「あうぅ……疲れましたぁ……」
原村和は疲弊していた。
新学期が始まって1か月半。高校ではそろそろ中間試験を目前に控えていた。
元々優等生の和に赤点や落第といった類の心配はない。試験というのはむしろ、どれだけ高得点を狙えるのかの場になっている。
しかし今回は事情が違った。
2カ月前のインターハイでは無事優勝し、東京への転校は取りやめになった。
が、あの父はどうしても自分を長野の田舎に閉じ込めておきたくないようで、インハイで優勝するや否や『成績がよくなければすぐに転校させる』と戦略を変えて来た。
『よくなければ』というのが実に巧みで、『下がれば』の様に成績をキープしていればいいのではなく、極論1位以外をとれば『よくない』と評価を下すことも可能なのだ。
原村和は秀才だ。
が、いざ1位をとらねばと意識してしまうと、中々に厳しい現実が待ち構えていた。
総合1位ならまだ達成は出来る。が、全教科で1位を取りつつとなると、一部科目では自分を上回る生徒がちらほらいるのもたしかだ。
例えば現国・古文に限れば、親友の宮永咲には目を見張るものがある。
テスト問題の相性にもよるだろうが、最低でも95点は取らないと到底勝てる相手ではない。
そんな風に各科目に特化した人間達と、全ての科目で渡り合い勝利するのは厳しいものがあった。
一応総合でトップに入ることは可能だろうが、あの父のことだ、『意外に一番が取れていないものだな』と重箱の隅を突くくらいはしてくる。少なくともメイン5教科では1位を取らないと反論材料を与えてしまうことだろう。
万全を期すために試験勉強を重ねる中、和はすっかり疲弊してしまったのだった。
体中が特に何もしていなくても大いに運動をした後の様に疲れている。頭痛が止まない。
疲労困憊という言葉がぴったりだった。
「お疲れ様です………」
部活が休みで、放課後の勉強場として開放された部活に赴く。
するとそこには意外にも、一人しかいなかった。
「おう和、お疲れ」
「あれ、今日は一人なんですか?」
同級生で、麻雀部唯一の男子生徒である須賀京太郎のみが、試験勉強をしていた。
いつもは大抵一緒に居る宮永咲の姿も見えない。
「おう、咲は好きな作者の初回サイン本買いに行って、優希はそれについてって逃げたぞ。
部長は推薦入試関連で説明会があって、染谷先輩は実家のお手伝い」
「そうでしたか……ふぅ………」
和は溜め息をつきながら同じ席に座り、自分も試験勉強に取り掛かる。
「なぁ、和ってこの後数A勉強する?」
「? はい、図形問題はやろうと思っていますけど」
「あー、ついでに確率も教えてくんね? デジタル打ちとして確率計算はお手の物だろ? 時間が余りそうならでいいから」
「構いませんよ。確率なんて結局は全部場合分けの仕方ですしね」
「サンキュ、助かる」
本当は咲のいない間に国語の授業ノートでも見直そうと思っていたのだが、ここで断れないのが損な気質だと感じつつ、京太郎の勉強を見る約束をする。
しばらくはそれぞれが別の科目を勉強し、時たま何でもない話題で言葉を交わす。
「須賀君はテスト上手くいきそうですか?」
「んー、そりゃ赤点とかは取らないだろうけど、平均点よりちょっと高いくらいで終わりそうだな。面白みのない結果と言うか」
「お父様やお母様は何もおっしゃらないんですか?」
「まぁ二人ともそんなにうるさくはないから。やることやっていれば文句は言ってこないよ」
「うら、けほん、けほん、そうですか」
「羨ましいです」と、反射的に口から出そうになったのを止め、咳をしてごまかす。
「和の方はどうだ?」
「うちですか? うちは……まぁ、父が色々とプレッシャーをかけてきますね」
「ああ、あのお父さん……」
インハイが終わり、長野に帰ってきた時、駅まで迎えに来ていた父親を思い出して、京太郎が遠い目つきになる。
和の分の荷物を手渡し、和のことを名前で呼んでいただけで、露骨に不愉快だといった表情を浮かべられた。
ニコニコと気分よくしていたのも、むしろ見た目と合わさって軽率そうな印象を持たれたのだろう。
「まさかまた学年1位とれなかったら転校だー、とか言われてんのか?」
「………………」
「え、マジ?」
急に黙りこくった和を見て、京太郎が絶句する。
「うっそだろ……」
「多分……本気です……。言ったことは都合よく忘れてくれない人ですから……」
和が頭を抱えてうずくまる。
その姿は心身ともに疲労が見て取れた。
「あ……じゃあ、やっぱりさっきの数Aやっぱりいいよ。勉強時間奪うのも申し訳ないし……」
「いえ、それはそれで復習にもなりますから、別に……」
頭を上げてそう言いかけた時、和の身体ががくんと沈んだ。
「おい、大丈夫か?」
「あ………ちょ、ちょっと、まずいかも……」
「和、一旦休もう。な? 少し寝ろ」
「は、はい……」
京太郎は和の肩を支えて、部室に置かれたベッドまで付き添う。
そして和が横になると、上から掛け布団をかけてやる。
「あうぅ………」
和が呻き声を上げる。
こうして横になっても、身体が疲れ切っていて自然と呻き声が漏れてしまう。
さらに頭の中で血が偏った方の頭痛がひどくなる。
「ううぅ………」
ドクドクとこんな時に限って心臓がやかましく脈打ち、それに合わせて頭痛も激しさを増す。
「うあぁ………」
辛い。心身ともに摩耗しきった和は、呻き続けるしかできなかった。
トン、トン
「………………?」
トン、トン
何かの拍子を感じた。
トン、トン
「…………?」
目を開けると、自分の肩に手を置いた京太郎が、指先で自分の身体を叩いてリズムをとっていた。
「須賀君……?」
「ああ、悪い。要らないならやめるけど」
「だいじょうぶ……です」
京太郎はそれを「いらない」という意味の大丈夫か、「気にならないから続けろ」という大丈夫なのか一瞬判断に迷った。
困り顔から和はそれを判断し、
「そのまま、やってください…………」
「ああ」
拍子をとり続けるようにたのんだ。
トン、トン
「……………」
目を閉じる。
拍子は止まない。
トン、トン
手の温かさを感じる。
硬いごつごつした手だが、不思議と不愉快には感じない。
トン、トン
痛みに妨害されていた意識が、寝て休もうという気になってくる。
トン、トン
ドクドクとやかましかった心臓が、拍子につられてゆっくりとした鼓動になっていく。
トン、トン
トン、トン
トン、トン
もっとその手の温かさが欲しくなり、京太郎の空いていた左手を取り両手でつかみ、口元に寄せる。
京太郎は面食らったようだが、すぐにまた拍子を再開してくれる。
トン、トン
トン、トン
「和、寝たままでいいぞ」
「…………」
「和は、頑張り過ぎだ。もっと、子供らしく楽したり、自分を優先していいんだぞ」
「…………」
「俺みたいな平凡な奴からしたら、和は今のままで十分すぎるくらいすごいよ。そこからもっと頑張ろうとするのは凄いって思うけど、これは頑張り過ぎだ」
「…………」
「もっと、力を抜こうぜ。こうやって誰かに甘えたりしても、まだ俺たち15歳だぜ? それが当たり前なんだから。大人の期待に、こんなにまで応える必要はないって」
「…………」
「だから、今はもう全部忘れちゃえ。今は誰も、和に何も頑張れなんて言わないから。ゆっくり、ぐっすり休もう」
トン、トン
「………………」
京太郎の言葉に和は何も答えず。瞼を閉じていた。
ただ、少しだけ。
一瞬だけ泣きそうな顔になった後、 両手でつかんだ京太郎の手を少しだけ強く握った。
その後、原村和に少しだけ変化が現れた。
周りの人間からの期待を、いい意味で少しだけ裏切るようになった。
秀才と呼べるだけの地頭を持ち、研鑽を重ねながらも、無理と呼べるようなことは滅多にしなくなった。
疲れている時には無理をせず休むし、自分一人では難しそうなことなら周りの人間を頼るようになった。
それでも、やっぱり頑張らなければならない時期は、人一倍頑張って。
「ふぅ……ありがとうございました」
「おう、こっちも丁度終わったぜ」
半荘が終了し、伸びをした和はベッドの前まで移動し、そのまま横たわる。
するとそれが当然だと言わんばかりにスムーズな動作で、上から布団をかけられる。
「また京ちゃん?」
「仕方ないだろ、俺が一番卓に入る機会少ないんだから」
「そうです。須賀君の回数が多くなるのは自明の理です。別に他意はありません」
頑張った後は、ある男性に寝付くまで一緒に居てもらうのが、人生で常になった。
最終更新:2020年04月06日 23:14