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智葉の住む屋敷。

最初は訪れる度にビビっていた場所だが、今となっては何も恐れることはない。

スキンヘッドのお兄さんやら刺青のおじさんの見てくれは相変わらず恐ろしいが――カピーと笑顔で触れ合う姿を見ているうちに、ビビっているのが馬鹿らしくなったのだ。


「な、なぁ……ど、どうすればいいんだ……?」


そして、それは我らが先鋒の智葉も同じで。

カピーに懐かれてアタフタと慌てる姿は新鮮というか、大きなギャップがある。

普段の凛とした佇まいとは正反対の姿を見れば、ついからかいたくなってしまうのも仕方が無い。


「ほーらカピー、もっとやってやれー」

「ちょ、京太郎っ!?」


そしてこの後、仕返しと言わんばかりに麻雀の指導でたっぷり絞られるのもまた――お約束と言える。




スパルタに次ぐスパルタ指導。

自分の中の甘い考えが徹底的に切り落とされていくような感覚。

風呂の準備が出来た、との声で解放された頃には――京太郎の頭は大分疲れ切っていた。


「お疲れ様。先に入ってもいいぞ」

「え、まじすか」

「ああ。風呂でさっぱりして――そうだな、二時間後にはまた始めよう」

「え、まじすか……」

「当たり前だ。時間は有限だからな」


無駄を許さぬ二段構え。

それが智葉流指導。


「……まぁ、ゆっくり温まってこい」


とはいえ、先を譲ってくれるという智葉の厚意には素直に甘えるべきだろう。

京太郎は、刺青のお兄さんに案内されて脱衣所へと向かった。





広い湯船に一人で浸かる。

浴槽は京太郎が両手足を大の字に伸ばしてもまだまだ余裕がある。


「ふぅ……ん?」


リラックスの末に、もういっそこの家に住んでもいいか――と、そんな考えまで頭を過った時。

戸の向こう側に、何やら人影が見えた。


「……え?」


驚きの言葉を口に出したのは、どちらが先か。

大口を開けて、目を見開いて。

まるで、鏡写しのように――全裸の智葉と、目が合った。




時が止まったかのように互いの間に流れる沈黙。

やがて、状況を理解し始めると段々と互いの頬に朱が差していき――


「す、すいません!」


先に動いたのは京太郎だ。

非がないとはいえ、智葉の裸をしっかりバッチリと目撃してしまったのだから。






「……お前が謝る必要は、ないさ」


背後で戸が閉じる音がする。

続いて、ひたひたと濡れた床を裸足で歩く音。


「よく確認をしなかった、私が悪いからな」


湯船に波紋。


「しかし――」


声が、ゆっくりと近付いて来る。


「責任は、とってもらえるか?」



智葉の指先が肩に触れて。


「なぁ……どうなんだ?」


吐息が耳にかかる程に、智葉の唇が近付いて。


「なぁ……京太郎?」


思考が固まって、身動きの取れない京太郎に――



――キョウタロー?








「すいません!!」


何に対する謝りの言葉なのか、自分でもわからないままに。

智葉の体を出来る限り見ないようにして――京太郎は、湯面を掻き分けるようにして湯船から飛び出した。


「……やれやれ」


智葉は一つ、溜息を吐き。

身体を洗うべく、湯船から出てシャワーを浴び始めた。




部屋に戻ってきた智葉を出迎えたのは、京太郎の土下座だった。

半ば予想通りの光景に、苦笑が零れる。


「顔を、上げてくれ」

「すいませんホントすいません……」

「……ふぅ」


深く溜息を吐いて、智葉は京太郎の前に座った。


「元はといえば、私が悪かった」

「……」

「だから――お前がそうするのならば、私も筋を通さなければな」

「筋……?」



顔を上げた京太郎が見たものは――額を畳に押し付けるような、智葉の土下座。


「すまなかった。責任、などと――お前を、困らせてしまった」

「そ、そんなことは……」

「いや、私が悪いのにお前を追い詰めてしまったんだ。それなのに、お前を謝らせてしまった」


深い謝罪の姿勢と言葉を口にして、智葉は顔を上げた。


「京太郎」

「は、はい……」

「私は――お前のことが気になるんだ」

「は、はい……?」


曖昧な言葉は、真っ直ぐに背筋を伸ばした智葉には似合わない。

それ故に、智葉も己の中の感情の整理がついていないのだということが伝わって来た。

「最初は、好青年だと思った」

「次に、危なっかしいヤツだと思った」

「……ハオと抱き合っていた時は――頭の中が冷えていくようでいて、熱を感じた」

「お前が麻雀に熱意を向け始めた時には――嬉しく思った」



「気になるんだ、お前のことが」


「この気持ちを恋と呼ぶのか、それはわからない」



「それでも――裸を見られた時に、『責任』を取って欲しいと思う程には、お前を気に入っている」



「そして――私の隣にお前がいるのを想像すると、悪くないと思える」



「京太郎」




「私は、お前が好きだ」





智葉の告白に、京太郎は答えられない。

予想外の事態に、理解が追い付かなかったということもある。


「いや……すまない、余計にお前を混乱させてしまった」

「……」

「それでも――言っておくのが、筋だと思ったんだ。お前にも、私にも」


それだけ言い終えると、智葉は立ち上がり、時計を見上げた。


「……今夜は、ここまでにしよう」

「智葉、さん……」

「……答えは」



「答えは、いつでも構わない」

「……」

「それがどのような答えでも――私は、待つさ」



「……いつまでも、な」






「なぁ、ネリー……?」


問いかけても返事はナシ。

ぷいと拗ねられては取りつく島もない。

それでいて膝の上は陣取られたままなのだから、どうしたものか。


『あれ? キョータローからサトハの匂いがするよ?』


事の発端は、いつも通りにネリーが京太郎の膝を陣取った時に。

智葉にもよくじゃれ付いているネリーだからこそ、ソレに気が付いたのだろう。


『ん、ああ。昨日泊まったからな』


ここまでなら、まだ問題はなかった。


『お泊り? サトハの家に?』

『色々あってさ。麻雀の勉強とか風呂とか……』

『……キョータロー?』


雲行きが悪くなったのは、この辺りから。

昨日の風呂場での出来事を思い出しそうになり、京太郎は慌てて話題を逸らした。

そして――


『ま、まあ! この前はハオの部屋にも行ったし! 変なことはしてねえよ!』


逸らした方向が、少しばかり不味かった。








こうして膨れっ面ネリーの出来上がり。

今思えば智葉とハオは部屋にお邪魔して、メガンは家に上げたことがある。

入部以来、学校以外の場で二人っきりになったことがないのは明華とネリーだけだ。

部員の中では一番最初に出会い、何だかんだで一緒にいる時間も一番長いが――こうして考えてみれば部屋にお邪魔したことはなかった。


「……」


――ふむ。

それならば、と京太郎はネリーの膨れた頬を指で押した。


「ふゅっ」

「あー……じゃあさ、今度ネリーの家にも連れてってくれないか?」

何すんの、と文句を言おうとしたネリーの口の形が変わる。

不機嫌なへの字から、期待を意味する緩やかな弧を描く。


「ホントっ!?」

「あ、ああ」


ネリーの勢いの良さに気圧されつつも、頷く。

少々驚いたが、どうやらこの選択は――


「夏休み、忙しくなりそう」

「……ん?」

「あ……キョータロー、パスポートないでしょ?」

「ん? んん? 何でパスポートが――」


「だって――サカルトヴェロだよ? ネリーの家」



ネリー・ヴィルサラーゼ。

出身・サカルトヴェロ。


成る程――確かに、ネリーの言っていることに間違いない。

彼女の家、実家に行くのならば確かにパスポートが必要になる。


「あー……」


あるのは間違いではなく食い違い。

京太郎からすれば彼女の泊まる部屋にちょこっとだけお邪魔するつもりだった。


「~♪」


しかし、とても嬉しそうに笑うネリーの顔を見ていると今更訂正するのも気が引ける。


「……そうだな、今度の休みにパスポートとってくるよ」





――夏休みに、外国の友達の家に行くことになった。

そう言うと、京太郎の両親も快くパスポート取得の手続きを手伝ってくれた。


「これがなぁ」


そして今、手元にあるもの。

見た目は小さな手帳だが、海外へ行く時には必須になるもの。


「ふーん……?」


パスポートを受け取った帰り、小腹が空いたので寄り道したファミレスにて。

パラパラと中身を捲っても特に面白いものはない。

当然といえば当然だが、海外旅行というイベントの大きさを考えると少々物足りない気がする。


「それは、あまり外で見せびらかすものではありませんよ?」

「あ、はい。すいません」


注意の声に慌ててパスポートを仕舞う。

声の方向に顔を向けると、明華がトレードマークの傘を手にかけて立っていた。







散歩をしながら歌の練習をしていたら小腹が空いて。

イクラ丼を食べたくなったのでファミレスに立ち寄ったところ、パスポートを不用心にペラペラと捲る京太郎を見つけた、とのことだが。


「明華さん、何かいいことありましたか?」


それにしても、目の前でイクラ丼をパクパクと口に運ぶ明華は妙に機嫌が良いように見える。

店員が注文を運んでくるまでの間も、鼻歌なんぞを口ずさんでいたし。


「ふふ、わかりますか?」

「はい、なんか凄い嬉しそうですね」

「ええ、だって――これで、京太郎くんをフランスの母に紹介できますから♪」

「ああ、成る程」

「はい♪」


それならば、機嫌の良いのも納得だ。

京太郎も、自分の注文したハンバーグにフォークとナイフを突き立て――


「……え?」







一瞬スルーしかけたが、さらっと凄いことを言われたような気がする。


「いや、ちょっと待ってくださいよ」

「なんですか?」

「フランスの母に紹介ってことは……」

「案内しますよ、勿論。向こうに行くには……夏休みがちょうどいいですね」


明華の中で、京太郎をフランスに連れて行って母に紹介することは既に決定事項のようだ。

断られる、という考えは微塵もないように見える。


「ああ、心配しないでください。旅費は私が出しますから」




「すいません、先約が……」


ピタリと、まるで時間を止めたように。

明華のスプーンを口に運ぶ動きが止まった。


「……先約?」

「ネリーの家に行く約束をしてて……」

「ネリーの……」


「また、ネリーですか……」


明華の声のトーンが低くなる。

まるで、さっきまでの喜びを反転させたかのように。


「……」


以前の指導の時も、食堂でも。

京太郎が優先していたのは、常にネリーだった。


「明華……さん?」


京太郎には、明華の心中を測り知ることはできない。

折角の明華の誘いを断ってしまったのは心苦しく思うし、残念ではある。

だが、明華の雰囲気は残念がるというよりは――






「はい、わかりました♪」

「はへ?」


身構えていた京太郎の裏をかくように。

顔を上げた明華の表情は明るい笑顔。


「ネリーの家……つまり、サカルトヴェロに行くんですね?」

「は、はい」

「でしたら――どの道、フランスに行く必要はありますから」

「そうなんですか?」


サカルトヴェロへの日本からの直行便は無い。

故に、旅行に行くならパリやロンドンといったヨーロッパの各都市を経由していく必要がある。


「ですから――そこで、フランスを経由すれば」

「ああ、成る程……」


夏休みは、長い。

フランスの明華の家で何日か滞在してから、サカルトヴェロのネリーの家に向かう余裕くらいはあるだろう。

無論、きちんと計画を立てる必要はあるが、明華の提案はある意味で一石二鳥だ。

両方を立てられるのなら京太郎にも断る必要はなく、明華の提案にも首を立てに振ることにした。


「……♪」


その笑顔の裏に、何を想っているのかわからないままに。





フランスの後にサカルトヴェロ。

忙しいことこの上ないが――きっと、今までで一番楽しい旅行になるだろう。


「……あ」


帰ったら家で色々調べてみようと意気込む京太郎の胸に引っかかったことは、旅費の問題。

フランスまでの旅費は明華が出してくれるというが、サカルトヴェロまでの旅費は考えていなかった。


「……」


もし貯金で足りなかったとしたら、何かしらの方法で小遣いを稼ぐ必要があるが。

麻雀の時間も取らなければならないので、バイトに打ち込む時間は少ない。

短い時間で、それも金を稼ぐバイトとなると、それは前にやろうとした――


「いや、ない。絶対ない」


京太郎は、一瞬だけ浮かんだイメージを、すぐに頭を振って掻き消した。



休み明けの日、京太郎がいつも通りに部室に顔を出すと、アレクサンドラが机に座って牌譜を捲っていた。

彼女は京太郎に気が付くと、片手を上げて京太郎を迎えた。


「早いね。感心だ」

「教室が部室に近いっていうのもありますけどね」

「ふむ……どうやら、最近は中々に頑張ってるみたいじゃない」


どうやら、アレクサンドラが見ていた牌譜の束は京太郎の対局を纏めたものだったようだ。

立ち上がって手渡された牌譜には、赤ペンで良かった点と反省点についてのチェックが入っていた。


「これは……」

「監督だからね、私も」

「……ありがとうございます!」


全ての牌譜に、読みやすく纏められてチェックが付いている。

所々に書かれている外国語の文は、文字が崩れていることもあって今一理解できないが、それを差し引いても十分に役立つ。


「はは……何か、手間かけてばかりっすね。すいません」

「手間をかけるのが監督の仕事。それに、キョウタロウ。君の存在は、サトハたちにとっても大きなプラスになっているよ」



雑用以外の部分でもね、とアレクサンドラは付け加えた。


「キミの存在が彼女たちにとっての起爆剤となっているから」

「起爆剤って」

「前以上に熱心に練習に打ち込んでる。キョウタロウの熱気に当てられたのかも」

「はは……」


こうも真っ向から褒められると、流石に照れ臭い。

京太郎はそっぽを向いて頬をかいた。


「前に風邪で休んだろう? あの時も、随分激しく戦っていたよ。誰が看病に行くかを勝ち負けで決めていたらしい」

「はぁ、そんなことが」

「私も仕事が無かったら参加したんだけどね……ああ、仕事を放り投げれば良かった」





「ふぅ……」


部活を終えて帰宅。

疲れはあるが、まだ体力に余裕はある。


「さて、と」


「お……」


携帯にLINEの通知。

相手は――





「あ……」


辻垣内智葉。

あの日の告白以来、面と向かって会話をすることはなかった。

お互いに気まずさがあり、部活中でも自然と口数が減ってしまっている。


『話したいことがある。私の家の近くの公園に来てくれないか?』


話したいこと。

恐らくは――いや、間違いなくあの告白に関することだろう。


「……そうだよな」


いつまでも待つ、と智葉は言ったが。

中途半端な関係を続けるのは、きっとお互いとって良くない。

彼女のLINEに了承の返信をして、京太郎は家を出た。





「すまないな、急に呼び出して」

「いや、大丈夫っす」


日が沈み、暗くなった公園。

京太郎と智葉の他に人影は見えず、辺りはすっかり静まり返っている。


「……」


智葉と見つめ合い、互いに言葉を失くす。

どのように話を切り出すか、互いに逡巡して。

智葉が、自嘲の笑みを浮かべながら先に口を開いた。


「すまない、呼び出しておきながら……」

「いえ……」

「話は……お前の、考えている通りだ」


――私は、お前が好きだ。


頭の中で、あの日の告白が響く。

「すいません……俺、まだ答えが――」


迷いながらも、今の自分の気持ちを正直に伝えようとした京太郎を、智葉が首を横に振って制止した。


「いや、違うんだ。答えを急かすつもりはない」

「え……」

「ただ……」


数秒の逡巡。

長い瞬きの後――智葉は、迷いを振り切って京太郎を見つめた。


「……一つ、許してほしい」

「……」

「待つと言った手前女々しいが、私はお前を諦めたくない」


「だから――私は、お前を落とす」



「夏休みに明華の家に行くと聞いて……我慢、できなくなったんだ」


「他の誰にも、お前を渡したくない。はっきりとそれが、わかった」


「答えを出すのはお前だ」


「だから、お前が私を選ぶように」



「私は――お前を、骨抜きにする」






よく通る声で。

一歩ずつ、距離を詰めながら、智葉は宣言した。


「これは」


やがて、後一歩で互いが重なる距離まで来ると。

智葉は、京太郎の胸倉を掴んで顔を引き寄せて。


「うわっ!?」

「その、前借りだ」


有無を言わせず――口付けを、重ねた。




智葉の宣言と、口付け。

余りの衝撃に――その後に何を話して帰ったかは、覚えていない。


「ふぁ……」


そして、寝不足。

理由は言うまでもなく、欠伸を噛み殺した回数は数え切れない。


「……寝不足のようね」

「あ……監督」

「熱中するのも構わないけど、焦っては逆効果だ。強くなりたいなら尚更」


どうやらアレクサンドラは、京太郎の寝不足の原因を麻雀に熱中し過ぎた為だと思っているらしい。

事実を知ったら、果たして彼女はどんな顔をするだろうか。






「時間は大事にしないと。ただでさえ……」

「……?」


アレクサンドラが渋い顔をしながら取り出したプリント。

一瞬牌譜かと思ったが、そこに書かれている内容は全く違うもの。


「……文化祭?」

「そう。うちの出し物として、何人か打つところを見せてほしいんだと」


ネリーや明華という有名人を起用している以上、部員の情報が相手に知られてしまうのはある程度は覚悟しなければならない。

それでも、勝つ為には本命との対局まで出来る限り切り札は伏せておく必要がある。

世界ランカーを抱える臨海だとしても、夏のインターハイという舞台を甘く見ることはできない。


「……上の人らは、私たちとは違う考えでね。派手に売り出す機会をできるだけ増やしたいらしい」

「はぁ……」



「でも……ある意味、キョウタロウにとっては朗報かもしれないね」

「そうなんですか?」

「恐らくは、何人かの監督やプロたちも来るだろう。運が良ければ、チャンスにできるよ」


対策を練る為に来る他校の生徒たち。

選手にとっては情報が知れ渡ってしまうのはマイナスになる。

だが、京太郎にとっては新しい刺激を得る為の機会になるかもしれない。


「この機会を活かすも捨てるも君次第……まぁ、普通に文化祭を楽しむのも悪くはないだろうね」

「……」

「ここからは今までより時間が貴重になる……それじゃあ、私は少し出かけてくるよ」


面倒くさい挨拶に行かなくちゃならない。

そう言い残して、アレクサンドラは廊下の向こうに歩いていった。

京太郎を除く、部員たちの前で。


「私は――あいつが、好きだ」


智葉は堂々と、宣言した。




「……少し前に、あいつに告白したよ」


智葉の宣言に対する反応は様々。

ハオと明華は、無言で目を細めた。

メガンは、面白そうに口笛を吹いた。

ネリーはただ無言で――下を、見ていた。


「答えは……?」

「まだ、だ」

「すぐに答えられないなら……それが、答えなのではないですか」


暗に、お前は振られたのだと。

棘のある口調で、ハオは智葉に告げられても、智葉は焦りや不安を表に出さない。


「はは……かもな。でも、拒絶されたわけじゃない」

「……」


諦める気配を微塵も見せない智葉に睨まれ、憮然とした様子でハオは頷く。



智葉の宣言は、宣戦布告だ。

お前たちの彼に対する好意はわかっている。

それでも、負けない。


「私は何でもする。家の立場だって使うし、彼と同じ日本人だということも利用させてもらう」


智葉は揺るがない。

卑怯だと何だと言われても、手を緩めるつもりはない。






智葉を本気にさせたのは、明華。

そして、明華を関節的に煽り立てたのは――ネリーだ。


「……キョータロー……」


彼女の胸を占めた感情は、不安。

何よりも欲しいと感じた物が、遠くへ行ってしまう焦り。


「……」


きゅっと握った手のひらに爪が食い込む。

ネリーはキョータローが好き。

なら、キョータローは?


「……ネリーは……」


等価交換。

前に、彼が口にした言葉。


「だったら……」


だったら、ネリーがキョータローにあげられる一番大きな物は――



【臨海 日常パート 了】





「11月26日はいい風呂の日なんだと」

「ふーん。なんか強引」


広くない浴槽の中に二人。

隣り合うスペースは無いので、自然とネリーが京太郎の膝の上に座るようになる。

水着やタオルのような、二人が触れ合うものを邪魔するものは、ない。


「ねー、キョータロー」

「掃除が面倒だから後でな」

「……ケチ」


ハオや明華にも言い寄られて――結局、京太郎が選んだのはネリーだった。

好きな女性のタイプとは正反対の彼女。

『俺、ロリコンだったのか?』と小一時間ほど悩んだのは誰にも話せない秘密だ。


「今は、これでな」

「んー……しょうがないなぁ」


額にそっと口付け。

口では物足りなさそうなネリーも、満更でもない顔をしている。


「後でいっぱい、キョータローの愛情貰うからね!」


尚、この後でネリーを連れて部屋に上がったら母親によって掃除されていた為に、机の上に並ぶ数々のおもち本を見つけることになるが――それはまた、別の話である。



『そんな明華さん。日本に来てからはイクラと数の子が好きになったそうです』


涙ながらに明華の経歴を読み上げる恒子。

そのアナウンスを控室で聞いた臨海の部員たちは、意外そうな顔を浮かべた。


「プチプチしたものに目がないんですよ」

「あー、確かに」


言われてみれば、明華は食堂でもよくイクラ丼を口にしている。

アナウンサーがどこでこの情報を知ったのかは不明だが、彼女は中々に優秀らしい。


『そしてなんと! 日本にきて好きな男の子が出来たそうです!』


そして続くアナウンス。

部員たちの顔が、驚いたものから微笑ましいものを見るものに変わった。


「イヤーオドロキデスネー」

「そうだなぁ、誰だろうなぁ。そんな色男は」

「うっ……」


棒読みのメガンと智葉に肘で突つかれ、よろめきながら一歩前に出る京太郎。

当然その先にいるのは、


「そうですねぇ……ナイショです」


微笑みを浮かべて待ち構える、明華である。




明華が普段から積極的なアプローチを仕掛けているのは周知の事実。

京太郎がヘタレて答えられないのも同じ。

だが、今の逃げ道が塞がれている状況では。


「じぃー……」


なあなあで答えを返すことは、許されない。

唾を飲み、意を決した京太郎の返答は――


「お、お友達からで……」

「ヘタレ」

「ヘタレだな」

「ヘタレてますね」


「……」

「み、明華さん……?」


「お友達では……なかったのですか?」

「は、はい?」

「私と京太郎はもうお友達だと思っていたのですが……違ったのですか?」

「う゛っ……!?」

古来、女性の涙は武器である。

ただでさえ追い詰められていた京太郎の立場が、更に険しいものになる。


「私の……思い違いだったのですね……」

「ち、違っ」


前方の明華の涙。


「あーあー……」


後方の部員たちのジト目。

良かれと思って返した答えが招いた結果。

ならば、この状況を覆すには――


「明華さんっ!!」


――男を見せる、それしかない。

「お、俺と……」

「……」


「俺と……付きあって下さい!」

「はい、喜んで♪」


泣き顔がケロリと反転、笑顔で即答する明華。

京太郎の拳を手のひらで包み、喜びを全身で表現している。


「ふふ……後で、母に挨拶に行きましょうか」

「あ、後で?」

「来てるんですよ、この会場に」

「あ」


そう言えば。

さっきも、アナウンサーがそんなことを言っていた。


「ああ……そうしたら。将来はフランスで暮らすか日本で暮らすか。今のうちから考えないと」

「は、ははは……」


一気に人生の墓場まで引き摺り込まれたような。

少なくとも、今の一言で高校卒業後の進路は既に決まってしまった。


「これから、よろしくお願いしますね――あなた♪」


まぁ、でも。

こんなに美人な彼女がいるのだから――それも、悪くはない。

京太郎は、そう納得することにした。

【本編if】


「……」

「……」


気まずい。実に気まずい。

きっかけは、ハオに教本を譲り受けたこと。

あれから、脳裏からハオの匂いが離れず。

色々な意味で、京太郎の眠れない夜が続いた。


「……す、すいません」

「あ、あ……いや、これは……」


問題は。

インターハイの宿泊先のホテルで。

滾るリビドーを抑えきれなくなった京太郎が、一人で発散させようとした瞬間に。

ハオが、部屋のドアを開けてしまったこと。


「これは……私?」

「うぁ……」


更に、ベッドの上にはハオの写真。

穴があったら入りたいを通り越して、縄があったら首を吊りたい。

罪悪感と羞恥心で、京太郎の心は塗り潰された。

「私の……せいですか?」


京太郎の心境を一転させたのは、ハオの一言。

嫌悪でも恥じるでもなく、ハオは京太郎の前まで歩を進めると、身を屈めてその下腹部へと手を伸ばした。


「ハ、ハオ!?」

「私の責任なら……私が、何とかしなければ……!」


ハオの白魚のような指が、京太郎の――



【省略】



【有珠山小ネタif】


「見てて、くれますか?」


――何を、と問いかける前に。

成香は、そっとカッターナイフを手のひらに――


「……あっ」


パキン、と高い音がして折れるカッターナイフの刃。

運悪く――いや、運良くカッターナイフの刃が古くなっていた為に、その刃は何かを切りつけることなくあっさりと折れてしまった。


「えと、ええっと……」


眉をハの字に曲げて困り顔の成香と、展開について行けない京太郎。

二人の間に、気まずい空気が漂った。


「はぁ……とりあえず、帰りましょうか」

「! は、はい!」


溜息と一緒に差し出された手をしっかり握って、成香は心から微笑んだ。

想い人の温かさを直ぐ側で感じるこの距離。


「すてきです……!」

「……やれやれ」


この瞬間、成香は世界で一番、幸せだった。


【清澄と】


「竹井先輩、卒業しちゃったね」

「そうだなぁ……」

「来年からは私らが二年かー」

「そうだなぁ……」

「……須賀くん?」

「そうだなぁ……」


「……ていっ」

「あ痛っ!?」


上の空な京太郎の頬を、和が抓る。

心ここにあらずな京太郎の意識は、強制的に部室に引き戻された。


「あなたがそんなのでどうするんですか。それでは竹井先輩も卒業できませんよ?」

「……」

「あ、それもいいかも……だなんて思いましたね、今」


図星である。

そっぽを向いて口笛を吹く京太郎に、和は呆れた顔をする他ない。



「……優希」

「あいあいさー」

「お、おい!?」


和の支持で、優希が京太郎の手首に付けた物。

京太郎の手首と椅子を繋げる冷たい輪。


「な、なんだよコレ」

「玩具の手錠ですが……結構、頑丈なんですよそれ」


京太郎が聞きたいのは、そういうことではない。

困惑の視線を向けると――和は、にっこり微笑んだ。


「ここ最近――ずっと、集中力に欠けていましたからね」

「こうでもしないと、京ちゃんヤル気出さないでしょ?」

「ビシバシとスパルタ指導だじぇー」


「さぁ……一緒に麻雀楽しもうよ、京ちゃん」



哀れな悲鳴が、清澄に響いた。






それは、中学時代のお話。


「須賀くん、ちょっと付き合ってもらえませんか?」

「ん、なんだ真屋」

「このプリントを運ぶの、手伝って欲しいんですけど」


由暉子が山のような雑用を押し付けられて、京太郎に手伝ってもらう。

ここ最近、毎日のように見られる光景。


「おっけー。お安い御用だ」


そして京太郎もホイホイ請け負う。

自分好みの女子に頼られるのは悪い気はしないし、両腕いっぱいにプリントの束を抱える由暉子の姿は見てて危なっかしい。

基本的に由暉子は頼まれごとを断らないために、パシリのような扱いをされることがある。


「お願いします」

「おう、任せとけって」


由暉子本人にしてみれば、頼まれごとを断らないのは自分が頼りがいがあるためだと思っている。

ならば何故、京太郎にも手伝ってもらうのか。

それは――未だ、由暉子自身にもわからない。

それは、二人が有珠山に入学して少し経ってからのお話。


「あ、お茶とお菓子切れてる」

「じゃあ買ってきます」


部活前に戸棚を覗いた誓子の言葉を受けて、由暉子がすぐに手を上げた。

普通ならジャンケンで決めるのが有珠山麻雀部の伝統なのだが、中学からのクセを引き摺っている由暉子は雑用の機会があると率先して奪い去っていく。


「京太郎くん、ちょっと付き合ってもらえませんか?」

「おっけー」


そして、京太郎も一緒に着いて行くことになるのも同じく。

この光景が、有珠山麻雀部の日常の一部となりつつあった。


「また出遅れました……」

「よしよし」


落ち込む成香を誓子が慰めるのもまた、恒例である。

それは、夕暮れの放課後のお話。


「京太郎くん、私と――付き合ってもらえませんか?」


夕日を受けて、頬を紅色に染めた由暉子の告白。

手を胸元に添えて、上目遣いに京太郎を見やる由暉子の顔は、普段の無表情からは想像も付かない。

彼女の告白に、京太郎は――


「ああ、いいぜ。どこに行く」


――何てこともないように、あっさりと返した。








「京太郎は、由暉子とはどこまで行ったの?」


京太郎の肩幅の採寸をしながら、揺杏が京太郎に問いかける。

由暉子の衣装に使った布が大分余ったため、京太郎にペアルックを作ってやることにしたのだ。


「どこまで、ですか?」

「そうそう。まさか、言えないトコまで言っちゃったり?」

「いえ……確かこの前の日曜は、一緒にゲーセンに行って」

「ふんふん」

「あー……その後に、ファミレスで飯食って」

「ほうほう」

「それから――ショッピングモールでアクセサリーとか見繕って」

「それからそれから?」

「由暉子の家にお呼ばれして」

「おお!」


何故か妙に興奮している揺杏を怪訝に思いながら、京太郎は記憶を辿る。

由暉子の家に呼ばれた後は、確か――


「由暉子のお母さんに夕飯をご馳走してもらって、帰りました」

「……それだけ?」

「それだけって?……いやまぁ、そうですけど」



ガッカリしたような、ホッとしたような。

複雑な表情を浮かべる揺杏は、ボソリと呟く。


「親公認の仲か……でも、まだ成香にも勝ち目はあるかな?」

「どうしました?」

「こっちの話!」


変な先輩だ、と京太郎は思った。



「京太郎くんは……まだ、ユキちゃんとはしてないんですよね」

「はい……? まぁ、人に言えないようなことはしてませんけど」


薄暗い体育倉庫での片付けの途中。

成香が、椅子を整理しながらぽつりと切り出した。

確認というよりは、確信の込もった口調に京太郎は首を傾げる。


(したって……何を……?)


思い当たることは、特にない。

個人指導をしてもらったり、放課後デートのようなことはよくしているが。


「なら……」

「せんぱ……い!?」


振り向くと、ブレザーを脱ぎ捨てて、ネクタイを解く成香の姿。

止める間もなく、シャツも脱いでスカートを降ろし、成香が身に纏うものは、下着のみとなった。


「この時だけ……今だけで、いいですから」


リボンも解かれて、彼女の長い髪が舞う。

シャンプーの匂いだろうか、甘い芳香が鼻腔を擽った。


「私を――あなたの一番に、して下さい」


両手を広げて、成香は京太郎を迎え入れる。

京太郎にしてみれば、まるで意味がわからないが、据え膳食わぬは何とやら。

ちょうど後ろにはマットがあるわけだし、と理性の糸が切れかかった京太郎は成香の手首を掴み――



瞬間、勢い良く開け放たれる体育倉庫の扉。

照明を背に受けて、その表情は伺えないが、そのシルエットから扉の向こうにいる生徒が由暉子だということは瞬時に理解した。


「あ、ユキ、こ、これはだな」

「この、泥棒猫」

「……は?」


慌てた京太郎が言い訳を探している内に、由暉子の口から出たのは思いがけない言葉。

憎しみの込められた口調に背筋が凍る。

頭も胸の中もグルグルしている内に、成香も毅然とした眼差しで由暉子を睨み返す。


「『コレ』はまだ、誰のものでもないから」

「屁理屈を……京太郎くんは、私の彼氏なんですよ?」

「それでも! それでも、私は――」


「え? 俺ってユキの彼氏だったの?」


「えっ」

「えっ?」

「え?」


場が、凍り付いた。






その後、有珠山麻雀部による京太郎弾劾裁判の開幕。

結果は有罪。情状酌量の余地はあるとはいえ、乙女の純情を踏み躙った罪は重い。

由暉子も少なからず幻滅した、が――


「ユキちゃんが彼女じゃないなら……京太郎くん! 私と付き合ってください!!」

「認めませんから。そんなの」


成香もまだ、京太郎を諦めてはいない。

三角関係から紆余曲折の末、京太郎に下された判決。


「んー……じゃあさ、いっそのことみんなで付き合っちゃうとかどうよ。私も京太郎のこと好きだし」

「えっ」

「それだ!」

「ええっ」


爽の一言により、全てが来まった。





月曜成香、火曜日揺杏、水曜誓子、木曜爽、金曜由暉子。

土曜と日曜は――


「両手どころか前と後ろにも花。嬉しいっしょ?」

「は、はは……」


――全員。

当然、京太郎一人の日はない。

そして、全員が彼女という立場である以上――


「ほーら頑張れー。まだイケるイケるー」

「も、もう無理っす……」


やるべきことは、やっている。

男としては誰もが羨む立場にいながら、男としての立場は一番低いという不思議な関係。


「どうして、こうなった……!」


明日も、京太郎の拝む太陽は、黄色い。







「なるかの恋路を応援するつもりだったのになぁ……」


胸の中で穏やかな寝顔を晒す京太郎を見て、誓子の口から零れる吐息には後悔の色が混ざっている。

ベッドの中で、誓子も京太郎も、お互い何も身に纏う物はない。


「ほんと……京太郎も、男の子だったのよね……」


後輩を、一人の男子として意識したのはいつからだろう。

荷物持ちを変わって貰った時?

足を挫いて負ぶって貰った時?


「いいえ……きっと」


きっと、最初から。

成香の恋心を知っていたからこそ、自分自身に嘘をついていた。

だからこそ、京太郎の告白を受け入れて――こうして、身体でも結ばれたのだ。


「ふぅ……」


それでいて困ったことに、誓子と京太郎の相性は、ソッチの方向でも抜群だった。

もう無理だ。あらゆる意味で――誓子は、京太郎に縛られている。


「ホント……成香に、どんな顔すればいいのかしら」


悩んでも答えは出ず。

誓子は、寝相で身動ぎした京太郎の頬を、愛おしげに撫でた。



ペットとはいえ、家族の一員。

その家族を預かる立場として、軽々しく扱うことは許されない。


「……お、お座り?」


問題があるとすれば、辻垣内智葉には動物を飼った経験がまるでないということで。

中腰になってカピーに精一杯の笑顔を向けても、ぷいとそっぽを向かれてしまう。


「はぁ……」


ガクリと落ちる肩。

祖父や祖父の部下は難なくカピーと接しているのに、未だに自分は距離感が掴めない。


「だが……」


惚れた男のペットに認められないで、何が恋人か。

カピーに認められてこそ、自分は京太郎を真に落とすことが出来るのだ。


「私は――諦めない」


智葉の気迫は、更に研ぎ澄まされていく。

ある意味で、宮永照以上の強敵。

本気で挑まずして、勝てる道理はない。


「やって……やるさ」


智葉が間違いに気付くのは――まだまだ、遠い。







夕日も沈み、風が冷たくなった頃。

しんと静まり返った部室内に二人。

意識せずとも、廊下の奥から下校する生徒たちの声が聞こえる空間。


「媚びた声、恥じらいもない誘惑――まるで売女だな、お前は」

「好きな人の好みに自分を合わせられないなんて――本当に、京太郎くんのことが好きなんですか?」


そのような中にいながら――智葉も明華も、お互いへの敵意を隠そうともしない。

侮蔑や嫉妬、交差する視線の先にあるのは相手への憎しみだけ。


「……精々、無様な姿を晒すがいいさ」

「京太郎くんも可哀想に……あなたみたいな人に、好かれるなんて」


鏡写しのように、お互いへ抱く想いは同じ。

彼に対する、執着の強さも。


「忘れ物――と、アレ? 誰かいるのか?」


だからこそ、彼は知らない。

彼が部室の戸を開けた瞬間に、二人は笑顔で彼を迎えるだろう。


全ては、彼の為に。

彼が好きな、自分の為に。


徐々に強くなる雑音に――まだ、彼は気付かない。


【水面の下 臨海】



夕日を受けて、紅に染まる頬。

その横顔に一瞬だけ見惚れて――京太郎はすぐに小さく頭を振って、気を取り直した。


「今日はありがとうございました……お陰で、色々な反省点が」

「いいよ。こっちも楽しかったしね」


風越のキャプテンとの交際を始めて、来週に迫る初デートの日。

予行練習の相手を久が名乗り出た為に、仮デートを行うことになった。

実際、美穂子との付き合いが長い久のアドバイスは為になったし――今日に学んだ女性をエスコートをする上での心構えは、決して無駄にはならないだろう。


「いい? デートにアクシデントは付き物だからね、あくまで応用が大事なんだから」

「アクシデント……ですか?

「そうそう。例えばこんな――ね」


くるりと、久が京太郎に振り向いて。

そのまま勢い良く背伸びをして――頬に触れた、柔らかく湿った感触。


「……ん、ご馳走様」


夕日を背に、はにかんで微笑む久。

頬が赤く染まるのは――きっと、夕日のせいじゃない。


【ガールフレンド(仮)】




松実宥にとって、京太郎はあらゆる意味で最愛の男だ。

イタズラから庇ってくれたり、寒さで震えている時には湯たんぽになってくれた。

小さいころは自分より小さかった背も、中学に入る前からドンドン伸びて、今はもう京太郎の方がずっと大きい。

頼りになって、温かい。

弟としても、男としても。

宥は、京太郎のことを愛している。

このぬくもりは、誰にも渡したくない。



それが例え――最愛の、妹が相手でも。



幼馴染み。

本当に、小さい頃から。

誰よりも、京太郎のことを見てきた自信がある。


京太郎の好きな人になりたい。

その想いで、化粧だって覚えたし、髪も伸ばした。

なのに――


『赤ちゃん、産めるから』


――どうして、なんだろう。

好きになれば、なるほど。

想いを巡らせれば、巡らせるほどに。


彼が、京太郎が、遠くに行ってしまう。


求めても、求めてくれないなら。


私は――





――いよいよ、明日。

阿知賀を離れて、東京へと向うことになる。

選手という立場ではないが、京太郎も阿知賀のメンバーに同行することになっている。


「準備は終わったけど……」


さて。

京太郎が、するべきことは――


家に帰って体を休めてもいいかもしれないが、何だか胸の奥が騒ついて落ち着かない。

こういう時は――


「う?」

「悪い、邪魔したか?」


真っ先に思い浮かんだのは、一番気楽に話ができる幼馴染み。

思い付きのままに穏乃に会いに行くと、明日に備えて荷造りをしている最中だった。


「んーん、大丈夫。あとこのダンベルだけだし」

「持ってくなよんなもん……」

「えー……?」


他にもプロテインやらリストバンドやら。

とても麻雀部の遠征とは思えない荷物が、開いたバッグから覗いている。


「……で、何かあるの?」

「ああ、えっとな――」



アコチャーの婿養子になる京太郎ください。
望さんでもいいです。

後継ぎで、しかも好きな人を取られて半狂乱な松実姉妹がみたいんじゃ〜

「憧のことで、ちょっとさ……」

「……うん」


真剣な雰囲気を読み取ったのか、穏乃はダンベルを床に置いて京太郎の顔を真っ直ぐに見詰める。

幼馴染みで親友の話となれば、一番に優先しなきゃいけない。


「前から、元気なかったろ? 憧」

「そうだね……何か、上の空な感じ」


龍門渕を訪れてからは、更にそれが顕著だ。

時折、どこか思い詰めた顔をするようになって――危うさのようなものを、二人は感じていた。


「同じ女子として、何かわかることないか?」

「そう言われてもなぁ……」


穏乃には、京太郎が知りたがっている女の子らしさは分からない。

憧が色々と勉強する傍ら、穏乃は野山を駆けずり回っていたのだから。

それでも、一つわかることがあるとすれば――


「私より、きょーたろうの方が憧に信頼されてると思うよ?」

「え?」

「男子とか、女子とかじゃなくて……京太郎が一番、憧に近いとこにいると思う」


何が言いたいのか、自分でもよくわからなくなってきたのだろう。

言葉を必死に探しながら、穏乃はバツが悪そうに頬をかいた。


「えっと、だから……私とか先生に何か聞くより……きょーたろうが思ったことをするのが一番良い……と、思う」

「そうか……ありがとな、穏」

「えへへ……なんか、ごめんね?」

「いや、いいって。こっちこそゴメンな、荷造りの途中で」



「あ……」

「ん?」

「このダンベル、入らない……」

「置いてきなさい」









結局、穏乃の荷造りを一から京太郎が手伝うことになった。

女子の荷物を男子が漁るのはどうなんだと京太郎は思ったが、こんなことをさせるのも京太郎が相手だからである。

恥じらいがない訳ではないが――穏乃にとって京太郎は、もう殆ど家族同然の相手だ。小さい頃は一緒に風呂に入ったこともある。


「はぁ……何でこんなに筋トレ道具が入ってんだ」

「あはは……おつかれー」


疲労の色が見られるが、気は楽になったようだ。

さっき見た時よりも、京太郎の顔はスッキリしている。


「……ん、じゃあ帰るわ。ありがとな」

「また明日ね」


手伝ってくれたお礼にいくつか菓子を手渡して、穏乃は京太郎を見送った。

その背中が曲がり角の向こうに消えるまで、穏乃はブンブンと手を振り続け――


「羨ましいなぁ……」


手を下げると同時に、溢れた呟き。

無意識で溢れたその感情に気が付くまで、後少し。






京太郎は淡が好きで、淡は京太郎が好き。

出会ってから半年で、お互いにそのことに気が付いて。

気が付いてから、もう少しだけ時間が経って、二人は結ばれた。


12月15日。


その日は、二人にとって重要な意味を持つ。



彼女の誕生日。

出来得る限りのことはしてあげたいと張り切るのは、当たり前のこと。


――私、きょーたろーと一緒がいい。ずっと一緒。


何か欲しいものはないかと聞けば、抱擁と一緒に返ってきた言葉。

卑怯だ。そんなことを言われたら、離したくなくなってしまうじゃないか。

彼氏なりに、特別な日のデートプランを必死に練っていたというのに。


自信過剰で、楽天家で、少しばかりアホな子。

付き合う前はそう思っていたのに――


「……惚れたもん負けかぁ」

「んー?」

「なんでもない」


こうして話している間にも、淡の頭を撫でる手は止まらない。

長い金髪。手櫛を通しても引っかかることは一度もない。


「……サラサラだなぁ」

「えへへ」


京太郎は、この滑らかな感触が好きだ。

淡もこの優しい指遣いが好きだ――けれど、少しだけ物足りなさを感じていた。

その優しさが、愛情からきていることはわかる。

大事にしたい。こうして京太郎に抱き締められている今も、淡は全身で京太郎の気持ちを受け取っている。


「……ね、きょーたろー」


それでも。


「私、割れ物注意じゃないよ?」


後一歩だけでもいいから、もっと踏み込んで欲しい。

高校100年生分の愛情を京太郎に向ける淡からすれば――優しさだけじゃ、まだまだ足りない。


「……淡」


どういう因果か、チーム虎姫のメンバーはみんな京太郎のことが好きで。

それは、淡が京太郎に選ばれた後も変わりはない。


「好き。私、きょーたろーのこと大好き」


淡は京太郎のことが好きで、京太郎は淡のことが好き。

何があっても、それは絶対に変わらないこと。


だから――


「……ちょっとだけ、乱暴でもいいから」


――私を、京太郎のものにして?

翌朝、淡は京太郎より先に目が覚めた。

まだ痛みはあるが――喜びの方が、強い。


「……♪」


手持ち無沙汰で、何となく京太郎の髪に手櫛を通してみる。

淡の髪よりはいくらか硬い感触。


「……ん」


何度も繰り返し手櫛を通して遊んでいると、京太郎が身動をぎした。

起きたかな、と指を離したら――また少し経った後に規則正しい寝息の音。


「……おねーぼーさんかー」

……こんなに可愛い彼女をほっといて。

淡は頬を膨らませて、ベッドに潜り込んだ。

勿論、京太郎の腕枕は欠かせない。


「きょーたろー」


返事はない。

そもそもこれは、呼びかけじゃない。


「冬休みにさ……一緒に、スキーに行こーよ」


「春になったら、一緒にお花見して」


「夏には海に行って」


「秋には一緒にお月見」


その他にも、まだまだ一緒に出来ることは沢山。

どんなに大きな星よりもキラキラ光る、眩しい宝物。


「……ずっと、ね」


これから待っている二人だけの日々に、淡は胸を躍らせて――目を閉じた。



【淡たんいぇい】








「私、割れ物注意じゃないよ?」


その一言に――京太郎は、胸の奥をぎゅっと絞られたような気持ちになった。



淡のことが好きだ。愛していると言ってもいい。

誰よりも大切にしたい気持ちがある。大事にしているつもりだった。

だけど、それは――結局、甲斐性がなくて、度胸がない自分への言い訳だったんじゃないか。


「……淡」

「好き。私、きょーたろーのこと大好き」


淡が一番欲しくて、求めているもの。

それをわからずに――どうして、彼氏面が出来るのか。


「……ちょっとだけ、乱暴でもいいから」


ここまでお膳立てされて、答えられなかったら、それはもう男じゃない。

京太郎と淡は、その夜に本当の意味で一つになった。

翌朝、京太郎が目覚めた時――片腕に重しが乗って動かないことに気が付いた。

視線を落とすと、淡が腕を枕にして幸せそうな寝顔を浮かべている。


「……うりうり」


手持ち無沙汰で、何となく淡の頬を人差し指で押してみる。

柔っこくて、スベスベする。いつまでも飽きない感触だ。


「……ん」


何度も繰り返していると、淡が小さく身動ぎした。

起こしちゃったか、と指を離すと――また少し経った後に規則正しい寝息。


「……この、寝坊っこめ」

こんなに可愛いらしい寝顔を浮かべているけれど、部内ではエース。

同じ一年生でありながら大将を勝ち取った淡と、京太郎の実力差はそれこそ100年生分はあるだろう。


「……」


才能の差、経験の差。

どうしようもない壁があっても――それでも、追い付きたいと思うのが男の子の性分。

淡が気にしなくても――彼女とは、対等でいたいのだ。


「すぐに追い付く……とは言えないけどさ」


待っていてくれ、とも言えない。

淡だって日々成長して、インターハイで自分を負かした相手へのリベンジに向けて頑張っている。

京太郎が一歩進む間にも、淡は100歩進んでいる。

これからも。

京太郎の何気ない他の女子とのやり取りで、淡を傷付けてしまうかもしれない。

麻雀でも、100年かけても淡の立つ領域まで辿り着けないかもしれない。


「……俺、がんばるからさ」


だけど、絶対に淡を幸せにする。

自分が淡に相応しいと、胸を張れる男子になる。


そう決意を込めて、京太郎は淡の頭を撫でた。


「……♪」


さらに、京太郎に身を寄せるように。

嬉しそうに、淡が身動ぎした。



【淡たんいぇい2】



万人にとって、日曜の朝とは微睡むために存在している。

そして、その認識は京太郎も例外ではなく。

そこに漬け込む、女が一人――


「きょーたろー」

「んー……?」

「ケッコンしよーよー」


枕元で、淡が囁く。

その手に持つのはボイスレコーダー。

布団の魔力に囚われた京太郎に、まともな返答はできない。

「うん」と一言、京太郎に言わせればそれで淡の勝ちである。


「ねーねー」

「あー……もっと……あったかくなったらなー……」

「夏もそう言ってたじゃん」

「んー……」


後一押し。

確信の上で淡は自分の知略に口元を歪ませ――


「……ほれー」

「あわ?」


――寝坊眼の京太郎に、布団に引きずり込まれた。

「あー……やわっけぇ……」

「あ、あわわわ……」


冬の朝と、布団の組み合わせは最強だ。

そこに好きな男の温もりが加われば、勝てる道理はない。


「……でも!」


蕩けそうになる顔を、淡は必死に押し留める。

絶対京太郎なんかに負けない!

インターハイ決勝戦以上の強い意思を、淡は瞳に宿らせ――


「ふやぁ……」

「zzz……」


――やっぱり、京太郎には勝てなかったよ……。

もうケッコンとかどうでもいい。

これ以上ないくらいに淡はだらしなく頬を緩ませ、京太郎の腕の中で幸せを享受する。


「きょーたろぉ……」

「あわぃ……」


二人だけの、日曜朝の光景だった。


【淡たんいぇい3】





穏乃との会話の後、京太郎の足は自然ともう一人の幼馴染みの元へ向かっていた。

憧が何を悩んでいるのか分からない。

でも、放って置くのも嫌だ。


だって、憧は――



「……あ」

「あ……」


噂をすれば何とやら。

心の整理をする間もなく、コンビニのビニール袋をぶら下げた憧にばったり出くわした。





いくらか互いに気まずい時間を過ごした後に、京太郎は憧の部屋へと案内された。

センスの良い小物が多く並べられた部屋。

憧が女の子だということを強く感じさせながらも、京太郎の趣味にもよく合う空間。

自分の部屋以上に居心地が良い。

いっそのこと、この部屋に住みたいくらいである。


「……」


……部屋の主の悩みが解消されれば、の話であるが。

モジモジと居心地が悪そうにしている憧。

視線があっちへこっちへ落ち着かない。


そんな憧に、京太郎がかける言葉は――



憧が何かを悩んでいることは明らかだ。

出来ることなら、助けになってやりたい。

悩みがある? とストレートに聞くのも躊躇われるし、ここは――


「憧って、やっぱりセンス良いんだな」

「……そう?」

「何つーか、俺の部屋より居心地いいぞココ」

「……」


話の流れを作ろうとしたら、憧は頬を赤らめて俯いてしまった。

それでも、満更ではなさそうな雰囲気を感じる。


「……そういえば、憧の部屋に来るのも久しぶりだな」

「……そうね」

「うん、何か我が家以上にしっくりくるわ」


「……その為の部屋だもん」


憧の声は、大きいとは言えなかったけど、不思議と部屋の中に響くように感じた。


「その為……?」


空調は程良く効いている。

冷房の風を浴びながらも頬が熱く火照るのは、胸の奥から溢れてくる何かのせいだ。


「……」


憧の口が小さく開いて言葉を紡ぐ。

さっきとは違って、聞き取ることのできない小声。

その唇から目を離すことができず、京太郎は自然と身を乗り出す体勢になる。


「アイスティー淹れてきたわよー……あら?」


そうして、憧の姉の望が部屋に来るまで。

二人は、見つめ合っていた。






憧と話をしているうちに、すっかり暗くなってしまった。

途中から望も交えて、昔話に花が咲いて。

時間を忘れる程に憧と話したのは――本当に、久しぶりだ。


「そろそろ、帰らないと」

「あっ……」


名残惜しげにする憧の頭に手を置いて、京太郎はぽんぽんと軽く撫でた。




「俺、いつでも憧の味方だから」

「……」

「だから……いつでも、助けるから」

「……」




「……うん」


結局、最後まで憧の悩みは知れなかったけど。

少しでも、その胸の中を晴らしてやることは出来たんじゃないかと思った。






「……おかえり」


夕飯は既に新子家でご馳走されている。

夕日も落ちて、月が姿を見せているというのに、門の前で姉は待っていた。


「遅かったね」

「……うん」

「おねーちゃんも、待ってるよ?」


玄が、京太郎の袖を引っ張る。

その瞳が期待するものは、もう理解し尽くしている。


「……きょーちゃん?」

「姉さん……俺」





「今日は、1人にしてほしいんだ」


玄の手を振り払い、京太郎はそう告げた。

せめて、今夜は。

ずっと、憧のことを想っていたかった。


「……」

「……ごめん」


言葉を失って立ち尽くす姉に、謝って。

それでも立ち止まり振り返ることはせず、京太郎は家の中へと入っていった。


コート・マフラー・ニット帽・ミトン。

過剰なまでの防寒具に身を包んだ少女――天江衣は、ぷっくらと頬を膨らませ無言で不満の意を京太郎に伝えた。

もこもこに着膨れした衣がそのような子どもらしい顔をしていると、本当に小学生にしか見えない。

ただでさえ幼く見えることを気にしている彼女。

この感想を口にすれば、中々にからかい甲斐のある反応があるだろう。


「きょーたろー! あれ、なにかな!」


だが、それは隣の高校100年生が許さない。

恋人のように京太郎の手を引く淡の辞書に遠慮の文字はない。

衣の不機嫌な様子に気が付いていないのか、それとも意図的に無視しているのか。


どちらにせよ――衣は淡の眼中になかった。


衣はデートのつもりで京太郎を誘った。

京太郎は、単純に友人と遊びに行く感覚で誘いを受けた。

お互いの認識にズレが生じた原因は、衣の無駄にややこしい言い回し。


更に、衣にとって嬉しくないことは、デートの途中で淡と遭遇してしまったこと。

京太郎にしてみれば淡も衣も等しく仲の良い友人。

一人よりも二人、二人よりも三人。

賑やかな方が良いだろうと考えるのは、当然だった。


「くっつくな。歩きにくいって」

「いいじゃん。寒いし」


けれど、衣の心はその反対を向いている。

一番に欲しい物が手に入らないなら、他のものなど――





昼飯時。

レストランにて好物のハンバーグエビフライを前にしても、衣の心は晴れない。


「京ちゃん。このパフェ、カップル専用なんだって」


宮永照。衣の前に、更に増えた障害。

欲に塗れた眼で、穢らわしい思惑を隠そうともしない指先で、京太郎に触れている。

その落とし前、どのようにしてくれようか――


「衣さん、頬っぺたにソース付いてますよ」

「なに?」


頭の中で障害を排除する算段をつけていた途中、衣の頬へと伸びる京太郎の手。

衣が確認するよりも速く、京太郎は衣の頬に付いたタルタルソースをナプキンで拭き取った。

照や淡ですら見逃した、息もつかせぬ早業であった。


「考え事です?」

「ああ……いや、たった今片付いた」


――やはり、京太郎をハギヨシの後継にしよう。


障害を始末するよりも簡単な方法。

京太郎を手元に置いて、永遠に離さなければ良い。

それならこの先、新しい障害が生まれることもない。


この上ない妙案であると、衣は一人頷いた。










牌に愛された少女。

誰が最初にそう呼んだのかは知らないが、京太郎にしてみればただの麻雀が強いだけの女子高生である。



天江衣。

どういうワケか、あまりにも小さ過ぎる先輩。

圧倒的な実力と、それに見合った尊大な態度。


度々古びた言葉を口にすることがあるが――残念なことに、京太郎にはさっぱりである。


宮永照。

インターハイチャンピオンで咲の姉。

天然というか、ややズレているところがある。


だけど面倒見が良い、いい先輩だと思う。


大星淡。

アホなヤツ。


でも、たまにドキッとさせられて――悔しいけど、可愛いヤツ。



そして――



宿泊先のホテルの部屋に戻ってきたら、巫女服の女の子が三つ指を立ててこうべを垂れてました。


「おかえりなさいませ」


口元が引き攣るのは気のせいじゃない。

何故、彼女がここに――?


「出てってよ」と、淡。とりあえず拳骨を落とす。

「なんで……?」と、照。その疑問はもっともだが――それは、貴女たちも同じです。

「……」と、無言で京太郎の手を握るのは衣。また子供らしい仕草を――とからかう余裕は今の京太郎にはない。


「こまっちゃん、どうしたの?」

「……?」


頭上に疑問符を浮かべて首を傾げる小蒔。

埒があかないと感じた京太郎は、質問を切り替えた。


「あのさ、鍵はどうやって?」

「え? 普通に開きましたよ? こう、ドアノブに手をかけたらカチャって」


……そんな筈はない。

このホテルのドアはオートロック式で、部屋を出た瞬間に自動で閉まるようになっている。

だが現実として彼女は目の前にいるわけで、とりあえずは――


「……お茶、淹れるわ」


思考放棄である。



京太郎がお茶を淹れようと備え付けのコンロで様々な準備をしている、その後ろ。

彼の目が彼女たちから逸らされた瞬間に――彼女たちの雰囲気は、一変した。


衣は敵愾心を剥き出しにする。京太郎には聞こえない声量で、罵倒の言葉をあらん限りに口にする。

照は表面上は普段と変わらないように見えるが、その瞳の奥には彼に近付く女への憎悪が渦巻いている。

淡は無関心。京太郎が絡まなければ、何もかもがどうでもいい。

小蒔は目を閉じている。恋敵と呼ぶのも烏滸がましい醜い相手。顔を見たくもない。


炎のように熱く、泥の様に纏わり付く想い。

その中心にいる少年は――幸か不幸か、そのことを知らない。




牌に愛された少女たち。

しかし、少女たちに愛された少年は一人。


一つしかないものを手に入れるための方法。

全員が同じ答えを導き出しながらも、最後の一線を越えないのは二つの枷があるからだ。


常識という枷と、愛という枷。

彼を想うからこそ、守られている最後の一線。


「……お前たちさえ、いなければ……!!」


しかし、それも。

既に、限界は近い。




彼女たちの背後で、何かが割れる音がした。

振り向けば、京太郎が頭を押さえて屈んでいる。


「大丈夫っ!?」

「ごめん、ちょっと立ち眩みが――っ」


その指先に出来た、小さな赤い血の球。

五つに割れたマグカップの破片。


その中の一番小さな欠片を手にして――衣は、微かに唇の端を吊り上げた。



【天照大神 弱】

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最終更新:2026年01月05日 21:04