「――」
「……」
いつもと違って静かな部室。
一年女子しかいないこの場にて、咲と和が無言で睨み合う。
その手に持つ小包の中身は、最早言うまでもない。
「うぅ……」
二人の敵意に挟まれた優希は、ただ気まずく視線を泳がせる。
ただ菓子を渡すだけなのに――何故、そこまでして張り合うのか。
「先輩、まだかー……?」
耐え切れずに時計をチラ見。部活が始まるまであと少し。
そんな彼女は、既に京太郎にタコスチョコを渡している。
お返しを三倍返しで貰う約束も当然のように取り付けた。
「はぁ……」
改めて、事前に渡して良かったと思う。
仮にこの場でチョコを渡していたら――きっと、ひどいことになっていた。
優希の胃痛と祈りが天に届いたのか、すぐに部室の戸は開かれた。
「お、揃っとるの」
その人物に、咲と和は落胆の声を。
優希は、安堵の溜息を零した。
「遅れてすまん。始めるとするかの」
「え? 京ちゃんは?」
「なんだ、聞いとらんのか?」
嫌な予感がする。
優希はこの先の展開を、本能的に察知した。
「京太郎は、用事で休むらしい。さっきメールがきての」
「へぇ……」
「……そう、なんですか」
火に油。
一見落ち着いているように見える二人だが、その内面は知りたくなくても伝わってくる。
そしてこういう時に貧乏クジを引くのは、勿論――
「すまんがわしも今日は店が忙しくてな。練習を見てやれん……」
優希は、養豚場の豚の気持ちを理解した。
「本命相手のチョコには血を混ぜるのが女の子の常識なんだってね――ハイ、コレ」
なんとも反応に困る言葉と一緒に差し出されるチョコレートケーキ。
こんな日でも、彼女――竹井久は平常運転であった。
「あ、ありがとうございます」
とりあえずは、お礼と一緒に口にする。
程良く甘い、京太郎好みの味だ。
「お、美味い」
「良かった。だって本命だもの」
「……え゛?」
思わずフォークを進める手が止まってしまうのは仕方のないことだろう。
たった今聞いた話の内容から、ケーキの中に赤色を探してしまう。
「あは、大丈夫よ。変なのは入れてないから」
「ほっ……」
「でさ、それより」
「もっと、聞きたいことがあるんだけど」
久が身を寄せてくる。
気付けば、吐息がかかり睫毛が数えられる距離。
「本命ってのいうのは……嘘じゃないのよ?」
「は、はい……」
「あなたの答えは……どうなのかしら」
「そ、それは……」
「それは?」
「……」
「ほ、ホワイトデーに……じゃ、駄目ですか?」
京太郎の返事は、保留。
男としては情けない限りだが――久は、くすりと笑った。
「そうね。なら、期待して待ってようかしら」
「……すんません」
「ううん、いいの。急だったしね」
「でも――予約は、しておこうかしら?」
一瞬の甘い匂い。
少し遅れて、首筋に小さな痛み。
「ふふ……それじゃ、待ってるからね?」
その傷は確かに、久という存在を京太郎に刻み込んで。
「いやー、調理室を借りれるとはねぇ」
揺杏ちゃんを先頭に帰宅する私たち。
部活動は今日はお休み。
だって、明日の準備でみんな忙しいから。
「……にしても、良かったわ。何とか形になって」
私の隣で、ホッと溜息を吐くチカちゃん。
思い返すと、彼女はずっと駆け回ってたようか気がする。
「あはは……お疲れさま」
それでいて自分のチョコも頑張って作ってたから、きっとみんなの2倍も3倍も疲れてるのかな。
でも、おかげでみんな無事にチョコを作ることができました。
「うっし! コレでフェアだからな!」
爽ちゃんが自信満々にみんなの顔を見渡して、満足気に頷く。
抜け駆けもなし。小細工もなし。
そう、私たちは――
「ええ……後は、京太郎次第ね」
――明日。
みんなで、彼に告白をします。
みんなで一緒に作ったチョコレート。
彼がどれを選ぶのかは、わからないけれど。
例えどんな結果になっても、きっと後悔は――
「……あれ?」
カバンの中に、ある筈の小包。
手で探っても、開けて確かめても見つからなくて。
「どーした?」
「……チョコ、忘れちゃったかも」
思い当たるのは、調理室に忘れて来ちゃったということ。
……学校が閉まる前に、急いで取りに戻らないと。
タイミングはギリギリ。
何とか閉まる前に、調理室の鍵を借りることが出来ました。
「あ、あった……!」
そしてやっぱり、調理室に置き忘れていた私の手作りチョコレートの小包。
一応開けて中身を確認すると、そこにはしっかりと私のお手製チョコレートがありました。
ホッと一息、これで安――
「ぁわっ!?」
――心した瞬間に、ズルりと滑る足元。
焦っていたせいでしょうか、調理室の床が濡れていたことに気が付かず。
私は、思いっきり全身で転んでしまいました。
「いったぁ……」
固い床に受身も取れず。
そして転んだ時に何かを引っ掛けてしまったのでしょうか、私の指先は小さく血が滲んでいました。
「……あ」
慌てて顔を上げて確認すると、少し皺くちゃになった小包。
その中にある、私のチョコレートは――
「……ほっ」
ようやく、安心。
箱は皺くちゃになっていたけど、中のチョコレートは無事でした。
これなら、帰りに包みを買ってお家でラッピングすれば、明日にはちゃんと彼に渡すことができる筈です。
「良かったぁ……」
今はとりあえず、この包みに入れて帰ろう。
そう思って私は、少し慎重にチョコレートを仕舞いました。
指先から、赤い血がチョコに染み込んでいることには気付かずに。
バレンタイン、当日。
彼が、私たちのチョコレートを選ぶ瞬間。
不思議と、私は確信めいた予感を抱いていました。
何故、でしょうか。
彼が、私のチョコレートを摘んだ時に。
私の胸の中に、緊張とも、ときめきとも違う、新しい高鳴りが生まれたのです。
口を動かす度に。
まるで、私そのものが、彼の下に転がされるような気がして。
気が付いた時には。
私は、ありとあらゆる幸せよりも温かい、彼の胸の中に包まれていました。
じくりと痛む指先さえも、私を祝福しているような気がして。
「……あぁ……」
私は、確信したのです。
この痛みが、私に幸せを運んでくれたのだと。
流した赤色は、幸せの彩り。
そのことに気が付いた私の未来は――きっと、幸せに満ちていることでしょう。
「部長はいつ先生に告白するんだー?」
その日、初めて。
竹井久は、飲んでいた紅茶を吹き出すという経験をした、
「な、なに言ってんの……?」
むせ返り、息苦しさに涙目になりながら優希に突っ込む。
突然の爆弾発言に、折角の休憩時間だというのに久の心はさざめき立つ。
「第一、告白ってそんなの」
「そんなの?」
「あ、ありえないし……先生と生徒だし……」
部員たちの生暖かい視線が妙に妙に突き刺さる。
頰に強く熱が集まっていくのを自覚した。
らしくない、と思っても止められない。
「立場、ということなら……部長は3年生ですし。卒業すれば年齢も問題ないですよね」
切り込んでくるのは優希だけではない。
済ましたように見えて、意外と恋愛に興味津々な和。
それなりに長い付き合いのまこは生暖かい目で見てくるし、咲も苦笑しながらも二人を止めようとはしない。
「……練習! 休憩終わり! 大会まで時間無いんだから!」
「あ、逃げた」
「ヘタレたな」
対して、久の打つ手は逃げの一手。
部長権限で無理矢理会話を終わらせ、練習を再開する。
恥ずかしさを誤魔化すように、両の手の平を強く叩いて。
「まったく、もう……」
両肩をいからせ、早足に廊下を歩く。
優希の発言と妙な空気のせいで、碌に練習に集中できなかった。
「この後、どんな顔して先生に会えばいいのよ……」
大会に向けての打ち合わせと、今後についての話し合い。
部長と顧問という関係上、当然それは避けられない。
避けるつもりもないが――どうしても、さっきの発言を意識してしまう。
「そりゃ、先生のことは……嫌いじゃ、ないけど」
全国に行きたいという久の夢に、真面目に向き合ってくれて。
宮永咲というキーパーソンを連れて来てくれた。
大人として、男性として、久の手の届かない所を一生懸命カバーしてくれた人。
「……」
背中だけじゃ、物足りなくて。
横顔を、視線で追ってしまうこともあったけれど。
「……い、いきなり……告白なんて……ねぇ」
ぶつぶつ呟きながら廊下を歩く。
生徒とすれ違うことがなかったのは、久にとって二重に幸運なことだった。
なんせ――今の自分を鏡で見れば、恥ずかしさで悶絶してしまうような表情を、彼女は浮かべていたのだから。
不意に、開けっ放しの窓から風が吹く。
程良い涼しさを持った風に、久の頬と思考は強制的に冷まされた。
「……はぁ」
一つ溜息をついて、窓を閉める。
こんなのだから、部員たちに言いようにからかわれるのだろう。
「……もう」
しかし、お陰で冷静になれた。
職員室の前で、久は気を引き締めてドアに手をかけ――
「俺も、愛してるよ……貴子」
「ああ、わかってる」
「はは、浮気なんてしないって」
「そうだな……」
「……電話じゃ、言えないから」
「全国」
「全国大会が終わったら、言いたいことがあるんだ」
身体が、意思に反して固まって。
聞きたくない言葉だとしても、耳を塞ぐことすら出来なかった。
「……ん? 竹井か?」
結局、電話が終わって久に気付いた京太郎がドアを開けるまで。
久は、まるで床に縫い付けられたかのように、一歩も動けなかった。
「……電話、してたの?」
「あぁ……待たせちゃったか。ごめんな」
ううん、と首を横に振って。
久は、職員室に足を踏み入れた。
貴子、という女性は先生の愛する人なんだろう。
私が後ろ姿を見ていた時。
きっと――その人は、私よりもずっと近い距離で。
「先、生……」
知らないうちに、手を強く握る。
強く込み上げてくる気持ちは悲しさなのか、悔しさなのか。
それすら、彼女にはわからない。
わかったとしても――その手に、彼が触れることはないのだから。
ベッドに潜り込んで、目を閉じても。
久の心の中には、彼のことばかり。
「……痛い」
爪の食い込んだ手の平から、噛んだ爪から血が出ても。
彼女の心の渦は、止まらない。
いつも、中心にあった筈の彼が、今は果てしなく遠い。
「……あぁ」
だから。
「そっか……」
痛みの中で、彼女は気が付いた。
「……そうすれば、いいんだよね」
彼が触れてくれないなら――自分で、触りにいけばいいだけ。
「竹井、二人きりで話って?」
必要なモノは、たったの3つ。
「……先生とは、3年の付き合いだから」
「おう?」
「先生にしか、言えないことがあるの」
夏が近づいている時期。
差し出したアイスティーを、彼は何の疑問も抱かずに口にした。
「貴子さんって……風越のコーチよね?」
「竹井……?」
「もし、そんな真面目な人が」
「恋人が教え子に手を出したって知ったら、どうなっちゃうのかしら?」
眠る彼に跨って。
久は、歪に微笑んだ。
「写真は撮ったし……後は」
彼が、苦しげな呻き声を上げる。
もう間も無く、目を覚ますだろう。
「あはっ」
携帯を操作しながら、久は思い付く。
電話で、彼が愛しの相手に話していた内容。
「全国大会が終わった後に別れ話とか――傑作だなんて、思わない?」
室内に、女の怒声が響く。
「お前が! お前が、京太郎を!」
振るわれた拳は、容赦なく彼女の頬を引っ叩く。
「やめろ! 貴子!」
彼女のしたことは、誰も幸せになれない行為。
「……あは」
それでも、彼女は笑みを止められない。
先生にも、女にも立場がある以上は、自分の要求を飲むしかない。
そして――
「……お腹には、触らないんだ?」
「お前……!」
「まさか……」
命の責任を。
先生が、捨てられる筈がないのだから。
ただ一つ。
彼女の、誤差は。
「……もう、いい」
何もかもを捨てても、彼を手に入れたいという願望。
「……貴、子?」
それを。
「お前が……」
「おい、貴子……!」
「お前が、いなければ……!!」
相手の女も、持っていたということ。
首にかかる、強い力。
それは、彼には止められない。
薬で動けない彼には、どうしようも出来ないから。
「あ、が……!」
足掻き、踠いても腕を退かすことは出来ず。
女の爪が、首に食い込んで血が流れた。
「……ぁ」
最後まで、声は出ず。
愛した人の、目の前で。
必死に、彼の方に、目を向ける。
降りてくる瞼と、霞む視界の中では彼の顔もわからなかったけれど。
きっと、子どもみたいに泣いているんだろうと、思った。
「――」
涙を拭おうと、伸ばした手は。
最期まで、触れられなかった。
「……あ、ん?」
智葉が部室に来た瞬間、少し間抜けな声を出してしまったのも無理はない。
「あ、サトハ」
「お疲れさまです」
ぷらん、と京太郎に両手を引っ掛けてぶら下がるネリーと、それを支える京太郎。
京太郎がネリーを抱っこしているようにも見えるが、明らかに部室でやることではない。
「……何やってんだ、お前ら」
「いや、ネリーが昨日テレビでプロレスを見たらしくて」
「スゴかった! こう、ガーッて」
「あぁ……」
つまるところ。
テレビで見た技を京太郎相手に再現しようとしたが、ネリーには体格も技量も足りていなかった、と。
その為、じゃれついているようにしか見えないということだろう。
「むぅ、全然効かないなぁ」
そりゃそうだろう、と。
智葉が突っ込む前に京太郎はキラりと歯を光らせて、
「だから言ったろ? 俺はとっくのとうにネリーに落とされてるって」
――うぜぇ。
反射的に本音が溢れてしまった。
側から見ているだけの智葉がそう感じるのだから、真正面のネリーはさぞや――
「キョウタロー……!!」
――感動、していた。
雀卓の上で数々の修羅場をくぐり抜けてきた智葉も、これには口の端を引き攣らせた。
「ねぇ、キョウタロー……もっと、プロレスの技を試したくなっちゃった」
「おう、勿論――」
「寝技、ね!」
智葉が固まっている間に、二人だけの世界が更に深まっていく。
二人は抱き合ったまま、智葉の横を通り過ぎて。
桃色の空気を振りまきながら、部室から出て行った。
「サ、サトハ……?」
「……何も、言うな」
後から部室に入ってきたメグは、試合でもないのに髪を纏めて眼鏡を着けている智葉の姿に驚いて。
その怒気を抑えているような様子に、何も言うことはできなかった。
「やって、られるか……!」
そして。
自分がサトハの憂さ晴らしの相手となることに気が付き――やれやれだと、溜息を吐いた。
「……いてぇ」
自身の泊まる部屋に戻ってきた途端、京太郎は肩を押さえてソファに身を委ねた。
シロの前では痩せ我慢を通していたが、やはり肩への負担は大きい。
「……湿布でも買いに行くか」
「これでちょっとはマシになるだろ……」
ドラッグストアで購入した湿布を貼り付け、一息吐く。
これ以上悪化するならば病院行きだが、取り敢えず今日は部屋でゆっくり休もう。
そう決めて、自身の泊まるホテルへと足を早める京太郎だが――
「せーんせっ」
いつだってこの教え子は、唐突に押し掛けてくる。
京太郎を見るなり、瞳を輝かせて駆けてきた淡。
白糸台優勝の立役者で、京太郎が面倒を見た一年生の中では最も関わりが深い子。
「ちょうど良かった!」
「ん?」
「探してたの、せんせーのこと」
「探して……?」
今の白糸台は祝勝ムードに浸っているか、或いは既に個人戦に向けての対策を練り始めているところだろう。
特に団体戦で最も活躍したといっても過言ではない淡が自分を探している意味は――
「ご褒美、貰いに来た!」
「ご、ご褒……美?」
なんというか。
今の淡の姿と、飼い主の帰りを尻尾を振りながら迎える犬の姿がダブって見えた。
全身で喜びを表現しているというか、もし京太郎に淡のオーラを見ることが出来たのなら、とても眩しくて直視できなかっただろう。
「私、頑張ったもん」
「うん」
「うん!」
「……うん?」
どうやら――淡の中でご褒美を貰えることは、既に確定事項のようだ。
確かに、劣勢だった白糸台を優勝させた淡には何かしらの褒美を与えてもいいかもしれない、が――
「そうだな、何がいい?」
京太郎は頷いて、淡の求めるものを尋ねる。
腕の痛みもあり、その要望によっては後回しになるが、出来る限りのことは聞いてやろう。
「えへへ……ね、せんせー。ちょっと屈んでよ」
「ん? おう」
「んー……もうちょい!」
淡の意図が今一読めないが、要望に応えて膝を曲げる。
目線が淡と等しくなる程度に身を屈めると、淡は満足気に頷いて、
「これ、予約だから!」
頰に、彼女の唇が、重なった。
予想していなかったことに、身体と思考が固まる。
「せんせーからしてくれるの待ってたんだけど……」
そんな京太郎を前に、淡はイタズラが成功した子どものように微笑み、ペロリと自分の唇を舐めた。
「待ちきれなくて、やっちゃった♪」
「淡、お前――」
「えへ、唇は……個人戦の後に、とっとくから!」
自分のやりたいことを押し付けて、淡は踵を返して走っていく。
あっという間に彼女の姿は見えなくなって、頰に残る湿った感覚だけが、強く感じられた。
教え子たちの告白。
現実だと信じたくはないが、腕の痛みも、頰に残る感覚も、確かにあるもので。
「マジ、かよ……」
頭を過るのは、身を投げた時のシロの顔。
そして、決勝戦を終えた後の淡。
もしも、あの時に感じた危うさがシロのそれと同じものなら――もしかすると、取り返しのつかないことになるかもしれない。
「……」
京太郎が立ち上がり、ホテルへと戻れたのは、ずっと時間が経って日が沈んでからだった。
まだ大丈夫、でも
淡への答えは、シロと変わらない。
その気持ちに、応えるわけにはいかない。
「……」
だが。
あの時のシロのように。
淡が、危険な行為に踏み出したら――
彼女にとっての須賀京太郎は――尊敬する先輩の一人という認識だった。
一部のモノがオカルトと呼ぶ、自分の特質性だけに頼らずに対局に臨む姿勢は好ましい。
加えるなら、単純に人柄と顔もタイプである。
だが、あくまでそれだけで――特別な感情は、持っていなかった。
ある時、までは。
小鍛治健夜に、彼が敗北した。
落胆する者もいたが、彼女には半ば予想がついていたこと。
だから、彼が表舞台から姿を消しても――残念に思うことはあっても、仕方ないと諦めがついた。
「……え」
全てが変わったのは、冷たい雨が降る朝。
ある駅のホームで、酷く草臥れた様子の彼を見てから。
無精髭に、皺だらけのスーツ。
目元の酷い隈に、虚ろな目付きはまるで浮浪者のよう。
あまりの変わりように、誰もが彼を避けて通る中――彼女には、一目で彼が京太郎だということがわかった。
「先、輩……?」
彼女に、いつものような飄々とした態度はなく。
気が付けば、一歩ずつ彼に歩み寄っていて。
伸ばした手は、
「そんなところで寝てると、風邪ひいてまうよ~?」
届くことは、なかった。
知らない女に手を引かれて、去っていく彼。
彼女の胸には――奪われたと、ただそれだけの想いが、残されて。
「浮かない顔をしてるねぃ――先輩?」
こうして再び巡ってきた機会に、彼女は感謝した。
今度は逃さないと、口元に浮かべた笑みを扇子で隠して。
「浮かない顔をしてるねぃ――先輩?」
直接耳にするのは、随分と久しぶりな声。
けれども、その手に持つトレードマークの扇子と着物は忘れようがない。
「あなたは……相変わらずですね、三尋木プロ」
「先輩は老けたね」
三尋木咏。
現役時代に何度か対局を交え、プライベートでもそれなりに交流のあった同業者だ。
「今は……短期の特別講師やってんだっけ」
「はい……まぁ、今はフリーですけどね」
「ふーん?」
先輩で口元を隠したまま、咏はじいっと京太郎を見つめる。
相変わらずの遠慮のなさに、京太郎は苦笑しながら頰をかいた。
「……なるほど、わかった」
「はい?」
「悩みの中身も――多分、その教え子関連でしょう?」
「……」
「……図星ってツラしてるねぃ。そいじゃあ、どっか別の場所で話さない?」
ついでに奢りますよ、と咏は誘う。
京太郎は、その誘いに――
京太郎が咏に誘われた先は、とある料亭。
普段は滅多に入ることのない、格式高い場所だが。
「ここは」
「先輩とここに来るのは久しぶりだね。覚えてる?」
「あー……確かに一度、来たことあるな」
過去に一度、咏と二人きりで来た記憶がある。
なるほど――ここならば少なくとも教え子がやってくる可能性はなく、話をするにはちょうどいい場所なのかもしれない。
「そいじゃま――何から、話そうか?」
「……それは、俺の台詞ですよ」
「そもそも、何で先生なんか?」
「それは――」
全ての始まりは、健夜との再戦後。
燃え尽き症候群とでも言うのか、勝負への熱意が徐々に冷めていることを実感したこと。
それから、ある人に次の世代を育てることを勧められて。
「なーるほど。その教え子たちが決勝戦の4校か」
「はい」
「ふんふん。で、その教え子たちに告白された……と」
「はい――え?」
当たり前のように続けた咏に、コップを口に運んでいた手が止まる。
まだ、そこまでは話していない。
それどころか、郁乃や貴子、良子との関係すら明かしておらず、話の中には恋愛の影もないというのに。
「……まぁ、女のカンってヤツさ。知らんけど」
「先輩は昔っからそうだったからねぃ」
くいっと、咏はコップの中の水を飲み干す。
上品とは言えない、この場にはそぐわない飲み方だった。
「……で、まぁ。私からのアドバイスだけどさ」
「……」
「さっさとフっちゃえってのが本音。どうせ――応える気なんて、無いんだろう?」
幻想を見せる前にさっさと現実を叩き付けろ。
煮え切らない京太郎に対して、咏はきっぱりと言う。
勿論、京太郎もシロのことが無ければそうしていたが――
「フった後の相手のことなんて、先輩が考えることじゃないさ」
「……だが」
「だがもなんも無いね。恋愛なんて惚れた方の負け」
「勝手に惚れて勝手にフラれて――そこに、先輩の責任なんて何処にも有りゃしない」
それが出来れば、そういう風に切り捨てられれば。
京太郎も、ここまで悩みはしない。
「……自殺、されたら?」
「うん?」
「目の前で……飛び降り、されたんだよ。フった子に」
告白を受け入れなかった時のシロの表情は、いつまでも頭から離れない。
あんな想いは――二度と、したくない。
「何とか、その時は何とかしたけど……」
「じゃあ、今度も何とかするしかないねぃ」
「……」
「だいじょーぶ。一度出来たんだから出来るって――出来なきゃ、死ぬだけだけどさ」
「フったら面倒、受け入れる気は無い……なら、面倒でも何でもフるっきゃないっしょ」
「ま、そんときゃ私も協力するよ。乗り掛かった船だしねぇ」
「……ありがとう」
「いいって。先輩と私の仲だろ?」
頭を下げると、咏は何でもないことのようにヒラヒラと片手を振った。
「もう一個、解決案はあるんだけど……ね?」
「……それは?」
「ふふ……」
「婿養子って興味ない?」
一瞬、咏の言葉を聞き間違えたと思った。
何度か目をまたたかせ――それでも変わらない咏の眼差しに、漸く今の台詞が幻聴でないことを理解した。
「み、三尋木、プロ?」
「ん。まーそういう手もあるってコトで」
それが咏なりの冗談なのか、本気なのかは分からない。
ただ――
「二進も三進も行かなくなったら私の元においでよ。可愛がってあげるからさ」
「は、はは……考えとく」
三尋木咏という女性が、自分のことを気に入ってくれていることは、確かなようである。
「……ま。道が全部潰れたら――もう、それしか無いからねぇ?」
扇子に遮られた言葉は、彼の耳には届かない。
咏さんの先輩呼びは某伝説のあの呼び方が好きだから
「先生ー」
咏との邂逅の後、ホテルのロビーへと戻ってきた京太郎にかかる声。
見上げれば、その相手はすぐにわかった。
「お出かけしてたんですかー?」
宮守の大将で個人戦の出場選手、姉帯豊音。
その様子と口振りからするに、自分のことを探していたようだ。
「ん、まぁちょっと昔馴染みと会っててな……何か用か?」
「良かったら、個人戦への調整をお願いなーって」
「それは構わないけど……後で、でもいいか?」
「はい! いつでも大丈夫だよー!」
自分のことを頼ってくれるのは嬉しいし、そういう仕事を選んだのだから豊音の調整に付き合うことに問題は無い。
たが、今は少し休みたかった。
淡との出来事や咏との話を、頭の中で少し整理したい。
「それじゃあ、また後で連絡するから」
「あ、先生――」
部屋に戻ろうとする京太郎に、豊音は――
「個人戦では、絶対勝つよー!」
ムン、と力こぶを作るポーズを取って、豊音は自信満々に宣言した。
その瞳からは強いリベンジの意思が伝わってくる。
「大将戦では大星さんに負けちゃったけどー……絶対、リベンジするから!」
敗北を引き摺らない強い心は、先生としても教え甲斐がある。
淡との出来事の後で沈んでいた心が、少し軽くなったような気がした。
「よーし……じゃ、スパルタで行くからな!」
「どんと来い、だよー! むしろ、激しい方が……えへへ」
「……は、はは」
――先生が、いてくれるから。
――みんなとのお祭りが終わっても、先生がいてくれれば――
宮守の面子も交えて、豊音の調整を終えた後。
日も沈み、完全に夜になった頃。
京太郎のドアを叩く、ノックの音。
「先生、少し話したいことがあるんですが――」
長い夜になりそうだと、京太郎は直感でそう思った。
男は外で働き、女は家事をする。
古色蒼然とした考えではあるが、自分が家事を担当することに不満はない。
こうして自分が家事をすることで、彼は喜んでくれるに違いないのだから。
「ふふ……」
同棲――そう、あくまでハオの中で京太郎は同棲相手。
高校生である自分たちに、夫と妻という関係は少し早い。
勿論、ハオとしてはそう呼び合うことに異論はないが――少し五月蠅い輩がいる。
「ああ、でも……共働きも、悪くはないですね」
籠から洗濯物を取り出しながら、ハオは未来を妄想する。
夫婦でタッグ戦に出る未来、京太郎が専業主婦として家を守る未来、自分がプロにならずに妻として――
「……む」
回転の速い頭で様々な将来のヴィジョンを描き出している中、籠の中から取り出した物にハオの思考が固まる。
その白い指が掴んだモノ。女としての役割を停止させたものは――
「これ、は……!」
――彼の、下着。
ただの布切れでも、その枕詞がつくだけで自分の胸の中が興奮に満たされていくのを実感する。
「……」
ゴクリと、喉がなる。
不可思議な魔力に、目が離せない。瞬きすら惜しい。
彼はまだ寝ている。つまり、この場にいるのは自分一人であり――
「……あれ。パンツが一枚無いような」
「気のせいでは?」
「おだやかな心を持ちながら激しい怒りによって目覚めた伝説の戦士……」
鎖で壁に繋いだ彼が、ようやく口にした言葉に――透華は、ついに愛しの彼の気が触れてしまったのかと思った。
確かに、少々強引な手段で彼を連れてきてしまったが――
「どうやら……『教育』が必要なようですね」
「……教育?」
「ええ……あなたは……少し、毒されてしまった。あの男に――」
「あの、男?」
ピシリと、鎖から不穏な音が聞こえた。
まさかと目を見開くが、不穏な音は止まらない。
それどころか段々と大きくなっていき、亀裂は壁にまで広がっていく。
「ハギヨシさんのことか……」
「っ!?」
「ハギヨシさんのことかぁあああああああッ!!!」
――その日。
龍門渕の屋敷は、消滅した――
「血の赤色が、幸せの色なら――」
「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ――」
「いらないものは全部、間引いて――」
「なぁ、京くん? あのな、ちょっと話を――」
「破ァッ!!」
研鑽された執事の技を駆使して、ハギヨシの意志を受け継ぎ、立ちはだかる女の情念を薙ぎ倒す。
次々と迫り来る悲劇の爪をくぐり、京太郎は闘い続ける彼に、安息の日々が訪れるのは――
「キョウタロ、キョウタロ」
「ん?」
「ネリー、お腹空いちゃった♪」
「……たく、しょうがねえなぁ」
――意外と、近いのかもしれない。
「なんか食いたいもんあるか?」
「んー……キョウタローのなら、なんでも!」
「……しょーがねぇなあ」
強固な壁を砕き、刃物を弾く肉体も。
くいくいと袖を引っ張る小さな手だけは、拒めなかった。
「……惚れた方の負け、だよなぁ」
「なんか言った?」
「何でもない。んじゃ、俺んち行くか」
「やた♪」
歴史は繰り返す、というか。
昔に流行ったクジ引きの指令が今の阿知賀こども麻雀くらぶで再び流行るとは、思いも寄らず。
さらに加えて言うなら――
「ひなのほっぺにチュー……あやと一緒にオフロ……!?」
指令の中身に、大きな問題がある。
指令を放棄するなら次は倍のくじを引かなければならないが――問題を先延ばしにするどころか、更に悪化する未来が見える。
「きょーちゃん?」
「どーするー?」
ジリジリと迫り来る綾たちに、京太郎の取る選択肢は――
「……あ! 俺宿題やらなきゃ! じゃあな!」
――逃げの一手、であった。
所詮、相手はまだまだ子ども。
この場さえ誤魔化せばどうにかなるだろうと踏んでの逃走である。
問題があるとすれば、
「ねぇ、きょーちゃん」
「知ってる?」
「ガムテープって結構頑丈なんだよ!」
子どもたちの行動力を、余りにも甘く見ていたこと。
寝起きの京太郎を取り囲む綾たち。
手足を雁字搦めに縛られ、口も塞がれた状態ではどうしようもなく。
「指令、全部やめたってことは――」
「この箱の二倍、やってくれるんだよね!」
ティッシュ箱いっぱいに詰められた指令の紙。
ジリジリと迫り来る子どもくらぶの面子に――
「――ッ!!」
――京太郎は、まな板の鯉の如く、身動ぎすることしか許されなかった。
綾たちの手に、なすがままにされるのを待つのみである。
姉と妹は、無言で睨み合う。
血の繋がった相手を、憎しみの篭った眼差しで。
例え唯一の姉妹でも、彼を譲ることは絶対にできないから――
「この、ばかちん!」
「あぅっ」
「いっ」
ゴチン、と立て続けに連続で響く拳骨の音。
大きなたんこぶを摩りながら、二人は涙目で彼を見詰めた。
「刃物とか、喧嘩に持ち出しちゃダメに決まってるでしょうが!」
「だって……」
「さ、咲が……」
「言い訳しない!! 照さんもお姉さんでしょっ!!」
しゅん、と縮こまる二人。
毎度の如く、彼の仲裁で姉妹の修羅場は強制終了となる。
憎しみだとか何だとか言っても、彼に叱られるのは怖い。
それに――
「まったくもう……反省したか?」
「……はぃ」
「……うん」
「それじゃあ……仲直りの、プリンでも食べるか。ハギヨシさんに教えてもらったんで」
「え……!」
「やった……!」
毎度の如く餌付けをされては、怒りも直ぐに萎んでいく。
今日も今日とて、二人の胃袋はたった一人の少年に懐柔されていくのであった。
――曰く、健全な精神は健全な肉体に宿る。
皆で激しい運動(意味深)をして仲直りした有珠山
吹っ切れた。
彼の気持ちを一言で表すなら、それが一番相応しい。
「ハァ……は、激し、過ぎ……」
「んっ……」
仲直りをするには、やはり運動で一緒に良い汗をかくのが丁度いい。
その証拠に――成香と由暉子の顔からはお互いへの憎しみがさっぱりと抜け落ちている。
上気した頬に浮かぶのは、隠しようもない悦びの感情だ。
「ふぅ……それじゃ、二回戦と行きますか!」
「え――」
「ち、ちょ、ま――」
――待たない。
熱したモノが冷めないうちに第二ラウンドへと突入すべく、京太郎は二人へと飛び掛った。
「へぇ?」
「楽しそうなこと、やってんじゃん?」
「……え?」
行為を中断させたのは、聞き覚えのある先輩たちの声。
真冬の北海道の冷気を吹き飛ばすような、激しい熱の込められた声。
「んじゃ――私らも、混ぜて貰うかなっ!!」
「え、ちょ」
そこに、逃げ場はなく。
「……あはっ」
「ようやく、慣れてきました……!」
「あ、ま、待――」
――待ったも、ない。
こうして――実に健全な運動に励むことによって、有珠山麻雀部の絆は、何よりも強固なモノになったのである。
「ぐ……ふっ」
「ダイジョブダイジョブ、頑張れ頑張れ男の子ー」
たった一人の少年への負担については――些細な、問題である。
「須賀くん……」
「二人まとめて――貰ってくれる?」
こんなことがあっていいのか、夢じゃないか――と頬をつねっても、目の前の光景は現実のものである。
美人な先輩二人に同時に告白されて。
しかも、どちらも選ぶことが出来るという素晴らしいシチュエーション――勿論、答えはイエス以外にあり得ない。
「なら、今から須賀くんは――私らの、ご主人さまばい!」
ちょっとはやまったか?――などと思っても、お釣りがくるレベルで可愛い二人。
今更答えなど、変わるはずもない。
「須賀くん……♪」
「はやくぅ……♪」
そして、初めての夜。
先輩二人が待つ寝室の扉を、京太郎は興奮と共に開き――
「さぁ」
「いっぱい、いじめて……♪」
床に転がる無数の拘束具。
それは、映像で見たものよりも過激なものばかりで。
「須賀くん……?」
入口に立ち尽くす京太郎に、姫子は首を傾げて。
哩は、納得したように頷いた。
「やり方がわからないなら――実践するばい!」
冗談じゃない、と。
怖気づいて、後退る京太郎の耳元に、鎖が擦れる音が聞こえて。
「――え?」
気が付けば。
身体中を、雁字搦めに縛り付ける鎖。
「あはっ♪」
蜘蛛の巣に囚われた蝶のように。
京太郎は、哩の指先を――ただ、受け入れることしか、出来なかった。
「今日は、私の番ですね」
ふわりと香る髪の匂いが、鼻腔をくすぐる。
世界ランカーによる特別授業。
近過ぎる距離が伝えてくれる、彼女の柔からさと匂い。
雀士としても、男としても、これ以上の環境は無いだろう。
「……チッ」
――すぐ側からの、鋭い目線さえ無ければ。
智葉、ハオ、明華。
日中仏と、グローバルな美少女が集まる臨海麻雀部。
その子たちから好意を向けられていると知って喜べたのは、ほんの一瞬のこと。
「売女が……っ」
愛情と愛情が重なれば――それは、相手への嫉妬や憎しみに変わる。
自分を挟んで飛び交う彼女たちの視線に、京太郎の胸の内は抉られるばかり。
今日も今日とて――チャイムが鳴るのを、待つしかない。
「……ふふっ」
滑らかな明華の指を拒めない自分への情けなさも募る。
きっと彼女は、そういうところも含めて、京太郎へアプローチを仕掛けているのだろう。
「キョウタロー!」
下校途中、腕を強く引っ張られる感覚。
もはや、振り向かずともその相手は理解できるし、要件もわかっている。
「ん、何か食いに行くか?」
「え゛……キョウタロ、超能力者……ってヤツなの?」
驚いた顔で、何やらブツブツとつぶやき始めるネリー。
どうせその内容は金儲けの算段なのだろう。
「バーカ」
「あぅっ」
その小さな額に、デコピンをしてやる。
なにすんのさ、と不満顔になる彼女だが――
「……うん?」
「コレ、ステーキの半額クーポン貰ったんだけど――」
「早く行こっ! 空腹は待ってくれないよ!」
実に予想通りの反応に、頰が緩む。
裏表が無い、というか欲に忠実というか。
『女としての』駆け引きが無いネリーは、京太郎にとって一番の癒しである。
「……えへっ」
そう。
京太郎に、とっては。
「わかっています。わかっていますよ、京太郎様」
聞きたくない。
けれど、縛られた手では耳を塞げない。
「京太郎様も、男の子ですから……」
彼女が、その手で引き摺る誰か。
赤くて、顔はグチャグチャで。
呻き声は酷く掠れて、とても人のモノとは思えない。
「でも――コレは、別です」
だけど、京太郎は知っている。
唯一、日に焼けた肌の子を。
黒い髪で、巫女服を着た彼女を――
「身の程を、知りなさい」
鈍い音がして。
何かが潰れて、京太郎の頰が濡れた。
――曰く、健全な精神は健全な肉体に宿る。
皆で「激しい運動(意味深)」をして仲直り -宮守編-
どんどん、とドアを叩く音がする。
自分を呼ぶ、女たちの声がする。
布団にくるまって耳を塞いでも――それらは、鳴り止むことはない。
「ねぇ――ちょっと、お話がしたいだけなの」
「あぁ……いるのは、わかっているよ?」
全国から集まったらしい、少女たち。
初めて出会う筈なのに――何故か、その声には聞き覚えがある。
「ふふふ……本当に、酷い人」
「あ……」
この声は、夢で聞いた声だ。
夢の中の自分は、超能力のようなものが使えて。
何でも好き勝手に、振舞うことが出来た。
「で、でも! あれは、夢……夢の、筈で――」
「夢……ねぇ」
「ひっ!?」
どこから、入って来たのか。
いつの間にか、ベッドの隅に、巫女服を着た女が立っていて。
「そう……夢なら」
「あ、あぁ……」
「夢なら――何でもしていいってことに、なるわね」
ゆるりと伸ばされてくる腕を前に――京太郎は、意識を失った。
夢だけど、夢じゃなかった
――曰く、健全な精神は健全な肉体に宿る。
皆で「激しい運動(意味深)」をして仲直り -愛宕家編-
小さい頃の思い出。
築き上げてきた信頼。
そんなものは――本当に、崩れる時は一緒で。
「あなたが、そんな人だったなんて」
「ち、違っ」
やめて。
そんな目で、私を見ないで。
心の悲鳴は、彼には届かない。
「……二度と」
「い、いや……」
聞きたくない。
それ以上は、言わないで。
「二度と、俺に。話しかけないで下さい」
「あ――」
縋り付く手を、彼は穢らわしそうに、弾いて。
閉まっていく扉の向こうで――二度と、彼が振り向くことは、なかった。
信じていたものに、裏切られた。
今まで、友達だと思っていた、彼女たちに。
「あ、ぁ……」
信用を、全てを、奪われて。
唯一、信じられる彼も、もう行ってしまった。
「……私、は」
なら、もう。
私の、信じられる、ものは。
「……あ」
――声が、聞こえる。
本当に幼い頃から、一緒にいたものたち。
九つの、異なるものたち。
「そう、でした……ね」
決して、自分を裏切らないものたち。
もう自分には――彼女たちと、彼さえいれば。
「……待っていて、ください」
他には。
「迎えに……行きます、から!」
何も、いらない。
長かった髪を切った――仕事の邪魔になるから。
化粧をやめた――髪を切ったのと、同じ理由で。
「それじゃ……行って、くるわね?」
眠る彼の頰に口づけを落として、私は今日も仕事に出かける。
私の今日のシフトは朝一。
対して、彼は今日は夜勤。
もしかしたら、今日に彼と触れ合えるのはコレだけかもしれない。
そう考えると、とても寂しいけれど――仕事は、私を待ってはくれない。
「……ん。ぁ、こ……?」
「あ……あはっ」
寝惚けた彼が、私の名を口にする。
それだけで、胸の奥底から気力が湧いてくるのだから――我ながら、現金だと思う。
「ありがと」
最後に、彼の瞼にキスをして、私は部屋を出た。
短く切った髪も、手入れが出来ずに荒れて行く肌も、もう惜しくはない。
そんなことしなくても――彼は、ずっと見てくれるから。
――健全な精神は健全な肉体に宿る。
全て任せておけ、とトシは言ったが――
「……運動しろっても、麻雀部でなぁ」
部屋の中には先輩方が5人に自分が一人。
先輩たちを仲直りさせるためにトシがセッティングした食事会だが、当の本人はここにいない。
「……はぁ、はぁ」
「せ、先輩? 大丈夫ですか?」
さらに、隣に座る豊音の様子がおかしい。
頰は赤く、汗がつたっている。
大丈夫、と豊音は首を振るが――他の先輩たちも、似たような状況だ。
「……うっ!?」
そして、自分も。
急に全身が火照り始め――どこがとは言えないが、急に元気になってきた。
「ま、まさか――」
この、食事に。
そう言おうとした口は、飛びついて来た豊音に塞がれて。
「あ、あは……!」
「なんだか、我慢できないや……!」
本能に忠実になった部員たちに囲まれて――京太郎は、心身共に、健全な運動の意味を知ることになった。
彼女たちの卒業後も、この運動会は定期的に開かれることになるが――それはまた、別のお話である。
「……はぁ」
屋上で空を見上げると、白い溜息が出て来る。
どうして、こんなことになったんだろう。
「……」
あの二人は。
今も同じ空の下で、私と同じ様に空を見上げているのだろうか。
手紙だけを残して、何処かへと消えてしまった、あの二人は。
「追いかて……みようかなぁ」
あの二人のように、愛のために何もかもを捨てて。
家族も、友達も、今まで関わってきたもの全てを放棄して。
それも、魅力的なもののように思えるけれど。
「そろそろ……なるかが起きる頃かしら」
今はまだ、友人の方が大事。
きっとあの子は、彼がいなくなったと知ったら――大変なことに、なってしまうから。
「今はまだ……ね」
待っていて、と一言残して。
誓子は、屋上を後にした。
「もしかしなくてもさ――京太郎って、ユキのことが好きだろ?」
先輩に、そう言われてから。
何故か、彼の顔を直視できなくて。
「ん? ユキ、その眼鏡は」
「ええ……コンタクトを、忘れてしまって」
厚いレンズを通したからって、それが変わるわけがないのに。
「へぇ……何だか、懐かしな」
「……そう、ですね」
彼の言う通り。
出会った頃の私は、この大きなレンズの眼鏡をかけて。
髪型も、もっと野暮ったいもので。
「……うん。やっぱり、そっちも俺は好きだなぁ」
それでも――彼は、その頃から、側にいてくれて。
私を、助けてくれました。
私が持っている、今の私への自信。
それは、先輩たちが私をコーディネートしてくれたお陰。
「……須賀くん。少し、買い出しに行きませんか?」
「お、いいぜ。荷物持ちなら任せとけって」
思い出すのは、一緒にプリントを運んでいたあの頃。
あの時みたいに、二人で並んで歩くのは久しぶりだけど。
「ふふ……頼もしい、ですね」
今は――ほんの少し、一歩分。
先輩がくれた自信の分だけ、あの時よりも、近付いて。
ゆっくりと、私たちは、歩いて行きました。
「絹が……京太郎に?」
「
お姉ちゃんに教えて貰うより……私のが、京太郎くんも嬉しいやろ?」
自分を挟んで睨み合う姉妹。
「あら~末原ちゃん、今日は言わへんの? 凡人やって」
「ふん……からかうばかりでまともな指導もできない代行は黙ってて貰えます?」
自分を挟んで罵り合う、大将と監督代行。
いつから、この麻雀部はこんなに刺々しい空気になったのか。
はぁ、と深い溜息を吐いて。
同じく深く溜息を吐いた――由子と、目があった。
――今度、一緒にお茶しません?
――いいけど、みんなにはナイショなのよー。
苦労人同士――確かに、心が通じ合った瞬間だった。
由子が部室の戸を開けた瞬間――肌を刺すような空気を感じて、思わず数歩後退りした。
普段とは異なる――いや、普段は自分を避けて通る刺々しいモノの全てが、今は自分に向けられている。
「とんだ、食わせもんやなぁ……」
由子は、全て理解した。
彼と一緒にお茶したことが、何故かバレてしまったことを。
「……はよ、こっち来いや。ちいと、話をするだけやん」
自分は、彼にその気はない。
友人としては好ましい相手であるが、恋愛対象ではない。
「汚らしい……」
だが、それを行ったところで――彼女たちは、絶対に納得しない。
仲が良かった彼女たちの敵意の視線。
それに、彼女が耐え切れる筈もなく。
「い、嫌……」
「あん?」
「嫌っ!!」
何もかもを投げ出して、彼女は全力で逃げ出した。
二度と自分が、部室に入れなくなることも理解して。
「ええ……はい。俺も、それは――」
また、お姉ちゃんと電話で話してる。
そんな遠くにいる人より、ここにいる私の方がいい決まってるのに。
「……俺も、愛してますよ。照さん」
京ちゃんは、いつも放課後になるとお姉ちゃんに電話をかける。
会いに来れないあの人よりも、私ならそんなのに頼らなくたって、いつでもお話できるのに――
「そりゃ、お前が携帯もロクに使えないからだろうがっ」
「あぅっ」
グシグシと乱暴に頭を撫でられて、咲はカクンと膝を崩した。
ジト目で彼を見上げても、やれやれと溜息を吐かれるばかり。
「たく、お前がポンコツ過ぎなきゃなぁ……」
「もう、また馬鹿にして」
「事実だろ」
「あたっ」
少し強めのデコピンを受けて、咲はよろめいた。
彼が東京に引っ越さず、遠距離恋愛を続けている理由。
それは、この幼馴染みが危なっかし過ぎて目が離せないからなのだが――
「もう……今度こそ、お姉ちゃんから京ちゃんを奪ってやるんだからっ!!」
「はい、はい」
――知らぬは、本人ばかりである。
話がある、そう言って部屋に訪れてきたのは良子だった。
その雰囲気からして立ち話では済みそうになく、京太郎は良子を部屋に通すと備え付けのコーヒーを二人分淹れた。
「すいません、夜に……」
「いいって」
ソファに座らせた良子の前のテーブルに、カップに注いだコーヒーを置く。
芳しい香りが立ち上るカップを、良子はじっと覗き込んだ。
「……先生」
カップを手に、逡巡して。
コーヒーが少し冷めた頃に、漸く良子は再び口を開く。
「赤阪監督から……昔の話を、聞きました」
京太郎は、ピクリと自分の眉が動いたのを感じた。
赤阪郁乃の名前が、目の前の教え子の口から出て来るとは、思わなかったからだ。
「昔の、話……か」
「……はい」
それはきっと、自分が堕落しきっていた頃の話だろう。
小鍛治プロに惨敗して、何もかもがわからなくなった頃。
あの頃の自分は――郁乃がいなければ、どこかで野垂れ死にしていた。
「それは……本当、なのですか」
「……」
「彼女の……彼女の言っていたことは……本当、なんですか?」
教え子には、誰にも伝えていなかった話。
大人でも――あの時の自分を知るのは、貴子しかいない。
「……本当だ」
「……」
「彼女の――郁乃さんの言ってたことは、本当だよ」
どんな話を聞いたか聞かないうちに肯定するのはどうかと
例えば本物の京太郎は死んでいて今いるのは実年齢8歳のクローンでしたといくのんが言ってたらどうするww
などと不安を紛らわせてみたり
安価なら下
「牌を握るのすら、怖がっていた……と?」
「……あぁ」
「そんな……」
良子の手が、震える。
白いカップの中に、黒い波紋が生まれる。
「どうして……私を、頼ってくれなかったんですか」
ポタリと、コーヒーに一滴の雫が滴れる。
良子の表情は、俯いてわからない。
「それは……」
あの頃の自分は――何もかもが無気力で。
郁乃の下で休むまで、あらゆるものが抜け落ちていた。
「……一つ、教えてください」
「……」
「私の告白に答えてくれないのは――彼女が、いるからですか?」
「……」
「先生!」
シロ。淡。良子。貴子。そして、郁乃。
自分を求めてくれる女性は、たくさんいて。
「俺、は……」
――ずっと待ってたんよ。京ちゃんを
「……あぁ」
「……」
「そうだ、俺は」
「彼女に……郁乃さんに、答えを出さなきゃ、いけない」
「……なるほど」
京太郎の答えに、良子はその身を震わせる。
口調は、冷静なものを取り繕うとしているが――奥に隠れた激情が、隙間から見えている。
「良子……」
「……なん、だ」
「あの人の、言っていた通りですね――私は」
――あの人の格好いいとこしか、見とらんもんなぁ
――そんな人に……資格が、あると思うん?
「……あぁ」
郁乃の言葉が、胸のうちを抉る。
彼への憧れが、自信を持っていた想いが、削られていく。
「……それ、でも」
良子は、諦められない。
「私は、諦める、なんて――」
長く想い続けてきた気持ちは――まだ、捨て切れない。
例えそれで、誰かが悲しい想いを、してでも。
翌日。
朝の10時頃、携帯の着信が鳴り響く。
かけてきた相手は、教え子の一人。
恐らくは個人戦に向けての調整だろうと、京太郎は通話ボタンを押して――
「はい、須賀で――」
「先生っ!」
――電話口からの余りの大声に、耳を押さえて目を瞬かせることになった。
酷く焦った声の呼び出し。
朝からの剣呑な雰囲気に、京太郎は眉を顰めた。
「……染谷、一体どうした?」
「すいません、でも、久のやつが――」
「久……竹井に、何かあったのか?」
「はい……兎に角、はやくきてください!」
通話を切り、携帯のポケットにしまう。
嫌な予感が、胸を過ぎった。
清澄の泊まる宿泊所では、まこが酷く焦った様子で京太郎を待っていた。
「……染谷、何があった?」
「あ、先生……それが――」
久の様子が――酷いことになっていると、まこは言った。
決勝戦が終わった後。
中堅戦で、稼いだ点数で洋榎に負けた時から――彼女は、おかしくなってしまった。
「爪を、噛むんです」
「……爪を?」
「はい、それから――自分は、先生に、相応しくないって」
「……」
「それが……今朝は、特に酷くて……」
「お願い、します」
「多分、先生しか――今のアイツを慰められる人は……いません」
久がいる部屋の前まで行くと、優希と美穂子が心配した顔で戸の前に立っていた。
咲と和は、この場にはいないようだ。
彼女たちは京太郎の顔を見ると、少し複雑そうに眉をひそめて――深く、下げた。
「竹井……入るぞ?」
ノックをしても、返事はない。
少し間を置いてから、京太郎は戸を開けて久のいる部屋に足を踏み入れた。
久は――すぐに、見付かった。
部屋の隅に、布団の上で、蹲っている。
「……」
久は、まだ京太郎には気が付いていない。
虚ろな目と、少し痩けた頰、小さく開いた口はしきりに何かを呟いている。
そして、両手の指先には――全てに、包帯が巻かれていた。
今朝、という話からして新しく巻かれたものの筈だが――全てに、赤黒い染みがついている。
「……竹井」
久は、酷く追い詰められている。
京太郎は、彼女に――
京太郎は、静かに久へと歩み寄った。
「私は、相応しく……ない」
彼女の、自分を責める声が聞こえる。
団体戦での敗北は――深い傷となって、彼女の胸に残っていた。
「竹井」
「……ぁ」
声に反応して。
ようやく、彼女はこちらに気が付いた。
「あ」
虚ろだった目が、徐々に開かれて。
久の瞳が、京太郎を映した。
「ああ……」
「竹井、お前――」
一歩、京太郎は久へと近寄る。
それが、きっかけとなったのか――
「あああああああああああぁぁぁぁっ!!」
彼女は、酷く取り乱した。
手足を滅茶苦茶に振り回して、自分を傷付けて。
赤い染みが、白いシーツの上に点々と増えていく。
「竹井っ!」
黙って見ているわけには、いかない。
「話を、聞いてくれっ!」
「……ぁ」
身体中を、真っ赤に染めて。
久を抱き止めるように、京太郎は彼女を取り押さえた。
「先……せぇ?」
落ち着いた、と言っていいのかはわからない。
けれど、彼女の動きが止まったのは、確かだ。
「先生……私、私……」
「……大丈夫。ゆっくり、落ち着いて」
息を切らしながら、久の頭を撫でてやる。
密着している彼女の呼吸が、徐々に緩やかなものになっていく。
浅く乱れていたものから、深くゆっくりしたものに。
「先生……」
「……」
「私……」
「私、負けたんだ」
「私、部長なのに」
「……」
「あなたみたいに、なりたくて……部長に、なったのに」
「……」
「でも――私、愛宕洋榎に負けた」
白いシーツに、京太郎のシャツに、赤い雫と透明な雫が染み出していく。
「……私、だめなの……こんなので、先生の、教え子なんて――」
「……そんな大したものじゃないよ。俺は」
その言葉に、久は少しだけ驚いた顔を見せ。
京太郎は、彼女の頭を撫でてから、短く息を吐いた。
「嘘……だって」
「……」
「先生は、凄くて……。強くて、大会だって……」
「なぁ、竹井」
「……」
「今のお前さ――何というか、少し似てるんだよ。昔の、俺にさ」
最終更新:2026年01月05日 21:38