「ただいまー…っと、京ちゃん来てんのか」
宮永界は、猫の額ほどの土間に置かれた大きな履き物に目を落とした。
決して裕福と言えない宮永家にはそぐわない、品の良い高級な靴。
界の娘の恋人であり、もうすぐ義理の息子になる予定の青年のものだ。
「おーい、京ちゃん!よかったら一緒に飲んで…」
「─しーっ。お父さん、静かにして」
無造作に居間へ入った界を迎えたのは、娘の低く抑えた、優しい声。
宮永咲は、金髪の青年に膝枕して、微かに微笑んでいた。
恋人の寝顔を見つめる彼女の表情は、まるで母親のように穏やかだ。
「京ちゃん、お父さんのこと待ってたんだけど…疲れて寝ちゃったんだ」
「そっか。それなら騒いじゃいかんな」
楽しみにしていた男の語らいが潰れたのは残念だが、無理に起こす訳にもいかない。
「ま、俺はちょっと飲んだから寝ちまうからさ。後はふたりでよろしくやってくれや」
界は傍にあるちゃぶ台に酒とつまみを広げると、ひとり寂しく飲み始めた。
咲たちはまだ未熟だが、それでも結婚して家庭を築こうとする大人になっていた。
放っておいても大抵は自分で何とかするだろう。界もその程度には信頼している。
「ふたりで、かぁ…そうなんだよね。もうすぐ結婚するんだもんね」
ふと、咲が漏らした呟きに界は怪訝な顔になった。何とも弱気で憂鬱そうな、か細い声。
彼女の表情はまるで、幼なじみである金髪の青年に出逢う前のようになっていた。
「ねぇ、お父さん。私は…京ちゃんを幸せにしてあげられるのかな」
次いで飛び出してきた弱音に、思わず界も居住まいを正した。
間違っても、冗談や適当な相槌で流していいような雰囲気ではない。
「私ね。初めて出逢ってから今までずっと、京ちゃんに頼りっぱなしだった」
訥々と語り出すその横顔は、先ほどとは打って変わって泣き出しそうな子どものよう。
「ずっと一緒に過ごしてきて、麻雀部に入って、恋人になって…でも」
長く、深く、そして痛々しい溜息を吐いてから、咲は辛そうにその言葉を絞り出した。
「その間、私はずっと身勝手だった。自分の都合で京ちゃんを振り回してばっかりで…」
娘の告白を、界はただじっと聞いていた。まるで、何かを噛みしめるような表情で。
「京ちゃんはずっと昔から、私のことを気遣ってくれてたと、思う」
すぅ、と息を吸って、彼女は少しづつその過去と向き合っていく。
「だから私は救われた。京ちゃんのおかげで、色んな人や素敵なことにめぐり会えた」
でも─と、咲は震える声で言った。思わず、目を瞑る恋人の手を握りしめながら。
「私はそれに甘えるばっかりで、京ちゃんに…何も、してあげられなかった…」
それは、今や幸福の絶頂に至った少女がようやく悟った、ひとつの事実だった。
「今でもそう。麻雀のプロになった後に挫折して、何も出来なかった私を…愛してくれて」
たったひとつの取り柄であり、自分の存在価値ですらあったものを失った咲。
もう、何も出来ず何の役にも立たないと絶望した彼女を、彼は受け容れてくれた。
「それなのに…私はそんな京ちゃんのために、何かをしてあげられる自信がないの…!」
果たして咲が、今まで彼に受けた愛情と恩は、どれほどのものだったのか。
彼女は遅まきながらその大きさ、そして尊さに気付いて、ただ震えていたのだ。
「ん~~~…ふふっ」
「?…お父さん…?」
ところが─怖じ気づき、小柄な身体を竦ませる娘を見て、界はむしろ笑いを零した。
嘲笑や愚弄の類いではない。それはまるで、幼子を見守る父親の如し慈愛の微笑み。
「いや、お前もそういうことを言えるようになったんだな…って、思ってさ」
大人になったのだな、と。界は娘を見つめながら目を細める。
自分の至らなさを回顧し、反省する。過去の失態を認める潔さ。
それを父親と、寝ているとは言え本人の前で語れるようになった強さ。
─ああ…なるほど。俺の手から離れていく訳だ。
どこか実感の無かった『娘の独り立ち』が、痛いほどに突きつけられる。
「そうだな…確かにお前は、京ちゃんほど気が回る子じゃなかった」
びくり、と肩を震わせながらも、咲は固唾を呑んで父の言葉を待ち構えた。
「正直なところさ。お前と京ちゃんは、長い付き合いにはならないと思ってたよ」
炭酸の抜ける、小気味よい音。酒でも飲まねば、界もこんな話はしていられなかった。
「それがいつの間にか恋人になって、結婚するんだから世の中わからんもんだが─」
思い切り缶をあおる。素面のままでいたら、どうにも気恥ずかしくて保ちそうにない。
「─そう思うくらい、お前さんたちふたりの関係はいびつだったと、俺には見えた」
明るく軽そうな少年が、内向きで物静かな少女を振り回す─というのは表面上の話。
ふたりの関係はむしろ、周囲に無頓着な咲が、お人好しの彼を振り回すものだった。
彼らの関係は、その大半が少年の働きかけによって成り立っていたのだ。
そして咲がその才能を開花させてちやほやされるようになると、そんな関係も薄らいだ。
このまま行けば、界の見立て通りに彼らは疎遠となり、そのまま終わっていっただろう。
「何にせよ、京ちゃんが出来すぎてたんだよなぁ。お人好しにもほどがあるくらいに」
そんなふたりが急速に接近したのは、咲が得意の麻雀で心折られた後だった。
麻雀のみを介した交友関係を築いていた咲は、プロを辞めるとそれらから遠ざかった。
友人知人が彼女を見捨てたのではない。咲が、彼らに合わせる顔がないと拒絶したのだ。
ひとり家に引きこもる彼女を掬い上げたのは、麻雀とは関係のないただひとりの男。
少年から青年へと立派に成長した幼なじみの、熱い言葉と大きな手だった。
大人になり、魅力的になった彼の積極的なアプローチに、咲はついに救われたのだ。
そして彼らは恋人として結ばれ、永遠の誓いを交わすことになったのであるが─。
「確かにお前たちの関係は、ほとんど京ちゃんに依存してた。今でも割とそうかもな」
人間同士が繋がり続けるために支払うコスト。愛情、献身、思いやりという尽力。
咲はその殆どを、幼なじみの恋人にばかり払わせていたのだ。もう、ずっと前から。
「…それはたぶん、京ちゃんに対してだけじゃなかったと、今は思うんだ」
父の言い分を呑み込むと、咲はそれだけ呟いて唇を噛んだ。
万事を得意の麻雀に身を任せたツケ。圧倒的な才能にかまけた代償。
自分自身を磨くことを怠った結果が、かつての挫折と今の後悔だった。
「そんな私が、京ちゃんを幸せに出来るのかって…その自信が湧いてこないんだ」
「…家庭を崩壊させた俺が、今更言えたことじゃないが」
酔いの回った赤ら顔で、界は静かに呟く。
「それでもな、咲。俺はお前の人生が間違ってたとか、そんな風には思わないよ」
「でも…」
「だってそうだろう?京ちゃんに出逢えて、幸せになれた。これが悪い人生な筈がない!」
そう言いながら界は、娘の成長を目にした喜びに目を潤ませた。
自分の娘が、過去の恥も悔恨も全て呑み込んで、前に進もうと足掻いている。
愛する人のことを想って、その未来を思い描いて苦悩している。
今の宮永咲は、紛れもなくひとりの女性として、大人として花開こうとしていたのだ。
ならば、不出来な父親に出来ることは、その最後の手伝いをしてやることだけだろう。
「ここから始めればいいんだよ、咲。お前も京ちゃんも、まだまだ先は長いんだからさ」
「…できるかなぁ、私に。こんな自分勝手で、無神経なわたしに…」
「できるさ。お前が京ちゃんを選んだように、京ちゃんもお前を選んだんだ」
ぴくりと、金髪の青年の指先が動いたのに、界は気付かないまま話を続ける。
「京ちゃんは、咲となら幸せになれると思ったんだよ。なら後は、それに応えるだけさ」
「私となら…幸せに…」
恋人の顔をじっと見つめながら、咲が何事かを呟く。
自分が信じて愛した人が、同じように自分を信じて愛してくれている。
自信を持つのに、それ以上の理由は要らない。咲はやっと、それに気付けたのだ。
「うん…そうだよね。幸せに、なるんだ…京ちゃんと一緒に…」
咲の瞳から静かに、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
まるで、子供の頃に募らせた負い目を洗い流すかのように。
「京ちゃん…今までありがとう。これからもずっと…愛してるよ」
やがて涙を止めた彼女は、ふわりと微笑んで恋人の頬に口づけする。
「ん…咲…」
青年が寝言のように漏らした呟きに、宮永親子は目を合わせると静かに微笑み合った。
聞きたいことを聞き終え、言いたいことを言い終えると、界はいびきをかき始めた。
「でさ…京ちゃん。いつから目を覚ましてたの?」
「…界さんが帰ってきた頃かな」
「ほとんど最初からじゃない…もう」
「のこのこ起きられるような雰囲気じゃなかっただろ」
「そりゃそうだけどさぁ…」
須賀京太郎は、膝枕をしたまま拗ねる咲の頬をつついた。
彼女自身、京太郎が目を覚ましていたのに気付いたのは口づけした時だった。
「あんなこと言ったのを、ぜーんぶ聞かれてたなんてさ…もう、お嫁に行けないよ」
「大丈夫。お前の面倒は俺が一生見てやるから」
「…ばか」
照れる咲がおでこを叩くと、京太郎は悪戯っぽく笑う。
それは子供のように屈託のない、しかし包容力に溢れた大人の男の笑顔だった。
「でもまー…お義父さんにあそこまで言われたら、やっぱり責任を感じるな」
「…そういうセリフは膝枕を止めてから言うべきじゃない?」
「やだ。柔らかくて気持ちいいんだもん、お前のふともも」
「もん、じゃないでしょ!あーもうっ、調子に乗って変なところ触らないでよ!」
ひとしきりじゃれあい、笑い合ってから、ふたりは身体を起こして見つめ合う。
「…別にさ、京ちゃんだけが責任感じる必要ないよ。私がいるんだから、ね?」
「ああ…そうだな。俺と咲のふたりで夫婦になるんだもんな」
どちらからともなく顔を寄せて、優しく口づけを交わすふたり。
過去があるからこそ、今があって。それが未来へ繋がっていく。
そして今の咲や京太郎があるのも、界が居たからこそなのだ。
咲はじっと界の背中を見た。大きいと思っていたのに、改めて眺めると小さく感じる。
今まで彼女は、父親に酷く迷惑を掛けられた。そのことを恨んだことさえあるほどに。
それでもなお。父を前にした咲の胸に去来する感情は─。
「…お父さん。少し早いけど…私を育ててくれて…愛してくれて、ありがとう」
「界さん。俺は必ず、咲と幸せになりますから…これからも、よろしくお願いします」
いつの間にかいびきの止んだ界は、しかし背を向けたままその言葉に答えない。
だが、今の彼らには十分だった。それ以上の言葉は、もう要らなかった。
「じゃあ、今夜はこれでお開きにするか。界さんの布団も敷かなきゃな」
「うん。お父さん、もうしばらくここに居てね」
咲は横になる父に毛布を掛けると、京太郎と一緒に居間を後にする。
後にはただ、身体を震わせ目頭を抑える界の姿が残るのみ。
「幸せに…なれよ。咲…京ちゃん…」
目元を濡らすそれは、間違いだらけの人生がようやく報われた男が流す、熱い涙であった。
完
最終更新:2019年03月11日 01:00