久の頬が痛々しい赤色に染まる。
口の端は切れて、血が垂れていた。
「……ふ、ふふ。デジタルだとか、澄ました顔をして」
「うるさい……」
「ほんと、直ぐに熱くなるんだから――笑っちゃうわ」
どこまでいっても、余裕の態度を崩さず。
「黙ってください、私は……!」
「本当に――お馬鹿さんなんだから」
それどころか、人を小馬鹿にする笑みを更に深くして。
「そんな杜撰なので――京太郎を、手に入れることができると本気で思ってたの?」
あっかんべぇ、と。
口の端の血を舐め取りながら、舌を出すその姿に――和は、自分の頭の中が白く熱くなっていくのを感じた。
久の首に両手をかけて、全力で押し倒す。
自分より身長の高い相手であるにも関わらず、久の体は叩き付けられるように壁に押し付けられた。
「がっ……!?」
「あなたが、あなたが、あなたさえ――!!」
今の和の思考は余すところなく熱に支配されている。
このまま首を締め付ければ久がどうなってしまうのか。
普段であれば思い付くその考えの先に、答えはない。
「あなたが、いなければ……!」
抵抗はない。
そして、涙を浮かべ、涎を垂らす苦悶の表情に先程までの余裕はない。
傷付けられた自尊心が満たされていく。
「あ、あはは……!」
久の指が和の手の甲に触れるが、弱々しい力ではどうすることもできない。
このまま。
このまま力を込め続けてしまえば――
和の視界と思考が一転したのは、唐突に頬に走った衝撃によって。
冷たい床に投げ出され、遅れて痛みと熱と、鉄の味が口内に広がる。
殴り飛ばされたのだと理解できたのは――ずっと、後になってから。
「けほっ」
咳き込む久を支えるのは、背の高い金髪の男子。
和からは後ろ姿しか見えず、その表情は伺えない。
「……ふふっ」
ただ、ゆっくりと彼に抱き抱えられて。
部室から出る瞬間に、久が口の端を吊り上げたのを――和は、見逃さなかった。
なんでのどちゃんってヒッサにコケにされるのがこんなに似合うんだろう
京太郎くんは私のものなどと、
その気になっていたお前の姿はお笑いだったぜ
最初から嵌められていたのか。
それとも、偶然の巡り合わせでこうなったのかはわからない。
何れにせよ、暗い部室に一人残された和には何もできない。
「……」
震える指が、写真を握り潰す。
胸の奥底から溢れ出る激情は、彼女を立ち上がらせる。
「……」
誰の手も借りず。
支えてくれる人は、奪われた。
嫉妬とも怒りとも区別のつかない感情に、和は突き動かされる。
「……」
ふらふらとした足取りが目指す先は愛しの彼の元。
その瞳が映すのも、たった一人だけ。
それだけを目指して、和は歩き出し――
「さようなら」
――故に、気が付くことができなかった。
竹井姉弟の転校と原村和の転校。
この二つの出来事が重なったのは清澄でちょっとしたニュースになった。
同じ麻雀の面子が同時に転校したということで様々な噂が囁かれたが――
「……よいしょっと」
――本当のことを知っているのは、二つの異なる色の瞳だけ。
重箱に弁当を詰めた美穂子は、壁にかかった時計を確認すると、ほっと安心したように息を吐いた。
「良かった。間に合って」
重箱を手拭いで包み、額の汗を手の甲で拭う。
大好きな二人の為に、二人が大好きな物を沢山詰めた重箱。
中身が崩れないように、確りと両手で持って美穂子は台所を後にした。
「それじゃ、行きましょうか」
京太郎を真ん中にして、両隣に久と美穂子が寄り添う。
繋がれた手は、きっと二度と解けない。
「……」
京太郎は、名残惜し気に一度だけ振り向いて。
それから、姉に急かされて。
「うん……行こう、か」
二度と、戻ってくることはない街を背中に。
二度と離れることのない二人の女性を連れて、京太郎は歩き出した。
最終更新:2026年01月05日 20:58