結論も出ないままに、時間は過ぎて。
いつもは退屈に感じる授業も直ぐに終わり、あっという間に放課後。
部室の前で少しだけ躊躇ってから、京太郎は戸を開いた。
「……」
部室にいたのは、成香と誓子の2人。
他の部員は、まだ来ていないようだ。
「あ」
「……!」
こちらに気が付いた成香と誓子が顔を上げる。
心なしか、成香は顔色が悪く――誓子からは、怒りを感じた。
うわぁ………
うわぁ………
ごめんなさい。
そう言って、成香は部屋から出て行った。
すれ違いざまの彼女の顔は、まるで泣いているような――
「待って」
追いかけようと伸ばしたした京太郎の手を、誓子が遮る。
そのまま部室の入口を塞ぐように、誓子は京太郎の前に立った。
「ごめん誓子、今は」
「行って、どうするの?」
「でも」
「どうして成香が出て行ったのかも、わかってないんでしょう?」
「……」
「見ていられないもの。自分のことも、わかっていないクセに」
Q、京太郎に必要なのは何?
1、全員を嫁にする勇気
2、一人を選んでその子だけを愛する一途さ
3、胃薬
誓子の言葉に、京太郎は何一つとして答えられず、俯いた。
感情のままに成香を追いかけて――それで、自分に何が出来る?
由暉子と揺杏のことにも、決着を着けていないのに。
そんな状態で――誰かの、助けになれるのか?
「まずは、あなたが自分の気持ちに整理をつけなきゃダメよ」
「……」
「難しいでしょうけど……私が、力になってあげる」
「え……」
京太郎が顔を上げると、誓子は柔らかく微笑んでいた。
さっきまでの棘のある言葉が、嘘のように。
「ユキや揺杏には話せないでしょ。当たり前だけど」
「……」
「で、爽はこういう話は論外だもの」
「確かにそうだけど……」
「だから、ね」
「ふふ……私が、京太郎の力になってあげる。少しずつでいいから、これまでのことを話してくれる?」
成香は、ひたすらに走る。
廊下を、階段を。
今は誰とも話したくない。誰にも顔を見せたくない。
そう願う彼女の足は、自然と屋上に向かった。
「あっ……は、はぁ……っ」
元より体力のある方ではない彼女は、足を止めた途端に非常な苦しさに襲われた。
心臓が暴れる。汗が滴り落ちる。
荒くなった呼吸と一緒に流れ出る涙が止まらない。
由暉子と揺杏の2人に勝てないとわかっていても、彼への想いは止められないのだから。
「あ……ちか、ちゃん?」
成香が、何気なく屋上から見下ろした先。
校門の近く、多くの下校する生徒に混じって、京太郎と誓子が並んで歩いていた。
「……どう、して?」
そこまでなら、いい。
疑問なのは、彼女と京太郎が一緒に帰っているということ。
京太郎と誓子の家は、反対の方向なのだから。
そんなに仲が良さそうに並んで歩くのは――おかしい、筈だ。
ねぇ、なるか?
あなたには悪いけど――ううん。
何も、悪くはないわね。
だって――あなたは、諦めたんでしょう?
なら、いいわよね。
見ていられないんだもの、京太郎。
だから、私が教えてあげなきゃいけないの。
文句は、言わないでしょ?
謝ったこと、今更取り消せると思うの?
だって。
勝てないって言ったのは、あなたなんだから。
幼い頃に、母を亡くした。
父は、母を亡くした辛さを忘れる為に仕事に没頭した。
カピーだけが、友達だった。
「おまえ、ひとりか?」
ある一人の女の子――爽が、声をかけてくるまでは。
「ん……?」
ほんの数分ばかり、眠っていたらしい。
懐かしい夢を見たのは、さっきまで誓子と二人っきりで話をしていたせいか。
京太郎は、眠気を払う為に軽く頭を振り――
「おいすー」
「……なんでいんの」
目の前の爽の存在に、完全に眠気を吹き飛ばされた。
誓子が相談に乗ってくれると言うので、招かれるままに彼女の家に来た。
久しぶりに訪れた誓子の部屋は不思議と居心地が良く、ついうっかり転寝をしてしまったのだが。
「……爽? どうして」
「部活をサボった二人を見張りに? あ、鍵は開いてた。無用心だぞー」
トレーにティーポットとカップを載せて部屋に戻ってきた誓子。
その反応からして、誓子も爽が来ていることは知らなかったようだ。
自分が転寝を始めて、そして誓子がお茶を淹れる為に部屋を離れた数分。
この間に、爽は誰にも気付かれずに部屋に忍び込んできたらしい。
「どこの忍者だよ」
「私はライオンさんだからな」
「……意味わかんない」
「そんなことより、さ」
「仲間外れは、寂しいなぁ?」
京太郎と誓子は、そっと目を合わせた。
爽は校門を出た後から、京太郎たちを尾行していたらしい。
本来なら、この後に京太郎と誓子の二人で話し合うことがあるのだが――
京太郎は、爽も交えて悩みを打ち明けることにした。
『この手の話に爽は論外』と誓子は言ったがこうなったからには爽も交えて話し合った方が良いだろう。
そう考えて、京太郎は今までのことと、由暉子と揺杏の間で揺れている自分のことについて、全てを話した。
「ふふんふん……なるほどなるほどー?」
本当に話を聞いていたのか。
爽は能天気に腕を組んで頷く。
「つまりだな――」
「あの二人のどっちかがいなければ解決だな」
まるで解決にならない爽の言葉に、京太郎は思いっきり肩を落とした。
誓子は呆れたように溜息を吐いている。
「そういう問題じゃないって」
「そうはならないから問題なんでしょ」
「そうかー」
二人にダメ出しをされて、爽は心底残念そうに眉根を寄せた。
「一番、簡単だと思ったんだけどなぁ」
「一緒に帰りませんか? ちょっとお買い物に付き合ってほしくて」
下駄箱の前で、由暉子が誘う。
断る理由もなく、京太郎は頷こうとしたが――
「悪い、メールだ」
マナーモードの振動が、京太郎の足を止める。
由暉子に一言断ってから、京太郎は携帯を開いた。
from:揺杏
一緒に帰らない?
なんか喫茶店のクーポンあるんだけど
「……」
「京太郎くん?」
そのメールは、揺杏からの誘い。
首を傾げる由暉子に、京太郎は――
より一層、胸の鼓動が強くなった気がした。
揺杏からの誘いが、このタイミングで。
目の前には、首を傾げる由暉子。
どちらを優先するのか。
以前にも由暉子と爽で似たようなことはあったが、あの時とは状況がまるで違う。
「京太郎くん?」
「あ、ああ……何でもない。帰ろうぜ」
揺杏に詫びのメールを送り、京太郎は由暉子と並んで下校した。
痛みのようなものを、胸のどこかに感じながら。
「また、ユキ、か」
ずっと一緒にいたのは、自分の方なのに。
自分の方が、もっともっと、京太郎の心の中にいた筈なのに。
「よそもの」
後から来たクセに。
ズケズケと、人の居場所に、割り込んできて。
「……ない」
彼女は、胸の内側が端から少しずつ冷たくなっていくのを感じた。
「チカちゃん。どういうこと?」
「どういう……? ごめんなさい、話が見えないわ」
成香の突然の問い掛けに、誓子は顎を人差し指でなぞりながら首を傾げた。
彼女が言いたいことはある程度察しがつくが――それを、表に出す事はなく。
「……この前。須賀くんと一緒に帰ってたよね」
「……」
「須賀くんの家……チカちゃんとは反対だし、ちょっと前も……」
「……」
「須賀くんと、何をしているの?」
「……ねえ、なるか」
「チカ、ちゃん?」
「私が、それをあなたに言う必要はあるの?」
何を言われたのか、理解できない。
目を見開いて固まる成香に、誓子は畳み掛ける。
「あなたには、関係ないでしょ」
「え……?」
棘のある、突き放した言葉。
誓子の口から、それが自分に向けられていることが、成香は信じられない。
「私と京太郎が。どこで。何をしていようが」
「そ、それは……そんなこと」
「あるわよ」
怯える成香の顎に手を添えて。
誓子は成香の瞳を見つめて、言い聞かせるようにゆっくりと囁く。
「あなたは、諦めたんだから」
「あ……っ」
「あなたにはもう、関係ないのよ。なにも、ね」
あなたの心の整理がつくまでは、成香とは話をしない方がいい。
そう、誓子に言われてはいるが――それでも。
「大丈夫ですか?」
その日は、雨が降っていた。
濡れた地面は、滑りやすい。
考え事をしていて、足元が疎かになっていたら、尚更。
「……あ」
転びそうになったところを、彼に抱き止められた。
それはまるで、二人が出会った日の再現のようで。
成香は、胸の中に熱が集まるのを感じた。
「先輩? どこか痛みます?」
諦めて沈んだはずの心。
友達だった相手の言葉でぽっかりと空いた空白。
そこに、また――熱い何かが、注がれていく。
由暉子には、可愛さで負けている。
揺杏には、行動力で負けている。
誓子には、見離されている。
「先輩?」
「……ありがとうございます。おかげで、助かりました」
「いえいえ」
それでも。
「……あの」
「何ですか?」
やっぱり。
「……今度から、京太郎くんって、呼んでもいいですか?」
この温かさを。
諦めるなんて、できない。
情緒不安定なのは気にするな
部室には、揺杏と由暉子の二人きり。
ちょうど、一週間前のあの日。
揺杏が京太郎に告白した日と、同じ組み合わせ。
「……」
あの日のように、揺杏が由暉子の髪をとかす事はない。
互いに見つめ合う瞳。
そこに宿る敵意を、隠す事はない。
「先輩は、不潔ですね」
先に口を開いたのは、由暉子だった。
侮蔑と嘲り、そして嫉妬を込めて、彼女は言葉を解き放つ。
彼の唇。
とても大事な意味を持つそれを、目の前の女は奪っていった。
本来なら自分が貰う筈だった、それを。
「……はぁ?」
対する揺杏も、嘲笑を隠さない。
睨み付けてきたかと思えば、言葉はたったそれだけか。
「言うじゃん。私らがいなかったら、ただの野暮ったい女だったクセに」
「……それでも、須賀くんは側にいてくれます」
「ふーん?」
由暉子は、揺杏を見上げる。
「そういう先輩も……私がいなかったら、一歩も進めませんでしたよね」
「……後から来たクセに」
「さて、どうでしょうね」
同じように、由暉子を見下ろす揺杏の顔。
それは、いつだったか、鏡で見た自分の表情にそっくりだった。
――後から来たクセに。
それは、由暉子のセリフだ。
後から彼に告白したクセに、彼にあんなことをして。
「後から……とは言いますが」
「……なんだよ」
「今までずっと一緒にいたクセに、今まで何も無かったのは……京太郎くんが先輩のことを好きじゃないからでしょう?」
「……」
鏡のように、二人の表情は同じ。
相手へ抱く想いも、また。
あの頃は――いや、あの頃からずっと。
爽と揺杏と誓子の3人は、俺の世界の中心だった。
「いくぞー!」
「おー!」
お母さんがいなくなって、夜に起きても誰も側にいなくて。
カピーだけが友達だった閉じた中に、爽が強引に入り込んできた。
それからずっと――俺は、爽たちの後を追っていた気がする。
「真屋ー、これ捨てといて」
「あ、コレもお願いー」
それが、少し変わったのは中学に上がってから。
たった一人で、面倒ごとを押し付けられている小さな女の子に出会った時だ。
その女の子――真屋由暉子は、両手いっぱいに同級生たちから押し付けられた紙束を抱えていた。
最初は頼まれ事を断れずに雑用を押し付けられているのかと思ったけど、それは違った。
「私、頼りがいあるみたいで。嬉しいです」
彼女は凄く前向きというか、独特だった。
まぁでも、本人が平気だとしても小さいクセにホイホイと雑用を引き受けていく姿は見てて危なっかしい。
その日から、俺は少し強引に彼女――ユキの手伝いをする事にした。
……可愛い顔とおっきな胸に釣られたのも、少しはあるけど。
「あー……」
それから、爽たちとユキが出会って、ユキの大改造が始まって。
なんやかんやで全国大会を目指すことになって。
今、改めて考えると。
俺は、爽たちにやってもらったことをユキにしてやったのかもしれない――なんて、思ったりもする。
「……あ」
だとするなら、ユキの世界の中心が俺ということになってしまう。
勿論そんなワケがなく、それは思い上がりだろう。
爽たちがユキの世界を広げたのは間違いないだろうが。
「どーなんだか……」
誓子に色々と言われて、考えを整理するけど中々に答えは出ない。
成香先輩は小動物系というか、親切で可愛い。
揺杏は長年一緒になってバカやってた相手のクセに――最近になって、すっごく可愛く見えてきた。
由暉子は可愛い。たまに無防備なところが目に毒だけど。
爽は――こう言ったら調子に乗るから言わないけど良い姉貴分だ。最近は何故かちょくちょく噛み付いてくるけど。お陰で歯型がよく手や首筋に残る。
「……どうする、俺」
最近、部内の空気がぎこちないように感じる。
その原因の8割は俺が優柔不断なせいだ。
揺杏とユキ、二人の告白の間で揺れてどちらを選ぶか決めかねている。
「……」
正直に言えば俺の心は揺杏の方に傾いている……と、思う。
けれど、俺がどっちかを決めたらきっと今までの関係ではいられなくなってしまう。
「ヘッタれてんなぁ、俺」
嘲るように自分を笑っても、当たり前だが答えは出ない。
今日も悩んでいるだけで、時間が無駄に過ぎていった。
視線を感じる。
その元は探すまでもなく、隣の席に座る由暉子からだろう。
教科書に目を落としてはいるが、時折その視線の先がチラチラとこちらに向いているのがわかる。
こそばゆい、と京太郎は思った。
「な、なぁ?」
「はい?」
待ってました、と言わんばかりに教科書を閉じて京太郎を見上げる由暉子。
嬉しそうな顔に頰が緩むのを感じながら、京太郎は言葉を続けた。
「由暉子は……その、俺のどこが好きなんだ?」
「わかりました」
「お」
「それでは一つずつ挙げていきますね」
「お?」
「まず見た目からですが――」
水を得た魚。
声や性格、由暉子は事細かに京太郎の特徴を挙げてはそのどこが好きなのかを挙げていく。
ペラペラと饒舌に舌が回る様子は普段の様子とは大分かけ離れている。
「――ということで。つまりは――」
「も、もういいっす……」
周りのクラスメートの目を気にするべきだった、と京太郎は後に語る。
「お茶を、いれてみたんです」
「お?」
そっと、京太郎の前に置かれる水筒のコップ。
濃い目の赤褐色色の液体。
色と匂いからして、紅茶か何かだろうか。
「珍しいな。ユキがこういうのって」
「もらい物ですが……どうぞ」
由暉子に勧められるままに、京太郎はカップに口を付けた。
果たして、その味は――
――うん。美味い。
別段紅茶に詳しいというわけではないが、その味は京太郎の舌に程良く合っているように感じられた。
一口、二口と飲んでからは一気に飲み干す。
美味かった、その感想を伝えるべく京太郎は口を開き――
「う……ん?」
突然に感じる、急激な眠気。
ピントが外れたかのように、視界がボヤける。
ふら付く京太郎の頭を、柔らかく温かい何かが受け止めた。
「一つだけ、聞かせてください」
「ユ、キ……?」
耳元の由暉子の声が、頭の中に染み渡っていく。
曖昧な意識の中でも、それだけは理解できた。
「……私と揺杏先輩」
「ぁ……あ?」
「今のあなたは――どっちを、選びますか?」
声が、暖かさが、抗えない程に気持ち良い。
急速に沈んでいく意識の中で、たった一つだけ頭に浮かんだ顔。
それは、今までずっと一緒にいた相手の顔ではなく――
「ユ、キ……?」
嬉しそうな声を、最後に。
何もかもを包まれるような感覚に身を任せて、京太郎は意識を失った。
「き、京太郎……話って、なに?」
放課後、夕暮れ時の呼び出し。
屋上で太陽を背にする揺杏の頰が赤いのは、夕日のせいではないだろう。
期待と不安の入り混じった表情。
彼女に、京太郎が告げる台詞は――
「ごめん、揺杏」
「……え」
「俺……揺杏とは、付き合えない」
「あ……そ、そっかー」
揺杏は、笑った。
「ま、まぁ……わかってたし?」
声を震わせて。
何てことはない、なんて調子を装おって。
「京太郎、ユキばっか見てたから……なぁー?」
それでも。
瞳から零れたものだけは、止められずに。
「あ、はは……ちょっとだけ。1人にさせて?」
いつまで、じっとしていたんだろう。
涙が乾いて、冷たい風が身を包む。
温まりたい。温めてほしい。
けれど、それは叶わない。
頑張ったけれど、振られてしまったのだから――
「本当に、それでいいの?」
屋上から立ち去ろうとする揺杏の足を止めた声。
声の方に振り向くと、誓子と爽が無表情で立っていた。
涙の跡を拭うことも忘れて、揺杏は枯れた声を返す。
「他に、どうしようもないじゃん」
自分は振られたのだ。
その理由も、わかっている。
そして、彼が振り向くこともない。
それは、揺杏の言う通り。
どうやっても、変えられない。
「よそもの、だろ」
「奪われたのよ。私たちは」
……変えられない、筈なのに。
揺杏は、2人を否定することはできなかった。
「これ、絶対に京太郎くんに似合いますよっ!!」
瞳をキラキラさせて由暉子が京太郎に差し出したジャケット。
ファー多め、シルバー多め、背中には大きな逆十字。
……有珠山の生徒としていいのかそれは、と思う。
「ち、ちょっと派手過ぎないか?」
「コレでも足りませんっ」
付き合い始めてからより深く知る彼女の美的センス。
なんというか――実に、闇に飲まれよだ。
「あー、でもさ……うん。ちょっと、有珠山の生徒としてなぁ……」
「そうですか……」
「ごめんな」
しゅん、と落ち込む由暉子の頭を撫でてみる。
ロップイヤーのような髪まで萎んでいるように見えるから不思議だ。
「じゃあ、次のを探してきますから。待っててください」
ジャケットを胸に抱えて、彼女は店の奥に入って行った。
お互いの服を買いに来たデート。
あれこれと探してみてはいるが、中々に理想のモノは見つからない。
由暉子の後ろ姿を見送った京太郎は、一つ深く息を吐き――
「大変だなー、少年や」
ニヤニヤしながら話しかけてきた幼馴染3人組。
デートの様子を見ていたのだろう、こっちをからかう気満々なオーラを感じた。
「ユキのお眼鏡にかなうものは中々にないからなー」
「京太郎もハッチャケちゃえばいいのに」
「難しいって、それ」
なんせ由暉子の有珠山を志望した理由は「聖書を学ぶとか格好いいから」だ。
困って頰をかく京太郎に、誓子が優しく微笑みかけた。
彼女が年上である、ということを意識させる表情だ。
「そんな京太郎に、いいものがあるのよ」
「お?」
「新作。二人が付き合った記念に作ってみたんだ」
「おお!」
「向こうで渡すからちょっと付いてこーい」
なんというサプライズか。
得意気な揺杏、優しく微笑みを浮かべる誓子、楽し気な爽。
実に頼りになる笑顔の3人に手を引かれて、京太郎はその場から立ち去った。
マナーモードにしたままの携帯への着信には、気付かずに。
「……京太郎くん?」
誓子、爽、揺杏、そして京太郎。
この4人が行方不明になったという知らせを由暉子が聞いたのは――その、翌日のこと。
「ユキ、ちゃん……」
「……」
たった二人だけの部室。
自分も辛いはずなのに、成香は気遣うように声をかける。
大丈夫です、と声を返せたらいいのに――視線を携帯から離せない。
彼からの着信が無いか、メールは来ないのか。
結局、その返事は――由暉子が卒業しても、来ることはなかった。
それが、彼女の思い出。
今の由暉子を突き動かす心の支えであり、世界の中心。
「あっ」
突然、曲がり角から飛び出してきた女の子。
背丈からして年齢は5才前後だろうか、由暉子にぶつかって転んでしまった。
「大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさいっ」
幸いにも擦り傷はない。
今にも泣き出しそうなのは――ぶつかってしまって、怒られることを恐れているからだろうか。
「……」
由暉子は屈んで女の子に視線を合わせる。
そして、女の子の目の前に掲げて見せるのは一つの白牌。
何をするのか、目が白牌に釘付けになる女の子に、由暉子は――
「あっ! 文字がっ!」
「ふふっ」
何もない牌に、文字を浮かべる手品。
彼がいなくなってからも、ずっと練習を続けた技。
彼との繋がりを感じることができる、一つのもの。
「すっげー! おねーさん、まほーつかいか!」
「ふふ……どうでしょうね?」
「っ! そういやおねーさんテレビで見たことあるし!」
「あら、バレちゃいましたか」
泣き顔から一転、瞳を輝かせる女の子。
かつての自分を思い出して、由暉子は小さく微笑んだ。
「うん、おとーさんよくおねーさん見て泣いてる」
「な、泣き……?」
「ごめんって、あやまってた!」
「……え?」
その言葉を、聞いた瞬間に。
由暉子は、目の前の女の子以外のものが見えなくなった。
金髪のポニーテール。
この髪型は、記憶の中で見た事がある。
この髪の色は、どれだけ時間が経っても、記憶の中で色褪せる事はない。
「じゃね! おねーさん! あたし今からちーちゃんちいくから!」
少し、つり目っぽく見える睫毛。
記憶と重なる、女の子の容姿。
由暉子は、走り去ろうとする女の子の肩に手を置いた。
「なに?」
「ふふ……今から、私とお茶しませんか?」
「おちゃ?」
「ええ――お菓子もジュースも、ケーキだって。いっぱい、ありますから」
「マジ!? いくいくっ!!」
由暉子は、女の子と手を繋いで歩きだす。
離れないように。離さないように。
「お菓子を食べたら……そうですね。ライブに行きましょう」
「ライブ?」
「ええ――特別出張ライブ、あなたのお家です」
【よそもの】
彼は、私の髪を弄るのが好き。
これは口から聞いたわけじゃなくて、二人で一緒にいるうちにわかったこと。
「~♪」
流行りの歌を口ずさみながら、彼が私の髪に触れた。
無意識にやっているみたいで、あまり優しくない手付き。
乙女の髪を――なんて、チカちゃんは怒るかもしれないけれど。
私は、この瞬間が好き。
髪を伸ばしていて良かったって、思えるから。
――成香さんと、一緒にいたい。
瞼を閉じると、今でも思い出せる。頰が熱くなる。
それは肌を重ねても、同じ。
大事で素敵な、私の思い出。
「大好き」
「俺もです」
【すてきです】
偶然の出会いも、それが何度も重なって。
タイミングが良かったら、きっとそれは奇跡と呼べるのだろう。
「その人が、京ちゃんさんを誑かしたんすね」
「……モモ」
桃子の瞳に理性は無い。
宿したものは京太郎への独占欲と、揺杏への嫉妬心。
そして、その手に持つものは――
「さ、帰るっすよ。みんな待ってますから」
「揺杏、下がって」
桃子から揺杏を庇うように、京太郎は一歩前に踏み出す。
彼女だけは守る。
愛した彼女だけは、絶対に。
そう覚悟を決める京太郎の手を、揺杏はそっと握った。
「一人にしないって。ずっと一緒だって、言ったろ?」
「……揺杏」
「大丈夫だって。偉い人も言ってたし」
「愛は――無敵だって!」
松実館に監禁されている京太郎を奪還するために亡き友穏乃と灼の遺志を継いだ憧が立ち上がった
だが宥姉のマフラーには敵わなかった……
この扉の向こう。
そこに、焦がれる程に求めた相手がいるのに。
「ごめんね」
宥は、心の底から申し訳なさそうに囁いた。
見下ろすのは、もう動かない友達だったもの。
「でも、京太郎くんだけは駄目なの」
寒そうに身を震わせて、宥は扉の向こうに消えていった。
その身を、心の底から温めてくれる人が待つ部屋に。
段々と冷たくなり始めた、肉の塊をそこに残して。
一目惚れが運命の出会いならば。
今こうして、二人きりでいるのも運命なのだろう。
「雨、止みませんねぇ……」
「そうだな」
軒下から見上げる景色は滝のような雨のカーテンに遮られている。
傘を持っていない以上、雨が止むか迎えに来るかを待つしかない。
「……」
「……」
会話が途切れると、途端に雨の音が大きくなる。
軒下に立つ、二人の距離。
もう一歩を踏み出せば触れあえるのに、そこには見えない壁がある。
それを退かす方法を、菫は知らない。
「……」
それが、酷くもどかしい。
「そういえば、部長は照さんと一年の頃から一緒なんですよね」
やがて、彼の方から口を開いた――かと思えば、出て来たのは別の女の名前。
止めろ、と叫びたくなる。
私以外の女を呼ぶな。私以外の女を見るな。
押し倒して刻み込みたくなるが、それは絶対的な壁が許さない。
菫は、表面上は全くの平静を装おって、頷いた。
「ああ」
「照さんって一年の頃はどんな感じだったんですか? 照さんに聞いてもよくわかんなくて」
「ふふ……全く、あいつは――」
雨は、勢いを増すばかり。
「あ、アレ」
彼が、指を指す方向。
黄色い傘を差して、こちらに歩いてくる白糸台の生徒。
「照さん!」
「これ」
噂をすれば影。
さっきまで、ちょうど話題の中心になっていた人物。
宮永照が、黒い傘を菫に差し出した。
「遅いから迎えに来た」
「あれ、傘足りないような」
「二人で一緒に入ればいい」
照が、彼に身を寄せる。
一つの傘に入りきれるように。
菫が踏み出せなかった一歩を、容易く踏み出して。
「――」
微かに歪んだ口の端。
それを、菫は見逃さなかった。
菫と、照の視線が交差する。
全く同じ相手への感情を抱いて、口を開く。
「……」
紡がれた言葉は雨音に掻き消されて、彼の耳には届かなかった。
朝。
登校するべく玄関を出た瞬間に、京太郎は目を見開いて固まった。
「一緒に行こうか」
玄関の先で京太郎を待っていたらしい智葉が誘ってくる。
それはいい、何も問題はない。
だが、彼女の後ろに停まっている黒塗りの高級車は――
「ウチのやつらが送ると言うからな」
「……ぱねぇ」
何度かこの車に乗ることはあったが、登校時の送迎に使うのは流石に初めてである。
近所の婦人方の視線から逃れるように、京太郎は智葉に促されるままに車に乗り込んだ。
辻垣内智葉は有名人である。
日本で三番目に強い女子高生――ということに加えて、その家柄。
「じゃあ、また後でな」
「は、はい」
ならば、その智葉と一緒にいる男はどうか。
彼女と一緒に車を降りた途端に、集まる他の生徒たちの視線。
好奇心を多分に含んだそれは、間違いなく噂を広げることだろう。
「はー……」
智葉の告白にまだ答えが出せない自分が情けなくなって、京太郎は空を仰いだ。
ネリーはキョータローが欲しい。
サトハもキョータローが欲しい。
ミョンファも、ハオも、みんなそうだ。
たった一人の男の子を、みんなが欲しがっている。
「キョータロー……」
今朝の噂は、耳に届いている。
戦線布告の通り、サトハは京太郎を手に入れる為に動いている。
「……」
ネリーは目を閉じて想像する。
サトハとキョータローが一緒になる未来。
このままでは、きっとそのイメージ通りにキョータローが取られてしまう。
胸に染み出す不安に、ネリーは――
「ネリー、学食行こうぜ」
突然の想い人からの呼びかけに、イメージの世界から引き摺り下ろされる。
パチリと目を開くと、そこにはいつもと変わらない彼の顔があった。
「友達から券貰ってさ」
「え……」
「折角だしって……ネリー? どうかしたか?」
「ううん……いこ!」
「おし、席埋まらないうちにさっさと行くか」
腹が減っては考え事も出来ない。
同じように智葉の告白のことで悩んでいた2人だが、それでも空腹に抗うことは出来ない。
2人で向かい合って学食の席に着くと、京太郎は箸を、ネリーはスプーンを手に取って食事を始めた。
「いただきます」
京太郎は箸を進めながら目の前のネリーに視線を送る。
智葉のことや、麻雀のこと。
考え込んで悩むことは色々ある。
けれど。
「ん……美味し♪」
小さな口にスプーンを運ぶネリーの姿を見ている、今だけは。
小難しい考えよりも、温かい何かが胸の中を満たした。
一番の正解なんて、恋愛には存在しない。
「手が止まっていますよ」
「……ハオか」
休み時間中。
迫る大会に向けて、少ない時間を活かさなければならない。
女子に比べれば男子はレベルがそこまで高くないとはいえ、それでも自分はまだまだ弱いのだから。
少しでも一歩前に進めることが出来れば――そう考えて、以前ハオに譲り受けた教本を読んでいたのだが、彼女の指摘する通り、いつからか考えが逸れていたらしい。
「どんなに優れた本でも……モノにする気がないのであれば、意味はありません」
「ああ……悪い」
相変わらず、顔が近い。
意識すると吐息がかかりそうな距離にまで身を寄せてくるハオにも、既に慣れたものだ。
椅子を引いてちょっとだけ彼女と距離を取りつつ、京太郎は注意をしてくれたハオに詫びた。
「悩み事ですか」
「ちょっと、な」
ハオは、少しだけ目を細めた。
京太郎の考えている事、それは智葉の告白に関することだろうか。
「答えが出ないのは、経験が無いからでしょう」
「……そりゃー、なぁ」
先輩の家にお泊まりしたら、風呂場でニアミス。
そのまま先輩に迫られて、告白されて。
でも――心の中で何かが引っ掛かって、告白に返事ができないままでいる。
こんなこと、何度も経験する筈がない。
「……なら」
「ハオ?」
ハオが、京太郎の手の甲に手のひらを重ねる。
彼女の低めの体温が、指先から伝わってきた。
「私で、経験してみませんか」
「な……何を」
「ふふ……」
「私は、いつでも構いませんから」
「俺、今日は彼女と入学祝いあるんで帰りますね」
なんて、ちょっとふざけたジョーク。
エイプリルフールの嘘のつもりだったのだが――
「そういうことですので。では」
「へ?」
由暉子が、京太郎の手を握る。
有無を言わさず京太郎の手を引いて部室から出て行こうとする彼女に、開いた口が塞がならない。
「待ちなよ」
「なんですか」
「勝手なこと、しないでもらえる?」
入口で通せんぼをする揺杏と誓子。
睨み合いで飛び散る火花が実に痛い。
「う、嘘ですよね……」
「がおー」
成香なんてプルプル震えてるし、爽に至っては意味不明だ。
「あ、咲」
そして携帯にメール。
機械音痴のポンコツ幼馴染のクセに、入学祝いでケータイを買って貰ったらしい。
案の定誤字脱字だらけのメールに頰が緩くなった、が。
「……咲?」
「知らない名前、ですね」
「もしかして、その子が」
うっかり忘れていたこの状況。
迫り来る女子部員の手。
「がおー」
もはや、訂正も撤退も不可能。
どうしてこうなった――と、京太郎は心の中で泣いた。
【ふぁいっ!】
「これ、俺の彼女なんだ」
ふざけたジョークのつもりで親に見せた写真。
ちょっとした縁で知り合った牌のおねえさんとのツーショット。
親の驚く顔を笑い、京太郎は寝床についた――のだが。
「おはよ」
「え」
翌朝。
目覚めた時には見知らぬ部屋で、隣には京太郎の腕を枕にする牌のおねえさん。
何とも――幸せそうな顔をしているではないか。
「よろしくね、旦那さま」
彼女に唇を奪われながら――これは夢なのだと、京太郎は意識を手放した。
少しばかり、下品な話。
臨海高校1年、麻雀部所属。
須賀京太郎の、生活について。
15才というのは、まだまだ若さに溢れた年齢である。
小学生で遊び、中学生で部活に励み、そして始まった高校生活。
「……」
入学してから一週間ほど経過した、ある日の晩。
京太郎は自室のドアの鍵がかかっているのをしっかりと確認して、息を整えた。
正座した彼が向き合うものは、純白のティッシュ。
「ふ……」
これより彼が行うことは一種のガス抜きであり――普段の生活で、自分を抑えるための行為である。
臨海麻雀部三年、先鋒、辻垣内智葉。
格好良い佇まいの先輩であり、美人であり、時折可愛らしい仕草を見せる人。
そして胸が大きい。
臨海麻雀部一年、次鋒、郝慧宇。
無頓着なのか無自覚なのか、物理的な意味で距離が近いことの多い同級生。
中国美人の彼女に迫られる度に、京太郎の胸は弾む。
そして胸が大きい。
臨海麻雀部二年、中堅、雀明華。
彼女の靡く長い髪から漂う香りにドキドキさせられた回数は数え切れない。
勿論、胸が大きい。
「はぁ……」
さて。
そんな魅力的な彼女たちを身近に過ごして――果たして京太郎は、自分を抑え切れるのか。
15才という、多少なりとも知識をつけて、体力と若さに溢れた年齢の少年に。
その答えは、否である。
だからこそ暴発しないように、こうして定期的にガス抜きを行う必要があるのだ。
仕方ないことなのだと、ニヤける自分に言い訳をしながら、京太郎は目を閉じた。
「さて、今日は……」
妄想の中でなら自分は無敵だ。
どんな相手だろうと思いのまま。
知られたら軽蔑されるであろう内容も、外にさえ出さなければ問題はない。
「……そうだ」
数秒の思考の後に、京太郎は目を開いた。
今晩は少しばかり――趣向を変えてみようではないか、と。
『キョウタロー!』
脳裏に思い浮かべるは、ネリー・ヴィルサラーゼ。
同級生であり、少しばかり生意気なヤツ。
スタイルこそあの三人には惨敗であるが、黙っていれば凄く可愛い。
そんな彼女を、思うがままにできたのなら――
『……キョウタロ?』
「……アレ?」
――できたの、なら。
「おっかしーな……」
決して口には出来ないが、京太郎は中々にアブノーマルなプレイを数多く妄想してきた。
尊敬している先輩は勿論のこと、時には監督ですら相手にして。
『キョウ、タロ……?』
なのに。
妄想の中だというのに。
ネリーの幼い顔が涙に滲むのが、京太郎には我慢ならなかった。
「ちっくしょ……」
その夜、少年は。
罪悪感と虚無感を、覚えた。
さて、京太郎が理解できぬ罪悪感に囚われている一方で。
彼を想う女の一人、辻垣内智葉は鐔の無い日本刀を広い和室の真ん中で構えていた。
「――ッ」
呼吸を整え、虚空を切り裂く一閃。
切るべき相手は、自分の中の迷いの心。
「……ふぅ」
恋する乙女のイメージとは程遠い振る舞いだが、智葉にとって恋愛とは決して負けられぬ戦いである。
この方法が最も気合いが入るのだから仕方ない。
彼女は、気を引き締めて刀を鞘に収めた。
ベランダの柵に寄りかかり、夜風にあたりながら明華は歌を口ずさむ。
その音色は初めて彼に会った時と同じもの。
「……♪」
彼女が歌に乗せる想いは、あの時と変わらない。
しかし、それを彼に届けるには――少しばかり、邪魔なものが多過ぎる。
智葉、ハオ、そしてネリー。
この三人がいなければ――なんて、もしもの話に意味はない。
彼の心が自分に向けられていない。
その事実が――何よりも、明華を歯痒くさせた。
アレクサンドラは、若い才能と熱意を好む。
そして、欲深い。
若者の持つ『何か』に揺さぶられた時、彼女はいつも我慢が効かなくなるのである。
彼――須賀京太郎を麻雀部にスカウトしたのも、それが理由だ。
ネリー・ヴィルサラーゼがよく話題に出していた少年。
話を聞けば、他の部員も彼を知っているという。
興味を引かれて彼を一目見れば――
「欲しいな、君」
――成る程、確かにこの少年は『何か』を持っている。
その直感がどこから来たものかは定かではないが、アレクサンドラ・ヴィントハイムが須賀京太郎に強く惹かれたことは事実だった。
起爆剤。
京太郎のことを、アレクサンドラはそう言った。
彼によって、アレクサンドラのみならず部員たち全員のモチベーションが上がったのは事実。
雀荘での敗北をきっかけがきっかけになったのか、本人の麻雀に対する熱意も高い。
今は弱くても――将来性という点においては、誰よりも楽しみにしている。
「……ふむ」
だからこそ。
彼女は、現状を良しとすることができない。
昼飯度の学食は、多くの生徒が利用する。
特に臨海の学食メニューは豊富であるため、利用者からの人気は高い。
「聞きましたよ」
多くの生徒たちが行き交う中。
ハオは、静かに飲みかけの紅茶の入った紙コップをテーブルに置いた。
白いコップの中で、赤褐色の表面に波紋が走る。
「何を?」
一方で、ハオの対面に座る智葉は緑茶の入ったコップを持ち上げて口付けた。
込み入った学食のざわめきの中でも、お互いの声ははっきりと相手に届いていた。
「彼に、迷惑をかけているそうですね」
「……」
「知っているでしょう。あなたが強気に出れば、逆らえない。京太郎はそう言う人だ」
淡々とした口調だが、ハオの言葉は智葉を非難するものだ。
「迷惑、か」
しかし智葉は、調子を崩さない。
ハオの瞳を真っ直ぐに見据えて、彼女は語気を強めて口を開いた。
「お前がそれを言うのか」
「何を」
「言った筈だぞ。私はアイツに告白したとな」
「……」
「だから本気でアイツにアプローチをしている。使えるものは何でも使っている」
「ですから、それが」
「思わせ振りな態度でただアイツを翻弄するだけのお前と――どっちが、マシだろうな」
「それに、な」
――すいません!
「アイツも――アイツにも、強いものはあるぞ」
ネリーは、部室で一人椅子に座って頬杖をつく。
いつもなら隣にいる京太郎の姿はない。
家の用事で休む、と彼からはそう聞いている。
「……」
小さく口を開くと、出て来るのは陰鬱な溜息。
ずっと、ネリーの胸の内を渦巻いている不安。
それが晴れるには、きっと――
ぼんやりと窓の外を眺めるネリーの背後で戸が開く。
「随分と、らしくない。何があったの?」
「……監督」
ネリーの次に部室に来たのは、アレクサンドラだった。
彼女が最初に口にしたのは挨拶ではなく、問い掛けの言葉。
そして――その声音は、ネリーを気遣うものではない。
「ここ最近、何というか……そう、中途半端なんだよ」
「……」
「はっきりと言えば――ネリー、弱くなってるよ。大会も近いのにね」
何を言っているのか、とネリーの眉間に皺が寄る。
ムッとして反論しようとも――それは、事実だった。
彼のことが気になって、麻雀も私生活も何もかもが中途半端になっている。
「悩むのはいい。けれど、考えないのは駄目だね」
「考える……」
「どうすればいいかって悩むだけ悩んで、そこから前に進もうとしない」
袋小路。
今のネリーが陥っている状態。
「お金のために麻雀を打っているあんたは強かった。勝つだけじゃなくて、どうすれば次の稼ぎに繋がるかまで考えていたし」
「……ソレとコレとは、話が違うから」
だが、その袋小路から抜け出すための方法がわからない。
今のネリーが欲しいものは、ただ欲しがるだけじゃ手に入らない。
「そう」
「そうって」
「それでもねぇ――まずは、動かないと。話は始まらないんだよ」
「ネリーの悩みは難しいものなんだろうけど。何もしないで自分一人で解決できるものかい?」
「それは……」
確かに、そうだ。
ネリーの欲しがっているものは、ただ欲しがるだけじゃ手に入らない。
けれど――ただ悩んでいるだけで手に入るのかと言えば、それは絶対に違う。
「誰にも相談できないなら、まずは動く。そこから答えを探っていくんだ」
「……」
「今のあんたにはソレが必要なんだってことを忘れないでね」
「……監督」
京太郎のことを、ネリーは好きになって。
でも――京太郎のことを好きなのは、ネリーだけじゃなくて。
いつからか、わからないが――ネリーは随分と、弱気になっていた。
「……そっかぁ」
本質的には、『コレ』はお金と変わらない。
慣れない感覚に胸が浮ついて、きっと一番大切なことを見落としていた。
「監督、なんかオトナみたい」
「……みたいじゃなくて、オトナだからね?」
奪われる前に、奪う。
与えられる前に、与える。
競争相手がいるなら、相手よりも先に動く。
それが一番、大切なこと。
自分から声を出さなければ、気付いてもらえることはない。
自分が与えなければ、等価交換は成り立たない。
ネリーは、漸く目を覚ませたような気がした。
「それってさ、きょーたろーがその子のこと好きなんじゃないの?」
ふと言われた言葉に、京太郎は思わず牌を取り落とした。
休日、立ち寄った雀荘にて。
対面する相手は少し前に知り合った少女、大星淡。
左隣が幼馴染のお姉さん、宮永照。
右隣は――偶然その場に居合わせた名も知らぬ女子。何とも居心地が悪そうである。
「……俺、が?」
「うん。きょーたろーが」
落とした牌を拾うのも忘れて、京太郎は目を何度も瞬かせる。
一方で淡はマイペースに頬杖をついている。
照はじっと考え込むように河を見つめ――名も知らぬ女子は、早く進めて欲しいと言わんばかりにわざとらしい咳払いをした。
古今東西、女子は恋話が好きである――とは京太郎の勝手な思い込みであるが、淡は見事に食いついてきた。
照は何を考えているのかはわからないが、恐らく不愉快には感じていないはずだ。
「えーっと……その、何とかって人に告白されたんだっけ」
「あ、あぁ」
「で、きょーたろーはその何とかさんをフった」
「……いや、フってはないけどな?」
淡の言う何とかさんとは、辻垣内智葉のことであり。
フってはいないが――答えてもいない。
「ふーん?」
「な、なんだよ」
「なんか、ヒキョーな感じ。ずっこい」
「……」
「ま、それはどーでもいーんだけど」
「いいのかよ」
「いーの」
淡が身を乗り出して京太郎の目を覗き込む。
躊躇いなく相手の空間に踏み込む姿勢に、京太郎は思わず僅かにたじろいだ。
「なんてったっけ。もう一人の子」
「……ネリー」
「ああ、そうソレ」
「ソレって、お前な」
「きょーたろーは、その子が好きなんでしょ。何とかさんよりも」
「……」
「絶対そーじゃん。話しててもその子の話してる方が楽しそうだし」
「俺は……」
京太郎の手が止まる。
意識が目の前の卓から離れて、記憶の中のネリーを思い返す。
完全に対局が止まってしまうが、淡は特に気にした様子はなく欠伸をした。
照はじっと京太郎を見つめて、微かに口角を上げた。
見知らぬ女子は、気まずそうに三人の顔を見比べて――諦めるように、溜息を吐いた。
「ごめん。もう限界」
「え――?」
爽のその一言と共に、京太郎は保健室のベッドへと押し倒された。
一体なんなんだ、限界ってなんだよ――と言い返す間もなく、爽にマウントポジションを取られてしまう。
「気が気じゃないんだよね、こっちもさ」
「爽……?」
「どうしちゃったんだよ、京太郎」
それはこっちの台詞だと、京太郎は爽を押し退けようとして。
彼女の細身の身体からは考えられない程に強い力で押さえ付けられ、開けた口からは呻き声しか出すことができなかった。
「暑いからってそんな風にシャツ一枚になるとか――さぁ」
「さ、さぁ?」
爽の腕の震えからは彼女の態度が冗談ではないことが伝わってくる。
だからこそ、何故爽がここまで怒っているのか理解できない。
体育の後で身体が熱くなった為にシャツ一枚になるなんてのは、『いつものこと』である。
「私以外の女に肌を見せるようなマネ、するなよ」
意味がわからない。
爽の台詞も、この状況も。
出来ることは、ただ全力で爽に抵抗することだけだ。
「勘違いしてんのは、どっちだよ」
荒々しく開けられた保健室の引き戸。
爽に負けない怒気を含んだ声が、京太郎の救いの手となった――が。
「ゆ、ゆあ……んっ!?」
問題なのは、乱入者である揺杏の格好。
ワイシャツのボタンが大分開けられていて、ブラジャーが丸見え。
「京太郎は」
「私のだ」
だが、爽はまるでそれが当たり前かのように受け入れている。
目の前で容赦なく飛び散る火花と意味不明の状況に――京太郎の混乱は、深まるばかりだった。
「くぁ……」
込み上げてくる欠伸と目尻に溜まる涙。
気を抜くと寝落ちしてしまいそうな眠気を感じながら、京太郎は校門を跨いだ。
寝不足の原因はハッキリしている。
先日の雀荘で淡に言われた一言。
「ネリーを……俺が……」
じっくりと考えても答えは出ない。
智葉の告白のこともあるし、麻雀のこともある。
考えれば考えるほど、自分の中の答えが遠退くようで――
「キョウタロッ!!」
思考の底なし沼に嵌りかけていた京太郎を引っ張り上げた高い声。
今まさに、京太郎が最も強く頭の中に思い浮かべていた相手。
「お、おう……おはよう、ネリー」
「おはよっ」
やけにテンションの高い声音に戸惑いながら振り向くと、やはりそこにはネリーが立っていた。
悩み過ぎて寝不足の京太郎とは対照的に――ネリーは、どこか吹っ切れたように見える。
「えへ」
自信に満ちた笑みを浮かべて、ネリーは一歩踏み出す。
そのまま彼女は京太郎を見上げて、口角を上げながら小さな口を開いた。
「ね、キョウタロ。プレゼント上げる」
「プ、プレゼント……?」
「そ、いいものあげる」
思わず、復唱。
京太郎が女子に振り回されるのはいつものことだが、今回は特に混乱が大きい。
『あの』ネリーがプレゼントをくれるというのもそうだし、そもそも何でこんなにも上機嫌なのか――?
「……何をしているんだ、校門で」
校門のど真ん中で独特の空間を築き上げていた二人の間に割って入った第三者。
呆れた視線をネリーと京太郎に向けながら、智葉が声を投げかけた。
「……ネリー、あまり京太郎を困らせるな」
「……」
ネリーはチラリと智葉に眼を向けて、しかしその言葉には返事をせずに、再び京太郎に向き直った。
「そっか。やっぱり、場所とか考えた方がいいよね」
「どういう意味だ」
「やっぱり内緒。また後で」
一方的に言い放つと、ネリーは京太郎に背を向けて駆け足で校舎の中に入っていった。
残された京太郎にはまるで訳がわからず、間抜けに口を開けて立ち尽くすばかり。
智葉も京太郎と同じような心境だが――どこか心の隅に、引っかかるものを感じていた。
また後で、と言い残したネリーだが。
朝のHRが終わった後も、授業の合間の休み時間も、昼休みの間も特に目立った行動を起こす事はなく。
あっという間に時間は過ぎて――いよいよ、放課後が訪れた。
「――さて、私からの話は以上だけど。他に何かある?」
全国大会が近付くにつれて、練習前のミーティングは重要性を増してくる。
机の上には他校の選手たちの牌譜。ホワイトボードにはこれからの方針。
いつもよりピリピリした様子で、アレクサンドラは部員たちを見渡した。
各々が思考を巡らせる中――いつものように京太郎の膝の上を陣取るネリーが、勢いよく挙手をした。
「ネリー、何かある?」
「一個だけ、だけど」
全員がネリーに注目する中で、ネリーはくるりと振り向いた。
大きな瞳には、京太郎だけが映されている。
「ね、キョウタロ。前に言ったよね」
「何を?」
「等価交換だって」
「ん?……あ、あぁ」
それは、大分前に冗談のつもりで口にした言葉。
あの時も今と同じように、膝の上にネリーを乗せていた。
「だからね、あげる」
「ネ、ネリー?」
しかし、今はミーティングの時間。
あの時の話と、今の状況が京太郎の中で結び付かず――。
「ネリーのぜんぶ。キョウタロにあげる」
カチン、と歯がぶつかる様な感覚がして。
ネリーにキスをされた、と気が付いたのは唇の痛みを感じてから。
「――」
みんなの、智葉の前で、ネリーとキスをしている。
少しずつ状況を把握するにつれて、体温が上昇していく。
頰に熱を感じて、心臓が痛いくらいに暴れて――それでも、ネリーを拒む気にはなれず。
「……」
ゆっくりと、京太郎はネリーの細く華奢な腰に腕を回した。
ただ唇を重ね合うだけの、色気もないキス。
一瞬のような、永遠のような――とにかく京太郎にとって酷く曖昧な時間が経過してから、ネリーが唇を離した。
「だから」
周りの部員が何かを言っているが、耳に入らない。
ネリーは京太郎だけを。
京太郎はネリーだけを。
お互いに、お互いだけを見ていた。
「キョウタローのぜんぶ――ネリーに、ちょうだい?」
ネリー・ヴィルサラーゼと須賀京太郎。
二人はきっと、お互い以外のものは見えていない。
「……敗けた、な」
智葉の口から零れ出た言葉。
それは、ハオと明華も同様に感じたもの。
だが――。
「――ッ!!」
広い和室に、一人。
虚空に向けて、智葉は袈裟懸けに刀を振り下ろした。
「……ふぅ」
額から流れ出た汗が頬を伝い、畳に染み込む。
花の女子高生とは程遠い姿であることは自覚しているが、智葉にとってはコレが日課だ。
――だから、振られたのかもな。
思わず、自嘲の笑みが浮かんだ。
あの場では、少なくとも智葉は恋愛において己が敗北したことを認めた。
おめでとう、と彼らを祝福する言葉をかけた。
「……」
――本当、に?
心のどこかから、そんな声が聞こえた気がした。
「……くっ」
見苦しい、と智葉は首を振った。
正々堂々、自分は真っ正面からネリーに敗けたのだ。
未練があるなら、諦め切れないなら――それは、己が未熟だからだ。
「……」
智葉は、再び刀を構え、上段から振り下ろす。
己の中の迷いを、未練を断ち切るように。
それが何の慰めにもならないことを、理解していながら。
「――」
ふと、京太郎は夜中に目を覚ました。
虫のしらせのような、何かが起こりそうな胸騒ぎ。
「……ん」
しかし。
そんな胸騒ぎも、すぐ隣にある幸せそうな寝顔を見ると吹き飛んでしまった。
ネリー・ヴィルサラーゼという彼女。
そして今は、彼女の暮らす部屋にお泊りしている状況。
幸せでない筈がないのだ。
「……へへ」
頬を緩めながら――ぺたり、と京太郎はネリーの首に人差し指を添えた。
寝汗のせいか、ちょっとだけ指が張り付くような感覚がした。
「……」
ベッドで眠る彼女は、目を覚ます気配がない。
ただ少しだけ、くすぐったそうに身動ぎをした。
智葉が部室の戸を開けた時、室内にいる部員は未だに京太郎一人だけだった。
その京太郎ですら、机に突っ伏すようにして眠っている。
智葉は一つ苦笑を浮かべ、静かに京太郎に歩み寄る。
「……やれやれ」
夜遅くまでネット麻雀でもしていたのか。
それとも遊んでいたのか。
どちらにせよ、いつまでも寝かしつけておくわけにはいかない。
そっと揺り動かすように手を伸ばすと、京太郎が微かに身動ぎをした。
智葉は反射的に手を引っ込めると同時に、彼のワイシャツの胸ポケットから何かが椅子の下に落ちたのを見つけた。
「……これ、は?」
白く細長い指が摘み上げたそれは、女性の髪留め。
それが、何故彼の胸ポケットから――などという疑問は、すぐに解決した。
「ふぁー……」
ちょうど、その髪留めの持ち主が暢気に欠伸をしながら部室にやって来たからだ。
須賀京太郎とネリー・ヴィルサラーゼは恋仲である。
それは誰もが認める事実だ。
そして、智葉は誰よりも早くその事実を認め、彼らを祝福した。
「キョウタロッ」
「んー?」
その、筈なのに。
何故だろうか。
二人が触れ合う姿を見る度に――胸の内側が、苦しく締め付けられるような感覚を覚える。
「……やめろ」
ぎゅうっと、己の胸を抑えつけて。
己に言い聞かせるように、呟いた。
「サトハ? 何か言いまシタ?」
「何でもない」
「ただの、独り言だ」
波のように押し寄せる想いに、智葉の心は少しずつ削られていく。
内側から徐々に己を蝕む病。
いくら素振りをしようとも、断ち切ることは出来ない。
苦しみを誰にも打ち明けることが出来ないまま、ただイタズラに時間だけが過ぎて――。
「……ん? ネリーは、どうした?」
「あー……今日は、何か仕事というか試合があるみたいで」
「しかもちょっと遠出してて、明日まで帰って来ないんですよ」
「……なら、久しぶりにうちに来ないか?」
「え?」
「久しぶりに見てやるよ。お前の麻雀を」
「お、おぉ……」
「それに、カピーのヤツも寂しがっているだろうさ」
ネリーという彼女への義理。
麻雀の上達意欲。
この二つを比べれば、彼女への義理の方が重い。
しかし、カピーの存在と智葉への恩が加われば、京太郎の中の天秤の傾きは――。
「……じゃ、よろしくお願いします」
「ああ、任せろ」
無論、智葉とてネリーへの配慮がないわけではない。
この誘いは、先輩として後輩雀を気遣うもの。
「……ふふ」
何もおかしな事はない。
練習を見てやる事も、カピーに会わせてやる事も。
義務のようなものなのだから――そう、気に病むことは、何も無いのだ。
久しぶりのカピーとの触れ合いは京太郎の心を癒し。
智葉の指導は一切の容赦なく京太郎の心を削ぎ落とす。
「ぐぁー……」
「少し、休憩するか」
黒服のお兄さんたちを交えた麻雀の特訓は、色んな意味で疲れが溜まる。
外が暗くなった頃には、京太郎は大の字になって畳に倒れ込んだ。
汗が頬を伝い、畳に染み込む。
全力を出し尽くした様子に智葉は苦笑いを浮かべ、腰を上げた。
「……待ってろ。お茶を入れてくる」
最終更新:2026年01月05日 22:15