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カントとサド


(脚注は別ページ)

 サドの著作がフロイトを先取りしているということは、たとえ倒錯の目録という観点からであっても、愚かである。そうした愚かさは文学で繰り返し言われるが、その誤りはいつものように、専門家の責に帰される。
 反対に我々は、サドの閨房は、古代哲学の学派がアカデミー、リセ、ストアといった名をそこから取っているような場所に等しいという見解を維持している。ここでは、古代哲学と同じように、人々は倫理の位置を修正しながら科学を準備するのである。その点において、確かに、フロイトの道が通れるほど深い味わいの中で百年に渡り続いた整地が行われたのである。それがなぜであるかが言われるためには、そこにもう60年を数え入れてもらいたい。
 もしフロイトが、伝統的な倫理学において快の機能と区別されるものを示すことを気にかけなくてもよく、また、二千年間異議のなかった先入観の反響のなかで、人間(créature)は親切さを示す多様な神話に含まれる心性で、善(bien)へと前もって定められているという魅惑的な観念を呼び戻すために理解されるという危険を冒すことなしに、自らの快原理を述べることができたとしても、我々は19世紀における《悪における幸福》というテーマの顕著な増大を認めることしかできないだろう。
 ここでサドは転覆の最初の一歩であり、人間の冷たさという観点からはそれがあまりに辛辣に見えようとも、カントはその転覆の転換点である。我々の知る限りでは決してそのようなものとしては指摘されていないが。
 『閨房哲学』は『実践理性批判』の8年後に到来する。前者が後者と意見を同じくことを見た後で、前者が後者を補完することを示すなら、『閨房哲学』は『批判』の真理を与えると言えよう。
 その結果、後者が完成する公準とは次の通りである。それは法を満足させてきたであろう進歩、聖性、そして愛さえも抑圧する不死のアリバイであり、法が関わる対象が知解可能であるために必要な意志の保証である。カントが公準をそこに閉じ込める功利性の機能の平板な支えをまさに失いながら、公準はその著作を転覆の核心に戻しているのである。学問的な信仰によって予告されていない読者なら誰もがそこから受け取る、信じがたい興奮は、そこから明らかになる。それを説明しても、このことに対する効果は全く色褪せないであろう。
最終更新:2007年04月24日 19:14