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思いもしない憧れの人の台詞に――久は、言葉を失った。

京太郎は、また一つ息を深く吐いて、口を開く。


「小鍛治プロに惨敗した試合――勿論、知ってるだろ?」

「……うん」

それまで順調に勝ち星を連ねて来た彼が、酷い敗北を見せた試合。

それから暫くの間、彼は公式戦から姿を消したが――


「……でも、先生は……リベンジだって」

「うん……でも、負けて暫くは、本当に酷かった」


今まで信じてきたものは、全てが折れた。

牌を握ることすら怖い。

何もかもが、どうでもいい。


「自暴自棄……っつーのかな」

「……」

「全部、どうでもよくなって――その時に、ある人が助けてくれたんだ」

「……ある、人?」



「言っとくけど――あの時の俺は、本当に酷かったぞ?」

「……」

「格好は酷かったし……なんつーか、一歩間違えたら浮浪者そのものだったし」


本当に。

彼女の助けがなかったら、今の自分はここにいない。


「まぁ……でも、そんな俺を助けてくれる人がいた」

「……」

「彼女に休ませてもらって――俺は、また強くなれたんだ」

「彼女……ね」

「ああ……お前にも、いるだろ? 助けてくれる友達がさ」


必死に自分を連れて来たまこや、部屋の前で信じて待つ少女たち。

あの時、一人になってしまった時に郁乃に救われた自分とは違って――久の周りには、まだまだたくさんの人がいる。


「まぁ……だからさ、その……」


今一締まらない言葉でも、京太郎は久の瞳を真っ直ぐに見て。

思っていることを、伝えた。


「大舞台で負けたくらいで、俺の教え子じゃないってのは絶対おかしいし」

「……」

「ある意味で――お前が、一番俺の教え子っぽいぜ」



その言葉を受けて――久は、ゆっくりと目を閉じた。

それから、暫く二人の間に沈黙が流れる。

時計の音や、外で待つ美穂子たちの焦燥とした様子が伝わってくる。


「……そっか」


目を開けて、ポツリと呟く。


「私、先生の教え子で、いいんだ」

「だから、そう言ってるだろ?」

「……」


両手の指を絡めて、久は微かに俯いた。

何かを考えるように目を細めて、それからふと何かを思い出したかのように口を開く。


「……ねぇ」

「ん?」

「その、先生を助けてくれた人って」

「おう」


「銀色の、イヤリングを持ってる人?」

一緒、彼女の言うことが理解できず怪訝な表情を浮かべてから。

すぐに京太郎は、焦ったように目を見開いた。


「お、お前……どこで、それを?」

「ふふっ」


さっきまで格好付けて決めていた人の、慌てる姿。

それが妙におかしくって、久は吹き出すように笑った。


「ナイショ……だけど先生、あんまり無防備すぎちゃダメよ?」

「あー、もう……」

「あはっ」


最後に笑ってから、久は布団に体を任せた。

疲れた体は、柔らかい布団によく沈んだ。



「あ、竹井。寝る前に綺麗にしとかなきゃダメだぞ」


布団も彼女の体も、血だらけで休むには適していない。

弱った体なのだから、尚更清潔にしなくてはならない。

そう告げると、久はイタズラっぽい笑みを浮かべた。


「あ、そうね……じゃあ先生、あなたが体を拭いてくれる?」

「なっ」

「もう随分恥ずかしいところを見られちゃったし――こうなったら最後まで……ね?」


からかうようにウィンクをすると、やれやれだと京太郎は肩を竦めて立ち上がった。


「……福路や染谷にやってもらえ」

「もう、つれないわね」

「10年早いっつーの」


軽く体を叩いて埃を払い、京太郎は部屋から出て行った。

美穂子たちを呼びに行くためだ。




一人、部屋に残されて――久は、深く溜息を吐いた。

色んな人に、迷惑をかけてしまった。


「……ちゃんと、謝らなきゃ」


心配してくれたみんなにも、立ち直らせてくれた恩師にも。

そして――


「名前も知らない……あなたにも、ね」


あの日見つけた、イヤリングの持ち主にも。

久保コーチかと思ったけれど、何となく違う気がする。


「10年早い……かぁ」




彼に対する恋慕と憧れ。

それが、いつからかごちゃ混ぜになって――酷いことになっていたけれど。


「そりゃー……あなたには、勝てないわよねぇ」


彼と私が出会う、ずっと前から。

支えていた人がいたのなら。

私に勝ち目なんて――最初から、あるわけがなかった。


「初恋は実らない……か」


心はもう、落ち着いた筈なのに。

何故か、布団の染みはどんどん増えて。


「ううん……大丈夫、だから」


美穂子たちが来た頃には――もしかしたら私の顔は、先生が来る前より酷くなっていたかもしれない。












ふと、背中から首に回される腕。

密着した彼女の吐息が、うなじの辺りを擽るのを感じた。


「今日は、やけに甘えん坊ですね」

「……ん」


何があったのか、彼女は語らない。

さっきまで部室のベッドで仮眠をとっていたのだから――何か、特別な夢でも見たのだろうか。


「……ちょっとだけ」


こうして部活が始まる前に彼女から甘えて
のは珍しいが、悪い気はしない。

むしろ望むところであり、京太郎は頰を緩めて彼女の頭を撫でた。


「あったかい……」


短い間でも、互いの温もりを味わう二人。


肩口に残った髪の毛から、後から来た部員に妙な勘繰りをされることになるが――それはまた、別の話である。









「失礼しまー……ってなんや、代行おらんのかいな」


洋榎がノックの返事も待たずに開けたドアの先には、誰もいない。

個人戦に向けての話があると郁乃に呼び出しを受けて部屋を訪れたものの、肩透かしを食らった気分になった。


「ん、コレ……って」


手持ち無沙汰にキョロキョロと部屋を見渡して目についたもの。

机の上に置きっ放しのスマートフォン。

画面が点きっぱなしでロック状態になっていないことから、たったさっきまで操作されていたのだろう。


「……ごくり」


色々と謎に包まれている赤阪監督代行――の、スマートフォン。

これを機にあの人のことが色々とわかるかもしれない。

好奇心猫を殺す――とは言うものの、今は警戒心よりも好奇心が上回る。


「さ……さきっちょだけ、やん?」


そして、その行為を咎める者もいない。

洋榎は一切の躊躇いなく、机に置かれているスマートフォンに手を伸ばし――


「こういう時の定番は――まず、メールからや」


自分で決めた独自のルールに従って、メールの履歴を辿っていく。

仕事ではない、プライベートの時の郁乃はどんな文章を書くのだろうか。

少々品の悪い笑みを浮かべて、洋榎は郁乃のスマートフォンを操作する。


「んー……意外と面白味は……お?」


ピタリと洋榎の指と目が止まる。

『京ちゃん』と書かれた連絡相手。個別に作られている保存フォルダ。

その相手は間違いなく、洋榎の敬愛するセンセイだろう。


「あー……そういや……」


郁乃と京太郎は何かしら関係があるらしい……が、彼が姫松にいた時はその詳細について全く知ることはできなかった。

謎に包まれた先生と監督代行の関係。

今ならそれについて知ることが出来る。


「……ていっ」


洋榎は少しだけ間を置いてから、勢いよくメールを開く。

怖いものなど知らないというように、今まで知ることのなかった彼の過去に、片足を踏み入れた。





新しいシャツとジャケットを袖を通し、京太郎は一息ついた。

今朝に着ていたものは、久を落ち着かせる時に血だらけになってしまったために、今までの礼と詫びを兼ねてまこが買って来たものだ。

最初は断ろうとしたが――店の宣伝を手伝ってくれた時の謝礼とまで言われて、素直に受け取ることにした。


「……ふぅ」


――さて。

久は現在、疲れて眠っているが――




布団で眠る久の表情は安らかだ。

少し顔色が悪いが、それはこれから良い物を食べてしっかりと休めば治っていくだろう。


「お疲れさま――お?」


最後に一言声をかけて、ホテルに戻ろうとした時。

寝相なのか――彼女にジャケットの端を掴まれてしまった。


「……やれやれ」


久を起こさないような指を解くのは簡単だが、それはやってはいけない気がする。

京太郎は腰を降ろして、もう少しだけ彼女の寝顔を堪能することにした。


「あったかい……」

「そりゃ良かった」






「……先生」

「弘世か」


ホテルへの帰宅途中、京太郎は誰かを探している様子の菫に遭遇した。

優勝校の部長である彼女だが、今はその表情に陰りが見えている。


「淡を……知りませんか?」

「……大星を?」


淡も個人戦に向けて忙しい――筈だ。

あの時の宣言を、今でも本気にしているのなら。


「はい……なんでも、先生のところに行くと……」

「……」


頭に過る、淡の去り際の笑顔。

想起するのは、頰に残った小さな感覚。


「……先生?」


「先生も、淡を探してくれませんか?」

「……ああ、わかったよ」


どの道、淡には言わなきゃならないことがある。

もしかしたら、シロの時のようなことが起きるかもしれないけれど――そうしたら、シロの時のように何とかするしかない。

怖がっているだけでは、ただ問題を先延ばしするだけだ。


「私は、もう少しこの辺りを探します」

「じゃあ、俺は向こうを」


菫と別れた後で――京太郎は、携帯を取り出した。










淡「コスモミラクル!」

「エスペシャリー!」

誠子「ぐわーっ!!」


ノリノリで見知らぬ男の子とポーズを決める大将。

そして、同じくノリノリで吹っ飛ぶフリをする副将。


菫「……なにやってるんだ、お前らは」


インターハイまでもう時間が無いというのに、この後輩たちは何をやっているのか。

部室の戸を開けた瞬間に飛び込んできた光景に、菫は目を閉じてこめかみの辺りを抑えた。

淡「あ、センパイ」

誠子「あ……すいません、ちょっとコレには込み入った事情が……」

菫「……ほう?」


――曰く、あの小さな男の子は須賀京太郎である。

言われてみれば、可愛らしい顔の中にどこか面影があるように見える。

何でも、風邪薬の副作用で身体が縮んでしまったとのことだが――



照「美味しい?」

「うん……お姉ちゃん、好き!」

照「……」ぐっ

尭深「こっちの羊羹もどうぞ」

「わっ……ありがと、お姉ちゃん!」

尭深「ふふ……どういたしまして」



菫「……まぁ、それが本当のことでも。練習の邪魔になるなら外で遊んでもらわないとな」

淡「えー?」



誠子「ま、ですよねー……」

淡「どーしても?」

菫「ダメなものは、ダメだ」


じぃっと、淡が懇願の眼差しを向けてくるが却下。

遊んでいられるほど夏のインターハイに余裕はない。


淡「そっかー……じゃ、きょーたろー!」

「なーにー?」

淡「あっちで一緒にあそぼー!!」

「うん!」

菫「待て、ちょっと待て」


まさかの言葉に慌てて二人を引き止める。

流石に大将を抜いて練習を始めるわけには――


「う?」

菫「……うっ」


――くりっとした、丸い瞳が菫を射抜く。


「おねーちゃん、だれ?」

「お、おねえ……ちゃん?」


――小さな口が、自分を呼ぶ。


「いっしょに……あそぶ?」

「あ……あぁ」


――そうか。

私は、今この時のために――


誠子「……先輩?」

菫「はっ……んん、コホンッ」


菫「ま、まぁ……うん。たとえ小さくても彼も部員だ。ここにいてもらわなくてはな」

淡「やたっ!」

「わーい!!」


後輩と同期の呆れた視線には――全力で、気が付かないことにする。

こうして――白糸台麻雀部の、少し変わった一週間が幕を開けたのである。








「せーんせっ」

「うぉっ」


唐突な背後からの衝撃に、京太郎は携帯を片手につんのめった。

菫の姿が見えなくなった瞬間に、である。

もう振り向かずとも、その相手が誰かはわかる。


「……いたのか、淡」

「だってー……うちのミーティングより、せんせーに教えてもらった方がいいんだもん」


どうやら、淡はずっと近くに隠れて様子を伺っていたらしい。

菫が去った途端に出て来たあたり、今までのやり取りもしっかりと見聞きしていたのだろう。


「ねね、また私に色々教えてよ! ネトマじゃなくてさ!」


グイグイと、ジャケットの袖を引っ張る淡。

京太郎は、淡に対して――



「……そうだな。俺も、淡に話がある」

「話? なになに?」


キラキラと、瞳を期待に輝かせる淡。

……だけど、今から彼女に伝えることは、本当に残酷なことで。


「……少し、場所を変えよう」


本当に申し訳なく思うが――避けては、通れないこと。

京太郎は、淡を連れてその場から離れた。


「……」

京太郎は、淡を連れて自分の泊まるホテルへと戻ってきた。

トシに連絡をしているので、宮守のメンバーと鉢合わせをする心配はない。


「ほぇー……」


部屋の中を、キョロキョロと見渡す淡。

時に目新しいものが置いてあるわけではないが、彼女にとっては新鮮なのだろう。


「それで、話って?」

「……」

「せんせー?」


「……淡」


「俺は――お前の気持ちには、応えられない」



一瞬、淡は何を言われたのかわからないという顔を浮かべて。


「……せんせー?」

「慕ってくれるのは、凄く嬉しいよ……けど、応えるわけにはいかないんだ」

「……」





「……私、フラれたの?」


何度か瞬きをして、少し間を置いてから、淡は再び口を開いた。


「……なんで」

「それは」

「私のことが好きじゃないから? なら、もっともっと、私がんばるから」

「……違うんだよ」

「他に、好きな人がいるの? 私よりも、もっと好きな人?」

「……あぁ」

「その人よりも……私を好きになっちゃダメなの?」


淡が、俯く。

いくつもの透明な雫が、カーペットに染み込んでいく。


「……ヤダ」





「ヤダ! 私、ヤダ!」


「がんばったもん! 私、がんばったもん!!」


「バカみたいじゃん! 私、ヤダよ!」


「せんせーのために、私がんばったのに!!」


「もっと頑張れば、私を見てくれるって!」



「私だけを! 見てくれるって――!!」



感情を爆発させて、淡は泣きじゃくる。

幼子のような彼女に、京太郎は――




京太郎は、淡を両手で抱きしめた。

胸元に彼女の涙が染み込み、少しくぐもった泣き声が聞こえてくる。


「……ほんとーに、ダメなの?」

「……ごめんな」

「せんせー……」


ぎゅうっと、淡が京太郎の腰に両手を回す。

爪が痛いほどに、背中に食い込む。


「……もう」

「……」

「もう、ワガママ言わないから」


「今……今だけは、もっと」



「こう、させて……?」


何も言わず――京太郎は、淡の頭を撫でた。



ごめんなさい。

真っ赤に泣き腫らした目で、淡は最後にそう言って、京太郎の部屋を後にした。


「先生、淡が――まだ、戻ってこないんです」


菫からそう連絡があったのは、淡が部屋を出てから大分経った後だった。



日の沈みかけた頃、ふらふらと街の中を歩く。

インターハイ会場からも、宿泊先からも大分遠い。

きっとここなら、友だちも知り合いも誰もいない筈。


『間もなく、電車がまいります。黄色い線の内側まで――』


もう、ワガママは言わない。

せんせーを、困らせたりもしない。

だから――



「さよなら」







たったの数秒後に、たったの数歩。

それだけで、私はさよならできる。

最後に、せんせーのあったかさを覚えたまま。

段々と近付いてくる音と光。


「……」


私は。

最後に、せんせーの顔を思い浮かべて――


「ちょい、待てや」


ぐいっと。

誰かに、手を強く引っ張られた。





後ろで、電車が止まる音がする。

ドアが開いて、すれ違うように乗客たちが降りていく。


「なんや、センセと二人っきりでおかしいと思ったら……」


赤い髪のポニーテールに、特徴的な垂れ目。

関西弁の女子が、淡の手を掴んだまま淡々とした口調で話す。


「なにしとんねん、お前」


静かに、それでも確かな怒りを瞳に宿して。

問いかけてくる少女に、淡は――


「……だれ?」

「んなっ」



関西弁の女は淡のことを知っているらしいが、淡には目の前の女の記憶はない。

変なヤツに腕を掴まれている、その程度の認識だ。

そして――


「……離してよ」

「ん、まぁ……ソコの電車が行ったらな?」


この女は、淡の意図も理解している。

強引に振り解こうとしても、女はそれ以上の力を込めて淡を引き留める。


「……」

「……」


睨み合いが続き、その間に電車は次の駅に向けて走って行った。

降りた乗客たちも、改札口に向かって行った。

駅に残されたのは、淡と女の二人だけだ。

「なんで、邪魔すんの」

「なんでって、そら――」


ようやく、掴まれていた腕が解放された。

指でポリポリと頰をかき、淡を睨み付けながら女は静かに口を開く。


「先生に、迷惑かかるからに決まっとるやろ」

「っ!」

「お前の自己満足であの人に面倒かけるとか――許せるわけ、ないやん」


何も知らないクセに、知った風な口を利く女。


「……あんたに、なにがわかんのっ!?」


淡々とした口調だが――それだけに、その態度は淡の激情を駆り立てる。

怒りのままに淡は女の頰を叩き、喚き立てた。

自分の気持ちが否定された悲しさを。

温めてきた想いが、叶わないと知った時の想いを。

目の前の女が、理解できる筈もない。


「……ああ」


しかし。


「痛いほど……うん、このほっぺの痛みくらい、よう分かるわ」


目の前の女は、赤く腫れた頰を押さえながら頷いた。

息を荒くする淡を、見透かすように見詰めながら。

「センセに、フラれたんやろ?」

「……」

「うちも、同じや」


フン、と女は鼻を気に食わないと言わんばかりに鳴らした。

この女は、淡と同じように先生に憧れて、そしてフラれたのだという。


「……なら、邪魔しないでよ」


気持ちが理解できるなら。

止めないで、そのまま行かせて欲しかった。

あのままなら、先生の温かさを覚えたままで、さよなら出来たのに。


「……ハ」


そんな、尊い淡の気持ちを。

女は、鼻で笑った。


「お前――それでも、あの人の教え子か?」

その言葉に、落ち着きかけていた心が再び掻き立てられる。

その言葉は、その言葉だけは、絶対に許せない。


「……ふざけんな」

「ふざけてんのはどっちや」

「私に、負けたクセに」


よく見れば女が着ている制服は、姫松のものだ。

決勝でなす術もなく負けた、その程度の高校。

負け犬の分際で、その言葉を口にするのは――絶対に、許すわけにはいかない。


「……勝ち逃げとか、尚更許さへんし。個人戦じゃあうちが勝つに決まっとるからな」

「……負け惜しみ」

「なんとでも言え。どの道、このままならうちの不戦勝や。優勝はもろたで?」

「……」


「……フン。あの人の教え子っちゅーなら、たった一回折れた程度で諦めんなや」




「……意味わかんない」


それだけを言い返して、淡はくるりと踵を返した。

この女の言うことを聞くわけじゃない。

ただ――ここまで言われっぱなしで、やられっぱなしなのは許せない。


「……100回倒して、100回泣かす」

「やれるもんならな」

「……」


それで、会話はお終い。

淡は振り返らず、女も引き止めず。

駅には一人、女だけが残された。

「……はあぁ」


淡の姿が見えなくなった頃に。

女――洋榎は盛大に息を吐いて、がくりと肩を下げて力を抜いた。


「……らしくないにも、程があるねんけど……」


郁乃のスマートフォンから、彼の過去の一部を知り。

確かめようと部屋を出た先で、大星淡と先生が話しているのを見た。

どうしても気になって、尾行したら二人でホテルに入っていって――少ししたら、淡が一人で出て来た。


「あーぁー……」


淡は先生にフラれた。

そして、自分も似たような立場だというのに――


「……なんやねん、ホンマ」



ホームのベンチに、ぐったりと寄りかかる。

今は、もう少しだけ休んでもバチは当たらないだろう。


「……ぁ」


ようやく落ち着いたところで――ふと思い出すのは、郁乃の呼び出しをすっぽかしたということ。

それも、無断で。

洋榎は恐る恐る携帯を取り出し――溜まったメールと着信履歴に、顔を青くした。


「……メゲるわ」


つい、口から溢れた言葉。

同級生の気持ちが、少しだけわかったような気がした。



インターハイのために、遠路遥々東京にまでやって来た千里山麻雀部。

恋も麻雀も絶好調、後に狙うは優勝のみ。

強い意気込みを見せる部員たちだが――ここで一つ、問題が発生した。

それは――


竜華「き、京くーん……?」

京「っ!」サッ

浩子「あーらら……」


――何故か。

彼――須賀京太郎が、小さな子どもになってしまったこと。

泉「にしても須賀くんって……ちっちゃい頃は内気な子だったんですねぇ」

怜「さっきから逃げまくりやしなぁ……」


小さくなった彼とも打ち解けようとジリジリにじり寄る竜華に、浩子の陰に隠れる京太郎。

部活を差し置いて、かれこれ一時間はこの鬼ごっこが続けられている。


セーラ「オレでも駄目だったしなぁ……何でフナQは平気なんや?」

浩子「あー……多分、それは――」


雅枝「何の騒ぎや、一体」ガラッ


泉「あ、かんと――」

京「おかーさんっ!」


泉「――へ?」





部屋に入ってきた雅枝を見るなり、顔をほころばせて雅枝に駆け寄る京太郎。

対して雅枝は、ほんの一瞬だけ驚いたように目を見開き――京太郎が駆け寄ってくると、直ぐに身を屈めて彼を両手で抱き締めた。


雅枝「おー、よしよし」ナデナデ

竜華「か、監督……? おかーさんって、その」

雅枝「ん……なんちゅーか、京太郎の家庭事情はちと複雑でなぁ……ちっこい頃はよくウチで面倒見てたんやけど……ふむ」

泉「……監督?」


雅枝「京太郎……私な、ちょっとお仕事行かないとダメなんよ」

京「……」

雅枝「でな? その間、ここでこのおねーさんたちと一緒に仲良く待っててもらえるか?」

京「……うん」

雅枝「ん、いい子や」チュッ



雅枝「ちゅーわけで。私は仕事あるし……ついでに京太郎がこないなった原因も調べてくるから。その間の京太郎の面倒、頼んだで?」

竜華「は、はい!」

雅枝「練習もしっかりな。それじゃ、行ってくる」

京「いってらっしゃいっ」



雅枝が部屋を出て行って、取り残された彼と千里山の部員たち。

果たして京太郎は元に戻れるのか? 竜華たちは彼と仲良くなれるのか?


竜華「……ゴクリっ」

京「っ!」


千里山麻雀部の、奇妙な全国大会が始まろうとしていた――。









あの後、菫から連絡があり、夜遅くに淡が帰ってきたとのこと。

それも、何故か個人戦へのやる気を今まで以上に引き上げて。


「ふむ……」


もう間も無く、個人戦は始まろうとしている。

インターハイ女子の部。

団体戦は白糸台が優勝したが、個人戦では誰が勝つかわからない。


誰が勝つのか、どのような結果が待つのか。

彼女たちの練習に関わった身としては、先は非常に興味深いが――



「ちょっとはマシな面になったねぃ」

「三尋木プロ」


相変わらず扇子で口元を隠しながら、咏が話しかけてきた。

途中まで団体戦の解説役を務めていた彼女だが、今は別のプロがその役目を担っている。

そのため、今の彼女は暇を持て余しているのだろうが――


「……で」

「はい?」

「考えといてくれたかい? あの話」

「あの話……って――」


――婿養子って興味ない?


「で。どうなのさ」

「……どうと言われましても。それにはお応えすることはできませんよ」


「そ。なら仕方ないねぇ」


やけにあっさりと、咏は退いた。

やはり、あの言葉は彼女なりの冗談だったのだろう。

広げた扇子で自分に風を煽る咏に、京太郎は苦笑した。


「それじゃあ、俺はここで」

「ん、なんか仕事?」

「いぇまあ、仕事といいますか……」

「……」

「……個人的な用ですが、とても大事なものです。絶対に、やらなきゃいけない」

「……そうかい」


咏に軽く頭を下げて、踵を返す。

待ってくれていた彼女に、答えを出さなければ――


「多少、強引でも――やむなし、かぁ」


一瞬の浮遊感と、首筋に何かの衝撃。

霞む視界の中で――が何か口を動かしているのを最後に、京太郎は意識を失った。



ほんの少しだけ――彼には、眠っていてもらう。

逃さないように。邪魔をされないように。

彼の閉じた瞼を愛おしげに撫でて、咏は微笑む。

あとは――


「……先生から、離れなさい」


邪魔なヤツを、排除するだけ。

「先生……ふぅん、あんたも先輩の教え子なのかい」

「……」

「まったく、やれやれ……罪な男だねぃ」


答えず、彼女――戒能良子は、一歩踏み出す。

その瞳は、咏と同じだ。

彼への、強い執着を宿している。


「……離れろ」

「そいつは――できない、相談だよ」


彼女が、その手に持つもの。

灯りを受けて、白く光る刃。


咏は、静かに扇子を閉じた。

良子が、ナイフを。

咏が、短刀を構えて。


人に突き立てれば、簡単に命を奪えるそれを。

彼女たちは一切の躊躇いもなく、相手に向けて――



短刀は、良子の胸に深く突き刺さった。

ナイフは、咏の喉を一文字に切り裂いた。


「……あ」


するりと、良子の手から落ちたナイフが彼の頰を切り裂く。

赤い一筋の線は、まるで涙のようにも見えて。


「……せ……」


最期に。

白い指が、彼の頰を撫でた。

個人戦に出ている彼女たちは、今ここで起きたことを知らない。

先生が見てくれていると信じて試合に挑む彼女たちは、この場を見る事が出来ない。


だから。

胸騒ぎを感じても、この場に来ることが出来たのは、彼女だけ。

「だから、言ったのに」


「みんな、京ちゃんを傷付けるって」


「私だけは、京ちゃんを守ってあげるって」




「なぁ、京ちゃん」

「もう……無理や。こんなん、見たら」



「もう――絶対、離さへん」




「ずっと、ずぅっと――いっしょやで」

「嫌なことは……全部、忘れるとええよ」


「ふふ……」



「私だけが、側にいてあげるからなぁ?」



【果たせなかった、約束】















「――あ?」


まるで、白昼夢でも見ていたかのような。

吹き出す汗。熱を感じる頰。

気が付けば、ホテルの廊下で一人立っていた。


「……少し、休んでから行くか」



「あっ」

「あ」


ホテルから出て、会場へ向かう途中。

ばったりと、久に出会した。

指の怪我も少しずつ治ってきているようで、顔色も良くなっている。


「こんにちは、先生」

「おう……咲たちは?」

「もう行ってるわ。私はちょっと忘れ物しちゃったから」

「そうか……」

「……先生、大丈夫? 顔色悪いけど」

「いや……大丈夫だ」


不快感は未だ胸に残るが、無視すれば問題ないレベルだ。

とはいえ教え子に心配をかけさせたのは事実であるため、京太郎は少し気を引き締めた。


「そう……なら、いいけど」

「ああ……」


二人並んで、会場までの道を歩く。

久は個人戦には出ないが、いよいよ終わりが近付いているインターハイに向けて何か感じるものがあるのだろう。

平静を装っているが、どこか緊張しているように見えた。


「……ね、先生?」

「ん?」

「私ね――先生に会えて本当に良かったって、思ってるの」

久が、京太郎よりも三歩先に踏み出す。

その表情を見ることはできないが――耳が少し、赤くなっているようだ。


「んー……唐突だけどさ、言っておきたくて」


「私ね、先生に憧れてここまで来たから」


「画面の中じゃなくて、本物に触れて」


「……」


「うん」


くるりと、久が振り返る。

朱に染めた頰で、はにかみながら。


「私の大好きな先生――本当に、ありがとうございました」


「あは、それじゃ――私は行くからっ」


恥ずかしいのか、久は再び踵を返すと京太郎を置いて駆け足で会場へと向かって行った。

京太郎は段々と小さくなる後姿を見送りながら、照れ臭そうに頰をかいた。


「……俺にも、お礼を言わせてくれよ」


担当した高校の全てに、個人戦出場選手がいる。

まったくもって、誰を応援すればいいのやら。


「……本当に、贅沢な悩みだよなぁ」


こうして個人戦出場選手のリストを眺めるだけでも、教え子たちの優秀さに驚かされるばかりである。


――先生に会えて、本当に良かった


さっきの久の言葉を思い出しても、頰が緩む。

勧められるままに始めた麻雀講師だが、本当にやりがいのある仕事だ。



「……始まりますね」

「……貴子」


開始まであと間も無く、というところで話しかけて来たのは――かつての恋人。

彼女は少し寂しげに微笑みながら、掲示されている個人戦出場者のリストを見上げた。


「……長野では負けましたが、今度は勝ちますよ」

「……あぁ。だけど、こっちだって負けちゃいないぜ?」


風越からの出場者であり、長野個人戦では三位に食い込んだ福路美穂子。

彼女の対局も何度か見てはいるが、油断ならない相手である。


「……あと」

「ん?」


貴子が、少し目を伏せて――それから、京太郎の瞳を真っ直ぐに見上げて。

その眼差しを揺らしながら、静かに問いかける。


「……先輩は」

「……」

「先輩は……今は……」

「……」

「……いえ」



「先輩は――ここまで来て、良かったって……思っていますか?」


貴子の問いに、京太郎は瞳を閉じた。

思えば――彼女に振られてから、全てが始まった。

拠り所をなくして、我武者羅にやってきて。

小鍛治健夜に敗北して――郁乃に、拾われて。


「……そうだなぁ」

「……」

「色々……うん、本当に色んなことがあったけど」



「……心の底から、思うぜ。ここまで来て良かったってな」

「……そうですか」

「ああ……思えば困ってばかりだったけどさ。みんながいたから、ここまでやって来れた」

「……」


「もちろん――そのみんなの中にはお前もいるぜ、貴子」

「先、輩……!」

もう、彼に迷惑はかけない。

今更、昔の女の顔をして彼に接するなど余りにも図々しい。

郁乃の言う通りだ。

一番彼が辛かった時期に、彼を支えてやれなかった自分。

そんな自分が、また彼に迷惑をかけるなんて。


「せん、ぱい……!」


わかっていても、涙は止まらない。

その言葉に、救われたような気がして。


「……今だけ、だからな」


そんな自分に、彼は優しく頭を撫でてくれた。

ただ、それだけで、良かった。





――団体戦、そして個人戦。

女子高生雀士の頂点を決める大会は、幕を閉じた。

勝っても負けても、それは思い出として一生胸に残り続ける。


「ぜーんぶ、終わってしもたなぁ」

「そうですね……」


夜。

生徒たちが、消灯時間を迎えた頃。

とある駅にて、二人の男女が向かい合う。



「ん……答え、聞かせてくれるんやろ?」

「その前に、一つ」

「ん~?」

「この、イヤリング……あなたのですよね?」

「せやで? 京ちゃんが寂しくないよ~にって」

「はぁ……おかげで、生徒にからかわれましたよ」

「ええやん、この色男~♪」

「まったく……」


「……」

「……」



「色々、考えました」



「みんなのおかげで、俺はここまで来れた……でも」

「……」


「一番は、あなたが――あなたが助けてくれたおかげだって」

「……」


「郁乃さん」

「……」



「これから――これからも、俺をそばで支えてくれませんか?」





「私、嫉妬深い女やで?」

「知ってます」


「意地悪、いっぱいするかもしれんよ?」

「どんとこいですよ」


「……ほんまに、ええの?」

「また、始めましょう」



「……京ちゃん」

「郁乃さん」



――結婚してください。







電灯の下で、二つの影が一つに重なる。

互いの温もりを分け合うように、二度と離れないように。


「……」


そして。

その、重なった影に――



――頰が、焼け付くように痛む。

ぞくりと、背筋に冷たい何かが走った。


「っ! 郁乃さんっ!」

「え?」


咄嗟に彼女を庇い、前に出る。

灯りを受けて、白く光るナイフ。

簡単に人の命を奪えてしまう刃物を持って――かつての教え子が、そこにいた。


「先生……どいて、くれませんか?」

「……その、刃物を捨てたらな」

「それは、できません」


彼女の瞳には、理性は無い。

その歩みの先、刃物を向ける先は――


「戒能プロ……」


京太郎の背にいる郁乃、ただ一人。



「……どうしても。何をしてでも。私は、あなたが欲しい」

「……だからって」

「ええ。わかっています。あなたの心は、手に入らない」


――ですが。


「そこの女に取られるよりは、ずっと良い」


ナイフを躊躇わずに構えて、良子は踏み込んだ。

彼女の瞳に映るのは、郁乃だけ。

ならばせめて、彼女だけは守ろうと、京太郎は一歩踏み出し――



「女々しいんだよテメェッ!!」

「――は?」


京太郎も、良子も、そして郁乃でさえも。

完全に、意識の外からの怒声。

そして、振るわれた拳は容赦なく良子の頬を打ち抜いた。


「がっ!?」


良子の手から落ちたナイフが、ホームの床を跳ねる。

彼女――貴子は、躊躇いなくナイフを蹴り飛ばした。


「た、貴子……!?」

「……すいません。陰から、見てました」


貴子は、蹌踉めく良子を睨みつける。

何度か瞬きをして、良子はようやく状況を理解した。

「あ、あなたも……彼女、に……」

「あぁ……けど、一緒じゃあねえよ」

「そんな……筈、は……」


「手に入るとか、入らないじゃねえだろ……」

「……」

「……好きな人に……」

「あ……」


「先輩に……京太郎さんに、幸せになってもらわなきゃ、ダメだろうがっ!!」


自分と同じ、あの時郁乃に何も言い返せなかった筈の貴子。

けれども、今の彼女は――


「一番、大事なのは……それだろ?」

「……」

「良子……お前は……」


「……わかり、ました」


ようやく、良子は。

どうやっても、彼が手に入らないことに。

例え、郁乃を殺してでも――彼は郁乃のものでしかないことを、理解した。

「……先生」



「私は、その人を殺そうとしました」

「……」

「自首をします……罪を、償います」

「戒能プロ……」


「……良子」

「先生……」

「全部、終わったら……また、色々教えてやる」

「……」

「だから……待ってる。みんなと、一緒に」



「……はい」

先生。


人にものを教えて導く立場でありながら、多くの教え子を悲しませて、歪めてしまった。

その事実は、彼の心を重く縛る。


けれど――


「でも……京ちゃんは、また行くんやろ?」

「うん……大丈夫」

「私が、私たちが――ついとるから」


多くの人が支えているから。

彼は、折れない。

どんな障害があっても、乗り越える。


側に、彼女の温もりを感じている限り。




【いつまでも】










10才にも満たない金髪の少年が、病室のベッドで眠っている。

子どもらしく、無邪気な寝顔を浮かべているが――



病室の戸を開けて入ってきたのは、おかっぱ頭の少女。


「お医者さんの話だとそろそろ起きるらしいけど……」


ベッドに近付き、幼い寝顔を覗き込んでみる。

規則正しい安らかな寝顔を浮かべるばかりで、目覚める気配はない。


「……」


突如熱を出して倒れた――かと思えば、身体が縮んでしまった彼。

マネージャーとして部に貢献してくれた彼の身に何が起きたのかと思えば、何でもおかしな病気で一時的に身体が少年時代にまで遡ってしまったのだとか。


「……」


未だ眠り続ける彼に、灼は――


――とくん、と胸が高鳴った。

熱を帯びる頬。溢れる吐息。

これはまるで、憧れの人の――


「この……胸の、ときめきは……?」


思わず、彼に手を伸ばす。

無防備に、無邪気な寝顔に、灼は――


「……んっ」

「っ!」


彼の瞼が少しずつ動き始め、灼は必要以上に飛び退いた。

破裂しそうな心臓の鼓動を何とか抑え、軽く頭を振る。

……そう。相手は須賀くん。いい人だけど、そういう相手じゃない。

灼が何度も自分に言い聞かせている間に、ゆっくりと彼が目を開く。


「……あれ……?」


変声期を迎える前の前の高い声。

気分はどうかと、灼は問い掛けるべく口を開き――


「……おねーちゃん、だれ?」


――そのまま、固まることになった。

大変なことになったと、灼からの連絡に急いで駆け付ければ――


灼「しかし、ゆーしゃハルエはやられてしまいました。すべてはだいまおうスコヤンのさくせんだったのです……」

京「ハルエ、しんじゃうの?」

灼「大丈夫……ハルエはつよいから」


――そこには、灼の膝の上で絵本を広げる京太郎の姿。

灼が読み聞かせてあげているようで、時折優しげな微笑みを浮かべて彼の頭を撫でているではないか。

果たしてこれは、どこから突っ込んだものか。

憧を始めとした全員が悩んでいるうちに、全員が揃ったことに気が付いた灼が説明を始めた。

……絵本の読み聞かせが終わった後で。


憧「えっと……それって、記憶とかまで若返ったってこと?」

灼「……そうみたい」


ちらりと、憧はベッドに目を向ける。

そこには、足をパタパタさせながら絵本を読む京太郎。

……成る程、確かに見た目だけではなく中身まで幼児化しているようだ。

晴絵「お医者さんから話聞いてきたんだけど……」

灼「あ、ハルちゃん」


――曰く。

彼はいずれ元に戻るようだが、小さくなっている間にやったことは本来の幼児化の記憶と混ざって後の人格に変化を及ぼすらしい。

つまりは――


晴絵「……須賀京太郎、育成計画」


誰かが、唾を飲み込む音がした。






玄「穏乃ちゃんよりちっちゃいんだなー……」


あんなに背の高かった彼が、今や阿知賀で一番小さい存在に。

なんだか新鮮な気分になっていると、彼がトテトテと歩み寄ってきた。

何か用だろうかと、玄は身を屈めて彼に目線を合わせた。


京「おねーちゃん、だれ?」

玄「え、私?」

京「うん」

玄「あ、そっか……記憶ないんだっけ」

京「?」

玄「……うん」


玄「私は――」


――その時、玄の脳裏によぎった言葉。

須賀京太郎、育成計画。

普段から彼を見ていて感じること。

それは、もう少し私に甘えて欲しいということ。

そして、おもちについても色々と教えてあげたい。

ならば――



玄「君のおねーちゃんだよっ」



――自分が、彼のおねーちゃんになれば。

元に戻った後でも、もっともっと自分に頼ってくれるに違いない。

更に、遠慮という壁が無くなればおもちについて好きに語ることができる。


玄は、自信満々に鼻を鳴らした。


京「おねえ……ちゃん?」


よくわからないという風に、小首を傾げる彼。

なんという可愛らしさか。きゅんと高鳴る胸を押さえて、玄は人差し指を立てた。


玄「そう。だから、京太郎くんはもっともーっと、私に甘えていいんだよ?」

京「甘え……?」

玄「うん。だから――」


ぎゅっと、玄は京太郎を抱き締めた。

小さくなった彼は、玄の両腕の中にすっぽりと収まってしまう。

彼を抱き締めた玄は、そのまま耳元に囁きかける。


玄「いつでも、こうやって抱き締めてあげるね」

京「いつでも……」

玄「うん……ずっと」


玄「ずーっと……ね?」




京「おねーちゃん……あつい」

宥「もうちょっと……ね?」


ぎゅうっと、京太郎を湯たんぽの代わりに抱き締める宥。

子ども体温に加えて、彼を抱き締めていると胸のうちからも温かくなってくる。


京「うぅ……」

宥「あったかーい……」


ぬくぬくと内と外から温もりを味わっていると、やがて腕の中から寝息が聞こえてきた。

時計を見ると午後の14時。

宥も、瞼が重くなってくる時間であるが――



宥「ちょっとなら……いいよね?」


そう静かに呟くと、宥は彼の頰に口付けを落とした。

いつもなら恥ずかしくて、とても出来ないこと。

でも……小さくなった彼になら。


宥「ごめんね……でも、今だけだから」


少し、暑いかもしれないけれど。

ちょっとだけ、我慢をしてもらう。

今は素直になれる、数少ない機会だから。





憧「これがアイツ――ねぇ?」

京「う?」


自分を見上げてくるあまりにも邪気のない顔。

よく見れば、確かに面影はある。

よく玄や宥姉の胸をチラチラ見てたり、だらしなかったりするけどたまにイケメンな時もあったりする顔の――じゃ、なくて。


京「おねーちゃん?」

憧「あ、えっと」


くりっとした眼差しが見上げてくる。

そう――須賀京太郎育成計画、とかハルエは馬鹿らしいことを言っていたが。

もしかして、この時に麻雀について、ちょっとだけ教えたりしてたら――




憧「……ねぇ、ちょっとあっちで遊ばない?」

京「いいよ! なにするのー?」

憧「ふふ、ちょっと難しいけど――とっても、楽しいコト」



憧が指差す先にあるものは、前から使っていた自動卓。

京太郎がやる気になっているのを見て、憧は携帯でメンバーを呼び出した――が。


京「ふあー……」

憧「あー……」


少し、やり過ぎた。

頭から煙を出して、グルグルと目を回している彼。

あまりにも素直なモノだから、教えている憧もつい気合いが入り過ぎて――調子に乗ったら、このザマである。


京「くらくらするー……」

憧「あはは……ごめんね。ちょっとお休みしよっか」

京「うん……」


ゆっくりと、彼を椅子から降ろして寝かせてあげる。

彼が大きいままだったら、とても考えられないことだ。


憧「ねぇ、初めての麻雀だけど……楽しかった?」

京「んー……よく、わかんなかった」

憧「そっかぁ……」

京「うー……」


憧「……でも、そうね。頑張ったご褒美に、後でアイス買ってあげる」

京「やった! おねーちゃんだいすきっ!」

憧「ふふ……もう、現金なヤツ」


……そして。

そんな言葉に元気を貰っている自分も、また。


京「はやくいこっ!」

憧「まったくもー……全然元気じゃないの」



――そして。


穏乃「ふいー! 久しぶりに思いっきり遊んだぁっ!!」

憧「うわ、あんた泥だらけ……って京太郎も!?」

京「あしいたい……」


どうやら――穏乃に引っ張られて近所の山を駆け巡って遊んでいたらしい。

走ったり外で遊んだりするのは京太郎も好きだが――いかんせん、穏乃について行くには体力が足りない。


玄「ああ、お風呂に入れてあげなきゃ……」

宥「しっかりあったまらないと……」

憧「そうね。風邪引いたら困るし……」


灼「……で。誰の家に連れてく?」

彼は家庭の事情で一人暮らしである。

アパートから阿知賀学院へと通う日々を繰り返していたが――


憧「……そうね。今は一人で返すなんて出来ないし……」

玄「うちならお部屋に余裕はあるよ?」

宥「……」こくり

灼「……うちも、大丈夫」


――当然、一人で返すなんてのは論外。

ならば必然的に、誰かに家に彼を泊めることになるが――



憧「じゃん――」

玄「けん――」

灼「――ぽんっ!!」


睨み合いが続いた末に、決まった結果。

グーが二人に、パーが一人。

よって――


憧「ね、京太郎。今日はわたしんちに泊まってきなさい」

京「え?……でも、おかーさんは……」

憧「だいじょーぶ。おかーさんから頼まれたの」



玄「私、おねーちゃんなのに……」

宥「あったかくない……」


灼「……悔しく、ない」











ある日の休日――枕に突っ伏すように転寝をしていたはやりは、母親の声で目を覚ました。


「はやりー。起きてるー?」

「うー……?」

「ちょっと、お店番おねがいしたいんだけどー」

「う~……」


モゾモゾと身動ぎするが、中々に起きる様子を見せない。

そんな娘の様子に、美月は仕方ないかと溜息を吐いて――


「はー……金髪のお客さん、待たせちゃってるんだけど――」

「っ!」

「はやっ」


その言葉を聞くなり、勢いよく起き上がるはやり。

眠気に負けていた眼差しは既になく、キリっとした顔付きで階段を降りていく。

慌ただしい足音は、彼女の心の中そのものだ。


「我が娘ながら……」


こんなので元気になるとは、現金なヤツ――と美月は独り言ちて娘の部屋を見渡す。

さっきまではやりが眠っていたベッドの枕元には、いくつかの麻雀牌が転がっていた。

急いではやりが降りていった先には――母の言葉通り、金髪のお客さん。

ショーケースの洋菓子を前に、腕を組んで悩んでいる様子の男の人。


「いらっしゃいませっ」

「お、はやりちゃん」


小さいのに偉いね、と微笑みかけてくる彼。

この人こそ――はやりが異性として憧れる男の人。


「おすすめとかあるかな?」

「はいっ このマドレーヌとか――」


年上のお兄さんの、須賀京太郎だ。










彼と出会ったのは、おばあちゃんのお見舞いに行った帰りのこと。

少し考えごとをしていたら、階段から転げ落ちそうになって――思わずギュッと目を瞑ったら、彼に抱きとめられていた。


「大丈夫? ケガない?」


病院の灯りのせいか、その顔は何だか眩しく見えて――それでも、ずっと見つめていたくなるような不思議な気持ち。


それからずっと、胸の奥がフワフワするというか。

こうして客として訪れてきた彼とお喋りしているだけでも、幸せな気持ちになる。

小学2年生のはやりには、この感情の正体はわからない。

けれども――この時が長く続いてほしい。


そう、思っていた。





「ありがと。また来るよ」

「はいっ! 焼き立ていっぱいつくってますからっ!!」


片手にお持ち帰り用の袋を持ち、もう片方の手でバイバイと手を振る彼を見送る。

店の扉が閉まり、彼の背中が見えなくなって、ようやくはやりは胸を撫で下ろした。


――ちゃんとおでむかえできたかな? また来てくれるかな? こんどは――


「まったく、見事にませちゃってー」

「わっ」


ドキドキが収まらないうちに肩に手を置かれたものだから、落ち着く暇もなくはやりは文字通り飛び上がった。

振り向くと、母が頬に手を当てて何とも微笑ましい表情を浮かべている。


「そ、そんなんじゃないよっ」

「へぇー? じゃあ、どんなん?」

「うっ……」


年齢相応か、不相応か。

どの道、そっちの方向にはまだまだ疎い彼女だった。

また、ある日のこと。


「あれ……は」


おばーちゃんの病室から見付かった忘れ物を受け取りに行った時。

うちの洋菓子店の紙袋を持った憧れの人が、廊下の奥に向かって歩いていったのを見付けた。

その隣に、女の人を連れて。


「……」


彼はまだ、はやりに気付いていない。

そして、その女の人が誰なのか――はやりは、知っている。









用事は済ませたけれど、はやりは家に帰れなかった。

どうしても、彼らが気になってしまったから。

こっそりと、彼らの足取りをはやりは追いかけて。


「あら」


――その先の、病室。

そこには、彼と、一緒に歩いていた女の人と――


「最初の見舞い客はずいぶんとかわいらしいのね」


はやりの心の中を占める、もう一人の人。

はいの

用事は済ませたけれど、はやりは家に帰れなかった。

どうしても、彼らが気になってしまったから。

こっそりと、彼らの足取りをはやりは追いかけて。


「あら」


――その先の、病室。

そこには、彼と、一緒に歩いていた女の人と――


「最初の見舞い客はずいぶんとかわいらしいのね」


はやりの心の中を占める、もう一人の人。

牌のおねえさんこと、春日井真深がベッドに寝ていた。

はやりにとって、春日井真深は不思議な人だ。

落ち込んでる時に元気付けてもらったことがある。

危ないところを助けてもらったことがある。

だが、京太郎と真深が一緒にいる理由は――?


「あれ、はやりちゃん? どうしてここに?」

「あ……」


彼の問い掛けで我に帰る。

そうだ、今は――


「あ、あの……勝手に入っちゃってごめんなさい……っ」


「それと……前は助けてもらって、ありがとうございました!」


勝手に入ってしまったことの謝罪と、助けてもらったことへのお礼をする。

彼と彼女の関係がどうであれ、やらなきゃいけないことはある。

「いいのいいの。偶然の出会いが3回ってことは縁があるってことだし……お見舞いうれしいわ」


何てことのないように、真深は笑った。

京太郎と、女の人――真深のマネージャーも驚いた顔は浮かべているもののはやりを咎める気はないようだ。

はやりはほっとして、もう一つ気になっていることを口にした。


「あの……」

「ん?」

「お二人は、お付き合いしてるんですか?」


京太郎と真深を交互に見渡して、はやりは質問をぶつける。

内側のドキドキを抑えながら、返ってくる答えに耳を傾け――


「いや、ないから」

「即答っすか」

「そうなんだ……」


その返答に――自分でもビックリするくらいにホッとして。

結局はやりは、その日に気が付くことはなかった。

京太郎が、足繁くうちの洋菓子店に通っていた理由を。



その次の日から、はやりは何度も真深の見舞いに行った。

晴れの日には、お店のお菓子を持って行ったり。

雨の日には、てるてる坊主を作りに行ったり。


「外が暗くなってきたな……」

「もう子どもは帰る時間だなー。京太郎」

「はいはい、わかってますよ」


そして、真深とのお話が終わった後には京太郎に家まで送ってもらえる。

真深が入院しているから有り得た時間。

本当は喜んじゃいけないのに――はやりは、この時間が好きだった。


彼女の容態が、悪化するまでは。





――春日井真深が、東京の病院に移った。


はやりの手元に残されたのは、真深に貰った髪飾りだけ。

彼女の連絡先も聞きそびれた。

あの病室での時間は、もう無い。

仕方のないことだ、と理解していても寂しさは拭えない。


「はやり宛に手紙とー……ライブチケットだって」


だから。

その機会が巡って来た時に、はやりは一も二もなく飛び付いた。

こうがんざい。

以前の真深との会話の中で出て来た言葉。

それがどんな薬なのかはやりは知らないけれど――身体にあまり良くないものだ、というのは理解できた。


なのに。


「はやりちゃん」


ライブ会場の控え室で再会した真深は、何てことのないように、はやりの頭を撫でてくれて。


「楽しんでってね」


マネージャーも、京太郎も、真深を強く信頼していた。



「私」


「ちょーがんばるからっ!」



ステージの上の春日井真深は、とてもキラキラしていた。

サイリウムとか、舞台の照明とか、衣装とか――そんなのじゃない。

まるで、春日井真深という人そのものが、輝いているように見えて。


「……すごい」


みんなを元気にしてくれる人。

自分が大変なのに――それ以上に、頑張る人。


「……私も」


――こんな人になりたい。

見ているみんなを、元気にできるような人に。




ライブが終わっても、観客の興奮は収まらない。

勿論はやりもその中の一人。

素直な気持ちをメールに書き出して、手紙に記された連絡先に送信する。


「……返事ないなぁ」


忙しいのか、送ったメールへの返信は返って来ない。

はやりの足は、自然と真深たちのいた控え室へと向かった。

建物の中に入って、少し角を曲がった先。

控え室へと続く廊下で、すぐに真深と京太郎は見付かった。


「……」

「……」


真深は、大分疲れているように見えた。

会話は聞こえないが――二人の口の動きと雰囲気から、真剣な話し合いをしているらしい。

この機会を逃したら、次に会える時がいつになるのかわからない。

はやりは、少し駆け足気味に二人に駆け寄ろうとして――


「あ……ぇ?」


二人が、抱きあって。

映画のCMで見たかのような、キスをしている姿に、足を止めた。



それからはずっと、頭の中がグチャグチャで。

帰りの寝台列車のベッドに包まって目を閉じても、二人の姿が心の中を離れなかった。


――須賀さんは憧れの人。異性として、憧れた人。

――真深さんは憧れの人。同性として、憧れた人。



「ないからって……言ってたのに……?」


あの二人の姿は、夢なんかじゃない。

だったら、真深はウソをついたのか。

答えてくれる人は、いない。

「おかえりー。ライブどうだったー?」

「うん……」


「はやり?」

「うん……」


「……お風呂入る?」

「……うん」



「……疲れてるのかしら?」

「はやりー。ちょっと店番おねがいー」

「はーい」


ある日の休日――ベッドに寝っ転がって本を読んでいたはやりは、母の呼び声で身を起こした。

とんとん、と静かに階段を降りていく。


「……あ」

「やっ」


お店のショーケースの前には――ライブが終わってからずっと会えなかった人。

春日井真深が、はやりを待っていた。

真深と二人で店を出て、近場の公園を歩く。

風も静かで、二人の他に人影は見当たらなかった。


「この前はゴメンね。ライブ終わった後ちょっと色々あって」

「いえ……」


真深と、二人きり。

聞きたいのは、彼との関係。


「まだ病気……のこってるんですか?」


でも――それを口にするのが、今はとても怖い。

もっと前は、すぐに言葉にできたのに。

「うん……手術することになった。もし成功してもしばらく養生だって」


真深が足を止めて、空を見上げる。

彼女が今、どんな顔をしているのか。

はやりには、わからない。


「できれば元気な春日井真深のまま去りたかったんだけどね」

「はやりちゃんとは仲良くなりすぎて話すか迷ったんだけど……今、話しちゃった」


「ゴメン」




初めて聞く、真深の心の底からの弱音。

涙で滲む彼女の瞳。

いつもみんなを元気にしようと、笑顔でいた彼女が。


「死ぬのかな……私」


その姿を見て。

はやりは――やっと、一つの答えを見つけた。


「私が、がんばります!」


こんな人みたいに、なりたい。


「私ががんばって牌のおねえさんみたいになって、みんなを元気にします!」


だって。


「だから真深さんもがんばって! 病気に負けないで!」


こんな人みたいに、なれば――

「もう……完全に負けてたんだけど」


この人が、いなくなった後で。


「はやりちゃん見てたら……また、頑張れそうな気がしてきた」


この人みたいに、彼といっしょになれるから。





はやりは、ずっと笑顔だった。

真深と別れた後も。

そんな人になるために、自分がどうするべきかを、ずっと考えて。

二年経った今でも、それは変わらない。



「頑張れよ」

「はいっ」


彼に頭を撫でて貰いながら、はやりはステージの上に立つ。

お客さんのみんなを笑顔にできるように。


「はーややー! みなさーん! こんばんはーっ!!」


どこか遠くにいる真深に届くように。

あなたの居場所はないと――歌声を、響かせて。

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最終更新:2026年01月05日 21:44