「先輩、お茶淹れときましたよ」
「牌譜整理、終わりました」
「スポーツドリンク飲みます? 温めっすけど」
「ネットで知り合った人に料理とか教えて貰って――」
――不良がたまに良いことをすると物凄く良い奴に見える理論。
須賀京太郎は思いの外マジメに働き、部に良く貢献した。
京太郎は不良ではないし、マネージャーという役割を考えれば当然のことなのだが。
兎に角、竜華の敵意が好意に反転するのに早々時間はかからず。
良く見れば中々のイケメンだし、声も格好良い。
あんなに彼を警戒していたのが馬鹿らしく思えた。
――先輩チョロい、とは眼鏡の後輩の言葉である。
竜華が京太郎に心を許してから、少し経ったある日のこと。
「ん?」
「先輩、どうしました?」
やはり気になる相手というのは、つい目で追ってしまうもの。
その日の京太郎の様子がおかしいことに、すぐに気が付いた。
部活が始まったばかりだというのに疲労が残っているようにも見えるし――腰を庇うように動いている。
「なぁ京くん……腰、痛めたんか?」
「えっ」
ビクり、と京太郎の肩が跳ねて。
その反応で竜華は自分の観察眼の正しさを確信した。
「ちゃんと休んでる? 無理は禁物せんといてな?」
「は、はは……気をつけます」
笑ってはいるが、やはり無理をしている。
ふむ、と竜華は一つ頷いて、自分の膝をポンポンと叩いた。
「ちょいと休んどき!」
「へ?」
その行為の意味するところは、言うまでも無く。
千里山の太ももソムリエが太鼓判を押す魅惑の枕が、京太郎を誘っていた。
ゴクリと、生唾を飲み込む音がする。
「そ、それじゃあ遠慮なく――」
「京太郎……ちょおっと、話があるんやけどな?」
フラフラと誘惑に飲まれそうになった京太郎の耳を引っ張る指。
ニッコリいい笑顔を浮かべたセーラが、震える指で京太郎の耳を掴んでいる。
「せ、セーラさ」
「依存はない、な?」
「あ……」
止める間もなく、行ってしまった二人。
竜華の指が、空しく宙をさ迷った。
その後も、京太郎を観察してみると腰を痛めている様子が度々見られた。
そう言った日には決まってセーラも上機嫌になっていることから――大方、スポーツジムか何かで激しい運動をしたのだろう。
「ウチも、二人に混ぜて貰おうかなぁ……」
セーラ程ではないが、竜華も運動には自信がある。
何より――京太郎と二人で運動というのは、少し羨ましい。
「え、そりゃ是非とも――」
「スマンけど、コレばっかりは無理なんや」
「そっか」
そして、今日も。
二人揃って何処かに出掛けていく姿を、竜華は見送った。
おかしいと思ったのは、京太郎がセーラの家から出て来るのを見た時。
ジムの帰りに疲れて寝泊まりしてしまったのだと、二人は言った。
次におかしいと思ったのは、二人の髪から同じシャンプーの匂いがした時。
ジムで売っている物を使っているからだと、二人は言った。
誰かが気が付いて、二人が言い訳をして。
いつの間にか――竜華は、京太郎から遠ざかっていた。
だから、二人きりで会える機会。
ほんの少しの時間でも、竜華がそれを見逃す筈は無くて。
「ん……っ」
合宿で、彼が泊まる部屋に足を運ぶのも当たり前のことで。
「大好きや……ろぅ……!」
彼の部屋に近付く度に。
噛み殺した声が、段々と大きくなって。
「俺も、愛してる――セーラっ!!」
今まで、見ないフリをしていたモノを。
この目で、直視した。
考えるよりも先に、襖を開いた。
目を逸らすことも、耳を塞ぐことも、しなかった。
「合宿で――何しとるんや? 二人とも」
自分でも意外に思える、冷ややかな声音。
言葉を失う二人の顔は、情事が嘘のように青褪めている。
「ふぅん?……まぁ、ええけどな」
「り、竜華……」
「気持ちはわかるで? うちら、親友だからな」
「だから、一つ提案があるんやけど――」
窓に映る竜華の顔は、この時を待ち侘びていたかのように、笑っていた。
京太郎は幼馴染みで、昔からの親友だ。
小さい頃はよく外を一緒に駆け回り、泥だらけになって遊んだ。
――私は、京太郎を見ていた。
少し大きくなって、男子と女子が別れ始めた頃。
今まで一緒に遊んでいた子たちに仲間外れにされたけど、京太郎はまた一緒に遊んでくれた。
――私は、京太郎を見ていた。
その子が、転校してきた時。
明らかに、京太郎はその子に釘付けになっていた。
――私は、京太郎を見ていた。
もう一人の幼馴染みが、凄く可愛くなった。
髪を伸ばして、お化粧を覚えて。
エンコーだと陰口を叩いたやつを、京太郎は力一杯にぶん殴った。
――私は、京太郎を見ていた。
もう一人の幼馴染みが、どんどん元気がなくなってる。
京太郎は、何とか励まそうと頑張っていた。
――私は、京太郎を見ていた。
憧。
宥。
穏乃。
「………どうすりゃ、いいんだ……」
もし関係を持った姉たちを選んだら、二人は、どうなる?
一番大事にしたい相手を選んだら、その先には何がある?
全ては優柔不断な自分が招いたこと。
袋小路に行き詰まって――それでも、答えを出さないといけない。
「……京、ちゃん」
姉の、呼ぶ声がする。
「……私たちを、避けてるよね?」
「……」
宥は、寒そうに体を震わせて。
「……京ちゃん」
「……姉さん、俺は」
「寒いの」
両手を、広げた。
「あったかいのが、欲しいな」
姉が、自分を欲しがっている。
――赤ちゃん、産めるよ?
あの、夜のように。
一線を踏み越えてしまった、あの時みたいに、宥は両手を広げて、京太郎を求めている。
「京、ちゃん……?」
――私を、捨てるの?
直接、宥が言ったわけじゃない。
「……俺、は」
――欲しけりゃ、くれてやるよ。
欲のままに、そう口に出せば、全てが終わる。
「……体、冷やさないでくれよ」
京太郎は、姉の小さな体を抱き締めて。
頰に朱が指した頃に、手を放した。
「……京ちゃん?」
姉の視線に込められた感情にも、心の中で自分を責める声にも。
京太郎は、気が付かないフリをした。
「……大事な、大会なんだから」
掌の傷から、血が滲んでいた。
「……憧ちゃん、だけじゃないんだ」
マフラーの下で、噛んだ唇から、血が滲んだ。
咲「京ちゃん大好きだよ、だから…死んでッ!!」ダッ
京太郎「やめんか」ペチ
咲「あいたっ」
買い出し、という名目で京太郎は一人で外出していた。
悩んでも、考えても答えは出ない。
ただの現実逃避であり、問題の先延ばし。
自身を取り巻く女性たちとの関係に、どうやって決着を付けるべきなのか。
正解は、きっとどこにもない。
「悩んどるなー、少年」
かけられた声は、どこかで聞いた覚えのあるもの。
ショートヘアに、白と紺色のセーラー服。
「園城寺……さん?」
京太郎が、サービスエリアで少しだけ声を交わした女子。
園城寺怜が、小さく微笑んでいた。
「あれ……私、名前言った?」
「有名人ですから」
サービスエリアで出会った時は知らなかったが、対戦校となれば研究は済んでいる。
だからこそ不思議に思うのは、彼女が話しかけてきた理由。
これから鎬を削ることになる相手――それも、選手でない自分に何の用があるのか。
「いやまぁ……特に理由はないねんけど」
「はぁ……」
「まー……強いて言うなら、そのオーラ?」
「お、オーラ?」
「うん。ほっとくと、今にも死にそうな顔しとったで――君」
「なぁ」
「……」
「おねーさんと、駆け落ちする?」
「……はい?」
「嫌なことからぶわーって逃げて、誰も知らないところで二人で暮らすんや」
「いや……何言ってんすか、あんた」
「うん。何言ってんやろな、私」
彼の温かさ。
それは、絶対に他人に渡したくない。
彼が欲しい。
なのに、焦がれる程に尽くしても、届かない。
彼が隣にいればいい。
それなのに、彼は余所見をしてばかり。
「どこ、行ってたの」
買い出しから帰ってきた京太郎を、真っ先に憧が迎えた。
その口振りからすると、京太郎が買い出しに出かけていたことは聞いていなかったようだ。
何故か責められているような気になり、居心地が悪い。
「買い出し。先生に聞いてない?」
「そうなんだ……ごめん、聞いてなかった」
「まぁ……うん、レジェンドが悪い」
「……」
「ねえ。京太郎」
「ん?」
「京太郎は、私の味方だって……言ったよね」
「私と同じ部屋が良いって、京太郎が言ってくれた時。凄く嬉しくなって」
「……でも」
「京太郎……もう、ヤッちゃったんでしょ? 玄や、宥姉たちと」
両手をきゅっと握って、憧は俯いた。
「今も……買い出しに行ってる間に、誰と会ってきたんだろうって思っちゃって」
「おかしいよね……グシャグシャなの、私の中が」
「ねぇ、京太郎」
「私を、助けてよ」
光の当たり方のせいか。
まるで、憧が咽び泣いているようにも見えて。
「憧……!」
京太郎は、憧を抱き締めた。
震えている小さな体を、落ち着かせるように。
「ごめん……憧」
「……」
「わからないんだ……俺も」
「……宥姉みたいに、私にしてよ」
京太郎の腕の中で、憧が囁くように言った。
「私、ずっと勝てなかった。宥姉に」
「一緒にいられる時間でも。京太郎の好きなタイプでも」
「私……もう、負けたくない」
「好きなんだもん、京太郎のこと……!」
京太郎は、憧に求められるままに――
京太郎は、憧を見ていた。
憧は、京太郎を見ていた。
「言ったよね」
穏乃は。
「私、けっこー嫉妬深いって」
ずうっと、京太郎を見ていた。
二人だけしかいなかった部屋に、穏乃は躊躇いなく足を踏み入れた。
京太郎と憧の顔を交互に睨めつけ、小さく口を開く。
「……大事にしてよって、私……言ったのに」
「……なにがよ」
言葉を失った京太郎に代わり、憧が口を開く。
その眼差しには、親友に対しての嫌悪が確かに宿っていた。
「私、ずっと京太郎を見てた」
「……」
「なのに……京太郎は、いつも憧を見てたんだ」
穏乃の瞳に宿るものは、嫉妬。
自分の方が、より沢山の時間を京太郎と一緒に過ごしていたのに、京太郎の心は憧ばかりを見ていた。
「……ふざけないでよ」
対する憧の瞳に宿るものは、怒りと嘲り。
自分は努力をした。全ては、京太郎に好かれる為に。
「私は、京太郎の為に髪だって伸ばしたし化粧だって覚えた」
「アンタは、その間何してたのよ」
「それ、は――」
「山を走り回って。泥だらけになって」
「好きになってもらう努力もしなかったのに――勝手なこと、言わないでよ」
目の前で、親友同士が罵り合いをしている。
嘘だと思いたかった。目を閉じて、耳を塞いでしまいたかった。
「やめてくれよ、二人とも……!」
憧の前に立ち、二人の間に割って入る。
これ以上は、聞いていられない。
「憧、穏は友達だろ……?」
縋るように、憧に言葉を投げかける。
穏乃は、昔からの親友だった。
それは、憧にとっても変わらない筈で。
「……私の、味方をしてくれるんじゃなかったの?」
対する憧は、信じていたものに裏切られたかのような表情を浮かべた。
悲しくて、膝を崩してしまいそうになりながら、京太郎の瞳を見詰める。
「……ああ、そうだよ。友達同士の罵り合いなんて、みてらんねえよ!」
「京太郎……!」
「――あは」
二人のやり取りを見て。
「そうだよね、やっぱり」
穏乃は、馬鹿らしいと言わんばかりに、笑った。
「無駄だよ、憧。京太郎は誰の味方にもなれないよ――優しいから」
誰かの味方になることは、誰かの敵になること。
そんなこと、京太郎には出来ないと。
出来たら、今みたいにはならなかったと――穏乃は、憧を嗤った。
「……だから」
「ケリはさ、私たちの手で着けよっか」
準決勝を、突破した夜。
晴絵は、昔馴染みに呼ばれた用があると外出している。
「……」
一人で部屋に残された京太郎の胸中には、払い切れない靄がかかっている。
自分は、どうするべきだったのか。
「……眠れない」
早く寝るように、とは晴絵の支持だが。
考え、悩むことが多過ぎる今、目を閉じても睡魔はやって来ない。
目を閉じて、暗闇の中で真っ先に浮かんだものは――憧の顔。
「……アイツは、どうなんだろうな」
会いたい。
そう思い立つと、京太郎はすぐにベッドから立ち上がる。
眠気なんて、最初からなかった。
軽く身なりを整えて、京太郎はドアを開き――
「……あ」
「あ……」
その向う側で、ドアノブに手を掛けようとしていた憧と、目が合った。
憧を部屋に通して、備え付けのテーブルを挟んで向かい合う。
「……」
「……」
東京に来る前、阿知賀を出る前日と同じような状況。
考えることは、同じだったのだろう。
二人して――会いたいと、思っていた。
「あのさ……ずっと、言いたい事があったの」
互いに遠慮して口を閉ざしている中、先に話を切り出したのは憧だった。
「……なんだ?」
「順序とか、そういうのが……本当に、グチャグチャになっちゃったんだけどね」
「……」
「私――京太郎のことが、好き。ずっと前から、好きだった」
憧の告白。
その内容は、ずっと前から知っていたこと。
「……この前は、急に言っちゃったから」
「色々、考えて」
「ちゃんと、改めて。伝えなきゃって、思ったの」
告白をして。
ふぅ、と憧は息を吐いた。
「それと、ごめんなさい」
「……憧?」
「私、ずっと京太郎に甘えてた」
「……んなこと、ねえよ」
「ううん。今だって、そう。甘えちゃってる」
「でもね」
「もう、大丈夫だから」
「もう、私は京太郎を苦しめないから」
「……ごめん。それだけ、言いたくて」
憧は、また軽く息を吐いて、立ち上がった。
椅子に座ったままの京太郎は、憧を見上げる姿勢になるが――不思議と、その姿はいつもよりずっと、小さく見えた。
「……憧」
遅れて、京太郎も立ち上がり。
立ち去ろうとしている憧の手を、掴んだ。
「京太郎?」
「俺も……俺も、憧に言いたいことが、ある」
「俺も、多分、きっと……ずっと、前から」
「憧のことが――好きだ」
憧は、ピタリと動きを止めて。
それから、ふるふると、小さく首を振った。
「……なんで?」
「言わなきゃ、いけない気がした」
「なんで――なんで、今更、言うのよ!」
「それは……その……告白の返事は、しなきゃダメだろ?」
さっきまで、この部屋から立ち去ろうとしていた憧は、立ち止まってその身を震わせながら、ポロポロと泣き出してしまった。
京太郎は、机を回り込んで、憧の側に並び立つ。
涙を拭おうと差し出した指は、拒まれなかった。
「……消えようと、してたのに」
「京太郎が、どんどん遠ざかって……こんなに、辛くて、苦しいなら」
「京太郎の前から、消えようって」
「そう、思ったのに……!」
それを聞いてしまったら――もう、京太郎は憧を離したくない。
両手で、力一杯に、憧を抱き締める。
「なら……二人で、消えよう」
「え……?」
「姉さんたちも、穏乃も……どこかに、置いて」
「二人だけで――どこか遠くに、消えよう」
「それって……」
駆け落ち。
何もかもを捨てて、二人だけで生きる。
京太郎は、そう言っている。
「……」
「……」
憧は――京太郎を、拒まなかった。
身を委ねるように、京太郎の腕の中で、力を抜いた。
「随分と、時間かかったな。電車来ちゃうかと思った」
「女の子の準備は色々とあるの」
「そういうもんか?」
「そういうものよ――アンタの好きなように合わせるの、大変なんだからね?」
「うっ……すんません」
「わかればよろしい」
「あ、電車来た」
「……」
「……行こっか」
「ああ……」
「……さよなら」
大きなスーツケースと、繋いだ手。
二人に必要なものは、たったそれだけ。
今までも、そしてこれからも。
電車に乗り込んだ二人は、移り変わっていく景色を二度と振り返らず。
互いに寄り掛かるように、座席に座った。
【ノーマルEND 松実京太郎 憧END からのたび】
全ては、姫様の為に。
そういう集りだった。その為の、彼女たちだった。
「だ、駄目だよ須賀くん……!」
彼を、姫様に捧げる。
姫様の為にも、神代の為にも。
それが、彼女たちの為すべきことだった。
「……なら、この手を離して下さい。俺を、フッて下さい」
「……」
綻びが生じたのは、石戸から。
人の心は、掟では縛れない。
一度、欠けてしまえば崩れ落ちるのはあっと言う間。
「無理……だよ、そんなの」
もう、この気持ちは祓えない。
誰にも渡したくない。
春が、初美が、霞が、小蒔が、誰が彼を求めていても。
彼を手放すことは、出来ない。
京太郎も、また同じ。
掟なんて、知らない。
一番愛した女と、一緒になりたい。
「……巴さん」
「京太郎……くん」
二人は、抱き合ったまま。
深い山の霧の中に、消えた。
地面には、千切れた紐が、落ちていた。
一目惚れ。
バカにしていたソレに、自分が嵌まってしまった現状。
件の彼の周りには、沢山の恋敵。
「ダルい……」
中でも、一番に気に入らないのは。
だらし無く、彼に纏わり付くアイツ。
売春する女みたいに、恥じらいもない。
「どうしたら、いいんだろ……」
無理矢理に引き剥がそうにも、単純な力では敵わない。
彼も優しいから、例えどれだけ卑しい相手だろうと、追い払えない。
「痛……っ」
考え事をしながら、道を歩いていたせいか。
足元に転がっていたものに、気が付かなかった。
一本の、曲がった釘が刺さっている木の板。
誰かがここに、不法投棄したんだろうか。
「……」
何故だか、胡桃は。
自分の血が付いたその釘から、目を離せなかった。
高校を卒業してから、松実家は幸せに満ち溢れていた。
もう何も、三人の間に入るものは無い。
弟は松実館を継ぐ修行をして、自分はそのお手伝い。
玄にとって――全てが、順調に進んでいた。
「あ……あっ……!」
だから、わからない。
自分にのしかかり、首を絞めるマフラー。
顔に血が集り、喉が脈動し、酸素を求めて、阻まれる。
「おね……ちゃ……」
何故、と言いたくても言葉にならない。
舌は回らないし、姉の顔はよく見えない。
ただ熱を持った首だけが、玄に意識を与えて。
「……が」
それすらも――徐々に、マフラーによって奪われていった。
宥に温かさを与えてくれるものは、弟一人だけ。
それ以外は、隙間風であり通り風。
「……寒い」
身を震わせながら立ち上がった宥は、京太郎の元に向かう。
今の時間なら風呂場で休んでいる筈だから、一緒に温かくなれる。
「ふふ……」
笑みを浮かべた宥の頭には、もう玄のことはない。
隙間風を運んでくる風穴は、確かに塞いだのだから。
頬を濡らした生暖かい何かにも、宥は気が付かなかった。
宥姉の方がヤンデレイメージ強い、なぜか
「ウチ、病弱やし……」
怜はよく、口癖のようにそう言った。
冗談混じりでも、それは事実で――そんな彼女を、京太郎は支えた。
「京ちゃん」
男と、女だったから。
「私、京ちゃんが欲しいな」
互いに惹かれあった二人は、結ばれた。
親友と、可愛い後輩が付き合いだしたのだから――竜華は、祝福した。
二つの場所を奪われた、なんて声には耳を背けて。
――おかしい、と。
怜が二人の距離に違和感を抱いたのは、何度目かの退院を終えた後。
「なぁ、京くん。この後どっか行かへん?」
「いえ、今日は怜さんと二人で過ごす予定があるので」
京太郎と竜華だって、短い付き合いじゃない。
二人で遊びに行くことぐらい、珍しくはないだろう。
「……そゆことで。ごめんな、竜華」
だが、納得がいかない。
どうしてか――この抱き抱えた京太郎の腕を、離してはいけない気がした。
――それは、何度目かの入院。
竜華と京太郎が二人並んで見舞いに来るのも、怜には見慣れた光景だ。
「それじゃあ、またな?」
二人が並んで帰るのも、いつも通り。
何も、おかしいことはない。
「……」
だから、怜が窓のカーテンを捲って外を眺めたのにも、特に理由は無い。
病院から出た先の道で――見知った二人が抱き合い、口付けを交わす瞬間を見てしまったのは、単なる偶然だ。
気が付けば、床に花瓶の破片が散らばっていた。
怜には――竜華を、咎められなかった。
自身が病弱であることを自覚していたし――京太郎という、若い男の欲を満たせていないことも。
「怜ー、見舞い品持ってきたでー」
竜華は、それを見越していたのだろう。
だからこそ、あの時。
見せ付けるように、していたのだ。
「ありがとなー……新しい、花瓶」
「ん。この前の、割れちゃったしな」
歪な関係。
亀裂が入る音に、耳を塞いで。
少しずつ壊れていくものからは、目を背けて。
二人は、京太郎を満たし続けた。
「京ちゃん」
怜が手を伸ばす。
京太郎は、その手をとった。
「京くん」
竜華が手を伸ばす。
京太郎は、その手をとった。
心は怜を向いていても、体は竜華に応えてしまう。
もう、どうしようもなく、嵌り過ぎている。
ずぶずぶと、深みに進んで行くことしか出来ない。
もう、誰にも止められなかった。
「京太郎くんには――今日から、この部屋で暮らしてもらいます」
朝――かどうかは、部屋の中に窓すらないため分からない。
兎に角、目が覚めた京太郎に理解できたことは、自身の手足が縛られているということだけ。
全ては、目の前の霞が握っている。
「……意味が、わからないんですけど」
「あら……なら、いずれわかるようになるでしょう」
「……食事とか、トイレとか」
「私たちがちゃんとお世話します。勿論、下の方もね」
霞には、取り付く島もない。
「……」
「今は窮屈でしょうけど……いずれ、それも解ける日がくるわ。あなたが、その意味を理解できた日にね」
「ああ……そうそう」
「理解できたフリ……をして逃げ出したりなんてのは、やめてちょうだい?」
「そしたら――手足とか、切り落としちゃうかもしれないから」
くす、と小さく微笑んでいても。
京太郎には、それが冗談だとは、微塵も思えなかった。
テレビも、携帯も、外の情報が知れるようなものは何も無い。
定期的に訪れる六女仙との会話。
それだけが、今の京太郎の知ることのできる全てだった。
「起きてる?……朝食の、時間だから」
控え目なノックの音と同時に、開かれる扉。
今日の「世話係」は、巴のようだ。
「……手足、痛いんですけど」
「……ごめんなさい。でも、それを取るわけにはいかないから」
少し京太郎が強めに言うと、巴は後ろめたそうに視線を逸らした。
罪悪感のようなものを、彼女は持っているようだ。
「……」
もしかしたら。
彼女になら、話が通じるかもしれないと。
京太郎は、少しだけ期待を抱いた。
「巴さん……あなた、だけです」
「……」
巴は、答えない。
事務的に、淡々と食事の準備をしようとしている。
「春やこまっちゃんも……自分のこと、だけで」
「……」
「俺を心配してくれるのは、あなた――巴さんしか、いません」
「で、でも……」
「巴さん、俺は――」
「早くしないと、朝ごはん冷めちゃうわよ?」
迷い、戸惑っていた巴の手を動かした一言。
「あら――朝ごはんに、埃が入っちゃってるわね。巴ちゃん、新しいのを持って来てくれる?」
霞は、巴に一瞥もくれず。
ゆっくりと、一歩ずつ京太郎に近付いて。
「大丈夫――それまでのお務めは、私が代わるから」
その衣服に、手を掛けた。
「先輩ッ!!!」
部室に顔を出すなり、耳を劈く怒声。
思わず耳を塞げば、三白眼を釣り上げて迫る後輩。
「聞きましたよっ! また怪しいヤツらと打ってたと!」
「怪しいヤツらって……ただの、お友達だよ。ネットで知り合った――」
「ネットでっ!?」
「いやさ、ふぐ刺し奢ってくれるって言うから――」
「食べ物くれるからって、知らない人に付き合うなって言われてるでしょうがっ!!」
「いや、俺子どもじゃないし、それに知らない相手でも――」
「とにかく! 今度から変な場所に行かないで下さい! いいですね!?」
「変な場所じゃあ」
「い・い・で・す・ね!?」
「……はい」
響く怒声は、愛情の裏返し。
それは、今も昔も変わらないこと。
淡は、走る。
満面の笑みで、階段を駆け上がる。
一番大好きな人に、褒めてもらいたいから。
「やったよ、きょーたろー……!」
屋上で待ってくれるように、メールをした。
もう邪魔をするヤツはいない。
二人の間を裂く障害は――みんな、いなくなった。
「きょーたろー!!」
屋上のドアを、叩き付けるように開ける。
けたたましい音が、屋上一体に響いて。
「……え?」
淡の目の前で。
ずっと、心に思い描いていた男の子が、屋上のフェンスから身を乗り出して。
――じゃあ、な。
そのまま、向こう側へと、消えて行った。
「……きょーたろー?」
淡には、その意味がわからない。
待つように、伝えたのに。
「ま……いっか」
だったら。
いつも通りに――追いかけるだけだ。
「待ってよー!!」
何も躊躇わず、疑わず。
淡は、京太郎の後を追って駆け出した。
「キョータロー?」
「んー?」
声をかけても、彼は教本から顔を上げない。
また、コレだ。
彼が麻雀に熱を持ち出してから、構ってくれなくなることが増えた。
自分が彼に惚れていることは、とっくのとうに自覚している。
真剣に麻雀に向き合う彼の横顔は素敵だけれども――面白く、ない。
「キョータロ、キョータロ」
「ん?」
くいくいと、彼の袖を引っ張る。
流石に彼も無視出来ずに、顔を上げてこちらを振り向き――
「んっ!!」
「っ!?」
思いっきり、唇を奪ってやった。
顔が熱くなる。上がっていく体温を実感する。
とても恥ずかしいけれど――それよりも、幸せな気持ち。
「えへへ――無視したら罰金、なんだからねっ!!」
【ネリーかわいい】
「すーがーくーんー?」
「なんで――っ」
牌譜整理の途中、トントン、と肩を叩かれて。
振り向けば、そこには頰を押す久の人差し指。
「懐かしくない? コレ」
「……そうっすね」
小学生の頃に流行ったイタズラ。
それをまさか、高校3年の部長にやられるとは夢にも思わなかった。
何と言えばいいのか、思わず言葉を失った。
軽く溜息を吐いて、牌譜整理を再開する。
「ねえねえ、須賀くん」
再び、トントン、と叩かれる肩。
もう引っ掛かりはしない。
叩かれた肩とは、逆方向に振り向き――
「ちゅっ」
――重ねられた、柔らかい唇。
大口を開けて惚ける京太郎の前で、久は唇をペロリと舐めた。
「ごちそうさま……♪」
【どう足掻いてもロッカー】
夏の全国大会が終わって、三年生たちはいよいよ卒業が近付いてきた頃。
三年生の先輩が五人に、一年生の後輩である京太郎が一人。
塞たちが卒業してしまえば、京太郎は一人で部に残されることになる。
今のように、先輩たちの仲に悩むこともなくなるが――
「……胡桃先輩は」
「ん?」
「……」
「なに? ハッキリしてよ」
「先輩は、進路はどうするんですか?」
「卒業するのはちょっと不安なんだよ……」
「え」
返ってきたのは、少し意外な言葉。
胡桃なら、既に進路を決めていそうなイメージがあったからだ。
「京太郎、一人になっちゃうし」
「あぁ……そんな頼りないですか、俺」
「ううん。頼りないどころか抱き枕にされたいレベルなんだけど――周りの女が、ね」
「……」
「また、全国の時みたいなことがあるかもしれないし……」
「それは……」
清水谷竜華と、園城寺怜。
京太郎にトラウマを残した二人の女子。
思い返せば、あの時に縋り付いた相手は胡桃だった。
「……大丈夫ですよ。トシさんもいますから」
「……不安だなぁ」
「ダルい。部室まで運んで」
そう言うなり、京太郎に寄りかかるシロ。
放課後となり、部室に向かう途中で遭遇したと思えばコレである。
ある意味、コレもシロのブレなさというか、芯の強さと言えなくもないが――
「……先輩、そんなんで卒業したらどうするんすか」
「……?」
「卒業したら俺、いないですよ?」
「卒業、やめようかな……」
「……え゛」
シロは、京太郎から離れるどころか。
むしろ、更に体重を預けるように、ダラリと京太郎に凭れかかった。
「い、いや! どうすんですかソレ!?」
「どうしようね」
「……言っときますけど、留年とかされてもどうしようもないですよ?」
「うん。でも」
シロは、京太郎の胸に寄りかかりながら、顔を上げた。
気怠げな、それでも決して揺れることのない眼差しが、京太郎を捉えた。
「京太郎を取られたら――もっと、どうしようもない」
「あの……先、輩?」
「なにー?」
「……俺、ネト麻やってますんで」
状況を説明すると。
自動卓を前にして、豊音の膝の上に京太郎が座り。
目の前からは、同じ卓を囲んだシロ、エイスリン、胡桃からの視線が強烈に突き刺さっている。
「ダメだよ、今までは私たちばっかり練習してたんだから。京太郎くんも本物の卓に触れなきゃ」
京太郎が部室に入るなり、豊音はそのまま強引に自分の膝に座らせた。
シロと京太郎の抵抗もまるで意味がない。
目の前の三人の不機嫌そうな目線は、腹の中を何かで刺されているような気分になる。
豊音の打ち方を真近で見ることで、学ぶことができる――というのが豊音の言い分。
全国優勝まで上り詰めた彼女たちの対局は、確かにハイレベルではある。
しかし、それが役に立つかと言えば――微妙なところである。
この四人は、余りにクセが強過ぎる。
ネット麻雀で多く見られる形とは、かけ離れている。
更に、三人はあからさまに豊音を狙っている。
その理由は、言うまでもない。
「んー……?」
自分の手番で考え込む豊音に、強く抱き締められる。
無意識にしているのかはわからないが、この対局中に京太郎が解放されることはないだろう。
目の前には豊音の牌、後ろには豊音。
姉帯豊音という存在を、否が応でも感じさせられるこの状況。
長い黒髪から漂う芳香が、強く意識を奪った。
「合同合宿の誘いがきててね」
部活の終わり際に、トシがそう切り出した。
「合同合宿?」
「そう。全国優勝したウチと是非……ってね」
「うーん……」
「無理に、とは言わないよ。ただ、京太郎には良い機会だ」
「……確かに、そうですね」
京太郎の為、とあらば宮守の部員たちが難色を示すことはない。
時間的な余裕もある。
「それで、どこの学校が?」
「ああ、それは――」
「清澄……って」
咲が大将をやっていた高校。
決勝の大将戦では冷や汗をかかされた相手だ。
「それに部長とも知り合いなんだって?」
「知り合いというか……まぁ」
紅茶をご馳走されて、一緒に弁当を食べた仲。
あの時の印象では、悪い感じはしなかった。
……怜と竜華の件があってからは、一度も話していないが。
「大丈夫だよ」
考え込む京太郎に、塞が微笑みかける。
「全部」
「京太郎に、良い方向になるから」
すぅっと、沈み込んでいくその声に。
何が起きても、自分は塞から離れられないことを――改めて、強く思った。
いつまでも、こんな関係を続けていい筈がない。
頭では解っている。
自分には責任がある。プロの一人であり、チームの一員である責任。
『……これで、トビですね』
――だけど、無理だ。
たったの一度の対局で、もう完全に折られてしまった。
何の為に麻雀を打っていたのか。誰の為に積み重ねていたのか。
もう、全部崩れた。
「京ちゃんはなー……もう、頑張らなくてええんよ?」
彼女の声は、酷く甘かった。
何度も点滅する携帯を取り上げて、彼女は笑った。
「ゆっくり……休んでれば、ええねんな」
ダメだと解っていても、彼女を拒めない。
今日も、彼女に甘えて。
少しずつ、沈んで行く。
「ここで……ずぅっと、な♪」
抱き締めた彼女の体は、温かかった。
自分が監禁されて、どれだけ経つか。
目に見えるものは、冷たい石の壁と床だけ。
衣服は剥ぎ取られ、まともな食事もなく。
爪は罅割れ、彼が綺麗だと褒めてくれた髪は枝毛だらけで艶は全くない。
段々と、自分の中の命が消えていくのが感覚的に解る。
「……あの人と別れるって。その一言だけで、いいんだよ?」
焦りを含んだ女の声。
憧は嗤おうとして、上手く形に出来ず、言葉にならない声が咳と混ざって零れ出た。
「どうして……あなた達は……!」
手足を縛られ、ヘッドホンを耳に固定され。
彼が犯される映像を延々と見せ付けられても――憧は、京太郎を愛していたし、諦めもしなかった。
犯されているということは、彼の心はこの女を見ていない。
あこ、と画面の中で彼の口が動く。
それだけで――憧には、十分だった。
例え死んでも、二人の心は離れない。
さて――自分の所属する部の長がコートの下は真っ裸という姿で、我が家の前で立っているこの状況。
両親は運が良いのか悪いのか不在中。
「……」
インターホンのカメラ越しに見る彼女の頬は紅潮していて、息は荒い。
時折小刻みに震えているのは、何をしているのか――考えるのが非常に恐ろしい。
「どうすんだ、マジで……」
深夜0時。
家に上げたら何をされるかわからんし、放置して誰かに見られたら我が家の風評がエライことになる。
心なしか――哩の顔は、羞恥と愉悦が入り混じっているように見えた。
SでありMである彼女にとって、自分にも相手にも影響があるこの状況は――
『――ッ!!』
哩の背が大きく仰け反り、インターホンからとんでもない大音量で嬌声が聞こえてきた。
「……パネぇ」
我が家の前で絶頂し果てた哩を放置するわけにはいかない。
今夜は寝ずの番をすることになる。
京太郎は覚悟を決めて、彼女を迎え入れた。
それは、純粋な厚意。
彼が疲れて眠っていたので、せめて毛布の一枚でもかけてやろうという親切心。
「……」
「……」
だが、時にはその優しさがダブつく事もある。
自分と同じように、毛布を持ってやって来た相手と全く同じタイミングで鉢合わせ。
「……」
「……」
一言で言えば、気まずい。
どちらかが譲ればそれで終わるのだが、下手にタイミングがズレてしまった。
「しょーがねーなー……特別に華菜ちゃんが湯たんぽになってやるし」
漁夫の利ならぬ、猫の利。
二人の間をするりと抜ける泥棒猫が、ここにいた。
ぷにぷにと、頬を指で押すと柔らかい感触が返ってくる。
マシュマロのような頬っぺた。
ネリーが昼寝をしていなければ楽しめなかったであろう感触。
「……なんでかなぁ」
ハオに明華に――スタイルで言えば京太郎好みの子が集まる麻雀部で、本当に好きだと思える相手。
不思議なことに、それはスタイルの全てが好みとは正反対の相手。
「目ぇ、離せねえんだよなぁ………」
目も、眉も、鼻筋も、唇も。
好きだと気が付いてからは、いつの間にか目で追ってしまっている。
「牌譜整理、するか……」
いつまでも飽きずに楽しめそうだが――部活がある以上は、いつまでも楽しんでいるわけにはいかない。
名残惜しさに後ろ髪を引かれながらも京太郎はネリーの頬からそっと指を離し、他の部員が来るのを待つことにした。
「……バカ」
マシュマロのような白に、ほんのりと赤みが差していた。
「俺さ、そろそろ姉離れしようと思うんだ」
瑞原京太郎がそう言うと、義姉はまるでこの世の終わりを迎えたかのような表情を浮かべた。
口に運ばれる途中だったフォークが手から抜け落ちる。
パスタが巻き付けられたそれは軽い音を立てて皿に叩き付けられ、飛び跳ねたミートソースがテーブルを汚した。
「き……京……くん……?」
だが、今はそんな事に構っている余裕はない。
深い呼吸を何度も繰り返し、義弟に姉離れを宣言された女――瑞原はやりは、何とか自分を落ち着かせる。
「……学校で、何か言われたの?」
そう問い質すと、京太郎はバツが悪そうに視線を逸らした。
成る程、そういうことか――はやりは、納得すると同時に義弟に余計なことを吹き込んだ相手の詮索を開始する。
「……俺も、前から思ってたんだよ。姉さんに甘え過ぎだって」
はやりに視線を合わせられないまま、京太郎はぽつりぽつりと心境を語る。
その様子から、はやりは義弟が本心で話しているわけではないことを確信した。
「そんなことないよ。料理とか家事とか、手伝ってくれてるし」
「でも」
はやりはテーブルから身を乗り出して、義弟の手を取った。
男の子らしい、大きな手。
小さい頃からずっと繋いできた手を――離させは、しない。
「中学の頃は立派に部活やってたし、今だってそう。京くんの毎朝作ってくれるお弁当に、毎日元気を貰ってるから」
「……仕事で疲れてるのに、麻雀とか教えてもらったりさ」
「
お姉ちゃんだもん。頑張る弟を助けるのは、当たり前だよ?」
京太郎の目が泳いでいる。
迷いを含んだ視線を、はやりは自分に向けさせる。
「例えお友達に何て言われても――京くんは、はやりの自慢の弟なんだから」
「……」
「寂しいこと……言わないで、欲しいな」
食事を終えて、少し時間を置いてからの入浴。
浴槽に肩まで浸かりながら、京太郎は小さく溜息を吐いた。
「……はぁ」
結局、京太郎の姉離れは失敗に終わった。
はやりに上目遣いに懇願されたら、断われる筈もない。
『あなたが、はやりさんの重石になっているのではないですか?』
頭の中で、先日言われた言葉がループする。
京太郎にとって、瑞原はやりは自慢の姉であり、憧れの人であり――大好きな女の人である。
姉が忙しい時期であるにも関わらず自分との時間を無理して作っているのは感じていたし、だからこそ、その言葉に後押しされた。
「はあぁー……」
なのに――姉の悲しげな瞳を見ただけで、全てが吹き飛んだ。
姉の重石にはなりたくないが、姉を悲しませたくもない。
板挟みの心境が京太郎を締め付けるが、どうにも出来ずに出て来るのは溜息だけ。
いつもなら、こうして悩んでいる時には姉が直ぐに駆け付けて――
「お姉ちゃんにお任せ、だよ☆」
「……え゛っ?」
湯気が漂う浴室の中で。
何も身につけていないはやりが、いつものように、京太郎の額を優しく撫でた。
姉と一緒に風呂。
それは珍しいことではないのかもしれない――互いの年齢を考えなければ。
「ふぅー……」
気持ち良さそうに姉が目を細める傍ら、同じ浴槽に浸かる京太郎は心臓が破裂しそうな気分を味わっている。
小さい頃はよく一緒にお風呂に入ったし、洗いっこもした。
だが、今の京太郎は高校一年生。恥ずかしさは勿論、姉の肢体は幼気な青少年には肢体が強過ぎる。
少しでも風呂から上がる素振りを見せれば、抱き付いて阻止してくる姉。
さっきまでの悩みは綺麗さっぱりに吹き飛んだが――今度は、別の案件で京太郎の胸は吹き飛びかけている。
「……それで」
「姉離れどころか、一緒にお風呂まで」
「しかも100数えてる途中に逆上せて」
「着替えと介抱をはやりさんにやってもらい」
「挙げ句の果てに抱き合いながら添い寝?」
「……」
「バッド」
戒能良子は、京太郎にとってもう一人の姉のような人物だ。
年齢も姉より近く、ある意味では、はやりよりも身近な存在かもしれない。
「……京太郎、キミは強く行かなければダメだったんだよ」
「……」
「例えはやりさんが悲しそうでもね」
「……」
京太郎が知る仕事場での姉の姿は、テレビ越しに見るものだけ。
だが、良子は違う。
良子の強い口調から見るに、やはり家での姉はかなりの無理をしているのだろう。
「……オーケイ、わかったよ」
「……どうするんですか?」
「簡単なことさ」
「キミが姉離れ出来なくて、はやりさんが重石を捨てられないのなら」
「私がはやりさんの代わりに――キミという重石を背負うことにしよう」
京太郎は、はやりの運命の人。
小さな手を繋いでくれる。
それだけで、はやりは何でも出来た。
『ねーちゃん……?』
血が繋がっていないからこそ、はやりは京太郎という存在に救われた。
愛を持ってきてくれた。
『ねーちゃん、大好き!』
だから、はやりは許さない。
二人の仲を引き裂くのは、みんな敵。
――お姉ちゃんが、京くんを守らないと☆
ある日の夕方。
京太郎が帰宅した時、既に夕食の準備まで終わっていた。
多忙な日々を過ごしている姉が京太郎よりも先に帰宅していることは珍しい。
食卓に並ぶメニューも京太郎の好物ばかり。
「今日はね……とっても、いいことがある日だから☆」
問いかけても、姉は笑顔でそう答えるだけ。
そんな姉にこれから京太郎がすることを思うと――少なからず、心が傷んだ。
――でも、姉さんの為だもんな。
「ね、姉さ――」
「あ、京くん! このハンバーグ凄く自信作なんだ! 特にソースがね☆」
良子との打ち合わせ通りに話を切り出そうとした瞬間、突き出されるハンバーグの切り身。
出鼻を挫かれた京太郎は、大人しくそれを口に含み、モグモグと咀嚼した。
「……スゲェ、美味い」
「あはっ それでね、こっちのサラダは――」
次々と差し出される皿を前に、話を切り出す暇もない。
不自然なくらいテンションが高い姉だが、料理自体は非の打ち所がなく、美味い。
どうやら、この夕食の最中に姉離れ作戦を決行することは不可能のようである。
ハンバーグはアカン……
ハンバーグの一言だけで惨劇を思い起こさせる妲己ちゃんの罪は重いわ
結局、食事を終えても話をすることはできなかった。
姉のテンションに終始押されっぱなしだったのに加えて、やはり心の中では姉と離れたくない気持ちがある。
「でも……もう、やらなきゃな」
脱衣所で上着を脱ぐ。
露わになった上半身。
胸のやや上に付けられた、赤い点。
「……」
良子の、キスマーク。
コレがある以上は――もう、後には退けない。
背後で、脱衣所のドアが開く音がする。
そこまでは、良子の予想通り。
「……姉さん」
「一緒にお風呂、入ろっか」
ツーサイドアップの髪を下ろしたはやり。
相変わらず、ニッコリ微笑んだままの姉に京太郎は、意を決して――
「ねえ、さ――ぁ?」
深呼吸をした瞬間。
全身が痺れて、力が抜けた。
「久しぶりに、はやりが洗ってあげる」
膝から崩れ落ちて、はやりに抱き留められる。
柔らかな肌に吸い付くように、体が動かない。
「勿論、隅から隅まで……ね☆」
浴室で、男女が絡み合う姿。
湯気で細部は確認できないものの――響く声は、彼女もよく知っているもの。
「んっ……♪」
上気した頬が、カメラに映る。
この世の全ての幸せを噛み締めているような、蕩けそうな顔。
「あはっ――これで、もう……二人は、離れない……ねっ」
はやりは、嗤っている。
この映像を見る相手に見せ付けて。
肩や太ももから血を流しながら、優越感に浸っている。
映像の再生を終えて――良子は、静かに小さく息を吐いた。
「……自分を、捧げた……と?」
映像の中で。
はやりは、京太郎の口に、自身の血を流し込んでいた。
外も中身も、はやりという存在で、京太郎を犯していた。
良子が京太郎に残した跡を――全て、塗り潰すように。
自身の血肉を抉り、弟に与えていた。
連絡は、当然のように取れない。
住居は、既に蛻の殻。
送られて来たこの映像を最後に――二人は、消息を絶っている。
「……諦めろと、そう言うのですね」
再度、静かに息を吐いて――良子は、映像を再生していたタブレットを床に叩き付けた。
「待っていて」
二人がどこにいるのか。
良子には見当も付かない。
「私の」
それでも、歩みは止めない。
「私だけの、弟」
例え京太郎が良子を忘れていても。
世界にたった一人だけの、最愛の弟なのだから。
もうずっと、はやりの声しか聞いていない。
もうずっと、はやりしか見ていない。
「京くん、は……はやりの全て、で……」
「はやりは、京くんの全て……だよ、ね……♪」
絡み合い、体が融けていくような。
もう、何もわからないけれど。
「大好き……♥」
重ねた唇は、酷く甘い味がして。
それさえあれば――何も、いらなかった。
それより大事なものは、この世に存在しないということが、解った。
「俺も……だよ」
だから、果てなく与えて永遠に奪う。
二人は、二度と離れない。
「よろしくお願いします」
一歩前に出て、ぺこりと礼をする久。
その後ろに並ぶ清澄の部員たちは四人。
久以外に、見知った顔は二人。
少し不安気な顔をしている咲と、その隣に立つ和。
眼鏡の女子と、猫のアクセサリーを付けた女子は画面越しでしか見たことがなく、直接顔を合わせるのは今回が初めてだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
宮守側からは、塞が代表として一歩前に出て挨拶をした。
どことなくピリピリした雰囲気の中で、宮守と清澄の合同合宿が始まった。
「久しぶりね、京太郎くん」
「はい、夏以来っすね」
「もう。連絡してって言ったのに……」
「はは……すんません」
全国大会では、色々なことがあり過ぎてすっかり忘れていた。
怜と竜華との一件があってからは意図的に他校の生徒との接触を避けていたこともある。
「京ちゃん……大丈夫?」
久と話していると、咲が不安気な顔をしたまま駆け寄ってきた。
心配されているような口振りで、心当たりがない京太郎は眉根を寄せた。
「大丈夫って……なにがだよ?」
「だって、あの時の京ちゃん……凄い顔で走ってて。逃げてる、みたいだったから」
「あの時?……あぁ」
怜と竜華から逃げていた時。
すれ違いざまで声をかける余裕もなかったが――確かにアレが最後に見た姿だったのなら、不安にもなるだろう。
「まぁ……もう、大丈夫だから。お前は心配しなくてもいい」
「そ、そう? なら……いいけど」
「今日から、よろしくお願いしますね?」
和とも、久しぶりに話をする。
豊満な胸は健在――どころか、心なしか更に大きくなっている気がした。
つい下に向かいがちな視線を何とか上げて、京太郎は和と顔を合わせた。
「よろしく……っても、お手柔らかに頼むぜ?」
「ふふ……」
「ああ、そうそう」
「ん?」
「後で、話をしませんか?」
「話? 今じゃ駄目なのか?」
「ええ。個人的なことですし」
「個人的?」
「はい」
和は、そっと京太郎の耳元に口を寄せて。
京太郎にだけ聞こえる声で、小さく囁いた。
「宮守の皆さんの仲を、どうにかしたいんでしょう?」
「原村さんと、何話してたのー?」
顔合わせも終わったところで、豊音が声をかけてきた。
その瞳に探るようなものはなく、純粋な好奇心で聞いているらしい。
ミーハーな豊音は、有名人である和に対してはまだ敵意を抱いていないようだった。
「まぁ……どうってこともない話ですよ。どんな練習をしてるかとか、そんなんです」
「ふぅーん?」
「そっか。そうなんだぁ」
深夜。
消灯時間は当に過ぎて、皆が寝静まった頃。
『ラウンジに来れますか?』
打ち合わせ通り、和からのメール。
京太郎は寝巻きの上にパーカーを羽織って、薄暗い廊下の中を歩き出した。
塞たちには見付からずに、ラウンジまで辿り着けた。
既に和はソファで待っていて、二人分の紅茶を用意していた。
「どうぞ」
和に勧められるままに、机を挟んで対面のソファに座る。
口にした紅茶の温度は、少し冷めていた。
「……それで?」
「……」
「何で……原村さんが、うちの部の事情を知っているんだ?」
少しの焦りを感じながら、和を問い詰める。
「……ふふっ」
そんな京太郎とは対照的に、和は微笑んだままだ。
薄暗い灯に照らされた和の横顔は、少し不気味に感じた。
「原村さん……?」
少し小馬鹿にされているような気になって、焦りの中に苛立ちが混ざる。
勘の良い塞たちを何とか誤魔化して和との時間を作ったのだから、あまり話を引き延ばされたくはない。
「……ごめんなさい。でも、少し察しが良ければ気付いてしまいますよ?」
「……マジ?」
「はい。こっちの部長も、気付いているかと」
宮守の閉鎖的で、更に刺々しい雰囲気。
その中心にいる人物を見れば自ずとわかると、和は言った。
「ですが……安心してください」
「……」
「私が、どうにかしてみせますから」
「どうやって――?」
身を乗り出して解決策を聞こうとした時。
どこからか焦げ臭いような匂いを感じて、京太郎は立ち上がった。
「あれ……?」
「どうしました?」
「いや……何か、おかしく――」
急激に感じた眠気。
倒れそうになって、堪らず膝をつく。
「何もおかしくありませんよ」
「でも――」
続いて、唐突に首筋に走った衝撃。
それが何かを理解する前に、京太郎の頭は真っ白になって。
「全て、予定通りですから」
意識を、失った。
合宿所で発生した火災。
コンセントが出火原因だと見られるそれは、多くの命を奪った。
生存者はたったの二名。
運良くラウンジにいた二人は、煙を多く吸って火傷を負ったものの、辛うじて一命を取り留めた。
白い病室。
「ふふ……」
顔の半分を包帯で覆った少女が、ベッドで眠る男の子の手をとった。
目を閉じて規則正しい寝息を立てる彼は、目を覚ます気配を見せない。
「これで……あなたを悩ませるものは、何もありません」
「私が全部、管理してあげますから」
「全部……」
「そう、全部を……」
少女はずっと、彼が目覚めるのを待ち続ける。
手を握って、呼びかけて。
ずっと――待ち続けた。
最終更新:2026年01月05日 21:17