長野に存在する、とある中学校。そこに通っている咲がチャイムが鳴ったのを意識の片隅で聞きながら――――ああ、次の時間が始まると顔を上げれば、眼に入った金髪。
一瞬何事かと思った咲の頭に響いた男の声、掠れたそれはちょうど変声期の男のそれであり、それを理解すると共に目の前のそれが何であるかを思い出した。――――クラスメートの、というか隣の席にいる須賀京太郎だ。
「…………なあ、教科書忘れちゃったんだけど、貸してくれない?」
「え? う……うん……どうぞ」
「ありがとう、間違って一年の教科書持ってきちゃってさ……」
「……気にしないで」
「いや、助かったよ。……ありがとう」
その時間は、四時限。国語の、枕草子であったと思う。授業中に必要に応じて本に彼の視線を受容させる。たまに双眸が教科書ではなく咲自身を見た。
そのたびに胸の奥をちくりと針か何かに刺されたような錯覚を覚える。しかしそれと同時に、隣であるとはいえ今まで彼とは話した事もなかったからか、授業中にもかかわらず咲の心にはほんのりと心地よい驚きが広がっていった。
授業が終わればすぐに昼食の時間になる。そしてその時にも、おもむろに彼は咲に話しかけてきたのだ。
教科書ありがとうなどという入りから始まり、彼は咲自身のことを色々聞いて、逆に自らの事は聞いてもいないことを話し出した。
最初は冷えてぎこちなかった彼女の口も、彼という熱の存在でだんだんと油をさしたかのように回り始める。咲は寡黙な子で通っている、その少女が意外と饒舌であった事に驚いたのと同時に、あちらも本調子が出てきたのか、自分の会話の空気の中へと彼女を連れ込んだ。
あちらが押せばこちらが引いて聞き、こちらが前に出ればあちらはそれを真正面から抱きとめるために待ってくれる。まるで一対の歯車が動いているかのように、彼との会話の中で時間はいつもより早いペースをもって進むのであった。
――――そう、その日から咲の価値観が一変した。
家族以外の人と話すのが、これほどまでに楽しいとは。咲は、すぐさま姉に電話でその事を報告した。姉のほうも少し沈んでいた咲の様子が一変したとあってうれしそうではあったが、同時にその口調に少しの陰りが見えた。
咲はそれが姉の嫉妬と喜びの入り混じった微妙な感情が起こすものだと考えていたし、照自身でさえもそう思っていた。互いに姉妹離れができないという事をさんざん親にネタにされた二人は、経験から無意識にその話題をさける。
「じゃあ、咲……風邪なんかはひかないようにしろよ?」
「……
お姉ちゃんがそういうと、必ずそういうことが起こるんだからね。勿論気をつけるけど、風邪引いたらお姉ちゃんの所為だよ?」
「はは、否定できないのが悲しいところだな。――――じゃあ、また電話してきな」
「うん、おやすみ。お姉ちゃん」
電話を切る、そして布団へともぐりこんだ。今日あった事を頭の中で、何度も何度も繰り返す。身をよじって、はにかんだ笑顔を枕に隠しそのまま眠りにつく。
――――あれ……やっぱり風邪でも引いているのかな……?
体が、熱い。風呂から出たからであろうか? 否、既に出てから結構な時間はたっているはず。……では、この体のうちからあふれ出る熱の正体とは一体なんなのだろう?
「――――まあ、風邪ぐらいなら寝て起きれば治っているよね?」
やがて睡魔に意識を持っていかれて、咲は安らかな寝息を立てる。
――――姉が出て行ってから久しぶりに、咲は夢も見ずに深く深く眠ることができた
咲は、過去を映し出している雲のスクリーンを見て、少し恥ずかしい気持ちになった。かつての自らを振り返る事以上に、恥ずかしい事は他にはない。
それでも、眼をそらさずに見ていたいという気持ちも咲の中にはあった。
雲のほうも一瞬画像がくすんだが、咲の心に呼応するかのように明度を取り戻し、やがて元の像よりも鮮明なそれになる。
制服の映る雲の中に再びのナレーションが映し出される。
――――このころの咲は、とても不安定なものであった。思春期という限りなくナイーブな時期に、いろいろな事が整理する暇もなくどっと押し寄せたのだ。自分が壊されなかっただけ良いと考えるべきかもしれない。
――――それを自覚したのは、いつだったであろうか?
字幕を見て咲は自問した、雲の答えは中学二年の中ごろを過ぎ、ちょうど期末テストが始まったころだった。
このころになると、他人行儀な面はどこかへときえ、良い友人として語り合えるようになっていたのだ。日を重ねるごとに、彼との会話の量が増えていくことを、咲は勿論京太郎ですらも自覚していた。
それは二人の距離がだんだんと近くなっている事を意味していたのだが、二人ともその感情が何を意味するかをまだわかってはいなかったのだ。
咲は、男とは怖いものであるという先入観を持っていたし、そもそもその先入観の所為で男にあまり話しかけない――――話すのはたいてい自分が話しかけられた時の数秒だけ、つまり男を理解しようとしなかったためにその先入観がはらわれる事もなかった。
そんな堂々巡りの中にいる咲とは逆に、女子と話しことも多々ある京太郎は彼女ほどにかたい考えを持ってはいない。ただ一つ、女性にはいろんな性質があると頭のどこかで考えているだけだ。
だが、京太郎の基準となる一般女性像というのが他の女子たちとグループを組み、かしましいというものであったため、真逆である咲の性質は京太郎にはなじみやすいという事も確かであった。
「ねえ、あの二人……」
「あらあ……意外ねー、愛想もなければ二人が合いそうもないと思っていたけど」
そんな事を言われているなどと知らぬは当人達だけ、だが逆にそれは皆が知っていたという事にもなる――――京太郎を好く女性がいなかったのは、これ以上のない幸運というほかないだろう。
その理由は至極簡単な事である、教室の中に京太郎よりも魅力を眩い光として放つ男子がいたからだ。
女子は当然そちらにかかりっきりで、さらに言えば咲はその男子に唯一目もくれなかった存在であるのだが、ともかく水面は平穏であった。
咲は、少し前とは打って変わって京太郎に近づき、積極的に話しかける。放課後や授業後などに、鞄を背負って帰るときも彼の背中を見つけてはこちらから近づいて話しかけた。
「――――宮永は、趣味とかあるのか?」
「本を読むこと、かな。須賀君は?」
「俺はともかく、…………本なー、俺も読もうと思っているんだけど手が出せないんだよ。何か読むのに易い本はないか?」
「……笑傲江湖とかはどうかな?」
我ながら、答えを間違ったと咲は思う。確かにその本は面白いが、内容的には少女ではなく少年が好みそうな物だ。
恐らく京太郎はかなりはまるだろうが、特に咲のような少女とは開きがあるので、もしかしたら京太郎が咲に対して変だという印象を抱くかも知れない。それ故に深くは話せなかった。
変だと思われたくない、嫌われたくない、彼のことを知りたいけれど自分のことはあまり知られたくない。そんな矛盾を、咲は日を追うごとに一つずつ心に溜めていった。
『何でかな……?』
きっと初めてできた男の友達だからだろう、あまり嫌われたくないのは……。珍しく暖かな日差しを受ける席で、咲はそう考える。
紐解きたいのに紐を解くのが怖い、まるでギリシア神話のパンドラになったようだ。
彼女の気持ちは、恐らく今の自分に似たところがあるのだろうと。開けてはいけないと分かっていても、時が自分を誘惑する。
しかし、パンドラとは違い答えを紐解くその間に、咲は京太郎とある少年の会話を聞いてしまう。
先の通り、京太郎よりも魅了のある少年がいるのならば逆に教室で一番嫌われている男もいる。そしてそいつは、まさにそれであった。
「おう、京太郎」
「薫か……」
嫌々ながらも答える彼、京太郎に話しかけたとあって、咲は反射的に彼を見た。あちらも何気なくこちらを向いたかと思うと、笑顔で手を肩の高さに上げる。それを見て、もう一人は不満そうな顔をした。
「なんだ? お前あいつと付き合っているのか?」
「……ちげえよ」
「はははっ……だろうな、あいつ根暗そうだし。お前だって、言われなきゃ近づきたくはないんだろ? ははっ、いやな役目を押し付けられたもんだな! 俺だったらごめんだね!」
「…………」
咲は沈黙の中で、冷めた。いや覚めた心地がした――――心のどこかで、そんな気はしていた。だが、実際に耳にすると胸になにやら、黒い煙のような感情が、しこりのような物ができる。
幸いにしてその男のなじりはこれ以上飛んでこなかったが、咲の心の中で癌のように転移していくそれの切除を試みる事も叶わぬままに時の流れはよどみによどんだ。
蜂蜜のように流動性の薄くなった時の流れが、しかしようやく下校を指し示したとき、咲は京太郎には何も言わずに、一人でひっそりと帰っていった。