ある日のことだった
ちょっとした用事で部室に赴いた
その用事が何だったのかは忘れてしまったが――

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「…」

「スゥスゥ…」

彼女はベッドに一人横たわっていた。
静かな呼吸だけが辺りを支配し、穏やかな音と共鳴するように胸元のリボンが上下している。
緑がかった髪はまとまりを保っており、ふんわりと柔らかそうな印象を与える。

チラリと枕元を見る。

いつもは彼女の顔にかかっている銀縁のメガネが折りたたんで置いてある。
寝返りを打ってしまえば圧し潰してしまいそうな危険な位置、そんなメガネにスッと手を伸ばし、安全なとこへと避難させようとすると

「ん、んぅ…」

彼女が唸り声をあげた。
なにか不快感を覚えたのだろうか、しかめっ面をして腕を額に当てる。

冷や汗が出る、心臓はこれでもかと言わんばかりに鳴り響き、頭に血が上っていく。
何も悪いことはしていないはずなのに、どうしようもなくドキドキしてしまって、正常な判断が出来なくなっているのが分かる。

「…スゥスゥ」

再び彼女は寝息を立て始める、その表情は腕によって隠されてしまっている。

「…」

やはり抑えきれそうにない、あの表情を、あの寝顔を、もう少しだけ、ほんの少しだけ見たい。
今まではそんな感情は無かったはずだった、でも、本日、この部室に入って、それを一目見てしまった時からおかしくなってしまって…
手が震える、寝息だけが聞こえるその状況がより一層静寂を際立たせて、緊張感をもたらす。
その震えた手を静かに伸ばし、制服の袖口をちょっとだけつまんで、ゆっくりと動かそうとする、が、

動かない

いや、動かせない

これ以上力を入れてしまうと、彼女が起きてしまうのが直感的に分かってしまって、これ以上どうすることもできない。
そっと手を放し、辺りを見渡す、何か使えるもの…出来そうなもの…必死に思案する、どうにかこの状況を打破せねば…

衣擦れの音が聞こえた。

ふとベッドへ視線を戻すと、あどけない寝顔で横になっている染谷先輩が居た。
子供のような表情と言うべきなのだろうか、無邪気さすら感じられる目元、
頬は僅かに吊り上がっており、いい夢を見ているのだろうか、どこか微笑んでいるようにも見える。

思わず見とれてしまう。
いつもの少し大人びたような彼女からは一転して、無垢な子供のような寝顔、そのギャップが自分の心を強く打つ。

ぶちょ…竹井先輩が引退してから、全国有数の強豪となってしまった清澄高校麻雀部の部長を任された染谷先輩。
以前とは違う扱い、もちろんの如く取材や練習試合の申し込み等々、麻雀とは違うところに時間を持っていかれ
その繁忙さと重圧に耐えつつ、実家の手伝いと雀士としての活動を両立し、自分とは違った『大人』な先輩。

そんな彼女に憧れを抱いたのだろうか、気がつけば自分は部長としての仕事を手伝ったり、バイトと称して雀荘に手伝いに行ったり
空いた時間には麻雀を教えてもらったりと、自然と接する時間が増えていた。

下心があったわけではない、ただ単にカッコいい人に惹かれるように、女性的な云々を抜きにして、彼女がとても魅力的に思えたのだ。
繁忙であるはずなのに、ストレスもかかるだろうに、悩みも沢山あってもおかしくないのに、そんな様子を微塵にも感じさせず
飄々と毎日を受け流している彼女は、自分には誰よりもカッコいいように見えた。

だからこそ盲点だった。

その端正な顔立ち、やや丸みを帯びた身体、行動を止めてる彼女からそれらだけが感じ取れてしまい、『女』というものを意識してしまう。
ただの『憧れ』だった存在に『女』という要素が入り混じってしまい、どうしても意識してしまう。
こうして寝顔を見ているだけでも、顔が段々と熱くなっていくのが分かる、思考回路がショートしてしまいそうになる。

普段は『大人』を感じさせる彼女が、今は『子供』のように穏やかに眠っており、そんな彼女を性的に意識してしまって…

スッと髪に手を伸ばす、想像していたよりも少しゴワゴワしていたが、軽く押すとふんわりと押し返してくる。
ただ髪に触れているだけ、何もやましいことはしていないのに、心臓は破裂しそうなぐらい脈を打ち、額から汗が噴き出てくる。

このの感情は一体何なのだろうか――いや、自分でも分かっているのだ、これは恐らく…


「おい、京太郎」


そんな声と共に目を開き、こちらをジッと見つめる彼女
突然のことに思考がフリーズして固まってしまう。言葉がのどで突っかかえてしまう。

「ぇ、ぁ…」
「そんなに驚くこともないじゃろ」

そんな俺の様子がとても滑稽だったのだろうか、クスクスと声を押し殺して笑う染谷先輩。
その笑顔には子供っぽさが残っているものの、どこか大人びた印象を受ける。

「い、いやぁ、いつから起きてました?」

「ほう…そこは察したんじゃな」

枕元に手を伸ばし、そのまま虚空をまさぐる染谷先輩。

「えーとな、袖を引っ張られた辺りから…ん、メガネが…」

「あ、メガネはこっちに避難させておきました」

「おおう、わざわざすまんのぅ」

スッとメガネを手渡すと、彼女はメガネをゆっくりと持ち上げ、丁寧にフレームを開いてから耳にかける。
そうして眼をパチクリしてから、俺の方を見つめなおす。

「で、何をしてたんじゃ」

「ええっと、その…」

思わず言葉に詰まってしまう。何一つやましいことはしていないが、素直に伝えてるわけにもいかない。
だって、寝顔が見たかっただなんて本人に伝えるだなんて、それはまるで…

「まさか、やらしいことでも…」

「ち、違いますよ!ただ寝顔を眺めたかっただけ…」

静寂が訪れる、外からの運動部の活発的な声だけが微かに響くのみ。
ポカンとする染谷先輩、しばらくすると頬をやや赤らめ、何やら口をもごもごして

「お、おお、そうかそうか、すまんがわしは用事があるからもう帰るけぇ」

上ずった声でそう言いながら、パパっと荷物を纏め、いそいそと出口に向かい始める。
そんな彼女の後ろ姿を眺めることしか出来ない、あとちょっとの勇気が足りない、唇が震える。
このままだと、なあなあで終わってしまうような気がして、そのまま二度とチャンスがないような気がして…

「その、じゃな」

扉に手をかけ、ポツリと呟く彼女。

「ちょっと混乱しとるけぇ、今日は勘弁してくれ」

そう言って彼女は出口から逃げるように去っていった。
そのまま脱力してベッドに倒れ込むと、少しばかり温もりを感じてしまう。

…五月初めというのに、やけに蒸し暑く感じた。

カン!

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最終更新:2020年04月06日 22:36