その言葉にネリーは答えず、ちびちびとコーラを飲み進める。
缶の中身を三分の一ほど飲み終えから、口を開く。
「……ねぇ、キョウタロ?」
「ん?」
「全国終わったら、こっちに来なよ」
「こっち?」
「臨海」
唐突な言葉に、咄嗟の言葉が出なかった。
京太郎はゆっくりと息を吐くと、中身を飲み干した缶をゴミ箱に放った。
「えっと……あー、臨海は女子高だろ?」
「じゃあ、ネリーが個人的に雇う」
「個人的ってお前」
冗談かと思ったが、ネリーの目は本気だ。
本気で、京太郎を勧誘している。
「ネリーなら、京太郎を捨てない。絶対に」
「イヤイヤ、捨てるって――」
――別に、今だって捨てられてるわけじゃない。
そう告げようとして、言葉に詰まる。
不要とされるからさ、と咏は言った。
そして自分も、それを受け入れていた。
確かにそれは――捨てられるとも、言い換えられる。
「……大星が言ってたよ。キョウタロ、最近元気ないって」
「……アイツ……」
淡もネリーも、京太郎の『正体』まで知っているかはわからない。
ただ、彼女たちの鋭い感性は何かを感じ取っているらしい。
「ネリーなら、絶対大切にする。大事にする。だから……」
ネリーの真っ直ぐな視線を受けては、誤魔化す事は出来なかった。
京太郎は、目を閉じて『これから』のことを思い浮かべる。
全国大会で、少女が姉と和解を果たせば自分の役目は終わり、後は消えて無くなるだけ。
今までそう思って生きてきたから、『これから』の事なんで考えもしなかった。
「俺は……」
「……それも、悪くないかもな」
「でしょっ! 監督に話してくるから!」
ポツリと溢れ出た言葉に、ネリーは文字通り飛び跳ねて喜んだ。
満面の笑みで身軽にベンチから立ち上がると、あっと言う間に駆け出して行く。
京太郎が止める間も無く、小さな背中は建物の向こうに消えて行った。
「まだ頷いたわけじゃないってのに」
どうも、自分は少女たちに振り回されてばかりな気がしてくる。
が、ネリーのあの笑顔を側で見れるのなら――彼女の提案も、案外悪くないのかもしれない。
「きょーたろー、どったの?」
「いや、これからのことをちょっとな」
「これから?」
「ああ、全国が終わったら……っていつのまに」
ベンチの後ろから身を乗り出して顔を覗き込んでくる淡。
前置きも何もなく話を始めるものだから、いつから彼女がいたのかがわからない。
「これからのこと?」
「全国が終わったらどうするかーってのをちょっと考えてた」
「え……あ! もしかして!」
頭上に電球を灯す淡。
その瞳は期待にキラキラ輝いている。
「白糸台に転校するとか!」
「なんでだよ」
「え、違うの!?」
「むしろその答えはどっから出て来た」
答えを否定された瞬間、喜びの笑みが膨れっ面に変わる。
秋の空の如く、表情をコロコロ変える淡は次に――
「むむ? きょーたろーからいい匂いがする……?」
これまた、おかしな事を言い出した。
京太郎の首筋の辺りに顔を寄せて、スンスンと匂いを嗅いでいる。
「むー! えいっ!」
「おわっ!?」
と思えば、長い髪を振りかざして頭をグリグリと押し付けてきた。
淡の甘い匂いがダイレクトに伝わるが、それ以上にこそばゆさと困惑が勝る。
「おま、何っ!?」
「なんかムカつくから! 淡ちゃんマーキング!」
「やめろって! 犬かお前は!」
「わんわん!」
「意味わからん!」
……と。
夏の日差しに体力を奪われ、汗だくになるまで二人のじゃれ合いは続いた。
微妙に乱れた服で、息も荒くベンチに寄り掛かかる二人の姿は、見様によっては変な噂話になったことだろう。
京太郎に両親はいないし、ペットのカピバラは信頼できる知人に預けて来た。
全国大会が終わった後、いつ自分がいなくなってもいいように。
「……」
咏の言う事については未だに半信半疑だ。
今でも時折、唐突な虚脱感と倦怠感に蝕まれる。
風前の灯火と言ってもいい。
「……けど」
ここまで、少女を運んで来て。
清澄が準決勝を突破して、いよいよ後少しというところまできて。
『キョウタロー』
『きょーたろー!』
少し、未練が出来てしまった。
あの笑顔を、もう見れなくなるのは――なんて、勿体無い。
電気を消して横になろうとしたタイミングで、ドアをノックする音。
欠伸を噛み殺しながらドアを開けると、そこには。
「えっと、来ちゃった」
「お、おう……」
少女――宮永咲が、何処と無く居心地の悪そうな顔で立っていた。
布団の上で向き合う二人。
京太郎は無作法に胡座をかいて、咲は緊張した面持ちで正座している。
「で、どうした?」
「うん、えっとね……なんだか、緊張して来ちゃって……眠れなくて……」
「優希たちは?」
「もう寝ちゃったみたいで」
「部長は?」
「あ」
「……いや、まあいいけど」
京太郎は頬をかきながら、咲の目を見つめる。
まだ何かを伝えたいようにも感じられて、しかし敢えてそこには触れず。
「まぁ、おっかないヤツばっかだもんな。決勝」
「……うん」
「一番おっかないのはお前だけど」
「ええっ!?」
「牌が見えるとか倒すとか叩き潰すとか、マジこえーよ」
「え、だ、だって、
お姉ちゃんに私の気持ちを伝えるには……」
「選ぶ言葉が物騒過ぎるんだよ」
「そ、そうかな……?」
「そうだよ」
この天然魔王め、とその小さな額にデコピンを一つ。
あた、と少しばかり大袈裟に額を摩る咲。
「ミーティングも練習試合もしっかりやってんだろ?」
「うん」
「だったらいつも通りだろ。牌が応えるだとか何だとか、まぁなるようになるって」
「……うん」
「それに」
「?」
「大丈夫、俺がついてる」
「ふふ……なに、それ」
「へへ」
「ねえ、京ちゃん」
「んー?」
きっとここから先が、彼女が本当に伝えたかった事だろう。
そう感じ取り、京太郎は背筋を伸ばして次の言葉を待つ。
「えへへ、何でもない」
「……お前なぁ」
……かと思いきや、肩透かしを食らって脱力する。
「生意気なヤツめっ」
「や、やめてよー」
と咲の頭を乱暴に撫でてやる。
恐らく和あたりが整えたであろう髪も、遠慮なくグシャグシャにしてやる。
ちっこい手を振り回して抵抗されるが、それすら無視して撫で回す。
……きっと、こんなやり取りをする事も、コレが最後になるだろう。
そんな想いは、少女には悟られず。
二人は互いに遠慮もなく、笑いあった。
決勝が始まる前に、京太郎は一人で会場から出た。
清澄のメンバーは、それを気にすることは出来ない。
少女の意識が決勝へと向いている今、自分の存在は今の彼女たちの中には無い。
「……へ」
飼い犬は、死ぬ間際に飼い主の前から姿を消すらしい。
ふと、昔にそんな話をした事を思い出す。
縁起でもないが――まぁ、今の自分の状況からすると、そんな話を思い返しても仕方あるまい。
ベンチに腰掛け、京太郎は自嘲の笑みを浮かべた。
「趣味が日向ぼっこですーってのは、ちと年寄りすぎねー?」
暫く一人でぼんやりしていると、カラコロ鳴る下駄の足音。
この声の持ち主は、最早振り向かずとも分かる。
咏はわざとらしくよっこらせ、と声に出して京太郎の隣に座った。
「観に行かなくていいのかい? 愛しのあの子の晴れ舞台だろー?」
「アイツなら大丈夫ですよ。絶対勝ちます」
「ああいや、違う違う」
扇子を広げ、口元を隠す彼女。
その下にはさぞ愉悦に満ちた笑みが浮かばれているのだろう、実に楽しそうに目を細めている。
「白糸台の……いや、臨海の方かな? 京ちゃん的には」
「……いえ。アイツらは、そんなんじゃ」
「ない、とは言わせねーよ?」
勢い良く扇子が閉じられ、鼻先に突き付けられる。
下手に誤魔化すことも、そして取り繕うことも許されない。
「アイツらのこと、気に入ってるんだろ? 自己の礎にしてもいいくらいには」
「それは――」
「で、どっちなんだい?」
「きょーちゃんの、愛しの子は」
京太郎の存在意義を揺さぶる問いかけ。
「――」
答えは見付からず、それでも何かを伝えようと、口を開こうとして。
「――あ」
唐突に、視界が揺れた。
全身から、力が抜けていく。
崩れた姿勢を整える事すら出来ず、吐き出す息と共に生命力が抜けていくような錯覚を覚える。
「タイミングがいいのやら、悪いのやら……」
「どっちにしろ、ここが命の張りどころってねぃ」
「頑張って持ちこたえろよー? 『お友達』」
咏の言葉も、耳に入らない。
京太郎に分かることは――少女が、自分の気持ちの全てを姉にぶつけようとしているということだけ。
「 」
口にしようとした応援の言葉は形になることはなく、ただ短く息を吐く音が漏れた。
少女は、全身全霊をかけて決勝戦へと臨む。
全ては、姉に自分の想いを届けるために。
その想いの強さは、対局相手にも伝わる。
「宮永、咲」
――故に。
少女たちは、彼女が許せない。
少女たちは、直感で理解した。
――彼女が彼を捨てたのだと。
そして、同時に悟る。
――自分たちでは、彼女には勝てない。
波のうねりのような、大きな力。
強い流れが、宮永咲の後押しをしている。
そしてソレは、彼女の持つ力ではない。
「キョウタロー……」
常に、誰かの為に在り続けた少年の力。
物事を、少女の望む方向に運ぶ流れ。
――なんで。
ある意味で、同種の力を使うネリーはこの場の誰よりも解ってしまう。
彼の後押しを受けた宮永咲には、この場の誰も敵わない。
――こいつは、キョウタローを捨てようとしてるのに!
きっと、彼の献身は報われない。
宮永咲の想いの行く先は、彼には向いていない。
その後押しを受けながら、彼女が京太郎に振り向くことはない。
「……なら」
――諦める?
いや――そんなことは、在りえない。
挫けかけた心を、鼻で笑い飛ばす。
宮永咲が京太郎を捨てるなら、奪い取るだけ。
京太郎が咲ばかり見ているのなら、無理矢理にでも振り向かせる。
――負けない! きょーたろーも、勝利も! 奪い取る!
――ネリーには、お金がいる……でも、それだけじゃない!
少女たちの想いが激突する中で、決勝の火蓋が切って落とされた。
「フェイタライザー……だったかな」
「運の波に乗る力。自分の好きなように、運命を手繰り寄せる能力」
「だけど、きょーちゃんのソレは自分の為には使えない」
「全て、『アイツ』の為だけに使われてる」
「そのためだけに、きょーちゃんは生まれて来たんだから」
「……まったく、妬けるねぃ。『サードマン』ってのを差し引いてもさ」
「でも、それも直ぐに終わる」
「きょーちゃんも、それは解ってんだろ?」
間近にいる咏の言葉すら、耳に届かない。
視界は霞み、思考すら曖昧になっていく。
「 」
意外にも、気怠さや苦しさは感じない。
……というよりは、それを感じ取れる機能も既に消えてしまった。
後少しで、自分という存在は完全に消え去るだろう。
「 」
でも、それでも構わない。
少女の望みが果たされ、笑顔でいてくれるのならば――
『京ちゃん』
「 あ 」
――少女。
『きょーたろー!』
「 れ 」
――少女って。
『キョウタロー?』
「 」
――誰、だっけ?
もう、京太郎には何も見えず、聞こえない。
身体を起こすどころか、指先を動かすだけの力も残っていない。
「きょーたろー!」
「キョウタロッ!」
そうして、京太郎の瞼が完全に降り切った頃。
特徴的な民族衣装を着た女の子と、白いワンピースのような制服を着た女の子が、息を切らして駆け付けた。
「ふむふむ、やっぱりねぃ」
彼女たちが此処に来たという事は、決勝戦は幕を下ろしたということであり――京太郎の役目は、終わったということだ。
「さて……それじゃあ、始めよっか」
慌てて駆け寄ってくる二人を前にして、咏の唇は弧を描く。
これから始めることが、楽しみで仕方ないと言わんばかりに。
咏は、指先で京太郎の顎を持ち上げる。
そして、そのまま身を屈めて。
「いただきまーす……てね♪」
二人に、見せ付けるように。
唇を、重ね合わせた。
その瞬間、少女たちの思考は真っ白に塗り潰される。
宮永咲に向けていた憤りや、京太郎への淡い感情を、上塗りする想い。
「三尋木、咏……!」
「っ! きょーたろーに、何してんのっ!?」
少女たちは、その想いの呼び方を知らない。
しかし身を灼く激情を抑えることも出来ず、ただ咏を責め立てるように叫ぶ。
「ふふふ……!」
対して咏は、二人の様子が心底面白くて堪らないと、上機嫌に扇子を扇ぐ。
「さて、わっかんねー……てねぃ♪」
「ふっざけんな! きょーたろーはっ」
そして彼女は知っている。
その感情は――嫉妬と、呼べるもの。
この世の何よりも強い女の情念。
二人分のソレを真っ向から受け止めて尚、咏は上機嫌にころころと笑った。
「さてさて、それじゃあ聞いてみるかい?」
「はぁっ!?」
「……誰に」
喚き立てる淡と、冷静でいようと努めながらも溢れる感情が抑えきれていないネリー。
面白いくらいに予想通りの反応を見せる二人を前に、咏はあえて挑発的な声音で語りかける。
「だれって、決まってるだろう?」
咏の指が、横たわる京太郎の頰へと伸びる。
その指先から伝わる感覚は――仄かに、熱い。
「みんなが愛しくて愛しくって堪らない――この子に、さ」
先程まで、死んだように目を閉じていた彼の瞼が微かに動く。
少女たちの激情に応えるように、彼の身体が熱くなっていく。
「く……う、ぁ……?」
「きょーたろー!」
「だ、大丈夫っ!?」
『サードマン』が消え去るのは、『お友達』に不要とされるから。
ならばソレを上回る程の想いで、彼を引き止めるコトが出来るのなら。
「くふふっ」
そうして咏は、目論見通り『お友達』から『須賀京太郎』を切り離すことに成功した。
女の情念を煽ることで、彼の存在承認をより強固なものとした。
故に、後は。
「いやぁ、楽しみだ」
コイツらから、彼を奪い取る。
ただ、それだけだ。
瞼が徐々に開かれる。
何度か瞬きを繰り返して、ぼやける視界が少しずつ鮮明になっていく。
「ここは……」
先ほどまで、咏と話していた公園。
自分の役目は終わった、それは確信している。
だというのに、自分がまた目覚めたということは。
自分を必要とする『少女』が、未だ。
「俺、は……そう、か――」
ぎこちなく、口を動かす。
目を開いて、最初に彼が呼びかけた名前は――
「あれ?」
「どうしたの?」
「……ううん、何でもないよ。お姉ちゃん」
「何だか、悲しそうに見えるけど」
「そう、かな?」
「うん……よかったら、聞かせて? 今までの分も、あるから」
「……えっとね。何て言えばいいのか、わからないけど」
――大事な何かを、失くしちゃったような、気がして。
――インターハイ終了から、数週間後。
アレクサンドラ・ヴィントハイムは机の前で頭を悩ませていた。
臨海女子の共学化と、それに向けて二学期からの男子生徒の受け入れ。
余りにも唐突に決まったので驚かされたが、それだけならまだいい。
自分たちの商売には強く影響しない。
問題は、それに伴って転校してきた男子生徒が麻雀部に入部してきたこと。
「恋に浮かされた小娘の戯言、だと思ってたんだけどね……」
そして、その男子生徒の名前が須賀京太郎ということだ。
アレクサンドラが臨海麻雀部の『選手』に求めることは二つ。
自分を痺れさせる貪欲さと、商売になるかどうかだ。
この二点を元に『選手』として評価するなら、現時点での京太郎は落第とせざるを得ない。
磨けば光るモノは持っているように感じるが、今の臨海はそんな悠長に選手が育つのを待ってはいられない。
男子生徒の数が増えて男子麻雀部が設立されれば、恐らく似たようなスタンスを上から強いられる事になるだろう。
「しかし、ソレを理由に彼を退かす事は……論外か」
別の側面から、『部員』或いは『マネージャー』としてみれば、彼は中々に有用だ。
見てくれに似合わず意外と気も効くし行動もテキパキしている。
雑用も嫌がらず率先して行うからか、サトハや明華たちの覚えも良い。
無論、それだけなら彼を麻雀部に置く理由にはなり得ないのだが。
「……さて、どうしたものか……」
アレクサンドラの悩みの種は、彼そのものよりも、彼を取り巻く女たちにあった。
悩みの種の一つ。
我らが大将、ネリー・ヴィルサラーゼ。
彼女は、明らかに須賀京太郎に惚れていて――その恋慕が、ネリーの力を後押ししている。
恋愛感情なんてモノが絡むのは不安要素でしかないが、結果を出している以上は口出しできない。
「……はぁ」
溜息を吐きながら、手元の資料を捲る。
悩みの種のその二。
「なんで、白糸台の大将がこっちにやってくるのやら……」
大星淡。
夏のインターハイで、激戦を繰り広げた白糸台の大将。
何がどうなったのかは皆目検討つかないが、彼女も臨海女子へと転校してきたのだ。
件の男子、須賀京太郎と一緒に。
彼女もまた、京太郎にラブのベクトルを向けている。
ネリーと度々火花を散らし、下らないラブ・コメディを部内で演出している。
外でやれ、むしろ出て行けと言いたいところだがソレが起爆剤となって成績が上がっているので今のところは放置中。
「……」
最後に、無言で資料を捲る。
三つ目にして、最大の悩みの種。
「なんで」
特別指導員、三尋木咏。
「なんで、日本代表の先鋒まで来るんだか……!」
この名前に、アレクサンドラは毎日悩まされている。
信じたくないが、咏が度々京太郎に向ける目線。
それに込められた意味を、アレクサンドラは察してしまう。
「ああ、もう……どうしたらいいんだか!」
信じられないようなことが連なり、今の状態が出来上がってしまった。
そのせいで、今の麻雀部は非常に危ういバランスの上に成り立っている。
大きな波のうねりに物事が運ばれているような、そんな錯覚すら覚える。
そして、その物事の中心に立っているのは。
「……いや、考え過ぎか」
溜息を吐き、椅子に体重を預けて目を閉じる。
ギシ、と小さく軋む音がした。
姉とも和解し、咲は充実した気持ちで新学期に登校する。
気力も十分に放課後を迎えた彼女は、少し強めに部室の戸を開けた。
「あれ?」
「そっか、京ちゃんお休みだっけ」
「え? 聞いてないって……何を?」
「え」
「京ちゃんが……転校……?」
『きょーちゃんが解放されるのは』
『そいつの心の隙間が埋まった時か』
『そいつの心に、昔と同じぐらいデッカい隙間を作ってやるか』
少女は、満開の花が散っていく様を、幻視した。
唐突だが、京太郎は甘やかすよりは甘えたい派である。
家庭的で女性的な年上のおねえさんに思いっきり甘えたい――とまぁ、そんなシチュエーションに憧れるお年頃。
何故だが清澄ではちびっ子の面倒を見る機会が多かったが、今でもその憧れは変わらない。
そして、今。
「はぁ……」
「こーら、幸せ逃げるよー?」
京太郎は憧れのシチュエーションの、真逆の状況を体験していた。
スレンダーで美人なお姉さんを甘やかして――膝枕なんぞをしている。
男の固い膝なぞ心地よくはないだろうに、彼女は退こうとしない。
「そろそろ足が痺れて来たんですが……」
「頑張れー、男の子だろー?」
楽しそうに京太郎の膝枕を堪能している彼女の名前は、春日井真深。
現役の牌のおねえさんで、京太郎の恩人の一人だ。
コレが、自分の時代の牌のおねえさんだったらなぁ――と、そんな願望が口にはしないが頭を過ぎる。
タイムスリップしたばかりの頃。
家に帰りたくても帰れず、友達も一人もいない。
寂しさと悲しさで無気力に陥った京太郎を励ましてくれたのが、この牌のおねえさん(24)だ。
『ただ、キミが悲しそうだったから』
たったそれだけの理由で真深は病院の待合席で見知らぬ少年に声をかけて、勇気付けた。
彼女がいなければ、京太郎はただ美月に縋るだけの毎日を過ごしていたことだろう。
一方で、真深は京太郎のことをかわいいヤツだと認識している。
素直で、わかりやすくて。
周りのために、頑張って自分に出来ることをする姿勢も好感が持てる。
イケメンだし、自分があと10才若ければ――なんて、バカな事は言わない。
「……で。そこの見舞客は入ってこないのかな?」
「っ!」
「え、あれ……はやりちゃん?」
今は、他人の恋路を見てる方が面白いから。
京太郎とは違った意味でわかりやすい反応を見せてくる少女に、真深は頬を緩めた。
このはやりんの中身もアラサーなのだろうか?
普段はお店の雑用や、家事の手伝い。
タイミングが合えば真深のお見舞い。
元の時代に帰る方法も探してはいるが、当然ながら手掛かり一つ見つからない。
まず、どうやって探せばいいのか。それすらわからないのだから。
「……っ」
京太郎は、首を振って頭を切り替える。
クヨクヨするぐらいなら、出来ることをしよう。
「まーふふーっ!」
まふーっ!!
野外に設営されたLIVE会場にて、ファンと一緒にコールする京太郎。
まさか自分がアイドルのライブに通うようになるとは、夢にも思わなかっただろう。
「こーんにちわーっ☆」
簡素な会場ながらもその熱気は侮れない。
彼女と、そしてファンたちと一体化するように、京太郎は『まふふ』に歓声を送る。
会場の中心でLIVEを披露するまふふの姿は、病院での弱ったイメージを吹き飛ばすエネルギーを持っていた。
脳味噌というものは、自らの処理能力を超えると一周回って冷静になるのである。
「ふぅー……」
昨日の流れを思い返す。
朝早く起きて店前を掃除、その後は昼まで家の中を掃除。
やる事がなくなった後はまふふのライブに参加して、帰宅後ははやりの宿題を手伝った。
別段、おかしな事はなかった筈だ。
で、あれば。
「すぴー……すぴー……」
この、同じベッドで眠る一児の母親。
下着姿の瑞原美月は、どうやって説明をつけようか。
京太郎の腕を枕にして眠る美月。
間近で見る彼女の顔は、一児の母親だとは思わせない程に若々しい。
(……頑張ればアイドルやれるんじゃないか、この人……)
半ば現実逃避気味にそんなことを考えつつ。
疲労と眠気の溜まった頭では、思考も上手く纏まらず――。
その朝、はやりは目覚まし時計よりも早く目が覚めた。
宿題を京太郎に手伝ってもらったお陰で、昨夜は普段より早く眠れたから。
なんとなく新鮮な気持ちになって、はやりは朝日を浴びながら背伸びをする。
「あ、そうだ」
今日は、わたしがおにーさんを起こしてあげようっ
小さくガッツポーズを作って、はやりはベッドから飛び起きる。
気分爽快で目覚めた彼女の心には、朝陽のような光が差し込んでいた。
「まーふふ~♪」
無意識に鼻歌を口遊み、目指すは彼の部屋。
そこにあるものに、はやりの表情は一転して曇り空になるのだが――浮き足立つ彼女は、その事をまだ知らない。
その朝の、食卓。
「は、はやりちゃん?」
「……」
声をかけても、ふくれっ面で顔を背けられる。
不機嫌の理由がわからない京太郎はたじろぐばかり。
「~♪」
唯一、美月だけが上機嫌そうにトーストを齧っていた。
はやりの登校を見送る二人。
満面の笑みを浮かべる美月と、疲れた顔で肩を落とす京太郎。
通りの向こうにはやりの姿が消えた頃に、京太郎は深々と溜息を吐いた。
「なんだったんですか、朝から」
「んー?」
「俺のベッドで寝てたのは……」
「あー……寂しかったから?」
「はい?」
「うちの子、ませてるから一緒に寝てくれないし……」
「いやいや、だからって」
「大丈夫。あなた、もうウチの息子みたいなもんだから」
「……」
「それに。あなたも、ね」
「え」
「寂しさを忙しさで紛らわすのはダメよ? 今は良くても――いつか、潰れちゃうから」
美月がベッドに潜り込んで来たのは、彼女自身と京太郎の感じている寂しさを埋める為。
美月は、はやくも親離れしそうな愛娘に。
京太郎は、帰りたくても帰れない、自分の居場所に。
「はぁー……」
京太郎は気恥ずかしくなって顔を伏せる。
言葉に出さなかった自分の気持ちに、美月は気付いていたのだ。
「はぁ……まぁ、元気は、出て来ましたよ」
「それは良かったカッター……私もまだまだイケるでしょ?」
「……」
敵わない。
改めて、色んな意味でそう思った。
「ロリコンかと思いきや人妻狙いとは」
「違います」
「え、じゃあ私……」
「もっとねーよっ」
そんなやり取りがあったのは、また別のお話。
真深の容態が急変した時、京太郎は何もする事ができなかった。
面会謝絶の張り紙を前に、京太郎とはやりは同じ気持ちで立ち竦む。
「……」
この白いドアの向こうに、真深が眠っている。
信じられなかった、彼女の病状がそこまで悪化していたとは。
「……だ、大丈夫だよ……きっと」
隣にはやりがいなかったら、京太郎はみっともなく取り乱していたかもしれない。
せめて、この子を安心させなきゃ
その一心で、不安に押し潰されそうな心を持ち直す。
「すぐ……元気になって……出て来るって……」
だというのに、出て来る言葉は具体性も根拠も、そして自信もないモノだけ。
自分の言葉を、自分自身が信じられなかった。
真深に会えない日々が続く中。
はやりは部屋にこもって、何かの練習をしていて。
そして、京太郎は――
はやりは、幼いなりに真深を元気づけようとしている。
ならば――自分には、何が出来る?
麻雀の腕に自信は無いし、ハンドボールの経験や力仕事は今の真深の為にはならない。
思い出せ、何か一つでもいい。
自信をもって、誰かを喜ばせる事ができるものは――
「……で、それがタコスのレシピ?」
「はい!」
ベッドに横たわる彼女に、メモ帳を差し出す。
その中身は、記憶を絞って纏めたタコスのレシピ。
本当ならタコスそのものを渡したかったのだが、病人が食べていいものかがわからなかった。
「元気になったら作ってみてください。完璧執事のお墨付きっす」
「何だそりゃ……」
でも、ありがとね。
苦笑交じりにだが、彼女は頬を緩めた。
本当に、それが彼女の役に立つものかは疑問だが――少なくとも、京太郎の気持ちは伝わっていた。
「あ、あの……っ!」
続けて、隣のはやりが緊張した面持ちで一歩踏み出す。
「元気になって!」
そして披露したものは、白牌を一瞬で字牌へ変える手品。
それはかつて、京太郎とはやりが真深に元気付けられたものと全く同じで。
「あ……」
真深と、そして京太郎は。
同じように目を見開いて、彼女の字牌を見詰めた。
「それあげるわ」
目の前で、真深からはやりに渡される髪飾り。
牌のおねえさんのトレードマークとも呼べるそれが、幼い少女へと受け継がれた。
「……ああ、そうか」
その光景を見た京太郎は、漸く本当の意味で実感する。
自分が、過去に来てしまったことを。
ツーサイドアップの髪型、ピンクの髪飾り。
瑞原はやり、そして牌のおねえさん。
ずっと前から、気付ける要素はあったのに。
「あぁ……」
この子は、自分がいた時代の牌のおねえさんで。
コレがきっかけで、アイドルを目指すようになったのだ。
20年前という、自分が生まれるよりもずっと前に。
「かえり、たい」
『牌のおねえさん』を目指すと決めた日から、はやりは日を追ってめざましく成長している。
体も、そして心も大きく。
今まで無縁なモノだった可愛い歌の練習やダンスの振付は辛く厳しいが、彼女は諦めない。
支えてくれる母親と、不器用ながらも元気付けてくれる兄のような人。
ファンとして応援してくれる沢山の人たち。
多くの声に背中を押されて、はやりは夢に向かって一歩ずつ歩み始めた。
それは、ある夜のこと。
妙に目が覚めて寝付けない京太郎は、ぼんやりと真っ白な天井を眺めていた。
「……」
『瑞原はやり』という輝きは、どんどん強く、そして大きなモノになっていく。
そしてソレは、京太郎の中であるモノと重なってしまう。
テレビ越しに見た、『牌のおねえさん』の笑顔に。
「はぁ……」
彼女の成長はとても喜ばしく思うが、比例して強くなる郷愁の念が胸の内を締め付ける。
このまま自分は、『現代』に帰れるのだろうか?
もしかして、このまま家族や友達にも会えないのではないか?
浮かぶ不安と、答えの出ない悩み。
堂々巡りになりかけた思考を中段させたのは、控えめなノックの音だった。
「おつかれさまー、サマーキャンプ?」
「は、はぁ……」
一つのベッドに、二人の男女。
残念な事に肩を並べて横になるには狭く、必然的に触れ合って寝ることになる。
悩みについて頭を回す事はなくなったが、また別の理由で寝付けなくなってしまった。
「……また、寂しそうに見えましたか?」
「うん」
「隠してたつもりなんだけどなぁ」
「あの子にはね」
有無を言わさずにベッドに潜り込んできた美月を、京太郎は追い出せない。
そして、自分から出て行こうとも思えなかった。
「……ねえ」
「はい」
「正直ね、あなたが未来から来たっていうのには半信半疑なんだけど」
「……」
「でもきっと、お家に帰りたくても帰れないっていうのは本当なんだろうなって」
「……はい」
京太郎、と美月は鼻先が触れ合うほどに顔を近付けた。
息遣いや体温で、灯りがなくても互いを理解できる距離。
「私たちじゃ……あなたの家族には、なれないかしら?」
その言葉の意味を、京太郎は朧げにしか理解できないが――とても、重要な選択である事は感じ取れた。
目蓋を閉じて、京太郎は――
――美月の抱擁を、受け入れた。
声に出して、返事をした訳ではない。
ただほんの少しだけ力を込めて、美月を抱き返した。
そして、その気持ちは――十分過ぎるほどに、美月に伝わっていた。
――というのが、大分昔のお話。
「……あぁ……」
20年という時間を経て――ついに、京太郎は『現代』へと追い付いてしまった。
そのせいだろうか、懐かしい夢を見たのは。
「はー……」
首を回して肩を鳴らす。
身体は重く、頭は少し熱い。
連日の疲れが未だに抜けていないが、仕事と患者は待ってくれない。
「……うしっ!」
軽く頰を叩いて気合を入れると、京太郎はベッドから身を起こした。
「せんせー、私とケッコンせえへん?」
「せぇへん」
「えー。養ってやー」
「自分で食ってけるだろ、お前なら……はい。今日の健診はおしまいっと」
「ん。ならこの後デート」
「しない。予定があるの、俺も」
「んー……めっちゃいけずやなぁ、自分……」
「予想以上に時間かかっちゃったな……っと」
ドアベルを鳴らしながら、喫茶店の扉を開く。
店内を見渡すと、目当ての女性は直ぐに見つかった。
そして、それは向こうも同じなようで――京太郎に気が付くと、満面の笑みで手を振って迎えてくれた。
20年経っても変わらない笑顔に京太郎は頰を緩めると、店員に待ち合わせしている事を告げて彼女の待つ席へと足を運んだ。
「おひさしぶりですっ」
「久しぶり、はやりちゃん」
木製のテーブルを挟んで、彼女と向かい合う。
瑞原はやり、28才――牌のおねえさん。
須賀京太郎、35才――医者。
互いに多忙な日々を過ごす中で、二人で会うのは本当に久しぶりのことだった。
真深の影響を受けて、はやりは今の道を選んだ。
そして、京太郎は医者になった。
真深が倒れた時、何も出来なかった自分を恥じて。
はやりとは違う方法で、関わった人たちを元気にする方法を目指した。
お互い困難な道のりではなかったし、今も相応の苦労は背負っているものの――充実した日々を、過ごしていた。
「……で、でね?」
――と、ココで終われば綺麗な話なのだが。
残念ながら、そうはいかないのである。
「き、今日は……その、伝えたいことが、あって……」
頰を赤らめ、モジモジするはやりを前に京太郎は背筋を正す。
強めの冷房が効いているにも関わらず、一筋の汗が頰を伝った。
視線、仕草、表情、携帯の待ち受け、スケジュール帳に貼られた写真、インタビューで答えた好きな異性のタイプ、etc……。
20年、温められた感情は少し暴走気味で。
それだけあれば京太郎も彼女の想いに気付かざるを得ない。
そして、その想いに素直に頷けない理由があるのだ。
「奇遇やなぁ、私もせんせーに伝えたいことがあんねん」
「なっ」
「……だれ?」
横から入ってきたのは、はやりよりも10才以上年下の少女。
京太郎が請け負った患者の一人で、(京太郎にとっては)厄介な事に、はやりと同じ感情のベクトルを向けて来るのだ。
しかも何故だか――たまの休日に外出すると、今のように彼女と偶然遭遇する確率が非常に高い。
「せんせー、やっぱイケズやわ。私の大事なとこみといて……」
「……京太郎さん、この子は……?」
そうして、京太郎の前でニアミスした感情の矢印は激突する。
年齢の差があっても、想いの強さに違いはなし。
「は、はは……」
カラン、と氷がグラスに打つかる音がした。
「はあぁ……」
場面は変わって、とある居酒屋の狭い個室。
答えを先送りにする事で二人から逃げたものの、根本的な問題の解決にはなっていない。
深い溜息が、胸の奥底から溢れ出た。
「元気出しなって」
「はは……どうも」
向かいに座る女性――春日井真深、44才・麻雀講師。
その年齢からは想像出来ない程に若々しく、元闘病患者と言われても信じられない。
「まー、とりあえず飲もうか。明日休みなんでしょ?」
「はい……」
20年前は、悩みと寂しさを忙しさで忘れようとした。
そして今は、悩みを酒で忘れようとしている。
果たして、コレは成長と呼べるのだろうか。
「こらこら、小難しい顔しない」
「う、うす」
「よしよし、じゃ……乾杯!」
ジョッキを高く掲げて打ち合わせる。
春日井真深とサシ飲みをするなんて、20年前は考えもしなかった光景だ。
人生何があるか分からないが、とりあえず今はアルコールの力で悩みを忘れさせようと、一気にジョッキを呷り――。
――そして、京太郎は思い出す。
脳味噌というものは、自らの処理性能を超えると一周回って冷静になるのである。
「すぴー……すぴー……」
男女、一つ屋根の下。
一糸纏わず、同じベッド。
どこがと言わず、湿った感触。
そしてトドメに、昨夜の飲酒。
これらの状況証拠が指し示すものは、一つしかない。
「……しあわせぇ……」
彼女の寝言も、耳に入らず。
京太郎が思う事は、一つだけ。
時間で消えない傷跡と、時間で消えない痛みがある。
でも――それ以上の幸せで、満たす事は出来る。
「眠れない?」
その言葉に頷くと、彼はしょうがないと笑って抱き寄せてくれる。
明日はきっと、人生で一番喜ばしい日になる筈なのに、緊張で寝付けない。
それを感じ取って、彼は幼子をあやすように両腕で包み込んでくれるんだ。
「ごめんね、ダメな奥さんで」
「いや、眠れないのは俺も同じだから」
干支が一回り離れてるのに、いつも私は頼る側。
彼が理想とするお嫁さん像とはかけ離れてる……けど。
『惚れた方の負けって、いうじゃないですか』
私と付き合い始めてから、彼は色んなものを失った。
友達、時間、先生と呼べる人たち……。
なのに、彼は幸せそうに笑う。
自分で言うのもアレだけど、私は面倒な女だ。
家事もあまり得意じゃないし、お洒落だってセンスはないし愛想も微妙。
本当に良かったのかだなんて、あーだこーだ考えてしまう私だけど――この笑顔ひとつで、胸の中は幸福で満たされる。
私も、彼と同じように多くのものを失った。
だけど、こうやって同じベッドの中で。
彼に抱き締められて眠る私は、きっと誰がどう見ても――。
【幸せな、お嫁さん】
恋は盲目とは、よく言ったものだと思う。
彼以外の何もかもがどうでもいい、と。
彼と高校で再開して、結ばれて、プロになって結婚して子どもを産んで――今に至るまで、その想いが変わる事は無い。
そしてソレは、死ぬまで――いいや、死んでも変わらないだろう。
「京ちゃん」
私の自慢の旦那さま。好きなところは丸ごと全部。
その中でも特に、強いて一番好きなところを挙げるなら、優しいところ。
「……もう、あの子も高校生かぁ」
「うん……懐かしい?」
「……」
白いワンピースのような制服に身を包んで登校する愛娘を二人で見送る。
私にとっての高校時代は、少しの苦しみと多くの幸せで満ちている。
私は京ちゃんが隣にいてくれる幸せでいっぱいだけど――京ちゃんは、優し過ぎるから。
たまに、自分を傷付けて去っていったあいつらの事を、思い出してしまう。
「大丈夫、だよ」
「……」
「京ちゃんの優しいところと、強いところ。あの子は、ちゃんと持ってるから」
彼の手をとって、抱きしめる。
京ちゃんが苦しいのなら、それ以上の愛情で。
私の幸せが、少しでも彼に伝わるように。
心の痛みが消えるその時まで、私は彼の手をとろう。
【ずっとずっと、愛してる】
「命」を「運」んで来ると書いて『運命』!
よく言ったものだ――避妊の大事さを教えてくれる。
「……まじで」
幸せそうに笑う先輩に、思わず敬語がすっぽ抜けた。
お酒に酔った勢いで致してから始まった、彼氏彼女の関係。
二人が付き合い始めた入り口だったその出来事は、どうやら人生の墓場まで直通だったらしい。
「えへへ、名前どげんしよー?」
しかしまあ、幸せそうにお腹をさする先輩を見ては京太郎も腹をくくらざるを得ない。
困難は多いだろうが、きっと何とかなるだろう。
なんだかんだ言って――先輩と一緒にその子の名前を考え始めるくらいには、京太郎も幸せを感じているのだから。
【運命の、赤い糸】
まぶたの裏までアナタだけ。
ハンドボールで活躍する姿を見てから、そして彼が臨海に入って来てから。
追い続けて来た横顔が、今は自分の隣に。
「いい天気だな」
「風が気持ちいいですね」
二人の休日、晴れた日は並んで近所をデート。
高校時代と違って、邪魔は入らない。
だから私は祖国と、そしてこの道が大好きだ。
「っと」
「大丈夫か?」
「ええ。ありがとう、アナタ」
彼に見惚れて、石畳に躓いた私を危うげなく抱き留めてくれる。
彼のぬくもりを感じるのは、もう数えきれない程なのに――胸の高鳴りは、留まるところを知らない。
期待を込めて、彼の頰に口付けを。
ああ、今日の夜と夢の中でも――きっと、幸せな風が吹くに違いない。
【夢でも、あなたの横顔を】
駆け落ちを成し遂げるのは、監視社会とまで言われる現代において非常に難しい。
ましてや、逃げる相手が大富豪となれば。
「何というか、ホームレスみたいな感じだね」
「……」
「あはは、そんな顔しないで。ボクは結構楽しんでるからさ、この生活」
服にも食うにも寝るにも困らなかったあの頃と違う。
転々と場所を変えながら、二人で逃げ続ける日々。
生活必需品を調達するにも、周りの目を気にしなければならない。
「それにさ、キミを好きになった時から、薄々こうなる気はしてたんだよね」
「え」
「透華も衣も執念深いし、ボクなんて買われた立場だし?」
寝具も満足に揃えられない。
だから、一つの毛布に、二人で包まって眠る。
「どっちを取るかで、ボクは京太郎をとった。それだけのお話」
「さ、明日も早いし。もう寝ようか」
「うん。もうちょっとだけ――距離、詰められるかな?」
【キミと一緒に、抱き合って】
それは、渇いた風が吹き抜けるように。
私の胸の中に、確かな痛みを与えたのでした。
「なーにしてんだよ、このポンコツ」
「だ、だって……!」
好きな人の笑顔。
それは何よりも喜ばしい筈なのに――それを向けられているのが、私じゃない。
大丈夫?って聞かれても、見せかけの笑顔も作れない。
この想いは、一体何?
どうすれば、解消できるの?
悩んで、悩んで、悩み抜いて――何故か、霞ちゃんにも言えなくて。
私が、この気持ちの呼び方を知るのは――まだまだ、先のお話。
【あなたしか見えなくなって】
先輩たちは、私をアイドルとして目立たせようとしてくれる。
可愛い衣装に、髪型の研究。
自分でも、垢抜けて中学から大幅に変わったと思う。
……のに。
「大丈夫? 袋持てるか?」
「大丈夫、です……!」
一番伝えたい相手には、伝わらず。
可愛いとは言ってくれるし、応援もしてくれる。
それでももどかしいのは――中学から変わらない、距離感のせい。
「無理すんなって、ホラ」
「あっ……ありがとう、ございます」
何でもないように、手を重ねるように袋を持ってくれる彼。
もうちょっと意識してくれてもいいんじゃないか、なんて思ったりするのでした。
……中学から、ずっと惚れっぱなしだったなんて、この時はまだ、知りもせず。
【誰よりも、何よりも】
言葉にせず伝わる関係――そんなの、自分はゴメンだ。
大好きだって人前では叫んで欲しいし、二人っきりのベッドでは囁いて欲しい。
「……決めた」
ふとそう思い付いて、立ち上がる。
清澄、阿知賀、臨海の大将が不思議そうに自分を見上げるが関係ない。
キョロキョロ辺りを見渡し、カメラを見つけると勢いよく指を指す。
「きょーたろーっ!!」
マイクがなくても、会場全体に響くような大声で。
頬っぺたを真っ赤にして、叫ぶ。
「大好きっ! 愛してるっ!! だから――!!」
「私が優勝したら、ケッコンしてねっ!!」
TPO? そんなものは関係ない。
すると決めたら、絶対だ。
満足気に鼻を鳴らして着席。
たとえ国内無敗が相手でも――今の自分に、負けはない。
【あーいらーぶゆー】
お金は使わなきゃ回らない。
愛情だって、返して貰わなきゃ満たされない。
一方的に注ぐだけじゃあ、続けられないと、彼女は知っていた。
「キョウタロ、キョウタロ!」
「はいはい、わかってますよお姫様」
高い高いをするように、両脇の下に手を添えて抱き上げる彼。
まるで幼子を相手にしてるみたいだが、42cmの身長差を埋めて目線を合わせるにはこうするしかない。
自分が屈むのではなく、彼女を高く持ち上げて。
「絶対、勝ってくるから」
「わかってるよ」
今度は、彼女から。
小さな手を彼の頰に添えて。
何度も何度も、口付けを交わす。
軽く重ねるものから、深く交わるものまで、何度も。
「それじゃ、行ってくるね」
「ん。祝勝会、準備しとくわ」
大事な試合の前では、欠かす事の出来ないやり取り。
お金と、そして愛の為に。
彼女は今日も、卓に向かう。
【大好きがいっぱい】
変わらない日常、変わらない愛情。
素晴らしいモノに囲まれた不変の日々を、彼女は何よりも尊いと感じるのだ。
「そう思いませんこと?」
「ははは……まぁ、そうですね。俺も、諦めましたよ」
「もう……もっと砕けても構いませんのに」
「いやまぁ、唯一の抵抗……みたいなもんなんで」
「むぅ」
変わって欲しいところも変わらないまま続いているのは玉に瑕、だが。
素晴らしい友人たちと素敵な恋人と過ごす日々は、他の何にも変えられない。
「ああ、願わくば――」
【永久に、美しく】
「みんなには、ナイショですよーぅ?」
なんて、誰も聞いていないのに。
保健室で眠る彼の唇に、そっと人差し指を重ねた。
「ふふ……」
面倒見が良いというのか、お人好しというのか。
皆のサポートに回るのはいいけど、それで倒れたら元も子もないだろうに。
「ほんと、もー……困った子ですわー」
彼が倒れたというのに。
心配するよりも――ふたりきりのこの時間が嬉しい、だなんて。
【ナイショのキモチ】
――推薦で大学決まって時間出来たから、今迄の分もあるし私が色々教えてあげるわね。
そんな口実で始めた、麻雀講師ゴッコ。
はじめは、放課後の部室で。
次はふたりきりの教室で。
その次は、彼の部屋のPCで。
そして、その次は――
「あの、部長」
「もう、部長じゃないけど」
「……先輩」
「もう、卒業しちゃったけど」
「……竹井さん」
「もぅ」
「……久、さん」
「何かしら?」
「お泊まりは、さすがに……」
「……イヤ、だった……?」
「……もう、色々とズルイっす……」
まだ、まだ足りない。
最終的には、二人一緒に人生の墓の下に――なんて。
【もうちょっと、近づいて】
「愛してるー!」
「私もー!」
彼女を思いっきり抱き締めて、グルグルと振り回す。
何故こんなことをしてるのかというと、大会でアレな戦績だった彼女に『慰めろ』と言われたから。
はじめは面食らった様子の彼女も、ヤケクソ気味に応えてくれる。
他の部員の呆れた目線も気にしない。
近くを通り掛かった他校の選手には、むしろ見せ付けてやるように。
「いぇーい!」
「いぇい!」
ホラ見ろよ、お前ら。
俺の彼女は、こんなにも可愛いんだぜ。
【絶対無敵のラブラブラブ!】
我ながら性格が悪いなぁ、と思う時がある。
「きょーたろー」
「京太郎くん」
アイツにちょっかいをかける女子は多い。
背も高いし、まぁイケメンだし……性格も悪くないし。
だけど私は焦らない。
ハッキリと確かなものを、もう受け取っているから。
髪型変えた?って聞かれて喜んでるあなた。
――私なんて、考えすら読みとられてるからね。
なんだかんだで優しいから、勘違いしちゃうのも仕方ないのだ。
――その優しさだって、独り占めしちゃうから。
女子に囲まれて困り顔のアイツだけど、助け舟を出すのはもうちょっと経ってから。
乙女心というものを、もう少しだけ知るべきなのだ、アイツは。
【気が付いたら、目が合って】
「うーむむむ……」
「どーした色男ー」
「否定できねぇ……いや、コレで良かったのかなーって」
「ん? 不服?」
「いや、んなことはないけど……」
誰も選べず、選ばなかった彼。
彼しか選ばなかった彼女たち。
常識というハードルをパウチカムイで踏み倒せば、後の道は一つだけ。
「両手どころか、爪先からテッペンまで花だらけだよ」
「まーま。素直に喜んどきなって」
お天道様に顔向けは出来ないが、間違いなく彼女たちは幸せだ。
彼を中心に、誰も欠けることなく平等に愛し合っている。
だから彼女は、満足気に高らかに、こう叫ぶのだ。
【完全無欠のハッピーエンド!】
最終更新:2026年01月05日 22:42