台所で冷たいお茶の準備をしながら、智葉は口角を吊り上げた。
以前に比べて、京太郎は大分強くなった。
「……ふふ」
そして、その打ち筋は智葉に似ている。
京太郎が麻雀と向き合っている瞬間。
その時だけは――彼の心を占める女は、自分なのだ。
「さて」
冷たい麦茶を入れた二つのコップを盆に乗せて、智葉は台所を後にした。
広い和室に、男の寝息。
それは智葉の淹れたお茶が原因――ではなく、疲れ切った京太郎が寝落ちしたためである。
お陰で折角の冷たい麦茶が温くなってしまった。
「まったく」
しかも、ワイシャツの胸元が肌蹴ている。
仕方ないヤツだ、と智葉は大の字で眠る京太郎に手を伸ばし――。
智葉は、高揚していた胸の内側が冷めていくのを感じた。
下らない優越感に浸っていた己の無様さ。
「……」
智葉は――。
「……んぁっ?」
びくりと身震いをして、京太郎は目を覚ました。
散らばる麻雀牌、皺だらけになったワイシャツ。
自分が意識を失う直前とほぼ同じ室内。
「……あれ」
ただ一つ。
智葉がいないことを、除けば。
時間は深夜零時を過ぎたころ。
終電から降りたネリーは、大きな溜息を一つ吐いた。
本来ならば翌朝になる筈だった帰宅を、無理を通して早く帰ってきたのだから疲れも一入である。
「――♪」
それでも、駅から出たネリーの足取りは軽い。
無理矢理早く帰ってきた分だけ、大好きな人に早く会えるのだから。
「……」
浮かれていた。
だから、気が付かなかった。
夜風に靡く、長い髪に。
抜き身の、長い刀身に。
「……え?」
ふと、気配を感じてネリーが振り向いた時。
空を切る音と、街灯を反射する刃が、彼女に向けて振り下ろされた。
「ネリーッ!!」
大好きな人の声が聞こえたかと思えば、肩を突き飛ばす強い力。
何が何だかわからずに、ネリーは固い歩道に思いっきり尻餅をついた。
「いったぁ……」
一体、何が起きたのか。
少しでも状況を把握しようと、ネリーは涙で滲む目を開けた。
「え?……?」
大好きな人の声がしたのに、大好きな人がいない。
周りを見渡して、ネリーは首を傾げた。
「うそ……?」
目の前には、長い髪の女とうつ伏せで倒れる男。
ネリーの大好きな人は、金髪の男子だ。
目の前で倒れている男のように、真っ赤な髪では、ない。
「ち……違うんだ……」
長い髪の女が、酷く狼狽した様子で刀を取り落とす。
「あ……」
銀色の刀身が、赤く染まる。
血溜まりが跳ねて、ネリーの靴下に赤い染みを付けた。
「ネ……リ……?」
赤い髪。
血で赤く染まった髪の男から、大好きな人の声がした。
嘘だ。信じたくない。
そうやって首を振っても、歩道に打ち付けた腰に走る痛みは現実のもので。
いつも、温かさを与えてくれる指先が。
名前を呼んでくれる口が。
「キョウ、タロー」
動かない。
触れても、揺さぶっても。
二度と、動くことはない。
「……あ」
長い髪の女は、崩れるように座り込んだ。
彼女も、死んだように動かない。
「……」
ネリーは、ゆっくりと、静かに立ち上がる。
手を伸ばした先は、女の足元に落ちた、赤く染まった刀身で――。
幼馴染と付き合い始めたのが高校一年の夏。
進学の為に北海道から東京に移り住んだのが大学一年の春。
彼女との同棲を始めたのも、ちょうどその時期。
そして、今は――。
夕暮れ時。
鼻歌交じりにシチューの鍋をかき混ぜながら、京太郎は壁にかかった時計を眺めた。
「~♪」
幼馴染から恋仲へ、恋仲から夫婦へ。
順風満帆に段階を踏んで、愛する人と結ばれて。
専業主夫という今の立場にも不満はなく、何もかもが順調に進んでいる。
中学生の頃は、エプロン姿の新妻が出迎えてくれる妄想をよくしたものだが――。
「お? 誰だ?」
来客を告げるインターホンの音に、京太郎は火を止めてキッチンから出た。
この時間帯の来客は珍しく、エプロンをかけたまま玄関へと向かう。
首を傾げながら、ドアの施錠を解いて来客を出迎えると――。
「きちゃった」
随分と懐かしい顔が、そこにいた。
予想外の相手に京太郎は一瞬だけ固まった。
軽く目を見開いてから瞬きを数回、それから我に帰ると小さく微笑み、口を開く。
「おう、久しぶり。どうしたよ」
「たまたま仕事で近くを通りかかったから」
「へぇ」
来訪者――金髪の彼女は、京太郎の背後を覗き込む。
丸く大きな瞳は、かつての後輩の新婚生活に興味津津なようである。
「奥さんはいないの?」
「まだ仕事。多分そろそろ帰ってくる」
「ふーん」
「ねぇ、上がってもいい?」
リビングの真ん中で、彼女はくるりと部屋中を見渡した。
彼女の動きに追従して、肩で切り揃えられた金髪が揺れる。
昔は、彼女の髪はもっと長かったのだが――確か、高一の夏の終わり頃にイメチェンで短くしたのだ。
「ふーん?」
「どうよ、我が家の感想は」
「そうねぇ……」
唇に人差し指を当てて、考える素振りを見せる彼女。
「……幸せな感じ?」
「なんだそりゃ」
なんとなく、彼女らしくない感想。
具体性のない言葉に京太郎は苦笑を浮かべた。
「この匂いは……シチューでも作ってるの?」
「ああ。一緒に食ってくか? そろそろあいつも帰ってくるだろうし」
「んー……残念だけど、無理そう。この後予定があるから」
「そうか……」
「でも」
「お土産は、貰っていこうかな」
「たっだいまー!」
勢いよくドアを開けて、彼女は帰宅した。
長い黒髪を揺らして、早足にリビングへと向かう。
空きっ腹へのシチューの匂いは、その歩調をより一層速くする。
あっと言う間に玄関と廊下を通り過ぎて、彼女はリビングの扉を開いた。
「いぇーい。帰ったぞー……お?」
リビングの扉を開けた勢いは何処へやら。
愛する妻の帰宅にも関わらず、ぼんやりと突っ立っている旦那に、彼女は首を傾げた。
「おーい、もしもーし?」
「……」
「わっ!」
「っ!?」
顔の前で手を振っても反応ナシ。
耳元で大声を出すことで、ようやく京太郎は肩をビクリと震わせた。
「あ、あぁ……おかえり」
「大丈夫?」
「……あぁ」
微かに漂う香水の香りと、足元の金色の髪。
数十分前までいた他の女の痕跡に、彼女は気がつかなかった。
「……すぐ、夕飯の準備するから」
「変わろうか?」
「いや、大丈夫。座って待ってろって」
「……うん」
シチューはもう、冷めていた。
焼け付くような痛みは意識を奪う。
愛しい人の名前を呼ぼうとしても、声は形にならない。
何も出来ないまま、彼は――。
「……ッ」
唐突に、目が覚めた。
心臓が破裂しそうなくらいに暴れている。
寝汗も酷く、喉が酷く乾いていた。
「……はぁ……」
散らばる麻雀牌、皺だらけになったワイシャツ。
智葉の指導の直後、自分が意識を失う前と同じ室内。
「起きたか」
背後で襖が開く音と、聴き馴染んだ智葉の声。
その一言で漸く京太郎は我に返り、右掌で額の汗を拭いながら振り向き――言葉を、失った。
「え……?」
「ん? どうした?」
「いや、どうした……って」
背中にかかるほど長かった彼女の黒髪。
それが今は、襟首にかかる程度の短さになっていた。
さらによく見ると、毛先が少し雑になっている。
恐らくは智葉が自分で切ったのだろう。
だが、何故そんなことを――?
「ああ、コレか?」
「……」
「……まぁ、イメチェンみたいなもんだよ」
勿論、そんな答えで納得いくわけがない。
しかし、智葉はこれ以上の追求は許さないと言わんばかりに京太郎に背を向けて。
「……送っていこう。もう、大分遅いからな」
釈然としない気持ちを抱えたまま、京太郎は夜道を歩く。
黒服の男性の運転する車で家の近くまで送ってもらったため、自宅までの距離は五分もないが――
「……あ」
道の先の街頭に照らされた、小さな影。
そのシルエットの正体は、考えるまでもなくわかる。
自然と早足になる歩調と、緩む頬。
「……!」
足音で、彼女も京太郎の存在に気が付いたのだろう。
振り向いた横顔は、彼の姿を見るなり満面の笑みを浮かべた。
17回目の誕生日。
もしかすれば、その日は揺杏にとって人生で一番楽しみにしていた日だったのかもしれない。
大好きな人――愛しの彼氏と、二人っきりで過ごす特別な日。
あんな事やこんな事、色んな事をやってみたい。
想いを巡らせるだけで、揺杏の頬は緩んでしまう。
爽には「気味悪い」と引かれ、誓子には「らしくない」と言われたが、そんなの彼女は気にしない。
恋する揺杏のメンタルは、絶対無敵であり――
京太郎「37.4……うん、もうちょい寝てないと駄目だな」
揺杏「うげぇ……」
――その勢いは、熱を出して寝込む程であった。
ベッドに寝込む揺杏と、その傍でリンゴの皮を剥く京太郎。
側から見れば病人と看護人。
揺杏の期待していた空気は全くない。
揺杏「ちっくしょー……」
京太郎「おいおい」
力なく手足をバタつかせる揺杏に、京太郎は呆れた視線を向ける。
そんな事をしても熱は上がるばかりだろうに。
京太郎は一つ溜息を吐くと、一口サイズにカットしたリンゴを指で摘んで揺杏の口に押し込んだ。
揺杏「むぐっ……」
京太郎「さっさと食ってさっさと寝とけって」
揺杏「むぐぐ……」
しゃりしゃり、ごくん。
リンゴ一切れを咀嚼しきると、揺杏は大人しくなった。
揺杏「ん」
京太郎「はいよ」
何も言わず口を開ける彼女に、京太郎は再びリンゴ一切れを摘む。
一つ摘んでは口の中へ、咀嚼して飲み込んだらまた次の一切れを。
「……♪」
側から見れば餌付けのような光景であるが、揺杏はそれなりに満足しているようであった。
リンゴを完食しきると、揺杏は大分大人しくなった。
瞼も半分降りかけて、今にも眠りにつきそうである――が。
人生で最も幸せな時期があるとするならば、それは間違いなく今だと断言できる。
「ん……」
昼の12時。
日曜日とはいえ、高校生の起床時刻としては大分遅い時間帯にネリーは目を覚ました。
肌に感じる温もりは布団とシーツのそれではなく、愛しい人の両腕。
「キョータロ」
「……zzz」
真正面にある寝顔は、ちょっと指で突っついたくらいじゃ起きる様子を見せない。
ネリーとしてはこのまま二度寝をするのも悪くはない、が。
「……お腹、すいた」
くぅくぅと鳴る腹の虫は、愛しさだけでは誤魔化せなかった。
「おきてってば」
「んー……」
ユサユサと彼の体を揺さぶってみる。
瞼がピクピクと動くが、起きる気配はなし。
何度か試してみても結果は同じで、余計にお腹が減るだけ。
ならば別の手段を――と、ネリーは眠る彼の鼻を摘んだ。
「えい」
呼吸を無理矢理に止められた彼は、たまらずに口を開ける。
鼻呼吸から息苦しそうな口呼吸へと変わるが、それでも未だに起きない。
さて、ならば次はと思考を巡らせ――
『ピンポーン』
唐突なチャイムの音で思考を中断。
二人の時間に割って入る無粋な来客。
折角の時間に水を差されたネリーの眉間にシワが寄る。
『ピンポーン』
再び鳴るチャイム。
家主である京太郎の両親は外出中。
その息子は目の前で熟睡中。
『ピンポーン』
『ピンポーン』
『ピンポーン』
「……うるっさいなぁ」
居留守を決め込もうとしたものの、チャイムの音は鳴り止まない。
しつこく粘る来客に、彼女の苛立ちが少しずつ大きくなる。
「むぅ」
一定の間隔で鳴り続けるチャイムの音を背景に、ネリーは京太郎
一定の間隔で鳴り続けるチャイムの音を背景に、ネリーは京太郎の両腕からするりと抜けて起き上がった。
そのままベッドの横に脱ぎ捨てていた彼のワイシャツを肌の上に羽織り、インターホンへと向かう。
来客を迎える気は全くないが、 ここまでしつこいとなると、逆にどんなヤツか顔を見たくなるのだ。
インターホンのカメラを通して覗き見た先。
そこには、よく見知った顔。
「……へぇ?」
恋敵の一人だった――雀明華が、柔らかな微笑を浮かべて立っていた。
ネリー可愛い今夜はここまでネリー可愛い
臨海の他にも大学生編とか義姉キャップとか別√有珠山とか色々書きたいけど時間と気力が無いので誰かおなしゃす
――さて、どうするべきなのか。
ネリーは考える。
このまま居留守を貫き通すか、それとも京太郎を起こすか。
『ピンポーン』
何度も何度もチャイムが鳴ってるにも関わらず、京太郎は一向に起きる様子を見せない。
明華の用件は不明だが、どうせロクなことじゃない。
「……」
鳴り続けるチャイムの音は耳触りだが、わざわざ出てやるのも癪だ。
ネリーは――
「んー……?」
「あ」
背後のベッドで彼が動く気配。
振り向けば、彼が薄眼を開けて上体を起こしていた。
気の毒なことにこの耳触りなチャイムの音が目覚ましになったらしい。
「誰だ……?」
「セールスみたい。ほっとこーよ」
しれっと嘘をつき、インターホンのカメラの映像を消す。
今は二人だけの時間であり、たとえ誰であろうと邪魔者である事には変わらないのだから。
居留守を貫き通すと決めれば、最早ネリーの頭の中には明華の顔は無い。
京太郎が起きた以上、インターホンなんてもうどうでもいい。
来客を出迎えるべく起き上がろうとする彼に思いっきり飛び付き、ベッドへと押し倒す。
『ピンポーン』
『ピンポーン』
「いくら何でもしつこ過ぎないか?」
「キョータロが出てったらずっと帰らないよ。絶対」
時は金なり、というのはネリーの好きな日本の諺の一つ。
時間はお金で買えないし、何より二人だけの時間を明華に盗られるのは絶対に許せない。
チャイムの音を遮るように、京太郎の耳を塞ぐ。
何かを言おうとした口を、自分の口で塞ぐ。
これで彼が感じるのは自分だけ。
「――」
十秒か、二十秒か。
そうしてじっとしていると――やがて、彼の方から抱き締めてくる。
ネリーが求め、京太郎が返す。
いつものように、お互いだけを求め合い――いつの間にか、チャイムの音は鳴り止んでいた。
麻雀部で共有するべき事を日誌という形で残そう。
そういった目的で始まった筈だった新道寺麻雀部の交換日誌だが、今ではその役割を全くと言っていい程に果たしていない。
「……」
京太郎は無言で日誌を捲る。
昨日の日誌当番は花田煌。
基本的に真面目な彼女だが、その内容は――
7時02分、起床。
7時05分、二度寝。
7時09分、カピーにのしかかられて起床。
ベッドから起きる際に寝ぼけて少し躓く。
そのままトイレに足を運んで寝巻きのズボンを脱ぐと――
京太郎は、溜息を吐きながらページを飛ばした。
他のメンバーの書いたページを読み返しても、必ず自分の名前が書いてある。
いつ彼と話した、どこで彼と出会った、手をどこで繋いだ――など。
文字のクセやら文章の書き方での違いはあれど、内容はどれも似たり寄ったりだ。
姫子に至っては自分の痴態を詳細に記述していた。
「彼は私の手を錆びた鎖で荒々しく縛り上げ――って、俺がいつそんなことしたよ……」
諦めに近い思いで、京太郎は日誌を閉じる。
部員全員がこんな調子では、最早どうしようもない。
本当に、最初はただの交代で書く日誌だったのだ。
内容も事務的な連絡やちょっとした漫画のような落書きばかり。
それが、今のような異常なものになってしまったきっかけを作ったのは――。
「……俺、なんだよなぁ……」
何の気なしに書いた一文。
自分の次の当番が煌だから付け加えてしまったもの。
『p.s. 花田先輩の。水族館のチケットを二枚もらったので、今度一緒に行きませんか?』
この一文で、全てが狂い出した。
翌日から、姫子や哩が積極的に京太郎に絡むようになり。
それに対抗するように、煌もよく声をかけてくるようになった。
気が付いた時には、もう誰にも止められない。
新道寺麻雀部は――まるで台風の目のように、京太郎だけを除いて狂い始めた。
京太郎は日誌を部室の戸棚にしまい、横目で練習風景に目を向けた。
楽しそうに談笑をしながら卓を囲む少女たち。
しか、京太郎は知っている。
彼女達が向かい合って笑いながらも、その意識の全ては京太郎に向けられていることを。
自分の挙動の全てが、見張られていることを。
姫子の座る椅子が、妙に湿っていることを。
「おーい。きょーたろー」
卓の方から、自分を呼ぶ声がする。
「はい、なんですか?」
日誌さえなければ――間違いなく、良い先輩たちなのだ。
ならば、部活の最中は、せめて自分も良い後輩でいよう。
そうやって、徐々に自らも狂い始めていることにすら気付かずに。
京太郎は、笑顔で振り向いた。
最初は表面上な和やかにしながらも日誌上では罵倒しあう新道寺日誌、みたいな話にしたかったのに
昔は良かったなどど言うと、あまりに年寄り臭く聞こえてしまうが。
それでも、学生時代のことを思い出すと現状を重苦しく感じてしまう。
あの頃は、ただ直向きに麻雀と向き合えた。
だが、今は――。
「お疲れちゃーん!」
「いつっ!?」
仕事も終わり、帰り支度をしていた京太郎は、バシンと強めに背中を叩かれた。
文句の一つでも言ってやろうと振り向く前に、右腕を細く白い腕に絡み取られた。
尾鼻腔を擽る甘い香りと腕に伝わる柔らかな感触で、不満を漏らしかけた口は直ぐに閉ざされた。
「じゃ、今日はどこに食べにいこっかー?」
「はぁ……元気っすねぇ、こーこさん」
「フフン」
皮肉に対して、何故か得意げに鼻を鳴らす恒子。
高校時代から、彼女はいつもこうだった。
グイグイと強引に引っ張って来て、無理矢理ペースに乗せられてしまう。
別に、京太郎は彼女のことが嫌いなわけではない。
彼女の明るい性格は好ましいし、スタイルはストライクに近いレベルで好きだ。
それに、こんな美人に食事に誘われて心が弾まない男はいない。
勿論、京太郎もそんな男のうちの一人――だが。
「後輩相手にセクハラですか。いい加減にしなさい」
――ああ、やっぱり。
経験からこの後の展開が予想できた京太郎は、漏れかけた溜息を飲み込んだ。
キツイ声音で棘のある口調。
恒子は舌打ちと共に京太郎の腕を離して振り向いた。
「あーせんぱいおつかれさまっすー」
あまりの棒読みっぷりに京太郎も言葉が出ない。
後輩の露骨な態度に、声の主に――針生えりは、眉間に皺を寄せた。
「あーダメダメ。そんな顔したら朝のお化粧の時間増えちゃいますよー?」
もう若くないんだから。
わざとらしくふざけた口調で喋る恒子は、口元に浮かんだ嘲笑を隠そうともしない。
「……」
どこまでも憎たらしい口を利くきく後輩を前に、えりは何も言わない。
口から飛び出そうになる罵倒を必死に堪えている。
言い返してしまえば、自分が恒子と同格の存在だと認めることになるからだ。
言い返すことはできず、かと言って恒子のように下品なアプローチを仕掛けることもできない。
結果として、えりに出来ることは鋭い眼差しで恒子を睨み付けることだけになる。
恒子の優越感に満ちた視線と、えりの嫉妬が込められた視線。
その二つに挟まれた京太郎が思うことは、ただ一つ。
「お腹痛い……」
二人を何とか宥めて帰路に着いた頃にはすっかりと草臥れていた。
女性との人間関係で苦労するなんて、学生の頃は思ってもいなかった。
「はぁ……」
溜息と一緒に、懐から鍵を取り出す。
一人暮らしのため、借りているアパートの一室。
ここにさえ帰って来れば、後は明日に備えて休むだけ。
――の、筈だった。
「おかえりー。私を食べる? 私とお風呂? それとも私?」
「……選択肢がなさすぎる」
一人暮らしのために借りたアパートで、京太郎の帰りを待っていた女性。
その台詞に呆れてジト目を送ると、イタズラっぽくウィンクを返された。
負けた、と思った。
「部ち――」
発した言葉は、唇に立てられた人差し指に遮られた。
彼女のその行動が意味することは、一つしかない。
「……久さんは。もう夕飯は済ませたんですか?」
「まだ。せっかくなら一緒に食べたいじゃない?」
少し前から同棲を始めた相手、竹井久。
彼女の存在を、恒子たちは未だ知らない。
学生時代に色々とお世話になった元部長。
数日前に行き着けの店で偶然再会し、過去話や仕事の愚痴で大いに盛り上がり。
意識が飛ぶ程に酒も入り、気が付いた時には――。
『実は、ちょっと危ない日だったりして』
「え゛っ』
――自宅のベッドに彼女を連れ込み、致してしまった後だった。
勢いでヤってしまったとはいえ、責任は取るべきだ。
彼女が出来ました、と一言恒子たちに伝えられればいいのだが。
恒子の事だから詳細を根掘り葉掘り聞き出そうとしてくるだろうし、
勢いで致してしまった事がえりに知られたなら軽蔑というレベルでは済まない冷たい視線に晒されることだろう。
加えて、あの二人は仲が悪い。
上手い誤魔化し方を考えているうちに、毎度の如く喧嘩が始まってしまう。
あの空気の中で、『つい勢いでヤっちゃって彼女が出来ました。もしかしたらできちゃった婚するかもです』なんて事は知られたら――。
「食べないの? 冷めちゃうけど」
「あ、あぁ……いただきます」
極寒の妄想に身を震わせていたが、久の声で現実に引き戻される。
電子レンジで温められた惣菜が、目の前の皿の上に並んでいた。
全てがスーパーのタイムセール品。
器用そうに見える久だが、料理は苦手らしかった。
「……」
千切りキャベツに箸を伸ばしながら、京太郎は考える。
どうすればいいか。このままじゃ、いけない。
「あ、そうか」
答えは、わりとあっさり見付かった。
「ん?」
一人で誤魔化そうとするからダメなのだ。
だったら、もう一人に協力して貰えばいい。
目の前で、鶏の唐揚げを頬張る彼女に。
「なに?」
「いえまぁ、ちょっと協力してもらいたいことが」
「ふーん?」
愛の共同作業ね、と久が呟く。
あながち間違いではないのだが、ただ恒子たちを誤魔化すのを手伝ってもらうだけなのにそこまで言うか。
ファミレスで向かい合って座る4人の男女。
並んで座る京太郎と久に、テーブルを挟んだ向かい側には恒子とえりが並ぶ。
「――というわけで。彼女とは少し前からお付き合いをしています」
向かい側に座る恒子とえりが爆発しないか、内心でビクビクしながら――京太郎は、隣に座る久を自慢気に紹介する。
『勢いでついヤってしまった』ということは隠しつつ、健全なお付き合いをしているという体で。
「ふぅーん?」
一番最初に反応したのは恒子だ。
頬杖をつき、訝し気に京太郎と久の顔を見比べる。
「キミと……京太郎が?」
「ええ、まぁ」
「……」
女子アナ二人の目力の強い瞳に睨まれても、久は怖気ずに微笑みを浮かべる。
ここまでは打ち合わせ通りだから、久も余裕の態度を崩さずにいられた。
恒子と久が言葉を交わしている側で、えりは何も言わない。
時折、何か思う事があるように意味あり気な視線を京太郎に送るだけだ。
もし事実が知られたら色々とキツイ言葉を刺してくるだろうが。
「随分と急じゃない?」
「そうですか? 前から付き合いはありましたし」
結婚を前提にした同棲生活をしていることは事実。
ようは、そのキッカケさえバレなければいいのである。
それさえ隠し通せばあとは何とかなる――というのが、京太郎の見込みである。
実際、眼前の女子アナ二人は大人しく話を聞いてくれている。
この様子なら、問題なく話を終えることが出来る筈だ。
彼女がいると知れば恒子が絡んでくることも減るだろう。
そうなれば、恒子とえりが言い争うこともなくなる。
京太郎の頭痛の種も消えるし、このまま事が運べば全てが上手くいく。
「……なんて、考えちゃってんだろうなぁ」
「え?」
「ううん、なんでもなーい」
――その全てが、恒子に読まれていることを除けば。
嘘は吐いてない。
が、本当のことも話していない。
恒子は直感と経験で、京太郎の演技を見抜いていた。
――それに。
京太郎に寄り添う彼女。
竹井久という女は、恒子もよく知っている。
彼女が初出場したインターハイで見せ牌をやらかしたこともハッキリ覚えている。
「じぃー……」
「ん、なんですか?」
恒子の視線に気が付いた久が、柔らかな微笑みを浮かべる。
京太郎と違い、焦りや態とらしさは見られない。
「……それが逆に、怪しいんだよなぁ……」
二人の女子アナから強い敵意をぶつけられて、それでも平然としている。
余裕のある態度は、こちらを嘲笑しているかのようにも感じる。
「……ありえねぇー……」
京太郎の口から語られる竹井久という人物と、目の前の女が結び付かない。
恒子は既に確信している。
彼女は間違いなく、こちら側と同類の――狂おしい程に彼を求めている女だ。
証拠はないが、恒子は確信していた。
――この女が、京太郎を嵌めたんだろうなぁ。
「……ま、ならしゃーないか。ハメを外しすぎんなよー?」
「ふふ、さてどうでしょうね?」
恒子と久が、微笑みを交わし合う。
表面上は和やかに、心の中では如何にして相手を貶めるかを考えながら。
「……ほっ」
目の前の光景しか見ていない京太郎は、上手くいったと胸を撫で下ろす。
これで明日からは、職場でのストレスが大分減るだろう。
京太郎は、女たちが笑みの裏側に隠しているものに気が付けない。
そして。
「……」
えりが、テーブルの下で握った拳には、誰も気が付けなかった。
久も恒子も、そして京太郎も。
程度の差はあれど、えりについては何も心配することは無いだろうと考えていた。
恒子の悪ノリが止まれば、彼女の苛立ちも収まる――そう京太郎は考えて。
生真面目なえりのことだから、京太郎に彼女がいると知れば何も手を出してこないだろう――と、久と恒子は考えた。
「……すみません。少し、お手洗いに」
そう言い残して、えりは席を立つ。
返事を待たず、京太郎たちに背を向けて女性用トイレへと向かった。
洗面器に向けて、えりは口内に溜まった物を吐き出す。
血と唾液と欠けた歯が、蛇口から勢いよく流れる水によって排水溝へと飲み込まれていく。
「……痛」
憤りを抑えるあまりに、噛み砕いてしまった奥歯。
白い洗面器に、流しきれずに残った血の跡。
それは、彼女の心の内側をそのままに表していた。
「……有り得ない……」
竹井久と須賀京太郎が結婚を前提とした交際をしている。
針生えりは、それを許すことが出来ない。
「……許せない」
久は、恒子と同じタイプの人間だ。
決して京太郎に良い影響を与えない。
見過ごすことなど、出来る筈がない。
ずっと、彼を見てきた。
清澄という、初心者育成には全く向いていない環境で雑用に励む彼を。
女子たちが華々しく活躍する裏で、地道に活躍する彼を。
「まもらないと……」
彼がようやく手に入れた、今の立場。
久や恒子によって、穢されないように。
保護しなければならない。
「……」
――だが、どうやって?
方法は、限られる。
一番の理想は彼を穢されぬように隔離し、えりの手によって保護していくことだ。
しかし、これは彼の社会的な立場を考えれば現実的な方法ではない。
――だったら。
「消そう」
ぽつりと口に出した言葉は、自分でも驚く程に落ち着いていた。
あの二人のことを思い浮かべると、腸が煮えくり返るような気持ちになるのに。
正しいことだと、心の底から信じているから。
感情のままに導き出した答えではなく、理性の全てが久と恒子を害悪だと訴えているからこそ。
「彼のために」
鏡に映るえりの顔には、もう怒りの色は無い。
純粋に、彼を想う1人の女としての顔が映っていた。
彼女――久の紹介を無事に終えた京太郎は、幾ばくか軽くなった足取りで帰路に着く。
問題はまだいくつか残っているとはいえ、明日からは抱えていた胃痛が無くなるのだ。
そう思えば、どんな辛い事でも乗り切れるような気がしてくる。
「改めてよろしくね、京太郎♪」
隣を歩く久が腕を絡めてくる。
この時期に密着して歩くと暑苦しいが、彼女の幸せそうな笑みには代えられないだろう。
照れや恥ずかしさもあり頰に熱が集まるのを感じる。
「あら、照れてたりする? あんな事までしといて」
「……もー」
あんな事――と久は言うが。
実のところ、京太郎に行為の最中の記憶はない。
(けどまぁ……ベッドに残ってたアレとか明らかになぁ……)
ただ状況的に久と致してしまったことは明らかだし、詳細を問い質すのは躊躇われた。
勢いのままに、人生の墓場まで一直線に突き進んでしまったが――。
(まぁ、大丈夫だろう。多分)
なんだかんだ言って久も美人だし、大事な場面ではしっかりした人だ。
それに彼女の笑顔を見ていると、つられて頰が緩む自分がいることも確かだ。
結婚しても、きっと後悔することはないだろう。
京太郎は微笑みながら、自分を納得させるように小さく頷いた。
「……ふふ」
その思考の全てが、久によって誘導されたものだとは知らずに。
恒子とえりが京太郎を諦めていないのと同じように。
久もまた、これで終わったとは考えていない。
「……ま。負けないけど」
少しずつだが、確実に。
京太郎の心には、久への愛情が芽生えている。
加えて、久にはあの女子アナ2人には無い大きなアドバンテージがある。
未だ京太郎にも話していない、一つの事実。
「楽しみ……ね」
空いた片手で、下腹部をさする。
コレを明かした時の女子アナ二人の顔を想像するだけで――久の背筋を、ゾクゾクするものが走った。
何を仕掛けられても、久には対処出来る自信がある。
知人の弁護士も協力してくれている。
あの二人が何かしようものなら、徹底的に叩き潰してやろう。
社会的な立場まで奪ってやる。
「ふふ……本当に、楽しみね♪」
街灯の明かりや、虫の鳴き声。
肌に感じる、想い人の温もり。
女子アナ二人の、あの目線ですら。
全てのものが自分たちを祝福しているような気がして――久は、心の底から微笑みを浮かべた。
俺たちの戦いはこれからだ
それは、自販機に500円玉を投入してお茶のボタンに指を伸ばした時だった。
「……え?」
後ろで、誰かの驚いたような声と固い何かが床に落ちた音。
反射的に振り向くと、白い髪の女子が口を半開きにして立っていた。
その足元にはコーラの缶が転がっている。
京太郎「えっと……」
彼女には見覚えがある。
小瀬川白望。宮守女子の先鋒だ。
彼女と直接の面識はないが、二回戦で清澄とぶつかった相手として記憶に残っていた。
京太郎「あー……大丈夫、ですか?」
何となく気まずさを感じながら、京太郎は口を開く。
だが。
白望「あぁ……」
京太郎「……え?」
対する白望の反応は、言葉ではなく抱擁だった。
頬を染めて京太郎の背中へと手を回し、ぴったりとその身を寄せる。
京太郎「え? え、え?」
まるでワケのわからぬ状況に、口が上手く回らない。
直に伝わる彼女の柔らかさやら、鼻腔をくすぐる良い匂いやら。
普通ならすぐに彼女を引き剥がすべきなのだろうが、冷静な思考が吹き飛んだ京太郎はただ彼女のなすがままにされている。
白望「ん……♪」
京太郎(な、なんなんだぁ……?)
10分ほど時間が経ってから、彼女の方から名残惜しそうに身を離した。
天国のような地獄のような、わけのわからなかった時間が終わる。
京太郎は安心してホッと一息吐いて、彼女に疑問をぶつけようと口を開き――。
白望「ずっと、会いたかった」
彼女の口にした言葉に。
白望「おとうさん」
開けた口が、閉じられなくなった。
おい
おい
えっ
えっ
女二人が睨み合い、互いを罵倒しあう光景。
会話の端々に出て来る「彼」だとか「ビッチ」だとかの言葉を聞けば、詳細は分からずともそれが俗に言う修羅場と呼ばれるものであることは理解できる。
「なんやアンタ、さっきから――ストーカーか?」
長い黒髪と関西の訛りが特徴的な彼女。
スタイルも良く、顔立ちも整っているだけに、怒りを露わにしたその表情には強い威圧感がある。
「……それはあなたでしょう? 彼の、迷惑も考えないで」
だが、対峙する金髪の女も負けてはいない。
見開かれたオッドアイの瞳は怯むことなく長髪の女を睨み返す。
二人の主張は絶対に交わらない。
『自分こそが彼の恋人であり、お前は唯のストーカーだ』
話題の中心人物である「彼」はこの場にはおらず、言い争いは止まらない。
だが――。
「……ええわ。そこまで言うなら」
「直接、聞きましょうか」
彼女たちが言い争うこの場こそが、「彼」が住むアパートの廊下であり。
二人が同時に目を向けた薄いドアの向こう側が、「彼」の暮らしている部屋。
「……」
長髪の女が、人差し指でインターホンを押した。
呼び出し音が鳴ってから1分。
ドアは開かず、中からの返事も無い。
焦ったく感じて再びインターホンを鳴らすが、相変わらず中からの返事は無い。
「……お出かけ中?」
「いえ、それはないわ。彼は今日、風邪で大学も休んでる筈だから」
そんな事も知らないの?
と、金髪の女は嘲る様に笑う。
彼女を名乗る癖に何にも知らないのだな、と。
「……は」
「っ!」
そんな視線を鼻で笑うと、長髪の女は懐から小さな鍵を取り出す。
「彼」の部屋の合鍵。
彼女ならば持っていて当然だと言わんばかりの態度で、女はドアノブに手をかけた。
金髪の女は内心で爪を噛む。
彼という唯一無二の存在が暮らす部屋。
そこに自由に出入りする権利を、黒髪の女は持っているのだ。
優越感を滲ませた嘲笑を浮かべ、黒髪の女はドアを開き――。
「……ん?」
「あら?」
チェーンロックとU字ロック。
二人の女の知らぬ間に追加されていた防犯錠。
シンプルながらも頑丈な作り。
このロックが掛かっている限りは、女の力でドアが開くことはないだろう。
「用心深いなぁ~」
「そうね。彼はしっかりものだから」
道具でも、使わない限りは。
さてどうしたものか、と腕を組んだのは黒髪の女。
強固なロックは女の細腕では破れず。
かといって無理矢理こじ開けるような工具もない。
「京くん……」
内側からロックが掛かっている以上、彼はここにいる。
インターホンを鳴らしても携帯にかけても出られない、ということは。
「……」
――彼は今日、風邪で大学も休んでる筈だから。
本当に、ストーカー女の言葉が正しいのなら。
扉を打ち破ってでも、彼の元へ行かなければならない。
恋人が苦しんでいるのなら、手を差し伸べなければならない。
愛に勝る法律など、女の脳内には存在しないのだから。
「どいて」
金髪の女が黒髪の女を押し退ける。
ドアの前に立ち、バックの中から取り出したのは何の変哲も無い一本のゴム紐。
当然ながら、ロックを物理的に破壊することは出来ない。
「お前、何を――」
――するきだ、と黒髪の女が台詞を言い切る前に。
カチャリ、とロックが内側から解除される。
金髪の女は黒髪の女を無視して、室内へと踏み入る。
物理的な突破は無理だが、構造的な欠陥はどうにでもできる。
「彼」の為に毎日家事の腕を磨き生活の知恵を育む金髪の女にとって、この程度のロック解除は朝飯前だ。
「――て、待ちやっ!」
「っ」
一人置いてきぼりをされそうになった黒髪の女が、慌ててドアの間に足を差し込む。
その往生際の悪さに、金髪の女は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
運命の出会いが、お互いにとって幸せなものだとは限らない。
女は「彼」のことを一生を添い遂げる相手として見ている。
では、「彼」にとっての「彼女たち」は――。
「――」
女たちが部屋の中を荒らし回っている間。
「彼」こと須賀京太郎は、全力でアパートから遠ざかっていた。
寝巻きの上にジャンパーを羽織り、ベランダ用サンダルを履いただけの格好。
「――」
金髪の女の言葉通り、風邪をひいているため体調は最悪。
頭は締め付けられるように痛み、喉の奥からは吐気が込み上げてくる。
それでも、京太郎は止まらない。
止まるわけにはいかない。
「……く、そ」
今の自分が女たちに見つかれば、何をされるのか。
想像もつかないし、出来ればしたくないが。
人としての尊厳が犯されることは、間違いなかった。
金髪の女――福路美穂子とは、高校からの付き合いだ。
高校の時は一言か二言か話した程度の関係だった。
――まぁ。やっぱり、そうなのね♪
彼女がおかしくなったのは、大学の麻雀サークルで知り合ってから。
元より世話焼きな美穂子だが、彼女の京太郎に対する振る舞いは一線を超えていた。
講義やゼミの時以外は常に三歩後ろを歩くような。
明らかに後輩への態度ではなく、困惑した京太郎が訪ねてみたところ――
「ごめんなさいね」
「あなたの妻として、出来る限りは尽くしてあげたいのだけれど――」
「こんなんじゃ、まだまだね……」
――まるで、話が通じなかった。
黒髪の女――清水谷竜華は、最初からおかしかった。
――なんや、こんなとこにいたんかぁ。
初対面の、第一声がコレである。
『トキが家で待ってる』だとか、『あの子がお腹空かせとるんよ?』だとか。
気味が悪く、距離を置いていたらいつの間に電話帳に竜華の名前が登録されていた。
挙げ句の果てには、どうやって作ったのか不明な合鍵。
最早、自宅ですら独りの場所ではなくなった。
せんぱぁい(はぁと
が
こうはぁい(はぁと
になるのか
運命の出会いだとか、そんなものはいらなかった。
普通に出会い、普通に仲良くなって、普通に恋をしたかった。
美穂子も竜華も、容姿だけならば京太郎のストライクゾーンを射抜いているだけに――現状を呪わずにはいられない。
「う、ぁ……」
頭痛が走り、視界が歪む。
捕まりたくない。
その一心で、ベランダから抜け出し女たちから逃げ出してきたが、いよいよもって身体の限界が近づいて来た。
肉体の限界と精神的な焦り。
外と内から容赦なく攻め立てられ、京太郎は冗談抜きに命の危機を感じていた。
「大丈夫ですかー?」
幻覚すら見え始めている。
ナース服の女が心配そうに声をかけてくるという幻覚。
「あのー? もしもーし?」
この時期、この道のど真ん中で、妙に浮いた格好をした女。
それが自分を気遣うように話しかけてくるなんて――幻覚以外に、有り得るはずもなく。
「……好きに、しろよ」
「へ?」
――もう、どうにでもなればいい。
諦めと自嘲の笑みを浮かべ、ナース服の女にもたれかかるように。
京太郎は、意識を手放した。
「あらら」
自分に抱きつく様に倒れこんできた男を、ナース服の女は嫌な顔一つせずに抱き止めた。
病人の看護は嫌いではないし、それに。
「もしもーし?」
「……」
「……それじゃ、ま」
「好きにさせて、もらいますよーぅ?」
――その日。
運命に、出会った。
おとうさん。
聞き間違えであってほしいが、確かに目の前の少女は京太郎のことをそう呼んだ。
親愛の込められた眼差しと、先程の抱擁は赤の他人に向けるソレではない。
「……おとうさん?」
「あ、えっと、その」
フリーズした京太郎に、小首を傾げる少女。
いつまでも固まっているわけにはいかず、京太郎は何とか必死に頭を回す。
京太郎は長野県生まれ長野県育ち。
岩手には一度たりとも足を運んだことはない。
つまるところ、少女……小瀬川白望との関係は有り得ない。
過去の記憶を辿っても白い髪の少女との出会いなんてのは無い。
よって、京太郎の出した結論は――
(人違いか……または、ちょっとアレな人かな……?)
出来れば前者であってほしい。
心を落ち着けるべく咳払いを一つして、京太郎は白望と向きあった。
「あの、ですね」
「?」
「人違い、じゃないですか? 初対面ですよ俺たち」
「え……」
白望は京太郎の言葉に大きなショックを受けているようだが、京太郎にとってはしったこっちゃない。
第一、まだ高校一年の自分に高校三年の娘などいてたまるか。
「そんな……」
捨てられた子犬のような眼差しがチクリと胸の内を刺す……が。
出来れば、早くこの場から逃げ出したいのが京太郎の本心である。
知り合いに見られたらきっと面倒なことになると、確信していた。
出来るだけさっさとクローズして戻ろう。
そう結論を下して京太郎は立ち去る為に口を開く――が。
「……認知……してくれないの?」
「いやちょっと待って」
その一撃は、シャレにならない。
今にも泣き出しそうな表情に加えて、その台詞。
凡そ全ての男の社会的立場をブチ殺すだけの破壊力。
(コレ……もしかして、ヤバイ……?)
恋愛に勝ち負けは無いと、母は言っていた。
失恋に痛みはあっても後悔はなかった、とも言っていた。
……だったら。
今この瞬間、胸を絞める感情は、一体なんなんだろうか。
◆
「~♪」
ネリー・ヴィルサラーゼはかつてないほど上機嫌だった。
想い人と結ばれ、触れ合う日々の幸せは何よりも彼女を満たす。
幸せで蕩けてしまいそうな錯覚すら覚える。
「よし♪」
身なりを鏡の前で整えて、部屋を出る。
京太郎と会えることを楽しみにして、彼女は登校する。
その足取りは、放っておけばスキップでも始めそうなほどに軽く弾んでいた。
ただ、一つ彼女は知らなかった。
恋は盲目という言葉があり。
今の自分が、正にそれにあたるということを。
好きな人、須賀京太郎が抱える気持ちを、真に理解しきれていないということを。
そして、それがどうなるかは――
◆
「あの」辻垣内智葉が髪を切った。
京太郎が登校した時、クラスの話題はそれ一つだった。
見事で艶やかな長い黒髪が、襟首にかかる程度まで短くなっている。
一体、土日を挟んだ間に何があったのか――と、話好きのクラスメイトたちは好き勝手に噂する。
「……まぁ、そうだよなぁ」
――サトハが家の仕事で関わることでミスを犯した。小指を詰める代わりに髪を切ったのだ。
――人斬りとしての衝動を抑えるために自分で切った。
――いや、自分で切ったのではない。抗争の中で失ったのだ。
……などとまぁ、好き勝手に噂する声が聞こえる。
京太郎は予め知っていたので今更驚くことはなかったが、彼らの気持ちも理解できてしまう。
だからまぁ、尊敬する部長が好き勝手に噂されても、ちょっとイラつくだけで口に出して責める気にはなれなかった。
なんせ、京太郎自身も智葉が髪を切ったワケは知らないのだから。
……あまり、深く踏み込んではいけない部分のような気がして。
「もしかして、前から知っていたのですか?」
休み時間の間に、ハオが問いかける。
その内容は、智葉の髪の件について。
噂に対して京太郎のリアクションが薄いからこそ、つい気になったのだという。
「まぁ、知っていたというか……何というか」
「ハッキリしないですね」
京太郎は、何となく次の質問の予想がついた。
ハオより先に口を開く。
「ちょっと前に智葉さんちで麻雀教わってさ」
「……ふむ」
「その時の……帰り際には、なんかもう短くなってた」
「……何ですか、ソレ」
「何なんだろうなぁ」
京太郎も、ちょうど彼女が髪を切った直後に立ち会ってはいるが何故切ったのかまでは知らない。
その点については好き勝手に噂する連中と同レベルだ。
そして、彼は自分のした失言に気付いていない。
「……あと」
「ん?」
「行ったのですか。智葉の家に」
「え? まぁ」
急に話題の方向が変わる。
その声音に、小さな棘を感じた。
「……京太郎は、ネリーと付き合っているのでは?」
「あ、ああ……そういうことか」
何となく、ハオの言わんとしていることに気が付いて。
京太郎は頭を振ってその推測を否定する。
「確かに智葉さんとこに行ったけど『そんなん』じゃねえって」
「では」
「麻雀の指導だよ。ただの」
今の京太郎はネリー一筋。
誰かに邪推されるのは望むところではない。
だからそこはしっかりと否定する。
……そう言いながらも、突かれると若干の後ろめたさはあった。
ネリーという恋人がいながらも、智葉の家に一人で行ったことは確かだからだ。
「なるほど、なるほど」
「ん?」
「いえ。ネリーは幸せものですね」
「……まあ、な」
だから、京太郎は勘違いする。
ハオが棘を向けた、その相手を。
時間が癒せる傷がある。
時間で消えない痛みがある。
そして、私――小鍛治健夜が抱えているものは、後者だった。
「久しぶりですね、戒能プロ」
「えぇ」
二人きりで話がしたい。
そんな連絡を送ってきたのは、後輩のプロ雀士戒能良子。
彼女とは個人的にそこまで仲が良いわけではないが――昔、とあることで争いあった為に関係は深いとも言える。
「それで、話って?」
前置きやら何やらをすっ飛ばして本題を聞く。
個人的に彼女には苦手意識があり、出来るなら早く切り上げたかった。
それでも、彼女の呼び出しに応じたのは。
「これを」
そう言って戒能プロが取り出したのは一枚の写真。
一組の男女が抱き合っているシーンが映し出されている。
女性の名前は瑞原はやり。同じプロ雀士。
そして、男性の方は――。
「京太郎のことについて、です」
須賀京太郎。
私の――私『たち』の想い人で、昔に彼を巡って色々なことがあった。
最終的な結果は、語るまでもなくその写真を見ればわかるだろう。
「……それが、どうしたの?」
「フェニルエチルアミン、というものをご存知ですか?」
「ごめん、なにそれ」
異性に好意を持ったり、何かに集中しているときに脳内で分泌されるホルモン。
間脳の脳下垂体から分泌されて、脳内で性的興奮と快感に直接関係する神経伝達物質として機能する――というのが彼女の説明だった。
「……で、それが?」
小難しいことを言っているけれど。
ようは、恋愛をしていれば誰もが抱くものだろう。
そんな話をする為にわざわざ呼び出されたのではたまったものじゃない。
「ソレを。人工的に作れるとしたら」
「え」
「瑞原プロが――彼のフェニルエチルアミンを、意図的に作れるとしたら?」
恋愛ホルモンを狙って生み出せたら。
そんなことは有り得ない。けれど、もしも出来たら。
「瑞原プロが、彼を洗脳している」
「……」
言葉が出なかった。あまりに話が突飛すぎて。
それでも話を続けようとする彼女の言葉を遮るように、私は咳払いを一つした。
「だから、どうしたって言うんですか」
彼女に対して苛立ちを感じている自分がいる。
仮に。仮に彼女の言葉が正しかったとして。
私に、何が出来るというのか。
「出来るんですよ」
「なにが」
「同じことが」
「小鍛治プロ。あなたの協力があれば――瑞原プロと、同じことが出来るんですよ」
それが出来るとして。
それの意味するところは、つまり。
あまりにも、モラルに反していて。
「一緒に、彼を取り返しませんか」
それなのに。
私は、戒能プロの瞳に吸い寄せられたかのように、目線を外せなかった。
恋は盲目。バカップル。
呼び方は様々であるが、彼らは麻雀牌が角砂糖にでも見えているのだろうか――とアレクサンドラは目の前の光景に対してそんな感想を抱いた。
「うりうり」
「このー♪」
ネリーを膝に乗せ、頬を突っつく京太郎。
語尾を楽しそうに弾ませ、されるがままのネリー。
付き合い始めたばかりの恋人たちがイチャついている。
まぁ、それ自体は何もおかしくはないだろう――ここが、部室でなければ。
「ん、ごほん」
わざとらしく、咳払いを一つ。
流石に第三者の存在に気付けば、この二人とて――。
「キョータロ……」
「……ネリー」
――まるで、効果がない。
というより、互いに夢中過ぎてアレクサンドラの存在に気付いてすらいなかった。
文字通り眼中にないようだ。
「……お手上げ、というのかなコレは」
脳内は砂糖漬け。視界はハチミツ塗れ。
スイーツに染まった思考回路。
想い人が目の前にいれば、そこが何処であろうと二人の世界を作り上げてしまう。
二人よりは長く人生経験を積んでいるアレクサンドラだが、その感覚はまるで理解できなかった。
コレで二人が実績を落とすようならアレクサンドラも注意した。
だがまあ、ネリーはむしろ調子を上げているし京太郎も目標に向かって走り続けている。
雀士としての本分を蔑ろにしていない以上は、監督としても問題は無い。
むしろ、推奨するまでだ。
「……待つか。サトハたちを」
バカップルは放置。部活の開始時間までまだ余裕はある。
アレクサンドラは椅子に腰掛け、本を開いて他の部員の到着を待つことにした。
非の打ち所がなく、理想的な恋人同士。
満たされ、何もかもが上手くいっている。
だから、二人は気づけない。見逃している。
恋は盲目。その恐ろしさを。
昼休み。ランチタイムを告げるチャイムが鳴り響く。
ネリーが席を立って向かう先は食堂ではなく、京太郎のクラス。
その目的は、最早語るまでもなく。
「~♪」
鼻歌交じりにドアを覗き込めば、京太郎は――
「なあハオ、この注意書きなんて書いてあるんだ? 中国語だよな」
「あぁ、それは」
「……ム」
使い古された麻雀の教本を片手にハオと話し合っていた。
それは別にいい。京太郎も麻雀部員だし、うん。
ハオのお下がりの教本を使っているのも知っているし、その事で話し合うのも理解はできる。
「それは、次のページを……」
「あ、なるほど!」
……だが。
たかが麻雀の指導で、ピタリと身を寄せる必要はどこにある?
ハオのスキンシップはどう見ても過剰だ。
少なくとも、部員への、そして知人の恋人に対するそれでは無い。
「……ふ」
「!」
さらに悪い事に、ハオはネリーの存在に気付いている。
口元に浮かべた笑みは、どう見ても嘲りや挑発の類で――。
「あ、ごめん。ちょっと待って」
ハオの指が京太郎の手の甲に重なる直前。
唐突に会話を切り上げ、京太郎は教本を閉じた。
一言だけハオに断りを入れると、直ぐにネリーの元に向かう。
「早いな、チャイム鳴ってから一分経ってないし」
「……」
「……ネリー?」
……それは、ハオにとっても、ネリーにとっても、絶妙なタイミングだった。
狙いを付けた獲物が唐突に姿を消したような。
振り上げた拳を、どう下げていいか、わからなくなるような。
「……なんでもない。はやくいこ」
「お、おう」
繋いだ小さな手に、気持ち力を込めて。
ネリーは、京太郎を引っ張るようにその場を後にした。
ゴロゴロと、ネリーはベッドの上を寝転がる。
大き目な枕に顔を埋めて呼吸をしてみれば、大好きな匂いがする――気がする。
『うちの息子ならちょっと前にお使いに出掛けたけど。直ぐに帰ってくるから、部屋で待ってたら?』
休日に恋人の家にお邪魔してみれば、タイミング悪く外出中。
キョウタロの母の言葉に甘えて、ネリーは自分の部屋以上に寛いで恋人を待つ事にした。
「まだかなー……」
手持ち無沙汰で、京太郎を待つ以外にする事がない。
時は金なりと、普段なら貴重な時間をもう少し有効に活用していたが。
想い人の温もりと匂いがする――恐らく錯覚だろうが――ベッドの魔力には争い難く。
実に容易く、ネリーは寝落ちした。
その直後に、枕元の携帯がメールの着信を知らせるべく振動したがそれは目覚ましにならず。
そのメールの件名と、差出人をネリーが知る事はなかった。
……ちなみに、であるが。
この日を境に、京太郎の携帯の待ち受けが牌のおねえさんのキメ顔から、小さな女の子の無防備な寝顔へと変わったことは、知る人ぞ知る。
京太郎と結ばれて、ネリーは幸せの真っ只中にいた。
胸の苦しみや不安に悩まされることもなく。
それはつまり、余裕があるということで――。
「というわけで。モデル料金ちょーだい♪」
「おいおい」
なんだかんだで、ネリーはお金が好きだった。
とてもイイ笑顔で両手のひらを差し出すネリーに、京太郎は苦笑した。
携帯の待ち受けを見た瞬間にコレである。
「久しぶりな気がするな、そのキャラ」
「え、そう?」
冗談めいてネリーは笑う。
実のところ、この態度は照れ隠しでもあった。
なんと言うか、無防備な寝顔が恋人の待ち受けになっているのが少し恥ずかしかったのだ。
いやまぁ、それ以上に恥ずかしい行為を散々にしてきているわけだが――ソレとコレとでは話が別だ。
「よし、それじゃあこうしよう」
「デート、するか」
「……それ、いつもと変わらなくない?」
「いや、いつもよりちょっと遠くに行ってみようぜ。勿論費用は俺持ちで」
「……期待していいの?」
と、既に期待たっぷり満面の笑みを浮かべるネリーに頷く。
前は折角うちに来てくれたのに構ってやれなかったのもあるし、全力でイチャつこうと思う。
幸いにも貯金に余裕はある。
胸に飛び込んできたネリーを抱きとめ、京太郎は週末のスケジュールを頭の中で組み始めた。
――やっぱり、入って良かったなぁ。麻雀部。
帰宅して、眠りにつく直前。
ふと、そんな事を思った。
智葉やハオと知り合えたことや麻雀の楽しさを知れたこと。
それと同時に、途方もなく高い目標が出来てしまったが――ただ漠然と日々を過ごすよりはよっぽど充実しているだろう。
そして何より、ネリーと恋人同士になれた。
小っ恥ずかしくてとても口には出せないなと小さく笑って、京太郎は眠りについた。
須賀京太郎とネリー・ヴィルサラーゼは結ばれた。
このまま二人は当たり前の恋人らしく、時には喧嘩をして、時には触れあって。
このまま当たり前のように、恋は愛へと変わっていくのだろう。
そう。
このまま――このまま、何事も無ければ。
翌日。
京太郎はベッドの上で寝っ転がりながら、携帯とにらめっこをしていた。
週末に予定しているデート。期待してくれと言った手前、半端は許されない。
「……どうすっかなぁ」
しかし実のところ、言ったはいいがノープランだったりする。
ベタに遊園地でもいけばいいか、と漠然と考えている程度だ。
「んー。何かいいところは……っと?」
ピコン、と。携帯にLINEの通知。
相手は大星淡。
暇だし遊ばない?という内容だが――
確かに自分も暇だし、女子相手にデートの相談とかしてもいいかもしれない。
「でもなー……ネリーに悪いかなぁ……」
自意識過剰かもしれないが。
恋人に何の断りもなく女の子と遊びに行くのは、少し気が引けて。
何となく淡にも悪い気がするし。
「ゴメン、ちょっと行けない……っと」
そう返信して、京太郎はベッドから起き上がるとPCの前に座る。
電源を点けて、ネト麻のアカウントにログイン。
携帯を眺めてゴロゴロするよりは、気分転換になるだろう。
こうして――毒にも薬にもならないような1日が過ぎていった。
最終更新:2026年01月05日 22:21