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部活、バイト、その他諸々。

霞の言う通り――何か、打ち込めるものを見付けるのもいいかもしれない。


「まぁ……」


何れにせよ。

放っておいたところで、この違和感が消えることはなさそうだ。

そんなことを考えながら放課後になって――京太郎は、大きく伸びをした。





「俺も高校生だし……バイトの1つでもしてみるか」


そうと決まれば善は急げ。

京太郎は早足で、屋敷へと戻っていった。


「……バイト?」

「ああ、何か知らないか?」


何をしようか考えていたところに、ちょうどよく通りかかった地元人。

ポリポリと黒糖を齧る同居人に、京太郎は何か良い案件が無いかを訪ねた。


「……ある」

「お、マジか」

「うん。京太郎なら、きっと一番向いてる」



春が、京太郎に紹介した仕事は――

「なぁ……」

「ん?」

「これが、バイト?」

「ん」


膝に乗っかってポリポリと黒糖を齧る春。

ちょうどいい座椅子が欲しかった、とは彼女の言葉。


「……時給は?」

「はい」


口に差し込まれる黒糖。

柔らかい歯触りのさっぱりとした味わいが口内に広がった。


「……不満?」

「……」


……まぁ。

彼女の尻の柔らかさだとか、髪の匂いだとか。

役得だと感じている部分があるのは、否定できなかった。





見た目は古風な屋敷で、所々に異界を感じさせる雰囲気がある建物。

それが、現在の京太郎の住居である――が。


「……科学の力ってスゲぇ」


エアコン完備。wi-fi環境もバッチリ。

部屋に置いてあるPCを起動し、京太郎は情報サイトを開いた。





「飲食店……ま、これは鉄板だよな」


一つ目に目に付いたのはファミレス。

厨房かホールか、ポジションはわからないが経験無しでも歓迎とある。

永水からも近いが、元お嬢様学校の生徒たちが来るような場所ではないだろう。


「コンビニ……も、考えてみるか」


高校生、という身分を考えると働ける時間帯は限られる。

場所は永水から少し離れて、近くに新道寺女子がある。


「雀荘……色んな人が来そうだな」


そこそこ有名な雀荘で、オフの時にプロが来たりもするらしい。

そういえば、霞たちも麻雀部と言っていたし。

何かしら、話がわかるようになるかもしれない。


「清掃……キツそうな感じがするなぁ。霞さんとかやらせてくれない気がする」


主な勤務日は土日。肉体労働系の仕事になっている。


「え?……テレビ局? はぁ、何すんだろ?」


そして、最後に目に付いたバイトの案件。

募集も多そうだが、もし採用されたら有名人に出会えるチャンスがあるかもしれない。

「色々あるけど……どれに応募するかな」


様々な労働環境の職場があるが。

迷った末に、京太郎が選んだ先は――




「よし! テレビ局だ!」


中々見れない物珍しさもあり、京太郎が選んだ先はテレビ局。

もしかしたら、テレビで見たあのアナウンサーや有名人と会える機会があるかもしれない――という期待の元に、京太郎は応募ページを開く。


「? テレビ?」


扉の隙間から、ひょっこりと顔を出したのは巴。

廊下にまで声が聞こえてしまっていたらしい。


「いや、ちょっとバイトやってみようかなって思って」

「それで、テレビ局?」

「はい、ちょっくら応募してみました」

「へぇ……」

「まぁ、まだ応募が通るかわからないんですけどね」



「……うん。頑張って……ね?」




翌朝。

興奮で中々寝付けなかったために、若干寝不足気味である。

もし応募が通れば、中々に珍しい仕事ができるだろう。


欠伸を噛み殺しながら、京太郎は布団からのそのそと起き上がった。






「ふぁ――あ!?」


大口を開けて欠伸をしたら、伸ばされる両の頰。

小さなイタズラだが、京太郎の驚きはその仕掛け人が意外な人物だったこと。


「夜更かしはダメだよ。授業中に居眠りでもしたら、霞さん凄い怒るから」

「ふあ、はい……」


頰から指を離し、巴はイタズラっぽく微笑んだ。

改めて、彼女を年上のお姉さんだと認識した瞬間である。


「そっすね。それにバイト中に欠伸なんかしてらんないし」




「……うん、うん。忙しさで、忘れちゃいなよ」


朝からはしゃぐ京太郎を前に、巴は寂しそうに笑って。

いつもと少しだけ違う雰囲気の彼女の仕草を――浮かれている京太郎は、見逃した。


「……早く朝ごはん食べて学校行こうか。これ以上待たせたら霞さんが鬼になっちゃう」

「うす、了解っす」


一人、足りない朝の景色。

それが日常となってしまえば、何もおかしなことはなくなる。



阿知賀のレジェンド、と。

地元ではそう呼ばれている変な前髪のこの女性は、あの小鍛治健夜に跳満以上の和了りを取ったことがあるらしい。

健夜の実力を、この身を持って体験しているからこそ――その功績は、素直に尊敬に値する。


「まじパネェっすね!」

「あはは……まぁ、ね?」


だが本人には苦い思い出でもあるのか、少し困った顔で目線を逸らされた。

それから晴絵は一つ咳払いをして、真面目な表情を作り直した。


「今日はありがとう。みんなの為になると思うんだ」

「こちらこそ。全国決勝の人たちと打てるなんて――メッチャ、ワクワクします」

「はは……お手柔らかに、お願いします」


全国大会が終わっても、まだまだ麻雀漬けの日々は続く。

こうして、奈良という遠い地まで来て打たせてもらえるのだから、縁とはわからないものだ。


「――よろしく、お願いします!」



【プロ編アフター】

会話が耐えない相手、よりも。

会話がなくても、嬉しい相手。

私が理想とするタイプは、そういう男性だ。


「意外と、甘えん坊なんですね」


彼は、いつもそう言って、優しく笑う。

口下手で、何も言えない私にも――ちゃんと、向きあってくれる。

何も言わずとも、何もしなくとも。

こうして、彼にベッドの中で抱き締められるだけで。

私の中は、全てが満たされる。


「……好き」


私たちの間に必要なのは、この二文字だけ。

他には何もいらない。

今、この場で彼と一緒に死んだって――それでもいいって、思える。


「俺も、ですよ」


他には、何もいらない。

だから、もし彼がいなくなってしまったら。

それはきっと、私がこの世からいなくなる時なんだろう。


ほんの一瞬だけ想像した未来に、私はとても恐ろしくなって。

月明かりから逃げるように、彼の胸に顔を埋めた。








「須賀久」

「……」

「竹井京太郎」

「……」


「うん。やっぱり苗字は竹井の方がしっくりくるわね」

「あの……」

「なに?」


「凄く大事な用事があるって、そう聞いたんですけど」

「あら、だって一生を左右する問題よ? 大事に決まってるでしょ」

「いや、いきなり言われても訳分からんというか」

「あ、ごめんなさい。そうね、一番大事なことを忘れてたわ」

「へ」


「須賀くん――私は、あなたのことが」


「世界で一番、大好きです」




彼と彼女の距離が近付いたのは、夏が終わってから。

推薦で進路が確定している彼女は、他の3年生のように時間に追われることはなく。

宮永咲という清澄の救世主を連れて来てくれた彼に――自分なりに、恩返しをしようとしたのがきっかけ。


「練習、今まで見てあげられなくてゴメンなさいね」


彼はほっとくと、すぐに雑用をやろうとして。

たまには代わりにお茶でも淹れてやろうかとポットを持ったら、ついうっかりお湯を零して。


「大丈夫ですか!?」


その時、彼に触れられた指は――もしかしたら、火傷より深い熱を与えられたのかもしれない。



「……議会長?」

「あ……ゴメン、なんだっけ?」


生徒会の引き継ぎの途中。

大事な話し合いの途中でも――どうしても、ぼんやりと指を眺めてしまう。


「大丈夫ですか? 頰も赤いし……」


自分らしくないことは、わかっていても。

どうしようもないのが、この感情。


「そうね……ちょっと早退するわ」

「風邪が流行ってる季節ですから、気を付けて」

「ええ」


高まる鼓動は誤魔化しが効かない。

上昇し続ける熱をどうにかする方法は、一つだけ。


「ちょっと――特効薬、貰ってくるわ」


瞳が映す相手はただ一人。

絶対に、逃がしはしない。

久は、携帯のアドレス帳を開く。

通話をかける相手は、勿論――



「あ、須賀くん? ちょっと、凄く大事な話があるんだけど――」

【ロッカーの中に隠れるのよ!】


「部長、あの染谷先輩をあそこまで怒らせるって何したんですか」

「まぁ……ちょっと、ね?」


久と一緒にロッカーに隠れてから、結構な時間が経過している。

既に下校のチャイムは鳴ってるし、日は沈んでいるし――


「というか。俺まで隠れなくてよかったですよね」

「ノリって大事だと思わない?」


――ロッカーが開かなくなるというアクシデントさえ無ければ、とうに二人も下校している時間だ。

笑い話のようだが京太郎は笑えない。

携帯はロッカーの外の鞄の中、外部との連絡は取れない。


「……やっぱり、冷えてきたわね」

「……そっすね」


そして季節柄、暖房が切れてしまうと相当に堪える。

当然ながら暖房器具のような気の利いたモノはあるわけがない。


高校生ロッカー凍死事件――なんて、洒落にならない。

「ちょっと、くっつくわね」

「え」


ただでさえ狭いロッカーの中。

久が少し距離を詰めれば、お互いピッタリくっ付くのは当たり前。


「……」

「……」


確かに身を寄せ合えば、寒さは多少マシになる。

凍死の心配はなくなるかもしれない、が。



――ヤバい。部長。イイ匂いがする。



密着空間。

そして、最近は夜にネト麻に勤しむことが多かった為に色々と溜まっている状況。


「……あら?」


反応してしまえば、秒読みすら不要で相手にバレる。

――死にたい。


穴があったら入りたい。

けれども、ここはロッカーの中。


「……ふぅん?」


対する久は、何かを考えている様子。

顎に人差し指を当てて、明らかに京太郎の状態に気が付いている筈なのに、離れようとはしない。


「ねぇ、須賀くん」

「は、はい……」

「提案があるんだけど――お互いにあったまれる運動なんて、どうかしら?」


思わず、目ん玉をひん剥く勢いで久の顔を凝視する。

彼女は返事も待たずに、京太郎の制服のボタンに手をかけて――



【狭いとこが落ち着くのってなんだろうねアレ】







【プロ編の裏側】



「そういえば、あのクス玉って部長が作ったんですか?」


それは、決勝と準決勝の間の出来事。

清澄の部員との練習の合間――京太郎は、お茶を啜りながら久に問いかけた。


「ええ、そうよ。さぞ驚くだろうなーって」

「なるほど」

「でも思ったより反応が微妙だったわね」

「はは……すんません、でも助かりました」


あの時は地に足が付いていない気分だったので、驚くというよりは現実に引き戻す効果が強かった。

しかし、純粋に勝利を祝う気持ちは有難く――とても、勇気付けられた。


「あれ……でも」

「ん?」

「もし負けちゃったら――あのクス玉、どうするつもりだったんですか?」

少々意地悪な質問であるが、気になるところだ。

もし負けてしまったら、あのクス玉を作るのにかかった手間は無駄になることだし。


「ああ、えっと、うん。それは――」

「ああ、そのことじゃがの」


言い淀む久に代わって、まこが会話に割り込んできた。

ニヤニヤと口元にからかいの笑みを浮かべて、そっぽを向く久を流し目で見ている。


「『信じてるからね。絶対勝つって』――だと」

「っ!」

「しかもあのクス玉、一人で全部作ってたじぇ」

「~っ!」

「材料も自分で買い集めてましたね。私がやりたいからって」

「~っ!?」

「待ってる間、一番そわそわしてたよね。部長」

「――っ!!?」


次々と語られていく舞台裏の部長の姿。

成る程、飄々としてお茶目なところがある人だとは思っていたが――


「先輩」

「な、なに……よ?」


「可愛い、ですね」

「……もう!」


――改めて、侮れない人だと。

赤裸々にされた部長のエピソードに、強くそう思った。

【ガールフレンド】


――久という女性は、まるで蛇のように。


「美穂子とのデート、どうだった?」

「はい、おかげさまで……大成功、でした」


久の助言が大きく役に立って、美穂子との初めてのデートは大成功に終わった。

彼女のアドバイスがなければ失敗していたであろう場面も多く、久がいなければ今頃はとても気まずい気持ちになっていただろう。



――するりと、隙間に入り込んでいて。


「なら、次はもうワンステップ先ね」

「先……?」


久が、制服のリボンに手をかける。

それの意味するところは、京太郎には理解できない。


――気が付けば、もう。


「私が、レクチャーしてあげるから」

「ぶ、部長……?」


――毒牙に、噛まれていた。



「あなたは――全部、私に任せていればいいの」



【カッコ――】


頰は好意。

額は友情。

瞼は憧憬。

耳は誘惑。

首筋は執着。

手の甲は尊敬。

手のひらは愛情の懇願。

唇は愛情。


そして、全部ともなれば――それは、狂気の沙汰である。


「あー……どーしよ、コレ」


大学の後輩になった彼を誘って卓飲みをした。

彼は自分よりも早く潰れてしまったが――その段階で、自分もストップをかけるべきだったのだ。

酒を飲んでテンションが上がる自分。目の前には愛しい人の寝顔。

高まる欲求、消えたストッパー、アルコールによる後押し。


「拭いたら……簡単には、消えないかぁ」


冷静な判断力が戻ってきた頃には、全身キスマークだらけの京太郎の出来上がり。

後悔はしていないが、流石に反省はするべきだろう。




彼が目覚めたら、何て言おう。

勢いで告白してしまおうか――あまりにも、格好が付かないけれど。


「……そうね」


目の前には、相変わらず眠る後輩。

久は、一つ頷いて。


「起きてから、考えましょう!」


全力で投げ出し――今は、彼の腕枕を堪能する事にした。



【キャンパスライフは口紅の色】






「バイト……そうね、色々やってみるのも悪くないんじゃないかしら?」


霞からの許可はあっさりと降りた。

小蒔は少し不満気であったが、引き留める権利は彼女にはない。


「それにしても……よくテレビ局のバイトなんて見付けたわね」

「自分でもちょっと驚いてます」


応募も運良く通り、次の休みの日に面接に行くことが決まっている。

なんだかこうもトントン拍子で事が運ぶと、何かを忘れてしまいそうだ。


「ああ、そうだ」


「その日なら――もしかしたら、あなたを送ってくれる人がいるかも」

――と、言うわけで待ち合わせの場所に来たものの。


「ふーむ?」


こちらをガン見してくるスーツの女性。

この女性が、霞の言っていた送迎してくれる人のようだが――





「……グゥッド」

「は、はい?」

「いや、こっちの話でね」


スーツの女性――戒能良子と名乗ったこの人が、今日の送迎をしてくれるらしい。

何でも、この人もテレビ局に用事があるとのことで。


「ハルからも話は聞いているよ」

「あ、お知り合いですか?」

「従姉妹なんだ。君は、話の通り――ん、よろしくね」


差し出される右手。

それが握手の意思表示であることは間違いなく、京太郎も右手を差し出して――


「……ふふ」

「……ぁっ」


――手が触れ合う瞬間、良子に指でなぞられて。

思わず、口から変な声が漏れてしまった。





良子の運転する車に揺られること数十分。

京太郎は、無事にテレビ局へと辿り着いた。

後は面接の部屋まで向かうだけだ。


「あっ!」

「ん?」


突然の大きな声に、京太郎は振り向いて――




「お茶! する!?」

「あ、えっと……俺、すか?」


ぷんすこほっぺを膨らませて、まるで怒られているようだが。

言葉の繋がりからすると――もしかしたら、逆ナンというものをされているのかもしれない。


「うん!」


恐らくはテレビ局関係者。

仲良くしておきたいが、残念ながら用事が控えている。


「すいません、ちょっと今は……」

「じゃあ、コレ!」

「これは?」

「私の連絡先!!」



ズイズイと強引に押してくる勢いに負けて、彼女から紙切れを受け取る。

意外と綺麗な字で、彼女の名前と電話番号、アドレスが記入してある。


「電話! 待ってる!」

「は、はい……」


これが、テレビで働く人の勢いか――と、京太郎は貰った紙切れをポケットに仕舞った。

お陰で面接前にいくらかの心構えが出来た。


良子に送迎されて屋敷に戻ってきた頃には、もう夕方。

面接の手応えは、中々悪いものじゃなかったと思う。

良子にも「楽しみにしている」と言われたし――


「……そういや、あの人って何やってるんだろ」


テレビ関係者だとは思うが、詳しい話は聞けなかった。

というより、むしろこっちの事情を根掘り葉掘りほじくられた。

趣味やら好きな食べ物やらを長々と。


「……ま、今度聞けばいいか」


一先ず疑問は置いといて。

京太郎は、若干興奮気味に屋敷の戸を開いた。


「ただいまー」

「おかえりなさい」


玄関で待ち構えていたのは霞。

彼女は、迎えの言葉を投げかけると共に――



「あら……この、匂いは」

「に、匂い……?」


霞は目を細めて、一歩踏み出す。


「……ううん、何でもないの」

「はぁ……?」


くんくん、と襟のあたりの匂いを嗅いでみる。

意識してはいなかったが、何か臭うだろうか。


「大丈夫よ。臭くないから……そうね、気になるならちょうどお風呂の準備が出来てるわよ?」


「うす、それじゃ一番風呂いただきます」

「ええ、ゆっくり疲れをとってちょうだい」


霞の厚意に甘えて、一番風呂を頂くことにする。

肉体的な疲労はそこまででもないが、慣れない面接で少しばかり気を張っていたことは事実だ。


「……ええ、ゆっくりと。ね」


廊下の奥に消えた京太郎の背中を見送って――霞は、紙切れを手のひらの中で握り潰した。




基本的に風呂に入るのは最後になることが多い京太郎にとって、一番風呂は中々に貴重だ。


「ふー……」


髪を洗いながら、今日に出会った人たちを思い返す。

戒能良子。春の従姉妹らしい彼女とは、結構長い付き合いになるかもしれない。

そして、野依理沙。

彼女の素性は知らないが、テレビ局関係者なら仲良くしておいて損はない。

後で、メールでも送ろうか。


「……アレ?」


シャンプーを洗い流して、目を開いた瞬間。

風呂場の磨りガラスの向こう側に、何やらシルエットが見えるのだが――









気のせいでは、ない。

シャワーを止めて耳を澄ませば衣擦れの音も聞こえるし、肌色のシルエットが風呂場の戸に手をかけて――


「ま、待った! 俺、入ってるから!」


男としては非常に期待してしまう状況であるが、もし霞に知られでもしたら後が怖い。

だから、制止の意味も込めて磨りガラスの向こうに慌てて声を投げかける。


「知ってる」

「っ!?」


だが、無意味。

一切の躊躇いなく戸を開けて、一糸纏わぬ春が、風呂場に足を踏み入れた。



慌てて目を閉じるが、一度見てしまったものはイメージとして脳裏に焼き付く。

ひたひたと、裸足で浴室を歩く音が近づいてくるのがわかる。

春の意図は理解できないが、京太郎に出来ることはただ固まるばかりである。


「何で……目を閉じてるの?」

「お前、お前なぁ……!」

「京太郎になら」


「見られても、いいのに」







春の声。

春の指。

春の、体が――



「……あ?」


段々と、真っ白になった視界が戻ってきた。

見覚えのある板張りの天井。

身を包む布団の感覚。


「おはよう」

「おは……って、お前」


直前の記憶を辿り、身を起こす。

ここが春の部屋であるということは、あの光景は幻でも何でもないということだ。


「何の……つもりだよ?」


春は、答えない。

すくっと立ち上がって、そのまま部屋の戸に手をかけた。


「夕飯、出来てるから。お腹空いたらきて」



「……私は、背中を流そうとしただけ」

「そう。おかしなことはしてないでしょうね?」

「……」


「今回は、見逃すわ」

「……」

「けど。また同じことがあったら」

「……あったら」

「そうね」


「初美ちゃんの隣にでも、行ってもらおうかしら?」





「というわけで、合計2億円ね!」

「……はぁ?」


突き出される一枚の紙。

ズラリと縦に並ぶ項目には、一つ一つに値段が記されている。

膝枕代、耳かき代、おんぶ代、スマイル代、などなどその他諸々――。


「……なんだ、コレ?」

「今までのスキンシップ代! タダなんて一言も言ってないからね」

「わざわざ作ったのかよ……」


よく見ると、所々で日本語を間違えているし。

読めば読むほど、慣れないPCの操作でせっせと書いたのであろう、ネリーの努力が伝わってきた。


「ま、別に一括で払えとは言わないけどー。今なら特別ローンも許したげるから」


……成る程。

今までのスキンシップを全て覚えていたのも驚きだが。

つまるところ、この2億円という数字の意味は。


「ネリー」

「ん?……っ!?」


不意打ちで、その小さな唇にキスをしてやる。

得意げな顔が完熟トマトの色に染まったところで、唇を離す。

ネリーがパクパクと口を動かすのを、京太郎は意地悪く笑って――




【しょうがいちんぎん】
















頭の中で、二人の自分が言い争いをしている。

いっちゃえ、と囁く自分。

何してんの、と冷めた目で見る自分。


「……」


揺れる電車の中で、自分に寄りかかって眠る彼。

ちょっと頑張って顔を動かせば、マウストゥマウスが成立する。


「……」


高鳴る鼓動は自分の背中を押すと同時に引き止める。

好きな人の唇を前に高揚する心と、強い羞恥を覚える心。

ライバルに差を付けろと飢えた叫び声に、もっとロマンチックがいいと呟く乙女な声。


「……ま、流石に……ね」


散々に迷った挙句、ネリーが選んだ選択肢は棄権。

焦ることはない。今はこの距離を堪能しようと、ネリーは結論付けて。


「……え、」


ガタンと揺れる電車。

揺られて傾く、彼の顔。

当然、その先にあるものは――。


「……貰っちゃった」


そこには、相変わらず無防備な寝顔を晒す金髪の少年と。

暖房が効き過ぎたのか、真っ赤な顔で俯く少女がいたそうな。




お姉ちゃんとは、どこまでヤッたん?」

「……A、とだけ」


興味津々に身を乗り出して聞いてくる絹恵――の、揺れる立派な胸に目がいってしまうのは男の性。

詳細を話すのは気恥ずかしく、具体的な表現は避けて京太郎は呟いた。


「んー……やっぱ、まだかぁ」

「……」

「私とお母さん的にはさっさとCまで言ってほしいんやけど――あ、せや!」


名案を思い付いた、と絹恵が眼鏡を光らせる。

姿勢は相変わらず前のめりなままで、京太郎は目のやりどころに迷う。


「さくらんぼを舌で結ぶの、私得意なんよ」


「な、京太郎くん」


「ウチで――その、練習せえへん?」




「線引きって、大事だと思うんですよ」

「お前ば、見過ごせと?」


余らせた袖口を口元にやって、姫子は哩に囁きかける。

対する哩は不愉快を隠そうともせず、苛つきで舌打ちをした。


「花田に、彼を取られてもですか?」

「……なに?」

「部長は……決着が着いた相手は諦めてしまいますもんねぇ」

「何が、言いたか」



「尊重しませんか。私らを」

「……」

「こぎゃんにお互いのことが憎いのに――まだ、私らは繋がってる」




「共有しませんか、彼を」


憎たらしい、恋敵の筈なのに。

その言葉には、常識も無い筈なのに。

姫子の提案は、酷く甘く耳に染み込んで。


「……」


哩は、京太郎を呼び出すために携帯を取り出す。

姫子は、袖口で隠した口元で、薄く笑った。


なかなか京太郎に素直になれない淡ちゃん

周りは京太郎と着々と距離を詰めているのに焦った淡ちゃんは……

みたいなのみたいです

揺杏「え? まじ? マジであのショタっ子京太郎なの?」

誓子「えぇ……なんでも、風邪薬の副作用とかで……一週間後には元に戻るらしいけど」


あんぐりと口を開ける揺杏。

その指の指す方には、成香と折り紙で遊ぶ金髪の少年。

どれだけ見ても精々が幼稚園児くらいにしか見えない彼。言われてみれば、確かに面影はあるかもしれないが――


「おねーちゃん、キタローみたい!」

成香「き、キタっ!?」



誓子「……私だって、この目で見なきゃ信じなかったでしょうね」

揺杏「……ま、まぁ。センパイが変な嘘吐くとは思えないし……そうなんかなぁ」

爽「他になんか副作用とかあったりする?」

誓子「ええと……あ、そうだ」

誓子「『この期間内の出来事を幼児期の記憶と混同して、戻った時の人格に影響が出る恐れが――』って書いてあるわね。お医者さんに貰った紙には」

爽「ほぇー……」

由暉子「……成る程」



由暉子「京太郎くん、ちょっとお姉さんとお勉強を――」

爽「待てユキ、服脱ぎながら何を言う」

揺杏「まだ早い、それまだ早いから」










いつもと同じように、京太郎は目を覚ました。

小蒔が、いつの間にか隣で寝ているのも同じ。

そして、こちらへと向かってくる足音の主も想像がつく。


「……やれやれ」


今日の、京太郎の予定は――

「……バイトがあったっけな」


採用の通知が来たのは数日前。

今日から本格的に働くことになる。

基本的には雑用に従事することになるらしいが――




「あっ!」


局内の廊下に響き渡る声。

振り向けば、見覚えのあるプンスコ顔。


「電話! 待ってた!!」

「す、すいません……」


実はあの後、連絡先が書かれた紙を失くしてしまった為に、連絡が取れなかった。

何処で失くしてしまったのかは検討もつかない。

霞に聞いても心当たりはまるで無いと言っていたし。


「埋め合わせ!」

「えと、何をすれば」


だが、そんなことは言い訳にもならない。

理沙が京太郎に要求することは――


「今から、お茶!」

「すいません、俺この後は仕事が――」

「大丈夫! 話はつける!」


京太郎の手をとって、理沙はグイグイと歩いていく。

その先にあるのは、出演者に充てがわれる楽屋。

どうやら、この理沙という女性は局のスタッフではなく、とある番組の出演者だったらしい。



「……アレは」


そして。

理沙と同じように、番組の出演者である彼女も。

彼らが楽屋に二人で入っていく姿を、遠目で見ていた。



趣味、好きな食べ物、芸能人、休日の過ごし方。

まるでお見合いをしているかのような質問を、次々と浴びせられる。

彼女の一方的な勢いに圧倒され、気が付いた時には携帯の連絡先が一人分増えていた。


「なんつーか……業界人って、スゴイ」


やや、的外れな感想を抱きながら。

京太郎は、新しく追加されたプロフィールをぼんやりと眺めた。



「夕食、奢る!」


バイトが終わってテレビ局から出た瞬間に。

待ち構えていたかのように、理沙と出くわした。


「いいお店、知ってるから!」


理沙が活躍中のプロ雀士であることは、既に知っている。

その彼女が誘うのだから、行く先には結構な期待が持てるだろうが――



「じゃ、ありがたく!」


断る理由も、特に無く。

上手い飯にありつけるならと、京太郎は理沙に頭を下げた。


「任せて!」


理沙が、連れて行く先は――




理沙が京太郎を連れて行った先は、雰囲気の良いバー。

値段も味も結構なもので、育ち盛りの男子高校生が期待するレベルを遥かに超えていた。

強いて言うなら、量が物足りなかったが――


「いっぱい食べて!」


理沙がどんどん注文してくれた為、困ることは無かった。

一月のバイト代を上回る金額をあっさりと支払う理沙の姿に、プロ雀士の凄さを垣間見たような気がした。


「また、来ようね!」


理沙の言葉に一も二もなく頷く。

ある意味、彼女に胃袋を掴まれたと言えるかもしれない。




翌日。

食卓にずらりと並ぶ料理の数は、まるで宴会でも開くのかと思える程。

量も質も兼ね備えたそれらは、見る者を圧倒する。


「あ、あの。霞さん……?」


他のみんなの夕食のメニューはいつもと変わらない。

刺身の盛り合わせやローストビーフを乗せた皿は、京太郎の前にだけ置かれているのだ。


「あら、まだ足りない?」

「いや、その……ちょっと、多過ぎません?」

「え? 育ち盛りの男の子だしいけると思うんだけれど……」

「流石に……ちょっと、キツイっす」

「そうかしら」

「はい」



「昨日――アレだけ、食べたのに?」







「か、霞さん?」


両手を合わせて微笑む霞だが、どことなく棘があるように感じる。

ふと周りを見れば、小蒔も春も、箸を動かす手を止めていた。


「……ああ、そうね」

「は、はい」

「一つだけ、聞かせて欲しいのだけれど」



「野依プロとは――どういう、関係なのかしら?」

「ど、どうって……」

「ふふ……あなたの思う通りに、答えて欲しいの」






思う通りに。

そう言われると、咄嗟に出て来る言葉は――


「せ、先輩……です」

「先輩?」

「は、はい。バイト先の、色々良くしてくれる先輩ですから」


「そう」

「……」

「それなら良いの。ごめんなさいね、変なこと聞いちゃって」

「い、いえ……」


「それじゃあ、食べ終わったら呼んでちょうだいね」

「……え?」



気が付いたら。

霞も春も、既に夕食を食べ終わっていて。


「……ごめんね?」


救いの手を求めて見つめた巴には、合掌された。

どうやら、京太郎は一人でこの宴会メニューを完食しなければならないらしかった。

孤軍奮闘、そんな言葉が頭を過る。

「……余計なことを忘れてもらうために、バイトをさせたけど」


「その先で、余計なものを覚えてくるなら……」


「……」


「ちょっと、考えなきゃいけないわね」


「彼の為にも」



「私たちの、為にも」




新しい環境には、戸惑いながらも時間が経てば上手く順応していくものである。

この屋敷に来た時も、テレビ局でバイトを始めた時も。

色んな女の人に出会って、戸惑いながらも、今はそれが日常になっている。


「ふぁ……」


すっかり慣れた板張りの廊下。

今ではむしろ、普通の住宅の方が違和感があるかもしれない。


「おはよう」

「あ、おはようございます」


巴からの朝の挨拶も、日常の一部に組み込まれている。


「今日も、頑張ってね」

「うす!」


巴の言葉に背中を押されて、今日も歩き出す。

屋敷と学校とバイト咲のテレビ局。

ハンドボールをやっていた頃とはまた違った充実感が、胸を満たしている。


「今日も、頑張るか!」


欠けたものは――思い出せないままに。













「バイト、凄く楽しそうだね」

「はい! 先輩は良くしてくれるし、たまにアイドルに会えちゃったりしますから」


この前は、はやりんと話しちゃいました。

そう言うと、巴はピクリと左の眉を震えさせた。


「へぇ……」


ハンドボールという夢を失ってから、逃げるように父親に着いて来た鹿児島。

流されるままにこの屋敷で暮らしてきたが、今ではここに来て良かったと思える。


「……うん」

「きっと、みんなも」


「君が来てくれて良かったって――そう、思ってるよ」



「はは……なんか、照れ臭いっすね」

「でも、本当のことだから」


「姫様も、霞さんも、春ちゃんも……も、ね」


巴が口にする、巫女たちの名前。

最後の方は上手く聞き取れなかったが、恐らく巴自身のことを言ったのだろう。


「朝食、いこうか。迷わないようにね」

「いやぁ、流石にそんなポンコツじゃないですって」


巴の後に続いて、朝の食卓に向かう。

今日も――いつも通りの日常が始まった。




【日常END】










愛しているからこそ。

彼を、誰の手も届かないところに。


「この、ばかちんめ」

「あぅっ」


ゴツン、となる拳骨の音。

彼女の唯一の誤差は、自分の方向音痴を計算に入れてなかったこと。


「清澄から5キロも離れた先で迷子って……何やってんだよお前」

「だ、だって……」


やれやれ、と彼は肩を竦めて。

縮こまる彼女の手を取った。


「本当――お前は、俺がいないと駄目駄目だなぁ」

「え……」


掴んだ手を、強引に引っ張っていく。

寒空の下を歩き回ったのだろう、随分と冷たくなっていて。


「ほら、行くぞ」

「う、うん!」


だから彼女は――彼が好き。



愛しているからこそ。

彼に、本当の意味で自分を食べてもらいたい。


「何やってんすか、もう」


唯一の誤差は、彼が予想以上に過保護だったこと。

視線を落とすと、絆創膏でグルグル巻きにされた自分の人差し指。


「本当、気を付けてくださいよ。折角綺麗な指なんだし」

「う、うん……」


ちょっとキツく感じるけど――これは、彼が大事に思うからこそ。


「……お菓子でも何でも……俺が、作り方覚えますから」

「……うん」

「だから……もう、包丁で怪我とかしないでくださいよ」


やれやれ、と呆れて溜息を吐く彼。

まるで、どこかのお父さんみたいだけど。


「……ありがとう」


だから彼女は、彼が好き。











「あ、ぐ……っ」


白い両手が、首を絞める。

数多くの対局で勝利を奪い取ってきた指が――今は、自分の命を奪おうとしている。


「……なんで、かな」


意識が途切れそうになって、声も出せず。

首にかけられた指の力が緩み、解放されても喉から絞り出される音は生理的な反応だけ。


「京ちゃんと……ずっと、一緒で」


「憎いのに」


「咲のことが、憎たらしくてしょうがないのに――最後まで、いけないんだ」


咳を出しながら、姉を見上げる。

罪悪感もまるで感じさせない、不思議な顔で自分の手の平を見つめている。


「お、おねぇ……ちゃん……?」

「あぁ……ごめんね。咲」



「今度、咲が京ちゃんと話してたら」


「多分、次は止まれない」



「……待ってよ」


立ち去ろうとした姉の背中に、声を投げかける。

照は立ち止まり、それでも振り向きはしなかった。


「……我慢してるのは、私の方だよ」

「……」

「私の方が、ずっと京ちゃんと一緒にいたのに――京ちゃんは、お姉ちゃんを見てるんだもん」


姉は時間を。

妹は視線を。


「止まれなくなるのは……私の、ほうだから」


姉妹は互いを嫉妬して――許しあえる日は、決してない。

照は、一度も振り向くことなく、咲に言葉を返すこともなく、部屋を出て行く。

扉が少し乱暴に閉じられる音が、咲の耳に強く残った。














「チカちゃん……相談が、あるの」


頬を染めて、指を絡めるその顔は、恋する乙女そのもので。

その瞬間から、親友の恋を応援しようと、心に決めた。


――心の隅で抱いた感情には、そっぽを向いて。



「あなたには……巻けませんから」

「わ、私だって!」


強力なライバルが現れた。

なんせ、その子は積極性においてもプロポーションにおいても、親友を上回っていたのだから。


――けど、誰よりもその子に嫉妬していたのは、きっと。



「ありがとう、チカちゃん……!」


ついに、親友の恋が実った時。

私は誰よりも、彼女たちの仲を祝福した。


――そして、誰よりも



彼と彼女が、獣のようにまぐわう姿。

見なければいいのに。私は何故か、一歩も足を動かせなかった。


よごれた。けがされた。


口を開いて、一番に出て来た言葉。

親友の恋を応援したのは自分。

ならば、この光景こそ、自分の目指した場所の到達点ではないか。


頭ではわかっていても。

心は、喚き叫び立てる。


「……あぁ」


私の好きな彼は、もう戻ってこないんだ。

直感的に、私はそう理解した。

卒業する前に、最後に二人きりで話したいことがある。

そう伝えると、彼は疑いもせず。

いつものように、素敵な笑顔で部室にやって来た。


「先輩、話って?」

「そうね……もうちょっとだけ、こっちに来てくれる?」


一歩。また一歩。

彼が少しずつ、こっちに来てくれて。

私の手のひらが、彼にあわせて胎動しているような気がした。


「ねぇ、京太郎」

「はい?」

「私ね」


「あなたを殺して、私も死ぬわ」


そして。

何もかもが、真っ赤になった。

「この口で、あの子とキスしたのね」


彼は、答えない。


「この口で、あの子にプロポーズしたのね」


彼は、答えない。


「この口は……」


彼は、答えない。

赤くなって倒れる彼に、跨る私。


「……もう、いいか」


繰り返す問いに、虚しくなって――最後に、私も真っ赤になった。











それは、冷たい雨の降る朝のこと。

駅のホームの椅子に、酷く草臥れた様子の男性が座っていた。

皺くちゃのスーツに、無精髭に、酷い隈。


誰もがその男の人を避けて通る中。

私は、その人と目が合って。


「そんなとこで寝てると、風邪引いてまうよ~?」


――ああ、この人には、私が必要なんだって。

きっと心の底から、そう思った。



【先生編 特に関わりがあった教え子たち】







「話がある、とは……?」


赤阪郁乃と、その隣に座る戒能良子。

二つの意味で自分が苦手とする相手からの呼び出しに、貴子は困惑した。


「ん、まあちょっと座ってな?」

「は、はぁ……」


相変わらず郁乃は目を細めたままで、呼び出しの意図はまるで読めない。

焦ったく思ったのか、良子が口を開いた。


「……いい加減、私も暇ではないのですが」

「……」

「ん、まぁ。せやなぁ」



「あの人についての話――なんやけどな」




反応したのは、どちらが先か。

あの人――と言われて、真っ先に思い浮かんだ相手はただ一人。


「言わずとも分かると思うけど~……うん、京ちゃんのことやで?」


貴子は、京太郎から郁乃との関係を聞いている。

良子は、深くは知らないが察している。この二人と、自分が憧れる人との関係を。


「なぁ、戒能プロ」

「はい」

「あんた――京ちゃんを、強い人だと思う?」


突然の質問に、良子は顎に手を当てて考える。

強い人、という言葉が指す意味は、様々なものがあるが――


「……ええ。先生は、強い人です。とても」



「……ふぅん?」


郁乃が、貴子に視線を移す。

貴子は――答えられず、僅かに俯いた。


「……戒能プロ」

「……」

「あんた……ダメッダメやん。全然、京ちゃんのこと、わかっとらんもの」

「な――」


机の下で、握った拳が震えた。

「……確かに、小鍛治プロには負けましたが。それでも、先生は――」

「なら」


「あの人が一時期……牌を握るのも怖がってたこと。知っとる?」

「……それは」

「知らんやろ? あの人の格好いいとこしか、見とらんもんなぁ」



「そんな人に……資格が、あると思うん?」

「……」



「あんたもやで、久保コーチ」



「京ちゃんを追い詰めたのはアンタ」


「手放したのも、あんたや」



「そんな人が今更彼女ヅラなんて、ムシが良過ぎると思わへん?」



「よぅく」


「よぅく、考えといてな?」



「……っ!」


貴子は、郁乃の言葉により強く拳を握り締めて――それでも、何も言えなかった。

確かに、そうだ。

追い詰められていく京太郎を支えずに、突き放したのは自分だからだ。

彼が、国内無敗に一矢報いることができたのは、郁乃がいたからだ。


「……確かめ、ないと」


良子は、2人よりも彼のことを知らない。

郁乃の言葉が嘘でも真実でも、確かめなければならない。

この想いは、この程度では捨てられない。



形振りなんて、構っていられない。

どうしても、彼のことが欲しいのだから。





自分の担当した高校が4校とも決勝に上がり、鎬を削った。

誇らしいところだが――心情は、複雑である。


「淡も様子が……ん?」


京太郎は、不意の着信音で足を止めた。

内ポケットから携帯を取り出し、相手を確認をする。

画面に映るのは知らない番号だが――どうやら、携帯からの着信のようだ。




電話の相手は、教え子の一人で。

自分と同じホテルに滞在している高校の、先鋒を務めた子だ。


「……ん」


ベランダに出て、フェンスにグッタリして寄り掛かる少女。

団体戦で照を上回る活躍を見せた彼女は、いつもと変わらない様子で京太郎を待っていた。


「危ないぞ、小瀬川」


注意の声に、彼女は気怠げに身動ぎして、それでもフェンスからは離れなかった。



健闘を讃えるか、敗北を慰めるか。

京太郎には悩ましいところだが、シロはそのどちらも欲していないようだった。


「……先生」


シロはゆるりと姿勢を正し、京太郎を見つめる。

珍しく、緊張しているのか。

彼女にしては、長く間を置いてから――



「私、先生のことが好きだ」




教え子からの告白。

だが、それに応えるわけには、いけない。


「ごめん、それは」

「……どうして?」


シロが、静かに問いかける。


「私が、子どもだから?」

「それは」

「違うよね……胸、見てたの知ってる」


宮守にいた頃――彼の視線が何度か向けられていたのは、知っている。

それに、自分が結婚できる年齢であることも、彼は知っている。


「……先に答えを出さないといけない人が、いるんだ」

「……そう」


「それは、戒能プロのこと?」

「え?」

「……ダルい、なぁ」


考えれば考えるほど、答えは遠退く。

だというのに、胸の中を占める感情は、時間を置けば置くほどに、強さを増していく。


「全部……ダルくて」

「おい、小瀬川」


シロが、ベランダのフェンスに手をかけて。

制止の声も聞かず、彼女は乗り越えるようにその身を起こす。







「止めろ、小瀬川……!」


冗談では、済まされない。

手を伸ばす京太郎に、シロは振り向いて――



「シロでいいって、言ったのに」





京太郎は、考えるより先に、その身を乗り出して。

考えることを放棄して飛び出したシロの、その手を掴んだ。


「どう……して?」

「どうも……こうも、あるか!」


不安定な体勢で、シロの体重を支える片手は悲鳴を上げている。

それは片腕で持ち上げられているシロも同じで、鋭い痛みに眉を顰めた。


「離……して」

「馬鹿なこと、すんなよ!」


それでも、京太郎は手を離さない。


「なにがなんでも……死んでいいわけ、ないだろうが……!」

「でも」

「でもじゃ、ねえよ!」







最近、彼氏がよそよそしい。

手入れの行き届いた髪先を指で弄りながら、憧は溜息を吐く。


「あんま、不安にさせないでよね……」


目覚めた時間は昼の12時。

思い悩むあまり、寝付けなかった反動を枕元の携帯に表示された時間に見せ付けられる。

――夜更かしは美容にも悪いというのに、まったくアイツは。


「まぁ……信じてるんだけどさ」


焦らしてからのサプライズは、前にもあったし。

だから今回もそうだろうと信じて、憧はベッドから起き上がった。



「……あれ? アイツ、きてるの」


玄関に置いてある彼の靴。

しかし、居間にその姿はない。


「……どこ?」


ぐるりと周りを見渡しても、みつからない。

ならば、後は姉の部屋だろうか。

……ちょうど、姉も家にいるようだし。



「……よし」


ならば、姉がアイツの相手をしている間に身なりを整えよう。

少しだけ気合いを入れて、憧は鏡の前に向かう。


――だから、気付けない。

姉の部屋の扉の隙間から覗く、その光景に。

憧は、いつまでも気付けなかった。





仁美は、最初に自分の目を疑った。

次に、これは夢だと思った。


「京太郎……♪」

「んっ……♪」

「はは――同時にせがまれても、俺は一人しかいませんよ?」


昨日までは、嫉妬に狂った哩と姫子に挟まれ、胃痛で死にそうな顔をしていた後輩が。

なんと、今日は無駄に爽やかな笑みを浮かべて両手に花を侍らかしているではないか。


「あ、先輩。お疲れ様です」

「お、おう……」

「いやあ、花田先輩の助言は正解でしたよ?」

「花田……?」

「はい」


――曰く、健全な精神は健全な肉体に宿る。

この後輩は、哩と姫子の二人を強制的に巻き込んで、「激しい運動」とやらをしたらしい。

その運動の詳細は、断固として聞く気はしないが――なんにせよ。


「まぁ、平和に収まったわけか――」

「京太郎ぉ……♪」

「また、運動がしたぃ……♪」

「またか、やれやれ……あ、先輩。つーわけで、部室閉めますね」


「え、ちょっ」


三対一で追い出されては、どうしようもない。

手持ち無沙汰になった仁美は、いつものようにストローでジュースを啜ろうとして――部室の中に忘れてしまったことに気が付いた。

嬌声が響く室内に踏み入ってまで回収してくる勇気は、仁美にはない。



「……なんもかんも、政治が悪い」






ネキ…

全てが上手くいく、そう思っていた。

二人は真に愛しあっているのだから、どんな苦難があっても乗り越えられると。


「俺と、別れてくれ……!」


だから。

泣きながら土下座をしてきた彼の姿を、誓子は永遠に忘れることはないだろう。

親に押し付けられた莫大な借金。それはとても、彼一人に払い切れる額ではない。


「……そんなの、私が許さない」

「巻き込みたく、ないんだ」


彼の頰を伝う涙を、誓子は舌で拭い去った。

彼の苦難と不幸は――全て、代わりに飲み込んでみせる。


「私が、あなたを助ける。あなたの為に、何だってするわ」


女としての自分が出来ること。

それが例え、彼への不義理だとしても。

どれだけ自分の価値を穢すことになっても。


全ては彼の為に――今日も、彼女は指輪を外す。



もう三日も、彼女の顔を見ていない。

だから、今日こそは、帰らないと。


「おうっと、どこ行くんだ?」


引き留める声は、かつての先輩のモノ。

ドアノブに伸ばしていた手が、中途半端な形で固まる。


「借金ヤバいんだろ? 借金取りの連中も」



「そんなんじゃ、まだ帰せないし――誓子だって、望まないだろ」



「だからお前は」



「ここで、じっとしてればいいんだよ」



伸ばしかけていた左手が、おずおずと引っ込められていく。

その薬指にある輝き。

対となるものと再び交わる日は――きっと、やって来ない。

「――てのはどうよ?」

「却下」


渾身のアイディアを即座に切り捨てられた揺杏は唇を尖らせる。

折角徹夜で考えたのに、と欠伸で瞳の端に涙を滲ませて。


「えぇー……似合いそうなんだけどなぁ、センパイ」

「サスペンスもホストも駄目だったんだから、こんなの通るはずがないでしょ」


ブーブー文句を垂れる揺杏に、部長である誓子は呆れるしかない。

腰に手を当てて、とても大きな溜息を吐いた。


「それに、徹夜の頭で考えるからこんなモノしか出てこないんでしょうに」


難航する文化祭の出し物。

果たして本番は、どれだけ苦労することになるか。


「……ところで」

「ん?」

「私に水商売が似合いそうって……どういうことかしら?」


ゲゲ、と女子にあるまじき声を出してももう遅い。

救いの手を求めても、視線を逸らされるだけ。

静かに落とされる雷に――部員たちは、見ないフリをした。



【有珠山愛憎劇場.V2】









男性恐怖症であり、同性愛者。

事前にそう聞いていたから、京太郎は安河内美子という先輩が苦手だった。


「あ、須――」

「きょーたろっ」


そして、美子が伸ばした手は姫子によって遮られる。


「今日も、私が練習を見るばい!」


ちゃり、と姫子の鞄に付けられたキーホルダーが鳴る。

それはまるで、美子の努力を嘲笑っているかのようで。


「……」


今日も、伸ばした手に掴めるものは、何もなかった。


――お金と彼、選択を迫られたらどちらを選ぶ?

もちろん、それは――


「……キョウタロー」


ベッドの中で。

ぎゅうっと彼の腕に抱き着くと、彼はいつもより優しく頭を撫でてくれた。


「ん、なんだ?」

「なんでも、ない」

「そうか」


――いつまでも、ココにはいられない。

もっと上を。もっとお金が欲しいと思うなら、ココにはいられない。


「キョウタロー」

「ん?」

「大好き」


――もちろん、どっち?

すぐに答えることが出来ないくらい。彼の存在は、とっても大きくなっていて。


「俺も、だよ」


だから、今は。答えが出せないうちは。

思う存分に、彼の温かさを、堪能していたい。













火事場の馬鹿力でシロを引き上げ、備え付けのソファに腰掛け息をつく。

一歩でも京太郎が踏み込めなかったら、結果は大惨事となっていた。

本当に危ないところだったと思うと、冷や汗が止まらない。


「……痛い」


隣で肩を押さえながら、シロが呟く。

片腕一本で宙吊りとなっていたのだから、相当な負担が掛かっていた筈だ。


「無理するなよ。あまり痛むようなら病院行っとけ」

「……いや。多分、大丈夫」

「そうか……」


二人の間に、沈黙が流れる。

五月蝿すぎるくらいに時計の針の音が聞こえて、やがてシロから先に口を開いた。


「……戒能プロも、先生の教え子?」

「ああ。昔、家庭教師みたいなことしててな」


思えば彼女が、一番最初の教え子と呼べるかもしれない。

教えた英語も――変な方向ではあるが、身に付いているようだし。


「そっか……」

「……でも。俺の答えを待ってる人は、良子じゃない」

「え?」

「いや、正確には良子もそうだけど……もっと、待たせちゃってる人がいる」


その言葉に、シロは視線を宙に彷徨わせて。

ぐったりとソファに身を預けると、天井を仰ぎ見た。


「……ダルい」

「……ゴメンな」

「……」

「……」


「ねえ、先生」

「なんだ?」


「じゃあ、その人は――先生にとって、どんな人なの」



『そんなとこで寝てると、風邪引いてまうよ~?』




『京ちゃんは、ゆっくりと休んでればええねん』


『そっか。行っちゃうのね』


『温めて、欲しいんよ』



『ずっと、待ってたんよ』

郁乃がいなければ、今の自分はいない。

でも、自分は彼女を傷付けて。

それでもまだ――彼女は、自分を待っていた。


彼女が、どんな人か。

赤阪郁乃という女性は、京太郎にとって――



「恩人……かな」


自分を立ち直らせてくれた人。

郁乃を表すなら――この言葉が、京太郎には一番しっくりくる気がした。


「恩人……ね。そっか、なら」

「なら?」

「……先生」


シロは、宙に彷徨わせていた視線を、京太郎に向けた。

その瞳に、迷いはない。


「私、まだ諦めないから」

「……シロ」

「例え、先生がその人を選んでも。諦めない」


「絶対、奪い取る」






シロは淡々とした口調で、啖呵を切った。

既に振られているようなものなのに、それでも諦めないと。


「……っ」


再び痛みの波が来たのか、眉を顰めて肩を押さえる。


「今は……少し、休むけど」

「……俺は、その気持ちには応えられないぞ」

「なら」


「応えるまで。ずっと、攻めてやる」







「卒業したら、もう高校生じゃないし」

「……」

「教え子じゃなくて……プロなら、問題ないんでしょ。立場的にも」


講師と教え子という立場すら、言い訳にさせない。

心が振り向くまで、シロは攻め続けると言った。


「別に待たなくてもいいけど」


シロの導き出した答えは、酷く破綻している。

それでも、それが彼女にとっての心の拠り所。


「私は、追いかけるから」


何もかもが面倒になって、命すら投げ出した彼女が――唯一、縋るモノ。

それは、誰にも奪うことは出来なかった。











「……ああ、それと」


思い出したように、シロは机の上を指差して。


「落し物には、気を付けた方がいい」


そこには――端が少し折れている、名刺が置いてあった。

2月14日――の、前日。

真冬の北海道であるにも関わらず、彼女たちのキッチンは非常に白熱していた。

バレンタインという、乙女にとっての一大イベントを前にしているのだから、それは当然のこと。

だが――


「なるか、血は調味料にはならないから。そのナイフ置いて」


「ユキ、ヘラを胸に当てて何してるの? まさか部室で『私を食べて――』なんて、しないでしょうね」


「揺杏、砂糖と塩間違えてるわよ」


「爽、あなたが摘み食いしてるの――それ、私のじゃない?」


ああもう!とキッチンに誓子の悲鳴に近い叫びが響く。

あまりにフリーダム過ぎる部員たちを前に、彼女の気苦労は募るばかり。


「……ここまでさせるんだから、お返しは期待していいわよね?」


――とにかく甘いモノで、癒されたい。

渡す側だというのに、誓子は強くそう思うのだった。

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最終更新:2026年01月05日 21:30